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インド最南端コモリン岬へ──南インドお気楽ツアー(6) [旅]

2月24日(土)

 8時20分にマドゥライのホテルを出発し、バスでインド最南端のカーニャクマリへ向かいます。6時間の長い移動になる予定です。
 その前に腹ごしらえ。朝からちょっと食べ過ぎかもしれません。
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 ヴァイガイ川のほとりを走ります。牛をつれた男たちが手を振ってくれます。
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 15分ほど走ったところで、ガイドさんからマイクで「木村さん」と呼びかけられて、びっくりしました。
 なんでも、ホテルから部屋に忘れ物があるという連絡がはいったとのこと。よく聞くと、つれあいのカメラ用充電器です。出るときに忘れ物がないよう気をつけたつもりなのに、コンセントにつけっぱなしにしたままでした。
 ホテルに戻るわけにはいきません。いろいろやりとりして、コーチン空港に充電器を送りましょうという話になったので、ひと安心。ところがきょうは土曜、明日は日曜なので郵送ができないことがわかります。
 諦めるしかないかと思ったところ、今度南インドに来る日本人のガイドさんがいるので、ホテルで引き取って、日本まで持って帰るよう手配しますとのこと。ガイドさんの親切さに感動しました。それから1カ月たったいま、忘れ物の充電器はまだ届いていませんが、善意を信じて待つことにしましょう。
 バスは走りつづけます。郊外には大きな工場もできています。インドの経済発展はめざましいといえるでしょう。
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 次第に農村地帯へはいると、ヤシ林が多くなってきます。
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 道端にちいさなお堂があり、金色の神さまがすっくと立っていました。これはシヴァ神の息子で、人気のあるガネーシャですね。
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 途中、道端のレストランで昼食をとります。バナナの葉っぱの上にカレーで味つけした野菜やご飯、チャパティなどが並びます。
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 進行方向の右側に山脈が見えてきました。おそらく西ガーツ山脈の東側が見えているものと思われます。道路の両側にはバナナ畑やヤシの森が連なっています。
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 このあたり、電力発電用の風車が数多く立ち並んでいます。インド最南端へと向かう高速道路は整備され、バスも快調に飛ばします。
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 カーニャクマリのホテルに到着したのは午後2時でした。カーニャクマリの「クマリ」は女神クマリを指すそうです。ここにはクマリにちなんだ通称コモリン岬があります。
 旅程表では夕方にコモリン岬を散策することになっていました。それまで少し時間があります。ホテルにプールがあったので、お調子者のぼくは少し泳がせてもらいました。
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 地図でみると、コモリン岬はベンガル湾とインド洋、アラビア海が合流する手展にあります。そのこと自体ロマンチックな思いをかきたてるのかもしれません。ヒンドゥー教徒にとって、ここは聖地になっており、大勢の人が巡礼に訪れるそうです。
 じっさい、きょうは土曜日ということもあって、学校の生徒を含め、じつに多くの人がやってきています。海岸沿いに店も立ち並んでいて、観光地といえば観光地なのですが。
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 写真はガンディ記念堂です。マハトマ・ガンディの遺灰の一部は、ここコモリン岬から海に流されました。それを記念してつくられたのが、この建物です。
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 われわれもインド最南端までやってきた記念に写真を撮らせてもらいます。向こうの岩に立つのは古代タミルの詩人、ティルヴァッルヴァルの像。さらにその向こうにヴィヴェカーナンダ岩と記念堂があります。
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 夕方、沈む夕日を見に西のサンセットポイントに行きました。
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 ここにもアラビア海に沈む夕陽を見るため、大勢の人が集まっていました。
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メンガー『一般理論経済学』を読む (1) [商品世界論ノート]

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 カール・メンガー(1840〜1921)は1871年に『経済学原理』を刊行した。近代経済学の出発点となったこの本は、その後本人が再刊を拒否したまま、埋もれるままになっていた。
 ところが、メンガーは死にいたるまで「原理」の改訂をつづけていたのである。その遺稿を整理して、子息が1923年に出版したのが『経済学原理』第2版だが、その内容は第1版と大きく異なっていた。
 そのタイトルを『一般理論経済学』と変えたのは、本人が初版の扉にそのように改題するよう示唆していたからである。『一般理論経済学』というのは日本だけのタイトルで、本人の示唆にもとづいて、タイトルの変更を決定したのは、経済学者の玉野井芳郎(1918〜85)だった。
 こうして新たに『一般理論経済学』と名づけられることになったものの、『経済学原理』第2版は、日本では長らく翻訳されなかった。出版されたのは、ようやく1982年になってからである。
 ただし、初版は安井琢磨の訳で『国民経済学原理』のタイトルで1937年に日本でも翻訳出版されている。初版とは大きく内容の異なる第2版が長く翻訳されなかったのは、これがもはや時代遅れの古証文とみなされていたからだろう。
 1980年代になって、それをよみがえらせたのは玉野井芳郎の熱意による。その熱意に応えて、八木紀一郎が中心になって、翻訳を進めた。
 カール・メンガーは、いわゆるオーストリア学派の創設者のひとりとして知られる。この学派からはのちにベーム=バヴェルクやヴィーザー、シュンペーター、ミーゼス、ハイエクなど錚々たる経済学者が登場する。シュンペーターを除き、いずれもスミスやリカードの古典派、マルクスを強く批判する立場をとった。現在の新自由主義の源流ともいえる。
 ところで、経済学の素人で、これまでマルクス中心に学んできたぼくが、いまさらメンガーを読んでみようというのは、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。
 たまたま買ったもののツンドクのまま本棚に並んでいたが、ついに読む気になたというのが、いちばんの正解かもしれない。
 目も悪く、頭もいっそう悪くなったいま、いよいよ本棚の片づけを進めなくてはいけないと思うようになった。メンガーやシュンペーター、ハイエクを読めるのは、たぶんもう最後ではないだろうか。そんな気持ちがわいてくる。
 とはいえ、悲壮な気分ではない。そもそも、このブログはだれかのためになるわけでもないし、半解、曲解、中途半端で終わっても、だれかに迷惑をかけるわけでもない。要するにじいさんの暇つぶしである。
 それでもなぜこの本を買ったのかを思いだすと、ぼくはあのころ、ソ連や中国にはない自由な社会主義(脱資本主義)を夢みていて、その手がかりとして散漫ながらカール・ポランニーの本を読んでいた。
そのポランニーがたしか『人間の経済』(これも玉野井芳郎の訳だった)のなかで、カール・メンガーに言及していたのが気になっていて、そのときタイミングよく、この『一般理論経済学』が出版されたのだった。
 そこで、勢いこんで買ったのはいいが、パラパラとめくってみて、あまりの難解さにたちまち投げだすといういつもの癖がでて、そのまま何十年にわたってツンドクのままとなった。
 いまになっても、素人のぼくがこの本を読み通せる自信はない。最近の経済学は数学ができないと、1行たりともわからない。ところが、この本は数学ができなくても、ある程度理解できそうな気配がある。その哲学的思考にはついていけないかもしれないが、こむずかしいところを飛ばせば、ひょっとしたら何を言いたいかくらいはわかるかもしれない。おれにも読めるかなと思った。
 前おきはそれくらいである。翻訳で全2巻の本だから、途中で難破の恐れがある。その場合は元に戻って休みながら、あらためて進むことにしよう。たぶん時間はかかるし、まとめも長くなる。そんなふうに気長に考えている。
 いざ構えてみて、最初に思うのは、メンガーはたぶん近代経済社会の基本構造をとらえようとしたのではなかろうかということである。
 近代経済社会は人類が長い時間をかけてつくりあげてきた社会のひとつのあり方だった。それはけっして絶対的なものとはいえない。ひょっとしたら、大きな欠陥をはらんでいるかもしれない。にもかかわらず、その構造はかなり強固なものであって、まずそれを頭に入れておかなければ、次の現実的ステップははじまらない。
 こうしたとらえ方はすでに邪道かもしれない。だとしても、こんなふうな見通しをつけて、とりあえず理解できるところだけでも、専門用語(ジャーゴン)にこだわらず、自由に本を読んでみることは、高齢者の特権みたいなもので、許されるはずだ。
『一般理論経済学』は全部で9章からなる。最初にその全体を示しておこう。

