ピケティの新社会主義論(2) [商品世界論ノート]

引きつづき、ピケティの新社会主義論をみていく。
累進資産税の実施にあたっては国際協力が欠かせない、とピケティはいう。税金逃れが生じる恐れがあるからだ。
しかし、国レベルだけでも、資産の透明性を高めることによって、資産への課税(不動産税と富裕税)が大きな効果をもたらすことはまちがいない。とりわけ、不動産税は、不動産の所有者が個人であっても法人であっても、情報登録を義務づけることによって、確実に課税することができる。
ピケティは、私的所有権を一時的所有権とし、社会的所有に置き換えることをめざしている。そのためには、憲法改正をおこない、企業の議決権共有や累進所得税、累進資産税、資本支給の決まりを憲法の条文に追加するべきだとも述べている。
また、政府は所得や資産の区分ごとに実際の税金支払額を公表しなければならないともいう。公表された情報にもとづいて市民は税制に関する議論を深め、議会も税のパラメーターを調整することができる。
現在、西欧では税収の内訳は、国民所得の10〜15%が所得税、15〜20%が社会保険料、10〜15%が間接税(消費税や付加価値税)となっている。しかし、ピケティによれば、間接税を正当化する理由はなく、間接税は所得税や資産税に置き換えられるべきだという。
こうした置き換えをおこなっても、全税収のうち、圧倒的な部分を占めるのは累進資産税ではなく累進所得税だ。社会保障費は独立財源として守られるが、資産税は若者への資本支給として活用され、所得税はベーシックインカム(最低所得保障)の財源として用いるというのが、ピケティの考え方だといってよい。
ベーシックインカムを拡張しなければならない、とピケティはいう。かれの提案では、ベーシックインカムは平均税引き後所得の60%に設定される。すべての成人がこの最低所得を保障される。ほかの所得が増えると支給額が減らされるのはいうまでもない。
ベーシックインカムは人口の3割ほどに適用され、その総費用は国民所得の5%ほどになるという。ベーシックインカムの目的は、少ない支払いしか受けられない人びとの所得を増やすことにある。
いうまでもなく、国には保健、教育、雇用、賃金、年金、失業手当などにたいする責任もある。さらに重要なのは公正な労働報酬にもとづく社会をつくることだ。累進所得税はそのきっかけになる。
教育システムを改善しなければならないとも書いている。現在のシステムは、エリート主義的な教育に重きを置きすぎており、多くの生徒が教育的に恵まれないまま放置されているという。
経済発展と人間の進歩は教育のおかげであって、神聖化された資本によるのではないというのがピケティのとらえ方だ。1980年代以降、アメリカでもヨーロッパでも教育格差が広がっている。教育投資への公正な分配がおこなわれていない。アメリカでもイギリスでも高名な私立大学にはいるには莫大な費用がかかり、金持ちが優位に立っている。
公平な教育というけれども、実際には偽善がまかり通っているのだ。公共教育投資も実際には一部の集団に片寄っている、とピケティはいう。教師の平均給与を上げるべきだし、初等教育と中等教育への投資をもっと増やすべきだ。高等教育の受益者には、社会的多様性がもっと反映されるべきだとも述べている。
地球温暖化は格差増大と並んで、現在、人類が直面する最大の課題である。その対策として打ち出されているのが、炭素排出削減であり、その方策として、炭素排出に課税すること(いわゆる炭素税)が検討されている。だが、それだけではじゅうぶんではない。自動車やエアコン、建物の断熱についても基準をもうけ、厳格なルールが適用されなければならない。
炭素税は累進所得税に統合することが自然だ。それを再生可能エネルギーへの移行費用に回す。炭素含有量は電気などに関してはすでに計測されている。また、炭素排出が多いとされる財やサービス、たとえばジェット燃料やビジネスクラスの航空券などに高い税率を課すことなども考えられる。
新しい社会主義がめざすのは公平な経済社会だけではない。それは政治レジームの変革とも結びついている。
現在の議会制民主主義のモデルは、格差増大に対応できていない。普通選挙は一人一票の原理にもとづいているが、実際には金銭的、経済的利害が投票を動かしている。政治資金が政党の政策に影響をおよぼしていることは、まぎれもない事実だ。
これにたいし、ピケティは企業の政治献金を禁止して、「民主的平等性バウチャー」の導入を検討せよという。これは国がすべての市民に5ユーロ程度のバウチャー(クーポン券)を渡して、各自がそれを気に入りの政党や運動に寄贈するというものだ。各政党はそれを政治資金とし、完全な透明性のもとで候補者を擁立する。
「民主的平等性バウチャーの中心的な狙いは、平等で参加型の民主主義を促進することだ」と、ピケティは書いている。それにより金権議会制民主主義を打破し、直接民主主義を拡大しようというのだ。
とはいえ、ピケティは直接民主主義を実現しようというわけではない。「直接民主主義が議会制民主主義の熟議に置きかわるとは考えにくい」とも述べているからだ。あくまでも「民主的平等性バウチャーの精神は、議会制民主主義をよりダイナミックな参加型にすることであり」、全市民が政党の政策と選挙公約に関心を向けることなのだという。
さらにピケティは国家の問題にふれる。「現在のシステムで最も明確な矛盾は、財と資本の自由な流通が、各国の税制や社会政策の選択肢を大きく制限する形でまとめられていることだ」
経済社会が国家単位でまとめられていることに、そろそろ限界が露呈しはじめているのではないか。公正の問題は、すでに超国家的な課題になっている。富裕国から貧困国への開発援助の流れも存在している。さらに環境問題や生物多様性、気候変動を考えてもグローバルな公正が求められる時代になっている。にもかかわらず、国家という枠組みは相変わらずだ。
文明国は財やサービス、資本の自由な移動を認めるようになっているが、人の移動はできるかぎり阻止している。「EUの特徴は、内部で自由な移動を実現しつつ、アフリカや中東からやってくる人については、貧困や戦争を逃れてきた人々を含め、制限が強いままだという点にある」。非ヨーロッパ移民にたいする敵意は増すばかりだ。
超国家的な公正にたいする考え方は、いまだに混乱したままだ。それでもピケティは国際間における「社会連邦主義」の推進を掲げる。当面はEU内部で共通の公正性を高める努力をつづけることが重要だ。グローバルな税制やグローバルな環境保護、研究促進、グローバルな人の移動についても、超国家的な議会で議論を深めるべきだろう。
こうした超国家民主主義モデルは、EUだけではなく、たとえばEUとアフリカ連合、EUと米国とのあいだでも確立できるはずだとも述べている。それにより多国籍企業への課税や地球温暖化への対処、移民の原則、開発援助のあり方などについても、いわば超国家議会において論議することが可能なはずだという。
とはいえ、世界社会―連邦制への移行が理想的すぎて、実際にはそう簡単ではないことも、ピケティは認めている。時代はそれに逆行しているからだ。
国際的な緊張を高めることなく、はたして世界社会―連邦制への移行は実現できるのか。当面は何カ国かのグループのあいだで、これを実行し、平和的にそれを国際レベルに広げていく努力を重ねるほかない。
大著『資本とイデオロギー』において、ピケティははっきりと新社会主義の方向を打ちだしている。
それは理想論すぎるようにみえるかもしれない。それでも注目しなければならないのは、ピケティが20世紀の社会民主主義の限界、ソ連型共産主義の抑圧性、ハイパー資本主義の暴走を踏まえながら、新社会主義=参加型社会主義を提唱していることだ。
そのことにふれることで、かれの新社会主義論の根拠がさらに明らかになってくるだろう。
ピケティの新社会主義論(1) [商品世界論ノート]

トマ・ピケティの『資本とイデオロギー』は大著で、全部読み切るには半年以上かかるだろう。それに、ぼくの頭ではたぶんとても理解しきれない。
ピケティの今回の本が大著になったのには理由がある。古代から現代までの格差の歴史をふり返ろうとしたからである。とりわけ20世紀の大転換を扱った部分はぱっと見しただけでも力がこもっている。資本主義の危機と、ふたつの世界大戦、社会民主主義の展開、その限界、共産主義の解体とポスト共産主義社会、そしてハイパー資本主義の登場と、20世紀は目まぐるしく変遷した。
それをここで過不足なく紹介するのは骨が折れる。もし元気が残っていたら、挑戦してみることにしよう。
今回は安直に『資本とイデオロギー』の最終章だけを読んでみることにした。「21世紀の参加型社会主義の要素」と題されている。
ここでピケティは、新社会主義を提唱している。
「1980年代の保守革命、ソヴィエト共産主義崩壊、新財産主義イデオロギーの発達によって、21世紀初頭の20年間で、所得と資産の集中は全世界で抑えのきかない水準に達した」と述べている。その結果、現在はさまざまなフラストレーションにあふれ、アイデンティティの亀裂と無闇なナショナリズムが世界じゅうをおおっている。
こうした状況ははたして克服できるのか。それとも、世界はこのまま混沌の時代に向かっていくのだろうか。
これにたいして、「私は今日の資本主義システムを乗り越えて、21世紀の新しい参加型社会主義の概略を描けると確信している」と、ピケティは言いきる。
いまどき、社会主義と思うかもしれない。
しかし、基本となるのは公正な社会だ。つまりだれもが、社会的、文化的、経済的、市民的、政治的な生活に参加できるようでなければならない。
ピケティが継承すべきだとしているのは、20世紀の西欧における社会民主主義であって、「ソ連などの共産主義国で試された(そしていまだに中国の公共部門で広く実践されている)、ハイパー中央集権型の国家社会主義」ではない。
ソ連とその影響を受けた国々によって、「社会主義」という用語が毀損されていることをピケティも認めている。しかし、かれがそれでも引き続き、社会主義という用語を用いるべきだというのは、とりわけ20世紀西欧における社会民主主義の経験と伝統を尊重したいと考えているからだ。
ピケティはみずからの提唱する社会主義を「参加型社会主義」と名づけている。それはどのようなものなのだろうか。
資本所有者が経済権力を専有するというのが資本主義の原理である。 その資本は私有財産(資産)と結びついている。
19世紀以来、こうした純粋な資本主義モデルを、各国は法制度や社会制度、税制によって規制してきた。
ピケティがめざす方向は、資本主義と私有財産を克服し、参加型社会主義(新社会主義)を実現することである。
それは何も暴力的な革命による必要はない。法律や税制を変えるだけで、かなりのことが実現できるというのである。
そのひとつとして、かれが挙げるのは、企業内部で徹底した権限共有をおこなうこと(資本の社会所有という原則を確立すること)。
もうひとつは巨額の財産にたいして累進課税をかけること(資産の一時所有という原則を確立すること)。
たったこれだけと思うかもしれない。だが、この変革のもたらす波及性は大きい。
その内容をみていくことにしよう。
まず企業内部での権限共有について。
