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辺見庸『1★9★3★7』を読む(まとめ) [本]


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 いまは尋常ではない。戦争と暴力が生起している時代だ。世界は終わりなき炉心溶融のように、自己崩壊しつつあるのではないか、と著者はいう。
 世界の終わりを、意味が意味を失った「意味後世界」と名づけるならば、だれもいままで見たことのない「意味後世界」がはじまろうとしている、とも。
 日々平安と思っているうちに、例外的な事態はどんどん進行し、異様が異様と感じられなくなる。個としての人はその流れに巻きこまれ、つぶされ、いつのまにか消えていく。
「なにかとてつもない内的力にかられて」、著者は、本書を書いたという。なにか恐るべきことが、わが身に迫っているという予感が、「内的力」となって、噴きあがった。
 忘れてしまいたい歴史は、すでに墓のなかに隠されている。いまさら、その墓をあばくことには、ためらいもあったという。しかし、一度それをさらけだしてみたいという思いも、ずっと前からわだかまっていた。
「いまといまの行く末を知る」ためにも、記憶の墓をあばかねばならない。何度も逡巡した末に、著者はそう決意する。
 その結果、できあがったのが、本書『1★9★3★7』である。
 しかし、なぜ1★9★3★7、つまり1937年なのだろうか。
 1937年は、日中戦争がはじまった年、著者によれば、イクミナ、征くみな、の年だ。
 その年、「父祖たちはおびただしい数のひとびとを、じつにさまざまなやり方で殺し、強姦し、略奪し、てっていてきに侮辱した」と、著者は書いている。
 日本人はやさしい民族だとされ、そのことを自負してもいる。それがなぜ中国では、あのようなおぞましい蛮行に走ったのだろうか。
 同一人物のなかで、慈愛と獣性は共存しうるなどと、気取った言い方をしたところで、なにも意味をなさない、と著者はいう。それよりも、あのとき、あの場所に自分をおいてみること、そして「おい、おまえ、じぶんならばぜったいにやらなかったと言いきれるか」と問うてみること。
 それは過去にのみ向けられた問いにとどまらず、未来につながる問いとなるはずである。
 都合の悪いことは不問に付すというのが、この国の伝統だった、と著者はいう。1937年の風景もまた、日本人が忘れたがっている記憶のひとつといえるだろう。
 いま日本では、南京大虐殺は、忘れられるどころか、そんなものはなかったとされるような勢いだ。最近は、大虐殺の責任は中国にあるという開き直った主張さえ見かけるようになった。
 論議されるのは、もっぱら犠牲者の数だ。中国側が30万人と主張するのにたいし、日本では4万〜6万人という数字をあげる研究者が増え、犠牲者の数は日中双方で大きく食いちがっている。
 そんなさなか、ことしになって、ユネスコが南京大虐殺を世界記憶遺産に登録したことに、日本政府は強く反発した。
 しかし、中国が南京大虐殺を政治利用していると非難するだけでは、事は収まらない。1937年に南京で日本軍が中国人を大量に殺害したことはまちがいないからだ。現在、その犠牲者数を確定するのは、ほぼ不可能になっている。
 とはいえ、たとえば、1937年12月17日から18日にかけ、日本軍が南京で一万余人の捕虜を大量射殺したという、元日本陸軍伍長の信頼できる証言が残されている。その死体の山は、高さ3、4メートルになったという。
 ほかにも虐殺に関する多くの証言がある。
 軍司令部からは、「捕虜は全員すみやかに処置すべし」との命令が出されていた。殺戮に疑問をもつ兵はいなかった。
 著者は共同通信の北京特派員時代に、堀田善衛の『時間』(1955年刊)という小説を読んだ。
 この小説の主人公は中国人の知識人、陳英諦で、かれは南京に侵攻した皇軍(日本軍)によって、妻子を殺され、自分も殺されそうになる。その主人公の目に、日本人の行動がどのように映ったかが、この小説のテーマである。
 小説のなかには「積屍(せきし)」ということばが、何度かでてくる。積み重なったしかばね。南京では、実際に、そうした光景があちこちでみられただろう。
 1937年7月7日に北京郊外で盧溝橋事件が発生した。その翌月、近衛内閣は「国民精神総動員実施要項」を閣議決定、「挙国一致」の精神によって、国家総力戦に突入せよとの号令を発した。国民は、「皇運」に、こぞって寄与するよう求められた。
 国民を総動員するには、マスコミの役割が欠かせなかった。1937年10月にNHKは「国民唱歌」の放送を開始し、その第1回に「海ゆかば」を流した。
「なにかただごとでない空気の重いうねりと震えがこの歌にはある」と、著者は書いている。「海ゆかば」とは、「大君のための死を美化して、それにひとをみちびいてゆく、あらかじめの『弔歌』」にほかならなかった。
「海ゆかば」の遺体と、虐殺による「積屍」は同じ遺体のはずである。それなのに、いっぽうは大君(おおきみ)の名のもとで美化され、もういっぽうは人間としてすら扱われないのはどうしてか、と著者は問う。