 第1章 欲望の理論
 第2章 財の一般理論
 第3章 人間の欲望および財の度量[広がりと大きさ]について
 第4章 経済と経済的財の理論
 第5章 価値の理論
 第6章 交換の理論
 第7章 価格の理論
 第8章 商品の理論
 第9章 貨幣の理論

 ぱっとみるかぎり、あまり面白くはなさそうである。現代経済学でいうおなじみのミクロ経済学の教科書のようにもみえる。
 商品がつくられて需要と供給によって価格が決まり、貨幣で決済されて、財にたいする欲求が満たされ、経済が調和的に運営されていくというように。
搾取もなければ破綻もない。何もしなくても、市場の原理によって、すべてはうまくいく。
 だが、ほんとうにメンガーはそんなふうに考えていたのだろうか。いや、そうではるまい。かれは安定した経済社会が実現するには、じっさいにはかずかずの困難を乗り越えなければならないと承知していたのではないか。すべては憶測にすぎない。これから、実際の中身を読みながら、そのことをたしかめてみよう。
 以下、退屈で、だらだらしたブログになるかもしれないが、その点ご寛恕のほどお願いする次第だ。

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マドゥライのミーナークシー寺院──南インドお気楽ツアー(5) [旅]

2月23日(金)

 朝ホテルの部屋で荷物をまとめ、7時すぎバイキング方式の朝食をとり、8時半にバスに乗り込んでチェンナイ(旧マドラス)空港に向かいます。
 1640年にイギリス東インド会社が最初に拠点を築いたこの町を探索できなかったのは返す返すも残念ですが、仕方ありません。空港の近くは車でごった返していました。
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 厳重なセキュリティチェックを終えたあと、マドゥライ行きの11時45分発の飛行機に乗る予定でした。たっぷり時間はあります。ところが出発時間が約2時間遅れ、昼過ぎの1時半になってしまいました。
 そのため、マドゥライに到着してから昼食をとる予定が変更になり、空港の店での軽食が提供されました。これが案外うまかったのにびっくり。
 マドゥライまでの飛行時間は約1時間。あっという間です。3時ごろには空港を出て、バスに乗りこみます。チェンナイにくらべると、ずっと小ぶりです。
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 マドゥライはタミル・ナードゥ州第2の都市(第1はチェンナイ)で、100万以上の人口を擁しています。紀元前から断続的に建国されたパーンディヤ王国(全盛期は12世紀末から14世紀はじめ)の首都でした。ですから、ぼくは勝手に南インドの京都と名づけることにしました。
京都を連想させるのは、ほかにも理由があります。
 大昔、マドゥライにはシャンガムと呼ばれる文芸院があって、ここに多くの詩人が集まり、多くの詩が読まれ、詞華集として残されたそうです。
 ヴァイガイ河畔のマドゥライは文芸都市でもあります。そこでは古くからヒンドゥー教寺院がつくられていました。
 インドでは戦乱がつづきます。北からはイスラム勢力が南に伸びていきます。パーンディヤ王国は滅亡し、マドゥライは一時デカン高原から下ってきたイスラム系王朝の支配を受け、町は荒廃します。
 その後、ヒンドゥー系のヴィジャヤナガル王国(1336〜1649)が興隆し、マドゥライもその版図に編入されることになります。
 ヴィジャヤナガル王国のもとでも、マドゥライは文芸都市として保護され復活しました。さらに、その後、マドゥライはヴィジャヤナガル王国のナーヤカ(地方長官)のもとで、事実上の独立国として繁栄していくのです。
 長々とした説明はこれくらいにして、マドゥライでわれわれが最初に訪れたのはティルマライ・ナーヤカ宮殿でした。
 この地を支配していた事実上の王、ティルマライ・ナーヤカによって、1636年に建造されたインド・サラセン様式の宮殿です。ヒンドゥー様式とムガル様式が混在しています。
 すでにこの時代、ムガル帝国がインド北部からデカン高原までを支配するようになっていました。南部ではポルトガルがゴアに拠点を築き、オランダに立ち遅れたイギリスがインドに進出しようとしています。
 マドゥライのナーヤカ王国が栄えたのは、ポルトガルやオランダと独自に交易をおこなっていたからだといいます。
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 この宮殿は大部分が破壊され、残っているのはごく一部です。宮殿前の広場には椅子が目いっぱい並べられ、これからおこなわれる催しを待っているようでした。
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 宮殿の入り口。なかなか華麗です。これがインド・サラセン様式というものなのですね。空間はイスラム風でありながら、飾られているのはヒンドゥーの神々です。
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 てっぺんには宮殿を守るかのように彩色されたガルーダがいます。
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 しかし、天井の細かい文様はいかにもイスラム風です。
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 ほかにもあちこちイスラム文様を見ることができて、おもしろいですね。
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 多くの柱が立ち並ぶ回廊も立派でした。
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 次に訪れたのが、そこから1キロほど離れたミーナークシー寺院です。写真撮影は禁止といわれたので、スマホをバスに置いていったのが大間違い。門前の露天バザールの様子を写真に収められなかったのが、返す返すも残念でした。
 その一帯では、トマトやジャガイモ、バナナ、ザクロなどが売られている露店が立ち並び、そのほかおみやげを売っている商店も数々あって、いかにもインドらしい光景が広がっています。これを撮っておけば、インドを訪れた記念になったのにと悔やんだものの後の祭りでした。
 ツアーの人たちは寺院前のおみやげ屋さんに、カメラや貴重品を預けていました。寺院にはいるには、入り口で靴とソックスを脱いで、素足になり、厳重なボディチェックを受けなければなりません。
 その手続きを終えて、ようやくなかにはいって、まず目に飛びこんできたのが、色とりどりの壮麗な装飾をほどこされた、見上げるほどの塔門(ゴブラン)でした。
 写真がないと、そのイメージがつかめないでしょうから、ここではウィキペディアの写真を借りることにします。
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 これが南塔です。ティルマライ・ナーヤカによって17世紀に現在のかたちに修復されたミーナークシー寺院には、こんな塔門が東西南北に4つ並んでいます(寺全体では14あるそうです)。その高さは約50メートル。
 びっくりしました。へんなたとえですが、最初見たときは、日光東照宮みたいと思いました。しかし、装飾ははるかにゴテゴテしています。
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 少し拡大した写真も載せておきましょう。牛に乗ったシヴァ神がいますね。ぼくにわかるのはそれくらいで、ヒンドゥーの神様が総動員された感があります。その数は全部で3300といわれます。不謹慎な話ですが、何だか神さま酔いしそうな気分になってきます。
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 指定された位置に立って、壁にうがたれた窓をのぞくと、寺内の黄金の塔を見ることができました。
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 なぜミーナークシー寺院がこうまで華麗なのかというと、ここにはインドじゅうから毎日数万人の巡礼者がやってくるからだそうです。とくにお祭りになると、その数は10万人以上に膨れ上がります。
 ここはヒンドゥー教の7大聖地のひとつですが、その人気はガンジス川ほとりのヴァーラーナシー(旧称ベナレス)に匹敵するかもしれません。この日も大勢の人が訪れていました。
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 堂内の柱には獅子に似たヤークなどの彫刻がほどこされ、天井にも絵が描かれています。
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 神さまの彫像がいたるところに置かれています。
 ヒンドゥー教の神々のさまざまな伝説を頭にいれて、この寺院を回ると、それこそ1日いても飽きないでしょう。残念ながら、ツアーでの見学はごく短い時間でした。
 ミーナークシー寺院の写真はすべて借用で申し訳ないと思います。しかし、観光客がなかでパチリパチリと写真を撮っていたら、おごそかな雰囲気が壊されるという寺院側の主張もよくわかります。
 本日の日程はこれで終わりです。ホテルに着いたのは午後6時ごろ。高齢者向きのゆったりした日程です。