具体的にいうと、これは取締役会だけではなく労働者代表も、企業内の議決権をもつようにする仕組みである。実際、ドイツやスウェーデンでは、こうした労働者参加の仕組みが実施されている。このことによって、すでに株主万能主義や短期利益主義を抑制した社会的・経済的な企業モデルが生まれつつあるという。
大株主の議決権にも上限が設けられなければならない。この生産的で公平な企業モデルには、これからさまざまな試行錯誤がなされるだろう。とはいえ、その方向は、社会に開かれた企業モデルをつくることによって、利潤追求に縛られた資本主義から生産システムを解放することにある。
次に累進資産税について。
ピケティは、際限のない所有権の集中を防ぐ制度的な仕組みを見つけなければならないという。そのためには、まずかつておこなわれていた相続と所得への累進課税を復活する必要がある。だが、それだけでは不十分だ。加えて、累進的な資産税が課されるべきだ。
現在、金持ちへの課税は、資産にくらべればごくわずかでしかない。多くの資産が免税になっており、金融資産にたいしても定率税しかかけられていないのが現状だ。
相続税を待つことなく、現時点で総資産(個人所有の不動産、事業資産、金融資産などの正味価値)に累進課税をかけるべきだ、とピケティはいう。金持ちは何十年かにわたり総資産の1〜2%を税として支払うほうが、遺産を遺族に残すときに20〜30%支払うよりも楽だとも述べている。
累進資産税の目的は、資産の循環を高め、財産の分散を促すためだ。現在、アメリカでは豊かな人びと(トップの10分の1)が総資産の70%以上を所有している。こうした状況が下層50%の人びとの経済機会を奪っていることはまちがいない。
ここで、ピケティは、これまで世界でおこなわれてきた農地改革を例に挙げる。農地改革はいまではほとんど誰もが正しかったと認める改革だ。農地改革によって、貧しい農民は自分の土地をもつようになり、田畑を耕して収穫を自分のものにすることができた。それ以前は、少数の地主の手に経済力が集中し、社会全体に貧困と対立を巻き起こしていたのだ。
しかし、ピケティにいわせれば、資産は農地だけとはかぎらない。かつての農業社会では、農地こそが資産だった。これにたいし現代では工業資産、金融資産、不動産が資産の中心となっている。いわば、現在の金持ちはかつての大地主と同じなのだ。そうだとするなら、累進資産税はいわば新時代の農地改革だというわけだ。
ピケティによれば、資産への年次累進課税、累進相続税、累進所得税の3つが、公正な社会の基本的税制となる。累進所得税には社会保障税と累進炭素税が含まれる。そして、だいじなのは、この税収によって、ベーシックインカムと公共支出のすべて(保険、教育、年金、その他)がまかなわれることだ。
ここでピケティはユニークな提言をしている。それは25歳になったすべての若者に、国がたとえば1500万円の資金を提供するというものだ。これをかれは「公的相続システム」と名づけている。この資金はどう使ってもいい。起業してもいいし、家を買ってもいいし、好きなようにつかえる。いずれにせよ、この「公的相続システム」は職業生活のスタート台になる。
その財源は、相続税と年次資産税だ。「公的相続システム」による資産の分散と若返りは、経済に新たな力をもたらすだろうという。
累進所得税について、ピケティはレーガン政権以前と同じ税率に戻すことを主張している。それは平均所得の10倍超には60〜70%、100倍超には80〜90%というものだ。
累進資産税は新しい税といえるが、重要なのは累進性だ。ピケティは、たとえばとして、全国平均より低い資産については税率0.1%、平均の2倍の資産には1%、100倍だと10%、1000倍なら60%、1万倍だと90%の累進性を提案している。これによると、億万長者の資産はただちに10分の1になる。
以上をまとめて、ピケティはこう述べている。
〈ここで提案した参加型社会主義のモデルは二つの大きな柱を持つ。まず社会的所有権と企業内の議決権共有、そして第二に一時的所有権と資本循環だ。これらは現在の私的所有権の仕組みを超克するために不可欠なツールだ。これらを組み合わせることで、今日の私有資本主義とは似ても似つかない所有権の仕組みが実現できる。これは本当の意味で資本主義の超克となる。〉
はたして、それは実現可能なのか。可能だとしても、そこには大きな落とし穴がひそんでいないか。ピケティの新社会主義論はまだまだつづく。引きつづき、考えてみることにしたい。
『貧乏人の経済学』を読む(4) [商品世界論ノート]

貧しい人たちは思いもかけぬ手段を用いて、稼ぎを得ようとします。かれらは天性の起業家だ、と著者はいいます。
ゴミ拾いから始めて、ゴミの分別をし、そこからリサイクル事業を立ち上げた人もいます。服飾学校を終えたあと、村の人に服飾を教え、中古ミシンを買い、縫製事業を始めた人もいます。その事業は大成功を収めました。しかし、それはごくごく例外です。
現実はといえば、多くの人の営む事業(商売)はとてもちいさくて、競争相手も多くて、ほとんどもうからないのです。インドでは1日2ドルほどの儲けがでればいいところだといいます。そういう人は、さらに融資を受けて、商売を大きくしようとはしません。
たとえ投資をして商売を大きくしても、商品を多く仕入れ、人も雇わなければいけないし、忙しい目にあうだけで、たいして儲からないことがわかっているからです。
本気で稼ぐつもりなら、どこかで壁を突破しなければなりません。それが起業のむずかしさです。たいていの人はそこであきらめてしまい、たとえ融資を受けることができても、その多くを別のことに使ってしまいます。
残念ながら貧乏な人の商売は働き口がないときに、何とか食っていくための手段でしかないようです。商売をするのはたいてい女性で、家事とかけもちです。
「貧乏人による多くの事業は、その起業家精神を証明するものではなく、むしろ彼らの暮らす経済がもっとましなものを提供してくれないというひどい失敗の症状なのかもしれない」と、著者は書いています。
そこで、成長著しいインドあたりでは、貧乏な人の夢は子どもに公務員か民間企業のサラリーマンになってほしいということになります。女の子なら、教師、公務員、看護婦が職業選択の上位を占めます。
特に公務員が人気があるのは、安定性への欲求が強いからです。「実は雇用の安定性こそが、中流階級と貧乏な人々との大きなちがいのよう」だ、と著者も指摘しています。
安定した雇用は人生の見通しを変えます。未来があるという感覚が与えられるのです。これは貧困の落とし穴にはまった人にはないものです。
都市への移住は貧乏から脱出するひとつの可能性を与えます。しかし、都市でも安定した所得が得られる仕事はごくまれです。出稼ぎはあくまでも一時的な収入を得るためでしかありません。それでも同じ村の人が都市に移住しているのなら、村のつながりをあてにして、都市でも何かの仕事を見つけられるかも知れません。とはいえ、都市で「よい仕事」を見つけるのは至難の業です。
著者はマイクロファイナンスの融資が10億人もの「はだしの起業家」を生み出すというのは幻想にほかならないと断言します。
〈マイクロ融資など、ちっちゃな事業を助ける手法は、それでも貧困者の生活において重要な役割を果たせます。というのも、そうしたちっちゃな事業は、おそらくこの先当分のあいだは貧乏な人たちが生き延びるための唯一の方法であり続けるからです。でも、それが貧困からの大量脱出になると思うのは、自己欺瞞でしかありません。〉
これはなかなか厳しい結論です。
それならば、マイクロ融資の手助けには限界があるとしたら、政治もまた救いの手にはならないという結論が導かれるかもしれません。
貧困国政府の無能ぶりと汚職はずいぶん前から指摘されてきた、と著者はいいます。たとえば、ウガンダでは、初等教育を改善するために外国からの援助をもらっても、途中でピンハネされて、その予算が実際に学校に届いたときには、ごくわずかの金額になっていました。
ところが、その調査報告がウガンダの新聞に発表されると、全国で怒りの声が巻き起こったのです。そして、ついには学校が自由に使える資金が増えていったという事実があります。
「小刻みの進歩とこうした小さな変化を積み重ねれば、時には静かな革命だって起こるのだ」と、著者はコメントしています。
途上国ではダメな政治・経済制度のもと、汚職や怠慢が横行しています。しかし、著者は、それでも「小刻みの進化」と「小さな変化」を積み重ねるなら、「静かな革命」が起こりうるのだというのです。
選挙方法のチェックと改善、公共サービスの情報開示と苦情の受け付け、村落集会の新しいやり方、そうしたこまごまとした点検と改革から大きな変化が生まれてくる可能性があります。とりわけそのなかで女性の果たす役割がだいじです。できることはいろいろ残っている、と著者はいいます。
途上国でも公務員がしていいこと、悪いことについてはたくさんの規定があります。しかし、公務員の給料が低く、監視もふじゅうぶんな場合や、裁量と目に見えぬ賄賂が横行しているところでは、つねに汚職と怠慢のリスクが発生します。
また紙の上でつくった官僚のルールが、現場と適合していないこともよく見かけられます。それは医療現場でも教育現場でも、しばしばあることです。多くの計画がかたちだけしか知らされず、実際に機能していないこともあります。それらはすべて改善の余地があります。
「大規模な無駄と政策の失敗が起こるのは何か深い構造問題があるからではなく、政策設計の段階できちんと考えなかったからであることが多い」という著者の指摘には聞くべきものがあります。
政策にたいする低い期待は、政策そのものの効果を奪っていきます。こうした悪循環を断つことがだいじです。政治といえば、「公共の利益」よりも「利益誘導型」の政治のほうが優位に立ちがちです。しかし、信頼できるメッセージがあれば、有権者は全体の利益につながる政策を支持するはずだ、と著者は述べています。
周縁部分で制度や政策を改善する余地はあり、こうした変化を持続し、積み重ねていくことが、「静かな革命」につながるのだというのが、著者の考え方のようです。
最後に貧しい人たちの生活を改善するための5つの教訓が示されています。
第1に、貧しい人は正しい情報をもっていないことが多く、それを伝えることがだいじだということです。
第2に、貧しい人はあまりにも多くさまざまな問題をかかえこみすぎており、たえず心配を強いられているが、預金にしても健康にしても、正しいとわかっていることを確実に実行すれば、現在の生活を改善できるということです。
第3に、貧しい人たちはこれまで市場や金融からも排除されていたが、マイクロファイナンスが新しい生活の可能性を開き、公共サービスの充実もますます求められているということです。
第4に、貧乏な国は貧乏だからといって、失敗を運命づけられているわけではなく、むしろ周縁から無知、イデオロギー、惰性を克服していけば、いくらでも改善の余地はあるということです。
第5に、悲観主義におちいらず、無理のない期待をもちつづけることがだいじであって、それは楽ではないが、不可能な道ではないということです。
最後に著者は貧困を解決する一般原理などはないと述べています。現場の実情を辛抱づよく理解することに努め、貧困から抜けだす道をさぐる以外にないのです。貧困は何千年も人類とともにありましたが、さまざまなアイデアを探求することで、だれもが1日1ドル以下で暮らさなくておいい世界に到達できるはずだと記しています。
