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投資の限界効率、美人投票、アニマルスピリット──ケインズ素人の読み方(5) [経済学]

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 停滞して、前に進まなくなってしまった。「一般理論」は簡単に読める本ではない。参考書を見ながら、何とか前に進もうとする。それでも、つい別の本に目移りする。
 ケインズは投資不足こそ失業をもたらす原因だと考えていた。
 それでは、そもそも投資水準はどのようにして決まるのか。
 ここで持ちだされるのが、投資(資本)の限界効率という概念である。
 企業は追加投資によってリターンを期待する。投資がおこなわれるのは資本設備(固定資本)にたいしてである。その場合、期待されるリターンは1期にとどまらず、何期にもわたる。その総計をケインズは投資の期待収益と呼んだ。
 投資の期待収益には、固定資本の供給価格が対応している。期待収益はそれが将来、どのように割り引かれていくかという予想に応じて決まってくる。その予想曲線と供給価格が一致するところが、投資の限界効率となるという言い方をケインズはしている。
 投資の限界効率は、資本の収益性をあらわす尺度である。
 一般に投資が増加すると、投資の限界効率は低下する。なぜなら、資本の増加とともに期待収益が減るいっぽうで、設備の供給価格が高くなるからだ、とケインズはいう。
 実際の投資は、その限界効率が現行の市場利子率に等しくなるような水準で決まる。市場利子率が高くなれば、投資水準は低くなり、逆に利子率が低くなれば、投資水準は高くなる。その前提には、期待収益にもとづく投資の限界効率という判断がある。
 つまり、投資水準はいっぽうでは将来の期待収益、他方では市場の利子率との関係によって決まってくるといってよい。
 利子率がどのようにして決まるかは、また別問題となる。

 投資の限界効率はとらえがたい概念である。それはあくまでも比であって、長期にわたる把握を要する。重要なのは、それが資本設備の将来の収益期待によって決まってくることである。
 そのかん、賃金率や商品の需要が変化することも予想される。そうなると企業の利潤も減り、投資の限界効率も低下する。貨幣価値の変化も限界効率に影響をもたらすだろう。将来の利子率の変化も問題である。そうしたなかで、設備に投じた資金がはたして回収できるかどうかが判断されなければならない。
 投資には企業側のリスクと投資側のリスクがある。これは資本と経営が分離するとともに、企業が銀行からの借り入れによって投資をおこなうことによって生じてくる。
 はたして、期待した収益が得られるかどうかは、企業のリスクであり、債務不履行や担保能力の不足は貸し手のリスクだといえる。そのほか、貨幣価値の変化(インフレとデフレ)にともなうリスクもあるが、これはいずれ市場価格の変化を通じて吸収されるとケインズは考えている。
 だが、投資をうながすうえでは、投資の限界効率という概念がもっとも重要だという。それは耐久的な資本設備が、どれだけ投資に見合うものとなるかを示す指標にほかならない。そして、現実の投資量は、現時点における利子率との関係で決まってくるとケインズは再度強調する。

 ケインズは、資本設備の期待収益がどのように決まるかをさらに考察する。
 資本設備から生み出される商品への需要は、現時点でほぼ確実に把握できる。不確実なのは、将来の有効需要や貨幣賃金の変化などだ。これらは長期的期待(予測)の問題に属する、とケインズはいう。
 長期的期待を決定する要素は、あくまでも現在の状況である。現在の状況が将来どのように変わるかを判断するところに長期的期待が生まれる。そして、そこに確信という心理的要因がはいってくる。
 投資の限界効率についても、じつは確信を抜きにしては考えられない。資本設備から生み出される収益は、あくまでも不確実性にもとづく推測でしかない。だれも10年後の経済状況を正確に予想できるわけがないからだ。
 かつては企業を所有し、それを経営しているのは資本家とその一族で、かれらはみずからの才覚に応じて事業を運営し、博打のように投資をおこなっていた。それは時に大いなる決断を要した。
 しかし、いまはそんな時代ではない、とケインズはいう。

〈昔ながらの民間事業に投資しようという判断は、社会全体にとってはもとより、その個人にとっても、ほぼ後戻りできない決断でした。今日のように所有と経営の分離が一般化してしまい、組織化された投資市場が発達すると、それは所有と投資を促進しますが、ときにはシステムの不安定性を大いに高めます。〉