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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(9) [商品世界論ノート]

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 資本の循環過程において、商品は購入されるとその過程から離脱するが、貨幣は残る。そして、貨幣は狂気となる、とマルクスは書いている。
 商品は消費されることで、人の欲求を満たす。だが、貨幣は増殖を自己目的とする。そのためには貨幣は売れる商品を生みだしつづけなければならない。ここに悪無限が生じる、とハーヴェイはいう。
「現代資本主義は、終わりなき蓄積と複利的成長という悪無限にはまり込んでいる」
 こうして貨幣の「完結することなき無限」と商品の「際限のない浪費」が組み合わさる。環境的コモンズは急速に悪化する。
 貨幣の運動を後押ししているのが、利子生み資本(金融資本)だ。利子生み資本においては、貨幣がより多くの貨幣をもたらす不思議な力をもっているかのようにみえる。債務に追い立てられるようにして、資本はさらにエンジンを吹かさなければならない。
 だが、いつしか「終わりなき複利的成長は減価と破壊に帰着せざるをえない」。働かされるだけ働かされて、不況がやってくれば、労働者は職を失い、あとにはローンだけが残って、「債務奴隷」となる現実が待っている。
 貨幣が金や銀などの物質的土台から切り離されて、ドルやユーロ、円といった観念的構築物となり、とてつもなく膨張したのが現在の姿だ、とハーヴェイは書いている。
 いまや外国為替市場では毎日2兆ドルが取引されている。信用貨幣(投資信託、社債、ローンなど)の流れも膨大だ。各国で気の遠くなるほど増大した国債は、合法的に回収される見込みはない。国家も企業も個人も巨額債務の返済に追われるなかで、過剰資金の流れが経済を揺り動かしている。
 ハーヴェイによれば、資本主義の狂気にとりつかれたのは中国も同じだった。2011年から13年にかけて、中国は65億トンのセメントを消費した。この消費量がいかにすごいものだったかは、1900年から99年までのアメリカのセメント消費量が45億トンだったことをみてもわかるという。
 セメントは建造物に用いられる。わずか3年で65億トンものセメントが用いられたということは、この時期に中国ではマンションをはじめとする住宅、道路やダム、飛行場、鉄道駅、コンテナターミナルなどの社会インフラに、いかに莫大な投資がおこなわれたかを示している。
 投入されたのはセメントだけではない。鉄鋼の生産もとてつもなく拡大した。製鉄のための鉄鉱石はブラジルやオーストラリアから輸入されていた。2013年ごろには、世界の鉄鋼の半分以上が中国でつくられいたし、中国は世界の主要な鉱石資源の少なくとも半分を消費していた。
 2007年から2008年にかけ、アメリカで金融危機(いわゆるリーマン・ショック)が勃発し、それが世界じゅうに波及したのは記憶に新しい。しかし、その資本主義の世界的危機を救ったのは、皮肉なことに中国だった、とハーヴェイはいう。
 リーマン・ショックの結果、不況におちいったのは中国も同じだった。中国の輸出は30%減り、南部の工場群は閉鎖寸前となった。2000万人から3000万人の失業者がでたといわれる。だが、このとき中国政府は多くのインフラ事業や巨大プロジェクトを発動し、無制限の融資をおこなった。
 その結果、中国全体の債務残高は膨れあがったが、大規模な建設事業がおこなわれ、不動産価格が押し上げられ、住宅への投機がおこなわれた。そして、突如、大金持ちが生まれた。
 負債金融が実施されたのは中国だけではない。日本でも大量の国債が発行された。しかし、世界経済の回復にもっとも寄与したのは、中国の建設ブームだった。中国は大規模な建設投資によって、大量の労働力を吸収した。ハーヴェイによると、中国のGDPの4分の1が住宅建設によるものであり、さらに別の4分の1が高速道路、水道設備、鉄道、空港などのインフラ投資によるものだったという。
 こうした中国の手法は、ある意味でおなじみのものだった。それは1929年の大恐慌以来、さらに第2次世界大戦後にアメリカがおこなってきた物的インフラや社会的インフラへの大規模投資をまねたにすぎない。新たな都市空間の創出は、恐慌への対応策として、過剰資本と過剰労働力を解決するために古くから用いられてきた手法だ。とはいえ、近年の中国における変容は、その規模もその速度も突出していた、とハーヴェイはいう。
 だが、こうした手法はいつか限界にぶつかる。アメリカでは早くから、「企業型都市再発計画の無味乾燥な試みと陳腐な郊外型生活様式にたいして公然と反抗」する動きがおきていた。そして、あげくのはてに不動産市場が崩壊する。都市の空間形成は、そうした発展と崩壊の波をくり返してきた。中国ではいま住民がいない「鬼城(ゴーストシティ)」があちこちに広がりつつある。
 ハーヴェイはこう書いている。