われわれはおうおうにして自分の国のことしか考えず、それもしばしば自分に都合のいいことばかりを想定しがちですが、もっと世界全体のことに目を開くのもだいじではないでしょうか。そのことを本書は教えてくれます。
『貧乏人の経済学』を読む(3) [商品世界論ノート]

貧困の落とし穴から脱出するには、当の家族がみずからの力で脱出の方向を探る以外に方法はありません。すべての人を幸福にする社会主義はひとつの理想かもしれませんが、現実には存在しないといってもよいでしょう。だとすれば、いま現に存在する制度が、はたしてどの程度、貧困からの脱出を手助けする手段となるのかが問われなければならない、と著者はいいます。
人生にはリスクがつきものです。雇われていた会社を解雇される、夫と離婚する、子どもが引きこもりになる、事業に失敗する、干魃や洪水で田畑がだめになる、その他さまざまな困難が人を襲います。加えて、内乱や政治不安、金融危機や盗難、詐欺が生活を直撃することになれば、そこから立ちなおるのは、そう簡単ではありません。
いったん貧困のゾーンに陥ってしまうと、そこからはなかなか抜けだせなくなります。しまいには立ちなおろうとする意欲も失い、すっかり落ちこみ、何ごとにも集中できなくなるのは悲しい現実です。
貧しい人のあいだでも、できるかぎりリスクを避けるための工夫はなされている、と著者はいいます。たとえば所有する畑を分散する、家族のメンバーが多様な職業につく、出稼ぎにいくといったことです。貧しい一家が小作人になる道を選ぶこともあります。たくさんの仕事を掛け持ちする場合もあります。
村には困っている人を助ける助け合いのネットワークもありますが、それには限界もあります。
とりわけ健康上の問題が生じて、収入が落ちこみ、医療費もかさんだりすると、近所の助けだけでは間に合いません。そこで、仕方なく金貸しからカネを借りることになりますが、そうなると金利が積み重なって、借金がたちまち膨らんでいきます。
富裕国ではさまざまな保険が行き渡っていますが、途上国では健康保険を含め、貧しい人向けの保険はほとんどない、と著者はいいます。マイクロファイナンスのなかには、保険を導入しようとした機関もありました。しかし、保険にはいろうとした人はほとんどいなかったといいます。
なぜ貧しい人は保険にはいろうとしないのか。災害がおこったときは国が助けてくれるとたかをくくっているという見方もあります。保険をかけても、はたして元がとれるのかと疑いをもっている人が多いという見方もあります。
いずれにせよ、かなりの後押しと説得がなければ、貧しい人は保険にはいりたがらないといいます。保険会社への信用もいまひとつです。さらに、保険が支払われるのは、最悪の病気や事故の場合だけだということが、保険加入をためらわせています。
そのため、著者は当面は政府による介入が必要だといいます。政府が公共の資金を投入して、保険に補助金を出し、貧しい人のあいだにも保険システムが行き渡るよう努めるべきだと提言しています。保険会社を育成することは、途上国政府のひとつの任務といえるでしょう。
マイクロファイナンスについて考えてみましょう。
何も持たない貧しい人が商売をはじめます。路上に果物や野菜を並べて、それを売ります。屋台を引いて、食べ物を売ったりもします。その仕入れ費用やレンタル料はばかにならず、ほとんど稼ぎにならないこともあります。こうした貧乏な人たちの商売を手助けするためにつくられたのがマイクロファイナンスだといいます。
マイクロファイナンスの目的は、貧しい人への小規模融資によって、人びとを貧困の落とし穴から脱出させることです。銀行は貧乏人におカネを貸してくれません。金貸しは貸してくれますが、法外な利息をとります。それでも貧乏な人たちは金貸しからカネを借りて、その結果、悲惨な目にあうことが多かったのです。
マイクロファイナンスは、1970年代半ばにバングラデシュでムハマド・ユヌスがグラミン銀行をつくったときがはじまりです。以来、世界各地でさまざまなマイクロファイナンス機関がつくられ、現在、その利用者は2億人ともいわれます。
マイクロファイナンスの特徴は、個人に融資するのではなく、借り手のグループに融資し、連帯責任を負わせることだといいます。一定額を毎週ごと返済しなければならず、借り手は毎週、グループごとに集まって、決められた返済金額を融資担当者に渡すことになっています。南アジアのマイクロファイナンスでは、年利はほぼ25%ですが、債務不履行はまずないといいます。
マイクロファイナンスははたして貧困からの脱出に役立っているのでしょうか。奇跡的とはいえないが、まあまあの成果はもたらしているというのが著者たちの結論です。
それは多くの起業を手助けし、自転車や冷蔵庫、テレビなどの耐久財の購入に結びつくいっぽう、無駄な消費の抑制にも寄与しています。そのいっぽう、女性の地位はさほど上がっていないし、教育や保険への支出も増えていないこともわかっています。
マイクロファイナンスは全能ではありません。著者たちは、はっきりとその限界も指摘しています。マイクロファイナンス機関を特徴づける「貸し倒れゼロ」のこだわりが、多くの潜在的利用者にとっては厳しすぎるといいます。
マイクロファイナンスからおカネを借りて、新規事業をはじめ、それを成功させるには、相当の勇気と知恵が必要です。しかも、返済は連帯責任ですから、緊張関係もあります。
さらにいうと、マイクロファイナンスはあくまでも多くの貧乏な人に低金利で融資するのが目的なので、より大きな企業をめざす人にとってはじゅうぶんではないといいます。リスクをとりたがる人物にはまったく向いていないのです。ほとんどの融資はきわめて少額なままです。
著者はこう指摘します。
〈マイクロファイナンス運動は、困難はあっても貧乏な人に貸すのは可能だということを実証しました。マイクロファイナンス機関がどれほど貧乏人の暮らしを変えるかについては議論の余地があるでしょう。でもマイクロファイナンス融資がいまのような規模に達したという事実だけでも、驚くべき成果です。貧乏な人に向けたプログラムのなかで、これほど多くの人を助けたものはありません。でも、貧乏人への融資を成功に導いたプログラムの構造そのものが、もっと大きな事業の創設と資金提供への踏み台になれない原因になっています。発展途上国の金融にとって、次の大きな挑戦は中規模企業への資金提供手法を見つけることです。〉
限界はあるにせよ、マイクロファイナンスが多くの貧しい人を救っていることは事実のようです。
貯金の話にもふれています。
貧乏な人はほとんど融資をあてにできない。かといって、リスクを避けるための保険にはまずはいらない。貯金するかというと、貯金もしない。そんなふうに著者は書いています。
貧乏人はなぜ貯金しないのか。かれらも将来のことを心配していないわけではない。しかし、貧乏人でフォーマルな貯蓄機関に貯蓄口座を持っている人はあまりいない。かれらがよく利用するのは英語ではメリーゴーラウンド、フランス語ではトンタンと呼ばれる回転型貯蓄信用組合だといいます。
これは昔、日本にあった講のようなものです。何人か、あるいは何十人かのメンバーが定期的に集まって、共通の鍋に同じ金額を預け、ある程度の期間がくると、メンバーのひとりが、鍋の全額を受け取れるという仕組みです。いくつもの貯蓄信用組合(講)にはいっている人もいます。
このいわば講からおカネをもらった人はトウモロコシを買ったり、家を建てる資金の一部にしたりします。これは伝統的な創意工夫ですが、それはほかに代替案がないからです。
銀行は少額口座を扱おうとしません。管理費用がかかるからです。おカネを引きだすには引き出し手数料がかかるため、貧しい人は銀行口座をつくろうとしないといいます。
改善策がないわけではありません。たとえばグループを組んで、グループで口座をつくり、みんなで引き出しや預け入れをおこなうというのもひとつです。銀行が近くになくても、地元の商店に行けば預金ができるようにするというのもひとつの方法です。携帯電話を使って預金の出し入れを簡単にすることもできるでしょう。
しかし、そもそも預金しようとする人が少ないのです。預金を増やすには、たとえば少しお茶を控えるだけでいいのです。塵も積もればというわけですね。ところが、そうしないで、おカネがあればついつい使ってしまい、肝心なときにはおカネがないというのが実情のようです。
人間の心理と時間不整合はよく生じることだといいます。きょうはほしいものを買って、明日からはもっと有意義なおカネの使い方をするぞと決心するのは、よくある心理です。ところが明日になると、誘惑に負けてしまいます。その点、アルコールやタバコ、お菓子、お茶などは典型的な誘惑財だといいます。
収穫直後におカネを手にした農民が、その一部を貯蓄しないで、すぐに使ってしまうのには、あればパッと使うという心理がはたらいているのだろうか、と著者は推察します。
なかには娘の結婚資金として貯蓄するために、マイクロファイナンスから借金をするという人もいます。おカネを借りれば返済しなければならないから、無駄なおカネを使わないようにできるというのです。貯蓄をするために、わざわざ高い利子を払ってマイクロファイナンスからおカネを借りる必要はないのに、そうするのは転倒した心理ですが、少しずつ貯金しておカネを貯めようとしても、途中で使ってしまいそうで、自信がないというのもわかります。
しかし、こうした心理も貯蓄慣れしていないことから発しているのかもしれません。おカネがあれば、それを無駄づかいしかねません。どうせ明日誘惑に負けるなら、今日のうちに使ってしまおうというわけです。その結果、負のスパイラルが生じます。
能動的に預金するにはよほどの自制心を必要とします。サラリーマンならば、天引きで自動的に貯金することも可能ですが、日々ストレスにさらされている貧しい人が自制心を発揮するのはかなり困難なことだ、と著者はいいます。
こうして豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなるという構図が生まれます。
貯蓄のない貧しい人は、何らかの物入りがあれば、借金をしないわけにはいかず、借金をすれば、そこからなかなか抜けだすことができません。すると、ますますストレスがたまっていきます。
貧困の落とし穴から抜けだすには、長期的な目標と楽観主義が必要です。目先の気まぐれに流されず、無駄を切り詰め、ストレスを回避し、将来に希望をもつこと。そこから、貯金をしようという動機も生まれてくるはずだ、と著者はいいます。
できるだけ簡単に紹介しました。次回は結論になります。
『貧乏人の経済学』を読む(2) [商品世界論ノート]

食につづき健康が取りあげられます。
世界では毎年、5歳未満で亡くなる子どもたちが900万人いますが、そのうち2割がロタウイルスによる下痢が原因です。この症状は水を殺菌する塩素剤漂白剤と、塩と砂糖を含む経口補水液(ORS)で改善しますが、こうした手軽な方法が、上下水道のまだ普及していない地域では、ほとんど使われていない、と著者は指摘しています。
貧困と健康が密接に結びついていることはたしかです。不健康なら働けず、働けなければ借金がかさみます。健康を維持するには、蚊帳によるマラリアの予防、上下水道の整備などが大きな効果を発揮するのはまちがいありません。
