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第一高等中学にはいったものの──美濃部達吉遠望(10) [美濃部達吉遠望]

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 1887年(明治20年)9月、14歳(数えの15歳)の美濃部達吉は意気揚々と東京にやってきた。めざすは帝国大学(1897年に東京帝国大学と改称)である。
 だが、すぐに帝国大学にはいれるわけではない。いくつかハードルがあった。帝国大学にはいるには、その前段階として大学予備門と呼ばれていた第一高等中学校[一中](1894年に第一高等学校[一高]と改称)に合格し、そこで優秀な成績を収めなければならなかった。
 その高等中学にはいるのも容易ではない。そのための予備校があった。そのころ知られていた予備校は共立学校、英語学校、成立学舎の3校で、達吉はとりあえず成立学舎にはいった。
 成立学舎にはいったのは、英語を学んだ神戸の乾行義塾とつながりがあったからだろう。神田駿河台の成立学舎も英語教育が基本になっていた。だが、すでに神戸の2年間で英語を身につけていた達吉にとって、その授業は物足りなかっただろう。
「一年たらずはそこにいたはずであるが、そこで何を教わったか、まったく忘れてしまって、その学校が駿河台にあって本郷の湯島の下宿からそこへ毎日通っていたということのほかには、少しも印象に残っておらぬ」と回想記に書いている。
 本郷湯島の下宿は3歳年上の兄、俊吉と同居で、その兄はすでに第一高等中学で学んでいた。
 達吉は成立学舎には長く通わず、早くも翌明治21年7月に第一高等中学の入学試験を受け、みごと合格する。その間は、上野図書館(のちの帝国図書館)でも勉強していたという。
 一中にはいった達吉は、9月から一ツ橋[現在の学士会館あたり]にあった寄宿舎に入舎することになった。二本白線の帽子をかぶると、誇らしい気分がこみあげてきた。
 ここまではトントン拍子。だが、その先には大きな挫折が待ち受けている。
 第一高等中学は予科3級本科2年の5年制だった。入学当初は予科3級で、2級、1級と進んでいく。それから本科1年、2年へとつづく。
 入学した1年目、すなわち予科3級生は全員寄宿舎にはいることを義務づけられていた。その寄宿舎は自治制ではなく、舎監が生徒の行動をことこまかに取り締まっていた。
 寄宿舎の部屋は一室10人ずつで、入学成績順に割り当てられた。達吉は21番だったから、三号室の第一席である。
 このときの入学試験の1番は神野勝之助(のち大蔵官僚)、2番は片山貞治郎(のち日銀理事)、一号室にはほかに瀧精一(のち美術史家)や島文治郎(のち京都帝大図書館長)がいた。隣の二号室には桑木厳翼(哲学者、東京帝大教授)、同じ三号室には原勝郎(歴史家、京都帝大教授)などがいたという。
 だが、達吉が「大学に入るまで」という回想記を記した1936年(昭和11年)には、高等中学時代の旧友はすでに多くが亡くなっていた。「いかにも寂しい感じがする」と書いている気持ちはよくわかる。
 それはともかく、自分を監督する兄の下宿から離れ、生意気盛りだったことも手伝って、達吉は一気に解放された気分になり、気ままに青春を謳歌するようになった。

〈学校の課程などはろくろく勉強もせず、よくある文学青年のように、小説や文学ものばかりを耽読(たんどく)していた。我楽多文庫(がらくたぶんこ)や、都の花、新小説、文学倶楽部(くらぶ)、新著百種、国民の友などが、そのころの愛読雑誌であったように覚えている。〉