〈資本が建設するのは、人々や諸機関の投資先としての都市なのであって、民衆が住むための都市ではない。どれほどの正気がこれにあるというのか?〉

 中国の建築ブームが後退すると、グローバルな原材料需要は落ちこみ、とりわけ中南米の国々が苦境におちいった。それは先端の工作機械などを輸出しているドイツでさえ例外ではなかったという。
 歴史的にみて、資本は過剰蓄積問題を解決するために「空間的回避」をおこなってきた。過剰資本と過剰労働力を海外に向けるのが帝国主義の論理だったが、こうした「空間的回避」の思考はいまもつづいている、とハーヴェイは論じている。
 日本は1960年代後半から、韓国は1970年代から、台湾は1980年代前半から、過剰資本を輸出しはじめた。そして、2010年以降、それを盛んにおこなっているのが中国だ。
 中国は過剰な鉄鋼能力を保有しており、可能なかぎり多くの鉄鋼を安い値段で輸出している。さらにいろいろな国に資金を貸し付けて、鉄道や道路、港湾などのインフラや建造物をつくらせている。ニカラグア横断運河や南米大陸横断鉄道もそのひとつだ。一帯一路構想という巨大プロジェクトもある。これらが実現すれば、過剰資本問題が解決するとともに、対中貿易の増加につながるだろう。
 しかし、過剰資本によるグローバル空間の再編は、さまざまな軋轢を呼びさまさないではおかない。
「普遍的疎外」が始動する、とハーヴェイはいう。
 複雑化する大量の商品をめぐって競争が激化すると同時に、運輸・通信費の削減や移動速度の上昇も猛烈な勢いで進んでいる。「時間と空間の圧縮」は、労働者に大きな負担と緊張をもたらさざるをえない。
 いま世界では大量移民の波が生じている。移民をめぐっては、反移民運動やナショナリズム的熱情が引き起こされるいっぽう、多文化主義の動きも生じている。
 世界各地でさまざまな抗議活動が広がっている。異議と不平、場合によっては絶望の風潮が世界に満ち満ちている、とハーヴェイはいう。
 その根拠にあるのは、いったい何なのか。
 人間と自然との関係の悪化、経済成長至上主義の破綻もそのひとつかもしれない。だが、それだけではない。
 世界の「時間と空間」の再編、グローバルな競争、ますます進む機械化と自動化、人工知能をはじめとする新しい技術の導入、下がりつづける労働分配率、偶発的な雇用と失業、正規と非正規の区別、無意味な仕事、労働者間の仕事の競い合い、人種差別、ジェンダー差別、尊敬と敬意の喪失──こうしたことが、働く人びとに疎外感をもたらしている。
 そのいっぽうで、資本が多くの有用な商品を生みだしていることもまちがいない。資本主義の発展は世界の多くの地域で平均余命の延長をもたらした。社会的福祉の増大にも貢献した。しかし、多くの商品は両刃の剣でもあり、たとえば自動車が公害や渋滞、危険をもたらしたことも事実だ。大気汚染が人びとを苦しめている。
 人びとの欲求や欲望ははてしなく、その実現の困難性が疎外感を深めている。スマホやパソコンが、幸せをもたらしているとはかぎらない。社会は便利になったぶん、刹那性を増し、また思わぬ落とし穴を生んでいる。さらに、商品世界の進展から取り残された多くの人びとのあいだでは、絶望と不満が深まっている。
 近年では、世界の大半で労働分配率が低下し、技術の発展にともない、多くの労働者はその恩恵を受けるどころか、かえって失業の脅威や生活水準の低下にさらされるようになった。資本主義世界のほとんどで、所得と富の不平等が拡大している。そのいっぽう多くの人が債務(ローン)に縛られ、債務懲役状態に陥っている。
 ハーヴェイは、こう記す。

〈債務負担による規律づけ効果は、現代資本の再生産にとって決定的に重要である。……『聖書』が求めるように負債が赦(ゆる)されることなど、資本は認めることがないのであって、むしろわれわれは、未来の価値生産をつうじて自己債務の返済を資本に要求されることになる。……債務懲役は、資本がその特有の奴隷形態を強制するのにおあつらえむきの手段なのだ。〉

 その背景にはカネ、カネ、カネの世界がある。
 ケインズのいう「財産としての貨幣愛」、すなわち貨幣を富とみなし、それを蓄積しつづけようとする傾向は、それ自体が問題であり、われわれは「このような、ひどく厄介なまでに狂った世界」に生きている、とハーヴェイは記している。
 だが、その「狂った世界」からの脱出は可能なのか。それが容易でないことをハーヴェイも認めている。だから、社会主義革命をなどと安直にはいえない。せめて資本の生みだす「狂った世界」を見つめることを忘れず、そこから出発するしかないのだと主張しているようにみえる。

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海岸寺院と落ちそうで落ちない岩──南インドお気楽ツアー(4) [旅]

2月22日(木)つづき

 午後、カーンチープラムからマハーバリプラム(マーマッラプラムとも)にバスで移動します。
地図で見るとマハーバリプラムはチェンナイから南に60キロ下った海沿いにあります。内陸のカーンチープラムからすれば、ほぼ東に位置しています。バスで67キロ、ほぼ2時間かかります。
 バスからの風景。カーンチープラムの町の様子、にぎやかですね。
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 食べ物屋さんです。店頭で何か揚げ物をしています。
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 屋台ではバナナをはじめ、果物や野菜が売られています。さすがに南の国らしく食べ物はふんだんにあります。
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 バスは川沿いに走ります。田んぼではお米がつくられています。このあたりは二期作です。
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 途中、石工屋さんを見かけました。ヒンドゥー教の神々はいまもこうして毎日つくられているようです。
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 午後3時、マハーバリプラムに到着。観光地らしく屋台が並び、雑多なものを売っています。
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 インドのカラス(イエガラス)。黒と灰色のツートンカラー。日本とはだいぶちがいます。
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 ここのお目当てのひとつは、世界遺産になっている「海岸寺院」です。見えてきました。
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 8世紀初頭、パッラヴァ朝によってつくられたヒンドゥー教寺院だといいます。ということは、午前中に訪れたカイラーサナータ寺院と同じころですね。ただし、海岸寺院のほうが古く、カイラーサナータ寺院はそれをまねたものだといわれます。
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 このあたりはかつて同じような寺院が7つあったようですが、いま残されているのはひとつだけです。風化にさらされながら1300年近い時節を耐えてきました。
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 祀堂のなかにはヴィシュヌ神が祀られているといわれましたが、よく確認できませんでした。
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 寺院の横はすぐ海です。ベンガル湾ですね。マハーバリプラムはかつて貿易港として栄えたようですが、いまその面影はありません。
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 海岸寺院の見学を終え、西に10分ほど歩くと、こんどは大きな石窟がみえてきます。その右側に目をこらすと、見事な彫刻がほどこされていました。「アルジュナの苦行」と題される彫刻だそうです。
 2匹の巨象(実物大)の前に女神ガンガーが降りて来ます。象の鼻のあたりには、よく見ると万歳をしたネコもいて、これも修行中だそうです。
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 叙事詩『マハーバーラタ』の一節を図像化したものだといわれます。
 パーンドゥ家の王子アルジュナは、シヴァ神の加護を願い、一本足だけで立ちつづける苦行をつづけています(写真の左上をみてください)。
 その願いにこたえ、天界から地上に女神ガンガーが下ってきます。蛇の姿をしたガンガーは同時にガンジス川そのものを象徴しています。
 いずれにせよ、壮大な神話の一節です。
 さらに、その先にはびっくりするようなものがありました。
 いますぐ転げ落ちてきそうな巨岩です。
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 クリシュナのバターボールと呼ばれます。なんでも200トン以上あるとか。岩山の坂を落ちそうで落ちないのが不思議です。
 横に回ってみると、石は斜めに張りだして、バランスを保っていることがわかります。なるほど前に転がってこないはずです。
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 さらに後ろに回ると、少しひしゃげた格好をしていました。
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 何であれ、ものごとは微妙なバランスの上に成り立っています。この地球も人もそのとおりだということを教えてくれる巨岩でした。