しかし、こうした公衆衛生の普及には費用がかかります。でもたいした費用ではないのです。蚊帳もそうですが、水道がない場合は塩素系漂白剤を利用すればよいのです。しかし、多くの人はそれを利用しようとしません。
健康に関心がないわけではないのです。問題はかれらがむしろ伝統と習慣にもとづいて、困難を乗り越えようとすることにある、と著者は指摘します。インドでは病気になったとき、貧しい人びとが頼るのは、いまだに祈祷師と無資格の民間医なのです。民間医は注射に加え、やたら抗生物質を濫発しますが、その治療は「何の役にも立たないどころか害になる」と著者は憤慨しています。
さらに問題なのは予防措置を実施する政府の保健センターがうまく機能していないことです。保健センターは閉まっていることが多く、開いていてもおざなりな対応しかせず、村民にあまりあてにされていないのです。そのため、村民が信頼するのは昔ながらの方法で、相変わらず心療治療師や祈祷師に頼りがちになります。
しかし、移動式の予防接種キャンプを組織して村を訪れ、予防接種をすれば何か景品をもらえるというようにすれば、村人は集まり、予防接種の摂取率は高まるといいます。こうしたちいさなインセンティブも人びとを後押しすることになるのです。その意味では、ちょっとした工夫次第で貧しい村の健康を促進することが可能になる、と著者は指摘します。もちろん、そのさいには予防接種の効果にたいする説明も必要になってくるでしょう。
貧しい国の保健政策で第一の目標とすべきことは「貧乏な人々の予防的ケアをできるだけ容易にしつつ、同時に人々が得る治療の質を規制すること」だと、著者は論じています。
次は教育問題です。
教育は受けたほうがいいにきまっています。多くの国で小学校は無料になっています。しかし、途上国では、子どもの欠席率がかなりの割合にのぼり、中学校どころか小学校にも行かない(あるいは行かせてもらえない)子どもたちが多いといいます。
世界のほとんどどこでも小学校と中学校は設置されるようになってきました。学校に行く子どもも増えてきました。それでも簡単な文章を読んだり、簡単な算数ができたりする子どもの割合は低いのが実情です。
親からみれば教育は子どもへの投資であり、贈り物でもあります。しかし、それを嫌がる親もいます。教育におカネをかけるより、自分たちのために子どもをすぐはたらかせたほうがよいと考える親もいるからです。
しかし、教育による学習が高賃金の雇用と結びついていることはたしかです。中等教育を終えた人のほうが正規の仕事につきやすいし、自分の事業にしてもうまく営むことができるのです。教育を受けないまま仕事をしても、その成果には限界があるでしょう。
問題は途上国の学校制度そのものにある、と著者はいいます。2005年の段階で、インドでは公立小学校に通う5年生のうち47%が2年生レベルの文章を読めず、私立学校でも32%が同じ状況だというのです。しかも、6年生になるまで学校に通いつづける生徒は少ないのです。
途上国では、親は富を獲得する手段として教育をとらえがちです。「彼らにとって教育は宝くじのようなもの」だ、と著者はいいます。そのため、親は子どもたちを「頭のいい」子と「頭の悪い」子に選別し、「頭のいい」と思われる子だけに教育資金を集中的に投入するのです。その結果、かえって貧困の落とし穴から抜け出せなくなってしまうことがあるといいます。
教育制度自体がいまだにエリート主義を取っていることも問題です。多くの子どもたちはそれについて行けず、クラスも最高クラスと最低クラスに選別されていくことになります。最低クラスに配属された教師は投げやりになり、ろくに授業もしなくなります。
教師は落ちこぼれの子を無視し、親もその子の教育に興味を失ってしまいます。加えて多くの偏見とステレオタイプの思い込みが、子どもたちの教育機会を奪ってしまいます。
多くの発展途上国では、カリキュラムや教え方が、ふつうの子どもよりエリート向けにつくられています。そのため、教育にはごく一部を除いて、期待はずれの成果しか得られないのです。著者はあまりできない子どもたちをどう教えるか、そのため補習教育プログラムをどう組みこんでいくかがだいじだ、と主張します。エリートをつくるのもだいじですが、教育の本来の目的は、子ども全員がじゅうぶんに読み書き、計算ができるようにすることなのです。重要なのは、子どもたちを思いやりをもって扱い、ほんとうの潜在能力を発揮できるよう助けることだ、と著者は強調します。
「すべての子供が学校で基礎をきちんと学ぶのは十分可能だし、それだけに焦点を絞って取り組めば、実はかなり簡単に実現できる」。教師にしても、能力のある補習講師になるには、訓練はさほどいらない。そして、子どもたちが学教で自信をもつようになれば、かれらにも貧困の落とし穴から脱出できるチャンスが生まれるはずだ、といいます。
家族計画についても論じられています。
中国の一人っ子政策は有名ですが、インドでも一時、全国で強制的な不妊手術が実施されていました。しかし、この政策は国民の反発をくらい、インディラ・ガンジー政権の敗北とともに廃止されます。
日本ではいまや人口減少が懸念されていますが、世界全体の人口はまだまだ増えつづけています。人口増加は気候温暖化を引き起こし、食糧問題や水不足を引き起こします。人口抑制の必要が論じられているにもかかわらず、途上国では人口はいっこうに減る気配がありません。
途上国では、なぜ貧しい人びとが大家族をもとうとするのでしょうか。避妊法はもちろん知られています。とはいえ、とくに女性は、夫や義母、あるいは社会から、自分の望む以上に子どもをつくれというプレッシャーを受けているといいます。
著者にいわせれば、途上国では、多くの親が子どもをいわば金融資産と考えていることが問題です。子どもが多くいれば、自分たちが年を取ったときに、そのうちの誰かが面倒を見てくれるはずだという考えが、いまだに根強いといいます。
娘があまり喜ばれないのは、女性は結婚するものだし、そのときには持参金を持たせなければならないし、結婚すれば夫の家庭にはいってしまうと考えられているからです。そのため男の子がほしい夫婦は、男の子が生まれるまで子どもをつくりつづけます。伝統的家族のなかでは、女の子は労働力として評価されないかぎり、だいじにされず差別されるといいます。
豊かな国では、こうした考え方をする必要がありません。社会保障や健康保険、投資信託、退職金などが、老後の不安を解消してくれるからです。人生にはリスクがつきものですが、貧しい国では豊かな国ほどリスクを軽減する制度が整っていません。大家族をつくることは、そうしたリスクを軽減するためのひとつの防御策ととらえられているようです。しかし、子だくさんは同時に貧乏とつながるところにむずかしさがあります。
著者はこう書いています。
〈もっとも有効な人口政策とは、子だくさん(特にたくさんの男児)を不要にすることかもしれません。効果的な社会的セーフティー・ネット(たとえば健康保険や高齢年金)や、あるいは老後に備えた収益性の高い貯蓄を実現する金融商品の開発で、出生率の十分な減少と、おそらく女児に対する差別の緩和も実現できます。〉
しかし、はたしてそれは可能なのでしょうか。
こうした制度面の整備が次の課題となってきます。
『貧乏人の経済学』を読む(1) [商品世界論ノート]

ツンドク本の整理です。原著のタイトルPoor Economics を『貧乏人の経済学』と訳す理由はわからないでもありませんが、やや違和感があります。刺激が強すぎるというか、ちがうニュアンスを喚起させるというか、まるで自分のことを言われているみたいというか。最初『貧困の経済学』でじゅうぶんなのではないかと思ったりもしたのですが、それでは「人」に即したこの本の意図が伝わらないかと考え直したりもします。タイトルはむずかしいですね。
それはともかく、本書は開発経済学の専門家、アビジット・バナジーとエスター(エステル)・デュフロの共著です。バナジーはインド・コルカタ(旧カルカッタ)生まれの経済学者、デュフロはフランス人の経済学者(ともに現在マサチューセッツ工科大学教授)。ふたりは本書出版後の2015年に結婚し、2019年にノーベル経済学賞を共同受賞しています。
ぼく自身は、開発途上国の貧困問題について、ほとんど何も知りません。もちろんニュースなどで伝えられることもありますが、あまり深く考えたことはありませんでした。しかし、評判になっている本なので、読んでみるかと買い求め、それだけで満足し、ツンドク本のままになっていました。それを今回は思い立って読んでみようというわけです。おかげさまで、暇だけは財産で、当面、時間はあります。
とはいえ、最近は活字が以前にもまして頭にはいってこないし、読みはじめるとすぐ眠くなってしまう始末です。こっくりこっくり、同じページをいったりきたりして、なかなか前に進みません。中身もすぐ忘れてしまいます。そこで、いつものように、少しずつ読みながらメモにまとめてみることにしました。途中で挫折したら、あやまるほかありません。もっともぼくが挫折したところで、それを気にとめる人もいないでしょう。
「はじめに」で、「貧乏な人の経済学は、貧困の経済学と混同されることがあまりに多い」と書かれています。貧困の経済学はあまたある。しかし、それはほんとうに現実の「貧乏な人」に即して論じられているのかというわけです。
著者たちは「貧乏な人々が住む裏道や村に出かけ、質問をして、データを探す」ところからやりなおし、あらたな道筋をみつけようとしたといいます。
ここで注目されるのは、世界の最貧者です。2005年段階で、貧困国といわれる50カ国のなかで、1日1ドル以下で暮らす人が8億6500万人(全世界人口の13%)いました。その実際を知らなければ、さまざまな方策を立て、さまざまな援助をおこなっても、まったく空振りに終わってしまう、と著者たちはいいます。
貧乏の落とし穴にはまると、人はそこからなかなか抜けだせない。課題はあまりに大きい。それでも努力をつづける必要がある。「成功は必ずしも、見た目ほど遠いわけではない」と宣言するところから、本書はスタートします。情熱が感じられます。
世界の貧困問題はあまりにも大きく、手のつけようがないようにみえます。しかし、一つずつ解決していけばよいのだというのが、著者たちのスタンスのようです。
ところが、貧困問題を「大問題」として、一挙に片づけようという考え方も根強く存在します。たとえば国連顧問でコロンビア大学教授のジェフリー・サックスは、現在よりはるかに大規模な外国援助の必要性を強調します。
そのいっぽう、ニューヨーク大学教授のウィリアム・イースタリーは援助などは無意味などころか弊害が大きく、現地の人びとの自立を促すことにはならないと反論します。
著者たちの考えは、そのどちらでもありません。具体的なプロジェクトをつくって、それに適切な援助をおこなうことは必要だ。ただし、援助は何でもかでもやればよいというものではないと論じています。つまり、援助は有効なこともあれば、有効でない(かえって害を与える)場合もあるということです。あくまでも現場に即して、問題を理解し、適切な方法を見いださなければならないというわけです。
3つのiが政策の失敗や援助の低効果を招く原因になっているという指摘がおもしろいですね。それはイデオロギー(ideology)、無知(ignorance)、惰性(inertia)です。たしかにそうかもしれません。ただし、これは貧困対策にかぎった問題ではないでしょう。
