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『万物の黎明』を読む(6) [商品世界ファイル]

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 新石器時代がはじまったのは紀元前8000年ごろです。そのころから農耕の兆しがみられました。ほとんどの学者は、人類が農耕をはじめたのは、人口増加に対応するためだったと考えています。はたしてそうだったのか、と著者たちは問います。
 トルコのコンヤ平原にはチャタルホユックという遺跡があります。紀元前7400年ごろ人が住みはじめ、その後、約1500年にわたって人が住みつづけた場所です。広さは13ヘクタールあり、人口は5000人、村というよりほとんど町で、そこには同じような家が密集していました。
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 家々の多くの部屋に鮮やかな壁画が残されていることで知られます。集落の住民は農耕をおこなっており、穀物やマメ類を栽培し、ヒツジやヤギを飼っていたとされます。豊満な女性の土偶が数多くみつかっていることから、ここには原始的母権制(家母長制)が存在したのではないかという推測もなされました。
 ところが、こうした説は最近くつがえされつつある、と著者たちはいいます。
 ここに残されていた多くの女性の像は、信仰対象となる女神ではなく、むしろ女家長の姿をあらわしたものでした。とはいえ、女性のほうが男性より生活水準が高かったという証拠はありません。男性をかたどった像はありません。しかし、壁画は、イノシシやシカ、クマ、雄牛などを追う男や少年の姿がえがかれています。
 チャタルホユックには中央の権威を示す建物らしきものはなく、身分制が敷かれていた形跡もありません。しかし、日常のきまりごとのようなものが守られ、古くなった家屋は解体され、また同じような家屋がつくられていたようです。
 著者たちによれば、注目すべきは農耕がさほど重視されていなかったことだ、といいます。もちろん、栄養面では栽培植物(小麦や大麦)や家畜(ツジやヤギ)が重要でしたが、共同体の生活は狩猟と採集が中心でした。
 チャタルホユックは、冬は寒くて湿気が多く、夏は耐え難いほど暑い場所でした。春から秋にかけ、ヒツジやヤギは平原の牧草地を移動し、ときに高地に移動しました。チャヤルシャンバ川が季節ごとに氾濫し、そこに生まれた湿地帯に穀物がまかれていたと思われます。こうした作業がくり返されるためには、何らかの儀式や分業、さらには身分制が必要だったろう、と著者たちはいいます。
 ウシは紀元前8000年くらいから家畜化されていましたが、チャタルホユックではまだ狩猟の対象でした。
 ウシが家畜化されていたのはティグリス川、ユーフラテス川の上流地域です。
 パレスチナ、イスラエル、シリアあたりから、ティグリス、ユーフラテス川上流にかけての一帯は「肥沃な三日月地帯」と呼ばれ、砂漠と山々に囲まれた農耕地が広がっています。これは19世紀になって作られた特別の意味をもつ呼称です。
 しかし、厳密にわければ、この地域は高地(シリアからトルコにかけて)と低地(ヨルダン渓谷やユーフラテス川)にわかれており、そこには紀元前1万年から8000年にかけ、まったく異なる狩猟採集社会が形成されていました。
 高地の狩猟採集民はギョベクリ・テペなどの遺跡にみられるように、ヒエラルキーのなかでくらしたと考えられます。これにたいし低地では巨石建造物はなく、異質な文化が形成されています。高地と低地のあいだでは財の取引がおこなわれています。高地からは黒曜石や鉱物が南下し、遠く紅海沿岸からは貝殻が北上しています。
 そして、新石器時代にはいると、ヨルダン渓谷からシリアのユーフラテス川上流にかけての、いわゆる「レヴァント回廊」に沿った一帯で、穀物の栽培がはじまります。
 植物は栽培化され、農作物となることによって、野生での繁殖を可能としている機能を消失するといいます。自然に種子が散布される仕組みが失われ、人の手を借りなければ、繁殖できなくなるのです。
 歴史学者のユヴァル・ハラリは、人間がコムギを栽培化したのと同じく、コムギが人間を家畜化したのだというような言い方をしています。コムギの側から農耕の起源をみる逆転の発想ですが、これはひとつの寓話にすぎないのではないか、と著者たちは疑います。
 最終氷期の終了以降、新石器時代に栽培化されたのが、さまざまなマメ類のほか、コムギとオオムギでした。肥沃な三日月地帯のさまざまな場所がその舞台です。
 最初は野生の穀物です。それらは収穫され食べられるとともに、残った藁(わら)は家屋の素材や燃料、さらにはかごや衣類、敷物などとして利用されました。しかし、すぐに栽培化されたわけではありません。肥沃な三日月地帯でも、コムギが栽培化されるまで3000年かかっているといいます。シリア北部などで栽培化が完成するのは、ようやく紀元前7000年近くになってからです。
 なぜ、これほど長くかかったのでしょうか。農耕革命というには3000年という期間は長すぎます。「その段階を特徴づけるのは、栽培に手を染めてはやめ、やめては手を染める狩猟採集民の存在である」と、著者たちは記します。
 栽培穀物の耕作はとても骨の折れる作業です。まともに農耕をおこなうには、土壌を保全し、雑草を取り除かねばなりません。さらに収穫後には脱穀や唐箕の作業が待っています。そうした作業は狩猟採集民にとって、それまでの日常生活の妨げになったにちがいありません。
 そのため、最初の栽培は、季節ごとに氾濫する湖や川のほとりでおこなわれたと推測されます。水が引くと、肥沃な沖積土の川床が残り、そこに種子をまくことができました。これならば、かなり楽に農耕ができます。
 肥沃な三日月地帯にはそうした場所が数多くあったのです。人びとは高地から穀物を集めて、低地の氾濫エリアにまき、栽培をはじめました。そして、そのあたりに住みながら、狩猟や採集、交易などもおこなっていたのです。
 コムギが人間を家畜化したという寓話は、禁断の果実を口にしたために楽園を追放された、アダムとイブの話に似ている、と著者たちはいいます。この聖書の物語では、誘惑に屈するのは女性です。しかし、じっさいに大きな役割をはたしていたのは女性です。野生の植物を収穫し、それを食料や薬、衣服、顔料、香辛料、かご、敷物、ひもなどに変えるうえで、女性たちの役割は欠かせませんでした。
 著者たちは土の発見にも注目しています。肥沃な氾濫原はコムギやオオムギの収穫をもたらしました。さらに、土や粘土は藁などと混ぜられて、建築の資材となっていきます。火と結びついて土器や土偶がつくられました。女性の小像が数多くつくられています。
 前に述べたように、肥沃な三日月地帯には低地と高地がありました。そのどちらにも、多くの定住集団がいましたが、低地と高地では生活スタイルにかなりのちがいがあったことがわかっています。
 トルコとシリアの境にあるギョベクリ・テペは丘に立てられた遺跡で、そこには大きな石の柱が残されています。紀元前8000年ころの新石器時代の遺跡と推定されています。その柱には、ライオンやイノシシ、猛禽類、それに首をとられた男の像などが刻まれています。
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 この地域には、ほかにも先史時代の大規模な定住地の遺跡が残っています。「髑髏(どくろ)の家」と呼ばれる遺跡の建物には、首なし遺体や髑髏を含め、450人以上の遺骨が詰めこまれていました。建物の外側には野牛の頭骨が据えられていました。祭壇もあったようです。
 こうしたことをみても、高地にはヒエラルキーと暴力の傾向が強かったことがわかります。何も農業がはじまったから、暴力がはじまったわけではないのです。
 最後に著者たちは「農耕革命」の神話をくつがえします。

〈「農耕革命」の発祥の地と長いあいだ目されてきた中東の肥沃な三日月地帯では、旧石器時代の狩猟採集民から新石器時代の農耕民への「転換」など、実際には起きていないのだ。主に野生資源を利用した生活から、食料生産を中心とした生活への移行には、3000年ほどの時間を要している。また、農耕は富の不平等な集中の可能性はもたらした。だが、ほとんどの場合、そうした富の不平等な集中が生まれはじめたのは、農耕のはじまりから数千年後のことなのだ。そのかんの長期にわたり、人びとは農耕を実地に試していた。〉

「農耕(農業)革命」などなかったという指摘は重要です。それでは農業のはじまりが、暴力と政治的支配をもたらしたとされるのはなぜか。次に問われるのは、そのことです。

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『万物の黎明』を読む(5) [商品世界ファイル]

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 農耕のはじまる前から、狩猟採集民は多くの場所に定住型の村落を築き、さまざまなモニュメントをつくっていました。
 アメリカの先住民のあいだでは、農耕はむしろ拒絶されます。ドングリや松の実をとったり、水産物を主食とするほうが効率的だったからです。とはいえ、地域によっては、トウモロコシやマメ類、カボチャ、スイカなどが栽培されることもあったようです。
 中石器時代以降、人類は文化によって細分化され、分岐していった、と著者たちはいいます。独自の特徴をもつ言語とともに、固有の伝統や慣習が形成されていきました。
 ここで取りあげられるのは、北アメリカ西海岸に居住していた非農耕民の集団についてです。その集団はそれぞれ文化的特性をもっていました。似たような特性をもつ集団は、ひとつの文化圏を形成しています。これらの文化圏は借用と拒絶の組み合わせによって、ひとつの個性を形成している、と人類学者のモースはとらえます。
 モースによる文化圏の規定にしたがえば、北アメリカ西海岸の先住民は、カリフォルニアと北西海岸(米オレゴン州からカナダ西海岸にかけて)で異なる文化圏を形成しています。19世紀以前まで、ふたつの地域では先住の狩猟採集民が、多くの人口を保ちながら、高度な生活を営んでいました。
 北西海岸の文化圏は川や海の漁業に依存しています。この地域は、海洋哺乳類や陸生植物、狩猟資源も豊富でした。先住民は冬は村落に集まって複雑な儀式をおこない、春と夏はちいさな集団に分散していきます。モミやトウヒ、セコイアなどの針葉樹を材料として、仮面や容器、家屋、カヌー、トーテムポールなどもつくっていました。
 いっぽう、カリフォルニアの文化圏は、地中海性気候で、山や砂漠、海岸線をもち、多種多様の動植物に恵まれています。釣りや狩りもおこなわれましたが、主食は木の実やドングリでした。北西海岸とちがい、家屋はきわめてシンプルで、装飾にあふれた工芸品もなく、目立つのは籠くらいのものでした。大市での部族間の交易は活発でした。
 北西海岸には「戦士貴族」がいて奴隷も多かったのにたいし、カリフォルニアに奴隷はいませんでした。
 シェルビーズや貝殻でつくられた「ワンパム」を入植者たちは「インディアン・マネー」と呼びましたが、これは貨幣とは少し異なる、と著者たちはいいます。
 ワンパムが売買に使用されることはほとんどありませんでした。むしろ、それは罰金を払ったり、契約や合意をするために用いられました。ただし、北カリフォルニア(とりわけユロック族のあいだ)では、ワンパムが用いられる度合いが高かったといいます。そのことが先住民の勤勉倹約思考を促していました。
 同じように勤勉でもカリフォルニア北部のユロック族と北西海岸のクワキウトル族とはまるで性格が異なります。
 ユロックは自律性が強く、負債や義務を負ったりすることを嫌いました。資源を集団で管理することすら嫌っていたといいます。狩猟採集場は個人の所有物で、時と場合に応じて貸し出されました。ユロックの男性も女性も禁欲的で、食事は質素、装飾はシンプルなものが好まれました。
 これにたいしクワキトルの貴族は派手好きで、虚栄心に満ちています。ポトラッチと呼ばれる儀式では、贅を競う宴会が催され、家宝が破壊されます。かれらは豊かな装飾品を施した美術品を好み、派手なパフォーマンスにふけりました。その社会は貴族と平民、奴隷から構成されています。
「カリフォルニアと北西海岸の先住民社会の最も顕著な差異は、カリフォルニアには公式の身分とポトラッチという制度がないことである」と、著者たちは記しています。
 ポトラッチがないということは、公式の身分がないということです。宴や祝祭はありましたが、そこでだされたのはふだんと変わらない食事で、踊りも派手ではなく、ちょっとユーモラスで控えめなものでした。
 ここで、著者たちは北西海岸での奴隷制に注目します。奴隷は木を刈り、水をくみ、サケを捕獲したり加工したりする仕事をさせられています。こうした奴隷制は古くから存在したようです。戦争の痕跡や墓地での埋葬の仕方をみれば、紀元前1500年ごろから奴隷がいたのではないかといいます。
 紀元前1500年ごろ、西海岸ではすでにカヌーを使った海上交通が盛んで、沿岸部と島々のあいだで、シェルビーズや銅、黒曜石、その他さまざまな製品が行き来していました。戦争と襲撃によって確保された捕虜も数多くいたようです。北西海岸では、かれらが奴隷の扱いを受けました。
 アメリカ先住民の社会は、しばしば「捕獲社会」だったとされます。

〈アメリカ大陸の「捕獲社会」では、奴隷の捕獲を独自の生産様式とみなしていたが、それはカロリー生産という通常の意味においてではない。襲撃者たちがほとんど例外なく主張するのは、その生命力ないし「活力」──征服者集団によって費消される活力──が欲しいから奴隷を捕獲するのだということである。〉

 ここでは労働力としての奴隷が求められていました。獲物としての奴隷は、よくてペット、悪くて家畜としての扱いを受けました。
 イエズス会の宣教師は、南米パラグアイのグアイクル族が、貢納として捧げられたトウモロコシやキャッサバなどの農作物を食べ、遠方の社会を襲撃して得た奴隷に囲まれて生活していたと記録しています。
 ここで、著者たちは奴隷制に支えられてきた北西海岸と、奴隷が例外的だったカリフォルニアの先住民社会の対比に話を戻します。
 カリフォルニアのユロック族にも少数の奴隷がいました。しかし、それは債務奴隷や身請けされていない捕虜で、奴隷制はむしろ倫理的に拒絶されていたといいます。
 前にも述べたように、カリフォルニアの先住民は、松の実やドングリを主食として暮らしていました。その採集と加工には多大な労力を必要とします。川にはサケをはじめとして魚が豊富にいるにもかかわらず、水産食品は補助的にしか食べられませんでした。これにたいして、北西海岸の社会は、あくまでもサケが食料の中心です。
 ここからサケ中心の社会は好戦的で略奪を好み、ドングリ中心の社会は基本的に平和を好むという結論が導かれそうです。しかし、ちょっと待てよ、と著者たちはいいます。
 歴史的現実をみれば、北西海岸のクワキウトル族の襲撃は、食料ではなく人間の確保を目的としていました。漁獲量は無尽蔵でした。しかし、クワキウトルの貴族は、自分たちが生活していくためには、多くの奴隷を必要としたのです。そのためには「人間狩り」が必要でした。平民は貴族の生活の面倒をみてくれません。そればかりか、貴族の地位を守るには、盛大なポトラッチによって、平民の支持を得る必要があったのです。
 それとは正反対に、カリフォルニアのユロックは、まるで「プロテスタント的狩猟採集者」だ、と著者たちは書いています。
 しかし、ユロックだけではなく、カリフォルニアでは、どの部族も奴隷制を採用していませんでした。いや、ひょっとしたら、どこかの段階で奴隷制を放棄したのかもしれません。かれらはとうぜん北西海岸の状況を知り抜いていたにもかかわらず、自己規律と労働を尊ぶ文化を築きました。
 ここには「分裂生成」の論理がはたらいたのではないか、と著者たちは考えます。すなわち北西海岸の暴力性をみた北カリフォルニアの人びとは、最悪の暴力から自己防衛できる制度の構築をめざすようになり、北西部とは対照的な文化を築いたというわけです。
 カリフォルニアの先住民は自覚的に平等主義的でした。そのいっぽうで、ここには貨幣への熱狂がみられます。北西海岸では先祖伝来の宝物が富であったのにたいし、カリフォルニアでは通貨(紐でつながれたツノガイの殻や、キツツキの頭皮の束)が尊ばれました。ただし、そうした通貨は相続されることなく、一代で破壊されました。
 ヒエラルキーと平等主義の力学は、農耕社会発生以前から同時並行的にはたらいていた、と著者たちはとらえています。

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『万物の黎明』を読む(4) [商品世界ファイル]

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 後期旧石器時代につづき、紀元前1万2000年あたりから数千年にわたり、中石器時代がはじまります。このころ、人類はすでに「社会」のようなものをつくっていました。男性も女性もしばしば、きわめて長距離を移動しています。狩猟採集民は大きな居住集団となり、そこには近しい親族以外のメンバーも含まれていました。
 人びとの生活は多様です。大型哺乳類の群れを追いつづける人びと、森でドングリをとる人びと、海辺で魚を捕る人びとがいます。技術は進歩し、土器や細石器、石臼などが登場し、野生の穀物や野菜の調理、肉や魚、植物性食品の保存方法も発達しています。共通の言語をもつ社会圏のようなものができつつあります。しかし、その社会圏は季節によって大きくなったり小さくなったりしました。
 ここで著者たちは平等主義を定義するのは、なかなかむずかしいと述べています。富や信仰、美、自由、知識などにたいする価値観はさまざまで、何をもって平等とするのかは一概にいえません。平等といっても、形式だけの平等ということもあります。
 イギリスの人類学者ジェームズ・ウッドバーンは、タンザニアのハッザ族を研究し、ここでは平等主義的な社会がつくられているが、その経済の特徴は「即時的収穫型」にあると論じています。ハッザ族のあいだでは、持ち帰った食べ物は当日か翌日に食べ尽くされ、余ったものはシェアされます。
 ウッドバーンが論じたこと、それは真の平等はごく単純な狩猟採集民以外には不可能だということだ、著者たちは結論づけています。
 ヴィクトリア朝の知識人は、「未開人」はつねにおのれの生存をかけて争っていると考えていました。未開人は夜明けから夕暮れまで、わずかな食料を得るために、気の遠くなるような雑多な労働をしつづけていたというわけです。
 ところが、『石器時代の経済学』で知られるマーシャル・サリンズは、1950年代後半に「初源の豊かな社会」に言及するようになります。狩猟採集民は、現代人とくらべると豊かではないようにみえるが、豊かさは相対的なものであって、生活に必要なものがすぐに手にはいることこそが豊かさだとすれば、狩猟採集民はむしろ豊かにくらしていた。しかも、かれらは1日に2時間から4時間ほどしか仕事をしていない。そんなふうにサーリンズは論じました。
 狩猟採集民には、噂話をしたり、議論をしたり、ゲームをしたり、ダンスをしたり、旅をしたりする余暇がたっぷり与えられていました。しかし、農業がはじまって、人びとが定住し生活をして、農耕の労苦に甘んじるようになると、そうした余暇が奪われるようになった。これがサーリンズのとらえ方です。
 サーリンズの「初源の豊かな社会」という仮説は、アフリカのサン族やムブティ族、ハッザ族などの民族誌からもたらされたもので、はたして先史時代の人類がアフリカの狩猟採集民のように、のんびりくらしていたかは疑問が残る、と著者たちはいいます。あくせくと宝物を貯めている貪欲なカリフォルニア北西部の狩猟採集民もいるからです。
 初源の世界はもっと多様でありえます。著者たちがいうように「人類は、農業に手を染める以前に、何万年もかけてさまざまな生活様式を実験してきた」というあたりが真相でしょう。
 ルイジアナ州にはポヴァティ・ポイントと呼ばれる場所があります。ここでは紀元前1600年ごろにネイティヴ・アメリカンがつくった巨大な土塁跡を見ることができます。ミシシッピ川流域に残された古代文明の痕跡で、大きさはおよそ200ヘクタールです。
 ポヴァティ・ポイントには北は五大湖、南はメキシコ湾から物資が流れこんでいました。この円形劇場のような集落をつくった人びとは農耕民ではなく、ミシシッピ川流域の野生資源を利用する狩猟採集民でした。
 そこには膨大な量の石器や武器、貴石が残されており、その原料はどこからかもってこられたものでした。多くの財が集まっていたはずです。巨大なモニュメントの痕跡は、ここに集まっていた人の知のかたちを示しています。しかし、この場所で盛んな交易がおこなわれていた形跡はないといいます。
 日本の三内丸山遺跡には、紀元前4000年ごろから紀元前2200年ごろまでの狩猟採集民の痕跡が残されています。三内丸山は農耕文化以前の巨大な村落跡ですが、「総じて忘れ去られていた農耕文化以前の日本の社会史が、主に大量のデータと国家遺産のアーカイヴを通して、いままさによみがえろうとしている」と、著者は記しています。
 ヨーロッパにも巨大遺跡が残っています。たとえば、バルト海北部、スウェーデンとフィンランドに囲まれたボスニア湾の奥には「巨人の教会」と呼ばれる大きな石垣が残されています。紀元前3000年から紀元前2000年ごろの狩猟採集民の遺跡です。中央ウラル山脈東斜面の「シギルの偶像」、カレリアの遺跡、それに何といっても有名なのが、イギリスのストーンヘンジですね。
 こうした遺跡は狩猟採集民のイメージを変えました。とはいえ、その背後にある政治システムがどのようなものであったかは、ほとんどわかっていません。いまでも狩猟採集民は未熟で素朴だったという神話が生き残っているのです。
 ヨーロッパ人は先住民から土地を横領しました。先住民が狩猟や採集のために管理し使用していた土地は無権利の空き地とみなされ、略奪されたのです。その根拠とされたのが、先住民は未開人だとする考え方です。
 フロリダ西海岸にはカルーサ族の「王国」がありました。もちろん王がいました。住民の食生活は魚や貝がメインで、ほかにシカやアライグマ、さまざまな鳥類が食されていました。王国は沿岸の漁場を支配し、運河や人工池をもち、軍用カヌーを保持して、近隣から加工食品や皮、武器、琥珀、金属、奴隷などを徴収していました。
 ミシシッピ川下流域にはナチェズ族の「王国」があり、ナチェズの太陽王が君臨していました。しかし、王の権力はきわめて制限されたもので、その範囲はほとんど王家の村に限定され、王が命令しても平気で無視されることもあったといいます。
ヨーロッパ人は、こうした未開人の「王国」を次々につぶしていきます。
 豊かな狩猟採集民を例外的な存在だとする考え方がいまも根強く残っている、と著者たちはくり返します。いまではたしかに狩猟採集民は辺境の地にくらしています。しかし、かれらは奥地に追いやられたのであって、1万年前はそうではありませんでした。
「だれもが狩猟採集者であったし、……狩猟採集民は好きな場所に自由に住むことができた」のです。
 農耕がはじまる前、人類はブッシュマンのような生活をしていたという考え方は捨てるべきだ、と著者たちはいいます。