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インドの子どもたちと──南インドお気楽ツアー(3) [旅]

2月22日(木)つづき

 カーンチープラムにて。
 エーカンバラナータル寺院のあと、もう一つの寺院、カイラーサナータ寺院を訪れました。ずっと規模の小さいヒンドゥー寺院ですが、建てられたのは、8世紀初頭のパッラヴァ朝時代といいますから、むしろエーカンバラナータル寺院より古いですね。
 幼稚園の子どもたちが遠足に来ていました。男の子と女の子20人ほどです。思わず「かわいい」と声がでます。
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 インドの王国の歴史は、紀元前4世紀のマウリヤ朝(マウリヤ帝国)時代にさかのぼります。そのあと、複雑な分裂・統合の栄枯盛衰をたどるのですが、いまそれを詳しく述べる必要はないでしょう。
 カイラーサナータ寺院が建てられたころ、南インドでは、6世紀以降9世紀後半にかけて、3つの王国が抗争をくり返していたことを知っておけばじゅうぶんです。
 その3つの王国のひとつが、ここカーンチープラムを中心としてインド南東部を支配していたパッラヴァ朝でした。
 カイラーサナータ寺院は、そのパッラヴァ朝時代の全盛期に建てられました。
 北インドで成立したヒンドゥー教はこの時代に南インドにもちこまれたといいます。シヴァ神やヴィシュヌ神への絶対帰依を説くバクティ信仰が広がりました。
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 一部に修復がほどこされていますが、カイラーサナータ寺院が古い寺院であることは、そのたたずまいからも伝わってきます。
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 頭に角が生えた獅子のような動物が印象的です。ヤーリという架空の動物だと教えてくれた人がいました。
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 獅子らしきものに囲まれて、その奥にシヴァ神とその妃パールヴァティーが祀られていました。
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 奥にもお堂があるようなのですが、鍵がかけられていて、一般の人は中にはいれません。
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 ともかくヒンドゥーの世界は図像にあふれています。先にはシヴァの乗る牡牛もいますね。
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 先生に引率されて子どもたちがやってきました。
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 これももうひとつのシヴァ神ですね。シヴァ神はいろいろな姿に変身します。
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 女の子たち。ジェンカを踊るように、肩に手を置いて、堂内を回ります。これなら迷子になりませんね。
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 いたるところに獅子(ヤーク)の像。
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 踊るシヴァ神です。ナタラージャの姿をとって、激しい破壊のリズムを踊っています。
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 子どもたちと並んで記念撮影を。いい思い出になりました。
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 お昼は近くのレストランで。いつものように、ふたりで1本ビール(銘柄はキングフィッシャー、つまりカワセミ)をあけ、バイキング式のランチをとります。次の目的地はマハーバリプラムです。
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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(8) [商品世界論ノート]

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 一般に企業はみずからが占有する特定空間にたいして独占権を有している、とハーヴェイは書いている。その空間にたとえ競争相手がいるとしても、その競争は一定の地理的範囲をめぐるシェアの奪いあいで、いわば独占的競争がおこなわれるにすぎない。
 かつては高い運輸費と貿易障壁が企業の独占範囲を守っていた。従来、工業にとっては、原材料に近いという立地条件が重要だった。いっぽう、パンなどの生活必需品や傷みやすい商品は、商圏がせまく、業者は他の競争者から守られていた。金や銀、ダイヤモンドなどの世界商品を除いて、かつて市場は局地市場にかぎられていたといえるだろう。
 マルクスの時代は、国際貿易は現在ほど盛んではなかった。とはいえ、マルクスは国際経済を念頭に置いていた。国ごとに労働力価値が異なることも認識していた。
 国ごとに労働力価値が異なるということは、国ごとに価値体制(貨幣の形態や値段のちがいを含め)が異なるということである。そして、国どうしで貿易がおこなわれるときには、マルクスのいうように「恵まれた国は、少ない労働と引き換えに、多くの労働を受けとる」。
 言いかえれば、恵まれた国は、別の国で安くつくられた商品を国内で比較的に高く売ることができるのである。そして、その差額を受けとるのが「特定の階級」であることを、マルクスは指摘していた。
 地域的な価値体制が存在することによって、先進国と途上国との貿易は先進国に価値と剰余価値を移転させることになる。そうした状況は現在もつづいている。
 マルクスはさらに局地的な法定紙幣と世界貨幣(金や銀)が深刻な分裂を引き起こすことも認識していた。貨幣は国内の流通部面から外にでるときは、その局地的機能を失って、地金(重量としての金や銀)のかたちをとる、と書いている。貨幣が金や銀という純粋な形態をとるのは、世界市場においてである。
 だが、1970年代以降、状況は一変した、とハーヴェイはいう。金本位制の痕跡を残していたIMF体制は崩壊し、世界は不安定な変動為替制に移行した。そうしたなか、世界の主要通貨間の相対的価値が変動するなかで、さまざまに異なる価値体制がそれぞれの発展をみせることとなった。
 ハーヴェイは資本の歴史地理を重視する。世界の貿易関係が発達し、密になるにつれて、価値体制の異なる国どうしは、まず地域的に結びつき、さらにグローバルなかたちで結びつきを加速していった。
 たとえば、アメリカの地方スーパーを例に挙げて、ハーヴェイは1970年と2015年の品揃えについて、こんなふうに書いている。

〈1970年でさえ、アメリカの地方スーパーマーケットでは外国産のチーズやワインは見られなかったし、ビールですら、その大部分が各地で醸造されていた。ナショナルボヘミアン・ビールを飲むならボルチモアであり、アイアンシティ・ビールを飲むならピッツバーグであり、そしてクアーズ・ビールといえばデンバーであった。こうした状況は劇的に変わった。あらゆる地方スーパーマーケットに世界中の食料品が置かれ、主要都市でならほぼどこの地ビールも飲むことができる。〉

