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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(10) [商品世界論ノート]

 経済成長の源泉はイノベーションと技術革新であり、そこに資本と労働が投入されることによって経済発展が生ずる。起業家の役割はけっして無視できない。1970年以降のそうした起業家として、マイクロソフトのビル・ゲイツ、アップルのスティーブ・ジョブズ、アマゾンのジェフ・ベソス、グーグルのセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグなどの名前を挙げることができるだろう。アメリカで起業家が活躍できるのは、民主的な特許制度があるからである。
 ところで、ここで新たに開発された生産性の指標である全要素生産性(TFP)の伸び率を調べてみると、それが圧倒的に高かったのは1920〜70年であり、1.89という数字が出ている。これにたいし、1970年以降は、1970〜94年が0.57、1994〜2004年が1.03、2004〜14年が0.40となっている。
 1920〜70年は、第2次産業革命によって、経済が順調に成長した。1994年からの10年間が盛り返したのは、いわゆるデジタル革命(第3次産業革命)の成果があらわれたためである。このかん、インターネットやブラウザー、検索エンジン、電子商取引が普及した。しかし、その後2004年以降の指数は落ちこんでいる。
 第3次産業革命の成果は、通信分野と情報技術にかぎられる。通信分野を引っぱったのは携帯電話からスマホへの流れである。情報技術ではパソコンが普及するとともに、巨大なネット企業が誕生した。しかし、デジタル革命が生活の改善にもたらした分野は限られている、と著者はいう。
 たしかにパソコンはオフィスや家庭の環境を変え、たとえばそれまでの商品カタログも電子化された。スマホやタブレットが普及して、人どうしの連絡も容易になった。何もかも簡単にできるようになったのに、経済の成長はみられないのはどうしてだろう。
 小売業は停滞し、ATM化にもかかわらず銀行業界はかえって苦境におちいっている。家電の開発はほぼ終わり、スマホの進化もこれ以上、たいして期待できそうにない。
 経済の活力が低下したようにみえるのは、2005年以降、市場への新規企業の参入率が低くなり、それを越える割合で既存企業の退出率が増えているからだ。市場から退出する小売業者やサービス業者が多くなっている。いっぽうハイテク分野でも新規参入する企業が減っている。労働者のあいだでは新たな雇用機会が少なくなり、失業期間が長引くと職を得るのが、いちだんとむずかしくなっている。
 製造業の生産能力の伸び率は低下している。設備投資にも力強さがみられない。コンピュータの性能向上ペースも最近は鈍化している。
 将来のイノベーションとして考えられる分野としては、どのようなものがあるだろうか。技術楽観派が持ちだすのは、とりわけ人工知能(AI)分野である。具体的には、医療、小型ロボットと3D印刷、ビッグデータ、自動運転などがよく挙げられる。
 1940年から80年にかけ、医療技術は急速に進歩した。進歩はその後も緩慢ながらつづいている。がん特効薬の開発も進んでいる。認知症の治療薬にも関心が向けられている。わずかにせよ今後も平均余命は延びるだろう。
 ロボットの小型化、高性能化も進んでいる。ロボットは職場から労働者を排除するものではなく、むしろ人間とともに作業をおこなうものになるはずだ、と著者はいう。3D印刷の強みは、新しい設計モデルを比較的低コストでつくれることにあり、さまざまな分野での効果が期待されている。
 AIは人間に似た能力をもつコンピュータである。そのひとつの応用としてのビッグデータは、強力なマーケティング・ツールとして、さらに利用されるものとなるだろう。
 さらにAIは、最新の検索ツールを使って、大量のデータのなかから必要な情報を瞬時に見つけだす。だからといって、AIが完全に人間に代わるわけではない。「コンピュータが人間に代わって分析するケースもあるが、多くの場合、コンピュータは人間と共同で分析スピードを速め、より正確にする」
 そして、自動運転である。自動運転のメリットは、自動車事故の発生率をより低下させ、カーシェアリングの普及を促進し、それによってガソリン消費を減らし、大気汚染を改善することにある。さらに自動運転はトラック運転手の負担を減らし、配送の生産性を高める可能性もある。しかし、安全に走れるようになるまでには、まだまだ改善すべき課題が多い。
 こんなふうに将来のイノベーションには多くの期待すべき面がある。しかし、デジタル革命がそうであったように、そうしたイノベーションは1920年代から1970年代にかけてもたらされた生活の改善にくらべれば、派生的で微々たるものだ、と著者はみている。
 以下は、1970年代以降の問題についてだ。
 社会のすべての構成員が経済成長の成果を等しく享受できる保証はない。とりわけ1970年以降は所得格差が目立つようになってきた。イノベーションの効果は減退し、むしろさまざまな逆風が吹くようになった、と著者はいう。その逆風は、所得格差、教育、人口、政府債務の面で、とりわけ顕著になっている。
「すべての逆風を勘案したとき、1人あたり実質可処分所得の中央値の将来の伸び率は、プラスを維持するのがむずかしく、19世紀末以来のアメリカ国民の各世代が享受した伸び率を大幅に下回ることになろう」。これが将来にたいする著者の悲観的な見通しだ。
 1972年から2013年までの、所得上位10%と下位90%の人びとの実質所得の伸び率を調べてみよう。すると、この期間、上位10%の伸び率が1.42%にたいし、下位90%は−0.17%になっている。
 1917年以降の統計をみると、1972年までは、上位10%よりも下位90%の所得伸び率のほうが上回っていた。言い換えれば、このかんは、経済格差が徐々に縮まっていたことがわかる。ところが、1972年以降は、それが逆転し、上位10%と下位90%の所得格差が広がっているのだ。
「1970年代半ばを転換点に、低中所得層の賃金が着実に上昇していた時代が終わり、過去40年は、低所得層では賃金がほとんど伸びない反面、高所得層の賃金は高い伸びを示した」と著者は書いている。
 その原因を、著者は労働組合の衰退、輸入の増加、移民の流入に求めている。加えて、オートメーション化と実質最低賃金の低下も大きな要因として挙げられている。
 労働組合の組織率が低下したのは、製造業の雇用縮小と非正規雇用の増大が原因である。加えて、輸入品の増加が国内の雇用を代替し、中低熟練労働者の相対的賃金低下をもたらした。とくに1990年から2007年にかけては中国からの輸入が拡大した。
「輸入の浸透とアウトソーシングの増加は、グローバル化の複合効果であり、国内の雇用と賃金両面に影響を及ぼした」
 1995年から2005年にかけては移民の流入が目立つ。移民によって国内労働者の賃金は小幅に引き下げられ、高卒資格のない国内労働者に打撃を与えた。加えて、労働現場では自動化が進み、それによって賃金の高い製造業の雇用が失われ、下位労働者の所得が相対的に低下した。
 とはいえ、大量失業が発生したわけではない。「職業の構成が変わり、職業分布の上位と下位で雇用が創出される一方、中間部分の雇用が消失したのだ」
 専門職とマニュアル業務へと仕事が分極化し、中間部分の雇用が失われていったことがわかる。賃金の高い製造業の雇用は失われ、コンビニや外食産業、小売りやクリーニング業、管理仕事など比較的賃金の低い部分の雇用が増えていった。アメリカでは実質最低賃金も下がっているという。
 1940年代から50年代の所得税制は限界税率が90%と累進性が高かったが、レーガン政権は1980年代前半に累進性を見直し、減税の方向に舵を切った。その結果、最高経営責任者(CEO)と平均従業員の賃金格差は、1973年の23倍から2013年の257倍へと拡大することになった。
 ファストフードチェーンの従業員は、最低賃金すれすれの賃金で働いている。これにたいし、所得分布の最上位に属する人びとはヘッジファンドなどを利用してさらに資産を増やしている。
 中位グループはほとんど資産を増やすことができず、下位グループはますます資産を減らしている。「アメリカの下位80パーセントの所得層で実質資産が伸び悩んでいるという事実は、過去30年間、生活水準の向上のペースが鈍化したとの見方を裏付ける有力な証拠である」
 ここからは下位層の賃金が伸び悩むいっぽう、上位1%層の所得が押し上げられ、中間層の一部が下位層に転落しているという構図が浮かびあがってくる。
学歴は収入と関係がある。2000年以降、高卒者や高校中退者の賃金は緩やかに低下し、大卒者の賃金は伸び悩み、大学教育の必要がない職に就かざるをえない大卒者の割合も増えている。専門職をになうのは、いまや大学院卒業者である。
 しかも「教育が格差に及ぼす影響は、現世代の所得への直接的影響にとどまらない」。格差は世代間に引き継がれていく。「高所得世帯はほぼすべて、子どもを4年制大学に進学させるのに対し、最貧困層が子どもを進学させることは稀である」と、著者はいう。
 現在のアメリカの問題は、教育水準向上のスピードが低下していることとと、学費の高騰で低中所得層の子どもが大学に行けなくなっていることだ。全般的な学力低下も目立っている。「中等教育の悲惨な結果をみれば、教育が将来の経済成長の足かせになるのは間違いない」と、著者はいう。学生ローンによる負債が、卒業後も大きな負担になっている。
 人口問題もある。アメリカでは2007年から2015年にかけ、労働参加率が66.0%から62.6%に低下した。これはベビーブーム世代が退職したことが大きいという。労働参加率の低下は、とうぜん経済にも影響をもたらす。
 政府債務も大きな問題だ。それを処理するためには税収を増やすほかなく、そのことが可処分所得を低下させ、経済成長の逆風となることはまちがいない。
 所得格差の拡大は社会環境の劣化をもたらす。婚姻率の低下と片親家庭の増加は、恵まれた雇用機会が減っていることを繁栄している。「過去30年の賃金伸び悩みと結婚の意欲低下は相互に関連しあっている」
 賃金の相対的低下は犯罪の増加とも無縁ではない。「黒人の高卒中退者の3分の2は、40歳になるまでに少なくとも一度は刑務所に入る」との驚くべき指摘もある。
 さらに、グローバル化が格差を拡大する要因になっている。輸入品の増大によって、工場が閉鎖され、数百万の労働者が中程度の賃金を得る機会を奪われた。また国内に外国資本が誘致されても、安い労働力を求める外国企業の活動が、賃金の伸びを低下させる要因となっているという。
 地球温暖化などの環境問題もある。アメリカでは水平粉砕法で、掘削可能なガス田や油田が増えたため、エネルギー問題はまず心配ないといえるが、資源がどうなるかは、これからも大きな問題でありつづける。
 これらのことを勘案して、著者は2015年から2040年にかけてのトレンドを予測する。
 それによると、今後25年の年平均伸び率は、労働生産性が1.20%、1人あたりGDPが0.80%、1人あたりGDPの中央値が0.40%、1人あたり可処分所得の中央値が0.30%になるという。これはあくまでも予測だが、端的にいって、ほとんどゼロ成長の時代になるということだ。
 著者はこう書いている。

〈1770年まで、千年にわたって経済成長といったものはなかった。1870年までの過渡期の1世紀には、経済は緩やかに拡大し、アメリカの場合は、1970年までの革新の世紀にめざましい成長を遂げた。それ以降、成長は鈍化している。アメリカの成長が1970年以降、鈍化したのは、発明家がひらめかなくなったわけではないし、新しいアイデアが枯渇したわけでもない。食料、衣服、住宅、輸送、娯楽、通信、医療、労働環境など、生活の基本的な部分が、その時点で一定の水準に達してしまったからだ。〉

 つまり、経済はほぼ飽和状態に達し、AIが生活水準の向上にもたらす影響はかぎられているということだ。
 そのいっぽうで、著者は、いまでもアメリカは世界で優位性を保ち、その経済システムは堅固であり、こうした状態は少なくともあと25年はつづくと予想している。
 これからはゼロ成長の時代にはいっていくが、そのこと自体は問題ではない。むしろ、問題は経済格差が広がっていることである。これにたいし、政府は何らかの手を打たねばならないと著者は考えている。経済格差の拡大を圧縮し、さらなる平等を実現し、社会の一体感を保つために、政府は行動しなければならない。
 そのためには、次のような政策が考えられる。
 ひとつは上乗せ報酬にたいする課税、100万ドル以上の所得にたいする特別課税、そして相続時の金融資産にたいする課税強化である。そのいっぽうで、最低賃金の引き上げや、低所得層の所得税免除も考えるべきだ。
 機会の平等を高めるためには、教育の役割が何よりも重要である。まず幼児教育の充実がはかられねばならない。とりわけ貧困家庭でリスクにさらされている子どもにとっては、幼児教育が将来を左右する。政府は幼児教育にもっと予算をつぎ込むべきだ、と著者は主張する。
 中等・高等教育が重要なのはもちろんである。豊かな地域と貧しい地域とでは、現在、教育体制に格差がある。それを平等なものに変え、全般的に学力を向上させる必要がある。大学の学生ローン問題にも対処しなくてはならない。著者は、大学在学中は授業料がかからず、卒業後に所得に応じて返済するシステムができないかと考えている。
 著作権法や特許法、土地利用規制などによる規制や新規参入を制限する認可制度を見直す必要がある。「過度の規制を緩和することが、格差を縮小し、生産性の伸びを押し上げるうえで、実現可能な政策手段のひとつである」
 高スキルの移民を増やすことも必要だ。公平性を大幅に高めるため、租税優遇措置などを見直し、税制改革をおこなう必要がある。財政再建も欠かせない。そのためには所得上位層への課税、炭素税の導入などが考えられる。
 こうした政策をとるのは、経済格差をできるだけ圧縮することで、より公平で賢明な社会をつくるためである、と著者はいう。
 このままではいけないという真摯な思いが伝わってくる。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(9) [商品世界論ノート]