   2

 1937年7月7日に発生した盧溝橋事件をきっかけとして、日中間で全面戦争が勃発し、日本軍は12月に国民党の首都、南京を占領するにいたった。
 そのころ、日本の世相は戦争でわきたっていた。マスコミも戦争をあおりたてた。日本の各地では、さまざまなイベントやスポーツ大会が開かれ、百貨店や劇場もにぎわっていた。
 この年、金子光晴は戦争を賛美する詩を書いた。いっぽう永井荷風は『断腸亭日乗』に、いたってのんきな日々のできごとをつづっていた。
 日本軍は12月10日に南京への総攻撃を開始。13日に南京は陥落した。
 戦時中、中国では「殺・掠・姦」が日本軍の代名詞となっていた。
 規律ただしい日本人が、むやみやたらに人を殺したり、金品を掠奪したり、女性を強姦したりするはずがない、と人は思うかもしれない。
 もちろん、軍隊でも建前上、そんな行為は禁じられている。しかし、中国大陸に侵攻した日本軍は、そうした行為を黙認され、多くの兵がそうした行為を平気で、というより勇猛果敢におこなっていた。
 たとえば、小説家の富士正晴は、実体験をもとに、中国では帝国軍が「神兵」でも何でもなく、「強盗で人殺しで火つけで強姦ばかりして」いたと証言している。
 1937年に中国戦線に送られた武田泰淳は、南京大虐殺にはかかわらなかったが、中国各地で大小の虐殺事件があったことを認め、みずからかかわったできごとを「審判」や「汝の母を!」などの小説に書き残した。
「審判」は徐州会戦(1938年)のころ、ある町はずれで、分隊長の気まぐれな命令により、日本軍の兵士が、ふたりの農民を背後から一斉射撃で殺すという話である。じつは、それは実際のできごとで、作家自身、発砲した日本兵のひとりだった。そのことが、かれの保管した「従軍手帖」に書き残されている。
 小説のなかで、主人公は「罰のない罪なら人間は平気で犯すものです」と告白している。そのとき、泰淳が罪を感じなかったはずはない。その罪をいだいたまま、作家は戦後を生きることになる。
「汝の母を!」は、さらにむごい小説である。密偵の容疑で逮捕された母と息子が、性交すれば助けてやるといわれて、日本軍兵士が見守るなか、性交を実演させられ、あげくの果て、放火犯として焼き殺される。
 ふたりを囲んでいた兵士のうち、「強姦好き」の上等兵が、母子を「ツオ・リ・マア」とののしる。
 ツオ・リ・マアとは、直訳すれば「汝の母を犯してやる」、たぶん「ちくしょう」「ばかやろう」といった意味合いの俗語である。
 無知な上等兵は、その罵詈(ばり)を誤用していた。ほんとうは「ちくしょう」「ばかやろう」と言われなければならないのは皇軍の側だった。
 しかし、泰淳は小説のなかで、安易に日本軍を糾弾する道を選ばない。それよりも、殺される母の内心の声を創造し、母の独白を記録する。
「すべてが敵の悪、戦争の悪のせいだと言い切れるのだったら、どんなにいいことだろう」
 これは日本軍の悪を無化するために発されたことばではない。
 泰淳は、そのことばによって、侮辱された母を、いわばキリストと一体化した聖母マリアのような存在へと昇華させようとしたのではないだろうか。
 作家はみずからの罪を含む罪がどこかで赦され、みずからを含む人が救済されることを願わないではいられない。
 しかし、どのようなものであれ、いったんなされた悪が、赦されるわけはない。それは徹底してあぶりだされねばならなかった。
 皇軍の非道ぶりは、はたして例外だったのだろうか。日本の軍隊においては、天皇の命を受けた上官の絶対命令にしたがって、敵を抹殺することが求められていた。
 敵は、中心から周縁にまで、いくらでも広がっていく。
 事実、南京で、皇軍は国民党軍にかぎらず、憎き「敵」、すなわち敗残兵や周囲の難民、おびただしい捕虜を、命令にしたがって、ところかまわず殺戮した。あちこちで強姦事件も発生しただろう。
 その暴虐を加速したのは、単に戦争では片づけられない、近代の日本人にしみついていた心的動因だったのではないだろうか。つまり、朝鮮人や中国人、アジア人にたいする侮蔑意識である。
 近代の日本人は、西洋人にたいする劣等意識を、アジア人にたいする侮蔑意識で代償しようとしていたかのようにみえる。悲しいことに、その傾向は現在にいたるまで引き継がれている。
『1★9★3★7』は、単にすぎさった過去の歴史をえがいた本ではない。本書を読むと、1937年からいままで本質的にはちっとも変わっていない日本人の姿が、闇の奥から浮かびあがってくるような気がする。