〈[氷河の後退した直後の時代]そこでは、資源の豊富な海岸、河口、河川流域に沿って多数のあたらしい社会が形成されはじめ、大規模でしばしば常設の居住地に集まり、まったくあたらしい産業を生みだし、数学的原理にもとづいてモニュメントが建造され、地域特有の料理が発展していた……〉

 王宮や常備軍もあったし、建造物や大きな土塁、運河なども築かれていた。交易もさかんにおこなわれていたにちがいありません。
 ここで、著者たちは私的所有の起源について考えます。私的所有の根源にあるのは、排除の構造です。その対象は、特定の生きている人間にとって不可侵のものとされます。それは権利や自由と結びつき、ヨーロッパの近代思想をつくりあげます。
 アメリカの先住民社会では、こうした私的所有の考え方はきわめて異質なものでした。人に見せてはいけない聖物はありました。とはいえ、土地や天然資源の所有者は神々や精霊であり、人間はせいぜいそれを管理して恩恵にあずかるものと考えられていました。
 しかし、所有者がいなかったわけではないのです。湖や山、木立や動植物など、身の回りのものにはすべてオーナーがいるのです。共同体にくらす先住民は、それぞれがオーナーとして、身の回りの土地や産物を守り、ケアする義務を負っています。それは自己の所有物なら、意のままに破壊し、改造してもよいというローマ法の所有概念とはことなっていた、と著者たちはいいます。
 人類にとって、所有権は、不可侵なるもの(聖なるもの)と同じくらい、古くからある観念です。したがって、問題は私的所有がいつからはじまったからではなく、それがどのような内容のものであったかということだ、と著者たちは指摘します。

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『万物の黎明』を読む(3) [商品世界ファイル]

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 人類の起源は神話に彩られているが、それは後世の物語だ、と著者たちは書いています。先史時代の存在が確認されたのは、1858年にイギリスのデヴォン州の洞窟で、明らかに人がつくったとしか思えない石斧が発見されたときからでした。
 1980年代には「ミトコンドリア・イヴ」が話題になりました。このミトコンドリアをもつ12万年前(16万年±4万年)の女性こそが現代人の共通の祖先とされます。しかし、人類の生物学的祖先はほかにも数多く存在したはずです。初期人類の頭蓋骨や、かれらが用いた打製石器はいまでも時折発見されますが、かれらがどのような姿をし、どのような生活をしていたかは、ほとんどわかっていないといいます。
「おそらく確実にいえるのは、祖先をたどれば、われわれはみなアフリカ人だということのみである」
 およそ20万年前に誕生したホモ・サピエンスがアフリカを出たのは、およそ7万年前で、4万5000年前にヨーロッパに到着したと推定されます。
ヨーロッパでは約4万年前に先行人類であるネアンデルタール人が絶滅します。ホモ・サピエンスはネアンデルタール人と共生し、まれに交配していました。ネアンデルタール人が絶滅した理由は、氷床が移動し、ヨーロッパが苛酷な環境に見舞われたためだ、と著者たちはみています。
 考古学では、5万年前から1万5000年前の時代を後期旧石器時代と呼んでいます。気候的にみれば氷期です。そのころの人類ははたして平等主義的な狩猟採集民のバンド(小集団)を組んでいたのでしょうか。これには異論もでているようです。すでにヒエラルキーがあったのではないか。
 ヨーロッパでは3万年ほど前の、個人または小集団の埋葬場がいくつもみつかっています。遺体は目立つ姿勢で置かれ、豪華な装飾品で飾られています。なかには王族と見紛うものもありました。
さらに、トルコ南東部のギョベクリ・テペと呼ばれる場所では、200本以上の石柱がみつかり、ここには石造神殿があったのではないかといわれています。
 ギョベクリ・テペだけではありません。ヨーロッパ東部でも2万5000年前から1万2000年ほど前の大きなモニュメントが見つかっており、そこではマンモスの肉が保存されたと思われる形跡があります。そうした集落は、琥珀や貝殻、動物の毛皮を交易する中心地となっていました。
 こうした遺跡をみると、農耕のはじまる数千年前から、人類社会は権力や身分、階級によって分断されていたのではないかという説もでるようになりました。
だが、そうした説はあやまりだ、と著者たちは断言します。身分制や国家のきざしは見当たらないといいます。
 狩猟採集民を劣った人類だとする偏見はいまだに根強いし、初期の人類はチンパンジーに近いという見方をする人もいます。
しかし、かれらが現代人と同じように「懐疑的で、想像力に富み、思慮深く、批判的分析ができる」人たちであったことは明らかだ、と著者はいいます。もっとも、その社会では、変わり者がリーダーに選ばれることもまれではなかったし、異端児の預言者もいたといいます。
 レヴィストロースは初期の人類がわれわれと同様の知をもっていることを認識した数少ない人類学者でした。かれはブラジルの少数民族ナンビクワラと接し、その社会がすぐれた首長のもとで村落を営んでいることをリポートしました。
その後の人類学は、アフリカの狩猟採集民の生活を記録することを通じて、狩猟採集民の生活を社会的発展の一段階として位置づけるようになります。しかし、著者たちは、かれらは現代に生きる人びとであって、「過去の時代への直接の手がかりを与えてくれることはない」と論じています。
 そこで、後期旧石器時代の豪華な副葬品をともなった埋葬に話が戻ります。ある場所では異常に背の低い人物が埋葬されていました。別の場所では、当時からすれば巨人とみられる、きわめて高身長の人物が埋葬されていました。
 そうしたことをみれば、最終氷期の後期旧石器時代にはすでに世襲エリートが存在したという結論は単純に導けないといいます。
当時、着衣のまま遺体を埋葬することは、きわめて異例でした。かれらは世襲貴族だからではなく、むしろ「非凡」で極端だったからこそ、そんなふうに丁寧に埋葬されたのではないかというのが、著者たちの見解です。
 旧石器時代の遺跡には、季節ごとによる集合と分散の形跡がみられます。そのことは獲物の群れの移動や、周期的な魚の捕獲、木の実の採集に関係していました。
季節ごとに分散したり集まったりしながら、「人びとは豊富な野生資源を利用して、宴を催したり、複雑な儀礼や野心的な芸術プロジェクトに取り組んだり、鉱物や貝殻、毛皮などを取引したりしていた」のです。
 トルコのギョベクリ・テベの神殿も、大猟(大漁)豊作の宴が開かれた場所と考えられます。
時代はずっとあとになりますが(紀元前三千年紀)、イギリスのストーンヘンジも一連の儀式用の建造物だったと思われます。ストーンヘンジには一年の大事な時期(たとえば夏至や冬至)にブリテン諸島一円から大勢の人びとが集まってきて、宴を開き、祈りをささげていました。しかし、そこには恒常的な王国は存在しませんでした。
 著者たちによると、ここで、注目すべきは、レヴィストロースが、ブラジルのナンビクワラ族が季節ごとに異なる社会を組織していることを見抜いていたことだといいます。
イヌイットも夏と冬では異なる社会構造のなかで生活していました。夏のイヌイットは長老の専制的支配のもとで行動します。しかし冬のイヌイットは大きな集会所のもとで平等な集団生活を送るのです。
 カナダ北西部のクワキトル族の場合は、冬に世襲貴族が登場し、裁きがおこなわれ、ポトラッチと呼ばれる大宴会が開かれます。しかし、夏の漁期になると、貴族の板張り宮殿は解体され、社会は小さなクラン単位に戻っていきます。
 アメリカのグレートプレーンズの諸部族を研究したロバート・ローウィも同じような結論に達しています。狩猟シーズンに一時的につくられた権威は、季節が終わるとアナーキーな状況に戻っていくというのです。
グレートプレーンズの先住民は、権威主義的権力の可能性と危険性を認識していた、と著者たちはいいます。儀礼の季節が終わると、権力は解体されただけではありません。毎年、どのクランが権力を行使できるかは、順番によって決められていました。
 固定的な政治組織や社会秩序はつくられませんでした。制度はあくまでも柔軟なものであって、旧石器時代の人類は国家なき社会のなかでくらしていた、と著者たちはいいます。
「国家なき社会の人びとは、政治的自己意識にかけて、現代人より劣っていたどころか、現代人よりはるかに高かった」
 そう唱えたのはフランスの人類学者ピエール・クラストルですが、著者たちも同じ見解に達しています。そこでは国家なき社会が自覚的に組織されています。先史時代の人びとは固定された政治支配がなされないようにするために、細心の政治的配慮を払っていたというのです。
 政治的支配は一時的なものでした。しかも、それには単一のパターンがなかったことも指摘されています。政治的支配は夏場だけのこともあるし、儀礼のときだけのこともあるし、また男性と女性が月替わりで支配することもあるというのです。
ヒエラルキーはこんなふうに定期的に構築されたり解体されたりしていました。
 先史時代の人びとは「無知な未開人でもなければ、賢明なる自然の子でもない」、「かれらはわたしたちとおなじ人間であり、おなじように鋭敏で、おなじように混乱している」と、著者たちはあらためて論じます。
しかし、その最も賢いはずのホモ・サピエンスが、なぜ永続的で不平等な政治システムを根づかせてしまったのでしょうか。著者たちにとっては、それこそが問題でした。

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『万物の黎明』を読む(2) [商品世界ファイル]

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 ヨーロッパ中心主義が生まれたのは15世紀後半にポルトガルの艦隊がインド洋に進出し、スペインがアメリカ大陸を征服するようになってからだといいます。
 ヨーロッパ人の入植者はアメリカ先住民と接するなかで、かれらから多くの批判を受け、それによってヨーロッパの自画像の点検を迫られるようになった、と著者たちは指摘しています。ヨーロッパにおいて、社会的不平等がなぜ生まれたのかという問いもそのひとつです。
 アメリカの征服はキリスト教の名のもとに正当化されました。しかし、先住民と接するなかから、ヨーロッパ人は、人間の本来の姿は自由と平等なのだという考え方をいだくようになったというのです。このあたりの展開は、逆転の思想史ですね。
 そんなことはありえないと思う人たちに、著者たちは初期の宣教師や旅行者の記録を紹介します。かれらはヌーベルフランスと呼ばれていた五大湖周辺で活動し、アメリカ先住民と接触していました。
 異なる言語をもつ部族に分かれた先住民は、河川の流域に住み、トウモロコシやカボチャ、マメなどを収穫していました。採集や農耕はどちらも女性の役割で、男たちは狩猟と戦争に従事していたといいます。
 16世紀に入植したフランス人は砦を築き、先住民を「未開人」とみなしました。しかし、「未開人」のほうはというと、精神的に豊かである自分たちとちがって、ヨーロッパ人は貪欲で争ってばかりいる盗人や詐欺師のような存在だととらえていたというのです。17世紀のフランス人宣教師がそんなふうに証言しているそうです。
 本書には、当時のイエズス会宣教師の記録が延々と紹介されていますが、ここで強調されるのは、アメリカ先住民のほうがヨーロッパ人よりもよほど自由だったということです。首長との関係も対等で、司法もゆるやかでした。肉体はわがものであり、性の自由も享受されていました。
 その統治もよほど民主的でした。集会ではオープンな政治的討議と、雄弁で理性的な議論が展開され、恣意的な権力は拒否されました。ヨーロッパの啓蒙主義は、むしろこうした先住民の思想から学び、それを受け継いだものだ、と著者たちは考えているようです。
 ヨーロッパにくらべ、アメリカ先住民の社会はよほど自由で平等で、思いやりがあり、自立的でした。
 次に紹介されるのが、18世紀はじめにフランスのラオンタン男爵が残したウェンダット連邦の政治家カンディアロンクとの対話記録です。ウェンダット連邦は、イロコイ語を話す4部族の集合した共同体で、アメリカ五大湖周辺にありました。ヒューロン連合とも呼ばれています。
 雄弁家のカンディアロンクはラオンタン男爵に向かって、ヨーロッパ人の欠点を鋭く指摘します。ヨーロッパ人は諍(いさか)いに明け暮れ、助けあいの精神を欠き、権力に盲目的に服従するというのです。
尊大な宗教と懲罰的な法律で人を縛りつけるいっぽう、カネもうけに必死なのがヨーロッパ人だ。「利益追求に動かされた人間は、理性ある人間たりえない」と、先住民のカンディアロンクは断言します。
 ヨーロッパ文明のほうが、よほど非人間的なようにみえます。
 しかし、カンディアロンクのこうした見方にたいして、経済学者のテュルゴーは反論します。
 未開人の自由と平等は、かれらの優越性を示しているのではなく、むしろ劣等性のあらわれなのだ。かれらは自給自足していて、平等に貧しい。社会が発展してくれば、分業が進み、技術が進歩して、貧富の差があらわれるものだ、と。
 さらにテュルゴーは、狩猟から牧畜、農耕をへて、都市商業文明にいたる社会進化論を唱えました。
 ルソーの『人間不平等起源論』は、ヨーロッパでこうした社会進化論が盛んな時代に発表されたといいます。だからこそ、衝撃的でもあったわけです。ルソーは、もともと自然状態にあった人間が、文明が発達し、私的所有が一般化するとともに、競争と不平等のなかで寛大さを失っていったと論じます。
 フランス革命後、保守派の論客は、革命的テロルと全体主義をもたらしたとして、ルソーを非難します。かれらからみれば、ルソーこそが左翼的知識人のはじまりでした。
さらに、かれらは、ルソーの考え方の根拠には「愚かな未開人」を「高貴な未開人」ととらえるばかげた発想があると糾弾します。
 著者たちは、ルソーか反ルソーかといった論争には興味がないと言っています。また、きわめて多義的な「平等主義」という概念をめぐって、あれこれと論じるつもりもないとしています。「平等」の観念は、人類の歴史においては、ごく最近になって登場したものなのです。
 著者たちも「この世界がひどくまちがってしまった」という意識を濃厚にもっています。それでも問われていることは、人類の初期状態をできるだけ明確にとらえなおすことです。

〈考古学、人類学、および関連分野が蓄積してきた証拠は、以下のことを示唆している。先史時代の人びとは、自分たちの社会でなにが重要なのかきわめて具体的な考えをもっていたということ。そうした考えはきわめて多様であったこと。そしてそのような社会を一様に「平等主義的」と表現しても、それらの社会についてなにもわからないということ。〉

 こうした前提にたって、著者たちは旧石器時代以降の人類史を再検討していくことになります。

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『万物の黎明』を読む(1) [商品世界ファイル]

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 人類学者デヴィッド・グレーバーと考古学者デヴィッド・ウェングロウによる大著。グレーバーにとっては、これが遺著となりました。「人類史を根本からくつがえす」という日本語のサブタイトルがついていますが、原著のサブタイトル「新しい人類史」と、もう少し控えめです。さらに3巻が予定されていました。しかし、グレーバーの急死によって、その構想は突然、中断されてしまいます。
「人類史のほとんどは、手の施しようもなく、闇に埋もれてしまっている」というのが、本書の書き出しです。ホモ・サピエンスは少なくとも20万年前に登場したといわれていますが、そのかん現在までに何がおこったのか、われわれが知っているのは、人類の痕跡や記録の残るごくわずかの時期についてです。
 すべてのものごとは先史時代にはじまったといわれれば、たしかにそのとおりでしょう。
 キリスト教は、かつて楽園にくらしていた人間が原罪によって汚染され、堕落したという構図をえがきます。ルソーも1754年の『人間不平等起源論』で、かつては平等だった人間が、文明と国家の誕生とともに、しだいに不平等になっていったと論じます。これとは逆にホッブズは1651年の『リヴァイアサン』で、人間はもともと万人が激しく争いあっていたが、これが収まったのは国家が生まれたからだと主張しました。
 著者たちは、キリスト教やルソー、ホッブズなどにみられる先史時代のイメージを取り除くことからスタートします。なぜなら、そうしたイメージは真実ではないばかりか、退屈でもあり、また何らかの政治的意図を秘めているからだといいます。
 20万年前までさかのぼるのは無理としても、およそ過去3万年前から人類社会がどのように発展してきたかについては、近年の考古学や人類学が新たな証拠を提供してくれているようです。そこからは、従来の歴史観にたいするさまざまな疑問がわきあがってきます。
 農耕開始以前の狩猟採集民は、はたしてどのようなくらしをしていたのか。農耕のはじまりが、身分やヒエラルキーをもたらしたというのはほんとうか。都市には階級的区分があったのか。農耕社会には権威主義的な統治者が存在したのか。
 最近の研究は、こうした問題にたいして、従来のイメージとはずいぶんちがった像を浮かびあがらせるというのです。
 のんびり読んでみることにします。
 先史時代の姿を知るには、先史時代を遅れた社会と決めつける偏見を取り除くことがだいじだといいます。最初から人間を利己的なものと規定したり、人間社会は平等なものであるべきだと想定したりすることも、やめたほうがいい。むしろ「人間を、その発端から、想像力に富み、知的で、遊び心のある生き物として扱ってみたらどうだろうか」。
 狩猟採集民の世界といえば、たかだか数十人の小集団(バンド)からできていて、人びとは平等だが貧弱な生活を送っていたという見方が一般的です。いっぽう、農耕社会になると部族のなかから首長が誕生し、ヒエラルキーができるとともに、人類は自然状態から脱しはじめるととらえられることが多い。だが、これは裏づけのない思い込みではないか。
 じっさい、それはルソー自身が認めているように、ひとつの仮説にすぎなかったのです。
 先史時代の人たちがどのようにくらしていたかは、じつはほとんどわかっていません。
 アルプスで発見された、紀元前3350〜3110年あたりと推定される、いわゆる「アイスマン」の遺体には脇腹に矢が刺さっていました。明らかに暴力の痕跡です。
 これにたいし、カラブリア(イタリア南部)の洞窟で発見された「ロミート2」と称される約1万年前の成人遺体は、かれが障碍者であったにもかかわらず、集団からだいじにケアされ、育てられてきたことを示しています。
 このふたつの例は、先史時代について、まったく逆のイメージを呼び起こします。
 現在もアマゾンの熱帯雨林でくらすヤノマミは、民族学者のシャグノンによって、「獰猛な人びと」というイメージを植えつけられ、未開人の典型と決めつけられました。さらに、ここには、ホッブズの原理(万人の万人にたいする戦い)が生きているとされたのです。
しかし、ヤノマミについても、まったく逆の証拠もあがっています。ヤノマミは「悪魔でもなければ、天使でもない」ごくふつうの人たちなのです。
 著者たちは、西洋文明がいかにすぐれているかという思い込みにもとづいて、いわゆる未開文明をみるのはやめたほうがいいと考えているようです。むしろ逆なのではないか。