 本書もいよいよ最後の第3部「成長の加速要因と減速要因」にはいろうとしている。長々と要約してきたが、ほんとうは日本経済やソ連経済と比較しながら読んでいくのが有益なのかもしれない。あるいはマルクスやマーシャルを念頭に考察を深めるという方向性も考えられる。しかし、それはそれとして、いまは最後まで読むことを優先しよう。ぼんやりじいさんの読書メモだから、内容はあてにならない。
 1920年から1970年にかけて、アメリカでは史上もっとも労働生産性の高い時代が訪れ、それによりアメリカ人の生活は大きく改善された、と著者は書いている。さまざまなイノベーションがなされただけではない。この期間に、労働時間も週60時間から週40時間に減った。
 1920年から70年にかけての成長ペースが、それ以降鈍化し、とりわけ2000年以降、大きく減少するのはなぜか。これが、本書のメインテーマのひとつといえるだろう。
 1970年以降、労働生産性の伸びが低下したのは事実である。1996年から2004年にかけては、情報技術への投資によって、労働生産性は一時回復する。だが、それ以降、労働生産性の伸びはさらに鈍化している。
 1970年以降、成長をリードしたのは娯楽、通信、デジタル機器、IT部門だった。だが、それも2005年以降は頭打ちになる。
 食料や衣服、住宅については、すでに1940年代までにほぼじゅうぶん満足できる状態に達していた。1940年代から70年代にかけては、家庭に電化製品が普及し、豊かさが広がる。その後の進化は微々たるものである。
 高速道路網は1970年代にほぼ完成をみた。航空機もジェット機への転換が完了した1970年代以降、大きな進歩はみられない。医療や健康面も1970年代でほぼ体制が固まっている。
 労働環境の改善も基本的には1940年までに実現し、1970年代がピークとなった。1980年代以降は、女性の社会進出が目立つ。
 1人あたり実質GDPには、生活水準や労働生産性の伸びがもたらした大きな進歩が反映されていない、と著者は考えている。言い換えれば、消費者余剰やイノベーションの価値が過小評価されているというのだ。そうした価値は価格指数でとらえきれないもので、経済成長が人びとの生活改善に与えた影響ははかりしれない、と著者はいう。
 本書第3部では、次のことが検討される。
 第1は1920年から1970年にかけての経済成長の足どりである。とりわけ重視されるのは大恐慌の時期と第2次世界大戦の時期だ。
 第2に検討されるのは、1970年以降に成長が減速した理由である。1990年代末のIT革命は一時的なものに終わり、大きな経済成長に結びつかなかった。これからの25年間も、たとえイノベーションがあっても生産性全体に与える影響はごくかぎられているだろう、と著者はいう。
 第3に検討されるのは、1970年代後半から広がりはじめた経済格差が、これからどうなっていくのかという問題である。学歴の上昇も頭打ちになり、学歴が生産性向上に結びつかなくなっているという現実もある。1990年以降、女性の労働市場参入によって、1人あたり労働時間は増加したものの、2008年以降はベビーブーム世代が退職したことにより、1人当たり労働時間は減少しはじめている。結婚制度が機能しなくなったことも問題だ。そのような時代においては、どのような政策が可能なのか、と著者は問う。
 今回のブログが扱うのは、第1の部分だ。第2、第3の部分、すなわち1970年代以降と、将来の展望については、次回あらためて論じることにする。できれば、次回で本書の内容紹介が終わればいいのだが……。

 1920年代から1950年代をふりかえってみると、アメリカでは生産が大躍進したのは、意外なことに1928年から1950年にかけてであった、と著者は書いている。
 もちろん、1929年から33年にかけては大恐慌の時期であり、生産量、労働時間、雇用は崩壊した。その後、経済は部分的に回復するが、1938年にはふたたび不況になる。
 それから1938年から45年にかけてGDPは大幅に伸びる。巨額の戦時支出がなされたことが大きい。だが、その後も経済は崩壊しなかった。戦後、軍事生産が住宅や自動車、家電に転換されたのである。
 大恐慌はニューディール政策の導入をもたらした。
ニューディールは社会保障政策を導入しただけでなく、労働組合の組織化を促した。それにより、実質賃金は引き上げられ、1日8時間労働が実現した。だが、それは経済社会の停滞をもたらさない。むしろ逆である。
 いっぽう政府はインフラ投資を拡大し、金門橋やベイブリッジ、テネシー川流域開発公社、フーバー・ダムなどの巨大プロジェクトを推進した。
 1939年からは第2次世界大戦がはじまるが、とりわけアメリカの場合は、戦争が経済にもたらしたプラス面を否定できない、と著者はいう。政府は軍事生産のために、資金を負担して工場や設備を新設した。1930年代は、技術革新の時代でもあった。そして戦時下に滞留した家計の貯蓄は、戦後になって消費財の購入にあてられていくことになる。
 1人あたりGDPは、大恐慌がはじまった1929年から33年にかけ急減したあと、第2次世界大戦中に急増し、その後も増えていった。
 1930年代後半以降、実質賃金の上昇ペースは以前よりも高くなり、その時期、同時に労働生産性も高まっている。引きつづき、1950年代から70年代半ばにかけても、実質賃金の伸びが労働生産性の伸びを上回った。逆に1970年代半ばから2014年にかけては、逆の現象が生じる。労働生産性が伸びても、実質賃金は低迷するのだ。
 労働の質は教育水準ではかられることが多い。第2次世界大戦前後に、アメリカの教育水準は大きく向上した。高卒率は1900年の6%から1970年の80%に上昇した。大卒者も増えてくる。そのことと労働生産性の伸びは関係している。
 しかし、労働生産性は資本投入量とも関係している。資本の投入なくして、労働生産性の上昇はありえない。資本投入量は大恐慌時に落ち込み、その後1935年に回復、1941年に急増し、1944年に倍増している。戦後も資本投入量はさほど減っていない。
「単純化すれば、アメリカの総生産量は、1928年から1972年にかけて資本投入量をはるかに上回るペースで増加したが、その後、1972年から2013年にかけては、そのペースがきわめて緩慢になっている」
 専門的な論議は省略するが、1920年代から1950年代にかけ、とりわけ大恐慌後、経済の「大躍進」が生じた原因を著者は次のようにみている。
 ひとつは、労働者寄りのニューディール法制により、労働者の実質賃金が上昇したこと。それにより労働から資本の代替が進み、活発な設備投資がおこなわれ、それにより労働生産性が上昇したこと。
 もうひとつは、戦争による高圧経済である。たとえば戦争を遂行するため、造船所や飛行機工場などには、生産をさらに増やすよう圧力がかかった。それにより1日24時間体制が実施される。さらに生産の効率化とコスト削減が同時に進められた。
 戦後、軍事から民間へと需要がシフトしたあとも、需要は減らなかった。

〈1946−47年、鬱積した需要が解き放たれ、軍事品から民生品の生産へと迅速に切り替えられた工場は、自動車やテレビは言うに及ばず、冷蔵庫、ストーブ、洗濯機、ドライヤー、食洗機の需要を満たすべく奮闘した。無尽蔵ともいえる需要に応えるため、第2次世界大戦下の高圧経済で効率的な生産について学んだあらゆる手法が導入された。〉

 多少の生活の不便はあっても、戦時の活況が、大恐慌時の絶望感を払拭し、国民全体に先行きへの期待をもたらした、と著者は書いている。このあたりは資源が豊富な戦勝国アメリカならではの実感だったかもしれない。内心忸怩たるものを覚えないわけではないが、朝鮮戦争が日本経済復興のきっかけとなったのも事実である。
 さらにもうひとつ、著者が注目するのが政府による資金投入である。1930年から45年にかけ、アメリカ政府は新工場の建設資金を負担し、民間企業に軍需品の生産を促した。政府は軍需工場を新設し、それを民間企業に委託しただけではない。テキサスからニュージャージーにいたるパイプラインなどを敷設するために、大量の資金を投入していた。そうした政府の資金投入によって、アメリカの生産技術が大幅に向上した面はいなめない、と著者も認めている。
 さらに、この3つの要因に加えて、著者の指摘するのが都市化である。都市化によって、労働者が農村から都市にシフトしたことが、経済全体の生産性を高めた。
 もうひとつは閉鎖経済である。1930年から60年にかけ、アメリカでは移民が制限された。そのため、移民との競争がなくなり、労働者の賃金が上昇した。さらに高関税により輸入が抑えられ、国内の工場にイノベーションが施された。「移民制限法と高関税によるアメリカの閉鎖経済は、1930年代の実質賃金の上昇と、国内経済における革新的技術への重点投資、1920年代から50年代の一般的な格差の縮小に寄与したとみられる」
 19世紀末の最大の発明は電気と内燃エンジンだった。だが、それらが汎用化されるまでには20世紀前半を待たなければならなかった。その汎用化がもっとも進展したのが1930年代である。
1930年代には運輸・流通業が発展する。電力発電量も大幅に増加した。流通システムも大幅に改善された。
 アメリカにとって画期的だったのは1930年10月に東テキサス油田が発見されたことである。それにより、アメリカでも化学産業がスタートを切る。プラスチックが発明されたのも1930年代だった。セルロイドやビニール、セロファン、ベークライト、アクリル、テフロン、ナイロンなどの新製品も生まれてくる。タイヤの質の改善も生産性の向上に寄与した。「1930年代は、技術進歩の10年として輝きを放っている」
 皮肉なことに、恐慌と戦争が生みだしたさまざまなイノベーションが1970年代までのアメリカの経済成長を支えた。
 そのあとはどうか。次回は1970年以降をみていく。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(8) [商品世界論ノート]

 1940年から2014年にいたる商品世界の流れをみている。はかどらない読書だ。
 きょうはまずコンピュータの話。1960年以降、コンピュータの性能は猛烈な勢いで向上したが、コンピュータは経済成長にさほど寄与しているわけではない、と著者は論じている。
 コンピュータははたして何をもたらしたのだろう。ひとつは単調な定型作業の省力化である。電子タイプライター、銀行のATM、スーパーなどのバーコードスキャナーなどが初期の成果だった。
 1980年代以降からはパソコンが身近なものになった。ワープロや表計算ソフトは画期的だった。ゲームソフトも人気を博した。電子メールは便利な通信手段だった。電子商取引やウェブ検索もおこなえるようになり、音楽や映像の鑑賞も手軽にできるようになった。ニュースもパソコンでみられるようになる。フェイスタイムなどでの無料通信も可能になった。それは驚くべき進化のように思えた。
 1970年代前半までは、まだスーパーコンピュータの時代だったが、いまではノートパソコンがかつてのスーパーコンピュータの能力をはるかに凌駕している。半導体の集積密度は2年ごとに倍増するというムーアの法則(予想)は、これまでほぼ実現してきた。モニターやマウス、計算能力、パソコンの操作方法も急速に改善された。だが、2006年以降は、パソコンの進化も頭打ちになっているという。
 電子計算機が構想されたのは1940年代である。最初は軍事目的だった。だが、それはあまりに巨大で、莫大な電力を要した。戦後、アメリカン航空は増えつづける旅客の事務処理をする必要から、新たなシステムを開発した。生命保険会社も顧客データを管理するため、1950年代に初の商用コンピュータを導入する。銀行も小切手処理のためにマシーンを開発し、クレジットカード、ATMの導入へと進んだ。バーコードは1970年代半ばに利用できるようになっていたが、実際にこれがスーパーマーケットで活用されたのは1980年代になってからである
 ゼロックスは1959年にコピー機を開発し、1960年代から70年代にかけ、屈指の人気企業となった。タイプライターはふつうの家で使われていたが、1964年にIBMが最初に電子タイプライターを開発する。それからワープロ専用のミニコンピュータへと突きすすんでいった。
 パソコン革命がはじまる。1975年にビル・ゲイツらはマイクロソフト社を設立する。スティーブ・ウォズニアックは友人のスティーブ・ジョブズと協力してアップル・コンピュータを売りだした。1990年代からはインターネットによって、ハードウェアとソフトウェアがつながり、電子メール通信がはじまり、さらに数年後には一般向けのウェブブラウザが登場する。
 インターネットを開発したのは、もともと国防総省だった。だがインターネット革命をおこしたのは、1995年に発売されたウインドウズ95である。とはいえ、このころのインターネットはワープロと電子メール以外、ほとんど使い物にならなかった。
 しかし、それ以降、インターネットは急速に普及する。人びとはパソコンを通じて、航空券やホテル、レストランを予約したり、音楽を聴いたり、映像をみたり、情報や知識を得たり、友達と交流することもできるようになった。ソーシャルネットワーキングも広がっている。
 インターネットは流通業界に革命をもたらし、消費者に計り知れない恩恵を与えた。1994年に創業したAmazonは当初、書籍を販売していたが、いまではアメリカだけで2億3200万の商品を扱っているという。アマゾン革命のおかげで、大勢の顧客は幅広い選択肢を手に入れた。だが、そのおかげで多くの書店が閉店し、ショッピングモールの衰退をもたらすという現象も招いている。
 コンピュータとインターネットが圧倒的な恩恵をもたらしたのはたしかだ。そのいっぽうで、ネットいじめ、プライバシー侵害、オンラインゲームへの依存、子どもの集中力や読み書き能力の低下をもたらしていることもまちがいない。

 次に保健と医療の発展をみておこう。
 平均余命に関しては、1870年から1940年にかけては乳幼児の死亡率が低下した。これにたいし、1940年から2010年にかけては高齢者の死亡率が低下したのが特徴だ。平均余命が延びるペースは、とうぜんながら減速してきた。
 医療の重点は、感染症の撲滅から慢性疾患の治療へと移った。健康状態の改善ペースは緩慢になるいっぽう、医療費負担は増え、アメリカではとりわけ医療制度によってもたらされる格差が問題になっている。
 平均余命は1950年まで急速に延び、その後は緩慢になっている。20世紀の最大の死因は心臓病だったが、1960年代以降は死因に占める心臓病の割合は減り、その代わりがんが増えている。ほかに多いのは呼吸器疾患と脳血管疾患、アルツハイマー病である。最近はアルツハイマー病の割合が増えている。
 フレミングによってペニシリンが発見されたのは1928年だが、これが量産され、手軽に買えるようになったのは戦後になってからである。ほかの抗生物質も次々と現れ、量産によって値段も安くなった。結核はほぼ撲滅されるにいたった。
 戦時下の研究から、蘇生法や輸血技術、人工関節などの医療技術が生まれた。ポリオワクチンも開発された。
 心臓移植手術は1960年代後半にはじめて行われたものの、生存率は低かった。いまでも、まれにしか実施されない。それよりも心臓病のリスク要因となる高血圧やコレステロールの管理と治療が進むようになった。さらにペースメーカーの埋め込みや心臓カテーテル法、冠動脈バイパス手術が広く用いられるようになっている。
 20世紀にがんは増加の一途をたどったが、その対策は外科手術と放射線治療が中心で、戦後になって化学療法が加わった。1970年代にはCTスキャンによるがんの早期発見も可能になった。しかし、70年代以降、がん治療の技術そのものはさほど進歩していない。
 1980年代にはエイズの蔓延が問題になった。アメリカでは1995年に50万人以上がエイズに感染し、30万人が死亡している。だが、抗レトロウイルス療法が開発されるとともに、エイズの進行を抑えることが可能になった。
 1960年以降、たばこは健康に害をもたらすという意識が高まった。幅広い啓蒙活動も功を奏して、その後、たばこの消費量は減少の一途をたどる。とはいえ、アメリカではいまでも成人の喫煙率は18%近くで、高止まりしている。
 戦後はメンタルヘルスの面の取り組みも進んだ。大気汚染にたいする意識も高まった。
 事故と暴力が死因に占める割合も見逃せない。自動車事故を除く事故による死亡率は1940年以降減りはじめる。1940年には10万人あたり48人(自動車事故を含むと70人)という割合だったが、1990年には10万人あたり19人(同35人)に減った。しかし、2000年以降は逆に増えはじめ、2011年には30人(同40人)になっている。
 これは殺人をはじめとする重大犯罪の件数が減っていないことを意味している。なぜ、そうなっているかは、あらためて検討される。そのいっぽう、1970年代から、レイプやドメスティックバイオレンスなど女性や子どもにたいする暴力が強く非難されるようになったのも事実だという。
 医療の専門化は戦後の特徴である。医薬品も医師の処方によるものが増えた。医療分野ではCTやMRIなどの画像診断システムが開発されるなど重要なイノベーションがおきている。ゲノム技術は急速に進んでいる。再生療法のひとつとして幹細胞研究も進められている。だが、ゲノム技術や再生療法はまだ本格的な臨床段階にいたっていない。
 戦後、病院は急速な発展を遂げた。各地に病院が建設され、医師や設備も増強され、多くの患者が病院を訪れるようになった。だが、それとともに医療費も増大した。その効率性が見直されることはあまりなかった。地域住民の啓発や予防などの活動もあまりおこなわれなかった。「1970年代から1980年代にかけて、病院の姿勢は営利志向に傾いていった」
 現在の問題は慢性疾患をもつ高齢者が増大していることである。いまの70歳は検査や管理を受けつづけ、アルツハイマー病にかかる可能性と向き合っており、高齢者は入退院をくり返しながら余生をやりすごしているのが現実だという。
 1960年代には経口避妊薬が一般でも使用できるようになった。これにより女性が出産の時期と頻度を選ぶことができるようになり、女性の労働参加率が高まったと著者は述べている。
 たいていの先進国は国民皆医療保険を採用しているが、アメリカはこれを採用していない。医療保険に加入している人の割合は2010年時点で84%だが、アメリカの医療費はイタリアやイギリスの2倍以上、日本の1.8倍になっている。高コストと非効率が問題だ。
「他の先進国では、医療保険は雇用主の提供するものでなく、市民の権利のひとつととらえられ、国民皆保険の方向へ向かっていたが、アメリカはその流れに逆行していた」と、著者はいう。