   3

 1937年末から38年1月にかけ、芥川賞作家の石川達三は、中国の戦場を見て回り、帰国後すぐ、『中央公論』に『生きている兵隊』というルポを発表した。しかし、雑誌はすぐ発禁処分をくらう。
『生きている兵隊』は、日本軍の伍長が、放火の疑いのある中国人青年の首を刎ねる場面からはじまる。作品には、兵たちが「生肉の徴発」と称して、若い女をあさりにいくところもえがかれている。
 中国戦線では、捕虜や邪魔者を殺戮するのが日常茶飯事となっていた。
 このルポには、そんな日本軍の残虐ぶりが、次から次へととらえられている。たぶん、それが発禁になった理由だろう。
 しかし、この作品を読みながら、著者は「嫌悪」を覚えたという。
「作家[石川達三]もまた侵略戦争の『いきほひ』に呑まれ、悪鬼の饗宴に魅入られていたのではないか」
 殺戮は軍のあたりまえの行動として、好奇の目にさらされた。
 そうした嫌悪は、映画監督、小津安二郎の軍隊経験にも向けられる。小津は1937年に応召し、中国各地を転戦し、2年後の夏、日本に戻ってくる。
 戦場でも、ずっと映画のことを考えており、「撮影に就ての《ノオト》」を残していた。
 その一プロット。中国の老婆が兵営にあらわれ、自分の娘が日本兵に強姦されたと、部隊長に抗議する。部隊長はいちおう兵隊の一人ひとりに問いただし、そんな事実はないと答える。そして、老婆がうなずいた瞬間、抜き打ちに老婆を斬り捨てるというものである。
 田中眞澄著『小津安二郎と戦争』は、これはフィクションではなく、小津が実際の見聞を書きとめたのだろう、としている。
 この劇的なプロットは、実際に映画で使われることはなかった。
 小津は何のためにこうしたプロットを書きとめたのだろう。反戦映画をつくろうとしたとは思えない。むしろ、とても酷薄な眼を感じる。
 小津にかぎらず、日本人に共通するそうした酷薄さは、子ども時代からすりこまれたものではなかったか、というのが著者の仮説である。
 たとえば、童謡にも歌われる「桃太郎」。それは、家来を引きつれて、無邪気に鬼退治をし、鬼ヶ島から金銀財宝を持ち帰る物語である。
 もし、そうした物語が「正義」として、心のなかにすりこまれていたとすれば、あらゆる戦争は正義の戦争として意識されることになる。まして相手は、たちの悪い鬼であり、それをどれほど残虐に退治しても、観念上は痛痒を覚えるどころか、痛快ということになるだろう。
 著者は、小津の映画が「危うい静謐と癇性(かんしょう)」のうえに成り立っていると論じている。そして、観客にとっては、過去の生々しいできごとを、擬似的静謐(と緊張)のなかで忘れさせてくれることが、小津映画の魅力だったのではないかと疑う。
 小津の映画には、不問にふすという黙契があっても、問うという姿勢がない、と著者はいう。
 たとえば、だれもが中国で日本軍が何をしていたかを知っていたはずである。それを知るべきでないこと、知らずにすませるべきものとしてきたのが、この国の美学だった。
 中国で、日本軍がしてきたことのひとつに「シトツ」がある。著者によれば「シトツとは『刺突』、すなわち、銃剣で人体を突き刺すこと」で、「中国軍の捕虜や民間人を立ち木や柱にしばりつけて、新兵がじゅんばんに銃剣で突き刺す『訓練』をさした」。
 こうした残忍な処刑訓練は、広くおこなわれていた。実際に、多くの証言が残されている。それは中国兵、あるいは人間全般を一個の物体として処理できるようにするための訓練だった。
 兵たちは、こうした訓練を終えることによって、人を殺す「達成感」と「喜び」を覚えるようになっていく。
 小津安二郎自身も「こうした支那兵を見ていると、少しも人間と思えなくなってくる。……ただ、小癪に反抗する敵──いや、物位に見え、いくら射撃しても、平気になる」と語っている。
 そして、あまりにも多い強姦の証言。著者は、強姦をしながら楽しげに「戦友」に手をふる男たちの姿、あるいは強姦を目のはしにいれながらも、みえないふりをして、黙々と大地をたがやす老いた中国の農夫たちの姿を、想起し、記憶する。
「敗戦後のニッポンは朝野あげて記憶の無記憶化にはげんだ」と、著者はいう。
 しかし、その忘却しようとした記憶が、時に影のようによみがえることがある。著者は南洋戦線から手脚を失って帰還した親戚の姿に震撼し、街のあちこちに傷痍軍人がいた光景を思いうかべる。酔った父親が「朝鮮人はダメだ。あいつらは手でぶんなぐってもダメだ。スリッパで殴らないとダメなんだ」とひとりごちたことも思いだす。
『もの食う人びと』が「紀行文学大賞」を受賞したとき、選考委員のひとりだった阿川弘之から、元慰安婦との交流をえがいたくだりについて、「きみ、あれ恥ずかしくないのかね?」といわれたこともあった。
 阿川弘之の罵詈は、著者が「けがらわしい」元慰安婦の証言を、忘却すべき記憶のなかから、ふたたび引きだしたことに向けられていた。
 そのとき、著者は言い返せなかった。「迫力負け」していた、と認めている。
 しかし、あのときはこうすべきだった、と書いている。

