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吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(4) [商品世界論ノート]

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 吉本は消費社会を「必需的な支出(または必需的な生産)が50%以下になった社会」と定義している。これは必需的な消費支出が50%を切ると同時に、国内総生産に占める第3次産業の比率が50%を超える社会に対応している。この定義からすれば、1980年代後半の日本はすでに消費社会にはいっていた。
 そして、吉本にいわせれば、こうした消費社会の実現は、産業の高度化を反映したものだ。
 その例として、吉本は多くの下請けをかかえる自動車産業を取りあげて、そのイメージを次のように説明する。

〈一台の自動車はそのあらゆる小さな部品毎(ごと)に一企業の高度な専門的な製造工程が対応しているという画像をいだかせることになる。これはたとえば自動車産業を産業としての高次化という概念にぴたりと適合せずにはおかないとおもえる。消費者がこのようにシステム細胞化された産業の集大成として、自動車にたいして、選択的な商品として消費支出したとき、かれは部品企業の幾何級数的な増殖によってもたらされた空間的な遅延と時間的な遅延の細胞のように微細な網状の価値物を購買しているのだといってよい。〉

 消費社会はかならず産業の高次化に対応している。高次化とは、いってみれば迂回生産である。一台の自動車は高度な部品の集積から成り立っているが、その部品は無数の部品企業によってつくられている。それは空間的・時間的な遅延、すなわち製造工程の切り離しや専門化、特異化によってもたらされる。
 動物と人間の消費のちがいはどこにあるか。消費すること自体にちがいはない。問題は動物がほとんど意図的な生産をおこなわないのにたいし、人間が意図的で高度な生産をおこなうことにある、と吉本はいう。

〈[人間と動物との]相違はわたしたちのなかにメタフィジック[形而上学。ここでは創造力というべきか]が存在するということだけだ。このメタフィジックによれば消費は遅延された生産そのものであり、生産と消費とは区別されえないということになる。〉

 ここで、吉本はボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を取りあげ、それを強く批判している。「そこには大胆な踏みこみといっしょに、ひどい判断停止があり、哲学と経済学の死に急ぎがつきまとっている」という。
 ボードリヤールは消費社会を神話の世界としてとらえ、ものが氾濫する消費社会を産業社会の崩壊のはじまりとみている、と吉本は批判する。
 ボードリヤールは消費社会で消費されているのは記号だという言い方をする。消費社会は「脅かされ包囲されたエルサレム」だともいう。
 ここには、知的エリートによる大衆への侮蔑が感じられる、と吉本はいう。

〈ボードリヤールは消費社会を誇張した象徴記号の世界で変形することで、資本主義社会の歴史的終焉のようにあつかっている。実質的にいえば産業の高次化をやりきれない不毛と不安の社会のように否定するスターリニズム知識人とすこしもちがった貌をしていないとおもえる。〉

 吉本にいわせれば、消費社会とは選択的なサービス消費が主体となり、日常必需品の消費支出、また選択的な商品を購買するための消費支出は二義的なものとなった社会を指す。それは生産の高次化にともなうもので、資本主義社会の歴史的終焉をあらわすものでもなんでもない。
 ボードリヤールは教育格差の存在を指摘する。しかし、現在では「格差は縮まって相対的な平等に近づいている」と、吉本は反論する。
 またボードリヤールは消費社会で格差が縮まっているのは、うわべだけで、社会的矛盾や不平等は隠されているという。だが、吉本にいわせれば、格差は明らかに縮まっており、こういう言い方をするのは「左翼インテリ特有の根拠のない感傷と大衆侮蔑的な言辞にすぎない」と言い切る。
 ボードリヤールは肉体労働者と上級管理職のあいだの賃金格差は大きく、休暇がとれる期間についても格差があるという。
「ボードリヤールは消費社会を、所得の平等が実現した共産主義社会でなくてはならないとおもっているのだろうか」と吉本は反論する。吉本にいわせれば、むしろ、現代の特徴は、かつてに比べて格段と平等が進んできたことにあるのだ。
 さらに、ボードリヤールは現在の消費社会で、健康や空間や美や休暇や知識や文化が求められているのは、そもそもそれらが奪われたことを示しており、そのうえでそれらが商品として資本主義システムに組みこまれようとしているにすぎないという。だが、何であれ、それが「社会の進歩」であることはちがいない、と吉本は反論する。
「わたしにはボードリヤールの理念は、誰がどうなればいい社会なのか、まったく画像を失っているのに、なお不平のつぶやきが口をついて出るので、それをつぶやいている常同症の病像にみえてくる」
 こういうきっぱりした言い方に、かつてのぼくは拍手を送ったものだ。
 ボードリヤールは、狩猟採集民が絶対的な貧しさのなかでも真の豊かさを知っていたのにたいし、現代人は市場経済のもとで競争を強いられ、つくりだされた欲求を満たすために四苦八苦しているという。だが、こうした言説は信じられない、と吉本はいう。

〈ボードリヤールの見解と反対に、消費行動の選択に豊かさや多様さ、格差の縮まりが生じていること。そこに核心があるように思える。……わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。〉

 ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は1968年のパリ五月革命のさなかに発表され、吉本の『ハイ・イメージ論』は1880年代後半、日本のバブル絶頂期に執筆されている。
 そのことがふたりの論点に影響をおよぼしていることは否定できない。いまからみれば、どっちもどっちである。

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吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(3) [商品世界論ノート]

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 消費社会論。
 まず、吉本はマルクスの『経済学哲学草稿』から、人間と自然とのかかわりを考えるところからはじめている。

〈マルクスはヘーゲルの[無機物・植物・動物という]段階化の概念のうえに人間(ヒト)をかんがえた。順序でいえば動物的の上位に人間的をおいたといってもいい。そして人間とそれ以外の自然との関わりは部分的ではなく全面的で普遍的な関係をつくるものとかんがえようとした。これは逆にいってもいい。じぶん以外の自然にたいして、全面的な普遍な関係をもちうるものを人間(ヒト)と定義した。〉

 これはどういうことか。
 マルクスは無機物が単に自然によってつくられ、植物や動物が周囲の自然に対応するだけの存在であるのにたいして、人間だけは自然と全面的で普遍的な関係をもちうる存在だと考えたというわけだ。
 人間は自然を対象化し、それを自己の身体に全面的かつ普遍的に取り込もうとした。そのことは人間が頭脳と身体を用いて、外部の自然を人間的自然に変換しようとしたことを意味している。その前提となるのが自然を認識することだった。「言語は感性的自然である」とマルクスはいう。
 さらに吉本は書く。

〈マルクスにとって、すぐにもうひとつの問題があらわれる。人間がまわりの自然とのあいだにこの〈組み込み〉の関係にはいったとき、べつの言葉でいえば自然にたいして行動にうつったとき、この非有機的な肉体である自然と、有機的な自然である自分の肉体との〈組み込み〉の領域から価値化されていくということだ。〉

 自然を人間的自然に転換する、いいかえれば価値化するにあたって、人間は身体を道具化することからはじまり、発明された道具や機械、装置を用いるようになる。
 自然の人間的自然への転換は、よきもの、すなわちグッズへの無限の可能性を秘めているようにみえた。採集や狩猟、漁撈を軸として、住居や着物が整えられ、集落が形成されていく。さらに、マルクス流にいえば、宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術などが「生産」される。この段階では、すでに生産の専門化と生産物の贈与や貢納、交換がはじまっている。
 生産のための生産はありえない。生産するのは消費するためである。
「人間とそのほかのぜんぶの自然との普遍的な関係は、人間の働きかけの面からは生産といっていいように、働きかけによって有機的な自然となった肉体(筋力)という面からいえば、消費にほかならない」と、吉本は書く。
「生産は同時に消費の行為であり、また逆に消費があるときかならず生産をモチーフとしていて、人間の行為はそれ以外のあらわれ方はしない」とも書いている。
 原理的にいえば、生産と消費は一致する。しかし、それが分離しているようにみえるのは、人間的自然の領域が拡大するにつれ、商品がかぎりなく増え、その交換をうながすために貨幣が導入されることによってである。貨幣による媒介が日常化、ルール化されることで、生産は商品の生産となり、消費は商品の消費へと二極化されることになる。
 商品は次々と新たな商品を分化していく。商品を得るには商品によるほかないからだ。商品による商品の淘汰もおこなわれる。そして商品化の波は、みずからの労働力にもおよぶだろう。人は働かないかぎり、賃金を得ることができない。労働力が商品になる。
 こうして貨幣を媒介として、商品を中心とする人間的自然の拡充が進み、商品世界が形成されていく。その過程は、外的自然による限界が露呈しないかぎり、拡大方向をたどり不可逆的だ。吉本もそうみているように思える。
 しかし、商品世界の拡大につれて、「生産の局面とそれに対応する消費の局面とが時間的にか空間的に」隔たる」ようになる。そのことは、「生産と消費の高度化にとって避けることができない」という。
 ここから「生産にたいする消費または消費にたいする生産の時空的な遅延」が生まれてくる。つまり、需要と供給のギャップが生じる。
 そうしたギャップが生じるとしても、しかし、そのことによって商品世界の拡大が停止するわけではない。商品世界が高度化するにつれて、消費はかならず多様化していく。
「消費支出は高度(産業)化社会になるにつれて、必要的(必需的)支出と選択的支出に分岐してゆき、その分岐の度合はますます開いていく」
 現代の消費は必需的支出と選択的支出に分かれる。
 この分類は必ずしも厳密ではないが、総務庁の家計調査は、必需的支出には外食を除く食料費、家賃・地代、光熱・水道費、保険医療費、通勤・通学費、塾や補習教材などを除く教育費が含まれるとしている。
 いっぽう、非必需的支出が選択的支出である。統計では選択的支出は、選択的サービス支出と選択的商品支出に分類される。選択的サービス支出には、旅行、塾、習い事、外食などが含まれ、選択的商品支出には家電製品、乗用車、衣料品などが含まれる。
 1980年代をとおして、消費支出の総額は増えている。しかし、相対的にみれば、必需的支出の割合は50%を切りつつあり、選択的支出の割合は50%を超えつつある。そのなかでも選択的サービス支出の割合が増えつつあるのが特徴的だ。
 吉本はこう書いている。
「ここでは生産が同時に消費だというばあいの消費は必需的消費だけをさすことになり、選択的消費は生産にたいして大なり小なり時空的な遅延作用をうけることになるといえよう」
 またむずかしいことを書いているが、選択的消費は、それを遅らせても、何とか人がくらしていける消費だということだ。たしかに車やパソコン、食器洗いがなければ、多少不自由かもしれないが、生活に大きな支障があるわけではない。
 だが、「高次の価値領域の成立はすなわち高次の生産業の成立を意味している」。つまり、人類は高次の商品世界の領域に達したということだ。
 産業の高度化は、末端のところで、「消費にひとりでにスイッチされている」という構図を吉本はえがいている。
 産業の高度化は想像以上に進んでいる。高度付加価値化、生産工程の改善、技術開発、多角化、ネットワーク化、情報産業の発達。そうした産業が生みだそうとしている段階が「高次の自然(人工)と高次の人間(情報機械化)」であることを、吉本はかならずしも否定していない。
 もう少し話はつづく。