 最後に1940年以降の職場と家庭の労働環境の変化をみておこう。このころ、すでに、農村社会から都市社会への移行は完了していた。
 1940年段階で、すでに工場の作業環境はかなり改善されている。職種としては事務職と販売職が増えていた。労働時間も週40時間となっている。家庭の労働環境も改善され、水道とガスが普及し、ほぼ半数近い家庭が電気冷蔵庫や洗濯機をもつようになっていた。
 ベビーブームのあいだ、女性は子育てに忙しかったが、1960年ごろから労働に続々と参入するようになる。
 製造業の就業者は1953年に労働力人口の30%に達したあと、1980年代にはいると急激に低下する。機械が労働に取って代わり、輸入品が押し寄せるようになったためである。2015年には製造業就業者の割合は労働力人口の10%まで低下している。安定した雇用が失われたことで、ブルーカラーの生活は苦しくなった。
 労働環境が改善されたことで、若年層は高校に行くのがふつうになった。1970年には高卒率は70%に達した。だが、それ以降は頭打ちになっている。貧困家庭出身者のなかには、高校を卒業できず、最低賃金レベルの単純労働を余儀なくされる者も多い。
 大学卒業者の割合は増えたが、その40%が大卒向けの仕事をみつけられないでいる。授業料が高騰するいっぽう、卒業してからも学資ローンに苦しむ若者も少なくない。
 1940年以降、高齢者の生活も一変した。年金制度により、年金の支給開始年齢になれば退職することも可能になった。とはいえ、いまでは「退職後の人生が長くなり、将来の社会保障費の財源をどう確保するかという頭の痛い問題が持ち上がっている」。
 1953年には農業労働者の割合が10%を切った。農作業を農業機械が代替するにつれて、農業就業者の割合はさらに減り、2000年以降はほぼ2%の水準となっている。
 労働者の雇用は、農業やブルーカラーからホワイトカラー中心に移行した。20世紀後半には中産階級の割合が大きくなった。製造業が衰退するものの、サービス業が成長したのだ。そうしたなかで製造業や鉱業でも安全性が向上する。空調設備の普及は労働環境を改善し、生産性を増大させた。
 1950年代から60年代にかけては実質賃金が大幅に上昇し、賃金格差が圧縮され、経済成長が黄金期を迎えた。しかし、1975年以降は、成長の鈍化とともに、所得格差が拡大し、所得階層の下半分が中産階級から脱落しはじめている。
 戦後の労働市場の変化で重要なのは女性の参入である。戦後当初は出生率が高かったため、女性は家事や子育てに忙しかった。しかし、女性が仕事を得ようとすると、当初はとてつもない女性差別の壁にぶつかった。
女性による本格的な労働市場参入がはじまるのは、1960年代半ばからである。1964年に44.5%に達した女性の労働参加率は1999年に76.8%となり、その後は緩やかに低下し、2014年には73.9%となっている。
 1970年代から80年代にかけ、女性の学歴も高くなった。女性はまもなくホワイトカラーの専門職、医師、弁護士、管理職のポストへの道をも歩み始める。1970年代以降は、男女同一賃金に向けて、かなりの前進がみられるようになった。それでもいまでも賃金格差は残っている。
 25歳−29歳でみる大卒者の割合は1940年には5%だったが、1966年には10%、1990年には20%、2013年には32%に上昇した。大卒者の数が増えるなかで、女性の比率が上昇し、1978年には50%を超えた。
 しかし、いまでは卒業してから学生ローンの返済に苦しむ若者も増えている。大学を卒業しても、タクシー運転手やスターバックスのバリスタなどの単純労働にしかつけない人も増えている。それでも、大卒者は労働市場で有利な位置にあり、失業することも少ない。しかし、過去17年をみると学位をもたない大卒者の実質所得水準はむしろ下がっている。
 全人口に占める退職年齢層の割合は、1940年の7.1%から2010年の13.1%へと確実に増えている。1935年にはニューディール政策で社会保障制度が導入され、失業保険や年金が保障されるようになった。アメリカでは1959年に高齢者の貧困率は35%だったが、2003年には10%に減っている。だが、今後はふたたび貧困率が増大していくのではないか。
 年金の黄金時代は1970年代だった。余命が延び、退職者の所得が増えたことから、高齢者向けのあらたな産業やコミュニティも生まれた。しかし、現在は老齢人口が増え続けるなか、退職後の生活の持続可能性への懸念が高まっている。中産階級労働者の49%が退職後に貧困線以下、もしくは貧困線以下で生活するようになるという最近のデータもでている。預金口座にわずかな資金しか残っていない多くの労働者は、65歳を過ぎても働きつづけなければならない状況にある。
 だんだんしんどくなってきたので、きょうはこのあたりにしておきましょう。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(7) [商品世界論ノート]

 20世紀がアメリカの世紀になったのはなぜか。そして、それはどこに向かおうとしているのか。本書は経済面で、そのことを探ろうとしている。引きつづき、ぼんやりじいさんののんびり読書がつづく。
 今回は自動車と飛行機の時代のはじまり。そしてテレビとスマホの時代をめぐって。
20世紀に乗用車やトラック、バス、航空機、トラクターなどが実用化されたのは、1879年に発明された内燃エンジンのおかげだという。アメリカでは1929年に自動車の世帯保有率がすでに90%に達していた。スーパーマーケットが登場するのも、自動車の利用が日常化したからである。
1958年から72年にかけては、全米に多車線の高速道路網が張りめぐらされる。航空技術も発達し、ジェット機が各地を結ぶようになる。
 戦後、アメリカではほとんどの都市で路面電車が廃止され、都市交通の中心はバスと車になった。各家庭では1950年代から60年代にかけ、2台の乗用車をもつのがふつうになる。だが、1970年以降はその伸びも収まり、自動車社会への大転換は終了する。
 自動車による1人あたり走行距離が鉄道を追い抜くのは1920年、飛行機が鉄道を追い抜くのは1956年である。鉄道の1人あたり旅客輸送距離は、1950年の360キロメートルから2012年の51キロメートルへと落ちこんでいる。
 乗用車とトラックの販売台数は、1929年に530万台、1941年に470万台、1950年に790万台、1955年に910万台に達した。自動車のモデルも増え、品質も向上していく。キャデラックやリンカーンが大企業の重役の車だとすれば、シボレーは新興の労働者階級の車だった。
 1950年から2010年にかけ、自動車の価格は相対的に上昇したが、その品質も大幅に向上している。安全装置や汚染防止装置も備わった。燃費も改善され、車は安全性が増し、より信頼に値するものとなった。政府がインフラに投資したことも手伝って、自動車による死亡率も減っていく。メンテナンスや故障修理の頻度や費用も減った。
 アメリカの自動車業界における重要な変化は、1970年代半ばから輸入車が増加したことである。その割合は1987年に42%というピークに達した。輸入車が増えた原因は、1979年と81年のオイルショックで、ガソリン価格が上昇したことである。なかでも日本車はデトロイトで製造される車にくらべ、小型で燃費がよく、品質もすぐれていた。
 州間高速道路の建設を決めたのは1950年代のアイゼンハワー政権である。この法律では費用の90%を連邦政府が、残りの10%を州政府が負担することになった。またガソリン税の税収も道路建設に組み入れられた。
 高速道路の建設はさまざまな経済効果をもたらした。最大の効果は輸送コストが削減されたことである。また人と物の移動がより活発になった。観光業界にもたらした影響も大きい。だが、そうしたメリットも1970年代以降は徐々に失われつつある、と著者はいう。
 いっぽう、1940年当時、航空業界はまだ黎明期にある。ジェット機が就航したのは1958年。それ以降、電子制御システムが導入され、燃費がけたはずれによくなり、機内エンターテインメントが導入されたことを除いて、航空機のスピードや快適さ自体にさほど改善はみられない。
 ジェット機は画期的だった。1936年には途中3回給油しながら、飛行機は西海岸から東海岸まで15時間でアメリカ大陸を横断することができるようになった。現在、ロサンゼルス・ニューヨーク間は5.6時間で結ばれている。
 航空機がすっかりジェット機に入れ替わったのは1960年代末である。それにより飛行時間は短縮されたが、それ以降、空の旅はけっして快適になっていない、と著者はいう。乗客は保安検査場に並ばされ、窮屈な座席に押し込められている。
 飛行機が大衆化し、だれでも乗れるようになったのは事実である。その安全性も向上した。製造上の欠陥、航空管制、機体整備も改善され、いまや空の旅はより安全になった。
 意外なことに距離あたりの航空運賃が相対的に下落したのは、60年代末のジェット機導入以前だという。それ以降、運賃は穏やかにしか下落せず、1980年以降は下落していないという。
 速度と快適さの点でみると、ジェット機での旅は1960年代以降、特段の変化はない。変化といえば1970年代末から規制緩和が進んだことである。航空会社はどの路線にも自由に参入できるようになった。すると、大きな航空会社が小さな会社を合併し、大会社どうしの競争が激しくなり、運賃体系はより複雑になった。だが、運賃そのものはけっして安くならなかった。
 その代わり、各社はマイレージ・サービスを導入するようになった。複雑な料金体系は、かえって格差を生み、空の旅の質を低下させている。「かつて乗客は、航空券の代金を支払いさえすればよかったが、今や各社とも乗客に追加料金を支払わせ、少しでも収益を増やそうとしのぎを削っている」と、著者はいう。
 次は娯楽と通信、端的にいって、テレビと電話の話だ。
「1940年以後の情報と娯楽の世界にはテレビが君臨した」と、著者は書いている。商業放送がはじまったのは、第2次世界大戦後。テレビはまたたくまにリビングにはいりこみ、それによりアメリカ人の生活は家庭中心になっていく。
 テレビの前段階にはラジオがあった。だが、テレビが家庭に浸透したあとも、ラジオはテレビの隙間で生き残った。それは映画も同じだ。映画はけっしてなくならなかった。いまではテレビやパソコン、スマホでも映画がみられるようになった。
 テレビ自体も進化する。1970年代半ばにはカラーテレビの時代になり、大型化し、ビデオやDVDと一体化し、さらにデジタル時代となる。
 電話はまず長距離通話料金が大幅値下げとなるところからはじまり、1980年代には携帯電話が登場して持ち歩けるものになり、いまではスマートフォンを使えば通話だけではなく、ウェブ検索やメールの受信、音楽や映画の鑑賞もできるようになった。スマホやソーシャルメディアにより、1970年以降、通信分野の進化はむしろ加速している。
テレビの開発には1870年以来の前史があるが、テレビが商業放送を開始するのは戦後になってからで、戦時中はもっぱらラジオが世界の動きを伝えるうえで大きな役割をはたしていた。そのころは映画産業も活況を呈し、「アメリカ人の娯楽費の23%が映画に費やされていた」ほどだという。
 テレビが普及するのは1950年以降だが、テレビのある世帯は1950年で全世帯の9%にすぎなかった。しかし、わずか5年後には64.5%に達し、1960年には90%以上の世帯に普及した。もちろん、それはテレビ放送の視聴可能エリアが広がり、番組が増えたからでもある。
 全世帯に普及する前は、アメリカでも人びとは公共の場や食堂、あるいは近所の家でテレビを見ていた。子どもにせがまれてテレビを買う家庭も多かった。購入理由でもっとも多かったのは、スポーツ観戦である。その後、ドタバタ喜劇もおおはやりとなり、人びとをなごませようになった。2005年にアメリカではテレビの1日あたり平均視聴時間は8時間に達している。
 テレビは世論を左右する力をもつようになった。それが典型的にあらわれたのが、1960年のニクソンとケネディの大統領選テレビ討論だった。このとき、ケネディは視聴者に圧倒的な好印象を与えた。公民権運動にテレビがはたした影響も大きかったといわれる。
 テレビの影響で、戦後、映画の観客動員数は激減した。そのため映画はあの手、この手を使って、観客を引きつけようとした。1990年代半ばには巨大シネマコンプレックスが誕生するが、観客数自体はけっして増えていない。それでも映画は生き残った。映画の大画面はテレビにはない迫力や醍醐味、洞窟の快楽めいたものを味わわせてくれるからだ。さらに収入面で映画が生き残ったのは、映画館での上映のあと、テレビでも放映され、あるいはDVDやNetflixなどでも見られるようになったことも大きい。
 ラジオもテレビの隙間をぬって生き残った。ラジオを聞くことはきわめて個人的な行為となり、そこからは、それまでとはちがう楽しみや憩いが生まれたのだ。
 音楽の世界も激変する。終戦から30年はまだレコードプレーヤーの時代だった。レコードは78回転から33回転のLPへと進化し、さらにシングル盤も登場した。磁気テープレコーダーは録音可能時間が長く、しかも編集が可能で、プロのあいだで広くもちいられていた。60年代に登場したカセットテープは、テープレコーダーとの組み合わせで、音楽の幅を広げ、通勤の車のなかでも、好きなアルバムを聴くことができるようになった。ウォークマンが出現すると、どこでも音楽を連れていけるようになった。
 画期的なのはコンパクトディスク、つまりCDの発明だった。1978年から88年にかけレコードの売り上げは80%減少する。CDにとって代わられたのだ。しかし、21世紀にはいると、そのCDもiPodとデジタル音楽のダウンロードによって売り上げを激減させることになる。
 携帯できることが重視されたのは音楽の世界だけではない。電話も同じだった。交換手なしに直接ダイヤルで電話が通じるようになったのは1943年以降である。1951年にはニューヨークとカリフォルニアとのあいだで、ダイヤルで電話がつながるようになった。電話が自動化できたのは、1948年にトランジスタが発明されたためだという。「自動化によって効率性が向上し、オペレーターを使う必要性が減ったおかげで、電話が素早くつながって利便性が上がり、通話料も安くなった」
 セル方式の移動電話が登場するのは1970年代になってからである。最初は自動車電話で、レンガのように大きかった。携帯電話が普及するのは1990年代末になってからだ。2000年以降、携帯電話は通信手段として固定電話を抜くようになる。さらにスマホの登場は、人びとのライフスタイルを大きく変えようとしている。いまでは固定電話をやめる家庭も増えている。
 1960年代からは、ニュース、とりわけ速報で映像を伝えるテレビニュースが大きな威力をもつようになった。新聞購読数は戦後に頂点を迎えたあと、緩やかに減少しはじめる。しかし、記事に分析を織り交ぜるなどして、独自の工夫もこらし、生き残りをはかった。
 1990年代末になると、インターネット配信があらわれ、テレビと新聞の競争相手となった。スマホやタブレットをもつ人の大多数は端末でニュースを読むようになった。ブログやチャットも、人びとの関心を引きつける情報源となった。
 娯楽と通信が進歩するスピードは鈍化していない。「デジタルメディアへ向かう流れは1990年代に生まれ、過去15年に加速した」。
 2001年に登場したiPodは、コンピュータにダウンロードして音楽を再生できる装置だった。アナログAV機器からデジタルAV機器への移行は段階的に進んだ。YouTubeやNetflixのような映像ストリーミングサービスも登場した。Kindleをはじめとする電子書籍は、デジタル書籍へ向かう流れを生みだした。スマホが1台あれば、単に電話をするだけではなく、音楽を聴いたり、ニュースを見たり、メールを送ったり、情報を検索したりすることもできるようになった。スマホのアプリは爆発的に増え、ゲーム会社やソーシャルネットワーク会社に大きな成功をもたらしている。
 こんな時代がくるとは、マルクスもケインズも予想していなかっただろう。いま、いったい世界はどこに向かっているのか。そんな不安をいだきつつ、耄碌しかけたじいさんは、きょうもうつらうつらしながら、本のページをめくるのである。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(6) [商品世界論ノート]