〈先住民の生活は、きわめてラフにいうと、「西洋」の町や都市での生活よりもずっと人をわくわくさせるものであったような印象を受ける。〉

 貧弱な歴史から決別しなければならないといいます。
 人には交換性向があり、人間社会には市場がつきものだという考えもそのひとつです。市場経済がなくても、物品が長距離移動することができるのは、マリノフスキ−の民族誌が証明しています。財の交換はあります。しかし、それは交易とは似ても似つかぬものでした。
 夢でみた物品を求めて旅にでることや、呪術師や治療師としてのわざを磨くために村々を訪れること、女たちが集まり身の回りの装飾品を賭けてギャンブルに興じることも頻繁におこなわれていました。
 こう書かれています。

〈本書で、著者たちは、人類のあたらしい歴史を提示するだけでなく、読者をあたらしい歴史学に招待したいと考えている。わたしたちの祖先に[未熟ではなく]完全なる人間性を復権させる、そのような歴史学である。〉

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『グローバル経済の誕生』を読む(2)──商品世界ファイル(32) [商品世界ファイル]

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 もともとはローカルな産品が、世界商品に変わることがあります。われわれにとって、ごくあたりまえの商品ですが、それらが世界に広がるにはさまざまな経緯がありました。本書では、売られている商品の姿からはなかなか見えなてこない裏の事情も明らかにされています。
 1500年にブラジルにやってきたポルトガル人は、「赤い木」すなわちブラジルウッド(パウ・ブラジル)を伐採し尽くしました。ブラジルウッドからは、それまでにない赤の染料が抽出されたのです。その間、先住民の人口は、奴隷狩りと病原菌によって激減していきました。赤い染料のためなら、どんなことでもやったという様子がうかがえます。
 1700年になると、ポルトガル人はブラジルで砂糖栽培をはじめます。アフリカから大量の奴隷がつれてこられました。ブタやウシ、ヒツジなどの家畜も持ちこまれました。コーヒーの木を植えたのもヨーロッパ人です。鉄道が発達すると、プランテーション経営者は、荒れた土地を捨てて、さらに奥にはいりこみ、森林を伐採しました。その結果、ブラジルの森林は激減したのです。
 ゴムの木はもともと中南米にしか自生していませんでした。1876年、その種子をイギリス人が持ち帰り、キューガーデン(王立植物園)で栽培し、それがマレー半島などに移植されたのが、東南アジアでのゴム栽培のはじまりです。その後、オランダ領東インド(現インドネシア)でもゴムが栽培されるするようになります。
 ゴムの需要が急速に増大したのは1820年代から30年代にかけて、マッキントッシュやグッドイヤーが、ゴムの加工技術を開発したからです。ゴムはレインコートや長靴、自転車タイヤ、さらに20世紀にはいってからは自動車タイヤに用いられるようになります。ゴムの樹液を採集するのは、たいへんな作業でした。「ゴム採取の歴史は、人間の屍のうえに築かれていったようなものだ」と著者は書いています。ゴム成金はその屍のうえに生まれたといってよいでしょう。
 イギリスに対抗して1930年代にはドイツが合成ゴムの開発に成功しました。それにより、ブラジルでもマレーシアでも天然ゴム産業は壊滅的な打撃を受けます。しかし、航空機のタイヤや戦車のキャタピラ、トラックのタイヤなどは、やはり天然ゴムでないと具合が悪いといいます。現在でも天然ゴムが世界のゴム生産シェアの約3分の1を占めつづけているのもそのためです。
 カリフォルニアで金が発見されたのは1848年のことです。以来、12年のうちに、それまでの150年間で採掘された金と同量の金が採掘されました。これにより世界の硬貨の中心が、銀貨から金貨へと移ったというのですから、カリフォルニアの金がもたらした影響がいかに大きかったかがわかります。
 カリフォルニアの人口は急速に拡大し、大陸横断鉄道の建設が進められ、海上輸送路も整備されていきました。その間、多くの先住民が殺され、排除されました。ゴールドラッシュは、米国が大西洋と太平洋にまたがる大国へと発展する道を開いたといえるでしょう。
 フランドル織のみごとなタペストリーは、みごとな深紅色でいろどられています。じつは、それが中央アメリカのカイガラムシを原料にしていることを知る人は少ないのではないでしょうか。カイガラムシのメスからは、コチニールという染料がとれます。ヨーロッパ人は先住民にカイガラムシを飼育させ、手間のかかる染料をつくらせて、それで鮮やかな織物の模様を浮かびあがらせたのです。ところが1950年代になると、化学染料のアニリンが開発されます。カイガラムシからつくられるコチニール染料は、たちまち忘れ去られていきます。
 インカの人びとは古くから、グアノと呼ばれる海鳥のフンを肥料として利用していました。ヨーロッパ人は1830年代になってこのグアノに着目します。そしてこのグアノを船でヨーロッパに運び、肥料としました。いっぽうペルー政府はグアノを担保にして、ヨーロッパから資金を借り入れ、それで鉄道を建設しようとしましたが、大失敗します。化学肥料が出現すると、グアノの夢もたちまちしぼみ、ペルーには膨大な債務だけが残されました。
 毛皮もまた世界商品のひとつでした。毛皮を捕ったのは、おもにロシア人で、「カムチャツカ半島やアリューシャン列島、のちにはアラスカまで遠征して、カワウソやラッコを次々に狩猟していった」。その結果、乱獲によって多くの野生動物が絶滅の危機においやられたことは周知の事実です。
 ジャガイモ、トウモロコシ、タバコ、ピーナツもアメリカからもたらされました。ジャガイモはスペイン人がフィリピンに運び、まずアジアに広がって、それからヨーロッパに逆流したといわれます。1600年以降、ヨーロッパでは人口の急増により食料危機が生じていました。ジャガイモを最初に主食としたのはアイルランドです。イングランドでも1700年ごろからジャガイモが生産され、次第に労働者用の補助食料となっていきます。プロイセンでも、フリードリヒ大王がジャガイモの食用化を推し進めたことはよく知られています。
 ピーナツは砂まじりの土壌で育つために、劣化した土地でも栽培が可能でした。その蔓(つる)は家畜の飼料に、殻(から)は燃料に、実は食料や油として利用できるというすぐれた特性をもっています。ピーナツが注目されたのは1900年になってからで、潤滑油や塗料、石鹸の原料として用いられました。こうして中国、インド、西アフリカでもピーナツがつくられるようになります。しかし、1940年になると、化学合成物が開発されて、工業原料としてのピーナツは忘れられていきます。
 ハワイ王国を滅亡に追いこんだのはヨーロッパ人でした。1876年以降、ハワイでは、アメリカ人のつくった砂糖プランテーションが急速に拡大していきました。そして、この砂糖の特権を守るために、クーデターが画策され、王制が崩壊、これによってハワイはアメリカに併合されていくことになります。
 台湾で砂糖が増産されたのは、台湾が日本の植民地下にはいってからです。とはいえ、台湾が砂糖栽培に依存するモノカルチャー経済に陥ってしまうことはありませんでした。その危険性があったとしたら、むしろ1600年代のオランダ統治時代だった、と著者は指摘しています。オランダの統治は鄭成功により排除されました。
 アルゼンチンにやってきたスペイン人は、広大なパンパに家畜を放ちました。その家畜が繁殖して、アルゼンチンでは牧畜が盛んになります。その後、アルゼンチンは世界最大の牛肉輸出国へと成長しますが、それを支えたのは、輸送技術の革新や冷凍技術の進展です。しかし、牛が経済的に飼育されるにつれて、かつてのカウボーイ、すなわち誇り高きガウチョが、次第に最下層の使用人へと転じていくという悲しい歴史もありました。「家畜の牛がカウボーイを駆逐した」のです。
 アメリカ西部の大平原は、小麦生産の最適地でした。そのことにヨーロッパからの移民はすぐに気づきます。労働力の不足は、機械の導入によって克服されました。鉄道や運河もつくられ、穀物市場は東部ばかりか海外にまで広がっていきます。1878年には小麦の刈り取りと結束を同時におこなうバインダーが開発されました。しかし、バインダーに必要な小麦用の麻ヒモをつくらされていたのは、ユカタン半島に住む数万ものマヤ人でした。
 このように並べただけでも、商品生産をめぐるドラマには、表からではみえないおどろくべき展開が隠されていることがわかります。ゴムや綿花のような原料にせよ、ジャガイモや小麦のような食料にせよ、あるいは牛のような家畜にせよ、もともとは限られた地域の産物が、資本の都合にあわせ世界中に適地を求めて生産されていったのです。それによって現地の環境は変えられ、人びとが思うがままに使役されたありさまは、すざまじいとしかいいようがありません。
 こうした動きは、経済学の知識だけでは、なかなかつかみがたいものです。いや、むしろ経済学は、背後の歴史的真実を隠蔽することで成り立っているのではないかと思えるくらいです。

 経済は平和的な商業活動と思われがちですが、「このような見方は、ヨーロッパ以外の世界でおこなわれてきた絶え間ない略奪や暴力という動かしがたい歴史的事実を覆い隠してしまう」と著者はいいます。グローバル経済は暴力を抜きにしては語れないのです。
 ヨーロッパの繁栄を支えたのはアフリカ人奴隷と海賊でした。戦争もまた富の蓄積手段であり、さまざまな新商品もまた戦争を通じて生まれたのです。
 アメリカは移民の国だといわれますが、1800年以前の移民は、4人に3人が強制的にアフリカからつれてこられたと著者は指摘しています。その数は1000万〜1500万にのぼります。そのうち3年以上生きられたのは、わずか3割だったといいます。航海の途中で死ぬ奴隷が多かったのです。
 それではなぜ、わざわざアフリカ人をアメリカに連れてこなければならなかったのでしょう。じつは、スペイン人がアメリカに到着してから、先住民はヨーロッパ人の持ちこんだ天然痘(てんねんとう)や麻疹(ましん)によって、その9割が死滅してしまったのです。そこで、ヨーロッパ人はアメリカで働かせるために、アフリカ人を奴隷としてつれてくるほかありませんでした。
 アフリカ人奴隷は鉱山労働者として、あるいは砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどを栽培する農場の労働者として酷使されました。
 イギリスがスペインの海軍力をそぐために海賊の力を活用したことはよく知られています。「スペインやポルトガルの植民地帝国が衰退したのは……イギリスやオランダの海賊による略奪行為こそが決定的な役割を果たした」とまで、著者は述べています。海賊たちは香辛料、金銀、毛皮、高級織物、さらには奴隷や砂糖といった贅沢品(ぜいたくひん)を積んだ船をねらいました。オランダやイギリスの武装商船もまた、平気でスペインやポルトガルの商船を襲っています。宗教対立(プロテスタントとカトリックの対立)は、いかなる非道をも正当化したようです。
 そして、スペイン海軍の力が衰えてくると、いよいよイギリスの海軍力が強大になり、「地球上のいかなる海域においても略奪行為を根絶することに心血を注ぐようになる」。ここにも正義は力なりの見本があります。
 ポルトガルに代わって、世界最大の奴隷貿易国になったのがオランダだったことも、あまり知られていません。16世紀にポルトガルは西アフリカの奴隷とブラジルの砂糖を独占していましたが、オランダは何とかしてその一角に食いこもうとします。しかし、ブラジルの攻略には失敗しました。
 そこで、オランダはポルトガルを出し抜くため「アフリカの沿岸地域で次々と奴隷貿易の輸出港を建設し、人間を家畜のようにカリブ海に浮かぶフランスやイギリスの植民地に輸送し始めた」といいます。こうしてカリブ海の島々で砂糖が生産されるようになると、ブラジルでポルトガルが独占していた砂糖生産も切り崩されていきます。一時、オランダが世界経済のヘゲモニーを握った裏には、このように血塗られた歴史があります。
 くり返しになりますが、「戦争と経済」で思い浮かべるのは、アヘン戦争のことです。アヘン戦争は、清朝がアヘン貿易を禁止したのにたいし、イギリス海軍が攻撃を開始したことに端を発します。しかし、そもそもイギリスがインドのアヘンを中国に輸出したのは、中国の茶にたいする銀貨の支払いが膨大な額にのぼったからです。これもまた、ほめられた歴史ではありません。
 イギリスとオランダの東インド会社は、これまでにない特色を備えていました。それは両方とも株式会社だったことで、出資者の匿名性が高く、また経営権と所有権とが分離しており、永続する法人であることが前提になっていました。
 それまで会社といえば家族経営が中心で、海外貿易会社への出資はその都度、清算されるのが原則でした。著者は東インド会社などの株式会社が永続しなければならない理由は「暴力」にあったと断言します。植民地に要塞を築き、海上の覇権を築くには、莫大なコストを要しました。
 18世紀にはいると、東インド会社は武装コストにたえられなくなります。いっぽう、そのすき間を縫って密輸業者が横行し、独占体制を崩していきます。植民地経営はこうして政府の手にゆだねられ、会社は資本中心の企業へと変わっていくわけですが、企業もまた国家によって守られているという意味で、それ自体潜在的な暴力性を含んでいたといってよいでしょう。
 現在の企業乗っ取りは海賊と同じだといわれますが、16世紀から18世紀にかけての海賊はむしろ「厳格なモラルに基づいて経済活動をおこなっていた」と著者は指摘します。ホーキンズやドレークには、政府から私掠船の許可証が発行されていました。17世紀には、無国籍の浮浪者からなるバッカニアと呼ばれる海賊が登場します。かれらはスペインの港や船を攻撃し、商品を略奪しました。しかし、海賊には掟(おきて)があり、略奪品を盗むことは禁じられ、無用な殺戮(さつりく)はおこないませんでした。仲間どうしの生命保険や傷害保険もあったといいます。
 イギリスでは1834年に、アメリカでは1865年に、そしてそれ以降、世界のいたるところで奴隷制が廃止されました。しかし、奴隷制が廃止されても過酷な強制労働がなくなったわけではありません。見習い労働や年季契約労働が、労働コストを下げる新たな手段として導入されました。奴隷は自分たちの置かれた環境から逃げだすためには、どんな条件でも受け入れました。それが自由契約にもとづく低賃金労働でした。
 奴隷制はいずれ廃止される運命にありましたが、それは経営者側に「自由な契約による賃金労働のほうが、より大きな利益をもたらす」という確信があったからです。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、企業にしばられるという意味では、いまでも労働者は会社の奴隷であることにちがいはないでしょう。
 著者は象牙のたどった道をふり返ってもいます。ビリヤードの球やピアノの鍵盤、ナイフの柄(え)、チェスの駒など製品となった象牙には優雅さがただよいますが、そこに何十万頭の象が犠牲になっている光景を思い浮かべる人は少ないでしょう。
 ヨーロッパで奴隷解放運動が広がるさなか、ベルギーのレオポルド2世(1835〜1909)がコンゴを手中におさめ自身の私領としました。かれはコンゴの手つかずの森に大量の象がいることに気づき、象牙を手にいれようとします。多くの黒人が虐殺され、大量の象が殺害されました。「ベルギー人は、コンゴの先住民を奴隷にし、資源を強奪して、ビリヤードの球やピアノの鍵盤の材料を求めた」のです。象牙は象への暴力によって、はじめて成り立つ商品でした。レオポルド2世は、また先住民の土地を奪って、そこに広大なゴム・プランテーションを開いたことでも知られます。そして、その私兵は、労働を拒否する黒人の手首を容赦なく切り落としました。そんなばかなと思われるかもしれませんが、これは事実です。
 残念ながら、この世には本源的に暴力性を秘めた、政治の力、経済の力が、いまでも満ち満ちているといわねばなりません。

 グローバルな市場社会はいつつくられたのでしょう。それは、つい200年ほど前のことではないか、と著者は考えています。産業革命以降と考えていることがわかります。
 最初は物々交換でした。そして次第に金銀が価値のシンボルとなります。世界的に銀が貨幣として使用されるようになったのは、メキシコとペルーで銀の大鉱脈が発見されたからであり、それからカリフォルニアやオーストラリア、南アフリカなどで豊富な金が発見されたことにより、世界は金本位制のもとに統合されていきます。そして市場で商品の価値が決められるようになると、商品の規格化、運輸革命、時間の標準化、先物市場、法律の整備、債券市場、品質管理、登録商標、知的所有権、大量の広告などといった現象が次々と生じていきました。
 著者はこう書いている。

〈結局、世界貿易と商品化のプロセスが拡大するにつれて、多くの人々は、自分が欲しいものは何でも手に入れられるようになった。つまり世界中どこのモノでも意のままになると考えるようになった。どんなモノでもお金があれば手に入れることができるようになったので、多くの人々は、世界は人間のニーズと欲望を満たすためにあるのだと考えるようになってしまった。「自然」を「天然資源」や「生産要因」に置き換えて、人間にとって便利で、しかも利益を生み出すものに変えるために全力が傾注されるようになったのである。〉

 これはハッピーな世界なのか。いやクレージーな世界ではないのか、というのが著者の問いかけです。
 メキシコ銀貨ペソは16世紀から17世紀にかけて、世界通貨の役割を果たしていました。ペソはアメリカとヨーロッパを結びつけただけではなく、ヨーロッパとアジアを結びつけていたのです。ヨーロッパ人はアジアから香辛料とシルクを手に入れ、銀をその代価としました。しかし、19世紀にはいりゴールドラッシュがはじまると、金の供給量が増大するいっぽうで、銀の需要と価格は下落して、世界の基軸通貨が次第に金へと移行していきます。とはいえ、19世紀になるまで、貨幣は人びとの生活に浸透していたわけではありませんでした。
 度量衡が統一されるのは、18世紀末のフランス革命以降です。メートル法が導入されます。それまでは人体が尺度の基準であり、地方ごとにさまざまの測量単位がありました。しかし、商品化が進むにつれて、度量衡の統一や商品の規格化が求められるようになります。つまり財が「抽象化」されて、「計測可能で均質的な商品」が生産され、世界じゅうで商品として売ることが可能になったのです。
 ヨーロッパで国際的な小麦市場が生まれたのは19世紀中ごろでした。このころ輸送革命によって、アメリカの小麦はヨーロッパに運ばれていました。米の場合は小麦よりもさらに貯蔵や搬送が容易でしたが、米の銘柄は多く、その貿易は消費者の好みに応じて、狭い範囲にとどまっていました。
 時刻が均一化されたのは、19世紀半ばになってからで、それまでそれぞれの国や地方はそれぞれの時刻をもっていました。イギリスが標準時をグリニッジ時間にあわせたのは1842年になってからで、鉄道の時刻表を定めるためだったといいます。これにたいし、アメリカは時刻の標準化が遅れ、ようやく1918年になって国内を4つの時間帯に分割することがきまりました。世界は次第に24の時間帯に分割されていきますが、その決定は合理的というより帝国主義国の都合次第だったといわれます。
 商品世界の特徴は、消費者が顔見知りの隣近所よりも、見も知らぬ遠方の業者に信用をおくようになったことだと著者は皮肉たっぷりに書いています。遠方でつくられた食料が食べられるようになったのは、運輸の発達に加えて、缶詰めや真空パック、冷凍などの技術が発達し、それに応じて各家庭が冷蔵庫をもつようになったからです。
「2000年前の世界では遠くにあったモノが今の世界では近くなり、近くにあったモノが遠くに立ち去った」。こうして「地域の食料品店や雑貨店は、巨大かつ人間不在の、しかし安価な商品を販売するスーパーマーケットによって消し去られた」というわけです。
 包装革命もまた現在の特徴です。ガラス瓶やブリキ缶、紙袋、段ボール箱がつくられたのは19世紀。20世紀になると、プラスチック革命がおこり、いまではどの食品コーナーでもラップやトレーがあふれかえっています。包装は単に中身を保護するだけではなく、ブランドのイメージにつながっています。「包装は近代大衆社会の鍵を握っている」
 登録商標と法人の発生は密接に結びついています。市場においては生産者と消費者のあいだで、直接的な人と人との関係は失われます。商品の品質もまた標準化されていきました。「中身を確認するためには、包装紙に書いてある情報や、とりわけ企業名を信頼する以外に方法がなくなった」のです。
 登録商標の保護がなされるようになったのは、19世紀半ばからです。以来、企業にとって、ブランド名が大きな財産となりました。「宣伝・広告の目的は、消費者に製品の使用法や原材料について伝えることではなく、商品を差別化し、商品の品質とは無関係にイメージを消費者に植え付けることである」。これもまた商品世界のマジックかもしれません。
 コカコーラのように、いわばアメリカのイメージと結びついたブランドもあります。ヨーロッパに進出するにあたって、「コカコーラ社は『アメリカの生活様式』と、大戦で勝利した『アメリカ』を全面に出すことで大成功を収めた」と著者は書いています。
 100年前、石鹸はさほど必要なものとは思われていませんでした。ところがいまではからだを石鹸で洗わないと不潔だと感じられます。石鹸の登場によって、清潔への強迫観念が生まれたのです。これも、ひとつの商品がライフスタイルを変えてしまう一例でしょう。
 学校では、石鹸で頻繁に手を洗うことがいわば義務となり、家庭でもだれもが口臭を気にするようになって、しきりに歯磨きをしたり、マウスウォッシュを使ったりします。そして、われわれがいかに汚ないか、いかに世間から遅れているかを意識にすりこませる大量広告(マーケティング戦略)が、消費者に商品の購入を促していきます。これはどの商品についてもいえることでしょう。
 商品の発明と普及には、さまざまな偶然や社会的要因がはたらく場合があります。たとえば鉄道の線路幅は、ほんとうならもっと広くすべきだったのに、馬車の軌道にあわせてつくられたため、現在のような狭軌になり、軌道の幅をいまさら変えられなくなってしまったといいます。
 缶詰の話もおもしろい。もともと軍事用食料として作られた缶詰を開けるには、最初ナイフやハンマーが用いられていました。缶切りが発明されるのは1870年、主婦が缶詰を利用するようになってからです。缶切りは最初なかったのです。いまではほとんどイージー・オープンエンドが採用されています。
 食洗機はすでに1880年代に考案されていましたが、1950年代になるまであまり利用されることはありませんでした。女性が外で働くようになったことが、食器洗い機の普及を促したといわれます。
 ピレネー山脈の中腹にあるアンドラ公国がインターネットと税制(関税なし、所得税なし)だけで、富裕国になるという奇妙な話も紹介されています。「投票権を持たず、ここに住んでいない4分の3の住民は、アンドラの空気が澄みきっているからではなく脱税のためにここに住民票を置いているのだ」。タックスへイヴンもまた、現代の資本蓄積がもたらした現象かもしれません。