〈わたしは間髪入れず(いささか古風だけれど)「黙れ、ファシスト! 恥を知れ!」「化石しろ、醜い骸骨!」とでも大声で叫び、衆人環視下で、かれの顔にビールをぶっかけ、たしか手わたしでもらった賞金百万円と副賞リストの入ったのし袋を床にたたきつけて、いまいちど「化石しろ、醜い骸骨!」とわめき、ウワーハッハッハッと黄金バットのように高笑いしつつ、憤然と退場すべきだったのだ〉

 いまなら、きっとそうしたにちがいない。

   4

 著者は歴史が「いままさに暗転しつつある」と感じている。
 だとすれば、どこかいまと似ているあの時代を、当時、「かれら」はどう感じていたのだろうか。
 ここでいう「かれら」とは、評論家の小林秀雄であり、哲学者の梯明秀であり、小説家の小林多喜二であり、政治学者の丸山眞男のことである。
 大学生のころ、「歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている」と記す小林秀雄にしびれていた著者は、いまでは小林に「はめられた」と思うようになった。
 小林秀雄は1937年11月号の『改造』に「戦争について」というエッセイを発表し、「日本の国に生を享けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない」と書いた。
 これは国の運命にみずからの命をゆだねよという無思想にほかならない。著者は小林秀雄の文章には「あらがいがたい浸透圧のような『力』」があると感じる。
 日中戦争のはじまる前から、いわゆる特高警察が国民の思想統制に乗りだしていた。日本ではナチス・ドイツのような強制収容所はつくられなかった。その代わり、思想犯として拘束された者には、拷問をともないつつ、「転向」が強要された。
 小林秀雄の思想は、いわば日本人の模範だった。日本という運命共同体のなかで、「無私」の精神によって国のために生きていくのが、日本人なのだというのだから。戦争への批判は、のっけから封じられていた。
 著者は、哲学者、梯明秀の「偽装転向」についても述べている。
 1938年に梯は特高によって逮捕され、「転向声明書」を記して、釈放される。 その声明書には、日本民族の中心である天皇にたいする「不忠不義に恐懼して、私は、ただ心を貧うし己を空うして、陛下の命を謹んで御待ちする境地にあります」と書かれていたという。
 梯は、これをあくまでも方便として書いたつもりだった。しかし、転向声明をだすのは、天皇をいただく国家の方針に逆らわないと誓うことにほかならなかった。それは身体の自由(行動の自由ではない)を奪われない代わりに、自主的な発言を控えるという悪魔の取引なのだった。
 こうした転向書の提出を拒否したときは、どのような運命が襲っただろう。それが、プロレタリア作家、小林多喜二の場合だった。1933年2月22日、小林多喜二は特高につかまり、築地署で拷問を受け、その日のうちに殺された。
 この年には丸山眞男も逮捕され、一時拘留されている。丸山はマルクス主義者ではない。たまたま本郷で開かれていた唯物論研究会の講演会を聞きにいって、特高に拘束されたのだ。丸山はすぐに釈放される。
 戦後、丸山は天皇の戦争責任を追及し、その退位を求めた。しかし、その威勢のいい発言と裏腹に、かれがどこまで本気で天皇制の廃止を求めていたのか、と著者は疑っている。
 丸山眞男は1946年に発表したエッセイ「超国家主義の論理と心理」のなかで、「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか」と書いていた。