 本書では1870年から2014年までのアメリカ経済史の流れが、1870〜1940年、1940〜2014年の約70年ごとに二分されている。
 しかし、1870年から2014年までの経済発展をみるには、1940年で二分するよりも、(1)1870〜1920年、(2)1920〜1970年、(3)1970〜2014年と50年ごとに三分したほうがよいかもしれないことを著者も認めている。
 それによると、(1)が始動期、(2)が加速期、(3)が減速期になる。
 (2)の時期は、電気と内燃エンジンという19世紀末の発明(第二次産業革命)が、新たに実用化された商品を生みだし、それが普及した時期と重なる。1940年以降の(2)の後半期は高成長がもたらされ、エアコン、高速道路、飛行機、テレビが人びとのライフスタイルに浸透していった時期と重なる。
 第二次産業革命のもたらした範囲は広く、およそ人間活動の全域におよぶ。すなわち、この時期に、食料、衣服、住宅、輸送、娯楽、通信、情報、健康、医療、労働環境の面で、人はこれまでにない多くの満足すべき成果を得たのである。
 だが、年代区分はいずれ恣意的とならざるをえない。
 これまでの第1部では、1870年から1940年までの生活水準の発展をみてきた。
 この時期、都市部では、ほぼどの家庭にも電気、ガス、水道が普及した。いわば都市がネットワーク化されたのである。遅ればせながら農村部でもネットワーク化は進み、農業の生産性は大幅に上昇した。
 全人口に占める都市人口の割合は、このかん25%から57%に上昇している。1人あたり実質GDPは、1870年は2770ドルだったが、1940年には約3倍の9950ドルになっている。だが、数字に表れる以上に、この70年は生活の質の向上がもたらされた時代だった、と著者はいう。そのことはこの時期の平均余命の伸びをみても明らかで、その分、近代化が進展したのである。
 これに対し、1940年から2014年はどうか。1940年から1970年まではたしかに高成長がつづいた。さらに、1960年代末に第三次産業革命が発生した。すなわちIT革命である。IT革命は、その後、通信や娯楽の面に大変革をもたらすことになる。
 だが、1970年からはかえって成長が鈍化する分野が増えてくる。生活水準はむしろ伸び悩んでいる。1人あたりGDPの伸び率も低迷した。経済効果の面でみるかぎり、第三次産業革命は第二次産業革命ほどの成果をもたらしていない。その意味をどうとらえればいいのかが、後半の課題になるだろう。
 本書はここから第2部(日本語版では第2巻)にはいる。引きつづき、それを追ってみる。

 最初は、1940年から2015年までの衣服住、すなわち生活の基本要素の変化についてである。
 まず食品をみると、1940年のアメリカでは肉の摂取量が減り、食品の種類が多様化し、野菜やパスタ、シリアルの消費が増えている。
 すでに1930年代からチェーンストアに代わって、スーパーマーケットが繁栄しつつある。戦争の時代は、砂糖や肉、果物、缶詰などが配給制になっていたが、配給制が解除されると、食卓は一気ににぎやかになる。
 1940年から50年にかけ、平均収入に対する家庭内の食費の割合は25%程度、外食費の割合は7%にのぼっていた。食費の割合が3割以上と大きいのは、この時期、実質所得が落ちこんでいたためだという(つまりインフレが進行していた)。だがその後、収入が増えてくると、食費の割合は徐々に減りはじめ、2000年には家庭内の食事がほぼ8%、外食の割合はほぼ5%になる。1960年から80年にかけては、家庭内の食事から外食へという流れが強くなった。
 肉類の1人あたり摂取量は一時減ったが、2010年の摂取量は1870年と変わらないところまで戻ってくる。戦後の特徴は牛肉が多少減り、鶏肉の需要が増えたことだという。油脂類ではラードがほぼ姿を消し、サラダ油やコーン油、オリーブ油の需要が増えた。マーガリンの売り上げも伸びている。果物と野菜がますます重要になるとともに、戦後は冷凍食品の消費が急増した。
 1930年から60年にかけて、食品を買うのはスーパーマーケットが中心となった。消費者はひとつの店で、さまざまな食品を買い、その代金をレジでまとめて支払う。バーコードによる値段の読み取りができるようになるのは1980年代からだ。それまでは会計係が商品に付けられた値札をみて、レジに値段を打ちこまなければならなかった。
 食品の種類は1980年代から2015年にかけて増えていき、選択肢が多様化した。著者によれば、平均的なスーパーの在庫は1950年に2200品目だったが、1985年には1万7500品目に増えた。しかし、スーパーが大きくなりすぎて、かえって買い物がたいへんになると、便利なコンビニがはやるようになる。
スーパーマーケット業界は、1990年以降は、より高級志向の食料品小売チェーンとより低価格の大型量販店にはさまれて苦戦しているようだ。
 戦後、多くのファストフード店が生まれた。これは家計に余裕がでたことと、女性の労働参加が進んだことに関係している。
 現在のファストフード店は、まるで組み立てラインができているように工場さながらの効率のよさを実現しているのが特徴だ。
 アメリカでは、1945年から1975年にかけ、所得格差が縮小した。その後、この「大圧縮」の時代は逆転し、いまでは上位層、中間層、下級層のあいだで格差が広がっている。3つの層では、食べるものにも「天地の差」があるという。新しい階級社会が生まれたという言い方も誇張ではなさそうだ。
 アメリカ人の1日あたり摂取総カロリーは、1970年以降20%以上増大した。その原因は揚げ物類の増加にある。その大半はファストフード店でとられている。
 貧困層のあいだでは肥満、とりわけ子どもの肥満が問題になりつつある。「貧困家庭の子どもは暇をもてあまし、テレビの前に座って脂肪量とコレステロール値を高める安価なファストフードを食べている」。肥満を助長するのが、ビデオゲームだ。肥満が糖尿病や心臓病を引き起こし、今後、平均余命が短くなることを著者は懸念している。
 次に衣を取りあげよう。
 1940年から2010年にかけ、消費に占める衣料品の割合は大きく減少し、10%から3%へと低下した。「他の消費財やサービスに比べ、衣服は長期にわたって一貫して安くなった」という。
 とりわけ1980年以降は、輸入品が国産品に取って代わった。その結果、所得に占める衣服の割合が低くなり、消費の対象が衣服以外に向かうことになった。
 素材面でいえば、1940年以降はこれまでの綿やウール、絹に加えて、化学繊維が大きな割合を占めるようになった。化学繊維の品質は次第に向上していく。衣服の嗜好も変わった。堅苦しいものより、カジュアルウェアやスポーツウェアが好まれるようになった。
 衣料品はアジアからの輸入品が主流になったため、アメリカではアパレル産業の雇用が大きく失われた。いったんあけられたパンドラの箱は、もはや元に戻せない、と著者も感じている。
 最後に住宅について。
 アメリカの都市化率は1940年の56.5%から1970年の73.4%に上昇する。それにともない、現代的設備の整った住宅が普及した。1950年にはアメリカ全土に電力網が広がり、屋内の水洗トイレやバス、シャワーも行き渡る。1970年から2010年にかけては空調設備が普及した。
 戦後は世帯数に対する住宅着工件数は長期にわたって低下しつづけている。それは建築費が上昇したことと、人口増加率が徐々に低下していることに関係している。アメリカの住宅は戦後、規模も大きくなり、部屋数も増え、設備も充実した。さらにいえば、伝統的なリビングルームや正式なダイニングルームを小さくして、ファミリールームを広げる傾向が強まったという。
 設備面でいうと、1940年の段階で、冷蔵庫はまだ44%、洗濯機は40%の普及率にとどまっていたが、1970年にはほぼ100%を達成。1952年にオーブンやレンジをもつ家庭はまだ24%だったが、1990年には99%となった。1980年に8%にすぎなかった電子レンジはあっという間に普及し、2010年には96%に達した。食洗機は2010年時点で60%の家庭が所有するようになっている。
 冷蔵庫は急速に進化した。大きさはほぼ2倍になり、食品の保存機能が高まり、安定した冷凍機能をもつようになった。消費電力も大幅に減る。修理の必要はほとんどなくなった。進化したのは洗濯機も同じだった。容量が大きくなり、全自動化が進んだ。
 戦後の特徴はエアコンが普及したことである。エアコンのエネルギー効率は急速に改善された。重量も軽くなり、設置が容易になり、コストも安くなったことから、急速に家庭にとりいれられることになった。工場でもエアコンは仕事の効率を高めた。そのため、企業は工場を北部から南部に移すことも可能になった。
 電子レンジは1965年に初めて商品化されたが、その後、計量化と小型化が進み、電子制御機能も加わり、値段も安くなった。そのため、一斉に普及する。しかし、いずれの家電も、1990年以降、品質の向上はほぼ頭打ちとなった、と著者はいう。
 戦後の住宅で目立つのは、郊外化とスプロール化である。自動車の普及にともない、郊外では大規模土地開発が進むいっぽう、都市の中心にはスラムが形成された。郊外には巨大なショッピングモールがつくられていく。
 ヨーロッパでは、都市のスプロール化は生じていない。それについて、著者は「ヨーロッパの土地利用規制は、郊外のスプロール化を防ぎ、都市中心部の歩行者専用区域を保護する役割を果たすものだが、経済全体の生産性や一人あたり実質生産性の低下という大きなコストになっている」と指摘する。土地にたいする日本の考え方は、むしろアメリカに近い。そのためバブルに翻弄された。
 アメリカで深刻な問題となっているのは、旧式の工場をかかえるラストベルト地域が衰退したことである。北部の工業地帯から多くの人口が南部や南西部に移動していった。シカゴやフィラデルフィアの一部、クリーヴランドやデトロイト、セントルイスの中心街はゴーストタウン化している。黒人差別がスラム化を促進した面もある。「貧困層の多くは都市のスラムと食の砂漠から抜け出せないままでいる」。地域格差が教育格差を助長していることも大きな問題だ、と著者は指摘している。
 きょうはこのあたりにしておこう。商品世界全体が飽和状態に達し、それから大きな格差やひずみを生みだしながら、減退していく様子をみるには、ほかに交通や通信、娯楽、医療、労働環境にも目を向けていかなければならない。ゴードンの本書は、そのあたりもえがいている。
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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(5) [商品世界論ノート]

