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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 著者によると「選択の自由」と「操作的介入」と「短期的報酬」はいずれも産業化を促進するファクターだが、こうしたファクターのある社会は、同時にアディクション的行動を生みやすいという。
 そこでまず「選択の自由」とは何かを考えてみる。ここで取りあげられるのはフリードマンではない。ヘーゲルだ。
 ヘーゲルは自由の哲学者だということを、もう一度思い起こしてみよう。
 ヘーゲルによれば、自由は意志をもつ主体のみに与えられている。そして、人間の前には、さまざまな選択が与えられており、それにたいする選択の自由がある。だが、人はいつかは決心し、物事を決定しなければならない。具体的選択に踏みださなければならない。
 ひとつの選択はもうひとつの選択を切り捨てることでもある。あとになって、その選択のまちがいに気づくこともありうるが、それでも、人はどこかで選択をしなければならない。
 このとき、どれでも選べるというのは自由ではなく、恣意にすぎないとヘーゲルはいう。

〈これに対してヘーゲルが自由の真理とみなすのは、形式的な普遍性と内容的な特殊性が、現実存在に組み込まれた個別性の中で一体化しうるような自由のあり方だった。〉

 じつに、むずかしい。何をいわんとしているのだろうか。
 1980年代以降、ミルトン・フリードマンが掲げた「選択の自由」の拡大は、ヘーゲルにいわせれば「選択の恣意」の拡大にすぎなかった。現代人はかつてないほど「選択の自由」を手にしている。しかし、選択が多すぎ、情報が多すぎる社会が、自由な社会とはかぎらない。
 ヘーゲル自身はこう書いている。

〈普通の人間は、恣意的に行動することが許されている時に、自分が自由だと信じる。しかし他ならぬこの恣意の内にこそ、彼が自由ではないことが存するのである。〉

 恣意にもとづく選択は、どちらかを選べばどちらかを捨てるという矛盾のうえに成り立っている。選ばされているのだ。だから、結果的に後悔することも多い。
 これにたいし、真の自由とは何か。
 それは単に偶然の欲求を満たすことではない。やりたいことが何でもできる状態をさすのでもない。現実に根拠をもつ「即自的かつ対自的に自由な意志」こそが自由なのだ、とヘーゲルはいう。
 これもむずかしい。ヘーゲルのいう自由とは、生きたいように生きるということかもしれない。だが、そうした自由を求めるのは自分だけだけではなく、だれもが同じである。
 そのことを自他ともに相互に認めあうことがだいじなのだ。こうしてたがいの自由を認めあう社会をつくっていくことが目標となる。そうしてできあがった社会が市民社会となる。
 ところが、現実の世界史は、かならずしも、そうした方向に進まなかった。恣意的な欲求が野放図に広がるいっぽうで、管理社会の動きも強まっていった。その隙間を縫うように、アディクション行動が浸透していく。どうしてなのだろうか。
 そこで、次に方向を変えて論じられるのが、「操作的介入」についてである。近代は科学技術による「操作的介入」の時代でもあった。
操作的介入というのは、対象を細分化して、その対象に操作(実験)を加え、対象を都合のいいように加工させていく近代の知のあり方を指している。この場合、対象とは自然に存在する客体をさす。
 ゲーテは自然にたいする人間のこうした介入に強く反対した。
「人間の五感を通じたありのままの観察から、不自然な設定や人為的な装置による介入実験への転換に、ゲーテは自然に対するある種の冒瀆を感じとっていた」という。
 ゲーテが重視したのは、あくまでも五感をとおしての自然の観察である。それによって、人間ははじめて自分と自然との一体感を感じることができる。ところが、ニュートン以降の近代科学は、自然を実験対象とし、自然から可能なかぎりのものを収奪しようとしてきた。

〈ゲーテにとっての科学の起点は、あくまでも自然の側からの自己開示でなければならなかった。科学は、自然が形態的な変容と自己表現を通じて開示する姿を、磨かれた感性と知性によって注意深く観察しなければならない。人間が主観的な思い込みや支配欲を抑制し、自然の声に静かに耳を澄ます時、自然は初めて、自らの秘密のヴェールを脱ぎ捨てるだろう。〉