 ここには、知識人や市民が、ほとんど抵抗することなく、ずるずると時の流れに流され、その結果、敗戦を迎えたことにたいする痛恨のようなものがあふれている。
 著者は丸山の問いを念頭におきながら、自分の父が戦後になって残した、戦争体験の手記を読みかえしてみた。そして、3年余の軍隊生活で中国の戦場を経験した父親が、すべて「受動態」で身を処していたことに気づいた。
 手記には、放火犯の中国人を隊員が拷問するのをやめさせたという記述もあった。しかし、著者は、そこに拷問を命じた責任者が明記されていなかったことに違和感を覚える。
「拷問の責任は、形式的にもじっしつ的にも、分遣隊の隊長だった父にあったはずである」と言い切るのは、つらいことだったろう。
 しかし、そう書いたときに、著者は1975年10月31日の記者会見で、記者から戦争責任について聞かれた昭和天皇が、こう答えたことを思いだす。
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」
 記者の質問は、みごとにすかされた、と著者は書いている。
 あぜんとするほどの空っとぼけ。そして、それに怒りもしないメディアと国民。

〈“菊の禁忌”は戦後70年のいまもいっこうに解除も減圧もされてはいない。それは外圧というよりむしろ内圧として加速されている〉

 著者はそう感じる。
 著者の父は、江蘇省の常熟で敗戦を知り、蘇州で武装解除された。
 捕虜収容所内の雰囲気はわりあいおおらかで、大演芸会なども催され、中国側から寛大な扱いを受けたという。
 その場で多くの捕虜を殺害した皇軍とは大違いだった。
 いまはどんな時代か、と著者は問ういている。
 何も終わっていないし、何も変わっていないのではないか。人間社会の原型は「戦争体」なのではないか。この先には滅亡しかないのではないか。
 戦争とは、国家の名のもとで、それぞれわけをもっている人を殺すことだ、と著者は考えている。
 堀田善衛は南京大虐殺をえがいた小説、『時間』のなかで「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ」と記した。
 そして、著者もまた、大量虐殺によって、「ひとりびとり」が、細かな記憶ごと抹殺されたことに、いきどおりをいだく。
 1937年12月17日、南京では、すでに何万人もが殺戮され、さらに多くの捕虜が虐殺されようとしているなかで、皇軍の入城式が挙行された。
 入城式では、君が代が演奏され、日の丸が掲揚され、大元帥陛下の万歳が三唱された。
 戦争オルガスムスへのあこがれは、いまも残っているのではないか、と著者は疑う。そのあらわれのひとつが、集団的自衛権の行使を認めた近ごろの安保法制である。
 われわれがいまも「口実をさがすためにしか歴史を学ばない」権力者をいだいているのは、戦争責任を問わないことによって成立した戦後のエセ民主主義のなせる必然だった。
 日本人は戦争の加害者ではなく、戦争の「被害者」だと思っている(思いこまされている)のではないか、とも著者はいう。
 加害の記憶は継承されにくいものなのである。
 何となくずるずると進んで、気がついたら取り返しのつかない事態になっていたというのではない、とも述べている。そうではなくて、「わたし(たち)がずるずるとこんにちを『つくった』というべきではないのか」。
「つごうのわるい時間はかつてよりぶあつく塗りつぶされたままである」と著者は書いている。
 都合の悪い時間を忘却したままでいると、どうなるだろう。そこに生じるのは過去のぶり返しにほかならない。
 ふたたび、戦争がはじまろうとしている。