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吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(2) [商品世界論ノート]

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 エコノミー論。
 たとえば、生産と消費を規定しようとする。しかし、規定すると同時に否定性があふれでてくる、と吉本はいう。
 生産とは、労働力、生産手段(装置・道具)、原料(資源)の「消費」にほかならない。いっぽう、食事をするなどの消費が、身体や人間関係の「生産」につながっていることはいうまでもない。
「生産を規定することは、裏面についた生産の否定としての消費を規定することとおなじだ」。消費についても、同じことがいえる。「生産と消費はつきまとってどこまでいっても分離できないことになるとおもえる」
 それでも生産と消費は分離される。その分離基準となるのは、商品かどうかという区別だといってよい。生産とは商品を生産することであり、消費とは商品を消費することである。「この分離はどうして起り、どんな意味があるのだろうか」
 生産と消費が分離されると、「交換とか分配とか流通とかがエコノミー世界の中間に介在することになる」。
 こうした隔離が「自然な過程」となった理由は、生産が高度かつ大量になったために生産の場所を特別につくらねばならなくなったためだが、それによって、他方、消費する人間を集める場所もつくらねばならなくなった。

〈この場所的な隔離は、生産と消費のあいだの否定性を、どんなふうに何にむかって変化させるだろうか? すぐにいえることは、凝集は分散に転化し、反復は方向性に変化するということだ。〉

 凝集によって生まれた大量の商品は分散されなければならない。それは一回切りではなく反復される。そして、反復は方向性をつくる。方向性とはすなわち成長性にほかならない。
 消費の側からみれば、分散とは分配や交換であり、その反復は同じく消費における成長性を内在している。とりわけ成長の方向性に関係するのはは、「消費の場面の内面にある生産についての願望や要求や欲望の刺激のイメージ」だ。
 こうして市場をはさんで、生産と消費が構造的に対応することになる。ただし、それは機械的な分配という対応関係だけではおさまらない。生産と消費それ自体がもつ本来の否定性をはじめとして、そこには対立関係(等量と等価の否定態)が潜んでいて、それがエコノミーを活性化させることになる。言い換えれば、「生産と消費、あるいは総供給と総需要は、過剰と過少のあいだで波立っている」。
 もちろん、「エコノミーの活性化や膨張がなくてより低い水準であっても、平等と充足がえられて、静謐な生が保てる保証がえられるならば、理想の社会像にあたっているとかんがえる」こともできる。
 しかし、そうした社会像のこころみは、「現在までとられた方法[つまり社会主義計画経済]では、ほとんど完全に失敗し、現在もとの黙阿弥に当面していて、あらためてそれをつくづくと眺めまわしている状態にあるといっていい」。

 ここで吉本が取りあげるのが、シュンペーターの静態的ではありえない「創造的破壊」をともなう資本主義過程である。
「資本主義のエンジンを起動せしめ、その運動を継続せしめる基本的衝動は、資本主義的企業の創造にかかる新消費財、新生産方法ないし新輸送方法、新市場、新産業組織形態からもたらされるものである」とシュンペーターはいう。
 吉本は、シュンペーターのこうした資本主義像を評価するところから、みずからのエコノミー論をくり広げようとしている。
 いわく。

〈この画像がなぜ見事かは誰の眼にもはっきりしている。わたしたちが確かにそうだと実感できる社会像が、生産と消費、総供給と総需要の跛行してはまた傷をいやし、傷を回復しては跛行する反復のイメージとして、とても根本的な、枝葉には足をとられない画像で記述されているからだ。〉

 生産と消費は対立しながらも同じだという二重性をもっている。商品という項を排除すれば、この二重性はあらわれることなく、過剰なら過剰なりに、過少なら過少なりに、生産と消費は一致するだろう。しかし、生産と消費が二重性をもつということは、そこに商品世界と市場とが展開していることを意味している。
 吉本は市場を、物と物とが交換され、生産と消費の対立が解消される場としてとらえない。「生産と消費との場面の距たりそのものが市場だという規定を、あくまでも固執しなければならない」という。
 ワルラスならば、「市場とは商品が交換される場所のことをいう」とシンプルに示すことで、それでよしとするだろう。たとえば労働力市場においては、労働力の買い手である資本家と労働力の所有者である労働者が出会って、賃金契約によって労働力を買うことが決まる。
 だが、そうスッキリとはいかない。労働力の売りは、労働力の生産によって支えられている。その労働力の生産を支えるのは、飲んだり食べたり遊んだりする別の消費市場である。いっぽう労働者の買い手である経営者も、同じく自らを生産するための消費市場を有している。
 労働市場における労働力の売買は、そこで完結するわけではない。それはさらに別の市場での作用を引き起こす。
 労働者と経営者のあいだに大きな差があるわけではない、と吉本は書いている。経営者になればなるほど給付される貨幣の量が逓増する傾向があるだけのことだという。そのあたり、資本家と労働者が労働市場において労働力を売買するという古典的な階級図式を、すでに非現実的なものと吉本がとらえていることがわかる。
 にもかかわらず、吉本はワルラスのように労働価値説を否定しない。ワルラスは「交換価値という現象は市場において生ずるもの」とし、その根拠を労働でもなく、効用でもなく、稀少性においた。労働力を含め、財が交換価値を有するのは、それが稀少だからだというわけだ(空気は効用があっても、交換価値をもたない)。
 しかし、吉本に言わせれば、これはマルクスの労働価値説をまるでわかっていないということになる。

〈労働価値説の源泉は、とくにマルクスの『資本論』のような完成された論理の配慮があるところでは、労働者の(人間の)身体が、労働力の表出者(生産者)として、無際限の反復に耐えるような底無しの価値体であるだけではなく、機能的な定常量の表出者ではなく主体的な状態によっては、どこまでも定常量を超えても気づかない存在だというところに根拠をおいている。〉

 交換価値をつくりだすのは、あくまでも人間の労働である(たとえ機械に媒介されていたとしても)。しかも、場合によっては、喜んで給料以上に働いてしまうのが人間なのだ。ここには吉本の大衆像をみてとれるといってもよいだろう。それは搾取され抑圧される大衆とはまた異なる一面をもつ大衆像である。
 そして、そこからは階級対立の激化というより、1950年代にシュンペーターが描いたような世界像に近づくことになる。
 シュンペーターはいう。富者と貧者とのあいだで分配率は変わらなくても、経済のパイが大きくなれば、現在での水準における貧乏はなくなる。経済の技術水準の上昇に伴い、労働者はかつての王侯も得られなかったレベルの豊かさを手にすることができる。社会保障もかつてないほど充実したものとなるだろう。
 吉本もまたシュンペーターのビジョンを共有しながら、古典的な階級社会イメージからの脱却をはかろうとしているようにみえる。
 それは、はたしてどういうものなのだろうか。

 ここでまず吉本は、労働者でもなく、経営者(資本家)でもない、貨幣資本の所有者である資本家を経済人の一つの像として描いている。かれらははたして経済人の理想像といえるのだろうか。おそらく、そうではない、と吉本はいう。かれらは「大なり小なり意図と実現の断層」をかかえていて、いつも「どこかで浮かない貌を見せている存在」として登場する。
 貨幣を所有する資本家は経営者たる資本家に対し、貨幣を貸し出すことによって、確実に利子を得ることができる。吉本に言わせれば「誰だってそんな手品みたいな境遇は経済的に理想像として願望するにちがいないとおもえる」。ところが、そう甘くはないのはなぜか。
 吉本はこう書いている。

〈利子は質としてみれば生産(商業)過程の外部にあってただ貨幣を所有しているだけでもたらされる剰余価値である。また量的には貨幣資本に対応して利潤のうちから利子になる部分は、利潤の大きさによって、ひとつの利子率によってきまったものになる。ここまできまってくれば〈借りだし〉た資本を運営する資本家と自己資本を運営する資本家とのちがいは、企業者所得だけをうる資本家と企業者所得と自己資金にたいする利子をじぶんで増殖分として元金といっしょにうけとる資本家との違いに還元されてしまう。〉

 なんだかややこしい言い方をしているが、しょせん利子生活者となった資本家は、産業(商業)資本家に付着するみじめな存在になってしまうというわけだ。浮かない顔にもなろうというものである。
 次に吉本は、経済人としては貨幣資本家に次ぐ理想といえる経営者についても触れる。「産業(商業)資本家は労働力の買い手としては労働者に貌をむけ、利子の支払い手としては貨幣資本の所有者に貌をむけている」。そのふたつの深淵に飲み込まれることなく、そのふたつをいかに手玉に取るかが、経営者の課題となるだろう。それはそれなりに苦労をともなうものだ。
 しかし、何といっても経済にとって理想的な情況は、貨幣が世の中にあふれて、いつの間にかそれが増大していることだ、と吉本はみている。そして、経済人だけではなく、一般大衆がこうした状態をつかんだときこそが「究極の理想状態」だという。
 これは本書が執筆されたまさにバブルさなかならではの発言と言えるかもしれない。そこでは具体である商品世界がまるで貨幣の抽象であるかのようにみえてくる。