 だが、五感によって自然を観察するというゲーテの科学観をよそに、近代の科学は自然観察より介入実験を重視し、ますます対象を目的化する方向に進んでいった。
 科学に対するゲーテの考え方は時代遅れのロマン主義にすぎないのだろうか。著者はそうではないという。
 ゲーテは第1に「無機的な自然と有機的な自然を相互補完的で一体的なものとして捉えていた」。
 第2に「観察者としての人間と、観察対象としての自然を一体的なものとして捉えていた」。
 そして第3に「科学を特定の意図と結びついた道具的手段とみなすことに抵抗していた」。
 言い換えれば、ゲーテは自然と人間は一体とみて、自然を人間の快適な生活に奉仕するための加工素材とみるようなことはなかったのだ。
 とはいえ、科学実験にもとづく技術的応用は19世紀以来、さまざまな発明品と工業製品を生みだし、産業と人びとの生活を一変させてきたことも事実である。
 新たな工業製品の開発によって、産業は巨額の利益を得るとともに、人びとも生活の利便性に恵まれた。たとえば化学肥料は農業の生産性を向上させたし、予防接種は感染症に大きな効果を発揮した。自動車もそうかもしれない。
 だが、こうした人類の成功体験はいまや見直されるべきだ、と著者はいう。そのさいに、ヘーゲルとゲーテのことばがよみがえってくるのだ。
 産業社会のもたらした成果は、同時に自然環境や生態系の破壊と原発事故などにみられるような巨大リスクをもたらした。
「迫りつつある生態系の危機の中で、人類は今、過去二百年の主観的理性の勝利行進が本当に成功体験であったのかどうかを問い直しつつある」
 さらにいえば、著者は、この200年の絶えざる近代化が、じつは一種のアディクション行動だったのではないか、という疑問を投げかけているといってよい。
 2011年にケンブリッジ大学のダスグプタ教授が発表したダスグプタ・レビューが紹介されている。
 このレビューは、経済指標としてのGDPの有効性を明確に批判し、資本を人工資本、人的資本、自然資本からなる富のストックとしてとらえている。
 人工資本はますます増えつづけているのに、自然資本はますます減りつづけている。はたして人類の資本(富)が全体として増えているかどうかは疑問である。現代農業は生物多様性の犠牲のうえに成り立っているのだ。
 レビューでは、さらに、産業化としての近代化自体が、資本と人口の一点集中をめざすアディクション行動にほかならなかったことが明らかにされているという。

〈産業革命としての近代化は、実験という操作的介入を通じて、かつての自然形而上学を解体し、主観的理性による自然の道具的支配を限界点近くまで推進してきた。しかし、それによって傷ついた生態系は、近代のおけるこの理性のあり方への反省を強く迫っている。〉