 これは日本もほぼ同じだといえる。ビールはともかくとして、どの町のスーパーでも、世界中の食料品が置かれるようになった。日本中でつくられる酒が並んでいる。どこにいってもマクドナルドの店をみかけるようになったし、イタリアンの店も多い。
 たしかに1970年代以降、どこの町にも世界の商品が押し寄せるようになったのだ。
 だが、その動きは第2次世界大戦後から加速していた。1945年以降、資本の歴史の大部分は、運輸費の削減と貿易障壁の段階的撤廃に捧げられた、とハーヴェイは指摘している。
 地域的な価値体制間の差異は消失しつつあるともいう。とはいえ、空間をめぐる独占的競争がつづいていることもまちがいない。TPPなど多くの貿易協定が結ばれ、中国が一帯一路構想を打ち出すなどをみても、空間の支配をめぐる競争がますます激しくなっていることはあきらかだ。
 もうひとつ重要なことがある。巨大企業はそれまでも市場支配力をもっていたが、1970年代以降、空間的障壁が徐々に取り払われるにつれて、企業の考え方は一国的なものからグローバルのものへと転換した。
 たとえば、アメリカではそれまでGMやフォード、クライスラーが自国の自動車市場を占有していたが、1980年以降は日本やドイツ、イタリア、韓国、中国からの挑戦を受けるようになった。そのいっぽうで、アメリカの企業がグローバル化する傾向も強まっている。農業関連産業やエネルギー産業、製薬業、通信業は世界市場を想定するようになった。最近ではグーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルなどが世界を席巻している。
 資本は集中と規模の拡大を見境なく追求することによって、競争上の優位を保ち、独占をめざそうとする。ハーヴェイのいうように「資本主義的競争が創造するダーウィン主義的世界では最適企業のみが生き残る」。その手段のひとつが、企業の合併吸収(M&A)だ。
 1980年代以降はとりわけ生産と流通の加速化が進んだ。運輸費や調整時間が削減され、多くの企業が猛烈な競争をくり広げるいっぽうで、労働者は海外の労働者との熾烈な競争を強いられるようになった。だが、労働者はそれによって利益を受けることはなかった、とハーヴェイは断言する。
 世界経済のなかでは、さまざまな地域的価値体制が関係しあい、その力関係を変動させている。先進国と開発途上国が存在することをみても、その価値体制は、ある程度長期的なものだ。
だが、過去40年にわたり、とりわけ特徴的なのは、さまざまな価値体制が接近し、交錯し、収斂していることだ、とハーヴェイはいう。世界のグルーバル化が進んでいる。
 とはいえ、単一の価値体制が存在するわけではない。いまのところ世界貨幣も存在しない。むしろ、資本は価値体制の差異を利用して、価値増殖を実現しようとしている。局地間競争、地域間競争、大国間競争はむしろ激化している。
 グローバルな価値連鎖は複雑さを増している。たとえばアメリカの企業が自国市場向けの商品をメキシコでつくるとしよう。その企業はアメリカのノウハウをメキシコの低賃金労働者と結びつけて製品をつくりだすわけだが、そこに投入されるのは中国製の部品やアフリカ産の原料だったりする。
 産業による空間と時間の形成は、大きく変動しつづけながらも、けっして立ち止まることはない。アメリカでは、中西部で旧産業(鉄鋼・石炭・自動車など)の夢の跡ともいえるラストベルトが生まれるいっぽうで、いまや南部や南西部に宇宙産業や先端技術に特化したサンベルトが生まれているのも、その象徴だ。
「価値の運動法則は空間と時間のなかで自らを貫徹していく」。資本の本性のなかには、世界市場の征服と構築のために、あらゆるものを(自然も人間をも)犠牲にすることをいとわない暴力性が備わっている、とハーヴェイは書いている。

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エーカンバラナータル寺院──南インドお気楽ツアー(2) [旅]

2月22日(木)つづき

 10時ごろ、チェンナイ(マドラス)の南西77キロにあるカーンチープラムに到着しました。
最初に訪れたのがエーカンバラナータル寺院です。もちろんヒンドゥー教の寺院。16〜17世紀ごろにつくられたといいます。イギリス東インド会社がやってくる前でしょうか。西海岸ではすでにポルトガルが進出していました。
 北インドがすでにイスラムの諸王国になっているのに、南インドはヒンドゥー勢力のヴィジャヤナガル王国(1336〜1649)が支配していました。
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 ガイドさんは例によって、ちっとも説明してくれませんでしたが、あとで調べると、この時代に南インドではヒンドゥー教の大寺院が発展したそうです。このエーカンバラナータル寺院もそのひとつです。
 王や地方長官に保護された寺院は、大勢の巡礼者を集め、儀式をとりおこない、また織布工を集めて綿布を生産したり、水利施設を建設するなどの経済活動もおこなっていたといいます。
 高さ60メートルの巨大な塔門(ゴープラム)は、隅から隅まで、神々の像で飾られています。その頂上には聖獣が鎮座しています。
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 寺院のまわりでは牛たちが我が物顔に振る舞っています。
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 靴と靴下を脱いでお堂にはいると、ひんやりとここちよい。回廊を奥へ進んでいきます。
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 あらゆるところにシヴァ神が祀られています。柱にはサルの神様、ハマヌーンの姿が刻まれています。
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 これは生け贄の羊でしょうか。何か言い伝えがあるのかもしれません。
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 壁際にはリンガ(シヴァのシンボル)がつらなります。
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 奇っ怪な像(ガルーダ?)もあって、じつにおもしろいですね。
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 回廊の様子。石の柱は彫刻で埋めつくされています。
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 扉に鍵がかかっているので、よくわかりませんが、これは象の姿で知られるガネーシャの像でしょうか。
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 天井には獅子のような像がつらなります。正式にはこの守り神を何と呼んでいるのかわかりませんでした。
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 中庭に出ると大きなマンゴーの木があって、その下のほこらでは多くの人が何やら熱心に祈りをささげています。シヴァとその妃パールヴァティーはマンゴーの木の下で結ばれたという言い伝えがあるとか。ほこらは、そのことと関係しているのかもしれません。
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 回廊のあちこちに神様のほこらがあります。そこには祭司がいて、信者の祈りを導いているようです。
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 この先はヒンドゥー教徒以外ははいれません。
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 沐浴場のまんなかにはコブラ(ナーガ)の像が刻まれた小祠。鎌首をもたげたナーガの像はあちこちでみられます。
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 出口近くで記念写真を撮ったら、あいだにふくよかなインドのおじさんが入ってくれました。
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 牛の聖像におまいりする人がいます。
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 短い時間の見学でしたが、こうしてみると、ヒンドゥー教は宗教というより、むしろインドの文化、慣習というほうがいいのかもしれませんね。それは日本人が神社やお寺にお詣りにいくのと同じ感覚と似ています。
 日本の神道と同じくヒンドゥー教にも哲理のようなものはありません。しかし、ヒンドゥーの神々は、インド人の心のなかでは、いまもそれこそ感情豊かに変幻自在、大暴れしながら、人をためしては助けているかの感があります。

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南インドお気楽ツアー(1) [旅]

2024年2月22日(木)