 ここからは、1870年から1940年にかけての生活環境の変化をみていく。
 商品世界の進展は、労働者の資本家への隷属をますます強め、労働者の困窮を広げていっただろうか。事態はマルクスの予想と逆に動いた。少なくとも、1870年から1970年までの100年については、そうだったといえる。
 イノベーションにもとづく新商品には、消費者の厚生を高め、余暇活動を広げ、家事労働の負担を軽減する効果があった。自動車や冷蔵庫、掃除機などの家電製品をみてもそのことがわかる。そのことが同時に平均余命(寿命)の伸びをもたらす、ひとつの要因ともなった。
 とりわけ注目すべきは、1900年から1940年にかけ、乳児死亡率が低下したことである。都市の衛生インフラ(たとえば上下水道)が整備され、危険な食品や薬品への規制がなされようになったことも、平均余命の伸びと無関係ではない。加えて、より直接的な要因としては、もちろん医療技術の進歩を挙げなければならない。
 1900年時点では、都市部の白人男性の平均余命は39.1歳と、農村部の46歳よりも低かった。これは都市の生活環境が悪く、新鮮な食べ物を得るのが難しかったからである。しかし、1900年と1940年を比較すると、都市部と農村部の差は縮小し、平均余命は白人男性が48歳から63歳に、非白人男性は33歳から52歳に伸びている。白人と非白人の余命のちがいは、とりわけ南部の生活環境の差によるものと思われる。
 平均余命の増加は、前に述べたように、乳児死亡率の低下が大きな要因だが、感染症による死亡率が低くなったことも大きい。1918年から19年にかけてのスペイン風邪(インフルエンザ)は例外的に多くの死者をだしたが、当時はまだウイルス研究がじゅうぶんに進んでいなかった。著者は上水道システムの普及や、パスツールの病原菌理論にもとづくワクチンの開発、住宅環境の整備、公衆衛生の浸透、大気汚染対策、食品の安全管理、疫学予防、病院と薬局の整備などを寿命増加の要因として挙げている。
 さまざまな医療器具が開発され、医師が専門化し、医療行為が市場性をもつようになったことも見逃せない。それまでは、医療は家庭か近隣の協力でなされるものだった。自動車は医師の行動範囲を拡大した。電話で緊急に医師を呼ぶことも可能になった。
 病院数は次第に増えていったが、それでも、まだ病気や怪我は自宅で治すという人は多く、その場合、病人は医師の往診を待つほかなかった。出産も家庭でおこなわれることがまだ一般的で、病院での出産が5割にのぼるのは1920年代になってからである。
 看護学校が誕生するのは1870年代。1920年代には病院の建設ラッシュがはじまる。それにより病院はより快適なものとなり、病室も個室や半個室がつくられるようになった。1930年ごろ、病院を運営するのは、連邦政府ないし地方政府が28%、教会や個人、非営利組織が72%といった割合だった。
 医学は着実に進歩し、麻酔薬が開発され、手術での苦痛も軽減されていく。ワクチンは感染症の脅威を軽減した。公衆衛生面では、清潔と消毒のたいせつさがより認識されるようになった。
 医療費は当初、さほど高くなかった。往診する医者は、個人事業主で、患者を診察・治療するたびに料金を請求した。医療費が上がりはじめたのは1910年ごろからである。このころ医学校改革がなされ、医者がより専門家になると、医師の免許制がいわば独占に似た状況を生みだし、診療報酬が押し上げられていった。現代的な医療機器による治療や入院費の増加も医療費を高くする要因となった。
 アメリカでは全国民を網羅する医療保険がなかなかできなかった。労働者の一部は産業の疾病基金でカバーされていたが、失業すると、たちまち所得と健康保険の両方を失った。長期入院を強いられると、年収の3分の1から半分の医療費を請求されることもあった。ニューディール政策では強制失業保険と社会保障法が成立したものの、国民健康保険の導入にはいたらなかった。
 事故についてはどうだろう。エジソンの発明した電球が職場での事故を減らした、と著者は指摘する。とはいえ、事故はまだ多かった。馬と人間が衝突することもあった。鉄道や船の事故も少なくなかった。それが一段落すると、今度は自動車事故である。1920年には、自動車事故による死者が鉄道事故の倍になった。だが、それも徐々に改善されていく。
 殺人率は1930年代に10万人あたり10人と上昇するが、1950年にはほぼ半減し、1980年代にふたたび上昇して、10万人あたり11人のピークをつけた。1930年代の殺人による死亡者数は、自動車事故のほぼ3分の1である。殺人には地域格差が大きい。北部が比較的少ないのにたいし、南部はきわめて高い。しかし、南部よりさらに高かったのが西部開拓地だった、と著者はいう。
 生活水準上昇の度合いは、1人あたりGDPの伸びよりも大きい、と著者はみる。GDPの増大は生活の質の変化と消費者余剰をもたらすからだ。とりわけ、その恩恵は死亡率の低下と平均余命の増加にあらわれる。平均余命の増加は、医療産業の進歩によるだけではなく、もっと総合的なものである。
 次に取りあげられるのは、職場と家庭の労働環境である。
 1870年代から1940年代にかけ、それらは多いに改善された。職場の労働時間は着実に短くなり、64時間だった週の労働時間は、1940年以降48時間に減少した。定年退職という概念も一般的になる。児童労働はほぼ消滅した。
 機械の導入により、きつい農作業は緩和された。それは食肉処理などの職場でも同じである。縫製工場の劣悪な労働環境も次第に改善されるようになった。
 女性の労働参加率は徐々に上昇した。1870年には12%だったが、1940年には26%に達し、2000年には72%まで上昇している。いっぽう、男性の労働参加率は1870年から1940年で95%で、その後減ったといっても2000年でも88%を保っている。
 10歳から15歳までの児童労働は1880年には男子が30%、女子が10%あったが、1940年にはほぼ4%に低下している。19世紀後半、少女たちは水くみや洗濯、台所仕事、縫い物、子どもの世話と、めまぐるしく働いていた。
 1910年ごろから若年男子(16〜24歳)の労働参加率が低下するのは、高校への進学率が増えたからである。戦後はさらに大学進学率の増加によって、若年労働者の労働参加率は低下する。いっぽう、若年女子の労働参加率は徐々に高まっていく。そのため2000年ごろにおいては若年の男子と女子の就職率はほとんど変わらなくなった(60数%)。
 かつては死ぬまではたらかねばならなかった高齢男性は、社会保障制度が充実するにつれ、退職し、余生を楽しむことができるようになった。65歳〜74歳の男性の労働参加率は、1870年には90%近かったが、1940年には53%、1990年には24%に低下している。
 労働の質も変わった。機械や道具の導入によって、それまでのつらく退屈で危険な労働が軽減された。農場労働者や作業員の数も減ってくる。人力による運搬や掘削などの仕事はトラックや掘削機に取って代わられた。製造業の組立工も1970年以降はロボットによって代替されるようになる。
 いっぽうブルーカラーに代わって増えてくるのが、ホワイトカラーや管理・専門職である。不快な仕事に従事する人の割合は1870年の87.2%から2009年の21.6%へと段階的に低下した。1870年から1970年にかけては苛酷な業務が反復的な業務へと変わり、1970年以降は非定型的な認識業務が増えてくる、と著者はいう。
 労働時間も減った。1870年には労働時間は週6日、1日10時間が一般的だったが、1940年には週5日、1日8時間がふつうになった。労働時間が減少したのは、労働時間の短縮によって労働の質が上がり、かえって労働生産性が上昇すると考えられたからである。時短と労働生産性の上昇は、実質賃金の上昇と結びついていった。
 ここで、農業に目を転じてみよう。その労働環境は、土地の肥沃度や気象の安定性、さらには家畜や農機具による負担軽減にかかっている。1862年のホームステッド法は、開拓を促進したものの、土地の劣化をももたらした。開墾は重労働だった。
 機械化が促進される19世紀後半まで、農業の生産性は低かった。1830年以降は馬が使われるようになっていたが、その後、内燃エンジンが開発され、余裕のある農家はトラクターや小型コンバインを取り入れるようになる。干魃や害虫に強いトウモロコシのハイブリッド種も開発された。これらにより、農業の労働環境が改善されていく。
 ただし、制度的な問題もある。アメリカでは南部と北部では、農業の制度がことなる。南部では黒人奴隷解放後も、小作人制度が幅をきかせていた。土地を所有する地主は小作人を雇って、作物や綿花を育てさせ、その収穫の半分を受け取っていた。19世紀後半から20世紀はじめにかけて、南部の黒人小作人の生活はみじめなものだったという。
 1870年から1940年のあいだに、アメリカは農村国家から都市国家に移行する。そのかん、都市人口の割合は25%から57%に上昇した。都市人口の割合が増えたのは、移民が都市に住み着いただけではなく、農村から都市への移住が増えたからである。
 労働環境が厳しかったのは農村だけではない。鉱山、とりわけ炭鉱は危険と隣り合わせであり、肺病にかかる確率も高かった。食肉処理場の労働環境も苛酷だった。鉄鋼業では、長時間労働と苛酷な労働環境が労働者の生活をむしばんでいた。企業間の熾烈な競争が人件費の削減に輪をかけていた。高温の蒸気が充満するなかでの作業はまるで生き地獄のようだった。そこに機械化の波が押し寄せる。機械化によって、熟練した職人は排除され、画一的な未熟練労働者に置き換えられていった。
 1919年以降の生産性上昇は電動モーターによるところが大きかった。その副産物として、作業場が明るく清潔になり、労働環境が改善されていったことは否定できない。
 19世紀後半には、炭鉱や鉄鋼業だけでなく、どの産業でも労働災害による死傷事故が多かった。建設現場や縫製工場でも事情は変わらない。低賃金、長時間労働に加え、労働環境も苛酷だった。労働者にたいする保護や補償はないに等しかった。
 しかも不況の波が、多くの労働者の職を奪った。確実なものは何もなく、来年の家計どころか、来週の賃金もどうなるかわからなかった。失業に対する打撃が緩和されたのは、1938年にニューディール法が成立してからである。だが、それ以前の1910年から20年にかけて、労働者災害補償法が各州で成立していた。
 第2次世界大戦前、家庭外での女性の労働は、使用人や事務員、教師、看護婦、縫製の仕事などにかぎられ、働くのはたいてい未婚女性か未亡人だった。その賃金は安く、労働環境は苛酷だった。1920年代から1940年代にかけ、女性の労働参加率が上昇したのは、サービス部門での仕事が増えたことや、女性が家事労働から多少なりとも解放されたためである。女性は次第に「汚く骨の折れる職場ではなく、清潔で快適な現代的オフィスや販売店で働くようになり、週あたり労働時間も短縮された」。
 19世紀後半、労働者階級の女性は家庭内での重労働に追われていた。洗濯、料理、水くみ、掃除、パン焼き、針仕事、どれもが大仕事だった。上下水道が普及し、ガスが敷かれ、家電製品がそろったことで、女性の家事負担は軽減され、家事を楽しいと思う女性も増えてきた。「20世紀には、女性の家事負担の軽減と男性の市場労働の時間減少という二つの異なるトレンドが重なり、男性が子育て、住宅補修、庭仕事などの家庭内生産に積極的に参加できるようになった」と、著者は指摘する。
 全体的にみれば、世帯あたりの家庭内生産(労働)の時間は1900年の週78時間から2005年の週49時間に減っているという。子どもの数が平均4人から2人になったことは、家庭内の仕事量に影響していない。手間は変わらないからである。だが、家庭内の仕事は料理にしても何にしても、より基準の高いものになっている。料理も掃除も子どもの世話もより入念におこなわれるようになっているのだ。
 1900年ごろ、熟練工と非熟練工のあいだでは、2倍の賃金の開きがあった。高所得労働者はアメリカン・スタンダードを謳歌できたが、底辺労働者は極貧を生きていた。移民労働者は労働条件が少しでもよいと、簡単によそへ移った。フォードが基本給を上げたのは、労働者の離職率の高さを抑えるためである。
 しかし、いずれにせよ、1940年代までは実質賃金が労働生産性を上回るかたちで伸びた。実質賃金が労働生産性を下回るようになるのは1980年代以降である。これは徐々に経済格差が広がったことを示している。
 実質賃金の伸びがもっとも高かったのは1910年から1940年にかけてである。1920年代の移民制限法と、ニューディール法制による労働組合の奨励も、実質賃金の増加に寄与した。自動車工場などでは、技術変化が労働者に特定の反復作業をうながすいっぽう、企業は労働者の離職率を下げるために賃金を上げなければならなかった。
 1870年に児童労働はごく一般的で、14歳、15歳の少年は半数以上が働いていた。炭鉱でも製鉄所でも織物工場でも農家でも、少年たちのはたらく場所があった。その給料は成人男性の半分ほどで、児童労働を禁止する法律が施行されても、児童労働はなかなかなくならなかった。とくに低所得世帯は、義務教育が終わるとすぐに子どもをはたらかせていた。
 1870年時点で、高校に進学する子どもはごくわずかだった。1910年の高卒率は9%にすぎなかったが、1940年には51%、1970年には約77%に達する。第2次世界大戦は、大学進学率も増えていた。
 1870年から1940年にかけてほど、急速に生活水準が向上し、人びとを取り巻く環境が一変した時期はない、と著者は指摘する。商品世界の広がりはいうまでもなく、この時期、保険や消費者信用が果たした役割、さらに経済開発をうながした政府の役割はけっして無視できない、と著者は指摘する。
 消費者信用は19世紀後半から広く用いられていた。農家は雑貨店や行商人から必要なものをツケで購入し、次の収穫期に支払っていた。北部の農民のなかには、銀行で資金を借りて、土地を購入する者もいた。しかし、当時の金利は高く、農民はその支払いに追われた。
 地主から借り入れをしている南部の小作人の生活はより悲惨で、借金でがんじがらめになっていた。そのころ都市で、質屋が盛んだったのは、都市の雇用が不安定だったことと関係がある。
 割賦販売は1845年のピアノとオルガンが最初だったという。シンガー・ミシンは1850年からミシンの割賦販売をはじめる。富裕層から労働者階級にまでミシンが広がったのは割賦販売のおかげである。すでにサラ金のようなものもはじまっている。
 大型デパートや通信カタログ販売は、現金販売が原則だったが、競争が激しくなるにつれて、割賦販売も認められるようになった。著者によれば、割賦販売が盛んになるのは耐久消費財への需要が増える1920年代からだという。それによって、「労働者階級の大半が消費者信用を利用できる新しい世界が台頭した」。
 消費者金融は急速に拡大する。大恐慌は1929年後半の株式市場の崩壊によって生じるが、「家計が消費者信用に過度に依存し、負債比率を高めていたことも大きかった」。
 その消費者信用がとりわけ効果を発揮したのが自動車販売である。1924年には4台のうち3台がローンで購入されていたという。
 1920年代から消費者信用は利用しやすくなった。耐久消費財の価格が下落したところに、消費者信用の供与が拡大し、電気冷蔵庫や洗濯機など、新製品の購入が促されることになった。それにより「労働者階級は、信用販売のおかげで、一世代前には存在しなかった新製品を入手できるようになった」。
 アメリカでは1890年にすでに住宅ローンが生まれている。1920年代には住宅建設ブームが起き、信用状況が全般に緩和され、住宅金融は急増している。
 生命保険がいまのようなかたちになるのは、19世紀最後の30年だという。20世紀にはいると、生命保険は急速に普及する。それは比較的少額の支払いで、万一の場合に備える貯蓄と考えられていた。1905年の時点で生命保険会社の資産の対GDP比は10%を超え、1933年には37%と急上昇している。いずれにせよ、1940年ごろまで、生命保険は急速に増大し、皆保険に近いものとなっていく。
 火災保険は17世紀後半にイギリスで誕生するが、現代的なかたちになるのは19世紀からである。1906年のサンフランシスコ地震と火災による被害は、約半分程度が火災保険でカバーされた。
 強制自動車保険が導入されたのは1920年代である。自動車事故の死亡率は現在より20倍以上高かった。そのころから、事故によるけがや死亡、車両損害や医療費の支払い、その他に対応する自動車保険が次々と開発されていった。
 1870年から1940年にかけてアメリカ人の生活水準が上昇したのは、主に民間部門による発明と資本蓄積のおかげだが、そのかん政府は何もしなかったわけではない。「連邦政府をはじめ州政府など公的部門が、成長のプロセスを直接支援するとともに、行き過ぎた成長には歯止めをかけた」。
 たとえば、ホームステッド法、鉄道への土地の無償供与、1906年の純正食品医薬品法、特許局の設立、1920〜33年の禁酒法、さらに反トラスト法や一連のニューディール法制などをみても、政府は積極的に経済にかかわっている。その評価は分かれる(とりわけ禁酒法にたいする批判は強い)が、政府の介入は概して近代化を促進するとともに、プラスの外部効果をもたらした。
 製品規格の統一、食品衛生、医療、上下水道の整備、道路の整備、電化などで政府の果たした役割は大きい。著者が評価するのはとりわけ1933年から1940年にかけてのニューディール法制である。これにより預金者の預金保護や社会保障制度も確立された。雇用を創出し、失業を減らす対策がとられたのもニューディール政策の特徴だった。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(4) [商品世界論ノート]