〈近似的にだけいうとすれば、たくさんの産業は、そのレプリカのなかに抽象の面影を宿し、たくさんの産業のたくさんの生産物(商品)は、その機能的な形態のなかに抽象の似姿をもっているかのようにおもわれてきた。貨幣がたくさんの産業やそれらの産業の抽象なのではなく、たくさんの産業やその生産物(商品)が、貨幣の抽象であるようにおもわれてきたのだ。わたしたちは不思議な抽象の二重性を、貨幣とたくさんの産業や産業の生産物のあいだで体験している。〉

 商品の何もかもが、財やサービスの何もかもが、それ自体ではなく、値札をつけた抽象のなかでとらえられるようになるというのが、当代バブル時代のエコノミーの特徴である。

 吉本は万人、すなわち一般大衆が貨幣を資本として運営し、いながらにして利子を得るようになる状況を経済の理想形として描こうとしている。そのとき流通場面では純粋信用だけが行き来し、貨幣はすっかり姿を消している。
 日本の産業構造の人口割合は、この本が執筆された1987年時点で、第1次産業が9.3%、第2次産業が33.1%、第3次産業が57.3%となっていた。こうした条件においては一般大衆が貨幣資本の所有者であると同時に経済人として並外れた意欲を持っているというイメージは可能だ、と吉本はいう。
 だが、万人が貨幣の所有者になるというイメージには、どこか「浮かない」感じが伴う。こうした方向性を引き延ばしていけば、はたして大衆的富裕は可能で、しかも永続的に維持できるものとなるのだろうか。
 吉本はいう。

〈いくらか滑稽化していえばこの状態からでの貨幣資本の所有者は、たえず投資を繰返し、たえず経済の場面を移動させ、たえず「順応」を拒否し、たえず産業の高次化にむかってエコノミーの思考を沸騰させていなくてはならないことになる。……それとともにこの状態は、不安定な流動と沸騰の状態がじつは安定性の基盤であるという背理をうみだす。〉

 万人が貨幣資本の所有者に近づいているかどうかを測る指標として、吉本があげるのは、(1)週休が3日を超えること、(2)貯蓄の年間利子額が年間の生活費用を超えること、(3)エンゲル係数がゼロに近づくこと、である。
 これが吉本のイメージする、大衆にとってのエコノミーの最終形態だとみてよい。
 バブル時代の幻影をみているのだろうか。現在の労働者の理想は、プロレタリアートとして資本家と対立することではない。それはみずからが貨幣資本の所有者になることだ、つまり何千万もの貯蓄をもつようになることだ、と吉本は言ってのけた。
 だが、吉本はそういう時代を、いささか滑稽だともとらえていたようにみえる。

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吉本隆明『ハイ・イメージ論』 断片(1) [商品世界論ノート]

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 吉本隆明はむずかしい。とても歯がたたない。それをわかっていながら、本が出ると、つい買ってしまうのが習癖になっていた。この本も本棚に眠ったまま、ほぼ30年たつ。
 もう最後のチャンスだ。これを逃すと、読む機会は永久にめぐってこないだろう。そんなふうに意気込んでページをめくりはじめるが、たちまち頭に霞がかかってくる。少し読んだだけで挫折しそうだ。
 メモをとってみることにする。何でもすぐに忘れてしまうからだ。
『ハイ・イメージ論』は、1985年から1990年にかけて雑誌『海燕』に連載された評論をもとに、徐々に単行本化された。全部で3巻で、あわせると900ページ以上ある。
 評論といっても話題は文学にとどまらない。映像、都市、哲学、言語、経済、自然、歴史、身体、思想その他におよぶ。変わりつつある時代を最先端でとらえる。
 章は全部で26。映像都市論とか走行論、拡張論、分散論、モジュラス論といった見出しがついている。
 表層的な言い方をすれば、この評論が書かれた時期は、歴史の転換点だった。日本はバブル絶頂期にあり、ソ連は解体期にある。アメリカは停滞し、中国が台頭しようとしていた。パソコンはまだオフィスに浸透せず、IT化も進んでいない。そんな時期に、ニュースの次元ではなく日常の次元で何がおきているのかを意識化する(表出する)仕事は、困難をきわめたにちがいない。
 混沌は混沌のまま投げ出された。『ハイ・イメージ論』は体系とはほど遠い。体系化されようとしているのにもかかわらず、イメージはあちこちに飛んでいる。そう思うのは、理解していない証拠かもしれないが、少なくとも、ぼくはそんな印象を受ける。
 ぼくは何の専門家でもない。時事的な本にかかわる仕事をしたとはいえ、ごくふつうのサラリーマンとして、すごしてきた。
 だから、この本についても、えらそうなことはいえない。ただ、一本の補助線を引いてみる。もし商品世界論というジャンルが成り立つとすれば、この本がえがいている世界はどんなふうにとらえられるか。
 例によって、つまみ読みに走る。わかりそうなところだけを読むという怠惰な精神が先に立つ。文学、言語、詩、思想、幾何といった苦手な分野はパスさせてもらう。
 読もうとするのは、自然、都市、映像、経済といったあたりか。いずれにせよ、雑な読み方になりそうだ。
 1990年代半ば、吉本の「転向」ということがさかんにいわれた。左翼的思考からの訣別が鮮明になった。しかし、それはみずからが「転向」したというより、吉本が依拠する「大衆」の情況が変化したのである。
 ポストモダンという標語を安易に使うべきではないかもしれないが、たしかに第1次石油ショックのおきた1973年ごろから、日本では何かが変わりはじめていた。ぼくは狭義の「戦後」が終わったと感じていた。それをポストモダンのはじまりととらえる人もいたはずだ。
 左翼はもはやポストモダンの情況に対応しきれなくなっていた。

〈多分、そこが旧来の左翼と僕らの分かれ道になったのです。それは旧来の左翼の「都市資本主義を肯定し始めた」という僕への批判にあらわれました。エコロティシズム[エコロジー主義]、ナチュラリズム、科学技術の単純否定、反都市、反文明、反原発というように、旧来の左翼はこの時期から退化、保守化に入っていきます。つまり僕などの考え方との開きは拡大していったのです。〉(「わが『転向』」)

 世界が変わってしまったのに、左翼は相変わらず昔ながらの世界観で現状をとらえているという吉本の左翼批判を、あのころぼくは複雑な思いで受け止めていた。吉本の指摘はもっともだが、ぼく自身は相変わらずの心情左翼だった。ポストモダン情況の展開を素直に肯定する気にはなれなかった。
 2020年代の現在、老化とあいまって、吉本にいわせれば、ぼくの「退化」「保守化」の度合いはいちじるしい。いまは世も末だ、ポストモダンどころか、近代の終わりだ、アフターモダンだと嘆いているのが、憐れなぼくの末路である。
『ハイ・イメージ論』はさっぱりわからない。せめて、わかりそうなところだけでも理解したいと、いくつかの章を断片的に読んでみることにした。
 最初に取りあげるのは「エコノミー論」だ。
 こんな記述からはじまっている。

〈わたしたちが思いおこすあのふるい自由の規定は、現実が心身の行動を制約したり疎外したりする閾値のたかい環境のイメージといっしょに成りたっていた。……わたしたちが現に実感している自由の規定は、現実は心身の行動をうすめ埋没させてしまうという環境のイメージといっしょに成りたっているものだ。ふるい自由のように制約や疎外を実感できないので、まったく恣意的に振舞っていいはずなのに、と惑っているのだ。ほんとはちいさく部分的な疎外でしかないものを、誇大に拡張して、いやまだ深刻で人類の運命にかかわる制約や疎外はあるとみなして、虫めがねをたずさえて探しあるき、世界苦のたねを発見しなくてはならなくなっている。発見できなかったら、でっち上げなければならないのだ。だがふるい自由のこの振舞い方は、現在から遠ざかっていくほかない。〉

 その冒頭を引用してみたが、この熱い情念に導かれたような文体から浮かび上がってくる構図は、意外と単純なものだと思える。
 ふるい自由というときに、吉本はたとえば奴隷を思いうかべている。心身の自由を奪われた奴隷だ。そうした奴隷は、みずからを制約する身分からの解放を切実に願うだろう。制約や疎外からの解放こそが自由だ。
 これにたいし、現代のサラリーマンやOLは奴隷といえるか。会社から与えられた業務をわりあい好きなようにこなしているようにみえる。それもまた制約や疎外かもしれないが、それがいやなら別の方向を求めればよい。
 それなのに左翼は相変わらず奴隷のイメージにこだわる。何とか、抑圧、従属、虐待の事態をみつけて、それを告発することに執着する。そうしたことは、いまでもあるかもしれない。だが、そればかり取りあげるのはもう時代遅れなのだ、と吉本は言い切っている。
 こういう言い方をすれば、とうぜん吉本は右翼反動に成り下がったのかと、反発する向きもでてくるだろう。だが、おそらくそうではない。吉本はいまも「あたらしい自由」は現代の課題でありつづけていると考えているからだ。
 バーチャルとリアルが区別をなくし、ほとんど同じになってしまった時代。人びとは一日の多くを、テレビをみたり、本を読んだり、パソコンをいじったりしながらすごすようになっている。

〈制約と疎外をのみこんで、ひとりでに増殖する生物のように、ありあまる恣意性(自由)を先き占めしてしまった現実に、あたらしい自由の規定が戸惑っているとすれば、いちばん要めにあるのは、映像と、その対象になった現実とが、区別をなくし、同じになってしまったからだとおもえる。わたしたちはほんとをいえば制約や疎外をのみこまれてしまっているかどうかさえ把めていない。にもかかわらず、制約や疎外の画像がたしかにのみこまれ、うしなわれているのは、映像と現実との区別が無意味になってしまっているからだ。〉