 人類はこれからの方向を考えなおす転換点にいるとみてもよいのではないか。

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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 いろいろ頭を整理するのに時間がかかったため、しばらくぶりでこの本に戻ってきた。何だか気が抜けてしまったみたいだが、気を取り戻して、第3章と第4章を読んでみる。
 著者はこんなふうに書いている。
 オペラント行動が必ずしもアディクションになるわけではない。どこかで飽きがくる場合が多いからである。外からの抑止が効くこともある。さらに抑制が内部化されることもある。それでも人間の性癖には、アディクションめいたものが含まれている。
 人間は世代から世代へと学ぶべきことを引き継いでいく。その知識は膨大なものであり、長い教育期間を必要とする。そのエラーとチェックの長期的な学習過程を経て、人間はようやく自身を社会のなかに組み込んでいく。
 こうした絶えざる習練は、過度の飲酒やギャンブルにみられるアディクションとは異なる。これまでも反社会的なアデイクションにはさまざまな規制がかけられてきた。しかし、アディクションが消滅することはない。むしろ「アディクションが生じやすい社会は、イノベーションが生じやすい社会でもあり、イノベーションが生じやすい社会は、アディクションが生じやすい社会でもある」と著者は書いている。
 アディクションは商品世界の展開(イノベーション)と併走しているといえるだろう。そのことは、ネット社会で、さまざまなゲームやギャンブルが登場していることからも明らかだ。
 著者はここから大きな構図をえがいて、人類史がどのように発展してきたかをふり返ってみようとしている。
 人間にはアディクション行動がつきものだ。すると、それを抑制するために、ルールをつくる動きが生じる。ルールがつくられると、人はこれに従い、適応していかなければならない。
 しかし、これとは逆に、アディクションがルールをはみだして、イノベーションを生みだすことがある。
 それが世界への新たな介入をもたらす。適応と介入という規定はわかりにくいが、人類史はルール(規制)とイノベーション(突破)のくり返しによって発展してきたと著者は理解している。
 その第一の革命(介入)が古代の農業革命であり、第二の革命(介入)が近代の産業革命だった。そして、現代はさらに第三の革命がおころうとしているという。
 農業革命は食料の増大と人口爆発をもたらした。すると、これまでの親族を中心とした社会から、身分制社会が生まれ、それがさらに王国や帝国へと発展し、これまでの部族神話に代わって宗教が人びとの生活をコントロールしていくことになる。
 だが、農業社会において、身分と格差が固定されるにつれ、それにたいする不満が次第に蓄積するようになり、それを封じ込めることができなくなると、ついに近代への移行がはじまる。
 近代化をうながしたのは、交易のグローバル化、貨幣経済の浸透、科学技術の進歩だった。こうした動きがはじまったのは16世紀のヨーロッパにおいてである。さらに19世紀にいたると産業革命が本格化し、ヨーロッパの影響力は世界じゅうにおよんでいくことになる。
 近代化は生産力の拡大と人口爆発をもたらしただけではない。新たな社会構成体としての市民社会と、それを支える哲学を生みだした。近代化の原点は市民革命と産業革命であり、それをへて本格的な資本主義の時代がはじまる。
 日本では、市民社会の形成はしばしば無視され、日本は西欧とはちがうという論理によって切り捨てられがちだ。しかし、近代化のもうひとつの側面である市民革命には、資本主義のもたらす野放図なアディクションを抑制する哲学が下敷きになっている。それを再確認することはきわめて重要だ、と著者は主張する。
 こうして第4章の「市民社会の正当化理論」が展開される。
 王の主権は神によって付与されたものとされていた。これにたいして市民革命を成就するには、それを正当化する哲学が必要だった。その先駆けとなったのが、ホッブズ(1588〜1679)の社会契約説だったという。
 ホッブズは国家を神による秩序ではなく、人民の相互契約による秩序としてとらえなおした。
 自然状態から社会状態への移行は、神の摂理によるものではない。生得の自然権をもつ人間は、「万人の万人に対する戦争」におちいりやすい。だが、こうした恒常的な戦争状態を克服するには、たがいに契約を結んで、強力な主権をもつ国家を設立し、万人がそれに従うようにしなければならない、とホッブズは考えた。
 しかし、ホッブズの論証には、いったん相互承認されて樹立された政権が、ふたたび専制化していく危険性が残されていた。その歯止めをつくったのがロック(1632〜1704)だという。
 ロックは国家主権が人民の自由権を侵害する可能性に気づいていた。そのため行政権と立法権の分立を唱えるとともに、人民の抵抗権や革命権を認めている。さらに、ロックは生存権とともに所有権の保障を強調する。国家は人間の生存権と所有権を守るためにこそ存在するとされた。こうして国家の専制化に歯止めがかけられる。
 だが、市民社会が成立するには、生存権と所有権だけではじゅうぶんではない。市民のあいだで道徳規範が確立されなければならない、とカントはいう。さらにアダム・スミスは自由で安全で秩序ある市民社会が生まれるには、商工業の発達と自由な交易が必要だと主張した。
 スミスは商業精神は戦争と両立せず、諸民族の和解につながると考えていたという。
 近代化はイコール産業化ではない。「近代化の実現のためには、規範的な次元での広義の市民革命が避けられない」と著者はいう。つまり、市民社会があってはじめてアディクションに陥らない産業化が実現できるのだ。そうでなければ、権力欲と貨幣欲が世をおおってしまうことになる。
 だが、市民革命としての近代のプロジェクトは挫折してしまったという。その原因を探るために著者が持ちだすのが、ヘーゲルとゲーテの場合だ。
 ここでは「選択の自由」と「操作的介入」が問われることになる。