 明治20年ごろというと、どんな小説がはやっていたのだろう。まだ鷗外や漱石の時代にはなっていない。
 小説ではないが、達吉も福沢諭吉の『西洋事情』や『学問のすすめ』、あるいは中江兆民の『三酔人経綸問答』くらいは読んでいたかもしれない。さすがに成島柳北の『柳橋新誌』や寺門静軒の『江戸繁昌記』は懐古趣味が強すぎただろう。
 このころにはまだ滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』なども読まれていたのではないか。だが、江戸の文学はしだいに霞のかなたに消え、坪内逍遙や尾崎紅葉、幸田露伴などの若手文学者が登場しはじめていた。
『我楽多文庫』を創刊したのは尾崎紅葉である。その代表作『金色夜叉(こんじきやしゃ)』はまだ登場していないが、この雑誌では紅葉をはじめとする「硯友社(けんゆうしゃ)」の面々が健筆をふるっていた。
『都の花』は硯友社を離脱した山田美妙を中心とする雑誌である。達吉が一中に入学した直後の1888年(明治21年)9月に金港堂から発行された。二葉亭四迷がツルゲーネフの翻訳を連載していたし、幸田露伴の作も載っていた。
 このころは雑誌創刊ブームだったといえる。伊藤整によると、1989年正月に創刊された春陽堂の『新小説』は旧派の文人の拠り所となったという。『文学倶楽部』はおそらく『文学世界』の記憶違いで、春陽堂から発行された小説叢書のシリーズ名である。吉岡書籍店発行の『新著百種』は月刊の百科叢書で、尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』もその一冊だった。
 民友社の『国民之友』は徳富猪一郎(蘇峰)が編集する評論雑誌で、多くの読者を獲得した。時事評論だけではなく、文学作品も掲載されている総合雑誌だったといってよい。当時医学生だった森林太郎(鷗外)は1889年(明治22年)8月、この雑誌に匿名で「於母影(おもかげ)」という訳詩集を発表した。
 高等中学にはいったころ、達吉はこれらの雑誌を耽読していたという。しかつめらしい授業よりも、小説の世界がはるかにおもしろかったという気持ちはよくわかる。

 達吉はおとなしいほうだが、寄宿舎生活では仲間といっしょに、ずいぶん乱暴な行動に出ることもあったようだ。
 1889年(明治22年)2月11日は、いわゆる紀元節で、この日、大日本帝国憲法が発布され、全国各地で祝賀行事がおこなわれた。
 第一高等中学校の生徒たちもこの行事に参加している。
 この日は明治天皇が閲兵のため青山原に行幸されるため、本校一千の健児が護国旗を擁して雪の積もった二重橋外に整列し、御料馬車を奉迎したさい、かしこくも陛下はこの護国旗に会釈された、と『第一高等学校六十年史』は記録する。
 しかし、達吉の記憶はすこしちがっている。

〈高等中学に入学した翌年の紀元節が憲法発布式の当日で、この日は学校からも花車か何かを出して、生徒一同で雪の市中を練り回したが、夜になって寄宿舎に帰った連中は、一日中の興奮(こうふん)がまださめず、かねて舎監の圧制に憤慨していた血気の若者たちは、舎監を殴り倒そうとする騒ぎがおこった。幸いにして舎監がどこかに匿(かく)れてしまって、いくら探しても見当たらなかったので、そのうちに興奮もさめて何ごともなくすんだが、もし出遭(であ)ったならば、かなりの騒ぎがおこったことと思う。〉

 幸い、舎監殴打事件は発生せず、未遂のまま終わった。もし騒ぎがおこっていたら、まわりにいた達吉もただではすまなかったはずである。
 すでに自由民権運動は終息していたものの、学生のあいだには自由の気風が横溢していたことが、この記述からも推察できる。
 そして、さらに事件はおこる。
食堂突撃事件である。これによって、達吉は3週間の禁足処分をくらった。
 その内容はまた次回。

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U3

若気の至りは私にもあります。

今年一年お世話になりました。少し早いですが来年のご挨拶です。
だいだらぼっちさんにとって、来年も良い一年でありますように。

by U3 (2021-12-26 18:54) 

だいだらぼっち

U3さん。いつもお読みいただき、ありがとうございます。来年もますますご活躍されることを祈っております。
by だいだらぼっち (2021-12-27 06:09) 

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