 映像のような現実と、現実のような映像がごっちゃになっている現在、人はどう生きていけばよいのか。そうした現在においては、人のおかれた制約や疎外すらも幻想のなかにのみこまれてしまっているようにみえる。
 正直いうと、吉本のことばはむずかしくて、ぼくなどにはほとんど理解しがたい。左翼の人間解放論などはもう信用できないぜというメッセージが、こだまするだけである。
 経済にしても、昔ながらの「マルクス主義」経済学はすでに通用しなくなっている、と吉本は考えている。
 エコノミー論、はじまったばかりだ。これだけでも読み切れるかどうか、心もとない。

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重田園江『ホモ・エコノミクス』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 20世紀にはいると、数理経済学はますます、精緻化され、多様化していく。数理経済学の発想は経済学にとどまらず、それ以外の分野にも広がっのルールとメカニズムにしたがって行動することを余儀なくされるようになる。
 ここで著者が取りあげるのが、シカゴ学派の論客ゲイリー・ベッカー(1930〜2014)だ。かれは経済学的思考(ホモ・エコノミクスの論理)をあらゆる人間行為に拡張した。
 たとえば、人種差別や犯罪に関する経済学というのもあるが、興味深いのは「人的資本」という考え方である。
 それまで人的資本は労働力としか評価されていなかった。しかし、人間は資本なのだ、とベッカーはいう。それは企業にとっては収入を増加させる要素となるし、家計にとっては文化的な消費を増大させる要素となる。
 企業は収益改善のために設備投資をおこなうだけではなく、同時に人への投資をおこなう。たとえば職業訓練や研修、あるいは職場環境の改善などだ。モノと同じくヒトも投資すればリターンがある。
 人的資本にどれだけの投資がなされるかは期待収益率によって決まる。投資をしても将来、それに見合う収益が得られそうにないと判断されれば、それが投資の限度になる。
 つまりこれは、人は資本というより、商品そのもの、あるいは商品を生む商品としてとらえられているということである。
 著者は「人的資本論の最大の特徴は、教育を投資と収益の観点からのみ捉えるところにある」としたうえで、みずからの職場である大学をも人的資本を生産する企業とみるベッカーの考え方に強く反発している。しかし、これがいまの大学の現状でもある。
 さらに著者はセオドア・シュルツ(1902〜98)の農業経済学にも注目する。シュルツは農業のビジネス化を唱えた。現代のアグリビジネス企業、バイオ企業によるグローバルな農業支配をもたらす経済学を切り開いた人物だ。
 慣習的農業の近代化、ビジネス化がシュルツの目標だった。ロックフェラー財団とフォード財団は、このシュルツの考え方にもとづいて、開発途上国での「緑の革命」プロジェクトを立ち上げた。それはあくまでも先進国に都合のよい革命だった。
 農民に近代的農業にたいする知識を学ばせ、農家を農業経営者に変える。そのうえで、品種改良した種子や化学肥料、農具や機械を購入させ、大量の農作物をつくらせる。
 農業をあくまでも投資と収益でのみとらえるのが、シュルツの考え方だ。 土地は農産物の工場となり、生産性と効率性のみが求められる。
その結果、人びとはますます都市に流れ、農村は再生不可能なほどのダメージをこうむった、と著者は指摘する。
 経済学的思考に先導されて、世界の隅々までたえまなく商品世界を浸透させていく圧力は、人びとにはたして何をもたらしたのだろうか。
 ゲームの理論、社会的選択理論、行動経済学といった新しい経済学のジャンルについて、ぼくはほとんどわからない。
 ここで、著者が論じるのは、そうした新しい経済学が政治学にも適用されているということである。
 アンソニー・ダウンズは『民主制の経済理論』において、投票行動を市場における商品売買と同じととらえた。ここでは、有権者の選択によって政治家が選ばれ、多数派をなす与党によって政策が実践されると想定される。
 有権者が候補者に投票する基準は、候補者の政策がどれだけ自分のメリット、デメリットになるかである。政党もまた得票の最大化をめざして行動する。つまり、政党のつくりだす政治のイメージは、有権者によって買われるというわけだ。
 いっぽう、ジェームズ・ブキャナン、ゴードン・タロックの『公共選択の理論』は、社会的ルールや政策がどのように決定されるかを論じる。
 新たな社会的ルールや政策が受け入れられるのは、個人がそれによって課される費用より便益が上回ると考えたときのみだとされる。
 政策の決定は、個人と政治共同体との取引、交渉、合意によってなされる。こうして、都市計画や道路計画などにしても、人びとは「利益と費用を勘案しながら政治的アクターとしてさまざまな決定に参加する」。
 これがブキャナンらがえがいた民主社会のルールだという。
 もちろん、政治過程の経済主義的なとらえ方にたいしては反論もある。
コリン・ヘイは『政治はなぜ嫌われるか』のなかで、ダウンズやブキャナンらの考え方を批判している。
 有権者はみずから政治家や政策を選んでいるようにみえて、じつは政党による世論操作に操られているのだ。政党が流すのは、政治家や政策のつかみどころのないイメージにすぎない。
 有権者が投票によって、どのような効用を得られるかは定かではない。すると、人気商品をイメージにつられて買うように、政治家を選ぶことにばかばかしさを感じる人もでてきて、棄権が増えてくる、とヘイはいう。
 著者はさらにつけ加える。
 低成長時代にはいると、民営化、規制緩和、構造改革、財政規律といった新自由主義的な公共選択がいかにも正しいかのように受け止められるようになった。官僚不信が根強いこともあって、民営化論、市場化論はますます広がっていく。民間へのアウトソーシングも推奨されるようになった。
 だが、それはほんとうに正しかったのか。公的機能の縮小が生みだした脱政治化のプロセスは、むしろ政治の無責任と民間への責任の押しつけという現象を生みだしたのではないか、と著者は指摘する。
 人間をホモ・エコノミクスととらえる見方は、商品世界をさらに進展させた。そこでは人は商品世界のまさに一部となり、そのルール下で競争することを強いられ、そこからはみだす者は排除される。監視社会の傾向がますます強まっている。
 著者は最後にこう書いている。

〈相変わらずホモ・エコノミクス[「富を追う人]、「自己利益の主体」]はじわじわといろいろな場所に浸透し、世界を動かす原動力になりつづけている。私たちは知らぬ間に、その人間像を前提とした社会の「構え」にがんじがらめにされている。〉

 人間はけっしてホモ・エコノミクスなどではない。それなのに、なぜこんな無慈悲で残忍な人間像が、いまだに世を支配しているのだろうか。
 ホモ・エコノミクスの図式からの脱却をはからなければならない。

〈今後は、経済学の自己抑制と社会的価値観の転換が同時に起こらなければ、「人類が生存する地球」という未来は存在しなくなってしまうだろう。私たちはそういうところまで、将来を食い潰して暴利を貪り、取っておくべきものを先取りして蕩尽し、地球上にいる多くの他者を犠牲にしてきたのだ。〉