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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 第1章に戻って、読み進めていく。
 アディクションがタバコ、アヘン、アルコールなどの常習をさすことばとして使われるようになったのは18世紀以降のことだ。もちろん、それ以前にも、こうした悪癖はみられたが、これが常習化したのは、対象となる商品が容易に手にはいるようになってからだろう。
 そして、そうした常習癖が病気として認識されるようになったのは19世紀後半からであり、さらにアディクションという名称が定着したのは20世紀末になってからだという。
 だが、アディクションは精神に作用する薬物やアルコールなどへの「物質依存」だけをさすわけではない。スマホゲームやギャンブルなどの「行動嗜癖」もアディクションととらえるべきだろう。
すると、「物質依存」と「行動嗜癖」はつながっているのか、それともぜんぜん別物なのかという問題が生じる。
 これをめぐっては医学界でも、さまざまな論争があるが、前にも示したように、著者はアディクションをより幅広く定義している。

〈アディクションとは、自発的選択がもたらす短期的報酬によって動機づけられたオペラント行動を、しばしばみずからの意志に反して、反復的に継続する状態をさす。〉

 アディクションにはさまざまな要因が重なっていることがわかる。
「自発的選択」は「選択の自由」がある場所で、はじめて発生する。目の前には何でも選ぶことができる商品世界が広がっている。そこから、人はみずからを陶酔させる商品を自発的に選び取る。
 そして、その選択は学習によって習慣づけられた行動、すなわちオペラント行動を引き起こす。
 オペラント行動を促すのは「短期的報酬」、すなわち予測される眼前の快感である。
 こんなふうにアディクションを定義すれば、薬物やアルコールなどへの物質依存とゲームやギャンブルの行動嗜癖が連続性をもち、同じ構造をもっていることになる。
 さらに著者は「分かっちゃいるけどやめられない」こと、「どうにもとまらない」ことを、アディクションの特徴として挙げている。つまり自己制御ができなくなる現象がアディクションなのだ。
 ぼく自身は、こうしたアディクションを商品世界特有の現象としてとらえたい誘惑にかられている。
 人はなぜアディクションにおちいるのだろうか。
 動物とちがい人間は理性によって感情(衝動)を抑えることができるし、抑えるべきだと啓蒙主義者は考えた。ところが、啓蒙主義者によるこの人間理解は、現実の人間行動を説明できない。というのも、人間はしばしば動物の衝動に備わっていた自己調整機能(安定化装置)を逸脱して、アディクション的行動に走るからだ。
 いっぽう功利主義者は人が自分の幸福を最大化しようとするのはとうぜんであって、アディクションもひとつの選択だと考える。もしそれが社会に害を与えるならば、課税を強化したり、厳罰を与えたりして、それを抑える対策をとればいいという。だが、それでおさまらないのがアディクションなのだ。
 制御できずに「どうにもとまらなくなる」のがアディクションだ。欲求を抑えきれなくて、欲求のとりこになってしまう。
 その欲求は学習によって条件づけられたものだ。それが病的強迫症になったときにアディクション行動が発生する。
「無意識的土台に刻まれたこの『学習された連関』は、想像以上に私たちの行動と思考を拘束している」と、著者はいう。
 人間はだれもが生まれつき無意識的認知機能をもっている。人間の認知機能は中枢神経系の生理学的機能によって担われているが、そこには眼前の事象を説明し、さらに予見する強固なアルゴリズム(学習機能)がはたらいている。
 人が学ぶのは、行動して、何かとぶつかり、「あ、そうか」と、ひらめくことを通じてだという。その結果が因果連関の発見につながり、自発的なくり返し行動を生んでいく。
 しかし、そうだとしても、人はなぜギャンブル中毒(アディクション)におちいるのだろうか。
 ギャンブルの醍醐味は五感を超えた第六感にある、と著者はいう。