 1870年から1970年にかけては、資本主義の興隆期だった。1870年から2014年までをカバーする本書の第1部は、その前半、すなわち1870年から1940年までを扱っている。時折の恐慌をともないながらも、それは資本主義の興隆期だったといえるだろう。
 あらゆる面で技術革新が生じている。今回、読むことにした第5章と第6章は、交通と通信、さらに娯楽に焦点をあてている。すでにマルクスの知らない時代がはじまっていた。
 人は移動する動物である。だが、人が単なる動物と異なるのは、みずからの足を使ってだけではなく、自然を用具化して、移動の範囲を広げ、移動に要する時間を短縮してきたことである。
 その用具をつくりだすには膨大な努力を要する。政治集団自体がすぐれた用具をつくりだすことはまずない。それよりも、できるなら民間で商品化された用具を、対価を払って利用するほうが理にかなっている。
 商品が貨幣によって購入できる財とサービスを指すとするなら、輸送機関も一種の商品である。そのサービスを利用するには対価を支払わなければならない。
 19世紀まで、人間の移動スピードは、馬や帆によって大枠が決められていた。それを変えたのは19世紀初めの蒸気エンジンである。鉄道や蒸気船が誕生する。1870年段階で、アメリカはすでに大陸横断鉄道をもち、すべての大陸と蒸気船で結ばれるようになっていた。
 この時点では、都市内部のスピーディな移動は馬車、さらにはそれを改良した鉄道馬車にかぎられていた。しかし、エジソンの発明により、アメリカの都市部では、1890年から1902年にかけ路面電車が動くようになり、1904年にはニューヨークに地下鉄が走るようになる。
 アメリカで長距離鉄道網が急速に発達したのは、1840年から1900年にかけてのことだ。1860年代において、その鉄道網は北部が中心で、西部や南部での建設は遅れていた。しかし、1870年には大陸横断鉄道が完成し、1920年にかけて鉄道建設ラッシュがおきる。
 鉄道によって、都市と都市は直線で結ばれるようになった。それにより、それまでの船や馬での移動にともなう不安定性や危険をとりのぞくことができたのが、鉄道の大きなメリットである。そして、鉄道はさらに進化し、馬力の増大にともない、輸送貨物の重量も増え、遠くまで、より安くより早く、旅客と貨物を運べるようになった。
 交通革命は商品のコストを大幅に下げた。1880年代に冷蔵貨物列車が開発されると、食品の品質が向上し、多様化しはじめる。カリフォルニアの野菜や果物、中西部の肉が東部に運ばれ、都市からは工業製品が小さな町や農村にももたらされる。郵便事業が改善され、カタログ販売も伸びていった。その中心点となったのがシカゴである。
 鉄道は旅行の楽しみももたらした。1870年から1940年にかけては、鉄道網が広がるだけではなく、鉄道のスピードが速くなり、乗り換えも楽になり、また車内も快適にすごせるようになった。
 19世紀まで都市の広さは、せいぜい歩ける範囲に限られ、雇い主も労働者もごく近くに住んでいた。1850年代に鉄道が開通すると、その状況はかなり変わってくる。しかし、初期の蒸気鉄道には不快な煤煙もつきものだった。
 そのため1890年代まで、市内の交通や物流はまだ馬が主流だった。しばしば事故をおこした乗合馬車は、1850年ごろ鉄道馬車に変わり、スピードも速くなり、料金も安くなった。しかし、次第に馬に代わる乗り物が求められるようになる。蒸気で走る汽車は町中には適さない。唯一の例外は坂をのぼるケーブルカーだった(それはいまもサンフランシスコに残っている)。
 電気で走る路面電車が実用化されるのは19世紀末から20世紀はじめにかけてである。それでも都市の渋滞はまだ緩和されなかった。同じ道路に馬車と電車がひしめきあって走っていた。
 電気による高架鉄道も開発された。ロンドンの地下鉄をまねて、1897年にはボストンでアメリカ初の地下鉄が開通する。ニューヨークの地下鉄開業は、それから7年遅れて1904年になった。そのころ都市間の電気鉄道(インターアーバン)もできあがる。こうして都市圏は次第に広がっていく。
 自動車を発明したのはドイツ人だが、それを安価な乗り物に改良したのは、アメリカのヘンリー・フォードらである。自動車が登場すると、馬はたちまち駆逐される。馬の時速はせいぜい10キロ、それに1頭の馬が走れる距離は40キロほどに限られていた。馬を飼うのはやっかいで、走っている途中で死ぬこともあったし、それに何よりも馬糞の処理が悩みの種だった。そんな問題を自動車は解決した。
 当初、自動車を購入するのは富裕層にかぎられていた。しかし、ヘンリー・フォードがT型モデルを開発すると、自動車の性能は向上し、価格も安くなった。1910年代から1920年代にかけ、フォード車は爆発的に売れる。その後はゼネラル・モーターズなどとの競争がはじまる。とはいえ、アメリカでは1910年から1930年にかけ、自動車が急速に普及していった。
 問題は道路の改良だった。アメリカでは1904年に道路の総延長距離が200万マイルを超えたが、その大半は土の道で舗装されていなかった。連邦政府は1916年から舗装道路の建設に補助金を出すようになる。アスファルトやコンクリートが開発されたのもこのころである。これによって、高速道路も建設されるようになった。
 市内で路面電車やバスが発達するにつれ、馬は次第に排除されるようになった。大陸横断鉄道はいうまでもなく、1920年代後半には東海岸と西海岸を結ぶバスも登場している。ロサンゼルスとニューヨークは、135地点を通過しながら5日と14時間で結ばれるようになった。
 しかし、公共路線以外の移動は困難を要した。馬に代わってこの問題を解決したのが自動車だったことはまちがいない。自動車はいつでも、どこでも、好きなように行くことができた。目的地にでかけるときに荷物をもって駅まで歩いて行く必要もない。こうして自動車は公共交通機関と競合していくようになる。
 とりわけ自動車が威力を発揮したのが農村部だった。農民は自動車に飛びついた。自動車のおかげで、それまでの孤独な生活は幕を閉じた。農民が自由に動けるようになったため、村の雑貨屋や銀行、学校は大きな打撃を受けた。
 自動車が急速に普及したのは、価格の低下によるところが大きい。自動車ローンの普及が自動車の購入を促した。自動車によって人びとの生活はがらりと変わった。通勤や買い物、レジャーなど、その波及効果は大きかった。ガソリンスタンドやレストラン、モーテル、雑貨店などのロードサイドビジネスも誕生する。そのひとつがケンタッキーフライドチキンだった。
 その代わり、1920年ごろには、アメリカの通りから徐々に姿を消したものもある。露天商が姿を消し、街角のドラッグストアや地元のカフェ、近所の店もなくなった。散歩をする人もいなくなった。その意味では「人間関係の機微も失われた」ことを著者も認めている。
 しかし、にもかかわらず自動車のもたらした効能は大きかった。
 ある論者はこう記している。

〈自動車の登場がもたらした恩恵は明々白々だった。都市は清潔になり、地方の孤立に終止符が打たれ、道路は改良された。医療が向上し、校区は統合され、娯楽の機会が増えた。企業や住宅の分散が進み、郊外の不動産ブームが起き、標準的なミドルクラスの文化が生まれた。〉

 ここでアメリカと日本を比較したい誘惑に駆られるが、いまは先に進むことにしよう。
 つづいて第6章。情報、通信、娯楽の革命が論じられる。
 1870年時点で、アメリカでは8割の人が読み書きができるようになっていた。すでに新聞、雑誌、書籍などの印刷物がかなり出回っている。
 新聞は19世紀はじめから読まれていたが、その総発行部数は1870年の700万部から1900年の3900万部、1940年の9600万部と驚異的に伸びていった。新聞は情報と娯楽を得る最大の手段だった。各紙の競争も激しく、扇情的な記事が氾濫していた。
 1880年から90年にかけて、多くの雑誌が創刊された。新聞の内容をより掘り下げたり、まとめたりしたものが主流で、写真が雑誌の魅力になっていた。そして、1920年代からはセックスや告白を扱った下世話な雑誌も増えてくる。
 書籍はフィクションが主流。なかでも人気は恋愛小説で、伝記、歴史物もよく読まれた。
 モース(日本ではモールスと呼ばれた)の開発した電信が普及しはじめるのは19世紀半ばである。1866年には米英間で海底ケーブルが敷設され、大西洋を横断する電信が可能になった。銀行や鉄道会社、新聞社にとって、電信は必要不可欠の通信手段だった。
 電信は企業規模の拡大にも寄与した。
「単一の機能しかない小規模な企業が域内だけで事業を行う経済から、電信が登場したことで、全国を対象にする多機能の大企業主導の経済への移行が速まった」と、著者は指摘する。
 電報は一般家庭が利用するには、値段が高すぎた。一般家庭が重宝したのはむしろ郵便サービスである。アメリカで郵便配達制度が登場するのは1901年のことで、それまで農民は最寄りの町の郵便局に行って手紙を受け取らなければならなかった。郵便配達制度は農民の時間のむだを省き、生活水準の向上に寄与しただけではない。多くの雇用を生みだすことにもなった。
 1876年にグラハム・ベルは電話の実験に成功する。しかし、電話の普及には時間がかかった。ニューヨーク・シカゴ間は1892年、ニューヨーク・サンフランシスコ間は1915年になって、はじめて電話が通じるようになる。電話料金も次第に安くなった。
 電話は最初ビジネスに不可欠な道具となり、さらに家庭の日常生活にも取り入れられていった。電話の普及により、手紙を書くというかつての習慣は次第にすたれていく。
 エジソンが蓄音機を発明したのは1877年である。当時はときの政治家の演説を永久保存するのに役立つなどと考えられていた。レコードということばが定着するのは1890年代半ばである。蓄音機が家庭にはいるのは1900年以降だ。蓄音機によって一般市民ははじめてプロの演奏を家庭でも耳にできるようになった。とはいえ、それにはまだ大きな欠陥があり、多くの改良が必要だった。レコードで演奏が正確に再現できるようになるのは1925年になってからである。
 さらに画期的なのはラジオの発明だった。「最初の商用ラジオ局が開設されたのは1920年だが、20年経たないうちに、少なくとも1台のラジオを保有している家庭が80%以上に達した」と、著者は書いている。いったん買ってしまえば、音楽であれ、ニュースや情報であれ、放送を無料で楽しむことができるのが、何よりもありがたかった。
 著者によれば、「自動車とおなじくらい、ラジオは20世紀前半を決定づけた」。受信装置の値段が安くなり、その性能も向上していったことが、ラジオの人気をますます高めていった。
 1926年にはラジオ局のネットワークができあがっていた(アメリカに国営放送はない)。番組内容はクラシック音楽よりポピュラー音楽、教育的なものよりコメディやバラエティが好まれるようになった。ラジオ局を営業面で支えていたのは、コマーシャルである。たばこや歯磨き、コーヒー、便秘薬など、さまざまな商品の名前が全米に流されていた。
 1930年代の不況時にも、ラジオは現実から逃れるひとときの娯楽を提供することができた。「陰鬱な大恐慌時代に抑圧された大衆は、心の拠り所を求めていた」。さらに、1940年代にラジオが戦争遂行に果たした役割も忘れてはならない、と著者は指摘する。
 さらに注目しなければならないのが、映画の発達である。
映画の歴史は静止画にはじまり、5セント劇場の短編から大映画館での長編映画へと移っていった。1915年にはチャーリー・チャップリンなどが喝采を浴びるようになる。このころは無声映画で、映画の上映に合わせてオルガンやピアノが演奏されていた。むずかしかったのは映像と音声を同期化させることだった。トーキー(発声映画)が登場するのは1927年のことである。
 1930年代には無声映画からトーキーへの移行が急速に進み、そのジャンルもギャング映画に西部劇、コメディ、ミュージカル、ファンタジー、ホラー、SF、ホラーなどへと急速に広がった。入場料も安かったため、観客数も一挙に増えていった。1939年には「風と共に去りぬ」、「オズの魔法使い」のカラー映画が誕生している。その後も「市民ケーン」や「カサブランカ」といった名作に観客は魅了された。
 1940年にラジオと映画は全盛時代を迎えていた。人びとはいずれも1870年には考えられなかった娯楽に包まれていたのだ。
 そのころ、日本も内心アメリカを追いかけていたのではないだろうか。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(3) [商品世界論ノート]