ここからが第1部です。「個人の暮らし」と題されています。
まずは食の問題。
最初に目を開かされるのは、貧困といえば飢餓だと思うのはまちがいだ、と著者が指摘しているところです。たしかに大飢饉は起こりうる。しかし、世界で10億人が飢えているという見方は、けっして正しくないといいます。
おカネのない貧乏な人が、じゅうぶんに食べられないというのは事実でしょう。だからといって1日1ドル以下で暮らす人が、その少ない実入りをすべて食糧につぎ込んでいるわけではありません。アルコールやタバコ、お祭りに使っていることも多いのです。少し収入が増えても、それは主食に回らず、美食や嗜好品に向かう傾向があるといいます。
少なくとも現在の地球では、1日1人あたり2700キロカロリーが供給できるほど、食料はじゅうぶんに生産されています。絶対的な食糧難はありません。水道と公衆衛生の普及、重労働の軽減などによって、人の平均カロリー摂取量はむしろ減っています。飢えがあるとすれば、それは食糧分配の仕組み(さらに干魃や戦争)のせいです。餓えはもちろん大きな問題です。しかし、「多くの人が貧乏なままなのは、食が足りていないせいではない」と、著者たちはいいます。
とはいえ、こういう言い方は誤解を生むかもしれません。最貧層のカロリー摂取量が少なく、栄養不良が身体の発達に影響をおよぼしていることはたしかです。食べるものが増えて、それが栄養をよく考慮したものであれば、子どもを含め、体力もついて、一家の生活はより改善される可能性があります。
にもかかわらず、食事の慣習を変えるのはむずかしく、貧しい人びとはなかなかバランスのよい食事を取ろうとしないことが問題なのです。かれらは食事を改善するよりも、昔ながらの伝統にしたがって、結婚式や持参金、祭や葬儀などに収入の多くを費やしてしまいます。あるいは最近では、テレビや携帯におカネをつぎこんでしまいます。
貧困と栄養不良はけっして無関係ではありません。だからといって、貧乏な人には安価な穀物を与えればよいという食糧政策はまちがっている、と著者たちはいいます。問題はカロリー量ではなく、ほかの栄養素であり、バランスのよい食事なのです。慣習はなかなかあらたまらないかもしれません。しかし、少なくとも、お腹のなかの子どもと、ちいさな子どもにたいしては、その栄養状態が配慮されるよう、政府が保健所や学校、保育園を通じて必要な対策をとることはできるはずだ、と著者は述べています。
まだ、はじまったばかり。引きつづき読んでみましょう。
食につづいて、「個人の暮らし」では、健康、教育、家族計画の問題が論じられます。
ヒッケル『資本主義の次に来る世界』を読む(3) [商品世界論ノート]

ある段階を過ぎると、人びとの生活を向上させるためにGDPを増やす必要はまったくなくなる、と著者はいう。実際、1人あたりGDPは低いのに、驚くほど高レベルの福祉を実現している国は数多い。たとえばコスタリカ。アメリカよりはるかに所得が低いにもかかわらず、平均寿命は高い。韓国、ポルトガルもそうだ。フィンランド、エストニア、ポーランドも所得は低いが、アメリカよりずっと教育レベルは高い。
GDPが高くなくても、平均寿命、教育、識字率、所得を基準とする人間開発指数(HDI)が高レベルの国も数多く存在する。これらの国は質の高い公的医療制度や教育システムに多額の投資をしてきた。
それよりもむしろ、ある閾値を超えると、成長はマイナスの影響を与えると言ってもいいくらいだ、と著者はいう。富よりも貧困が生みだされ、不平等と政治不安が助長されるのだ。
アメリカで幸福度がピークになったのは1950年代で、それ以降、平均年収は4倍になったにもかかわらず、幸福度は横ばいか、むしろ低下している。その原因は富の不平等が増大したからだ。
〈不平等は不公平感を生み、それは社会の信頼、結束、連帯感を損なう。また健康状態の悪化、犯罪率の上昇、社会的流動性の低下にもつながる。不平等な社会で暮らす人々は、欲求不満、不安感、生活への不満がより強い傾向にある。〉
これに対し、幸福度の高い国は、しっかりした福祉制度を持つ国だ、と著者はいう。社会保障や休暇制度、住宅、託児所、賃金制度が充実していることに加えて、社会に思いやりや、協力、コミュニティのつながりがあれば、幸福度は高いと言える。高速道路や高層ビル、ショッピングモール、豪邸、自動車、きらびやかな施設は、経済発展の象徴かもしれないが、それは必ずしも幸福度とは結びつかない。
要するに不平等を是正し、公共財に投資し、所得と機会をより公平に分配する。それだけでいいのだ。それだけで、成長を不要とする繁栄がもたらされる。人々は広告に刺激されて、消費主義に走ることもなく、経済がさらに生態系に大きな負荷をかけることもない。公園やスイミングプール、娯楽施設、図書館、学校、病院など公共財の充実は人びとを豊かにする。公共財の存在は、所得を増やさなければというプレッシャーから人びとを解放する。教育機関も人を選別することが目的ではなく、人に知の喜びを与えるために存在する。
いっぽう、成長主義が目指すのは明らかに人に差をつけることだ。実際、1970年以来、アメリカの1人あたりGDPは倍以上になったが、この50年で貧困率は高くなり、実質賃金は低くなっている。利益のすべては事実上、富裕層に流れ、アメリカはむしろ退行している。
富裕国はもはや成長を必要としない。しかし、貧しい国は、平均寿命、公衆衛生、栄養摂取、所得をとっても、まだじゅうぶんな水準に達していない。人びとの生活を向上させるという点において、人間中心の成長は必要だ、と著者はいう。社会インフラを整え、土地改革をおこない、国内産業を保護し、所得を再分配し、生態系を守る経済を構築するために、成長をめざさなければならない。
グローバルノースの富裕国がグローバルサウスの貧困国の人びとと資源を組織的に搾取する構造はいまもつづいている。こうした構造を是正するための国際的ルールづくりも必要だ。
ここで、著者はあらためて成長のイデオロギーについて触れる。成長とは結局のところ、資本蓄積のメカニズムを加速させることにほかならない。だが、生態系が危機に瀕しているとき、この戦略は通用しないという。何のための成長かをはっきりさせなければならない。経済が成長しても格差が広がるばかりか、生態系の破壊が広がるとすれば、それに何の意味があるだろう。
気候変動を解決する技術を開発するためにも成長は必要だとする主張には何の根拠もない。イノベーションを促進するのは、むしろ公的な決定である。経済全体が成長しなければイノベーションはおこらないというのはへりくつにすぎない。
いまもGDPは世界のあらゆる場所で、いまだに進歩の指標となっている。しかし、状況は変わりはじめている。GDPに代わる新たな指標づくりが模索されている。ただし、新たな指標をつくればそれでじゅうぶんというのではない。問題は成長主義にストップをかけることだ。成長しなくても繁栄は可能だ。
いまとはちがう種類の経済を想像することは可能であり、それはコペルニクス革命に似ている、と著者はいう。それが、脱成長のビジョンだ。
高所得国はまず資源・エネルギー消費を削減する必要がある。それによって、生態系とのバランスを取り戻すことを目指さなければならない。
浪費的な大規模経済に終止符を打つことからはじめよう。まず家電製品やハイテク機器、家具などの計画的陳腐化をやめさせることだ。家電製品の寿命を最長25年まで延ばす技術はすでに存在している。メーカーにはずっと長い保証期間を義務づけてもよい。そうなればもっと耐久性があってアップグレード可能な製品が販売されるようになるだろう。製品が長持ちするようになれば、ムダな廃棄はなくなり、人びとは絶えず機器を取り替える苛立ちや出費から解放される。
もうひとつは広告を減らすことだ。1920年ごろまで、人々はどちらかといえば消費に消極的で、必要な物を買うだけだった。ところが大量生産をおこなう企業にとって、需要を喚起する広告は次第に不可欠なものになった。いまは世の中、広告だらけだといってよい。それは消費意欲を刺激し、著者にいわせれば「公共の空間だけでなく、人々の心も植民地化している」。
パリやサンパウロなどでは、中心部から広告を締めだす動きがはじまっている。経済学者のなかには、広告は消費者の合理的判断を助けるために必要だという人もいるが、広告はむしろ「人々に不合理な判断をさせるために設計されている」と、著者はいう。
さらに、商品を購入して自分の所有物にしても、たまにしか使用しない物もじつに多い。たとえば芝刈り機や電動工具もそうだ。これはおそらく月に一度、1、2時間使うだけで、あとはほとんど眠っている。こうしたものは、コミュニティで共同購入し、保管して、必要なときに使用できるようにすればいいはずだ。
自動車に求められるのは、電気自動車への切り替えもだいじだが、何よりもその総数を大幅に減らすことだ。そのためには公共交通機関への投資を増やすとともに、カーシェアリング、レンタカーを促進することが求められる。ヨーロッパではすでに都市や郊外でも、自転車を活用する動きがはじまっている。
食品廃棄も大きな問題になっている。あまりにも多くの食品が廃棄されている。農家でもスーパーでも家庭でも。脱成長の観点から言えば、食品の廃棄を少なくするだけで、無駄な生産を抑え、農地を縮小することができる。
牛肉産業は多くの牧草地と飼料用地を必要とするため、森林破壊の最大の要因となっている。著者は牛肉に代えて、鶏肉や植物性タンパクをとることで、牧草地を減らし、森林や野生動物の生息地に戻すべきだと主張している。
ほかにも縮小すべき産業としては、軍事やプライベートジェット機、プラスチック製品などの産業がある。オリンピックやワールドカップのために、新しいスタジアムなどを作ることもばかげている。できれば民間航空も縮小し、鉄道で行ける場所は鉄道を利用するようにすればいい。
生態系に負荷をかける消費はできるだけ減らすべきだ。もし消費する製品が半分になったら、工場や機械も半分ですみ、輸送用の飛行機やトラック、船も半分になる。ゴミも半分になり、すべてのインフラを整備、維持、操作するための資源やエネルギーも半分ですむ。
すると仕事はどうなるだろう。製品の無駄が改善されると、関連産業の雇用は減り、労働者は解雇され、政府は失業対策に追われるようになるかもしれない。しかし、そうならない道もある。週の労働時間を減らし、必要な労働を公平に分配すれば、完全雇用を維持できる。斜陽産業から他の産業への転職を容易にし、誰も取り残されないようにする。
公的な雇用保障制度を導入し、職を求める人はコミュニティの必要とする仕事につけるようにし、必要な生活賃金を払うようにするべきだ。加えて、労働時間の短縮は、職場と家庭の両方でジェンダー平等を促進することになる。余暇やボランティア活動、学習、友人や家族との交流も増えるだろう。環境に配慮する姿勢も強まるはずである。
脱成長のシナリオのなかで、すべての人は生活するにじゅうぶんな所得を得られるか。もちろんだ、と著者はいう。カギは公平な所得分配にある。労働時間短縮と雇用保障が前提になる。役員と従業員の報酬比に上限(たとえば10対1)を設け、基準を超える所得に100%課税するという方策もひとつだ。富裕税を導入し、10億ドル以上の超富裕層に課税するという手もある。富裕層が得ている所得は、その多くが不労所得なのだから。