〈合理的計算では予測不能な偶然性を、競争相手よりも的確に読みとる勘を働かせること。これがギャンブラーの腕の見せどころだ。〉

 これにおカネが報酬としてつけ加わると、認知機能がさらに刺激されて、欲求を抑えることができなくなってしまう。
 ここで著者はギャンブル性がもっとも高いとされるルーレットのケースをが取りあげている。ルーレットといえば、真っ先に思い浮かぶのが、みずからもギャンブラーだったドストエフスキーが書いた『賭博者』という小説だ。
『賭博者』でドストエフスキーがえがくのは、ルーレット賭博で財産をなくし、破滅していく人たちのことだ。
 ルーレットでは過去のデータはまったく役に立たず、じつは何の予測もできない。にもかかわらず、ルーレットに賭ける人びとは、ここには何か隠された法則性があると思いこんで、自分の予測した場所に持ち金を賭ける。
 ドストエフスキーは、はじめルーレットなどばかばかしいと相手にしなかった金持ちのおばあさんの姿をえがく。彼女は、たまたま大当たりをとったことから、ルーレットにのめりこみ、最後はすっかり財産をなくしてしまうのだ。
 著者はいう。

〈ギャンブルの魅力を生み出している最初の一歩は、おそらくお金自体ではないだろう。ギャンブルの魅力はむしろ、偶然に支配されている不確定な未来について、自分が的確な予測をなしえたことへの報酬感情にある〉

 一回の成功体験が、心のうちにドーパミンを生みだす擬合理的装置をつくってしまう。そして、その装置はいったん築かれると、他人から説得されても、なかなか修正されない強固なものとなる。

〈ともすれば、私たちは、アディクションが、理性的意志の弱さゆえに性や食などの基本欲求の誘惑に溺れる現象だと思い込みがちだ。そしてギャンブルもまた、金銭欲という基本欲求に溺れる現象だと、簡単に考えてしまう。たしかに性欲、食欲、金銭欲の満足は、短期的報酬としてアディクションを強化しただろう。しかし、アディクションの形成には、私たちが考えている以上に、擬合理的装置に支配された認知機能が深く関与している。〉

 人間の脳には合理的装置だけではなく擬合理的装置が備わっている。擬合理的装置にはインスピレーションと歓喜をもたらす機能が備わっているだけではない。それは超自然的なスピリチュアリティとも結びついている。さらに、それはしばしば頑固な固着性を生みだす。
 合理的装置はそうした擬合理的装置を理不尽なものとして排除したがる。だが、じつは「理性自身もまた本能体系の内側に位置しており、そのごく一部をなす不完全な機能に過ぎない」と、著者はいう。
合理的判断なるものが事実の検証を無視して、しばしば暴走する現実をわれわれはみてきた。

〈擬合理的装置は、仮説的真理を浮動の真理と見なすように、たえず合理的装置に囁きかけている。その意味で、合理的装置は、その自己理解とは裏腹に、引き続き、擬合理的装置の強い影響下にある。〉

 アディクションをもたらすのは、人間のもつ擬合理的装置にほかならない。そのためアディクションにおちいる可能性はだれにもある。
 それでは、アディクションを抑えることはできるのだろうか。著者の問いはそんなふうにつづいている。
 ここから連想されるのは、資本主義が合理的装置のようにみえて、じつは擬合理的装置そのものなのではないかという疑いである。

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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 まだ全体を読み終えていない。最初の1、2章を読んだところで、挫折しそうになっている。渾然一体としている。スケールの大きな著作なのはまちがいないが、このまま進むと、渾然ではなくて混然のまま終わるのではないかという悪い予感もしないではない。
 著者は序章に「この旅の最終目的地をとりあえず見定めておきたい読者」へのアドバイスとして、「まずは最後の第7章を通読してから冒頭に戻るという一風変わった旅行メニューも提案しておきたい」と述べてくれている。
 なまけものの当方としては、さっそくこのアドバイスにしたがって、第7章の「金融資本主義とアディクション」から読みなおすことにする。それもマルクスの価値形態論やフェティシズム論に触れた7章の前半はややこしいので省略し、「金融資本主義の誕生」以降を読んでみることにする。
 著者によると、金融資本主義の誕生は1971年8月のいわゆるニクソン・ショックにさかのぼるという。このときアメリカのニクソン大統領は、ドルと金の兌換停止を発表した。それから2年後、金ドル本位制にもとづく固定相場制は完全に崩れ、先進国は変動相場制に移行することになる。こうして、1945年に発足したブレトン・ウッズ体制は崩壊した。
 しかし、そもそもブレトン・ウッズ体制とは何だったのか。
 1944年7月、アメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで連合国通貨金融会議が開かれ、国際通貨基金(IMF)の創設などが決まる。そこでドルを基軸通貨とする固定為替制が誕生した。
 だが、イギリスを代表して会議に出席したケインズは、それに反対した。独自の世界通貨構想をもっていたからである。ケインズは、国際決済を処理するための人工通貨を創出すべきだと提案した。
 著者はこう説明する。