 いまや企業の活動を評価するのは、個人の資本家ではなく、株式市場である。そのことによって投資はさらにうながされるようになったが、同時に経済は不安定性を増すことになった、とケインズはいう。
 株式市場での取引が広がるなか、企業による投資決定は、企業自体の期待で決まるのではなく、株価にあらわれる企業の評価に左右されるようになる。企業は株価が上がると、新株を有利な条件で発行することができ、それによって投資がしやすい環境が生まれる。
 発行済みの株式にたいする評価は、一般に雰囲気によってなされるが、その期待が実現することはまずない、とケインズは断言する。
 だから、株には手をだすなという人もいるが、たいていの投資家はいまの状況がつづくとみて、遠い将来を思いわずらうようなことはしない。社会全体でみれば投資は必然的なものだが、個々の投資家にすれば、それは流動的なものとならざるをえない。
 ケインズは株式市場の危険性(不確実性)をいくつか挙げる。

(1)企業の経営内容をあまり知らない人が全体の株式発行に占める割合が多くなる場合
(2)利潤の短期変動が投資に過大な影響を与える場合
(3)ニュースや情報によって群集心理がはたらき、株価が大きく変動する場合
(4)専門的な投資家や投機家が株価を操作しがちなこと
(5)巨額資金や信用による株式投機が株式市場を不安定にし、時に惨憺たる反応を引き起こす場合

 ケインズは株式が美人投票のような仕組みで動いていることを指摘する。

〈専門投資家は100人の写真から最高の美女6人を選ぶといった、ありがちな新聞の懸賞になぞらえることができます。賞をもらえるのは、その投票した人全体の平均的な嗜好にいちばん近い人を選んだ人物です。したがってそれぞれの参加者は、自分がいちばん美人だと思う顔を選ぶのではなく、他の参加者たちがよいと思う見込みが高い顔を選ばなくてはならず、その他の参加者たちも、まったく同じ視点でその問題に取り組んでいるのです。〉

 株式市場は企業にたいする美人投票のようなものだ。
 ただし、問題がないわけではない。
 企業はその存続期間を通じて、資本の期待収益を予想するが、投機はあくまでも市場の心理を予想するのであって、その影響をばかにできないのはニューヨーク株式市場の動き(1929年の大恐慌)をみてもわかる、とケインズはいう。企業が投機の渦に巻きこまれ、藻屑となってしまうと事態は深刻である。
 一国の資本蓄積が賭博的活動の副産物になってしまうと、正常な資本蓄積がおこなわれなくなる、とケインズは忠告する。投資市場は必要だが、株式市場がカジノと化してしまうと公共の利益は守られなくなる。したがって、株式市場での取引には、しっかりとした監視と規制が必要だ、とケインズは考えている。
 投資が推進されるためには、投資市場の流動性が必要だ。それでも投資家は長期的な視野に立って、長期的な期待収益を選択すべきだというのが、ケインズの考え方である。

 ケインズは資本主義には、投機のほかに、人間の本性にもとづく不安定要因が内在していると指摘している。それがアニマルスピリット、すなわち山っ気だ。

〈人々の積極的な活動の相当部分は、道徳的だろうと快楽的だろうと経済的だろうと、数学的な期待よりは、自然に湧いてくる楽観論によるものなのです。たぶん、結果の全貌が何日もたたないとわからないようなことを積極的にやろうという人々の決断は、ほとんどがアニマルスピリットの結果でしかないのでしょう──これは手をこまねくより何かをしようという、自然に湧いてくる衝動です。〉

 こうしたアニマルスピリットが企業活動を支えていることも、ケインズは否定していない。いやむしろ、ケインズは計算の妥当性に加えて楽天的なアニマルスピリットが両輪となってこそ、企業は収益を得て社会的に便益をもたらすのだと考えていたといってよいだろう。
 景気の回復には、企業活動に望ましい(政治的)雰囲気の形成が必要だというのが、ケインズの立場である。
 将来を予想しうる知識にはかぎりがある。人の目はどうしても短期的な収益に向かいがちだが、長期の投資や公共事業は重要だ、とケインズはいう。
政府は長期的な視点から、投資の限界効率と社会的な利益を判断し、投資の方向づけにもっと積極的に関与しなければならない。
 ケインズはそう指摘したうえで、次に利子率の考察に焦点を移していく。
 これはまた次回ということにしよう。

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