 難解な本ではある。しかし、時に自分もホモ・エコノミクスになっていないかとふり返るのもだいじだろう。

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重田園江『ホモ・エコノミクス』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 19世紀にはいると、労働者に支持される社会主義とブルジョア層が擁護する自由主義という二つの陣営が生まれた。
 しかし、市場を重視する経済学は、科学主義の立場から、自然と同様に社会のメカニズムを探ろうとした。その前提となったのがホモ・エコノミクス、すなわち経済人の仮説だった、と著者はいう。
 リカードは『経済学および課税の原理』(1817年)によって正統派の経済学を確立した。ミルはリカードの理論を引き継ぎ、社会科学としての経済学の樹立をめざした。
 ホモ・エコノミクスの原像がつくられている。著者によると、それは「欲望を持ち、その欲望の対象が富であることをあらかじめ定められた個人、そして富の獲得のためにとるべき手段を相互比較し、合理的に選択できる個人である」。
 こうしたホモ・エコノミクス仮説にたいして、多くの批判が巻き起こった。富は一概に規定できない。富には歴史的な背景があるし、流行によっても変わる。さらに欲望は自分のためだけともいえない。子どもに財産を残そうとしたり、人のために尽くそうという考えもあるだろう。利己的動機が経済活動の大部分を占める社会は、近代だけだ。それにはたして、個人が市場において完全な情報を把握して、合理的に行動するものとも思えない。
 こうした論争は、すでにドイツでもくり広げられていた。とりわけ注目されるのが、オーストリア学派の創始者カール・メンガーだ。メンガーは歴史学派から学びながらも、歴史的な国民経済学ではなく、一般経済学の確立をめざした。
 著者によると、メンガーは「経済理論が行うべきは、人間の経済生活の中で最も枢要な、個人の財獲得に向けた努力とそれに基づく経済の仕組みについての体系を作ること」だと考えたという。その前提となるのが、いわば理念型としての経済人だった。
 メンガーは一定の前提のうえに純粋経済理論を打ち立てた。だが、それはしばしば前提抜きの一般理論として拡張され、政治的に利用されていくことになる。たとえば、メンガーが「人間がホモ・エコノミクスであると仮定しよう」としたのにたいし、その後、それは「人間は事実としてホモ・エコノミクスだ」、さらには「人間はホモ・エコノミクスとしてふるまうべきだ」という方向に変形されてしまう。それをおこなったのが、メンガーを引き継いだハイエクだという。
 19世紀後半になると、経済学はどんどん数学化への道を歩む。数学化を推し進めたのがジェヴォンズとワルラスだ。
 経済学が数学化されるさいにも、その根底には抽象化され現実離れしたホモ・エコノミクスの概念が用いられた。快楽は善とされ、そこからさらに限界効用逓減の法則が導入される。労働価値説に代わって、主観価値説、すなわち効用学説が経済学の基本になっていく。
 ジェヴォンズの経済学に登場するのは、快楽と苦痛を計量して、商品を購入し消費するホモ・エコノミクスである。その行動基準は効用であり、限界効用は逓減する。
 商品の価値はそこに加えられた労働によってではなく、市場での交換によって決まる。ものすごく苦労してつくったものでも、欲しい人がいなければ値段がつかない。逆にどんなつまらないものでも、欲しい人がいれば値がつく。
 商品の価格は需要と供給が一致する点において均衡に達する。こうして市場に商品を携えて登場する人間は、てこの原理にしたがって、均衡に達するまで行動することになる。
 経済の世界を数学化したワルラスは、限界効用逓減の法則から需要曲線を導きだし、さらに一般均衡を論じていく。そこには古典力学の世界観が反映していた、と著者はいう。すなわち動きつづける経済は、静的な状態に還元してとらえることは可能だという考え方である。
 ワルラスは、経済学とは、心的事象を数学的事象として扱う人間科学だと規定した。主観的な効用は計測しうるし、量的な価値を有する富もまた数学的な事象として取り扱うことができる。
ここから効用関数と効用の極大化条件が導きだされる。需要と供給が均衡して交換がおこなわれる点が交換極大点となる。
 この力学的世界に登場するのは、典型的なホモ・エコノミクスだ、と著者はいう。
「つまりここには、ただ一つの要素(効用極大化)だけを考慮して正しく意思決定をする、まったくブレないマシーンのような、あるいは運動する質点のような人間しか出てこないのである」
 力学との類比がおこなわれたことによって、経済学には何がもたらされただろう。
 人間はホモ・エコノミクスとしてとらえられるようになる。すなわち「欲望を所与として厳密な法則にしたがって行動する孤立した単位」。
 つまり、 ホモ・エコノミクスたる人間は、市場のメカニズムの一単位となっていく。
 もはや欲望とは何かを問う必要はない。
「経済学の解析化は欲望の中身や人の心の内側を問うことを不要にした」。「それはホモ・エコノミクスという人間像の妥当性を問う回路を、数字と関数と方程式によって閉ざし、失わせたとも言える」
 近代経済学においては、諸条件の組み合わせからなる実験的状況のもとで、因果メカニズムが追求される。そこでは外部が切り離される。すなわち市場が外部に与える不利益は無視される。
 はたして、市場メカニズムはプラスだけをもたらしているのだろうか。じつは、市場交換によって世界じゅうにばらまかれる商品は、自然と労働の搾取によって生みだされ、消費プロセスでそれらをゴミとして排出している。そのことがしばしば無視されている、と著者はいう。
 ワルラスの体系には、いわば熱力学第一法則(エネルギー保存の法則)はあっても、熱力学第二法則(エントロピーの法則)はない、とも述べている。
 とりわけ産業革命以来の化石燃料の消費は、地球に不可逆なカオスをもたらしつつある。水や砂ももはや無尽蔵ではない。牛という生き物も、いまや牛肉や牛乳、乳製品の製造機のように扱われている。市場メカニズムは、その外部を見ないふりをすることによって成り立っているのだ。
 著者はいう。

〈ここで再度確認しておきたいのは、次の事柄だ。[経済学とは]現実の具体的世界から市場を切り離し、生命の循環や自然環境の全体を、「交換可能な財」という孤立し数値化された単位へと縮減してしまうこと。経済学の科学化の思想と運動、そしてその中心にあったホモ・エコノミクスの人間像は、このことに大いに関係してきた。それが私たちが生きる熱くなった地球に起きている、異常気象や環境破壊、動植物の種の絶滅など、「人新世」と呼ばれる時代に生じている末期的事態の、原因の一つであることはたしかだ。〉

 つづく。

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重田園江『ホモ・エコノミクス』を読む (1) [商品世界論ノート]

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 タイトルにひかれて買ったが、難解な本だった。むずかしい話はわからない。それにもう時代についていけなくなっている。
 そこで、理解できた部分だけについて(ほんとうは理解していないのかもしれないが)まとめることにする。
 最初に著者は純粋な「ホモ・エコノミクス」などはいないと書いている。それでも現代人は生きているかぎり、日々何らかの経済行動をとらなければならない。
 ホモ・エコノミクスとは合理的な経済人のことだ。「自分の経済的・金銭的な利益や利得を考えて行動する人」のことだという。そうした経済人が登場するのは近代になってからだ。
 著者は18世紀から20世紀までの経済学を典拠として、ホモ・エコノミクスの思想史をえがこうとしている。
 いまの時代はだれもが多かれ少なかれホモ・エコノミクスで、その頂点にいるのが金持ちである。だが、金儲けをよしとする考え方は、キリスト教的道徳が支配的な時代には、そうすんなりとは受け入れられなかった(日本もおなじ)。
 経済第一の時代がはじまるのは、近代になってからである。それまで貨殖や蓄財はいやしまれ、質素や節制、清貧、魂の救済こそが尊ばれていた(単純にそうとは言い切れないかもしれないが、そういうことにしておこう)。
「近代以前の多くの社会で、富の追求は禁圧され、あるいは危険とみなされ、注意深く取り囲まれ、野放図にならないように規制されてきた」
 しかし、13世紀ごろになると、商業や利子が次第に認められていく。さらに15世紀になると、自分たちは社会のために有益な仕事をしていると胸を張る商人もでてくるようになった。実際、交易や商業活動、都市化が進み、商人の役割がだんだん大きくなっていった。
 さらには、経済競争に勝ち抜いた者は正しく、貧困から抜け出せない者はどこか劣っているという見方すらでてきた。
 マンデヴィルの『蜂の寓話』(1714年)は、人びとの利己的な欲望の追求が全体の利益につながると主張したことで知られる。
 ハチソンはこれにたいし、信仰心に支えられた節度の欲求を守ることでこそ、人びとは徳を保ちながら、繁栄する社会をつくることができると論じた。
 この富と徳をめぐる論争は、その後もつづいた。
 ハリントンは『オシアナ』(1656年)のなかで、土地の均等所有と財産の平等を基本とする農本主義的な共和制を擁護していた。そこでは奢侈と商業は危険なものとみなされていた。金銭と富は武勇の徳を奪う危険な媚薬にほかならなかった。
 だが、けっきょく勝利したのは「富」派である。
 ここに登場するのがヒュームだ。
 ヒュームにとって、徳は快楽や効用、利益と結びついている。中世ではそれらはむしろ悪徳ととらえられていた。
 それをヒュームは逆転する。快楽や効用、利益は、だれにとっても徳(善きこと)なのだという。この発想は共感をもって受け止められる。
 ヒュームは商業社会においては、商業の発展が個人と国家の発展をもたらすという。これにたいし、軍事的な農業共同体であるスパルタでは、徳は武勇に求められ、人びとには富を追求する余地が与えられなかった。
 ヒュームはさらに豊かさが洗練と礼儀作法をもたらし、人の情念を穏やかにするという。
奢侈を恐れる必要はない。多少、豊かになったからといって、社会は腐敗するわけでも人間性が毀損されるわけでもない。むしろ、その逆だ。
 だが、ヒュームにはブルジョア趣味がある。それはミニ宮廷へのあこがれに似たようなものだ。スミスはヒュームを受け継いだが、ある意味、ヒュームを批判している、と著者はいう。
「それでもスミスがヒュームと異なるのは、富裕は徳とは相容れないものだと考えるようになり、それが立派さを僭称するのは危険だと、かなり真剣に受け止めていたことだ」
 スミスは、人びとが富者や権力者をあがめ、貧者を蔑視するのはまちがいだという。富者の傲慢は道徳的頽廃以外の何ものでもない。スミスはむしろ慎ましい生活を送る庶民にこそ徳を認めた。
 庶民の徳を体現するのが、時は金なりのベンジャミン・フランクリンだ。フランクリンはその『自伝』(1771〜90)で13の徳を掲げる。すなわち、節制、沈黙、規律、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲。懸命にこつこつと働き、富を得るべしとした。
 しかし、時代はブルジョアの世紀に向かっていた。ゾンバルトの記述を参照しながら、著者はこう書いている。

〈近代の経済人たちは、子どものように何であれ大きな金額を喜び、大きいものに価値を与える。比較はすべて質を量に還元することで成り立つ。なぜだか分からないが、とにかっく新しければ何でもいいものと見なされる。こうした価値が、人々を投資や投機に向かわせる。売るためのものの生産にのみ関心が持たれるようになり、大衆は買わせるために動員される。商売人は買う気がない人もその気にさせようと躍起になり、新しい需要が実需に反して無理やりにでも喚起される。〉