生活の質の向上を目指さなければならない。著者はロンドンに住んでいるが、ロンドンの家賃はあまりに高いという。賃金の上昇はそれにとても追いつかない。家賃統制制度を設けるべきだろうという。
ほかに、医療と教育、インターネット、公共交通機関、エネルギー、水、図書館、公園、スポーツ施設なども幸福には欠かせないものだ。こうした基本財を脱商品化し、コモンズを拡大していくならば、人々は所得を増やさなくても、豊かに暮らせる基盤をもつことになる。コモンズの充実は脱成長をうながすはずだ。
失業への不安、所得格差と貧困、人を追い立てる消費欲求、長時間労働、働き過ぎによるストレス、公共部門の民営化、生態系の破壊……こうした資本主義のもたらすジャガノート(圧倒的破壊力)から決別する道を探らなければならない。
資本主義はいまも次々と絶え間なく新たな商品を生みだし、人びとの消費意欲を刺激しつづけいるが、その目的は「人間のニーズを満たすことではなく、満たさないようにすることなのだ」と、著者はいう。人は満足することを否定され、つねに不安にさらされ、はたらきつづけ、また買いつづける。経済がさらに成長するために、資源はかぎりなく開発され、生態系は破壊されつづける。
いま必要なのは脱成長だ。次々と新たな商品を生みださなければ生きていけないという幻想からの脱却だ。これ以上の豊かさのために、さらに資本主義を推し進め、成長を求める必要はない。むしろ、脱成長こそが豊かさを実現する、と著者はいう。
ただし、いくつかの問題が残されている。じつはわれわれの経済は債務のうえになりたっている。学生の学資ローンやサラリーマンの住宅ローンもそうだ。企業自体も銀行から多くの融資を受けている。グローバルサウスの国々は、富裕国に莫大な債務を負っている。債務は利子をつけて返済しなければならないが、それ自体がたいへんなことだ。人も企業も借金にしばりつけられて活動している。こうしたシステムはどこかおかしいのではないか。資本主義のつくりだした金融システムはふくれあがり、ある時点で強烈に清算されるが、これとはことなるシステムが模索されなければならないことはいうまでもない。
結局、ポスト資本主義、脱資本主義とは何か。
それはソ連のような抑圧体制をめざすことではない。原始的な生活に戻ることでもない。基本的に今と変わらない豊かな社会を保つことだ。ただ、根本的に異なるのは資本主義のような狂気じみた経済行動から決別することだ。富はより公平に分配され、労働時間は短縮され、人びとはより幸福になる。資源の消費と廃棄は抑制され、生態系は維持される。それを支えるのは民主主義である。現在の民主主義は金権政治にまみれているが、本来、民主主義には反資本主義の傾向がある。「ポスト資本主義経済への旅は、この最も基本的な民主主義的行動から始まる」と著者はいう。
最後に著者はこう書いている。
〈結局のところ、わたしたちが「経済」と呼ぶものは、人間どうしの、そして他の生物界との、物質的な関係である。その関係をどのようなものにしたいか、と自問しなければならない。支配と搾取の関係にしたいだろうか。それとも、互恵と思いやりに満ちたものにしたいだろうか?〉
「脱資本主義」に向けての社会運動がはじまっている。これもひとつの民主主義だ。
ヒッケル『資本主義の次に来る世界』を読む(2) [商品世界論ノート]

資本主義にたいする本書の見方は厳しい。
資本主義の物語は、一見すばらしい技術革新の連続にあふれている。だが、その裏には黒い歴史がまとわりついている。成長は常に強奪、すなわち「自然と人間からの、エネルギーと労働の強奪」に結びついていた。
テクノロジーの力は労働生産性を高めたが、同時に自然からの強奪も加速させた。19世紀には石炭が、20世紀には石油が大規模に発掘され、エネルギー源となって、テクノロジーの普及を加速・拡大してきた。
資本主義はただの交換経済ではない。「加速しつづけるトレッドミル(ランニングマシン)」だ、と著者はいう。それは物言わぬ自然や弱い者を破壊しながら、自己増殖しつづける力なのだ。その中心となるのは、利益を挙げ、資本を蓄積し、投資を拡大し、成長しつづけようとする企業体である。
成長への欲求は、急速な技術革新とともに攻撃的なプレッシャーをもたらす。そして、政府は資本家と企業体の利益拡大を後押ししてきた。
政府が国全体の経済指標とするのが、国内総生産(GDP)[かつては国民総生産(GNP)が指標とされていた]だ。この測定基準を考案したのはサイモン・クズネッツだが、かれ自身はGDPはあくまでもおカネに関係する指標であって、それを経済評価の尺度にすべきではないと主張していた。にもかかわらず第2次世界大戦後はGDPが経済発展の指標とみなされるようになった。
GDPの導入によって、成長主義への志向がますます高まるようになった。「現在、国が豊かでも貧しくても、ほぼすべての政府がGDP成長率に心を奪われている」。その結果、成長が止まれば、企業は倒産し、政府は歳入がなくなり、人々は失業し、貧困が拡大し、国家は弱体化するという恐怖心がまとわりつくようになる。
成長そのものではなく成長主義が問題なのだ。成長主義のもとで、資源消費量は爆発的に増えた。1980年には350億トンだったが、2017年には920億トンにまでなっている。こうした過剰消費が地球の生態系に影響を与えている。何より懸念されるのは減速の兆しがまったくないことだ。
経済を成長させるにはエネルギーが必要であり、そのエネルギーの多くが化石燃料に頼っている。クリーンエネルギーは、いまのところ実際にはダーティーなエネルギーに追加されるかたちでしか導入されていない。
さらに問題なのは供給システムによる「物質集約度」が高くなっていることだ、と著者は指摘する。
〈わたしたちがスーパーマーケットで買うポテトチップスは、遠くの工場で作られ、巨大な倉庫に保管され、飛行機とトラックで輸送されてきた。しかも大量のプラスチックとボール紙で梱包されている。近所のファーマーズマーケットで買うポテトチップスよりはるかに物質集約度が高いのだ。経済が企業サプライチェーンに依存すればするほど物質集約度は高くなる。〉
著者はまた「高所得国が所得する資源の半分は、貧しい国において総じて不平等な搾取的な形で採取されたものだ」と指摘することを忘れていない。たとえば、スマホに使うコルタンはコンゴで、バッテリーに使うリチウムはボリビアで、シーツに使う綿花はエジプトなどで産出され、多国籍企業のバリューチェーンを通じて供給されている。
CO2の排出量に関しても、過去の排出量を考えれば、グローバルノースの工業先進国に責任があることはいうまでもない。歴史的にみれば、グローバルサウスの排出量はごくわずかだ。それでも気候崩壊の影響を受けるのはノースもサウスも同じである。いや、むしろ貧しいサウスのほうが影響が大きい。洪水、熱波、森林火災、干魃、飢餓、暴風雨が毎年のように世界各地を襲うようになっている。
著者は終点も目的もないまま成長のための成長をめざす資本主義のあり方に警鐘を鳴らす。気候変動、生物多様性の喪失、森林破壊、地球の生物化学的循環からみても、いまや経済発展は「プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)」を越えているという。
もちろん、それにたいする反論もある。テクノロジーの進歩が危機を乗り越えるというものだ。
クリーンエネルギーと電気自動車、ネガティブ・エミッション(排出量マイナス)技術が軌道に乗りさえすれば、気候変動を止めながら、経済成長を持続させるのは可能だという。だが、著者はそうしたテクノロジー信仰には懐疑的だ。地球温暖化の勢いは止まらないと見ている。
2018年に「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」は、産業革命以来の気温上昇を1.5℃以内に保つには、世界の温室効果ガス排出量を2030年までに半減し、2050年までにゼロにする必要があるというショッキングな報告を提出した。
これに対する各国政府の取り組みは残念ながら鈍い。クリーンエネルギーに移行すれば、グリーン成長への道を開くことができ、経済をこれまで通り拡大し続けることができると理解する向きがほとんどだ。
確かにクリーンエネルギーの可能性は広がっている。しかし、「エネルギー需要が増えれば増えるほど、残された短い時間でその需要を満たすほどのクリーンエネルギーを生産するのは難しく、おそらく不可能だ」と、著者はいう。
それにクリーンエネルギー自身にも問題がある。太陽光や風力は確かにクリーンであっても、それを支える装置には、銀や銅、アルミニウム、コバルトなどの膨大な金属とさまざまなレアアースを必要とする。
蓄電用のバッテリーも必要だ。それには膨大なリチウムを採取しなければならない。さらに、世界中の自動車を電気自動車に切り替えるには、多くの資源を要するだろう。クリーンエネルギーへの切り替え自体が、さらなる森林破壊や生態系の崩壊をもたらす恐れがある。
原子力発電に期待する人もいる。だが、それは危険な賭けだ、と著者は断言する。核融合発電への期待は高いが、実用化にはまだまだ時間がかかりそうだ。
それならば、エネルギー需要を増やしつづけるという幻想を捨てて、別の道を進むべきではないか、と著者はいう。
なかには大規模な地球工学に基づくSFめいた解決策を唱える人もいる。太陽放射管理というのもその一つだ。ジェット機の部隊で成層圏にエアロゾルを発射し、人工のベールを作って地球を冷やそうというものだ。だが、それは定期的に実施しなければならないし、どんな副作用が生じるかもわからない。
クリーンエネルギーによってエネルギー需要を拡大し、グリーン成長を実現するというのは夢物語だ。グリーン成長の行き着く先には、さらなる生態系の破壊が待っている。
もちろん、GDPを成長させながら、資源の消費を持続可能なレベルにまで減らすことは可能だという反論もありうる。しかし、富裕国の資源消費量はこの数十年で減るどころか、ますます増加しているのが実情だ。サービス業への移行も、資源消費量の減少にはつながっていない。
現在、地球からの資源採取は年々むずかしくなってきている。同じ量の燃料や金属を得るために、より多くのエネルギーと資材を投入しなければならない。それでも資源開発はやむことがない。
結局言えることは、技術革新によってエネルギーや資源の消費が減ることはないということだ。そのことはジェームズ・ワットがエネルギー効率を高める画期的な蒸気機関を発明したあと、石炭需要が急増したことを見ても明らかだ。
イノベーションはむしろ資源の消費量を増大させる傾向がある。イノベーションの目的は、生産と消費のプロセスを拡大することにあると言ってよいだろう。短期的な資源消費量の削減が、長期的な資源消費量の増加に結びつくこともしばしば見られる現象だ。
リサイクルによる「循環型経済」を唱える人もいる。しかし、リサイクルが資本主義を救うことはありえない、と著者はいう。
第一、われわれが消費する物質の大半は食料にせよ、エネルギーにせよ、再利用できず、不可避的に消耗する。採鉱から出る廃棄物も再利用できない。結局のところリサイクルできるのは、人間が消費する物質のごく一部に過ぎない。さらにいうと、リサイクルにはコストがかかるし、資源はリサイクルするたびに劣化する。