 GDPは年間の商品生産のフローを集計した数字だが、それ自体が生活水準を示しているわけではないという著者の発想はきわめてまっとうなものである。GDPはあくまでも経済指標にすぎず、社会の成長をみるには、生活水準の移り変わりそのものに焦点をあてなければならない。
 そのような視点から、著者は第3章と第4章において、1870年から1940年にかけ、アメリカの衣食住がどう変わったのかをみていく。
 衣食住のなかで、人がもっとも必要とするのが食であることはまちがいない。アメリカでは、1日の消費カロリーはだいたい3000〜3500カロリーが基本で、それは1970年ごろまで、ほとんど変わっていない。それが増えるのは1970年以降で、2000年には4000カロリーになっているという(ちなみに、日本人はほぼ2000〜2500カロリー)。
 ある調査によると、アメリカの家計における食品の支出割合は、1870年から1920年にかけては40数パーセント。それが約35%に低下するのは、1930年代後半からである。しかし、そのかんに食品は多様化し、豊富になる。それが生活水準の向上をもたらした、と著者はいう。
 アメリカ農務省の統計によると、1870年から1930年にかけ、肉の消費は減っている。牛肉は25%減、豚肉は半減。ラムや鶏肉の消費も増えていない。小麦の重要性も低下している。そうしたなかで、消費が増えたのは、脂質・油、果物、乳製品、卵、砂糖、コーヒーだという。加工食品の開発も目立つ。とりわけ、油で揚げたり、いためたりするものが食卓をにぎわせるようになった。
 都市でも多くの家が家庭菜園で野菜をつくっていた。都市と農村のちがいは、都市がほとんどの食料を買わなければならなかったのにたいし、農家は基本的に自給自足で、食料以外の必要なもの(砂糖や靴、農機具など)を得るために余った豚肉や穀物、野菜を売っていたことである。
 とはいえ、1890年代から1920年代にかけ、冷蔵貨物列車と家庭用のアイスボックスが開発されるにつれ、食品の流通は拡大する。果物や野菜も汽車で運ばれるようになった。冷蔵技術の発展によって、保存期間が長くなり、生鮮食料品の価格が下がった。その分、食料の商品化が促進されたといえる。
食の多様化が進んだのは移民が増えたせいでもある。上流階級はフランス料理を好み、ドイツ人はソーセージを持ち込み、ホットドックを生み出す。イタリア移民は外食文化を普及させた。ドイツ人はビールを、イタリア人はワインをよく飲んだ。1920年から33年にかけての禁酒法は、かえってGDPに占めるアルコール消費の割合を高めるという皮肉な結果をもたらしたという。
 1870年から1900年にかけて、加工食品が台頭する。缶詰やドライフルーツ、クラッカー、オートミール、パスタ、ソース、ソーセージやハムなどである。パンも市販のものを買う人が多くなってくる。缶詰は西部の開拓地でよく利用されていた。1886年に誕生したコカコーラがよく売れるようになったのは20世紀になってからである。コーンフレークも次第に便利で手間のかからない朝食として重宝されるようになった。ジャンクフードも出回るようになる。1896年にはポップコーンが全米で発売されるようになった。そのほか、お菓子のたぐいは数え切れない。
 こうして、加工食品工業が確立されていく。ブランド食品は大量生産で価格が下がり、労働者も手に入れられるようになって、マーケットが広がる。「1900年にはすでに、加工食品の生産高が製造業生産高の20パーセントを占めるまでになっていた」。
 冷凍食品が生まれるのは1920年以降である。魚や肉、野菜、果物、その他の調理食品が冷凍食品が発売されるが、当初はさほど売れない。それが定着し、よく売れるようになるのは、1950年以降に冷蔵庫に冷凍スペースが設けられるようになってからである。
 1870年の「豚とトウモロコシ」の単調な食卓から、バラエティに富んだ現代の一般的な食卓への移行は、1920年代にはほぼ完了していた、と著者はいう。アメリカでは所得水準の上昇とともに、レストランも増え、各国さまざまな料理を楽しむことができるようになった。すでに1920年代には、主要な高速道路にはドライブインが並び、町にはハンバーガー・チェーンもできている。
 こうしたアメリカの食品革命が日本に押し寄せたのは、第2次世界大戦後だったかもしれない。
 それはともかく、アメリカでは1870年当時、農村と都市の人口比は75対25で、農村のほうが圧倒的に人口が多い。これは日本も変わらない。農村ではほとんどの食料が自家農園で栽培されていた。家族で消費する以外の余った分だけが市場で売られていた。その代金で、農家は地元の雑貨屋で、靴や男性用衣服、女性用の布地、農機具その他を買っていた。
 都市には大規模な市場があり、さまざまな商店が、肉や魚、野菜、果物のほか、乳製品やパンなどの食品を売っていた。ほかにも石炭や薪、さらにはハーネス(馬具)や塗料、自転車、銃、書籍、衣料品などを売る店があった。
 店の形態が変わるのは1920年前後からだ。「現金・持ち帰り」のチェーン・ストアが急成長する。チェーン・ストアは大量仕入れによって、安い値段で商品を提供し、各地に広がっていく。
食品のマーケティング革命が進行していた。消費者はより安い価格で食品を購入できるようになった。
 だが、食品には中毒がつきものだった。水や牛乳、肉には危険がひそんでいた。牛乳が殺菌されるようになったのは1907年からである。ソーセージも不衛生な環境でつくられていた。食品の安全対策には時間がかかった。20世紀にはいって、肉の消費量が減り、流通コストが高くなったのはそのためだ、と著者はいう。食品を安価で安全な商品として売りだすには、さまざまな検査体制が必要だったといえるだろう。
 次に著者は1870年から1940年にかけての衣服の展開をみる。衣食住の衣である。著者によれば、そのいちばんの展開は「衣服が家庭でつくるものから市場で購入するものへと変わったことだ」。
1890年以降、東欧からの移民がもっとも仕事をしたのは仕立屋としてだった。安い賃金で汚い屋根裏部屋で、懸命にはたらいたという。
 ファッションが生みだされたのも20世紀になってからである。1910年以降、女性のファッションは確実に進化していった。
 1870年は衣料品販売に革命がおきた変わり目だったという。パリのデパート、ボン・マルシェをまねて、アメリカでもデパートが誕生する。豪華な店構えを誇るデパートは商品の殿堂だった。ありとあらゆる商品が店頭に並べられ、定価で売られていた。
 デパートだけではない。日用雑貨チェーンやドラッグストア・チェーンが、店舗を広げ、さまざまな商品を全米に供給し、アメリカ人の生活水準の上昇に寄与するようになる。それによって、小間物や針、ペン、ノートなどの文具、その他多様な商品の大量生産も可能になった。
 直接、デパートに買い物に行けない農村の住民に恩恵をもたらしたのがカタログ販売である。モンゴメリー・ウォードは1872年、シアーズ・ローバックは1894年に最初のカタログを発行している。そのカタログには、帽子やかつら、コルセットに毛皮のコート、時計、自転車、セントラル・ヒーティングの炉、銃など、食品を除くあらゆる商品が網羅されていた。
 アメリカではカタログ販売の果たした役割は大きい、と著者はいう。それまで田舎の商店や行商人に頼らざるをえなかった農村の世帯が「カタログを見て気に入った商品を買える豊かさを手にしたのだ」。農民にとっては、世界が広がる経験だった。
 1870年から1940年(日本でいえば、明治維新から昭和前期)にかけての食料品や衣料品の展開は、人びとの生活を大きく変えていった。しかし、それ以上に人びとの暮らしを変えたのが住宅の進化だった。電気、水道、ガスの普及が、その進化を促していた。
 1940年段階で、アメリカの都市人口は全人口の57%を占めるようになった。急速な都市化が進んでいる。
 各家庭は電力ネットワークでつながり、電灯と家電製品が増えている。上水道と下水道のネットワークもできあがった。ガスや電話も普及しつつある。1940年に洗濯機と電気冷蔵庫の世帯保有率は40%に達し、浴室やセントラル・ヒーティングもあたりまえになっていた。
 住宅革命の本質は「ネットワーク化による現代的な利便性の実現」にある、と著者はいう。とりわけ女性が多少なりとも家事から解放されたことが画期的だった。
 アメリカは1920年ごろまでは農業社会で、大多数の人は広々とした一軒家で暮らしていた。狭くて暗いアパートに労働者がひしめくように暮らしていたのは、ニューヨークのような大都会だけだという。
 1870年から1940年にかけ、アメリカの人口は3700万人から1億2700万人へと3倍になった。世帯数はそのかん5倍になり、1世帯あたりの人数は5人から3.7人へと低下した。
 1940年時点の住宅はほとんどが1880年以降につくられたものだ。しかも、その大半が1920年以降に建てられていた。「少なくとも都市部では、ほとんどの住宅が、都市に電気が通り、上下水道など衛生面のインフラが整った後に建てられたものだといえる」。
 都市では賃貸用に多くの一戸建て住宅が建てられ、その多くが二世帯住宅だった。1920年以降、ニューヨークやシカゴでは大型の高層アパートがつくられるようになった。
 人びとの生活水準は、世代ごとに着実に向上していた。教育水準の向上にともない、労働者階級の子どもが中流階級に上がる機会も増えてきた。親が移民で苦労したとしても、1920年代には、その子どもは電気や水道が完備された住宅に住み、自動車に乗る生活があたりまえになっていた。
 都市人口が増えるにつれ、都市の人口密度が高まり、住宅のスペースは狭くなった。それでも、世帯あたりの平均人数が減ったため、一人当たりの部屋数は増えた。住宅は小型化したが、その分、より効率的になった。よけいなスペースが減り、間取りはよりシンプルになっていった。
 1900年代の都市労働者階級の住宅事情はけっしてよくなかった。スラム街にはテネメント(安アパート)が密集し、3部屋に5人が居住するありさまで、周囲には悪臭が立ちこめていた。とりわけひどかったのがニューヨークである。
 シカゴやクリーヴランドのような中西部の都市はまだましだった。都心の中心部から3、4キロ離れたところに郊外住宅をつくることもできたからである。
 かつての広壮な邸宅にかわって、1910年から1930年にかけて、簡素な平屋建てのバンガロー・ハウスが数多くつくられるようになる。それは労働者階級が次第に中流階級になったことと関係しているという。
 技術革新によって、住宅建設のコストも安くなった。
「標準的な間取りと加工建材を活用したバンガローの建設は、19世紀半ばに遡る建築のイノベーションの長いプロセスの頂点と位置づけられ、これにより人口のかなりの割合が一戸建てを所有できるようになった」と、著者はいう。
 シカゴなどでは、かなり計画的に住宅地域がつくられ、マイカー時代の到来に備えて道路が整備され、電柱や電線は道路に埋設され、街路樹が植えられていたという。
 小さな町では中流階級と労働者階級は一戸建てに暮らしていた。貧しいか、豊かかのちがいはあったが、混ざりあって住んでいた。安アパートのひしめく都市にくらべ、スペースには余裕があった。回りは田園地帯で、どの家にも菜園があった。
 200〜300エーカーの土地をもつ農家は、1900年以降に建て替えられた広大な屋敷を構えていた。暖房や家具、水のポンプなどで大きな改善がみられたが、現代的な利便性は農村まで行き渡らなかった。
 1920年ごろ、農民は自分たちが現代の進歩から取り残されているのではないかという気持ちをいだくようになる。「現代的利便性は、都市の生活を均質化する一方、都市と農村の生活に大きな格差をもたらしたのだ」と、著者は論ずる。
 アメリカで住宅革命がおきたのは1910年から1950年にかけてである。水道、ガス、電気のネットワークが、現代的利便性をもたらした。とりわけ、1930年から50年にかけての発展は著しく、ほとんどの家庭が電灯、水道、水洗トイレ、セントラル・ヒーティングの設備を備えるようになった。冷蔵庫と洗濯機が急速に普及するのは1930年以降である。
 つまり、1900年と1940年のあいだに、電気、ガス、水道の奇跡が、家庭に一大変化をもたらしたのだ、と著者はいう。エジソンが電球を発明したのは1879年、ニューヨークに発電所ができるのは1882年である。ガスはイギリスで19世紀初頭に開発され、最初は街灯として用いられ、その後、燃料として広く活用されるようになった。
 1900年時点で、電力サービスはそれほど普及していない。電力消費が大きく伸びたのは、電力価格の急速な下落がある。それにつれ、電球の性能は向上し、値段も安くなっていく。照明のほか、電気は工場や鉄道などでも利用されるようになる。
 しかし、1940年になっても都市と農村部のあいだには、電化率に大きな差があった。エジソンが電球を発明してから60年たっても、南部の農家では8割がランプを使っていた。
 家電製品はわりあい早く開発されたが、普及には時間がかかった。屋内配線は面倒だったし、プラグや差し込み口の標準化も必要だった。それでも1940年には4割の家庭が電気洗濯機や冷蔵庫を使用するようになっていた。1919年に775ドルした冷蔵庫は、1940年ごろには137ドル〜205ドルと買いやすい値段になっている。1927年にはサーモスタットつきの電気アイロンが発売されている。掃除機も人気があった。「電灯や家電製品によって家庭の電化が進んだことで、多くのアメリカ国民の日常生活ががらりと変わった」と、著者は指摘する。
 1890年代まで、ほとんどの家庭に水道はなかった。上水道と下水道が整備されるようになったのは、利便性より、もっぱら公衆衛生上のためだった。水洗トイレが発明されたのは1875年である。公営水道は1870年から1900年にかけ、都市全域に広がる。それ以降、家庭での革命がはじまる。台所の水回り設備が開発され、水洗トイレや浴室が普及する。
 1940年時点で、水洗トイレのある家庭は全米の6割にすぎない。しかも、都市部の割合が圧倒的に高い。屋内のバスルームが誕生したのも1940年になってからだという。
 暖房用の蒸気ボイラーはすでに1840年代からできていたが、安全性の問題があり、よく爆発事故をおこした。お湯をわかして暖気を送るセントラル・ヒーティングが普及したのは1880年になってからで、これも都市が中心だった。その燃料には石炭やコークスが使われていたが、灰の始末もたいへんだったし、大気汚染も引き起こした。それが改善するためには、燃料をガスに変えていく必要があった。
 著者はこう述べている。

〈1870年以降の生活の変化、とりわけ都市部での変化は、水や燃料を自分で運ぶ生活から、ネットワークを基にした生活への転換だといえる。電話線、上下水道、電力ケーブルのネットワークは、突如出現したわけではない。都市の中心部から人口のまばらな地域に徐々に拡大していった。必要性は認識されていたが、政府のインフラ開発部門と民間資本の組み合わせで実現した。〉

 しかも、こうした革命的な変化が起こるのは1回切りだった。1940年には水道や電気、ガスに関連する発明はほぼ終わっていて「日常生活の劇的な変化をもたらす発明は、1940年以降生まれていない」。
 現代世界は多かれ少なかれ、こうしたアメリカン・ライフスタイルを追いかけてきた。それを可能にしたのは、それ自体がネットワークである商品世界の広がりだった。そのこと自体は否定できないだろう。
 まだ話は終わっていない。それどころかはじまったばかり。終焉までつづく。

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ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(2) [商品世界論ノート]