 われわれは世界で最初に近代工場が生まれたのはイギリスだと思いこんでいます。しかし、それはまちがいだと著者は述べています。近代工場が生まれたのは、新大陸の植民地で、それは砂糖工場でした。
 砂糖の生産には迅速さが求められます。その作業は何百人もの奴隷と労働者を必要としました。「ヨーロッパ人は、多額の資金を投じて工場を建設し、大量の奴隷を朝から晩まで酷使して、自分たちの飽くなき欲求を満たそうとした」。その結果、砂糖はヨーロッパや北アメリカで大量に出回るようになり、だれでも手にいれられる気軽な商品となっていきます。
 ところで、産業革命の中心は綿工業にあるといわれながら、その原料である綿については、これまであまり論じられることはありませんでした。もともと綿の栽培と加工が発達していたのは、インドや中国です。どの階層でも木綿の衣服はごく一般的に用いられました。日本で木綿が普及するのは17世紀の元禄時代以降ですが、インドや中国はそれに先行していました。
 ヨーロッパでは18世紀なかばでも、麻や羊毛が衣服の中心でした。イギリス人は毛織物をアジア各地に売りこもうとして、失敗しています。
 17世紀から18世紀にかけて、インド産の綿織物は最高級品で、モルッカ諸島の香辛料やアフリカの奴隷を手に入れるさいにも、こうしたインド産綿織物が代価として珍重されていました。17世紀には「インド製品のシェアは、世界の衣服市場の約25%を占めるまでに達していた」。これほど優勢を誇っていたインドの繊維産業が衰退するのは、イギリスがインド製品をまねて、産業革命によって綿製品をつくりだすようになったためです。そしてベンガルを支配したイギリスの東インド会社は、インドの繊維産業をつぶしていきます。
 しかし、綿製品の材料となる綿花はヨーロッパではできないため、新大陸で栽培せざるをえなかったのです。そのために投入されたのがアフリカ人奴隷でした。
 1861年に南北戦争が起こると、綿花の供給が不安定になってきます。それ以前から、イギリスはアメリカ以外の供給地を見つけるため、まずインドに、次にエジプトに目をつけ、綿花の栽培を推し進めていました。しかし、インドやエジプトの綿花は量的にも価格的にも、アメリカの綿花にはかなわなかったのです。
 トマス・エジソンが発電機をつくったのは1880年のこと、それ以降ニューヨークでもカリフォルニアでも、まっ暗な街並みが明るくなりました。これはまさに文明の恩恵でした。とはいえ、電線の材料には銅が必要になってきます。バハ・カリフォルニアにはボレオ銅鉱山がありました。ここに急遽(きゅうきょ)、メキシコじゅうの労働者が集められます。その労働は12時間交代制で過酷なものでした。明るい電気をもたらした銅線の背後には、メキシコ人労働者の血と汗があったのです。
 20世紀の工業化を支えたのは、何といっても石油でした。石油は最初は照明や暖房、建築資材や潤滑油として用いられていました。しかし、次第にエンジンの動力、プラスチックや化学肥料の原料、あるいは電力を生みだす源としても使われるようになり、一挙に用途が広がっていきました。
 最初、大規模に石油が発掘されたのはアメリカです。ロックフェラーをはじめとするさまざまな石油王が登場し、産業界に君臨します。メキシコでも欧米の資本によりタンピコ油田が開発されました。ところがメキシコでは利益を独り占めする石油会社にたいし、民衆のナショナリズムが高揚し、メキシコ政府はついにメキシコ石油会社の設立を宣言します。メキシコから締めだされた欧米の石油会社が次に向かった先はベネズエラでした。しかし、ベネズエラもついに1976年に石油産業の国営化を発表します。このように石油の奪い合いをめぐる歴史は変転きわまりないのですが、世界貿易の中心がいまも石油であることはまちがいないと著者は述べています。
「19世紀を代表したものが、石炭、鉄道、蒸気船だとすれば、20世紀を代表するものは石油、自動車、飛行機だろう」。その石油によってつくられた国家がサウジアラビアです。1902年、イブン・サウードはリヤドを奪還しました。第1次世界大戦では、イギリスに協力して力を蓄え、その後、ラシード家やハーシム家を滅ぼして、サウジアラビア王国を建国します。しかし、その王国は不安定で、いつ倒れてもおかしくない状況にありました。その危機を救ったのが石油でした。
 サウジアラビアで石油の生産がはじまったのは1938年、その採掘権を得たアメリカは王国の保護に回ります。そして、1973年の石油危機以降、サウジアラビア経済は膨張し、政府は大衆迎合的な政策を打ちだすようになります。石油産業も国有化されました。これからこの国がどのように歩んでいくかに注目しなければならない、と著者は結んでいます。

 著者はこの500年のグローバル化をふり返って、その間、いったい何が起こったのかと問うています。
 世界の人口が10億人を突破したのは1800年のことです。世界の人口は「それから120年後の1920年には20億人になり、70年後の1990年には60億人」を突破しました。人間の平均寿命もこの100年のうちに倍になったといわれます。
 これだけ人間が増えたということは、医療の発達もさることながら、人が生きていくのに必要な食料がつくられたということを意味します。世界中で穀物や商品作物をつくる農場が開発され、そこで増産された食料が交易を通じて各国、各地域に運ばれていきました。その分、地球上の森林は、相当な部分が農地に変わったということです。
 もうひとつ著者は「人がはじめてこの地球上に現れてから、この地球上にある全エネルギーの半分以上が1900年以降に使用された」とも指摘しています。また「人間は地上のすべての創造物[動物]と植物を支配下に置こうとしている」とも述べています。さらに「この地球は、穏やかな庭園や原野に覆われるのではなく、巨大な市場になってしまった」とも。
 たしかに人類が増えつづけ、いまや70億人に達したといわれる人口を支えるには、膨大な食料と資源を必要としていることはたしかです。グローバル経済は、けっきょくこの食料と資源の確保に明け暮れたといってよいのではないでしょうか。
 さらにもうひとつの問題。それは70億人もの人が平等に豊かに暮らしているわけではなく、世界の貧富の差がますます大きくなっていることです。いまでは「最も豊かな人々と最も貧しい人々との所得格差は、天文学的な数字に達している」のです。ビル・ゲイツの所得は、最も貧しい人1億人分に相当するという指摘には、驚きだけではなく、不条理さえ感じます。
「ほんのわずかな人間が、かくも多数の人々を支配した時代はこれまでなかった」と著者は書いていますが、これはビル・ゲイツにかぎらず、石油、エレクトロニクス、航空機、自動車、金融、保険などを掌握するかぎられた企業が、いかに世界を牛耳っているかを示しています。
 そして、いまは消費時代となりました。ローンやクレジットなど、簡単に借金ができる仕組みも生まれ、「買うのはいまでしょう」と消費を促します。さらに次々と新たな商品が生みだされ、その広告をみているうちに、それをもたない人びとは自分が時代に取り残されているような「不満足感」あるいは「欠乏感」を味わうようになっています。
 中国もあっというまに消費社会に突入しました。中国では「今では人民に奉仕するのではなくお客様に対して明るく親切に対応する人間像が求められている」といいます。中国の発展はたしかに目覚ましいものがあります。それは中国がグローバル化の波に乗ったからです。世界の最貧困者は過去25年のうちに3億5000万人減少したといわれますが、それは中国の発展がもたらしたひとつの成果だといえるでしょう。
 グローバル化への反乱はまだ起きていないと著者はいいます。たしかにいま世界は平和とはいえない状態にあります。2001年の9・11事件以降、世界は揺れつづけています。しかし、グローバル化に代わる新たな導きの糸を見つけるところまで、世界はまだ立ちいたっていません。
 最後に著者が懸念をいだいているのは、地球の将来についてです。地球温暖化はどのような結末をもたらすのか。石油などの有限な資源をこのまま使いつづければ、そのあとはいったいどうなるのだろう。水不足も深刻な問題となりつつあります。
 著者はいいます。
「近代文明は、膨大なエネルギーを使って自然に代わるすべてのモノを発見したのだが、いまやエネルギーを使用することによって、自然と、人間がつくった生きるための空間の双方が危機にさらされているということに気がつきはじめたのだ」
 現在が隠されていた真実を見つめなおし、そこから新たに出発しなおす時期にきていることはまちがいないでしょう。

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『グローバル経済の誕生』を読む(1)──商品世界ファイル(31) [商品世界ファイル]

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 近代中国史を専門とするケネス・ポメランツと、ラテンアメリカ史を専門とするスティーヴン・トピックによる共著です。ふたりの専門分野を合わせて、コロンブスのアメリカ「発見」以前から現代までの600年にわたるグローバル経済の全体像を浮かびあがらせようとする試みといえるでしょう。
 交易には経済原理では片づかない人間のドラマがあると著者は書いています。そして、実際、時間をさかのぼればさかのぼるほど、交易は現在の経済原理とは異なる方式でおこなわれていました。市場さえ存在しない地域も多かったのですが、アジアでは早くから海路による商業ネットワークが築かれていたのです。
 最初にえがかれるのは、ヨーロッパ人が世界を制し、市場の掟を押しつけるようになる以前。時代は16世紀から19世紀にかけてです。中国やインド、バタヴィア(インドネシア)、アステカ(メキシコ)、ブラジルなどが舞台として取りあげられます。
 中国では福建の華僑が登場します。人口が密集し、土地が痩せていたので、福建の人びとは昔から海外に進出し、独自の商業ネットワークを築いていました。しかし、中国政府は植民地をもつことに関心がなく、海外の福建人を保護しようとしませんでした。そのため、海外の中国人は、みずからの手段で、みずからの身を守らねばなりませんでした。
 19世紀にはいり、ヨーロッパが工業体制を確立するため、植民地を確保していくにつれて、福建人はその動きに巻きこまれていきます。白人入植者は福建人を重宝しました。「彼らは現地人のように汗水垂らす肉体労働者として働くわけではなかったが、植民地の労働力を確保するリクルーターとして、また食料雑貨店の経営者、質屋、代書人として労働に従事した」といいます。
 19世紀まで中国では、人民は絶対的為政者である皇帝に服属し、皇帝の任命した官吏によって支配されていました。しかし、周辺の国ぐには、使者を通じて中国の皇帝に朝貢品を献上することによって、国としての地位を認められていました。これが朝貢制度です。
 朝貢国は中国の皇帝から下賜品を頂戴し、それを高価な宝として珍重しました。朝貢は経済儀礼というより、むしろ外交儀式だったといってよいでしょう。そして、こうした朝貢体制のもとで、民間の活発な交易活動がおこなわれていたのです(ただし、日本は早くからこの朝貢体制、すなわち華夷秩序から離脱していました)。
 世界ではじめて精巧な紙幣がつくられたのは中国で、それは唐の時代でした。中国ではその後、銅銭が大量に供給されたものの、通貨不足は深刻で、宋の時代も紙幣が発行されていました。しかし、紙幣はしばしば増発されてインフレを招き、時に経済に打撃をもたらしました。
 新世界で大量に銀が産出されるようになると、16世紀から300年にわたって、「世界の銀産出量の半分近くが中国で硬貨として鋳造された」。言い換えれば、この間、中国にはヨーロッパから大量の銀(メキシコ銀)が流れこんでいたことになります。中国から銀が流出するようになったのは、アヘン貿易がさかんになってからです。19世紀になるまで、ヨーロッパはまだ世界経済の中心ではありませんでした。市場原理もまだ浸透していませんでした。
 ヨーロッパが進出するまで、世界経済の中心はアジアにあったといえるでしょう。アジアというのは、東アジアだけではなく西アジアも含みます。西アジアでは7世紀以降、イスラム世界が広大な商業圏を築いていました。
 イスラム世界はアラビアから発して、エジプト、シリア、トルコ、イラク、イラン、北アフリカ、スペイン、ソマリア、西アフリカ、インド、インドネシアへと広がり、その地域では貿易が盛んになりました。イスラムの貿易商は、中国と地中海をまたにかけて仕事をしていました。
 このヨーロッパ・アジア航路を横取りしようとしたのがポルトガルです。ポルトガルは15世紀末にインド航路を開き、その後、インドの港に多くの要塞を築いて、香辛料貿易を独占しようとします。だが、いかんせん実力不足で、1600年ごろにはアジアでの拠点もあやうくなっていました。
 11世紀から15世紀にかけてヴェネツィアが繁栄したのは、アラブ人と取引をおこなっていたからです。ポルトガルは直接アジア・ルートを開拓して、ヴェネツィアに対抗しようとしたともいえます。
 中央アジアを通る貿易ルートは、14世紀のマルコ・ポーロの時代以降、すたれていました。『東方見聞録』にはヨーロッパより中国のほうが治安が保たれ、商人は誠実だと書かれています。コロンブスはこの『東方見聞録』を読んで、ジパングに行きたいと願いました。
 しかし、実際に到着したのはアメリカでした。その後、アメリカの先住民はヨーロッパ人によってひどい目にあいます。著者はアメリカの先住民がなまけ者で、自給自足の生活をしていたというとらえ方は、まちがいだといいます。じつは、先住民はすでに大規模な交易をおこなっていたのです。
 アステカやマヤでは、トルコ石や銀、ナイフ、羽毛、ゴム、チョコレート、カカオ豆、金、黒曜石などが幅広く取引されていました。しかし、それは帝国への貢納が中心で、市場はその周辺にちらばっていたにすぎません。スペイン人がやってきてから、こうした商業ネットワークはたちまち消滅します。帝国そのものが崩壊したからです。
 ブラジルに住むトゥピナンバ族は、狩猟採集と原始的な農業を営みながら、ゆったりと暮らしていました。私有財産という考え方はなく、時折、オウタカ族と沈黙交易をおこなっていました。そこにポルトガル人がやってきて、かれらに鉄製の剣や斧(おの)を贈り(それはとうぜん部族間の戦争をあおる)、染料の原料となるブラジルウッド(これがブラジルという国名の由来でもある)を手にいれるようになります。最初は染料の交易が目的でした。しかし、ポルトガル人はそれにあきたらなくなり、次第に先住民の土地を占領し、そこにアフリカ人奴隷を送りこんで、砂糖プランテーションを経営するようになっていくのです。
 イギリス人がブラジルに進出したのは19世紀にはいってからだといいます。目をつけたのはコーヒーです。当時プランテーションのコーヒー園はさほど本格的に運営されていませんでした。イギリス人はその生産体制を確立し、陸上の輸送ルートを整備し、ヨーロッパとの定期航路をつくり、世界で初めてコーヒー市場をつくりだします。そのコーヒー園で働いていたのは、アフリカ人奴隷でした。
 ポルトガルが衰退したあと、東南アジアにはオランダ東インド会社が進出しました。著者は驚くべきことに、東南アジアの貿易商人は男性ではなく女性だったと書いています。オランダ人はこうした女性貿易商を取りこむことによって、コショウから陶磁器にいたる産物の貿易を独占していきます。そして、王国の支配層に食いこみ、現地の慣習法を利用しながら、植民地支配をめざしていくのです。
 18世紀半ばまで、アジアでは中国人やペルシャ人の貿易商が活躍していました。かれらは絹や金、ダイヤモンドなどを取引しながら、王国の徴税まで請け負うこともありました。インドにはペルシャの商人が進出し、たとえば王国に馬を売って、ひともうけしていました。馬はもちろん戦いのために用いられます。そして、そうした商人のなかからはダイヤモンドの採掘権を獲得する者や、貴族の称号を受ける者もでました。
 1557年にイギリス東インド会社がベンガル地方を征服したときは、ベンガル商人を大いに活用したといいます。東インド会社はイギリスのアジア貿易を独占する株式会社でした。現地の支配者に近づいてビジネスを展開し、時に軍事力を行使し、植民地支配への道を突っ走りました。アジアの伝統的な貿易商は、次第に排除されていきます。
 しかし、イギリスがインドを支配するようになったといっても、インドにすぐイギリスの資本が流れこんだわけではありません。イギリス人が考えていたのは、インドでいかにもうけるかということだけだったといってよいでしょう。イギリス人がベンガルの商人と組んでつくった銀行は、まさに本国に現金を送金することだけを目的としていました。アヘンやインディゴ(染料)、綿、紅茶など、カネになるものは後先考えずに輸出され、現地経済を好況と不況の渦に巻きこみ、最終的にはベンガル商人自体を没落へと追いこんでいきます。イギリスからインドに資本が投下されるようになったのは、それからでした。
 こうして眺めると、ヨーロッパ人が16世紀以降、いかに世界を駆け回って、みずからにとっての富の獲得に奔走したかがわかります。富とは莫大な利益をもたらす商品のことです。そして、その商品のもととなるものは、ヨーロッパには存在しませんでした。だからこそ、それらは叡知(えいち)と機略をかけて、つくりだし、奪い取らねばならなかったのです。
 いまでこそ信じられませんが、かつてヨーロッパにおいて、コショウやコーヒー、砂糖は、のどから手のでるほどに求められた商品でした。珍にして新奇、そしてかぎりなく人をひきつけることが、商品の本性です。それは単に有用という言い方だけでは言いあらわせない魔力(マルクスのことばでいえば物神性)、人生を変えてしまうほどの魔力を秘めていたにちがいありません。人びとはできるだけそれをいつでも手軽に手に入れることを望みました。
 商品の仕掛けはいつも単純です。ふだん身の回りでは手にはいらないものを、目の前に現出させ、それがあれば生活が豊かになり、一変するかのごとき幻想をつくりだすのです。実際、それによってある程度、人生は変わり、日々更新されていくのでしょう。しかし、商品には表には見えていない、裏の世界が隠されています。そして、それこそがほんとうの世界かもしれないのです。
 人の欲望には切りがあるはずです。ある程度の満足が得られれば、ほんらいは、それ以上を望むことはありません。ところが、商品世界はそれを許しませんでした。資本の欲望には切りがないのです。資本は資本の蓄積をめざす権力(絶対意志)であって、商品世界を拡大し、支配するためには、どんなこともいといませんでした。市場社会の広がりと浸透は、資本の物語として読み解かれねばならないのでしょう。