〈過去の跫音(あしおと)に耳をすまさなければならない。あの忍び足に耳をすませ! げんざいが過去においぬかれ、未来に過去がやってくるかもしれない。〉

『1★9★3★7』は、そんな予言で終わっている。



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小林哲夫

辺見庸氏の著作「1★9★3★7」

今般、辺見庸氏の著作「1★9★3★7」を読んで、その批評を探してこのページを知って同感することが多かったので、私の感想を聞いてもらいたいと思いました。

辺見氏が最も言いたかったことは「おい、おまえ、じぶんならばぜったいにやらなかったと言いきれるか」と問うてみることにある、というひと言に集約できる、と思います。
その質問を問い続けて、この厚い一冊になった、とその執念に敬意の気持を持ちました。

しかしながらこの自分に対する問題提起に対して、著者はこの本でどのような答えを出したのか?がはっきりしていません。問題提起だけに終わった書のように思われました。
それだけでも大した精神力だとは認めますが、やはり問いに対しては答えが無ければ、不完全だと思います。

そこで私として、著者の答えを想像して見ますと、「じぶんならば絶対にやらなかった、とは言い切れない」となると、推定しました。

しかし私の感想としては、この答えでは曖昧で、不十分だという感想を持ちました。

私の答えとしては「自分もやったに違いない」というものです。

人間と言うものと、自分と言うものを、このように考えるのが正しい見方だと考えます。

「自分ならやらなかった可能性がある」と想像するのは自分に対して甘すぎる見方だと思うのですが、如何でしょうか?


by 小林哲夫 (2016-05-17 18:21) 

だいだらぼっち

ぼくも戦後世代なので、実際の戦争を知りません。あのころはどうだったのかと想像するしかないのです。
大岡昇平さんはフィリピンの戦場に送られるときに、絶対人を撃たないと誓い、実際、戦場で人に銃を向けることはありませんでした。
富士正晴さんは、中国の戦場に送られるときに、ぜったい強姦はしないと誓い、それを守りました。
武田泰淳さんは、やむなく戦場で中国人を殺害しました。しかし、かれはそうした自分をしっかりみつめたのでした。
ぼくにいえることは、やはり自分なりの規律と決意が必要だということです。大岡さんはいざという場合、自分は銃を撃たないで死ぬと決意していたそうです。
それでも、やむをえない状況に追いこまれていく可能性はやはり否定できないでしょう。
戦争は悲惨です。
いま必要なのは、戦争をやめることですが、戦争はやはり近づいているような気がします。
by だいだらぼっち (2016-05-19 07:45) 

小林哲夫

だいだらぼっちさん

返信をありがとうございます。
大岡氏、富士氏のことは、そこまでとは知らなかったので、教えていただいて、感謝します。
しかしこれを教えていただいた意味は、「辺見氏も同じように加害者にならない可能性もあった」と言いたいということでしょうか?
前信は、読んでいただけるか?自信が無かったので、説明不足がありましたので、この件について、もう少しお話したいのですが、御迷惑でしょうか?

まずは著者の結論を「じぶんならば絶対にやらなかった、とは言い切れない」となると、私が推定したことは、著書の正しい読み方だったか?自信が無いのですが、如何お考えか教えていただけたら、とお願いしたいのですが・・・・。

私は日中不戦運動を今必要だ、と考えていて、そのことを考えるために、是非知りたいことなのです。
よろしくお願いいたします。

by 小林哲夫 (2016-05-20 10:39) 

だいだらぼっち

辺見さんは、おそらく武田泰淳の場所に自分の身を置いています。日中戦争を客観的にルポしようとした石川達三には同感していません。
ですから、あえていうなら「じぶんならば絶対にやらなかった、とは言い切れない」ということでしょう。しかし、それよりもだいじなのは、辺見さんが武田泰淳の十字架を自分も引き継いだことなのではないでしょうか。中国共産党は支持しませんが、日中不戦の誓い、ぼくもだいじだと思います。
by だいだらぼっち (2016-05-21 06:50) 

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