可能な限り循環する経済を目指すべきことは言うまでもない。しかし、経済成長主義がこの夢の実現を難しくしている、と著者はいう。
グリーン成長もおとぎ話に過ぎない。仮に資源の消費に限界を設け、そのもとでもGDPが3パーセント上昇しうるとしても、そのしわ寄せは人件費の抑制に向けられるはずだ。製品の質の向上も高価格化に帰結するだろう。それがたえざる陳腐化をともなうことはいうまでもない。さらに、水だけではなく知識や緑、子育て、癒やし、空気まで、さらにあらゆるものが商品化されていくにちがいない。
毎年、経済を成長させるために、より多くの商品をつくりだし、より多くの利益を挙げつづけなければならないという前提は、じつはまちがっているのではないか。それならば「まったく違う種類の経済を想像してみてはどうだろうか」と著者は提言する。
ここから本書はいよいよ核心にはいっていく。
ヒッケル『資本主義の次に来る世界』を読む(1) [商品世界論ノート]

資本主義に代わるものはあるのだろうか。資本主義を暴力的に封じるのではなく、さりげなく、できれば愉快に別の何かに変えていくような方向性は構想できないのだろうか。そんな思いで、この本を手にとってみた。
いつものようにのんびりした読書である。とんでもない誤読があるかもしれない。少しずつ読んで、メモをとってみる。
著者のジェイソン・ヒッケルは1982年生まれ、アフリカ南部の小国エスワティニ(旧スワジランド)で育ったイギリス人経済人類学者で、現在バルセロナ自治大学教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)上級研究員、王立芸術協会フェローなどを務めている。
最初に著者が指摘するのは「生態系の危機は一般に考えられているよりはるかに深刻」だということだ。
現在は農業でも工業型の農業が盛んになっている。その結果、土壌は豊かさを失いつつある。「工業型農業は強引な耕作と化学物質の投入に依存し、土壌の生態系を猛烈な勢いで破壊してきた」のだ。
漁業も同じである。強引な乱獲と気候変動によって、海洋生物は陸生生物の2倍のスピードで消えているという。
気候変動による異常気象はすでに日常茶飯事になっている。いま世界では、戦争や干魃のせいで1億人以上が難民になっている。飢饉や嵐、海面上昇、農地の減少がさらに進めば、難民数はさらに増える可能性がある。
極地の氷床や高山の氷河が溶けつつある。多くの森林が失われている。こうした事態を食い止めるため、世界は国際気候変動に取り組み、温室効果ガスの削減に乗りだしたが、その成果はいっこうにあらわれていない。生態系の崩壊は着実に進んでいる。
問題は「永遠に続く経済成長という資本主義の幻想」だ、と著者はいう。市場や取引が問題なのではない。経済成長至上主義が問題なのだ。
経済成長至上主義は人びとを幸福にしていない。高所得国では超富裕層だけが過剰に蓄財し、貧富の格差が拡大している。いっぽうグローバルサウスの人々は貧困に苦しんでいる。
化石燃料の消費を大幅に削減し、クリーンエネルギーを急速に普及させ、世界の炭素排出量を10年間で半減し2050年までにゼロにするのは、けっして不可能なことではない。
テクノロジーは重要だ。だが、それによって、あくまでも経済成長を目指すなら、地球の生態系はむしろ ますます破壊される恐れがある、と著者はいう。
若者のあいだでは資本主義への不信が高まっているようだ。成長より環境保護のほうが重要だと考える人も増えている。
〈高所得国は、人々の生活を向上させるために、さらなる成長を必要としない。必要なのは、資本蓄積のためではなく人々の幸福のために、経済を組み立て直すことだ。それに気づけば、私たちははるかに自由に、かつ合理的に、考えられるようになる。〉
いま求められているのは「脱成長」の考え方だ。脱成長が目指すのは、経済と生態系とのバランスを取り戻し、エネルギーと資源の過剰消費を減らすことだ。経済成長がなくても、貧困を終わらせ、人々をより幸福にし、すべての人に良い生活を保障できるようにすること。それこそが脱成長の核心だ、と著者はいう。
だが、はたしてそんなことが可能なのか。脱成長は経済の停滞と不況、混乱を招くのではないか。そんな疑念を払拭するように、著者はむしろポスト資本主義経済の「エキサイティングな可能性」を語ろうというのだ。
いま問われているのは「人間には自然を支配し利用する当然の権利がある」という、人間中心主義に基づく近代の二元論だ。変化を求められているのは経済だけではない。世界と人間の関係についても、われわれは見方を変えていかねばならない、と著者は述べる。
本書ではポスト資本主義の可能性が語られる。
だが、まずはこの500年の資本主義とは、いったい何だったのかということだ。
著者によれば、資本主義は「血塗られた創造の物語」からはじまるという。
そもそも資本主義とは何なのか。
〈わたしたちは資本主義を当たり前と見なし、少なくともその初歩的な形態は古代から社会に浸透していたと思い込んでいる。結局、資本主義は市場のことであり、市場は古くからあるからだ。しかし、資本主義イコール市場ではない。市場は何千年にもわたって、さまざまな時代や場所に存在したが、資本主義が誕生したのはわずか500年前だ。資本主義の特徴は、市場の存在ではなく、永続的な成長を軸にしていることだ。〉
市場は古代から存在する。しかし、資本の自己拡張をめざす資本主義が登場したのは、わずか500年前のことだ。資本とは自己拡張をめざし、余剰価値を蓄積しようとする運動体を指している。そのために、資本は資源と労働をできるだけ安く手に入れ、自然と人を利用しつくそうする。
この500年間の「資本の時代」を、著者は「人新世」ならぬ「資本新世」と名づけている。
封建社会を終わらせたのは資本主義ではない。「市井の革命家たちの長年に及ぶ勇気ある闘い」が封建社会を終わらせたのだ。
その結果、1350年から1500年にかけて、ヨーロッパでは自由農民と労働者階級の「黄金時代」が生まれた。
しかし、その後、上流階級の巻き返しがはじまり、平等主義の社会は容赦なく叩きつぶされた。「囲い込み運動」によって、数千もの農村コミュニティが破壊され、貧民や放浪者があふれでた。人びとは賃金を得るために、労働力を売るほかなかった。
マルクスの名づけた資本の「本源的蓄積」について、著者はこんなふうにいう。
〈資本主義は、組織的な暴力、大衆の貧困化、自給自足経済の組織的破壊を背景として生まれたのだ。資本主義は農奴制を終わらせたのではなく、農奴制を終わらせた進歩的改革に終止符を打った。資本家は農奴制の原理を採用し、新しい極端なやり方で、その原理を再利用した。〉
資本の「本源的蓄積」をもたらしたもうひとつの原動力が植民地化である。植民地化による強奪は、ヨーロッパに驚異的な利益をもたらした。アンデス山脈からは莫大な銀がヨーロッパの港に運ばれた。綿や砂糖をつくるための広大なプランテーションがつくられ、奴隷にされたアフリカ人がそこに投入された。
ヨーロッパの資本主義と産業革命は、無から生じたわけではない。植民地ではたらかされたアフリカ人奴隷の辛苦、囲い込みによってコモンズ(共有地)を追い出された農民の犠牲のなかからスタートしたのだ、と著者は強調する。
資本の論理がはたらきはじめる。資本が目的とするのは利益である。そのために生産性を高め、生産量を最大化することが求められた。農村でも都市でも、労働者は賃金を得るために、資本のシステムに組みこまれ、みずからの力を吸い取られていく。
資本主義は貧困をつくりだす。なぜなら、資本がより多くの利益を確保するには、賃金はできるだけ低くなければならないからだ。それは意図的に生み出された方策だったという。
「資本主義は並外れた物質的生産性をもたらしたが、その歴史が絶え間ない希少性[商品]の創出を特徴とし、破滅的な飢饉と数百年に及ぶ貧困化のプロセスにまみれているのは、なんと奇妙なことだろう」
けっきょく「私富」のための囲い込みと植民地化が、資本主義の原点だった、と著者はいう。
さらに資本が変えたものがある。それは自然にたいする考え方だ。人類はかつて生物界を含む自然界を精霊信仰(アニミズム)の目でとらえていた。そこには人と自然の相互依存と互恵の精神があった。
しかし、紀元前5世紀以降、帝国と神の思想が誕生すると、次第に神の似姿である人間が自然に優越するという考え方が広がっていく。それでも民衆のあいだでは、アニミズムの考えが強く残っていた。
近代科学の父と称されるフランシス・ベーコンは、自然を操作の対象とみなしたばかりでなく、自然を単なる物質、機械ととらえた。精神と物質の二元論を唱えたデカルトも同じだ。
〈デカルトは精神を身体と分離させただけでなく、両者の上下関係の確立にも成功した。支配階級が生産性を高めるため自然を支配しコントロールするのと同様に、精神も同じ目的のために身体を支配すべきである、と主張したのだ。……デカルトの身体論は、人間の労働を自己から切り離し、抽象化し、自然と同じく市場で交換できるものにした。〉
1600年代になると、土地や森、海、山、生物などの自然だけではなく、人間の身体をも客体すなわち単なる財とみる考え方が定着していた。
こうして、資源としての自然(人間を含む)を開発し、できるかぎり搾り取るのは正しいことだという発想が生まれる。
〈デカルトは、科学の目的は「人間を自然の支配者、所有者にすること」だと主張した。400年を経た今も、この倫理観はわたしたちの文化に深く根づいている。わたしたちは生物界を他者と見なすだけでなく、敵──科学と理性によって戦い、征服すべきもの──と見なしている。〉
こうした考え方を変えていかなければならない、と著者はいう。
われわれは脱資本主義のとば口に立っているというわけだ。
さらに、つづきを読んでみよう。
世界はどこに向かうのか──『国家はなぜ衰退するのか』を読む(7) [商品世界論ノート]

ジンバブエは南アフリカの北にあるアフリカ南部の国だ。ここでも腐敗したロバート・ムガベ大統領による独裁政権がつづいていた。1980年の独立以来、国民一人あたりの年収は低下しつづけ、2008年にはかつての半分になったという。国家は崩壊し、公共サービスはほとんど休止されたままだ。
植民地時代にはローデシアと呼ばれ、白人によるアパルトヘイト支配がおこなわれていた。その後、独立により白人支配は終わるが、それに取って代わったのがムガベによる個人支配だった。収奪的な経済制度はそのまま引き継がれ、事実上の一党支配のもと暴力的な統治体制が敷かれる。その結果、国家は破綻するにいたった。
国家の破綻はしばしば内戦をもたらす。シエラレオネの内戦では双方が残虐行為や大量虐殺にかかわり、内戦終結後も国はさらなる荒廃におちいった。それはシエラレオネだけではない。ふたつのコンゴ、アンゴラ、コートジボワール、モザンビーク、ソマリア、スーダン、ウガンダも同じだ。
南米のコロンビアでも内戦がつづいた。共産主義ゲリラの武装組織と自警軍の民兵集団が対立し、それぞれの支配地域を広げた。石油が民兵集団を引きつけるひとつの経済要因になっていた。