 輸送技術の進歩が商品世界をいかに進展させたかというのが、次のテーマです。しかし、その前にさまざまなエピソードが語られます。
 14世紀から15世紀にかけ、巨大船を建造する能力をもっていた中国は、明時代半ばになると海への進出を断念し、国内の治安維持に専念するようになります。木材は王宮建設をはじめとする国内需要のために利用されるようになりました。
「小型船で陶磁器や絹を中継地に運び、そこでインド産の綿花やインディゴを仕入れ」るというのが、中国貿易商のパターンだったといいます。そのため、中国人は大型船で海上交通路を独占しようとするヨーロッパ人に次第に対抗できなくなっていきます。
 ヨーロッパ人が航海技術を発展させたのは、海外から巨万の富を得るという欲望に駆られたからだといいます。それがコロンブスを動かした動機にほかなりませんでした。「欲望のとりことなったおろかな男」コロンブスが、「新大陸を発見したのは偶然に過ぎず、発見した大陸がどこであるのか、見当もついていなかった」と、著者は辛辣に指摘しています。
 18世紀の都市において、最大の問題は食料の安定供給を維持することでした。ロンドンはともかく、パリやマドリードではしょちゅう暴動が発生しました。近郊に広大な農地が広がり、運輸システムが整備されていないと、都市は発展しません。江戸やカイロ、イスタンブールなどが大都市に成長したのは、そうした条件が満たされていたからです。北京とデリーは肥沃な農地から遠かったにもかかわらず、卓越した運輸システムと徹底した食料管理によって、難点を克服し、大都市の繁栄を維持しました。
 ムガール帝国の交通路を支えたのはパンジャーラ族という遊牧民だったといいます。かれらは牛をつれて村から村へと渡り歩き、穀物や塩、衣類、ダイヤモンドなどを運んでいました。
 アメリカの西部開拓は自給自足農業のうえに成り立っていたわけではないという指摘もうなずけます。アメリカは釘にせよ衣服にせよ、ヨーロッパからさまざまな工業製品を輸入しなければなりませんでした。そのためには、穀物や米、綿花、タバコなどの農産物や木材を輸出する必要がありました。船積みの効率を考えて、東海岸には倉庫が建設され、商品が蓄えられます。ヨーロッパの工業製品はあまりかさばらないため、ヨーロッパからの船には移民を積みこむことができました。
 とはいえ、アメリカへの移民の中心はヨーロッパ人ではありませんでした。大半がアフリカ人奴隷であり、そのあと中国人がやってきました。19世紀までの移民は、ヨーロッパ人が100万人〜200万人、アフリカ人が800万人、中国人が400万人だったといいます。アフリカ人は使い捨ての奴隷として扱われました。その後、中国人があまり増えなかったのは、ある時点で強い規制がなされたためです。
 清朝期には中国人が大移動していました。満洲には100万人、四川や台湾にも移民の波が押し寄せていました。清朝は祖先の地である満洲や、先住民のいる台湾を保護するために、移民を制限しなければならなかったといいます。人口の移動は、おそらく人口膨張と農業開発が関係しています。
 シンガポールを建設したのは、イギリス人のトマス・ラッフルズ(1781〜1826)です。「イギリスはシンガポールを基点に、かつて東インド会社がイギリスとアジア間の独占的貿易をおこなった規模よりもずっと大きな規模のアジア域内貿易に参加し、利益を得ることができるようになった」。
 シンガポールは「自由貿易」帝国イギリスの拠点となります。その収入を支えていたのがアヘンだったという点も再確認しておくべきでしょう。
 いっぽう上海はアヘン戦争(1840〜42)終結後につくられた都市です。当初はアヘン交易の中心地として、のちには海上輸送の拠点、そして商業都市として発展していきます。もともとは外国人の居留地として位置づけられていましたが、しだいに中国人が押し寄せてきます。こうして上海は1920年代には「数百万の中国人と外国人が入り混じり、金と無秩序が支配する世界になった」。
 ヨーロッパとアジアの距離を短くしたのは、1869年に完成したスエズ運河です。これによってロンドン─ボンベイ間の船賃は、一挙に3割安くなったといわれます。
 スエズ運河開通後、世界は急速に変化していきました。インドネシアの島々ではタバコ、コーヒー、ココア、ゴムなどのプランテーションがつくられ、スズや石油の採掘もおこなわれるようになります。ベトナムやビルマの米は広東やロンドンに運ばれていきました。アジア各地にプランテーションが広がり、中国から大量の苦力(クーリー)がつれてこられました。こうしてアジアでは、民族の混交と分裂、差別と貧困が広がり、宗教やイデオロギーの対立も生じるようになります。
 鉄道は陸上貨物の輸送コストを削減し、大量輸送を可能にしました。時刻の標準化と商品の規格化が進みます。鉄道は軍隊を移動させるための手段としても利用されました。飢饉(ききん)のさいにも、鉄道は大いに威力を発揮しました。
「輸送とは、物理的に異なる地域を移動するだけでなく、社会文化圏の相違を飛び越え、さらには歴史や時代を飛び越えてしまうことである」と著者は論じます。輸送とは単なる空間の移動ではなく、時間の移動、つまり歴史や文化の移動でもあるのです。こうして、19世紀の輸送技術の進展は、地球世界をちいさくすると同時に、商品世界を拡大していったのです。
 メキシコでコーヒーがつくられるようになるのは1870年代ですが、鉄道ができるまでは、マヤの人びとがコーヒー袋をかついで、船着場まで運んでいたといいます。鉄道の建設によって、コーヒー農園は一挙に拡大し、コーヒー生産は倍増します。コーヒー豆はニューヨークに運ばれ、オハイオ州の巨大工場で焙煎(ばいせん)されて、全世界のコーヒーショップに卸されていきます。
 しかし、そうした輸送改良によって、メキシコのマヤ人の労働環境が改善されたわけではありません。かれらは安い給料ではたらかされ、代々債務奴隷にされ、コーヒー袋をかついで黙々と険しい丘陵を行き来していたのです。
 輸送の発達は一概に人びとを豊かにしたわけではありませんでした。単純に技術の進歩を喜べないのは、そこに(政治、経済を含めた)権力という契機がかかわっているからです。
 19世紀になっても、長距離輸送の中心は水上交通(水運)でした。しかし、蒸気機関が発明され、鉄道が敷かれ、道路が整備されてくると、輸送コストは大幅に下がり、商品輸送のスピードも一挙に高まります。かつての中継地や中間商人は没落し、世界中の商品が集まる都市が発展します。そして、植民地主義がますます強化されていくのでした。

 著者は、われわれがふだん愛用している嗜好品の裏側にも迫っています。ここで嗜好品というのはコーヒーや紅茶、ココア、タバコ、砂糖など、一度食べると癖になる食品を指しています。われわれはこうした嗜好品を、自由にスーパーやコンビニで好きなだけ買うことができます。しかし、そうした商品がどのように生産されているかは、ほとんど知らないものです。商品は包装された外見と値段が示されるだけで、その生産過程はほとんど舞台裏の隠された次元に遠ざけられているといってもよいでしょう。
 上に挙げたこれらの食品は、もともと限られた地域でしか栽培されていませんでした。コーヒーはエチオピア、茶は中国、ココアはメキシコやアンデス一帯、タバコはアメリカ大陸が原産地です。それがいまでは世界中に広がって、だれにとっても、なくてはならない生活文化の一部となっています。
 著者はこんなふうに書いています。

〈紅茶のないイギリス人、カフェオレのないフランス人、エスプレッソのないイタリア人、コーヒーブレイクのないアメリカ人を、誰が想像できようか。……コーヒーとタバコが男性関連だとすれば、チョコレートは女性と子供の飲み物だった。噛みタバコは庶民用、嗅ぎタバコと葉巻はエリート用となった。金持ちは、エレガントなサロンでメキシコ製の銀のティーポットから中国製の陶器のカップにそそがれる中国茶を飲んだ。他方、庶民は街頭の物売りから購入した紅茶を薄汚い粗悪なマグカップでちびちび飲んだ。〉

 問題は、先進国の消費者を楽しませる(あるいは狂わせる)、こうしたさまざまな嗜好品やドラッグ(コカやアヘン、マリファナなど)の背後に、どのような商品経済の論理がはたらいていたかということです。
 もともとカカオ豆はマヤやアステカの貴族や戦士に珍重されていました。興奮剤や麻酔剤、媚薬(びやく)として利用されていたようです。カカオ豆は貨幣としても用いられていました。これをスペインに紹介したのがイエズス会の修道士です。16世紀初頭のスペイン人はカカオ豆をつぶして水で溶かし、砂糖、シナモン、バニラを加えて飲んでいました。お湯で溶かし、ミルクを加えるようになるのは18世紀になってからです。そのころカカオの栽培地は、すでにベネズエラ、ブラジル、インドネシア、フィリピンにまで広がっていました。1828年、オランダ人のカスパルス・ヴァンホーテンがココアを発明、さらに19世紀後半にミルクチョコレートが開発されます。
 ここに挙げた嗜好品のうち、茶の木だけは中国が海外に流出することをしばらく阻んでいました。中国茶が紅茶に変貌するのは輸送中の偶然のできごとでした。イギリスでは紅茶と砂糖が結びついて、中国からの茶の輸入がどんどん膨らんでいきます。中国との貿易赤字を解消するために、イギリスが中国に持ちこんだのがアヘンだったという話はあまりにも有名です。いっぽう、イギリスは19世紀に中国から茶の木をもちだし、それをセイロン(現スリランカ)やアッサム地方(インド北東部)に移植することに成功しました。
 コーヒーはエチオピアが原産地でしたが、次第にイエメンの山岳地帯でもつくられるようになり、1400年ごろからモカで、1500年ごろからアラビア半島で飲まれるようになり、次第にイスラム世界全体に広がっていきました。ヨーロッパにコーヒーが伝わったのは1683年、オスマントルコ軍がウィーン包囲に失敗したあとからだという説もあります。トルコ軍が戦場に残したコーヒーをもとに、ウィーンでコーヒーハウスがつくられました。
 最初のころヨーロッパ人はモカから高いコーヒーを仕入れる以外に手だてがありませんでしたが、ルイ14世(1638〜1715)の植物園で、イエメンから持ち帰ったコーヒーの苗木が育てられ、それがアメリカ大陸に運ばれていくことになります。これがモカ・コーヒーのはじまりでした。
 しかし実際は、それ以前にコーヒーはヴェネツィア人によって、すでにヨーロッパに持ちこまれていたのです。イタリア人がエスプレッソを飲む習慣は、ヴェネツィア人によってはじまったといってよいでしょう。
 18世紀のロンドンでは、男たちがコーヒーハウスに入りびたりとなり、それが妻たちの怒りを買って、コーヒー排撃運動が発生します。イギリスが紅茶の国になるのは、そうした要因も手伝ったようです。こうしてイギリスは別として、スウェーデンでもプロイセンでもパリでも、アメリカでもコーヒー文化はたちまちのうちに広がっていきます。
 アメリカ人はイギリス人と対抗するためにコーヒーを愛飲するようになったといわれます。しかし、事実は奴隷制がコーヒー生産を支え、その価格を廉価にしたのです。最初はハイチでした。その後、ブラジルがコーヒーの供給元となります。著者によれば、アメリカ人がコーヒー漬けになるのは「コーヒーが奴隷制度で安くなり、しかもコーヒービジネスが儲かったからなのである」。
 砂糖についても述べておきましょう。サトウキビは昔からあったとはいえ、これを砂糖に精製したのはアラブ人で、ヴェネツィア人はアラブ人との砂糖交易で、大儲けしていました。ヴェネツィアに対抗して、ポルトガルは最初西アフリカ沖のサントメで奴隷による砂糖栽培をはじめます。それがさらにブラジル、そしてフランス領のハイチへと持ちこまれました。「砂糖プランテーションのオーナーたちは、古代ローマ時代を思わせる残忍極まりない奴隷労働を酷使して富を蓄えた」と著者は記しています。
 そのハイチで1791年に革命が発生し、1804年にハイチは独立を果たします。しかし、そのあとには何も残りませんでした。島は砂糖に代わるものを生みだせず、アメリカの勢力圏に吸引されていきます。こうして「熱帯の楽園」は「惨めで活気のない僻地」へと変わっていくのです。
 イギリスがインドのアヘンを中国に輸出したのは、中国との貿易赤字を解消するためだったということは前にも述べました。アヘンの流入により中国では銀が流出して、通貨危機が引き起こされ、アヘン輸入禁止措置をとった中国にイギリスは戦争をしかけます。それがアヘン戦争(1840〜42)でした。
 さらにイギリスはインドのアヘンで大幅な貿易黒字を出し、大西洋での貿易赤字を埋め合わせました。「アヘンは、中国、インド、イギリス、合衆国を結び付け、四角貿易を成立させ、さらにイギリスの工業化を推進し、19世紀における世界経済の革命的拡大を支える中心的役割も果たした」
 そして現在はコカインの時代です。コカはボリビアからペルーにかけての熱帯林に繁茂し、その葉はもともと宗教儀礼に用いられていました。スペイン人はそれをポトシ銀山でインディオたちを働かせつづけるために利用しました。
 コカコーラは1948年までコカイン入りの飲み物でした。麻酔薬としてのコカインは1860年ごろから使用されましたが、同時に麻薬としても根強い人気がありました。ドラッグストアでは、その名のとおり、かつてコカインが売られていました。20世紀になって、コカインは享楽品としては禁止されるようになるのですが、1970年以降はコカインが新たなブームとなり、たびたびの取り締まりにもかかわらず、密売人が横行しているのが実情です。
 ブーム商品の背景には、時に悲惨な風景が広がっています。生産の場であれ、消費の場であれ、商品の論理が力(契約と暴力)を背景としているという事実に、われわれはもうすこし自覚的であっていいのかもしれません。一皮めくれば、人類の社会も、経済学のきれいごとではすまされない、ホッブズ流の生存競争の渦中にあるのではないでしょうか。

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ジョヴァンニ・アリギの世界(2)──商品世界ファイル(30) [商品世界ファイル]

『北京のアダム・スミス』(2007年)は2009年に亡くなったジョヴァンニ・アリギの遺著で、かれの晩年の関心は、急速に経済発展を遂げる中国をどのように理解したらよいかに向けられていました。
 前著『長い20世紀』(1994年)が、15世紀から20世紀にいたる資本主義の長期的な歴史を扱ったのにたいし、この本は主に1960年代から2000年にいたる世界経済の変動を俎上(そじょう)にのせています。
 その序文で、著者は「20世紀後半の歴史を書くとすると、東アジアの経済復興というテーマ以上に重要なテーマは、おそらくない」と書いています。日本からはじまって、韓国、台湾、シンガポール、香港、マレーシア、タイへとつづき、そしていよいよ中国が登場します。なかでも中国の台頭に焦点があてられることは、タイトルからも予想できるでしょう。
 アダム・スミスは『国富論』(1776年)のなかで、西洋世界と非西洋世界の関係が対等となる時代を予見しましたが、その後、現実には両者間の不均衡はさらに拡大することになりました。しかし、現在、中国の経済発展により、スミスのビジョンが現実化しつつあるといいます。
 著者が東アジアの経済「復興」というのは18世紀くらいまではアジアのほうがヨーロッパより進んでいたという認識があるためです。本書では、東アジアが経済復興を遂げるなかで、とりわけ中国の台頭に大きな意味を見いだしています。「中国は日本や台湾のようにアメリカの臣下ではなく、香港やシンガポールのように単なる都市国家ではないからだ」というあたりに、その思想性がうかがえます。
 アダム・スミスの展望、すなわち市場社会にもとづく「文明共和国」──さまざまな文明が共存する世界共和国──は、はたして実現するのでしょうか。
 現実は混沌としています。これからやってくるのは、ひょっとしたら「暴力の加速する時代」であり、「世界規模のカオス」かもしれない、とも著者は感じてもいます。
 ふつう中国というと毛沢東やマルクス主義を思い浮かべるでしょう。ところが、そこにアダム・スミスをもってきたのが、本書の意外性があります。
 著者はマルクスについても論じていますが、現代中国の動きはマルクスよりスミスによるほうが理解しやすいといいます。著者のいうマルクスは、革命家マルクスでなく、資本主義の構造、とりわけ労働過程に鋭い分析を加えた経済学者として位置づけられています。スミスもまた新自由主義者がもちあげるような市場原理主義者とはみられていません。弱肉強食の資本主義の思想家ではなく、もっと牧歌的な市場社会を唱えた思想家としてのスミスです。
 著者のアリギはウォーラーステインに近い人のように思えます。ただし、ちがう部分もあります。15世紀以降、現代にいたるまで、世界では西洋(欧米)中心の資本主義的世界システムが築かれてきたというのが、ウォーラーステインの考え方です。これに対して、著者はこうした世界システム論では、周辺と位置づけられるアジアの動きがうまくとらえられないと主張します。
 18世紀後半に産業革命が起こるまでは、世界の大商業国はイギリスではなく中国だったというのが著者の見方です。その中国がなぜいったん没落し、20世紀後半になって復興したのか、そして中国の台頭によって、これまでの西洋中心の資本主義的な世界システムはどのような変貌(へんぼう)をとげようとしているのかといった問題意識を著者はもっています。
 中国の「社会主義市場経済」なるものの評価は、ずいぶん分かれています。「巨大な不平等と堕落」をもたらしているという見方があるいっぽう、国家統制された「市場経済」がもたらされたという見方もあります。
 著者は「社会主義市場経済」を「資本主義」ではないととらえています。そうなると、資本主義の分析家であるマルクスは参照できません。市場社会の発展に重きを置いたスミスを登場させるのは、それなりに理由があります。実際、スミスは中国ではヨーロッパ以上に市場社会が発展しているとみていました。
 ところが、ヨーロッパではその後スミスが予期していなかった産業革命(安価な鉱物資源の産業利用)が発生します。いっぽう中国はあくまでも農業が中心でした。何もおこなわれなかったわけではありません。農村共同体では、人口が増加するなかで、生活改善が試みられ、それが強い労働倫理となってあらわれました。著者はこれを「勤勉革命(industrious revolution)」と名づけています。
 19世紀における西洋と東洋の「大分岐」、それは「産業革命」と「勤勉革命」の分岐でもありました。
 19世紀における東洋の没落は実際の没落ではなく、西洋の急速な産業化と、それに伴う軍事技術の発達による相対的なギャップの広がりによるものにすぎませんでした。だが、この「勤勉革命」によって形成された「人間資源」は、その後、東アジアが産業化する過程で、大きな役割を果たすことになります。
 著者は「勤勉革命」に導かれた中国の「市場経済」を高く評価しています。そこにスミス『国富論』の理念が投影されていることは明らかです。