 ホモ・エコノミクスが躍進しようとしている。
 つづきはまた。

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革命と戦争──ホブズボーム『帝国の時代』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 先進資本主義国だけを見れば、19世紀末は政治的な安定期だった。経済的にも繁栄と拡大が保たれていた。だが、世界全体をみると、このころ、周辺部では革命の嵐が吹き荒れており、その嵐はやがて中央部におよぶことになる。
 そんな地域としてあげられるのが、オスマン帝国、ロシア帝国、ハプスブルク帝国、中国、イラン(ペルシャ)、メキシコなどである。ブルジョワの世紀にあって、これらの地域の古風な政治構造はぐらついていた。
 清朝は弱体化し、帝国主義勢力の猛攻撃により、その体制は風前の灯となっていた。満州に進出したロシアを撃退した日本は、すでに獲得した台湾に加えて、さらに多くのものを得ようとしていた。イギリスは香港と上海に拠点を置き、チベットを事実上分離した。フランスはインドシナを植民地とし、ポルトガルはマカオを保全している。ドイツも中国に食らいついている。アメリカは中国に門戸開放を迫っていた。
 中国では宮廷の支配層と秘密結社、南部のブルジョワ勢力がしのぎをけずっていた。宮廷内の改革は失敗し、清朝は1911年に南部と中央部の反乱によって崩壊する。しかし、それに取って代わったのは、不安定な軍閥勢力で、その後約40年にわたり、中国に安定した国家体制が築かれることはなかった。
 オスマン帝国もまた崩壊への道をたどっていた。その領土は西洋の列強によって蚕食されている。バルカン半島では民族独立の勢いが強まり、北アフリカや中東の一部もイギリスやフランスの手にわたった。
「事実、1914年には、すでにトルコはヨーロッパからほぼ完全に姿を消し、アフリカからも全面的に締め出され、中東においてのみ脆弱な帝国をなんとか保持していたものの、[第1次]世界大戦後まで生き延びられなかった」
 しかし、トルコには民族的な核というべきイスラム住民の巨大なブロックが残っていた。それを核としてトルコの愛国主義をかきたてたのが、いわゆる「青年トルコ党」である。
 青年トルコ党による1908年のトルコ革命は、事実上、失敗に終わる。当初、掲げられた自由主義的、議会制的な枠組みは、軍事的、独裁的な体制、トルコ的なナショナリズムへと変じていった。そして、オスマン帝国がドイツへの傾斜を強めていったことが、第1次世界大戦での致命的な敗北を招くことになる。
 その後トルコでは、ケマル・アタチュルクのもと、近代化が推し進められる。とはいえ「トルコ革命の──特に経済における──弱点は、革命を膨大なトルコ農村大衆に強制する力がなかったこと、あるいは農村社会の構造を変えられなかったことにあった」とホブズボームは指摘する。
 揺れ動いていたのはイラン(ペルシャ)も同じだった。イランでは1906年に憲法が発布され、国民議会が成立する。イギリスとロシアはイランの分割を画策したが、イランの君主制は残った。そして、第1次世界大戦後には、その軍司令官が最後の王朝となるパーレヴィ朝(1921〜79)を開くことになる。
 1910年にはメキシコでも革命がはじまった。世界ではほとんど注目されなかった革命だが、それは従属的世界でおこった労働者大衆による最初の革命だった、とホブズボームはいう。だが、革命後のメキシコの輪郭は1930年代末まで明らかになることはない。
 イギリスの植民地では、白人の植民地を除いて、イギリスの支配に抵抗する動きがはじまっていた。エジプトもそうだが、とくに深刻なのはインドだった。
 19世紀末には、ツァーリの支配するロシア帝国は、あきらかに時代遅れで、革命は不可避とみられていた。問題はそれがどのような革命になるかだった。
 クリミア戦争(1854〜56)はロシアの脆弱さを白日のもとにさらした。1861年に農奴制は廃止されたが、農業は近代化されなかった。貧困、土地収奪、高い税金、低い穀物価格によって、ほぼ1億人にのぼる農民の不安は高まっていた。
 ナロードニキは、小農民の村落自治体が社会主義への基盤になると考えた。これにたいし、ロシアのマルクス主義者は、それは不可能で、むしろ労働者に基盤をおくべきだと主張した。
 1890年から1904年にかけ、ロシアでは鉄道の敷設が進み、石炭や鉄、鋼の産出高が一挙に増えていく。それにともない、産業プロレタリアートも成長していた。帝国西部のポーランド、ウクライナ、アゼルバイジャンの発展も著しかった。民族的、階級的な緊張が高まっていく。
 ツァー打倒の動きが生じる。テロリズムは帝政の弱体化にはあまりつながらない。1900年代になって、旧ナロードニキは「社会革命党」という左翼農村政党を結成する。いっぽう、レーニンはロシア社会主義労働党のなかにボルシェヴィキと呼ばれるグループをつくった。
 ツァーリ政権のもと、大衆の反ユダヤ主義が加速し、ユダヤ人はますます差別され虐待されるようになっていた。そのため、かれらは革命運動に引き寄せられていった。
 1900年以降は社会不安が急速に高まっていく。しばらく落ち着いていた小農民の暴動が頻発し、ロストフやオデッサ、バクーの労働者はゼネストを組織した。
 社会不安が増大するなか、ロシア政府は拡大政策に乗りだし、勢いを増す日本と衝突、屈辱的な敗北を味わう。1905年1月には革命が勃発する。ツァーリは革命のうねりを受け、日本との和平交渉を急いだ。
 1905年の革命により、サンクトペテルブルクでは評議会(ソヴィエト)が一時的な権力機関として機能した。だが農民の反乱や労働者のストライキは次第に押さえこまれていく。1907年に革命は沈静化した。
 ツァーリの体制が改革されることはない。
 ホブズボームはこう書いている。

〈明らかなことは、1905年革命の敗北が、ツァーリズムに代わる潜在的に「ブルジョワ」的な代替物を生み出さなかったし、6年以上の小康期間をツァーリズムに与えもしなかったということだ。1912─14年まで、ロシアは明らかに社会的騒擾で再び騒然となっていた。革命的状況が再び近づきつつあるとレーニンは確信した。〉

 ヨーロッパで全面戦争が勃発するとは、だれも予期していなかった。1914年7月のサラエヴォ事件が、まさか世界戦争に火をつけるとは想像もしていなかったのだ。

〈1914年7月の国際的危機の最後の絶望的な日々にあってさえ、政治家たちは、取り返しのつかない行動をとりながらも、自分たちが世界戦争を始動させているとは本当には考えていなかった。きっと何らかの方式が、過去にもたびたびそうだったように見いだされるはずだと考えられていた。反戦派の人々も、長年予言してきた破局が今、自分に降りかかっているとはやはり信じられなかった。〉

 1871年から1914年にかけ、ヨーロッパでは、戦争はゲームの世界で、ほとんど現実の世界ではなかったはずだった。徴兵制は通過儀礼にすぎなかったし、一般市民にとって軍隊とは軍楽隊であり、パレードだと思われていた。
 散発的な戦争がなかったわけではないし、国内の鎮圧行動もあることはあった。植民地では多くの兵士が軍事行動ではなく疫病で亡くなっていた。この時期、イギリスでは南ア戦争を除けば、陸海軍兵士の生活はごく平和なものだった、とホブズボームはいう。
 武器の開発は進んでいた。各国が他国に遅れをとらないよう相互に競争していたためである。軍事支出もはねあがっていた。軍需産業も盛んで、エンゲルスが「戦争が巨大企業の一部門になった」と書いているほどである。
 ホブズボームにいわせれば「政府は、軍需工業に対して、平和時に必要とする量をはるかに超える生産力を保持させるよう配慮しなければならなかった」。
 それでも、世界戦争は兵器製造者の陰謀によって引き起こされたわけではなかった。軍備の蓄積が事態を一触即発のものにしていたのはたしかかもしれない。しかし、ヨーロッパで戦争が勃発したのは、列強を戦争に駆り立てた国際情勢にあったことはまちがいない。
 第1次世界大戦はなぜおこったのだろうか。引き金となったのは、バルカンの辺鄙な地方都市で、一学生テロリストによってオーストリアの皇太子が暗殺されたことである。だが、その時点では、どの国もヨーロッパの全面戦争など望んではいなかった。
 1870年の普仏戦争以来、ドイツとフランスは敵対していた。またドイツがオーストリア=ハンガリーと恒久的な同盟を結んでいたのも事実である。加えてイタリアとも同盟が結ばれ、「三国同盟」となった。
 オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナを併合することで、バルカン地域の紛争に巻きこまれ、ロシアと対峙するようになっていた。そのロシアがフランスと同調するのは必然の流れだった。
 そうしたことが国際関係の緊張を高めていたことはまちがいない。だからといって、全面的なヨーロッパ戦争が不可避だったわけではない。「フランスはオーストリアと、またロシアもドイツと本気で反目していたわけではなかった」。
 しかし、この同盟システムが時限爆弾をかかえるようになったのは、1903年から1907年にかけて、イギリスが反ドイツ陣営に加担することを決めてからである。それにより、いわゆる「三国協商」が成立した。
 それまでイギリスはドイツと敵対していなかった。むしろ、アフリカや中央アジアで、フランスやロシアと敵対してきた。それがなぜドイツとの敵対に転じたのだろう。
 ホブズボームはその原因を(1)国際的パワーゲームの世界化にともないロシアやフランスの脅威が薄れたこと[普仏戦争ではフランス、日露戦争ではロシアが敗れていた]、(2)イギリスにたいするドイツ経済の驚異的追い上げにみている。
 ドイツの急激な産業発展がイギリスに大きな影を投げかけていた。大英帝国はもはや経済世界の中心ではなくなろうとしていた。

〈たとえ世界の金融取引および商業取引が依然として、いや事実ますます、ロンドンを通じて行なわれていたとしても、イギリスは明らかにもはや「世界の工場」ではなかったし、実際その主要な輸入市場でもなくなっていた。逆にその相対的衰退は歴然としていた。〉

 オスマン帝国内にドイツが浸透していることもイギリスにとっては懸念材料だった。とはいえ、イギリスとて海外の権益取得をためらっているわけではなかった。アフリカでは、フランスと取引し、イギリスがエジプトに独占的権益をもつ代わりに、フランスにモロッコをまかせるというような取り決めもしていた。
 ドイツはたしかに強大になりつつあったが、世界の覇者として具体的にイギリスに取って代わろうとしていたわけではない。だが、ドイツが1897年以降、大艦隊の建設にとりかかったことが、世界の海軍大国であるイギリスに脅威を与えていた。ドイツ艦隊の基地はすべて対岸の北海におかれている。その目的はイギリス海軍との交戦以外にありえなかった。

〈このような状況下で、また両国産業の経済的敵対関係も加わるとなれば、イギリスがドイツを仮想敵国の中で最も敵対する可能性の高い、また最も危険な国とみなしても不思議はなかった。イギリスがフランスに接近し、またロシアの危険性が日本によって最小化されるやいなや、ロシアにも近づいたのは理の当然だった〉