国家は存在するといっても、治安と公共サービスが維持されているのは首都や大都市だけで、国土のかなりの部分では法や秩序はないに等しかった。コロンビアでは中央集権化がじゅうぶんになされておらず、無法状態と所有権の不確実性がはびこるなか、収奪的な政治・経済制度が横行している、と著者はいう。
アルゼンチンも健全ではない。カルロス・メネム政権はハイパーインフレーションに歯止めをかけるため、1991年にアルゼンチン・ペソを米ドルと連動させ、1ペソを1ドルにすると定めた。だが、その結果、所得が下がり、失業率が上昇し、国債債務が累積した。
2001年に、政府は預金を封鎖する。ごくわずかの現金しか引きだせなくなった。翌年には切り下げが実施され、4ペソ=1ドルと定められた。ドル預金をしていた者は有利になったようにみえたが、そうではなかった。銀行のドル預金は強制的にペソに切り替えられ、そのさい、旧来の交換レートが適用されたため、1000ドル貯めていた人は、ふいに預金額が250ドルになってしまった。
アルゼンチンは20世紀はじめには、世界でもっとも裕福な国のひとつだった。経済は一握りのエリートに牛耳られており、牛肉、皮革、穀物の輸出が盛んだった。だが、その繁栄は収奪的な制度のうえに成り立っていたにすぎなかった。
政情は不安定で、軍事政権と民主政権が入れ替わった。だが、けっして多元的な政治制度は生まれたわけではない。軍事独裁か民主独裁かのどちらかだった。
ラテンアメリカでは、民主主義もアルゼンチンのペロンやベネズエラのチャベスのような寡頭的な独裁者を生んだにすぎない。その根底には収奪的な政治・経済制度が残っている、と著者はいう。
北朝鮮も失敗した国家である。急激なインフレにより、北朝鮮政府は2009年にデノミを実施したが、それは国民の私有財産のかなりの部分を一気に消し去ることになった。そのいっぽうで、エリートたちのまわりには高級な商品があふれていた。共産主義が悪質な独裁政治と広範な人権侵害、搾取と貧困をもたらしたことはまちがいないという。
中央アジアのウズベキスタンでは、綿花が輸出品の半分近くを占めている。1991年の独立後、独裁政権のもと、農民は農地の3分の1を綿花栽培にあてることを強制され、その儲けはほとんど政府が手に入れていた。綿花の収穫には学童たちが動員された。この大規模な強制労働の受益者は、政界のエリートたちだ。
ウズベキスタンは「ある一族とその取り巻きの専制政治に苦しむ国であり、経済は強制労働に基づいている──しかも、学童の強制労働に」と、著者は論じる。
エジプトは1952年以降、ほとんど社会主義の国として運営されてきた。経済の多くは国有企業に支配されていた。とはいえ、次第に市場が開かれ、民間部門が成長するようになる。
だが、市場を支配していたのは国家と一握りの実業家だった。実業界の大物は、経済的利権と密接にかかわる政府の要職に任命されていた。そして、1990年以降に民営化が進んださいにも、多くの企業の実権を握ったのは、政権とつながりの深い財界エリートたちだった。
現代のエジプトは貧しい国だ。国民の40パーセントが1日2ドル未満で暮らしているという。「アラブの春」は、収奪的な政治・経済制度を改革しようとしたが、それは失敗に終わり、その後は相変わらずの体制がつづいている。
収奪的な政治・経済制度から脱却することはむずかしいのだろうか。
そうとはかぎらない。著者はいくつかの国を例に挙げる。
アフリカ南部にボツワナという国がある。独裁国家ジンバブエの西にある、海のない内陸国だ。
19世紀末、ボツワナのツワナ人首長らは、セシル・ローズによる併合を恐れて、イギリス政府に直接の保護を求めた。イギリスはその要請を受け入れ、イギリス植民地べチュアナランドが誕生する。そこは辺境の地にあったため、白人の関心をあまりひかず、投資もほとんどおこなわれなかった。
1966年、ベチュアナランドが独立してボツワナと称したとき、そこは世界最貧国の一つだった。舗装道路も国全体で11キロしかなく、大学を卒業した人はわずか22人、学校教育もほとんどおこなわれていなかった。
周囲を南アメリカ、ナミビア、ローデシアという白人統治国に囲まれている、この黒人の国が発展するとはとても思えなかった。ところが、その後、45年間で、ボツワナは世界で最も発展した国の一つになった。現在、国民一人当たりの収入はアフリカ南部で最も高くなっており、東欧のエストニアやハンガリー、中米のコスタリカに匹敵するという。
その理由は、独立後、ボツワナが民主的な政治・経済制度を確立したことにある、と著者はいう。国のリーダーは当初から選挙によって選ばれた。当初、経済を牽引したのは食肉の輸出だったが、やがてダイヤモンドが発見される。そのダイヤモンドは特定の部族ではなく国によって管理され、その利益はインフラの整備や教育への投資に還元された。
伝統的エリートたちが独裁体制をつくろうせず、社会を食い物にして私腹を肥やそうともしなかったことが、国の発展につながったのだ。
アメリカ合衆国でも、それまで貧しかった南部の経済が軌道に乗りはじめるのは、1950年代半ば以来の公民権運動により黒人差別が減り、制度の抜本的改革がなされてからである。
南北戦争の結果、黒人奴隷が解放されてからも、南部では黒人がプランテーション用の安い労働力として酷使されてきた。しかし、1960年代になって綿花の摘み取りが機械化されるようになると、古い収奪制度は時代遅れとなり、黒人にも平等な政治的・市民的権利を与えようとする動きが強まる。それが1964年の公民権法に結実した。
公民権法の成立以来、黒人にたいする経済的差別は減り、黒人が教育を受ける機会は大幅に増え、南部の労働市場はより競争的となった。こうして、南部には急速な経済成長が訪れた。いまでは北部と南部で、一人あたり平均収入はほぼ同じになっている。ここでもカギとなったのは包括的な政治・経済制度の発達だった、と著者はいう。
中国もまた1949年以降、毛沢東の共産党政権のもと、社会主義的な収奪制度によって国民は苦しめられてきた。土地は国有化され、ありとあらゆる所有権は廃止されて、大躍進政策のもと、農村部は深刻な飢饉に見舞われた。2000万人から4000万人が死においやられたとされる。その後の文化大革命も経済を停滞させ、多くの人命を奪うことになった。
そこに登場するのが鄧小平である。毛沢東の死後、一時の過渡期をへて、政治の実権を握ると、鄧小平は経済制度の改革に着手した。まず手始めに農家請負制を採用し、国家による穀物の強制的買い上げを廃止し、農産物が自由に売れるようにした。国営企業にはかなりの自律性が与えられ、特区が指定されて外国からの投資が可能になった。
〈中国の再生が実現したのは、一連の極度に収奪的な制度からの脱却と包括的制度を目指す大きな動きがあったからだ。農業と工業における市場インセンティヴと、その後の外国からの投資と技術投入によって、中国は急速な経済成長の軌道に乗った。〉
だが、それは収奪的政治制度下の成長だった。中国が包括的な政治制度(多元的な議会制民主主義)へと移行する兆しはみえない。収奪的政治制度のもとでも経済が成長することはありうるが、それが持続するとは考えにくい、と著者は述べている。
いよいよ結論部分である。
なぜ世界にはかくも経済格差が存在するのか。それは過去200年のあいだに生じたものだ、と著者はいう。それは必然ではなかった。
繁栄する国家と破綻する国家とは、どこにちがいがあるのか。包括的な政治・経済制度をもつ国は、国民の所有権を保護し、平等な機会を創出することで、経済を活発にし、繁栄する。これにたいし、収奪的な制度をもつ国は権力を少数の手に集中させ、国民を貧困におとしいれる。
収奪的な国家が経済成長する場合もないわけではない。それはエリートたちがより多くの富を求めるためだ。だが、その成長は持続しない。そればかりか、エリート間の対立を招き、政治を不安定にしていく。
もちろん、制度のちがいには、歴史が大きくかかわっている。
〈カギを握るのは歴史である。なぜなら、制度的浮動を通じて決定的な岐路に重要な役割を果たすかもしれない相違をつくりだすのは、歴史的プロセスだからだ。決定的な岐路そのものが歴史上の転換点なのだ。〉
この200年でみれば、西洋の台頭と植民地化、そしてそれへの対応が、その後の国家のあり方に大きな影を投げかけていることはまちがいない。
歴史の動きは予想しがたい。歴史には決定論は通用しない。小さな相違と偶発性が歴史を動かしていく。収奪的制度から包括的制度への移行も必然とはいえない。
むしろ独裁政治下の経済成長には抗しがたい魅力があるというべきだろう。現在、それを立証しているのが中国だ。中国の大企業はいまだに党の指導下に置かれている。個人の所有権は保証されていない。それでも中国経済が成長しているのは、既存のテクノロジーの利用と急速な投資がなされているためだ。
共産党は中国で絶対的な力をもち、官僚機構や軍隊、メディア、経済のかなりの部分を支配している。国民にはほとんど政治的自由がなく、政治的プロセスへの参加も許されていない。そうした状況はまだまだつづくと考えられる。しかし、こうした政治制度が変わらなければ、その経済成長もやがて活力を失う、と著者はみている。
〈中国は経済成長を達成したが、それは収奪的政治制度のおかげではない。収奪的政治制度にもかかわらず成長したのであり、過去30年間の中国の成功体験は、収奪的経済制度からの脱却とはるかに包括的な経済制度への移行のたまものだ。〉
中国ははたして民主化(近代化)されるのかという課題にたいして、著者は悲観的である。独裁体制から包括的制度への転換は、そう簡単には実現しない。その前に経済成長の壁がやってくるが、そのことが移行をもたらすとはかぎらない、というのが著者の見方といえるだろう。
それはほかの低開発国についてもいえる。
たとえばIMFなどの国際機関は、いわゆるワシントン・コンセンサスにもとづいて、ラテンアメリカ諸国など問題を抱えた国々に経済に関する改善リストを発することが多い。それは一見理にかなった策のように思える。だが、政治が変わらなければ、何もかも元の木阿弥だ、と著者はいう。
対外援助が失敗するのは、そのためでもある。2001年、アフガニスタンではアメリカの支援を受けてカルザイ政権が成立し、何十億ドルもの経済支援がおこなわれた。だが、それらのカネはアフガニスタンのインフラや学校など公共サービスに使われることなく、もっぱら関係者のさまざまな経費として消えていった。
援助対象に届くのは、援助金のわずか10%ないし20%にすぎず、その中身もトンチンカンなものが多かったという。さらに悪いことに、かなりの額が権力者の手に渡っていた。収奪的な政治制度があるところでは、対外援助は略奪されたり、届くべきところに届かなかったりして、効果を発揮できないのが実情だ、と著者はいう。
多様な社会運動の中から民主主義政権が誕生するのは容易なことではない。だが、それはこれまでの歴史から見ても、決して不可能なことではなかった。多様な集団によって包括的な制度が生まれた結果、経済が円滑に機能し始めることは十分に考えられる。
だが、それには新たなエリート支配を生むという落とし穴もある。多元的な政治機構が定着するには、自由なメディアの果たす役割が大きい。中国の収奪的構造は、中国当局による徹底したメディア支配に依存している。歴史の鉄鎖を砕くのは容易ではないが、それには絶え間ない闘いが必要だ、と著者はいう。前途は多難だが、それでも歴史は先に進む。日本もあやうい。