 著者はふたつの経済発展のちがいを強調します。
 ひとつは社会的枠組みをこわさずに、社会の潜在的な力を引きだすタイプで、いわばスミス型の「自然的」な成長です。
 もうひとつは社会的な枠組みを破壊して、新たな枠組みをつくりかえるタイプで、いわばシュンペーター=マルクス型の創造的破壊による成長です。
 著者の理解は通説とはことなっています。
『国富論』は「市場を存在させるための諸条件を創造したり再生産したりする強い国家の存在を前提していた」といいます。スミスは国防や治安だけではなく、市場を含む社会全体への国家の介入をむしろ擁護していたというのです。スミスの目的はあくまでも経済社会における市場化のショックをやわらげることにあり、スミス自身、「自己調整的な」市場を提唱したわけではなかったといいます。
 スミスはまた終わりなき「経済成長」を唱えたわけでもないといいます。かれにとって経済成長とは、人民と資本(蓄え)によって、空間(国)を満たすことにほかなりませんでした。
 スミスといえば分業論ですが、かれは労働者による単純な反復動作が経済効率を高めると評価したわけではありません。むしろ、労働が簡単な方法に集中することで、創意工夫が高まり、それによって技術進歩と専門化が進むとみていたというわけです。こうして生産単位が専門化すると、同時に社会的分業が進展することになります。
 農業と小売業(国内市場)→国内貿易→外国貿易へと経済が発展するのが、スミスの考える自然の経路です。ところが往々にして事態は逆の方向に進みます。立法者は非自然的な経路をできるだけ自然の経路に沿うよう修正していかねばならないとスミスは提言します。「スミスの最大の関心事は、国益を追求する中央政府の能力の確立とその保全にある」という理解も独特です。
 著者のスミス評価はきわめて高いといってよいでしょう。それはスミスが市場経済の緩やかな成長を「自然的な」経路とみて、それにたいし、資本主義的な発展は「非自然的な」経路と考えていたからだといいます。
 著者はシュンペーターとマルクスを資本主義の分析家ととらえています。
シュンペーターは、資本主義には「[従来の]社会的枠組みを破壊し、より大きな成長の潜在力をもつ新たな枠組みの出現のための諸条件を創造しようとする」傾向があるとみていたといいます。資本主義の特徴を資本の自己拡張ととらえ、その運動をたえざる均衡の転覆、いいかえれば創造的破壊としてとらえたのがシュンペーターでした。
 これにたいし、マルクスは資本主義を動かしているのは、終わりなき貨幣の蓄積への欲望だと考えていました。マルクスが資本主義の出発を16世紀における世界商業と世界市場の創出に求めるのは当然でした。したがって、著者にいわせれば、マルクスは「アジアの諸国や文明は、ヨーロッパの資本主義的な経路の出現を可能にした市場を提供したのであって、ヨーロッパのブルジョワジーの襲来に対して生き延びるチャンスはなかった」ということになります。
 著者によると、マルクスは「貨幣の一般的形式を表現するものとしての資本は、自らを制限する障壁を乗り越える、終わりも限界もない駆動力である」ととらえていました。資本主義はみずからを過剰蓄積による危機へと追いこむ傾向をもっているが、マルクスはもろもろの危機をバネに資本主義は経済社会の根本的再構成をはかっていくと考えていたといいます。
 マルクスはまた、競争の激化にともなう利潤率の低下に対応するために、資本は集積(規模拡大)あるいは集中(統合)によって、その危機を乗り越えようとするととらえていました。その際、重要になってくるのが信用制度、すなわち金融の役割でした。
 シュンペーターが焦点をあてたのは「創造的破壊のプロセスの両面としての好況と不況の概念」です。好況と不況のプロセスを通じて、古い経済構造は絶え間なく破壊され、革新を通じた新たな経済構造が創造されると考えられていました。
 シュンペーターは創造的破壊による革新を「新結合の遂行」ととらえ、そのような革新的行為者を「企業者」と名づけます。新結合は、工業における技術的・組織的革新だけではなく、あらゆる商業的な革新を含むものでした。
 資本主義は創造的破壊によって発展します。農民が生産手段から分離され、先住民が制圧され、ときに奴隷として扱われたのも、そうした破壊の一形態にほかなりません。資本主義とは「資本と権力の終わりなき蓄積の継起」として定義できる、と著者はいいます。
 しかし、ほんとうはもっと別の径路があってもよいのではないか。それは市場社会の自然で緩やかな拡大をともないながら、反資本主義的傾向をもつ経済発展、すなわち国家による資本主義の抑制をともなう経済発展のあり方です。著者はその路線をスミスに読みこみ、スミス経済学の新しいパラダイムをつくりあげ、それを現在の中国にあてはめて理解しようとしました。
 それはたしかに願望といえば願望でした。文化大革命や天安門事件が取りあげられていないことをみても、このあてはめが正しかったかどうか、評価しなおす必要があります。

 本書の最大のテーマは次のようなものです。
 世界資本主義システムにおいて、アメリカがヘゲモニーを握る時代は終わりつつある。中国の台頭はどのような意味をもつのか。そして、ポスト・アメリカ時代の世界はどんなふうになっていくのか。
 著者は大英帝国が世界のヘゲモニーを失いつつあった19世紀後半から20世紀はじめの状況──長期不況から大戦前の「ベル・エポック」にいたる状況──と、現在アメリカのおかれている状況とがよく似ていると考えています。
 1970年代以降、アメリカを中心とする世界資本主義システムには、「グローバルな乱流」が生じました。ポイントの年は1973年、1985年、1995年だったといいます。
 1973年には金ドル本位制が崩壊し、変動為替相場制がはじまりました。1985年のプラザ合意では、ドル危機の再発を防ぐため、各国の協調によりドルの切り下げ(日本の場合は円高)が誘導されました(1985年当初1ドル=250円だったレートは86年には160円となっています)。
 そして1995年の先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議での「逆プラザ合意」では、行きすぎたドル安(円高)を反転するための政治的合意がなされました(この年、円は1ドル=79円を記録しましたが、すぐ100円に是正されています)。
こうした動きは、いったい何を象徴していたのでしょう。
 著者はまずマルクス主義経済学者ロバート・ブレナーの説を紹介するところから、国際経済の乱流を解き明かそうとしています。
 ブレナーによれば、1950年代、60年代の好況期には「不均等発展」が生じ、アメリカに対するドイツと日本の急速な追い上げがみられました。アメリカの製造業者は国際競争に耐えきれなくなり、そのため通貨当局はドルの平価切り下げに踏み切らざるを得なくなります。そして、これが容易なことでは収まらず、けっきょくは変動為替相場制の採用にいたったというのです。
 その結果、アメリカ経済はにわかに活気づきます。
 しかし、1970年代後半のアメリカの財政赤字は、インフレをもたらしたわりに生産の増大をもたらさず、ドルが大量に流出することになりました。他方、アメリカの高い実質金利を求めて、世界中から莫大な量の資本が流入しはじめます。アメリカの金融資本は強化されました。ただし、それによってドルは上昇し、アメリカの製造業は大きな打撃をこうむります。そのため、アメリカの圧力によって、ドルの為替レートを引き下げる1985年のプラザ合意がなされたというのです。
 プラザ合意によって、アメリカの利潤率や投資、生産は回復します。しかし、とりわけ日本などは深刻な危機におちいりました。ブレナーによると、1995年の「逆プラザ合意」は「危機に陥った日本の製造業を救うため」の救済措置だったといいます。
 皮肉なことに「逆プラザ合意」は、日本などから巨額の資金がアメリカの金融市場に流れこむ結果を招きました。金融自由化もあいまって、ドル高への期待が高まったからです。これがアメリカの株式バブルへとつながり、経済全体の過剰な投機へとつながっていきました。
 本書が発行されたのは2007年のことで、2008年のいわゆるリーマン・ショック以前のことです。したがってバブルの破裂は予測されているものの、それは兆しとしか意識されていませんでした。
 とはいえ、著者は現在資本主義大国のおかれた状況は、19世紀末から20世紀はじめと同じ「長期的停滞期」にあるとみており、その結末が「恐慌」のようなものをもたらすにちがいないと予測していました。それは幸か不幸か的中することになります。
 もちろん、昔の大英帝国と現在のアメリカには大きなちがいがあります。かつては没落する大英帝国に挑戦する新興国の動き(たとえばイギリス対ドイツ)が見られましたが、いまのところはアメリカの圧倒的な軍事力に挑戦する国はなさそうです。したがって、暴力やテロ、戦闘は頻発するにせよ、20世紀前半のような世界戦争が起こる可能性は少ない、と著者はみていました。
 それに、もうひとつ特筆すべきことがあります。それは以前のイギリス以上に、アメリカが世界中から資金を吸収する仕組みを築いていることです。
 1世紀前と現在では危機の発現の仕方にちがいがあります。それでも「グローバルな乱流」はあり、それがどこに行き着くかを著者は見届けようとしていました。

 アメリカを中心に世界経済の変遷を整理したブレナーの分析を、アリギは次のように批判します。
 第1点。20世紀後半には、実質賃金の上昇が資本主義システム全体の収益性を引き下げ、同時にインフレを引き起こした。しかし、ブレナーは労使関係より資本家間の競争に目を向けるため、「水平的」(資本どうしの)対立と「垂直的」(労使間の)対立の複雑な歴史的相互作用をとらえそこなっている。
 第2点。ブレナーはアメリカ、ドイツ、日本の経済に焦点を合わせるが、この3国が世界の貿易に占める割合は1950年以降、次第に減少し、とりわけ90年代半ばからは中国のシェアが急速に拡大することを見逃している。
 第3点。レーガンとサッチャーが新自由主義を採用したのは、単に収益性の危機に対応するためではなく、資本主義システムにおけるヘゲモニーの危機が深まったためでもある。しかし、ブレナーは政治的要因についてほとんど論じていない。固定為替相場制が崩壊したのは、ベトナム戦争の影響が大きかった。
 第4点。ブレナーの問題は、かれが製造業にのみ焦点をあてていることである。「アメリカの金融・保険・不動産による企業利潤は、1980年代には製造業に追いつき、1990年には追い越している」。
 第5点。ブレナーは新自由主義者、すなわちマネタリストの「反革命」のもつ意味を見落としている。「マネタリストの『反革命』がアメリカの権力の衰退を逆転させることに驚くほど成功した主たる理由は、逆に、それがグローバルな資本フローをアメリカとドルへと大量に回帰させることに貢献したからであった」。
 こうした批判は、著者がブレナーの論述を、みずからのヘゲモニー移行論に組み入れようとした軌跡を示しているとみることができます。
 著者によれば、ヘゲモニーの危機には「予兆的危機」と「終末的危機」とがあり、このふたつは区別されなければならないといいます。アメリカは予兆的危機を迎えたあと、第2次世界大戦前の「ベル・エポック」にも似た「よき時代」を迎えました。しかし、それは長くつづきませんでした。2001年の9・11後の対応はアメリカの「終末的危機」を早め、中国のリーダーシップを強化することにつながりました。
 1985年のプラザ合意、95年の「逆プラザ合意」は、たしかに変動為替相場制の区切りでしたが、むしろ決定的だったのは70年代末から82年にかけてのマネタリストの「反革命」だったと著者はいいます。
 1970年代には「石油ショック」により、石油輸出機構(OPEC)が勢いづき、インフレ傾向が強まります。そして800億ドルの「オイルダラー」が生まれました。ユーロダラー市場の膨張は、固定為替レートの安定性を危うくし、システム崩壊を現実のものとしました。
 固定為替レート体制の崩壊は「商工業活動のリスクと不確実性」を増大させ、「資本の金融化」にはずみをつけることになります。その結果、通貨市場での金融投機が活発になります。
 こうして世界的な貨幣と信用の供給が、すさまじく拡大しました。これに見合う需要はなかなか存在せず、それがインフレ圧力となりますが、いっぽうで海外のものをなかなか手に入れられなかった国が、容易に資金を借りられるようになりました。
 70年代後半の問題は、世界中を駆け回るようになったマネーが、ワシントンの発行するドルと競争し、それが相互破壊的な競争をもたらして、アメリカのヘゲモニーの危機を深刻化し、大量のドル売りをもたらしたことだと著者はいいます。
 しかし、この巨額なドル売りによって、相互破壊的な競争が突然終了し、だれもが予期していなかったアメリカの繁栄がふたたび訪れるのです。
 この間に、アメリカは世界の余剰マネーを自国に集める金融装置をつくりあげたのです。しかし、これは遠からぬうちに終わり、そして、そのあとにヘゲモニーの「終末的危機」がやってくる、と著者は予想していました。
 企業は国内での直接投資や雇用を控えるようになって、資金を退蔵する(あるいは高額の役員報酬に回す)か、投機に回すようになります。世の中全体にカネが回らないから、景気はよくなるはずもありません。
 そして政治的には、アメリカのヘゲモニーが弱まり、新たなパワーをもつ国家(すなわち中国)の出現を許すことになります。
 さらに社会的には、持てる者と持たざる者の不平等が拡大し、これまでの中流階級が下層階級に転落していくことによって、社会全体にいらだちや投げやりな姿勢、あるいはやけっぱちな動き、抵抗や反抗が広がっていくと思われました。
 不幸なことに、この予言は的中しました。
 いまアメリカに広がっているのは、そうした状況です。そして、その状況は現在の日本の状況ともつながっています。
 ただし、著者はこの「終末的危機」によって、かつてのような「上り坂の資本主義大国と資本主義大国との間の軍拡競争」のようなものは発生しないし、また市場の分割のようなことは起こらないだろうと予想していました。
 いまのアメリカの繁栄は、最終的には世界中から集まる資金を「純粋な貢ぎ物」ないし「みかじめ料」(守ってやっているのだから、カネを出せ)として処理することで成り立っており、その試みが世界中を不安におとしいれていることはまちがいないといいます。
 そして格言「我とともにあらん、さすれば我が亡きあとに洪水よ来たれ」をかかげます。

 著者はソ連崩壊以降、みずからを「世界国家」たらしめんとするアメリカの無謀な試みが、9・11後のイラン・アフガン戦争をへて、けっきょく失敗に終わったこと、そしてアメリカのヘゲモニーがくずれて、ヘゲモニーなき時代になったことを指摘しています。あとにつづくのは「中国の世紀」なのだろうか、というのが著者の問いです。
 ところで、その前に、著者がアメリカの「ビジネスのひな型」はゼネラル・モーターズからウォルマートに移行したと指摘していたのが印象に残りました。ウォルマートというのは、アメリカに拠点をおく世界最大のスーパーマーケット・チェーン。ゼネラル・モーターズ(GM)は、いわずと知れたアメリカを代表する自動車会社です。
 著者によると、ウォルマートの経済規模はいまやGMより大きく、150万人の従業員をかかえ、売り上げはアメリカのGDPの2.3%を占めているといいます。
 アメリカでは自動車会社よりスーパーのほうが、大きな経済規模を占めるようになりました。GMが世界に生産拠点を広げながら、ほとんどアメリカ国内で車を製造し、販売するのに対して、ウォルマートは大半の製品をアジアの製造業者から集めて、消費者に販売しています。
 著者はウォルマートの台頭に、アメリカが「グローバルな金融集積地としての役割をもつ国家」になったことを重ねています。
 ウォルマートは労働コストの高い自国製品にこだわらず、便利なものを海外、とりわけアジア(なかでも中国)でつくらせて、それを消費者に安く提供することで、利益を確保しています。製造業者は、中国製と同じようなものをつくろうとしても割にあわないから、けっきょく仕事をやめてしまい、そこで働いていた労働者は失業してしまいます。アメリカのビジネスは工業中心から、明らかにサービス業、とりわけ金融へと移行しています。
 著者は前著『長い20世紀』のなかで、世界資本主義のヘゲモニーを担う中心国が、当初、産業国家として出発し、次に金融国家として成熟しながら、最後に新たな国にヘゲモニーをゆずっていく過程を一般的な傾向としてとらえ、それを600年にわたる資本主義の歴史のなかに描いてみせました。
 したがって、現在のアメリカもまた、世界の中心国たる位置を失いつつある途上にあると映ります。その象徴がウォルマートの隆盛でした。マネタリストの反革命が、アメリカを産業国家から金融国家に変質させてしまった、とかれはいいます。もっともそれは20世紀はじめの話で、2020年の時点ではウォルマートの力は相対的に弱まり、GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)が社会全体をおおうようになっています。
 アメリカ、日本に共通することですが、おそらく中国製品の大量流入が、70年代の宿痾(しゅくあ)であった世界的インフレの抑制に成功したことはまちがいないでしょう。しかし、それとともに同じような商品で、中国製品と対抗しなくてはならなくなった企業が苦戦を強いられたのも事実です。
 国内の競争がさらに値下げに拍車をかけました。賃金は上がらなくなり、日本では非正規社員の割合が増えました。経済成長率は停滞します。好況感がわかないはずです。
 ジャーナリストのジェームズ(ジム)・マンは、アメリカが共産党独裁義国家、中国の世界貿易機関(WTO)加盟を安直に認め、それによって中国製品をアメリカ国内にあふれさせたのが、何よりもまちがいだったと述べていました(『米中奔流』)。かれは中国製品にもっと関税をかけ、中国の国際的な動きを監視し、中国内の民主化運動を支援せよと主張していました。
 とはいえ、いまや中国が経済大国となり、中国製品が世界中を席巻していることは、ほとんどだれもが認めるところです。この流れは、当面、収まりそうにありません。著者はこの事実から出発して、世界資本主義システムのなかで、中国の挑戦がもつ意味をとらえなおそうとしています。

 現在、アメリカが中国をどう取り扱えばいいのか迷っている様子は、本書からもうかがえます。

〈21世紀への変わり目における米中関係の問題は、もはやアメリカの中国への商業的アクセスではない。むしろ問題なのは、中国がアメリカに代わって世界でもっとも急速に成長している主要な経済圏になったという事実であり、中国が他国と同様に、アメリカへの商業的アクセスを求めているという事実である。〉

 アメリカは、どのように対応しようとしているのでしょうか。
 著者はロバート・カプラン(ジャーナリスト)、ヘンリー・キッシンジャー(元国務長官)、ジェームズ・ピンカートン(コラムニスト)の3人の論者をとりあげて、それぞれの対応策を紹介しています。
 中国に対抗する「連合」を結成して、中国を封じ込めようというのが、カプランの策です。米太平洋軍司令部(PACOM)を中心に日本、韓国、タイ、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、インドを結んで、一種の太平洋軍事同盟を形成するという構想で、これによって中国の太平洋進出を抑制しようというもの。一種の新冷戦戦略といえるでしょう。
 これに対し、キッシンジャーは、中国はソ連のような軍事的帝国主義国家ではないとして、冷戦のときのような封じ込めをこころみるのはおろかだと主張します。中国が採用している「平和的台頭」路線は、中国のいうように「既存の世界秩序を乱すことのない」成長なのであって、中国が台湾問題やいくつかの領土問題をかかえているにせよ、侵略に転じる可能性はないと判断します。
 ピンカートンの考え方は、中国との対立と和解を組み合わせるものといえるかもしれません。もはや大国間の戦争を想定するのは時代遅れであり、アメリカと中国は経済的にも密接に結びついている。封じ込め戦略は突発的な衝突を招きやすいので、避けなければならない。そのためアメリカは中国と直接対決せず、インドや日本などが中国と張り合うのを背後から見届けるのがよいという立場をとります。
 アメリカのアジア戦略、とりわけ対中戦略は、この3人の論者が示すように、三者三様に揺れています。
 アメリカの腰が定まらないのは経済学者のクルーグマンがいうように、アメリカが「中国の米ドル買い(そして安価な中国商品)に病みつきになってしまった」からでもあり、全面的な中国バッシングが起こりにくいのは、巨大な中国市場に魅力があることを隠せないからではないでしょうか。
 著者自身は、アメリカがどのような対中政策をとるべきかを論じているわけではありません。むしろ、かれは「将来何が起こり、何が起こらないか」を予測するためにも、過去にさかのぼって、西洋史の枠にこだわらず、中国がこれまで歩んできた道をふり返ってみなくてはならないと提案します。
 国家がヨーロッパの発明だと思うのはまちがいだと指摘するところからはじめています。「日本や朝鮮、中国からベトナム、ラオス、タイ、カンボジアまで、東アジアのもっとも重要な国々は、ヨーロッパの国々よりもずっと前から国民国家であった」。そして、これらの国々のあいだでは、朝貢貿易に加えて、私的な交易がくり広げられていたというわけです。
 しかも、ヨーロッパとちがって東アジアの特徴は、戦争が割合に少ないことでした。ヨーロッパのように、海外に帝国を築いたり、他国を侵略したり、互いに軍拡競争に走るといった傾向はまずありませんでした。
 ヨーロッパの国々においては絶えざる戦争によって、破壊的な戦争手段の開発が進み、また海外の資源獲得をめぐって、各国間の激しい争いが起きていました。
 アジアとの長距離貿易によって利を得ていたのは、むしろヨーロッパのほうです。鄭和(ていわ)のインド洋遠征は中断されるのに、コロンブスがアメリカを「発見」し、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開発するのは、まさにこの非対称性の反映だったともいえます。
 国内市場もまた西洋の発明ではなく、アダム ・スミスは、18世紀における最大の国内市場がヨーロッパではなく中国にあったことを認めていました。著者は南宋以来、明、清にいたる中国の市場社会の発展を細かく追い、スミスが示した豊かさへの「自然な」経路の典型は、むしろ中国に見いだされると論じています。
 さらに「清朝政府が開発の優先順位を、農業の改善、土地の再分配や開拓、国内市場の強化と拡大に割り当てたことは、まさにスミスが『国富論』で主張したことと同じである」と述べています。
 その後は、ヨーロッパが不自然な「世界史に類例のない創造的破壊のプロセス」を採用することによって、アジアの国々の自律性は失われていきます。中国経済がある時点で停滞におちいったという見方を著者はとりません。18世紀に中国は奇跡的な成長を遂げ、「本質的に新しいタイプの農民社会」を実現したとみます。それはヨーロッパの資本主義的発展とはことなる市場社会でした。資本家(商人)は社会の上層ではなく、下位の社会集団にとどまっていました。
 しかし、著者はいいます。