 ドイツが工業的にずば抜けた存在であるだけでなく優勢な軍事強国になったことがイギリスに脅威を感じさせていた。思いもかけぬ英仏露三国協商が結ばれたのには、そんな背景がある。
 こうして、ヨーロッパは三国同盟と三国協商のブロックに分割される。そのブロックを背景に、各国は1905年以降、瀬戸際政策に走った。モロッコをめぐる危機、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合、イタリアによるリビア占領、バルカン戦争、そして1914年6月28日にサラエヴォ事件が発生する。
 サラエヴォ事件は、ほんらいオーストリア政治の一偶発事件にすぎなかった。それなのになぜ事件から5週間もたたないうちにヨーロッパは戦争に突入していったのか。
 事態の推移ははっきりしている。ドイツがオーストリアを全面支援して戦争に加わったことが、いやおうもなくその後の決定(ロシア、フランス、イギリスの参戦)につながったのだ。
 ロシアは1905年以降の国内危機を大ロシア民族主義によって乗り越えようとしていた。ドイツの民主主義勢力は軍国主義を抑えることができなかった。オーストリア=ハンガリーの政治は国内の民族問題でもめにもめ、崩壊寸前だった。
「最悪だったのは、解決困難な国内問題に直面した国々が、国外での軍事的勝利によってその解決を図るという賭けの誘惑に乗ったことではないだろうか」
 ホブズボームは国際的危機と国内的危機が1914年直前の数年間に融合していたことが、予期せぬ戦争を招いたとみている。
 いったんはじまった戦争は容易には終わらなかった。反戦運動は取るに足りないものだった。
「雷雨と同様に戦争は重苦しい期待の閉塞感を打ち破り空気を浄化した」。その結果、戦争で2000万人の死傷者が出た。
 平和の時代、自信に満ちたブルジョワ文明、増大しつづけた富、西欧の諸帝国の時代は、不可避的に戦争、革命、危機の萌芽を含んでいたのだ、とホブズボームは書いている。
 21世紀にいたっても、革命と戦争の時代はまだ幕を下ろしていない。

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理性と不安──ホブズボーム『帝国の時代』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 この時代(1875〜1914)、芸術や科学、学問の分野では何がおこっていたのだろう。
 ブルジョワ社会は揺らぎ、大衆社会が生まれはじめている。それにともない、芸術も変容するが、状況は混沌としている。
 音楽では18世紀、19世紀のクラシックと並んで、マーラーやシュトラウス、ドビュッシーが登場し、グランド・オペラが流行し、ロシア・バレエがもてはやされる。いっぽう、オペレッタや身近な歌曲も人気を博するようになった。
 文学ではトマス・ハーディ、トーマス・マン、あるいはマルセル・プルーストの名声が高まる。イプセンやチェーホフは演劇の新境地を開いた。
 芸術が隆盛していたことはまちがいない、とホブズボームはいう。それは豊かになった都市中産階級と識字能力をもつ大衆によって下支えされていた。「この時期に、創造的芸術家として生計を立てようとした人々が増えたことは否定できない」
 日刊紙や定期刊行物も増え、広告産業が出現し、ポスターという視覚芸術が生まれ、工芸家がデザインした消費財がよく売れるようになった。それは国際的な影響力をもち、各地に飛び火して、新たな芸術を生みだしていく。
 大衆のための建築も花開いた。ロンドン、ミラノ、モスクワ、ボンベイ(ムンバイ)その他数限りない駅舎、パリのエッフェル塔やニューヨークの摩天楼、劇場、美術館、博物館のような公共施設、そして、かずかずの記念碑、これらはすべて大衆に開かれたものだ。
 にもかかわらず、この時代は「世紀末」と「デカダン」ということばに彩られている、とホブズボームはいう。オペラにしても従来のありきたりのものとは異なるもの(たとえばビゼーの「カルメン」やシュトラウスの「サロメ」)が求められ、自然主義の作家(ゾラなど)が登場し、ゴッホやムンクがリアリズムの枠を越えた絵をかくようになり、アール・ヌーヴォーが隆盛し、郊外住宅や田園都市へのあこがれが広がっていく。
 しかし、文化的なエリート主義と大衆主義、刷新への願望と中産階級のペシミズムとのあいだには常に緊張がある。
 アヴァン・ギャルド(前衛芸術)は、この時代にも存在した。アヴァン・ギャルド芸術家は伝統主義者と世紀末モダニストを一様に非難し、大衆が望みもせずついても行けない方向に突き進んでいった。しかし、かれらは孤立していたわけではなく、中産階級文化の一郭をなしていた、とホブズボームはいう。

〈新しい革命家たちが帰属していたのは、同じ仲間同士、適当な街区のカフェにたむろする反体制の若者の議論好きなグループ、批評家たちと新しい「イズム」(キュービズム、未来主義、渦巻き主義)のための宣言書の起草者、小雑誌、新しい芸術作品やその創作家への鋭い眼識や嗜好を持つ若干の興行主や収集家たち……だった。〉

 しかし、そうしたアヴァン・ギャルド派をよそに、社会の民主化を背景として、一種の大衆芸術が世界制覇に乗りだそうとしていた。
 酒場やダンスホール、キャバレーでは、新たな音楽やダンスが登場した。発行部数100万部以上に達する大衆紙も生まれた。映画はそれまでにない画期的な芸術で、そこからはまもなくチャップリンのようなスターがでてくる。それがトーキーとなるのは1920年代にはいってからだ。

〈大衆が映画の中で目にし、愛好したものは、まさに、かつてプロの演芸が聴衆をびっくりさせ、昂奮させ、楽しませ、感動させていた限りのすべてのものだった。〉

 帝国の時代は、科学に転換がもたらされた時代でもあった。
 その科学革命は科学と直感がそのまま結びつくのではなく、むしろ分離する過程をたどった、とホブズボームはいう。
 ひとつは数学的思考の進歩である。「数学の基礎は、いかなる直感への訴えも厳格に排除することによって再定式化された」
 それでも、数学と現実世界との関係を否定することは不可能だった。
 物理学のガリレオ的ないしニュートン的宇宙は危機に見舞われ、アインシュタインの相対性理論に置きかわろうとしている。
 だが、「科学はそれ以後、ほとんどの人々に理解できないものになった。それへの依存がますます認識されるようになる一方で、多くの人々が認知しない何ものかになったのだ」。
 古い物理学の秩序が崩壊していくなかから、電磁気学が発展し、新種の放射線が発見された。物理学のパラダイムが転換される。マックス・プランクは新たな量子理論を打ち立てた。
 細菌学と免疫学はまさに帝国主義の産物である。植民地での白人の活動を妨げていたマラリアや黄熱病などの熱帯病は克服されなければならなかった。梅毒の研究も進展した。
 ただ、医学などの分野を除いて、科学の基礎研究は応用に生かされてはいなかった。それが可能になるには、工業経済の技術的発展を待たなければならない。
 いっぽう進化の概念はイデオロギー的な色彩を帯びて、社会ダーウィニズムをもたらし、超人の思想と優生学を生んでいた。社会民主主義者もダーウィニズムに熱狂していた。
 1900年以降は遺伝学が発達した。遺伝学はダーウィニズムに突然変異の概念をもたらす。
 知の世界の変動は外部世界の変動と直接関係しているわけではない。しかし、歴史家はプランクの量子仮説、メンデルの再発見、フッサールの『論理学研究』、フロイトの『夢判断』、セザンヌの『玉葱のある静物』が同じ1900年の日付をもつことに衝撃をおぼえる、とホブズボームは書いている。
 だが、アインシュタインにせよプランクにせよ、理論家たちはじつは自分で解消できない矛盾、ないしパラドックスに直面していた。そこから逃げ込もうとして、マッハやデュエムのような新実証主義も生まれる。
 科学革命は正しいと思われていた。それはたしかに進歩をもたらすものだった。だが、それはほんとうに進歩といえるのか。進歩が引き起こしたさまざまな矛盾があらわになろうとしていた。それが世紀末とデカダンの風景だった。

 知性の危機に対処するもうひとつの手段が、理性と科学を放棄することだった、とホブズボームは書いている。オカルティズムや降霊術、超心理学がはやった。だが、その影響はほとんど無視できるものだ。
 それよりも1875年から1914年にかけての特徴は、大衆教育と独学がめざましい発展を遂げたことだといえるだろう。教師の数も増大していた。新しい教育のもとでは、迷妄に代わって科学と理性が力と進歩を与えるようになった。そんななか、伝統的な宗教は後退していく。
 もちろん世界的な規模においては、宗教の力はまだまだ大きい。しかし、少なくとも西欧では都市住民のあいだで宗教心は薄れつつあった。カトリック諸国では教権反対主義が大きな力をもつようになる。1905年にフランスは教会と国家の分離に踏みこんだ。
「要するに、ほとんどのヨーロッパで進歩と非宗教化が手を取り合って進んでいた」。教会はもはや独占的地位をもたなくなった。
 そのころマルクス主義の影響が大きくなっていた。多くの知識人がマルクス主義にひかれ、社会科学、歴史学もマルクス主義の影響を強く受けていた。
 いっぽう、マルクス主義とは一線を画する社会科学、人間科学も登場する。たとえばフロイトの精神分析学もその一つだ。経済学では歴史学派が誕生する反面、合理的な理論経済学もその一歩を踏み出す。ソシュールの言語学はコミュニケーションの抽象的で静態的な構造モデルをつくりあげた。
 実証主義的で厳密な社会科学が生まれようとしていた。限界効用と均衡の新しい経済学はジェヴォンズ、ワルラス、メンガーにさかのぼることができる。フロイトは心理学を刷新し、性的衝動の強大な力を明るみにだした。
 人間の理性的思考能力が行動におよぼす影響がいかに少ないのかを示したのはル・ボンの群衆心理学である。
 社会学は民主化と大衆文化が社会に何をもたらすかという不安のなかから生まれた。そのなかで、とりわけ注目されたのが、デュルケームであり、ウェーバーである。かれらは社会が現実にいかに動いているか、そしてブルジョワ社会がどこから生まれ、これからどこに向かっていくのかに関心を集中した。
 社会学の発展を動機づけたのは、ブルジョワ社会の状況にたいする危機感、それを崩壊にいたらせないための方策にほかならなかった、とホブズボームは書いている。だが、その答えは出なかった。戦争と革命が近づいてきたからである。