「あと5年よ」というつれあいの声にうながされて、南インドのツアーに参加することになりました。
 5年たてば80歳。おそらく海外旅行には行けなくなる年です。それまであちこち旅行しようと、つれあいははりきっています。
 今回の旅行の日程は7日間ですが、移動にかかる時間を差し引けば、南インドにいられるのは5日間だけです。短い旅行といえるでしょう。
 南インドをめざしたのは、何か特別な思い入れがあったわけではありません。2月は寒いので、少しあったかい場所に行きたいという他愛ない理由からです。インド好きの人には叱られるかもしれませんが、まさにお気楽な観光気分によるものでした。
 いまいる場所はチェンナイのホテルです。
 きのうは朝10時に成田を出発し、シンガポールを経由して、夜遅くにチェンナイに到着しました。シンガポールでの乗り継ぎ3時間を合わせると、チェンナイまで15時間半かかったことになります。
 ただし、日本とチェンナイは3時間半の時差があるので、到着はその日のうちです。日本で苦労してとったeビザとパスポートを入国審査で提示し、無事、南インドに足を踏み入れます。
 深夜にもかかわらず、チェンナイ空港の周辺はにぎやかでした。丸っこいタミル語の文字が新鮮です。
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 インド人のガイドさんが出迎えてくれ、総勢13人となるツアーの面々にあいさつし、旅行社が用意したバスに乗り込みました。郊外の空港からホテルまで小一時間かかりました。
 バスのなかで、インドの人口は約14億人で、中国を抜いて世界一になったという話を聞きました。ガイドのウニヤルさんは40代の男性、デリーに住んでいて、このツアーのためにチェンナイまでやってきたといいます。車内で1ルピー=2円で両替してくれました。日本語は何年か群馬県で仕事をしているときに覚えたそうです。
 ホテルに着いたときは、現地時間で12時をすぎていました。
 昨夜は時差のせいか、よく眠れませんでした。
 それなのに朝7時食事、8時出発のスケジュールが迫ってきます。もっとも、このホテルには2泊するので、荷物は置きっぱなしにできるのが、ありがたいところです。
 何ということのないホテル「ザ・レジデンシー」の外観を写真に残しておきましょう。チェンナイ中心部から少し南に位置しています。
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 ガイドさんは、何時に集合とか、きょうはどこに行くとか、ほとんど事務的なことしか話さず、うるさくないといえば、そのとおりなのですが、もう少し歴史的なことを語ってもよさそうなのにと思いました。
 もうひとつ残念なのは、せっかくチェンナイに来たのに、チェンナイの市内見学がツアーに組まれていないことです。
 ガイドさんはチェンナイがデリー、ムンバイ(旧ボンベイ)、コルカタ(旧カルカッタ)につぐインド第4の都市で、人口は2000万人などと話していました。2000万人というのは大げさで、都市圏全体で1500万人というのが実際です。それでも大都会にちがいありません。
 チェンナイはタミルナードゥ州の首都で、このあたりでは北部や中部のヒンディー語と異なるタミル語が話されています。日本からはスズキ、トヨタ、ホンダなど、多くの企業が進出していると説明してくれました。
 しかし、ここがかつてマドラスと呼ばれていたことには触れませんでした。インドの地図が巨大な舌のかたちをしているとすれば、チェンナイ(旧マドラス)は舌の先っぽの右側(東側)に位置しています。
イギリスの東インド会社は1639年にこの地に進出し、翌年、セント・ジョージ要塞を築き、町をマドラスと名づけました。その遺跡は現在も残されているはずなのですが、今回それらを訪れることはできませんでした。
 われわれの乗ったバスは、町なかを抜けて、南西に走ります。窓から道端の光景を撮らせてもらいました。
 これは町のキオスク。新聞や飲み物、お菓子を売っています。
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 朝8時すぎともなると、道路には乗用車、リクシャー(オートリクシャー)と呼ばれるタクシー、オートバイ(二人乗りが多い)が、猛烈な勢いで行き交っています。いま気温は30度です。
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 これはバス停ですね。女性は色鮮やかなサリーをまとっている人が多いようです。道路にはみだすようにしてバスを待っています。
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 食べ物屋さんでしょうか。仕事に行く前の男たちが、仲間どうしおしゃべりしながら、揚げ物のようなものをぱくついているみたいです。
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 バイクに奥さんを乗せて、どこかに向かう姿はあちこちで見かけました。
 道路にはゴミが散らかっていますが、だれも気にしている様子はありません。インドも車社会ですが、警笛が常に鳴り響くのは日本以上に車が混みあっているせいでしょうか。車線は時に平気で無視されます。
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 ラジブ・ガンディ・ニナイヴァカムという建造物を見かけました。あとで調べると、ニナイヴァカムとはメモリアル、記念堂のことです。
 ラジブ・ガンディーはインドの第9代首相で、母は同じく首相を務めたインディラ・ガンディです。母がシーク教徒によりニューデリーで暗殺されたのを受けて、1984年にインドの首相となりました。
そして、かれ自身も1991年5月21日に、ここチェンナイ郊外で選挙運動中、スリランカの反政府組織「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」に属する女性の自爆テロよって暗殺されるのです。享年46歳でした。記念堂は、かれが暗殺された場所につくられています。
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 ガイドさんは、そうしたことも教えてくれません。政治的な問題はなるべく触れないようにしているのでしょう。
 バスは高速道路にはいっています。未完成な道路が多いのですが、インドでは高速道路が次々とつくられているのが印象的でした。
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 次第に農村の風景が広がります。
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 道端に大きな観音様のようなものを見かけました。おそらくヒンドゥー教のお堂なのでしょうが、よくわかりません。でも何だかヒンドゥー教ぽくありませんね。
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 牛がのんびりと草をはんでいます。まわりにはアマサギ(?)の群れが。インドでは牛は神聖な動物で、人間よりもだいじにされていると聞きます。
 ガイドさんによると、人の赤ちゃんは1歳になると牛乳を飲む。だから牛はお母さんと同じで神聖なのだといいます。この話にみょうに感動してしまいました。
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 10時ごろ、きょうの第一の目的地、カーンチープラムの寺院がみえてきました。
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 町のなかにはいります。黄色いリクシャーが何やら楽しげで、一度乗ってみたくなります。
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ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(7) [商品世界論ノート]

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 産業革命以来、資本主義は200年という時間をかけて、グローバルな空間に広がっていった。これは歴史的なテーマだが、同時に理論的なテーマでもある。ハーヴェイは『資本論』をベースとして、資本の時間と空間の広がりを論じようとしている。
 運動する価値としての資本は経済権力だといってもよい。それは原料を生産する場の景観をつくり、運輸ネットワークを組織し、ヒトとモノと情報の流れを統轄し、労働者を管理し、株価や地価を操作する。
 マルクスは資本が世界市場という空間を生みだすことを早くから意識していた。そもそも商人資本家は、ある場所で安く買ったものを別の場所で高く売ることで、大きな富を築いてきたのである。
 さらに産業資本は、はるか遠くの地域で産する原料にもとづいて、かずかずの新たな商品をつくりだし、それがなくては満たされない新しい欲求をつくりだし、これまでの産業を滅ぼしてきた。
 安価な商品は「どんな万里の長城をもうちくずさずにはおかない重砲だ」とマルクスは書いている。資本にはそもそも世界市場をつくりだしていく傾向がある。
加えて、運輸・情報革命が商品の流通を促進し、国境の壁をくずしていく。マルクスの時代においては、蒸気船や鉄道、港湾、運河、道路などの建設、電信や新聞の普及が、産業の発達に呼応するように進んでいた。
 マルクスはすでにこう書いていた。

〈資本は一方では、交易すなわち交換のあらゆる空間的制限を取り払い、全地球を資本の市場として征服しようと努めないではおられないのだが、他方では、時間によって空間を絶滅しようとする。資本が発展すればするほど、資本はますます大規模に空間的に市場を拡大しようとし、またそれと同時に時間によって空間をますます絶滅させようとする。〉