〈ヨーロッパの発展径路において典型的であった軍国主義と産業主義、そして資本主義の相乗効果は絶え間ない領域的拡大を推進し、またそれによって支えられていた……しかし中国と東アジアのシステムは、ヨーロッパのように海外への拡張と軍拡競争という道を歩まなかったため、拡張するヨーロッパの権力の軍事的猛攻撃に対し、脆弱(ぜいじゃく)なものとなってしまった。東アジアが猛攻撃を受けた際に、グローバル化するヨーロッパのシステムへと従属的に組み込まれたのは、必然的な結論だった。〉

 イギリスの資本主義的商品が中国になかなか浸透しなかったことはよく知られています。むしろ、茶や絹といった中国製品の魅力が、イギリスの綿製品を圧倒していました。そこで、イギリスはアヘンを輸出することによって、貿易のバランスをとろうという悪辣(あくらつ)な方略を思いつきます。これが中国からの大量の銀の流出を招き、清朝の財政を破綻(はたん)させる原因となります。アヘン戦争は起こるべくして起こった出来事でした。
 こうして中国はだんだんと「グローバルな資本主義システムにおいて、従属的かつ次第に周辺的となるメンバー」になっていきます。
 日本は明治維新による中央集権化を通じて、急速な産業化と軍事化を実現しました。その結果、日清、日露戦争に勝利し、一時は中国に代わって「アジアの盟主」になるかにみえました。しかし、それはアメリカによってはばまれました。
 日本の敗北によって、中国では内戦をへて中華人民共和国が成立します。
 著者は19世紀後半から20世紀前半にかけては、東アジアの発展経路が西洋の経路に収斂(しゅうれん)したが、20世紀後半にはそれが逆転して、西洋の径路が東アジアの径路に収斂するようになったと書いています。
 東アジアの近代は、中国中心から日本中心、そしてアメリカ中心へと推移しました。しかしベトナム戦争での敗北により、アメリカのヘゲモニーは揺らぎはじめます。それは日本の金融支援によって一時復権するかにみえましたが、最終的に強化されることはありませんでした。
 そこに中国がグローバルな市場として開かれるいっぽう、中国が世界中に広がる華僑ネットワークを通じて、海外貿易や投資にも乗りだすと、東アジアの構図は一変します。中国の成功は、「東アジアの再興のまったく新しい段階、つまりアジア地域の経済が中国を中心に再編される段階」を告げている、と著者は断言しています。

 外国資本にとって中国の魅力は「巨大で安価な労働予備軍」ではなく、「労働予備軍の高い資質」だと、著者は書いています。
 中国が台頭し、「経済的ルネッサンス」を迎えたのは、「中国が外国資本を必要とした以上に、外国資本が中国を必要とした」からです。中国の経済拡張は「外国貿易と投資に開かれている」。そのあたりが、昔の日本とちがうところだとも書いています。
 かといって、中国はしっかり国益を守っています。海外からの直接投資を認める場合も、それが自国に役立つ場合にかぎられているのです。規制緩和と民営化は慎重な配慮のうえになされ、政府は新規産業の創出、経済(輸出)特区の設立、高等教育、インフラ整備に力を注いできました。
 中国の経済特区には、労働集約型(部品生産や組み立て)の珠江デルタ[たとえば深圳(しんせん)]、資本集約型(半導体、コンピューターなど)の長江デルタ[上海]、中国版シリコンバレーというべき北京中関村などがありますが、その場合も中国政府は対外貿易だけを応援していたわけではありません。
 中国政府が何よりも優先したのは、産業化の基盤として教育であり、国内市場であり、さらには農業開発である、と著者は断言します。
 それは資本主義への移行というより、アダム・スミス的な市場経済重視の姿勢のあらわれだといいます。まず全国で外国の技術に対する企業者の情熱が生まれ、それによって国内市場が開拓され、最後に海外市場に向かうという方向は、まさにアダム・スミスの方策です。
 正規部門の労働者は雇用が保証され、医療や年金に対する給付金もじゅうぶんに支給されています。「国内市場の形成と農村地域における生活条件の改善」、これが中国政府が何よりもめざすものだ、と著者は断言します。
 中国の農村が豊かになったのは、1970年代後半から農業生産請負責任制が導入されてからです。それによって農業の生産性と農民の収入が一気に高まりました。加えて農村地帯に「郷鎮企業」が生まれ、農村の余剰労働力を吸収していったことも、農民の生活改善に役立ったといいます。
 郷鎮企業は中国経済に大きく寄与し、農村の収入を増やすとともに、国内市場を拡大する役割を果たしました。それはマルクスのみた農村の分解、あるいは「本源的蓄積」とはまったく異なるスミス的な発展経路であり、「産業(industrial)革命」ならぬ「勤勉(industrious)革命」のもたらした成果だったといいます。
 著者は鄧小平の改革を高く評価しています。この改革は企業者の活力を引き出し、一人あたり所得の上昇をもたらし、市場経済を引っ張っていく共産党の政治基盤を強固にしました。中国ではソ連とちがって、「農村の破壊ではなく、農民の経済と教育の高揚」を通じて近代化が進められたというのです。
 しかし、現在の中国に社会的矛盾がないわけではない、と最後に著者はつけ加えます。「一つは所得の不平等の大幅な拡大であり、もう一つは改革の手続きや結果に対する人々の不満の増大である」。各地で社会的騒擾(そうじょう)やストが頻発し、いっぽうで言論の自由が封殺されています。それがどういう方向にいくかは、だれにも予想できません。
「エピローグ」では、中国の台頭が世界の文明にどのような意味をもつかが論じられ、重要なのは、かつてスミスが主張したように、西洋人と非西洋人とのあいだに平等と相互尊重の姿勢が生まれるのかということだというテーマが掲げられます。
 著者は、アメリカが同盟国と中国を対峙(たいじ)させて「漁夫の利」をねらったり、昔ながらの「封じ込め政策」をとったりするのは、まったく時代に逆行しているし、むしろ世界を混乱におとしいれる危険性をもっている。かといって、キッシンジャーの考えるように、中国をアメリカのシステムに包摂しておくのも無理があるといいます。中国が南北対立の解消に積極的な役割を期待するとも書いています。
 締めくくりの一節はこうなっていますが、けっして楽観的ではありません。

〈新たな方向づけにより、中国が伝統の再興に成功し、自立した市場を基盤とする発展、収奪なき資本蓄積、非人的ならぬ人的資源の動員、大衆参加型の政治による政策形成を遂げることができるなら、中国が文化のちがいを尊重しあう諸文明連邦の形成に大きく寄与するようになる公算が高い。しかし、その方向づけがうまくいかなければ、中国が社会的・政治的混乱の新たな震央に転じる可能性もある。その場合は、北側(先進資本主義諸国)が巻き返しをはかって、崩れつつあるグローバルな支配を再構築しようとするかもしれない。あるいは、ふたたびシュンペーターの言い方を転用すれば、社会的・政治的混乱が、冷戦体制の消滅に続いて生じている暴力をエスカレートさせ、人類を恐怖(もしくは昇天)へと駆り立てていかないともかぎらない。〉

 お互い冷静になって、先を見つめなければなりません。

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ジョヴァンニ・アリギの世界(1)──商品世界ファイル(29) [商品世界ファイル]

 ジョヴァンニ・アリギ(1937〜2009)は、その著『長い20世紀』で、資本主義を「[資本の]継起的蓄積システム」と定義しています。かれのこの定義は、ブローデルの歴史分析と、マルクスによる資本の運動の把握から引きだされたものです。
 ブローデルは近代社会のシステムを三層構造として理解しました。
 いちばん下には物質生活の層、中間には市場経済の層、そして最上層に資本主義の層がきます。ブローデルの規定が特異なのは、資本主義と市場経済を同一視する一般の見方に対し、かれが「資本主義は、その登場と拡大を国家権力に依存し、市場経済と対立する」とした点です。つまりブローデルにとって、資本主義とは資本(産業や金融)と一体化した国家の経済戦略にほかなりません。これにたいし、市場経済の目的は、スムーズな経済循環による物質生活の確保にあります。
 継起的蓄積とは何でしょう。
 ここでアリギが持ちだすのは、マルクスによる資本の運動の規定です。英語でいうと、マルクスは資本の運動をM→C→M′の自己増殖過程ととらえました(G─W─G′)。つまり貨幣→商品→貨幣の限りなき膨張とみたわけです。
 資本主義の「継起的蓄積」がはじまった時期を、アリギはブローデルにならって、15世紀のイタリア都市国家の時代にみました。
 そして、それ以降の中心的な流れを(1)15世紀から17世紀のジェノヴァ・サイクル、(2)16世紀後期からほぼ18世紀全体のオランダ・サイクル、(3)18世紀後半から20世紀初めのイギリス・サイクル、(4)19世紀後期に始まり現在にいたるアメリカ・サイクルとしてとらえました。
 ヘゲモニーという言い方があります。
 ふつう覇権と訳されますが、そう言い切るとだいじな部分が抜け落ちてしまいます。アントニオ・グラムシは、コントロールとリーダーシップにヘゲモニーの発現をみていた、とアリギは書いています。力だけではじゅうぶんではありません。頼らせるようにしなくてはいけない。それによって相手を仕えさせるのです。国家というのはそういう存在で、世界には多くの国々を引っ張っていく覇者としての国家が存在します。
 現代から過去に射程を伸ばして、資本主義国家の原像をさがすと、中世末期の地中海世界に行き着きます。その後、世界のヘゲモニーを握ったスペイン、オランダ、イギリス、アメリカは、ある意味で地中海世界のシステムを引き継いで、多少のひねりを加えながら、それをより大規模に再現したにすぎない、とアリギはいいます。
 そこに見られるのは資本蓄積システムとそのサイクルです。
 資本と国家は一心同体でした。対立することもありますが、概して資本と国家は一緒にタッグを組んで戦ってきました。国家が資本の自由を認め、資本が国家をあてにする、そういう状態を資本主義と名づけることができるのではないでしょうか。資本主義ということばが誕生するのは20世紀になってからですが、そうしたシステムがはじまったのは15世紀の地中海です。
 イスラム商人に独占されていたアジアの富を直接手に入れたいという思いからヨーロッパの膨張は始まりました。アジアの富の取引を担っていたのが、中世末期の「4大都市国家」、すなわちヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、ミラノです。なかでも、アリギはヴェネツィアをきたるべき資本主義国家の「完全モデル」ととらえています。
 そのヴェネツィアに打ち勝とうとしたのが、ジェノヴァで、ジェノヴァはポルトガルとスペインを応援することによって、アジアの富を確保しようとします。ポルトガルは成功しましたが、スペインは失敗します。ところが、スペインはアメリカ大陸を偶然「発見」し、それがパワーと富の源泉となります。
 16世紀ヨーロッパで、スペインは圧倒的な力を誇っていました。しかし、イギリスやフランスが経済力をつけ、勃興しはじめます。スペインは教皇やハプスブルク家と組んで、これらの国を服従させようとしますが、ことごとく失敗します。とりわけネーデルラント北部7州は結束して、スペインからの独立をはかり、1648年のウェストファリア条約で新国家としての承認を勝ち取ります。それがオランダでした。
 ウェストファリア条約には、勢力均衡や内政不干渉といった政治原則のほか、貿易障壁の撤廃や商業の自由といった経済原則が謳われていました。これが近代国際システムの原型となります。
 オランダの通商・金融ネットワークは、スペインやポルトガルから奪い取ったもので、かつてのヴェネツィアよりずっと強大でした。オラニエ公マウリッツの考案した軍事技術が、オランダの力を支えていました。しかし、オランダの覇権は長くつづきません。
 1652年の英蘭戦争にはじまり、1815年のナポレオン戦争の終結にいたるまで、イギリスやフランスとしのぎを削る時代となるからです。
 当初はネーデルラントの支配をめぐる争いでした。それが次第に「富とパワーの源泉を取りこむ」ことへ次元が移ると、イギリスはアメリカにつながる大西洋の支配、さらには弱体化しつつあるオスマン帝国やムガール帝国の切り崩しへと向かいます。
 この時代の特徴は、資本主義と領土主義の結合にあるとアリギはいいます。具体的には、入植植民地主義と資本主義的奴隷制、経済的ナショナリズム──それらがあわさって、海外への膨張を促しました。
 世界商業と植民地から得られた利益を国内経済の形成へと誘導し、それによってますます多くの市民を「間接的、かつしばしば知らぬ間に、支配者の戦争と国家形成の努力を支えるために動員[する]」流れができつつありました。
 大陸から離れた島国であったために、イギリスは大陸の抗争に巻きこまれず、優位のうちに海外拡大をはたすことができました。ナポレオンのヨーロッパ支配を打ち砕き、ヨーロッパ協調の道筋をつけたイギリスは、自由貿易帝国主義のもとに、非西洋世界への植民帝国の拡大に乗りだします。
「植民地から提供させた帝国の献上品を、世界中に投下される資本に再循環させることで、世界金融センターとしてのロンドンの比較優位は、アムステルダム、パリという競合センターに対して、いっそう強まることになった」とアリギは書いています。
 イギリスの強さは自由貿易と帝国主義を結びつけたことにあります。世界の産物が自由にイギリスの国内市場に流入するいっぽうで、産業革命で生みだされた財が世界中に流れ、資産家の富が増大していきました。
 イギリス資本主義の本質は、ヴェネツィア型とオランダ型とスペイン型を合わせた世界経済=帝国にあったとアリギはみています。そのイギリスが19世紀末ごろから力を失っていったのは、ドイツやアメリカの挑戦に対応できなかったためです。
 北米大陸の端から端まで領土を拡張したアメリカは、世界の労働、資本、企業活動を引きつける「ブラックホール」になろうとしていました。いっぽうドイツは海外植民地の拡大に失敗したあと、強力な軍産複合体をつくりあげ、イギリスに対抗します。
 イギリスのヘゲモニーを引き継いだのは、大西洋と太平洋の二大海洋に接近できるという優位性をもつ大陸国家アメリカです。民族解放運動の流れのなかで、イギリスは次第に植民地を維持するコストに耐えられなくなっていきます。
 アメリカのヘゲモニーは「自由世界主義」とでもいうべきもので、「帝国主義」でも「自由貿易主義」でもないところに特徴があった、とアリギは書いています。それはアメリカを中心とする「自由世界」をつくる動きとなっていきます。
 アメリカは植民地をつくろうとはしませんでしたが、国内の産業を保護するいっぽう他国には門戸開放を求めていました。とりわけ第2次世界大戦後は、ブレトンウッズ体制とGATT(関税および貿易に関する一般協定)がアメリカの主導権を支えることになります。
 これが世界史の大まかな動きですが、以下、それをもう少し詳しくみておくことにしましょう。

 近代資本主義の揺籃の地は地中海世界です。
 商業につづいて金融が拡大し、資本が持続的に蓄積されるようになるのは14世紀ごろからで、その中心となったのはイタリアの「4大都市国家」、すなわちフィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア、ジェノヴァでした。
 これらの都市国家のあいだには、経済面で一種の棲(す)み分けがなされていました。アリギはこう書いています。

フィレンツェとミラノは、どちらも製造業と北西ヨーロッパとの陸路貿易に従事していたが、フィレンツェが織物貿易に特化していたのに対して、ミラノは金属製品の貿易に特化していた。ヴェネツィアとジェノヴァは、どちらも東洋との海上貿易に従事していたが、ヴェネツィアが香辛料貿易に基礎をおく南アジア回路の取引に特化していたのに対して、ジェノヴァは絹貿易に基礎をおく中央アジア回路の取引に特化していた。

 14世紀半ばから15世紀半ばにかけて4大都市国家間に抗争がなかったわけではありません。都市内部の対立も激しいものがありました。
 フィレンツェを例に取りあげてみましょう。
 13世紀後期にフィレンツェは織物産業の中心地として発達します。原料の羊毛は最初イタリア国内から集めていましたが、それが足りなくなるとネーデルラント、フランス、さらにはスペイン、ポルトガル、イングランドにも原料を求めるようになりました。
 フィレンツェでつくられた毛織物製品は、イタリア国内だけではなく、レバント(現在のギリシャ、トルコ、レバノン、エジプト方面)、さらにはフランス、イングランドにも輸出されていました。この毛織物貿易網が、フィレンツェの金融ネットワークに重なっていきます。
 英仏間に王位継承権をめぐって「百年戦争」(1337〜1453)がはじまると、イングランドは毛織物工業を「国産化」する動きに出ます。以前からフィレンツェの毛織物は高品質・高価格品へ次第に移行していたとはいえ、イングランドの「国産化」の影響は大きく、毛織物産業全体の生産量は徐々に落ちこんでいきました。
 1340年代にイングランドのエドワード3世がフィレンツェ商人から借りていた戦費を踏み倒したため、「大恐慌」が発生し、バルディとペルッツィの両家が倒産します。1378年には梳毛工(そもうこう)らの下層労働者が反乱を起こし(チオンピの乱)、一時、市の政権を握ります。下層ギルドの労働者が立ち上がったのは、旧来の毛織物産業が衰退したからです。だが、かれらが政権を掌握したからといって、経済が立ち直るわけでもありません。その政権はやがてひっくり返されます。
 そのあとはメディチ家に代表される裕福な商人一族による寡頭支配が半世紀つづきます。メディチ家はイタリア国内のみならずフランスやイングランド、フランドルなどにも支店を置き、各国政府にカネを貸し付けていました。
 メディチ家の収益は、大半がローマ教皇庁とそのネットワークを基盤にしていました。しかし「百年戦争」が終わると、メディチ家は次第に衰えていきます。ルネサンスはメディチ家の最後の輝きでした。ロレンツォ・デ・メディチ(1449〜92)は銀行業から得た利益を芸術や貧者の救済、政治につぎこみました。
 だが、時代は大きく変わっていきます。いわゆる「大航海時代」がはじまり、新大陸アメリカが「発見」され、インド・ルートが開発されると、地中海は経済の中心ではなくなり、イタリアの都市国家はかつての柔軟性を失っていきます。
 イタリアの4大都市国家のなかで、大航海時代に対応したのはジェノヴァだけでした。その代わり、フィレンツェとヴェネツィアには壮麗なルネサンス都市と海の都が残されることになりました。