 第2章「出発点」を読んでみる。1870年が出発点である。
 1870年のアメリカの1人あたり所得は、イギリスの74%に達していた(2010年ベースで約3700ドル)。すでに中世風の農業社会ではなく、産業革命の成果もとりいれられている。人口もイギリスを上回っていた(約4000万人)。
 ちなみに、日本はこのころ人口はアメリカとほぼ同じだが、1人あたり所得はアメリカの3分の1以下で、ずっと貧しい。もちろんGDPだけで、社会の水準がはかれるわけではないのだが。
 当時の観察では、イギリスやフランスにくらべ、アメリカの労働者階級の生活はましだったという記録がある。しかし、それは東部の大都市の話だった。人口の75%を占める農民の生活ぶりがどうだったかはわからない。むしろ、1870年以降は、労働者の生活水準は低下している。それは移民の増大や、農村から都市への人口の流入と関係がある。
 1870年にはすでに大陸横断鉄道がつくられようとしていた。電信が導入され、海底通信ケーブルも開通し、全米の一体化が進む。
 とはいえ、動力の中心は、まだ蒸気、水車、馬である。電気や石油はない。明かりはロウソクや鯨油に頼っていた。
 ヨーロッパにくらべ、人口増加率は高かった。その背景には農地の安さがある。人口は87%が白人、13%弱が黒人だった。人口の約60%が25歳以下で、65歳以上は3%にすぎない。大人も子どもも農作業や家事労働を中心によくはたらいていた。年金や保険などがないから、人は死ぬまではたらくしかなかった。
 当時の消費はほとんどが食料、衣服、住居に費やされた。ある研究によると、平均世帯5人家族の年間消費額は1000ドル弱で、その45%が食料に、タバコ、薬、燃料、新聞などに7%、衣服や靴、布、玩具などの半耐久財に16%、家具や調理器具、時計、その他の耐久財に9%、残り24%が家賃などのサービス財にあてられていたという。
 消費の総額と中身は、その後、150年で大きな変貌をとげることになる。とりわけ、特徴的なのは、食料支出の割合の低下と、サービス支出の割合の増大である。半耐久財や耐久財にしても、その中身はがらりと変わった。
 食料に関していえば、農村部では自家栽培が中心で、トウモロコシと豚肉が主食だった。野菜は地域によってことなる。北部はジャガイモ、南部はサツマイモが中心。果物はりんご。飲み物はチョコレート飲料や紅茶、コーヒーといったところだ。
 当時は人口の75%が農村に住んでいた。典型的な開拓農民は、肉食用の家畜を飼い、ジャガイモなどの野菜をつくり、適地であれば小麦を栽培し、自家消費していた。着る服も自宅でつくっていた。しかし、砂糖やコーヒー、香辛料、たばこ、医薬品、農機具、調理器具、布地などは最寄りの雑貨店で購入しなければならず、それには現金が必要だった。しかし、ほとんどの商品はツケで販売されていたという。
 男性用の服は雑貨屋で購入されていたが、女性用の服は上流家庭をのぞき、一般家庭では手作りで、布を裁断し、針と糸でつくるものとされていた。
 住環境は都市と農村ではまったくちがうが、都市でも一軒家が多く、集合住宅は少なかった。電気もガスもないから、家は寒く暗かった。薪や石炭を燃やして暖を取り、夜はランプの裸火を明かりにしていた。水道や浴室、トイレもない。とりわけ都市の労働者の住環境は劣悪だった。
 そのいっぽう、経営者や地主などの上流階級は、都市や町に大邸宅を構えていた。しかし、多くの使用人をかかえるその大邸宅でも、まだ快適な設備は整っていない。
 鉄道はできたが、交通手段は、都市でも農村でも馬車が主流であり、農村の生活は孤立していた。だが、1870年ごろから、列車による郵便配達システムが登場し、電報が便利な通信手段となりつつある。
娯楽は、酒場や公園、マーケットに行くぐらいのものだが、ニューヨークでは遊園地などができている。
 当時の平均寿命は45歳。とりわけ乳児死亡率が高かった。さまざまな感染症が蔓延し、結核が不治の病であり、工場での事故も多発していた。病院も少なく、医療も発達していない。地域でも家庭でも、公衆衛生上の措置はほとんどとられていなかった。
 労働力人口でみれば、農民と農業労働者が46%、職人や工員、人夫などのブルーカラーが33%、事務員、販売員、使用人などのサービス業が13%、経営者、専門職、管理職・役人が8%という統計がでている。この割合は様変わりしていくが、当時は都市の労働者より、農家のほうが圧倒的に暮らし向きがよかった。
 男女の役割は明確に分けられていた。都市では、外で給料を稼ぐのは男であり、女は家で家事を切り盛りしていた。ホワイトカラーとブルーカラーは区別され、階級間の移動はほとんどなかった。地主が同じ場所にとどまるのにたいし、労働者は都市のあいだを移住することが多かった。都市の職業は多様だった。
 1870年では、25歳以下の若年人口が総人口の60%を占めている。学校教育は12歳までの小学校にほぼかぎられていた。男は15歳、早ければ12歳から働きはじめる。女は母親の手伝いをし、若くして結婚し、家庭にはいった。
 南部では黒人への教育はほとんどなされなかった。「奴隷制度のもとでは黒人の学校はなく、プランテーションの経営者は、教育を受けさせず、文盲のままにしておくことで奴隷支配を維持しようとした」。奴隷解放宣言以降も、こうした差別はつづく。
 65歳以上の高齢者の割合は、わずか3%だ。しかし、社会保障制度がなかったため、高齢者の生活はかなり悲惨なものだったという。
 1870年の生活は現在とはまったくちがう。商品世界が全面的に浸透していないためGDPという指標もあまりあてにできない。
 消費財はかぎられていた。それでもその財を得るための労働はきつく、主婦も家事労働に追われていた。
 売られている食品の種類も少ない。保存技術が限られているため生の肉は危険だった。住環境も厳しかった。どの家もハエや虫に悩まされた。鉄道や汽船、一部の工場は蒸気で動いたが、交通面で基本的な動力源となっていたのは馬だった。
 だが、そのころ第2次産業革命がおこるのだ。
 著者はいう

〈1870年という年は、現代アメリカの夜明けと位置づけられる。その後の60年間、生活のあらゆる面で革命が起きた。1929年には、アメリカの都市部は電化され、都市のほぼすべての住宅がネットワーク化され、電気、天然ガス、電話、水道水、下水道で外の世界とつながっていた。1929年には、馬は都市の通りからほぼ姿を消し、自動車の世帯保有率は90パーセントに達していた。また1870年には想像もできなかった娯楽を楽しめるようにもなっていた。レコード、ラジオ、豪華な映画館での映画上映。さらに乳児の死亡はほぼ克服され、病院や薬の処方は、現行の認可制度や専門性が確立された。労働時間は短くなり、肉体労働に従事する労働者の割合は低下し、家電が日々の家事労働を明るいものにし始めた。〉

 日本はこのアメリカを追いかけることになる。
 商品世界の広がりと経済成長が問題である。

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ロバート・ゴードン『アメリカ経済──成長の終焉』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 年寄りののんびり読書である。
 上下2巻、全部で1000ページ以上あるから、はたして読み終わるか、自信がない。途中でやめてしまうかもしれない。
 最近は何でもすぐに忘れてしまうので、備忘のためのノートをつけることにした。最後までいけば、おなぐさみというところか。
 ロバート・ゴードンはアメリカの経済学者で1940年生まれ。ハーバード、オックスフォード大学を卒業、マサチューセッツ工科大学で博士号をとり、いまもノースウェスト大学の教授をしている。
 日本語のタイトルは誤解を生みやすい。時務的な本とみられるかもしれないが、原題はこうだ。
 The Rise and Fall of American Growth: The U.S. standard of living since the Civil War by Robert J. Gordon
 ロバート・ゴードン著『アメリカ経済の盛衰──南北戦争以降の生活水準をめぐって』といったところか。ぼくは勝手に『暮らしのアメリカ史』と呼んでいる。
 これなら、ぼくの興味範囲だ。
 全体は3部に分かれている。

 第1部 1870−1940年
     大発明が家庭の内外に革命を起こす
 第2部 1940−2015年
     黄金時代と成長鈍化の気配
 第3部 成長の加速要因と減速要因

 1部と2部が歴史編で、3部が理論編とみてよいだろう。
 これは単にアメリカの経済発展の歴史ではない。20世紀はいわばアメリカの時代で、日本やその他の国々もアメリカを追いかけてきたのだ。日本人にとって、アメリカのライフスタイルは、最近まであこがれの的だったといってよい。そのアメリカを取り入れることによって、日本はどう発展したか(あるいは堕落したか)という問題は、別の問題として、やはり問われなければならないだろう。
 中身を読んでみることにしよう。まずは序文である。
 いきなり気づくのは、本書が単に生活史なのではなく、生活史と成長理論の組み合わせから成り立っていることである。
 20世紀は「経済成長が加速し、現代社会が生まれた時代」だが、「1970年以降、今日に至るまで成長が鈍化している」のはなぜか。それを、いわば暮らしの変遷から追ってみようとしているところが、本書のユニークさといえるだろう。
 最初にその概要をとらえておく。
 南北戦争(1861〜65)から100年で、アメリカ人の生活は一変した、と著者は書いている。これは日本人も同じことだ。明治維新以降100年で、日本人の生活が多岐にわたって、どれほど変化したかをふり返ってみればよい。
 曲がり角になったのは1970年代である。ITの発展は、娯楽、コミュニケーション、情報収集・処理に画期的な成果をもたらしたものの、衣食住など生活基盤の進歩は鈍化している。経済格差の拡大という逆風さえ吹いている。
 1870年から1970年までの1世紀は特別だ、と著者はいう。1820年ごろの暮らしは、中世とほとんど変わらなかった。ところが、鉄道、蒸気船、電信の3大発明によって、生活が変わりはじめる。1870年以降は社会全体に電気、ガス、水道が普及する。都市が発展し、馬に代わって鉄道や自動車が主な交通手段となる。一般の人が飛行機に乗れるようになったのは、1950年代後半からだ。
 19世紀後半には、家計の半分が食費にあてられていた。そのころ加工食品が登場する。冷凍技術が開発されたのは20世紀初め、しかし、冷蔵庫が家庭で使えるようになったのは1950年代からだ。
 1870年には、男性用の服や靴は店で購入されていたが、女性用の衣服は母や娘が家でつくるものとされていた。それを助けたのがミシンである。ところが、1920年になると、女性用の衣服も小売店やデパート、あるいはカタログ販売で買われるようになる。
 病院の改善や医薬品の開発、公衆衛生の発達が、乳幼児死亡率の低下と平均余命の延びをもたらす。
 とりわけ特筆すべきは、こうした日常生活の改善が驚くべきスピードで進んだことだ、と著者はいう。
家事労働は短時間ですむようになり、家事から解放された女性は、労働市場に進出する。男性の労働時間も改善され、週休2日も可能となった。
 農業社会から都市社会への移行が進んだ。アメリカでは1970年に73.7%の人が都市に住むようになっていが。
 1970年代に「特別な世紀」は終わる。技術進歩にかげりが見え、経済格差が広がるようになった。70年代以降の技術進歩は、娯楽、通信、情報技術の分野にかぎられる、と著者はいう。
 パソコンやインターネット、携帯電話などは猛烈な勢いで普及したが、それらがGDPに占める割合は7%にすぎない。
 食品や衣料品、電化製品、自動車などは多様化する。だが、衣料品は輸入によって、国内のアパレル産業がほぼ壊滅する。70年代以降の新しい電化製品は電子レンジくらいで、ほかはかわりばえしない。だが、その電化製品も輸入されることが多くなっている。医療技術についても、70年代以降、進歩のペースはにぶっている。
 ここで、著者は若干の注意をうながす。生活水準の指標として便利なのは、1人あたりGDPだが、この指標には生活の質が反映されていない(たとえば労働環境が改善されるなど)。さらに、市場の動きが過小評価されがちである(たとえばエアコンやテレビの値段が安くなるなど)。
 物価指数は新製品のもたらす改善や、価格下落による効果を把捉できない。「物価指数は価格に対する性能向上を反映しない」。安売りがもたらす消費者へのメリットも無視されてしまう。
 イノベーションによる生活の向上は、かならずしも所得の上昇と結びつくわけではない。所得が上昇していなくても、イノベーションによる生活の向上はおこりうる。なかでもGNPに反映されていないメリットのひとつが、余命の延びだ、と著者は論じる。
 生活水準の向上は、労働生産性の伸びと連関している。1870年以降でみると、とりわけ1870年から1970年までの「特別の世紀」の後半、すなわち1920年から1970年までの労働生産性が高い。
 その時代に「電機革命」が起きた、と著者はいう。電気技術が誕生するのは1880年代だが、それが普及段階に達するまでに40年の時間を要した。
 だが、電機革命だけで、労働生産性の上昇は説明できない。アメリカの場合は、ニューディール政策と第2次世界大戦が重要である。ニューディール政策は労働組合の力を強め、労働時間を減少させ、1日8時間労働を実現させた。それによって、余暇が増え、消費が増えた。さらに、労働時間の減少がイノベーションをもたらしただけでなく、労働者の疲労を軽減し、それによって逆に労働生産性を高めたというのである。
 1970年以降の労働生産性上昇は、主にコンピューター革命によるものだが、その期間は8年ほどしかつづかず、数十年つづいた「電機革命」時代にはとておよばない、というのが著者の見立てである。しかも、1920−70年には1人あたり労働時間が大幅に減少しているのにたいし、1970年以降は1人あたり労働時間はむしろ増えているという。
 アメリカでは1870年から1970年にかけてが「特別の世紀」で、とりわけその後半は経済成長率がピークを迎えた黄金時代だった。タイムラグはあるにせよ、それは日本もほぼ同じだろう。
 本書が取り扱っているのは、1870年から2014年にかけてのアメリカの生活水準である。アメリカの暮らしが対象だといってよい。でも、日本とは無縁ともいえないだろう。
 考察の中心となるのは1870年から1970年にかけての「特別な世紀」である。衣食住をはじめ、交通、情報、娯楽、公衆衛生、労働環境にいたるまで、GDPだけではとらえられない生活水準の向上が論じられている。
 生活水準の上昇は1940年から70年までが顕著で、その後は鈍化している。経済格差や教育問題、高齢化と人口減少、政府債務などが大きな足かせになっている。もはや「現在の若年層の生活水準が親世代の倍になるとは思えない」。
 人工知能(AI)が人類に飛躍的な向上をもたらすという見方に反して、著者は「持続的な成長を阻む壁は、1世紀か2世紀前の先祖が直面したものよりも堅固になっている」との見解を示している。
 少しずつ読んでみることにする。ぼく自身の興味は、商品世界の広がりがもたらす価値と意味についてである。ちょっと変わった読み方かもし

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