 空間の拡大と時間の圧縮が資本の求める夢なのだ。
 資本によって生みだされるかずかずの商品は、世界の伝統社会を解体していく先兵にほかならない。こうした資本の破壊的傾向に対抗するには、地域自体もまた資本主義的な生産様式を取り入れる以外に道はない。古びた世界が近代への扉を開くと、結果的には資本のグローバル化が進むことになる。
 その過程で発生するのが巨大な都市だ。そして、これまで支配的だった農村は都市に従わざるをえなくなる。都市には人口が密集し、生産手段が集中し、財産が集積する。
いっぽう政治は中央集権的となる。それまで独立していた地方は、ひとつの国家のもとに結びつけられ、国家を単位として、政府と国民、法典、利害関係が生まれ、近代の国民国家が誕生する。
 先に中央集権化された国家と市民社会は、それ自体、帝国主義的侵略や植民地拡大の志向を秘めていた。マルクスは自身の理論的モデルに植民地などの外的要因を組み込んでいない。とはいえ、「世界市場をつくりだそうとする傾向は、直接に、資本そのものの概念のうちに与えられている」というのがかれの基本的な考え方だった。そして、列強の暴力による植民地形成が、現地での強い抵抗に見舞われるのも必至だとみていた。
 とはいえ、『資本論』でマルクスが重視したのは、資本の空間的広がりよりも時間的持続だった。資本が拡大する秘密は、資本がじっさいに支払う以上の、できるだけ多くの超過労働時間を盗み取ることによるものだった。それによって、資本は剰余価値を獲得し、自己拡大する循環過程をえがくことになるのだ。
 ここでハーヴェイは資本の時間的循環を空間的広がりにまで拡張しようとこころみている。
 とはいえ、空間と時間という概念は一筋縄では説明しがたい。空間や時間は地図や時計で表されるものなのか、それとも文化的に規定されるものなのか。空間と時間にたいする意識は、過去200年間をとっただけでも、大きく異なっている。それは革命的な力である資本が「日常生活の、経済計算の、官僚行政の、そして金融取引の空間的、時間的枠組みを変化させてきた」からだ。
 空間と時間という概念を把握するために、ハーヴェイは「絶対的」、「相対的」、「関係的」というカテゴリーをもちだしている。それは固定的、流動的、外部効果的という規定に置き換えてもいいのだが、これについては深入りしない。いずれにせよ、空間と時間という概念がきわめて動的であることを念頭においておけばよいように思われる。
 資本はなぜ時間を圧縮し、空間を拡大しようとする傾向をもつのか。そのことを理解するには、総資本の回転をチャート化するのが、いちばんわかりやすいとハーヴェイは考えている。
 資本は消費財を生産する資本だけではない。固定財(機械や耐久財)を生産する「固定資本」もある。さらに、貨幣を生みだし運用する「利子生み資本」もあるだろう。それに流通資本を加えてもいいのだが、こうした資本の総体を総資本と名づけるならば、資本は単なる「資本」としてではなく、総資本としての運動(循環)をくり返していることがわかる。
 消費財の生産と消費のくり返しが第1次循環をかたちづくるとすれば、これに「固定資本」と「利子生み資本」がからんでくると第2次循環が形成される。それだけではない。資本主義社会は国家なしには成り立たないのだから、国家による資本主義社会への関与が第3次循環を形成する。現代の資本主義は、こうした第1次、第2次、第3次の総循環と、空間・時間のうえに成り立っているというのがハーヴェイの解釈だといえるだろう。
 もう少し詳しくみていこう。
 マルクスは、さまざまな資本がさまざまな回転期間をもつこと、さらにその流れは時間的にみれば、生産期間と流通期間に分類できることを指摘した。それでは固定資本の形成と流通はどう理解すればいいのか、とハーヴェイは問う。
 産業資本家にとっての固定資本は、何といっても機械である。この機械が最先端のものであるなら、資本家は特別剰余価値を得ることができる。だが、それはほかの産業資本家がこの機械を導入するまでのことだ。しかも、その機械を得るためにおこなった投資は機械の耐用期間のうちに回収されなければならない。そのもっとも単純な方法は定額原価償却だ。
 しかし、そうのんびりと構えていられないのは、次々と新しい機械が発明される可能性があるからだ。更新費用や機械の価値評価が変動する可能性もある。資本家はそれにそなえる資金を積み立てるか、銀行からの借り入れを想定しなければならない。しかし、機械を毎年リース契約すれば、そうした変動はそのリース料に反映されることになるだろう。
 固定資本である機械をリース契約する場合には、利子生み資本がかかわってくる。すると、とうぜん資本の空間はさらに広がってくる。機械をリースで貸与する会社は、いうまでもなく利子相当分を期待する。
 いずれにせよ固定資本の形成と利子生み資本(金融資本)とのかかわりは必至である。
 ハーヴェイは資本主義が発展するにつれて、固定資本の割合が大きくなることを指摘している。それは過剰人口を吸収するとともに、商品の量的過剰を抑制し、新たな商品やインフラを生みだす。そこに利子生み資本と国家がかかわって、日常生活の形態自体を変えていく。
 マルクスの時代においては、かずかずの機械に加え、鉄道や運河、水道、電信などのインフラもそうした固定資本だった。いまでも自動車、高速道路、高層マンション、病院など固定資本の占める割合はますます増えているといえる。日常生活にはいりこむ固定資本(たとえば電気製品)も多くなっている。すると、固定資本の循環が大きな課題となってくる。
 消費財資本と固定資本は密接にかかわり、それぞれ循環し資本の時空間を広げながら、価値の増殖をめざしている。だが、そうした時空間に「反価値」がはいりこむことは避けられない、とハーヴェイはいう。
 固定資本の規模が大きくなればなるほど、利子生み資本は債務の返済という致命的代償を要求する。しかも、固定資本が耐用期間をすぎてまで、価値を生みだしつづけるかは不確実である。はたしてどこまで利子負担をまかないきれるのかは未知数だ。
 固定資本の価値は常に減価される危険性をはらんでいる。固定資本は過剰資本と過剰労働力を吸収するテコになるけれども、いっぽうで過剰な資金を固定し、恐慌を引きだすバネともなっていく。
 資本の空間と時間はすでに飽和状態となっているのだろうか。あるいは古い資本は新しい資本に置きかわりながら、市場を淘汰していく作用をくり返しているのだろうか。だが、その作用が苛酷な現実をもたらす。1980年代以降、先進国の大半では、産業の空洞化が地域社会を破壊し、中間層や労働者階級に大きな打撃を与え、あちこちに見捨てられた産業景観や自然風景、住環境を残したことも事実である。
 資本には第3の循環も存在する、とハーヴェイはいう。それは国家財政にもとづく循環である。国家は国民に教育や職業訓練を課し、医療や年金といった社会的サービスを提供する。さらに軍や警察によって治安を維持するとともに、科学技術やインフラを促進して新たな価値の創造に寄与するといった面もある。それが、資本の総循環に深く関係していることはいうまでもない。
 こうして、ハーヴェイは、現代の経済社会(資本の時空間)を理解するには、単なる生産資本だけではなく、固定資本や金融資本、流通資本、国家財政の動きと循環をとらえることが重要だというごくあたりまえの結論を導いている。

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