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中産階級の生活と意識──ホブズボーム『帝国の時代』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 帝国の時代は中産階級の時代でもある。ここでいう中産階級とは、支配階級(王族や貴族)と労働者階級のあいだに立つ階級で、実業家(ブルジョワ)、専門職(医者や弁護士)、高級官吏などの幅広い層を指す。ブルジョワ的な生活スタイルが生まれたのは19世紀末になってからで、ここから第1次世界大戦までの時代は懐古的にベル・エポックと呼ばれる。ホブズボームはそんなブルジョワ的な生活スタイルをえがいている。
 まず居心地のよい庭園つき郊外住宅。それは貴族やジェントリーのような大邸宅ではなく、プライヴェートな生活を重視する空間で、大ブルジョワの威信と財力を示す邸宅とも異なっていた。もちろんそれは都市周辺の中産階級層の邸宅、そして都市中心部の労働者が住む仮設住宅ともちがっていた。
19世紀中葉の経済成長は中産階級に巨額の富をもたらした。それが私生活優先の生活スタイルを促進した、とホブズボームは指摘する。
 政治の民主化にともない、最強のブルジョワは別として、中産階級の政治的影響力は弱まっていく。いっぽうピューリタン的な価値観は弱まり、快適さと楽しみを求める消費が高まっていた。ブルジョワ家族のなかでは女性の解放が進み、それが家の装飾やスタイルにも影響していく。余暇や観光も日常化していた。こうした中産階級の数は増えていた。
 中産階級の定義は難しい、とホブズボームは嘆いている。ブルジョワといえば、それだけで色眼鏡をかけたイメージでとらえられがちだし、そもそもそういう階級があるのかも疑問だった。イギリスでは貴族とブルジョワ、ブルジョワとその下の階層との境界もあいまいだった。
 貴族階級は出自や世襲の称号、土地所有権(領地)などで定義できるし、労働者階級は賃金にもとづく雇用関係や肉体労働によって定義できる。しかし、中産階級はどう定義すればよいのか。
 それでも19世紀半ばの中産階級の基準はかなり明確だった、とホブズボームはいう。

〈有給の上級公務員を除けば、この階級に属する者は次のいずれかであることが前提されていた。それは、資本もしくは投資による所得を有すること、および(あるいは)、労働者を雇って採算のとれる企業家として活動すること、ないし「フリー」の専門職の一員として活動することだ。〉

 資本家、企業家、経営者、医者、大学教授、法律家、上級公務員などを含む、こうした中産階級は流動的とはいえ、確実に増えていた。それを階級と呼ぶのは、そうした仕事がしばしば世代によって継承されたためである。
 この時代は学校教育が盛んになる。「学校教育は、特に、社会の中流および上流として認められる領域に入るための切符と、新しく上の階級に入った者に自分より下の階層とを区別するような風習を身につける方法を提供した」と、ホブズボームは皮肉な言い方をしている。
 教育がさほど普及しない時代、旧支配階級はごく限られた家族によって政治や経済を支配していた。大学が価値をもったのは、そうした旧支配階級のためではなく、これから階級の階段を上ろうとする人びとのためだった。学校教育が中産階級としての身分を手に入れる手段となったのだ。
 こうして大学で学ぶ学生の数は増え、中産階級の数も増えていく。経済学者グスタフ・シュモラーは、ドイツでは中産階級が人口の4分の1を占めるようになったとみていた。ゾンバルトは3500万人の労働者にたいして、中産階級は1250万人ととらえていた。
 学校のなかでは、さらにランクやグループが形成されていく。そして、そこで形成された同窓会組織のような潜在的ネットワークが、経済的、社会的な人のつながりをつくっていった。高等教育は中産階級下層の子弟が高いレベルに上がるための階段を提供した。だが、それは農民の子弟や労働者の子弟には、ほぼ閉ざされていた、とホブズボームは書いている。
 もともと中産階級は人びとの上に立つ潜在的主人だったといえる。ところが、俸給で働く管理職や重役、技術専門家などが中産階級の仲間入りするようになる。職人や小商店主などの旧来のプチブルに加えて、膨大な新興プチブルも増えてくる。それは都市化にともなう現象だった。こうして、中産階級は上層と下層にわかれることになる。そのギャップはとてつもなく大きかった。
 そうした階層を区分けする基準は、居住場所や住居であったり、教育やスポーツであったりした。もともと貴族のスポーツだった狩猟や射撃、競馬、フェンシングが中産階級に取り入れられ、さらに自動車、ゴルフ、テニスなどが流行するようになった。
 19世紀終わりから20世紀初めにかけては、中産階級末端に属するホワイトカラーが増えてくる。さらに、その上には専門職や管理職、重役や上級公務員などがいた。直接事業にかかわるブルジョワは比較的少数になるいっぽう、とてつもない配当を得る大金持ちや大富豪が存在した。
 大富豪でなくても、ブルジョワの世界に属する人びとの生活は潤沢だった。召使いと女性家庭教師を雇い、豪勢な家に住み、年2回長期休暇をとり、さまざまな趣味やスポーツにふけることができた。それがロックフェラーやモーガン、カーネギーになれば、まさにけたちがいの生活が待っていた。あとは慈善事業のために資金を提供するくらいしかなかっただろう。
 急速な工業化がブルジョワ階級に自信をもたらしていた。労働者を治める力もじゅうぶんにあると感じられた。だが、すでに混迷ははじまっていた、とホブズボームはいう。
 20世紀にはいると自由主義は分裂、衰退し、ナショナリズム、帝国主義、戦争が浮上してくるのだ。

「女性の解放」がはじまるのは19世紀終わりからだ、とホブズボームは書いている。だが、解放は先進国の中産階級と上層階級にかぎられていた。
 先進国は低出生率、低死亡率の社会に移行しようとしていた。乳児死亡率は大きく低下する。女性の晩婚化が進み、計画的な避妊が普及した。それによって、子供の数が制限されていく。
 工業化以前は、大半の男女が家庭の枠内で、それぞれ仕事を分担していた。農民は料理や子育て以外に農作業でも妻を必要とした。手工業の親方や小店主は商いのために妻を必要とした。
 プロト(前段階)工業化のなかで、家内工業や問屋制家内工業が成長すると、女性や児童がそれに加わるようになる。だが、その後の工業化によって、労働の場が家庭から切り離されると、外で働いて稼ぐのは男の役割となり、女は家計のやりくりと家事、育児を引き受けることになった。
 全体として19世紀の工業化は、公の経済から既婚女性を締め出す課程としてとらえることができる、とホブズボームはいう。そして、女性たちは政治の世界からも締め出されていった。
 だが、男の収入だけでじゅうぶんな所得が得られない場合は、女も子供も安い賃労働ではたらかなければならなかった。いっぽう、未婚女性の仕事は増えていた。織布や縫製、食料品製造の仕事もそうである。女中奉公は衰退したが、その代わり商店や事務所の雇用が増えた。初等教育が発展すると、多くの女性が教師としてはたらくようになる。
 大半の労働者階級の女性は厳しい無権利状態のもとで労働していた。しかし、中産階級の女性のあいだから参政権を含め女性解放の動きが出てくる。
 フェビアン協会が結成されたのは1883年である。会員の4分の1が女性だった。
「新しい女性」が出現するこの時代、たしかに女性の経済的重要性が増していた。大量消費を必要とする資本主義経済のもと、広告産業は女性に焦点を合わせなければならなかった。家庭の必需品は種類が増えたものの限られていた。化粧品とかファッションなどの贅沢品は、中産階級の女性たちが相手だった。
 19世紀終わりから20世紀はじめにかけ、女性の地位と願望にめざましい変化があったのはたしかだ、とホブズボームは書いている。女子のための中等、高等教育が発展した。社会活動の自由も広がった。社交ダンスが盛んになり、ファッションが変わり、スポーツが楽しめるようになった。女性向けの小説、女性向けの雑誌や記事も増えてきた。
 フェミニストの運動は戦闘的ではあったが、ごく小規模なものだった、とホブズボームは指摘する。運動に加わるのは、中産階級の女性たちの一部に限られていた。多くの女性たちは婦人参政権、高等教育を受ける権利、専門職に就く権利、男性と同じ法的地位や権利などにさほど関心を示さなかったという。
 解放を願う多くの女性はフェミニズムより教会、あるいは社会主義政党に向かったという。教会は女性の権利を擁護した。そして、一部の有能で前衛的な女性は政党に加わった。だが、圧倒的大多数の女性は、女性らしさと共存できる活動に向かった。医者になる女性も増えていく。
 政府は婦人参政権運動を妨害していた。婦人参政権は、女性の大規模な運動を結集できるような運動ではなかった。それでもイギリスとアメリカでは徐々に大きな支持を得ていく。
 女性解放のもうひとつの柱は性の解放である。上流世界では、プルーストの小説にみられるように、性の選択の自由が認められようとしていた。自由恋愛も奨励されるようになった。だが、それはしばしば問題を引き起こした。
 1880年代にはガス調理器が普及しはじめ、1903年には「真空掃除機」が登場し、1909年には電気アイロンが登場する。クリーニング業も機械化された。幼児学校、保育所、給食も普及していく。だが、それで問題が解決したわけではなかった。
 仕事と家庭の両立はむずかしかった。結婚しない女性も増えてきた。仕事を選んだ女性は大きな代償を払わねばならなかった。
 それでは帝国の時代に、はたして女性の地位はどれほど改善されたのか、とホブズボームは問う。多くの職業や専門職に就く突破口が開かれたのはたしかである。選挙権に象徴される平等の市民権もまもなく手にはいる。だが、賃金の平等という問題では、大きな進展はなく、男性よりはるかに低い賃金に甘んじなければならなかった。
 この時代、解放という点で進展が見られたのは、社会的地位を得た中産階級上層の女性と、結婚前のはたらく若い女性たちにとどまる。新旧のプチブルや中産階級下層の女性、そして労働階級の女性にとっては、解放はほど遠い問題だった。だが、女性の解放とはそもそも何なのか。その答えはまだ出ていない、とホブズボームは述べている。

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