 アリギは、ジェノヴァを資本主義蓄積システムの「第1サイクル」と位置づけています。なぜジェノヴァだったのでしょう。ジェノヴァ経済の要となったのは、1407年に設立されたサンジョルジョ銀行でした。
 アリギによれば「[ジェノヴァの]富の基盤は、中国に向かう中央アジア交易路が競争力をもち、ジェノヴァ企業がこの交易路の黒海『終点』で準独占的支配権を確立していたことにあった」といいます。ジェノヴァはクリミア半島沿岸部を支配し、中央アジア交易路を押さえていました。ところがモンゴル帝国の衰退とオスマン帝国の台頭によって、ジェノヴァの貿易は大きな打撃を受けます。
 ヴェネツィアがオスマン帝国やカタロニア、アラゴンと結びつくことによって、ジェノヴァを排除するようになると、交易路を失ったジェノヴァは万事休すかのようにみえました。残っていたのはサンジョルジョ銀行に集まっていた「過剰蓄積」だけです。
 しかし、破綻のなかから新たな道がみつかります。カスティリア貿易です。ジェノヴァ商人はコルドバ、カディス、セビーリャに出張所を設け、カスティリアの商業に食いこみます。
 ジェノヴァはイベリア半島南部とアフリカ北西部沿岸(マグレブ)に経済的拠点を広げていきます。目ざすは、マグレブに集まるアフリカの金と、大西洋航路でした。
 十字軍精神にあふれたポルトガルとスペインを動かしていたのはジェノヴァの資本でした。インド航路の「開発」とアメリカの「発見」の背後には、ジェノヴァの存在があります。クリストファー・コロンブス(クリストフォーロ・コロンボ)はジェノヴァ出身の商人でした。
 フランドルで生まれたハプスブルク家のカール5世(1500〜58)は、1516年にスペイン王(カルロス1世)となりますが、ジェノヴァの資本はかれを財政的に支えて、1519年に神聖ローマ皇帝へと押しあげます。ドイツの銀を握っていたフッガー家もカール5世の財政を支えるもうひとつの柱でした。ところが、アメリカから大量の銀がヨーロッパに流入するようになるとドイツの銀は太刀打ちできなくなり、フッガー家は破産に追いこまれ、ふたたびジェノヴァの銀行家の力が強くなるわけです。
 ジェノヴァはスペインの盛衰と運命をともにします。ピアツェンツァ(ミラノ南方の町)の大市(おおいち)はジェノヴァの資本が牛耳っており、ヨーロッパの金融センターとなっていました。しかし、スペイン領ネーデルラントの力が次第に大きくなってきます。
 ブローデルがフィレンツェやヴェネツィアでなくジェノヴァを「蓄積システムの第1サイクル」として選んだ理由ははっきりしています。それはジェノヴァこそが、その後のオランダ、イギリス、アメリカへとつづく世界資本主義システムを起動させる淵源となったからです。

 16世紀になると、資本蓄積の中心地は都市国家ではなく、それなりの領土をもつ国家へと移行しました。ジェノヴァとスペインのあいだには、アメリカ銀を金や為替手形に変えて、富の流通をはかる金融システムができあがっていました。オランダ独立戦争は、このジェノヴァ・イベリア結合を打ち破り、アムステルダムを世界の金融中心地へと変えていくことになります。
 もともとアムステルダムはバルト海交易(穀物と海軍物資)によって発展しました。そこから生じた余剰は土地開拓や農産品の開発にあてられていました。スペインからの独立戦争が始まるのは1568年のことで、プロテスタントのオラニエ家を中心にネーデルラント北部7州連合が形成されます。そして1600年ごろには実質的に独立を勝ちとり、1648年のウェストファリア条約によって、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)として承認されるのです。
 オランダの商人は、積極的で機敏な商業活動によって世界各地から集めた穀物や鰊(にしん)、香辛料、織物、ワイン、硝石(しょうせき)、銅、タバコ、カカオ、羊毛、絹、麻などを巨大倉庫に積みあげ、ヨーロッパ各地に販売しました。
 17世紀初頭につくられたアムステルダム証券取引所やヴィッセル銀行によって、ヨーロッパ中から貨幣資本が集まってくるようになると、アムステルダムは世界の通商と金融の中心となります。それを促進したのが1602年に設立されたオランダ東インド会社でした。それから1740年ごろまでがオランダの全盛時代です。重商主義時代がはじまります。
 オランダ東インド会社は東インド諸島(現在のインドネシア)で貿易を拡大するとともに、有利な条件を作るために広範な軍事活動をおこない、領土を征服しました。当時の国際商品である胡椒を含む香料の独占をはかったのです。その行動はまさに南米のスペイン人同様、残忍そのものでした。「しかし、この残忍性は、まったく企業的論理に内面化しており、それは収益性を破壊するものではなく、それどころか収益性を支えるものであった」とアリギは記しています。
 イギリスとフランスは重商主義を模倣し、オランダを追いかけました。オランダを模倣し追い越そうとした西洋の国々が、資本主義のパワーと領土(帝国)を獲得しようとしたのは悪しき必然でした。
 オランダの没落を招いたのは、アメリカ独立革命(1775〜83)と「バタヴィア革命」(1795〜1813)だといってよいでしょう。アメリカ革命でオランダはイギリスに対抗してフランスを支援します。そのため、イギリスから報復を受け、セイロン島とマラッカを奪われました。そして、その後、ナポレオンによる占領(バタヴィア革命=バタヴィア共和国の設立)により、決定的なダメージを受けることになります。

 オランダの金融支配力が衰退するのは、オランダがアメリカ独立戦争でフランスを支援したのにたいし、イギリスが報復を加えたことが大きいといえます。
 イギリスが世界のトップに躍りでたのは、18世紀末から19世紀初めにかけオランダとフランスを倒して、商業と金融の面で優位に立ったからです。
 そのころには大英帝国の大部分はできており、カナダ、カリブ海域、マドラス、ボンベイ、ケープ沿岸部、ジブラルタル、ベンガル、セイロン、ボタニー湾、ベナン、ギアナ、トリニダードを領していました。さらに1850年代には香港、オーストラリア、ニュージーランド、インド全土が帝国に加わります。これらの地域では、砂糖や綿花、茶、ゴムがつくられ、金、銀、銅、スズが採掘されていました。
 アリギによれば、「世界史上最強の領土主義的国家、かつ同時に資本主義的国家」であったことがイギリスの強さでした。
 それにいたるまでには長い歴史がありますが、とりわけエリザベス1世(1558〜1603)時代の改革と再編が、その後の展開を決定づけたといわれます。グレシャムの助言により、ポンドが安定したのもこの時代です。産業の発展も18世紀後半になって突然生じたわけではありません。14世紀にはすでに毛織物工業が始まっていたし、16世紀には炭鉱業や冶金業が発達します。
 そのころは、バルト海、地中海、インド洋の物資集積センターとしてのアムステルダムの優位はまだつづいていました。だが英蘭戦争(1652〜74)に勝利することよって、イギリスはタバコや砂糖、毛皮、奴隷などの中継貿易権や、インド、中国との貿易権を獲得します。またポルトガルと同盟を結ぶことにより、ボンベイや西アフリカ、ブラジルへと進出しました。イギリスの工業製品とアフリカの奴隷、アメリカの熱帯産品とのあいだの「大西洋三角貿易」が形成されるのは、18世紀初期です。
 オランダ人がイベリア人を追い落とそうとし、そのオランダ人をイギリス人が追い落とすかたちで、イングランドの通商帝国が徐々に形成されていきます。オランダは急速に貿易基盤を失い、金融へと特化していきます。オランダの投資はロンドンへと流れこんでいき、イングランドは世界的な貿易の中継地となりました。
 18世紀後半から19世紀にかけ、イギリスはフランスと戦いました。インドのプラッシーの戦い(1757)も英仏間の戦いであり、これに勝利を収めることで、イギリスはインド支配を確実にしていきます。インドのもたらした成果は大きく、これによってイギリスは外資依存経済から脱却します。その時期がまさに「産業革命」と重なっていたのです。
 19世紀にはいると、イギリスでは製鉄業が発展し、鉄道が建設され、繊維や機械などの分野でも大きな技術革新が起こりました。イギリスは貿易の自由化を唱え、世界中に鉄鋼や機械、繊維製品を輸出するいっぽう、各国から一次産品を輸入しました。
 このころイギリスはクリミア半島でロシアの膨張を抑え(1853〜56)、セポイの反乱(1857〜59)の鎮圧により、インド全土を支配するようになります。
 生産の拡大が一段落すると、1870年代から金融拡大の時代がはじまります。1873年から93年にかけて大恐慌が到来し、物価はほぼ3分の1に落ちこみました。生産と投資の拡大がつづいているときに大恐慌が発生したのは、何の不思議でもありません。金融と生産の異常膨張が恐慌の原因だった、とアリギは述べています。
 シティ(ロンドン金融街)には、世界を結ぶ金融ネットワークが形成されていました。その代表的な銀行家がロスチャイルド家です。
 19世紀後半の大恐慌を脱出に導いたのは、ヨーロッパ各国の軍備競争でした。ヨーロッパ各国の軍事費が幾何級数的に増加します。それにより経済は回復します。しかし、その結果が第1次世界大戦という破局をもたらしたことは言うまでもありません。
 イギリスはこの戦争に勝利することで、さらに帝国を拡大しましたが、帝国の経費は帝国の利益をはるかに上回るようになっていました。さらにポンドを基軸とする金本位制が崩れたことにより、第2次世界大戦後の帝国解体をまつまでもなく、イギリスの世界支配は終わった、とアリギは述べています。

 20世紀、とりわけ1930年代以降は、アメリカの時代となります。それが始動したのは19世紀末の大恐慌期でした。このころイギリスは産業よりも金融に重点を置く帝国になっていました。
 ヘゲモニーの衰退は突然生じるわけではありません。たいてい長い「二重権力」の時代がつづきます。1870年代から1930年代にかけては、イギリスとアメリカの「二重権力」が世界経済を支配した時代だったといえます。
 ふり返ってみれば、イギリスが世界経済のヘゲモニーを握ったのは、自由貿易帝国主義のおかげでした。自由貿易は精神の自由と結びついているわけではありません。だれにもさまたげられない貿易という意味です。それが帝国主義と結びついたところに大英帝国の特徴がありました。
 その象徴が大西洋の奴隷貿易で、人間自身が自由に売られました。当初、王立アフリカ会社が独占していた奴隷貿易は、民間にも開放されることによって、いちだんと促進されていきます。
 アジアの三角貿易も考えてみれば、ひどい自由貿易帝国主義です。当初、オランダの独占を崩せず、なかなか利益を上げられなかった東インド会社は、武力によって、大きな領土と商業的特権を勝ちとります。イギリス国内の圧力で、その特権を開放せざるをえなくなると、東インド会社は中国と茶の貿易を開始し、それを決済するためにインド産のアヘンを中国に輸出しました。
 しかし、この独占も廃止されて、中国貿易にも無数の民間商人が進出すると、アヘンはますます中国に自由に流入しました。ひどい話です。
 こういう悪の三角貿易をバネに、世界は単一の世界市場に統合されようとしていました。閉鎖的な経済では、とても手にはいらなかった物資が豊かに供給されるようになります。
 イギリスが世界に植民地帝国を広げたのは、本来は商品ではなかったもの、土地や人に帰属していたものを世界商品として組みこみ、それを自らの産業社会に統合するためでした。
 アリギは鉄鋼の生産増加が軍需と結びついていたことも指摘しています。とりわけ海軍は多くの大砲を必要としていました。18世紀後半から19世紀前半にかけての産業革命──蒸気機関の改善、鉄道、船舶の発達──は軍需が引き金になっていました。産業革命はこれまでの経済体制に大きな変化をもたらし、「従来の生活と労働の様式」を破壊し、社会に不安をもたらします。競争の世界が出現したのです。
 産業革命は自由貿易を前提としていました。それによって生じた世界産業の拡大は、「外国市場で投入物を調達し、産出物を売ることで可能となった対外経済に依存していた」からです。
 産業革命が進展するにつれ、インドでは、イギリスからますます安い機械織りの布地がはいり、在来の手織り産業は完全に駆逐されていきました。
 アリギはこう書いています。
「鉄道、蒸気船、さらには1869年のスエズ運河の開通によって、インドはイギリス資本財産業の製品とイギリスの企業のための……[保証された]主要販路になっただけでなく、ヨーロッパ向けの安い原料(茶、小麦、植物性油、綿、ジュート)の主要な供給地になった」
 イギリスが世界の金融を支配できた背景には、インドに対する膨大な貿易黒字がありました。まさにイギリスにとってインドは「金の卵」だったのです。インドの安い原料は、イギリス国内の豊かな生活も保証していました。
 ビスマルクのドイツはイギリスに対抗するため、極端な保護主義を採用します。ドイツには中央集権化された軍事=産業機構ができあがります。その終着点となったのが第1次世界大戦で、結果はドイツの悲惨な敗北を招きます。にもかかわらず、ドイツの挑戦はイギリスの没落を早め、それによってアメリカ体制への移行を促進することになるのです。

 イギリスが世界に領土を広げる帝国だったのに対し、アメリカは「大陸大の軍事・産業複合体」だった、とアリギは記しています。
 アメリカは従属国家、同盟国家に効果的な保護を与え、非友好的な政府に軍事的・経済的圧力を加えるパワーをもっていました。それに加えて、地理的な独立性、領土の広さ、豊富な資源を組み合わせることによって、資本主義を高度化していきます。
 企業の統合と組織強化、生産のスピードアップ、大量生産、流通の再編、通信・輸送手段の開発、大量消費によって、アメリカは資本主義の高度化を実現しました。新たな機械装置、良質の原材料、石油や電気などのエネルギーの利用、広大な土地、増大する人口が、そのシステムを支えました。
 世界経済のヘゲモニーがイギリスからアメリカへ移行するにつれ、生産の中心はアメリカに移り、イギリスは金融に重点を移すようになります。
 歴史的にみると、どの主導的国家も次第にその経済活動を、貿易・生産から金融の投機、仲介に移行するとアリギはいいます。生産の発展が貿易の発展とあいまって資本が蓄積されていく時代は、競争の激化によって、ある時点で頭打ちとなり、それからは過剰資本が金融(貨幣の貸し付け)に向かうようになるというわけです。
 しかし、金融中心の経済は、それ自体不安定性と攪乱に見舞われます。こうして古いシステムは危機に陥り、ひとつのサイクルを終えて、新たなシステム(資本蓄積構造)にヘゲモニーを譲るようになります。イギリスからアメリカに世界経済のヘゲモニーが移行したときには、こうした現象が生じていた、とアリギは分析しています。

 アメリカ経済は「生産過程と交換過程の垂直的統合」を特徴としているとアリギは述べています。イギリスは細かく分業化・専門化された会社とその相互取引が経済の伝統で、「フレキシブルな特化と金銭的合理性」を誇りにしていました。これにたいし巨大な産業組織がアメリカの特徴です。
「生産過程と交換過程の垂直的統合」とは、「最初の原料の調達から最後の製品の処理に至るまでの生産・交換の連続的下位過程を統合する」ことです。こうした巨大産業を動かしていたのが、テクノストラクチャーと呼ばれる高度の専門的経営陣です。
 広大で多様な領土をもつアメリカは、イギリスのような帝国を必要としませんでした。
 アメリカ産業が「垂直的統合」を目ざしたのは、広大な国土に対応するためでもありました。これに加わったのが「速度の経済」です。企業は大量生産による製品のコストダウンによって、新規参入を阻止し、市場を支配していきます。政府は保護主義によって、これらの巨大企業群を守り、次第に世界全体での競争優位を勝ちとっていきます。海外への企業進出はそのあとです。
 19世紀末、ヨーロッパでは大国間の軍拡競争が盛んになっていました。イギリスは帝国を維持しつつ多くの原材料を確保し、工業製品を循環・輸出することで貿易黒字を得ていました。その余剰資本はアメリカに流れていました。
 しかし次第に「生活と戦争の必需品」をアメリカに頼るようになり、アメリカ政府から借款をするはめになります。イギリス・ポンドとともにアメリカ・ドルが世界通貨の座に躍り出たのは、このころです。そうはいっても金融の中心はまだロンドンにありました。
 1920年代、アメリカの経済成長は著しく、貿易と戦争債権によるマネーが流れこむなかで、金融の流れは対外投資だけではなく、国内投機へと向かいました。そのバブルが1929年の株価大暴落によって破裂し、31年にポンドが金交換を停止すると、金本位制は終焉を迎え、各国は保護主義へとなだれ込みます。そして第2次世界大戦を経て、機能麻痺したイギリスの世界秩序に代わって、アメリカを中心とした新世界秩序ができあがるわけです。
 第2次世界大戦でアメリカはまたも連合国の武器庫としての役割をはたし、その金準備高は世界の70%を占めるようになりました。その結果、生まれたのがいわゆるブレトンウッズ体制です。ドルと金の固定交換比率(35ドル=1オンス)と、ドルに対する各国通貨の固定相場(1ドル=360円など)が定められます。こうしてドルを中心とした金融世界秩序が形成されました。
 戦後の冷戦によって、アメリカに集中した資金(余剰資本)は世界に拡散していきます。マーシャルプランの実態はヨーロッパに対する軍事援助にほかなりませんでした。熱い朝鮮戦争は新たな軍事支出を必要としました。
 多くの経済学者が、1950年の朝鮮戦争から1973年のベトナム和平パリ協定までの時期を「資本主義の黄金期」と呼んでいます。この時期、たしかに西側資本主義国は経済成長を持続させ、大きな利益を上げていました。
 そのあと、ブレトンウッズの固定為替相場体制がもたなくなります。1973年には石油ショックが起こります。アメリカは「軍事的ケインズ主義」と多国籍企業によって世界的パワーを追求してきましたが、それによって、ドルは世界に拡散し、もはや固定相場制が維持できなくなり、代わりにドルを基軸とする変動相場制が導入されることになります。
 これにより、アメリカは非兌換ドルを国際循環の中にたれ流すことが可能となりました。ドルの引き続く下落によって、外国市場でアメリカ製品の価格は下がり、アメリカ市場で外国製品の価格は引き上げられ、アメリカの輸出と収入は増大します。
 変動相場制は大成功を収めたようにみえました。だが、そこには新たな問題が発生したのです。変動相場制のもとでは、企業自身が毎日の為替相場の変動に対処しなければならなくなります。さまざまな通貨で、お金が企業の銀行口座に出入りするため、企業は為替リスクを避けるため、為替の先物取引をせざるを得なくなります。
 こうして金融カジノが開店します。ユーロカレンシーやオイルダラーもそこに流れこんで、金融のリスクと不安定性が増大していきます。1970年代には世界的にインフレが発生しました。
 アメリカは強大な軍事力を背景に、世界をアメリカのイメージにつくりかえ、第三世界の原料と第一世界の購買力とを組み合わせることで、企業の既得権益を拡大・確保することをめざしていました。これがアメリカ流の世界秩序だったといえるでしょう。その構図が1970年代に崩れたあと、アメリカの権威は失墜することになります。
 レーガン政権は金融引き締め策をとり、金利を引き上げて、世界から資金を吸収するいっぽうで、規制緩和によって企業の自由を拡大する方策をとりました。いわゆるレーガノミクスです。そのうえで、さらに借金財政によってソ連との軍事対決姿勢を強めました。
 ソ連の崩壊は資本主義の勝利とアメリカの繁栄をもたらすかのように思えました。だが、その後、アメリカはすでに超国家的となった金融市場をコントロールできなくなっていきます。「ふたたび危機がもっと厄介なかたちで浮上してくるのは、単に時間の問題であった」とアリギは予言しています。2008年の恐慌はまさにその実現だったのかもしれません。
『長い20世紀』が出版されたのは1994年のことです。その最終章で、アリギは現在進行形の変化と将来の可能性をどう見るかを論じていました。
 アリギによれば、ひとつの可能性は、機能不全におちいったアメリカに代わって、世界政府のようなものができることでした。たとえば主要7カ国会議(G7)や国連安全保障理事会のような超国家組織がじゅうぶんに役割を発揮して、全世界をリードしていくことが想定されていました。しかし、その後、世界はむしろ混迷を深めているようにみえます。
 アリギが考えたもう一つの方向は、アメリカをヨーロッパとアジアが支えていくという協調体制ができあがる可能性でした。そのさい、軍事力をもつアメリカが、これまでのような一国主義的姿勢をとるのではなく、世界と調和して、疑似帝国的な役割を果たしていくという構図が考えられていました。
 さらにもうひとつの可能性は、東アジアの台頭です。本書が出版された1994年の時点で、アリギは日本や韓国、台湾、シンガポールなど東アジアの「資本主義群島」に期待をかけていました。しかし、2009年に日本語版が出る時点では意見を修正して、日本の重要性をちいさく見積もり、中国が経済的に拡大する可能性をみるようになっていました。
 さすがに「アメリカのサイクル」が終わって、いよいよ「中国のサイクル」が始まろうとしているとは言っていません。アリギ自身は日本語版において、中国が「アメリカのリーダーシップに対する歴史的オルタナティブになりつつある」という慎重な言い回しをしています。
 しかし、最悪のシナリオは米中対決の可能性です。その場合、「世界はシステム的な長期のカオスに突入してしまうかもしれない」。戦争がもたらすのは「資本主義の歴史の終焉」かもしれないが、「人類の歴史の終焉」でもありうるとアリギは預言しています。この預言が実現しないことを祈るのみです。

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