〈この通貨はバンコールと名づけられ、対外決済を処理するためだけの純粋な計算単位として考えられた。バンコールと各国通貨は固定為替で結ばれるが、貿易赤字が一定水準を越えれば、それに利子が課せられ、自国通貨の切り下げを迫られる。輸出超過国も同じようにバンコール債権に利子が課せられ、自国通貨の切り上げを迫られる。こうして国際収支のバランスが回復される。〉

 重要なのは、為替投機の対象とならないバンコールが介在することによって、各国通貨は直接取引されることなく、為替レートの調整がなされることだった。しかし、アメリカの根強い反対によりケインズ案は葬られ、ドルが唯一の基軸通貨になることが決まった。
 金ドル本位制は長くつづかない。「トリフィンのジレンマ」が発生したからである。

〈アメリカが世界経済の成長のために、基軸通貨ドルの国際的流動性を確保しようとすれば、絶えず国際収支を赤字化しながら、ドルを世界に供給し続ける必要がある。それによるドルの過剰発行は、やがて保有金が許容する限度を上回るだろう。そうなればドルの信認が揺らぎ、アメリカの金が国外流出する。そして金の市場価格が、公式の兌換レートから乖離し、投機の対象となる。これがブレトン・ウッズ体制を支えきれなくなった一つの原因だった。〉

 ニクソン・ショックと二度の石油ショックをへて、開始されたのが、下からではなく「上からの階級闘争」だった、と著者はいう。新自由主義の名のもと「民営化と規制緩和による戦後福祉国家の段階的スリム化」が断行された。
 新自由主義のビジョンとは、次のようなものだ。
 肥大化した公的セクターを民営化し、公務員を適正規模まで削減する。規制緩和をおこなって、女性の労働力を有効活用し、多様な働き方を可能にする。それにより女性は家事と育児から解放され、消費市場は拡大するだろう。
こうしたビジョンは、今後の明るい経済社会の方向を指し示すかのように思えた。
 だが、新自由主義による一連の改革がもたらしたのは、じっさいには「低賃金労働の容認と促進、雇用の非正規化の拡大」だった、と著者はいう。
 いっぽうブレトン・ウッズ体制から変動為替制に移行したあとも、ドル本位制は変わらなかった。「アメリカの巨大な対外赤字は解消せず、しかも、為替相場がドル安に振れることもなかった」。
 1980年代には、貨幣がみずから商品と化し、デリバティブと呼ばれる金融派生商品が発生する。いまや貨幣は単なる商品の媒介手段ではなく、みずからが商品となり投機対象となってしまった。
 それを可能にしたのが、1980年代に実施された金融の規制緩和だ。日本では1980年に外為法が改正され、対外取引が原則的に自由化された。資本移動の自由化が進み、さらに金利の自由化も進む。
 1980年代初頭にアメリカが日本に期待したのは、日本が金融・資本市場を開放することによって、外国資本が日本に流入して、それにより円高ドル安が促されることだった。
 ところが、じっさいには逆の現象がおこった。アメリカの高金利を求めて、日本の資金が流出し、さらなるドル高円安を招いたのである。それを政治的に是正しようとしたのが、1985年のプラザ合意にほかならなかった。
 こんなふうに書かれている。

〈ここからも分かるように、資本移動が自由化されると、為替相場は国際収支よりも、金利の方に敏感に反応するようになる。低金利の黒字国(日本)から高金利の赤字国(米国)に資本が移動すると、赤字国の通貨は上昇し、黒字国の通貨は下落する。それは両国の貿易不均衡を拡大するように作用する。いわば、為替にポジティブ・フィードバックがかかってしまう。〉

 つまり、貿易収支よりも金利差が為替レートを左右してしまうのだ。これはいま(2024年)でもおきていることだ。
 経済は為替の変動に振り回されるようになる。プラザ合意のあと急激に円高ドル安が進むと、日本企業は円高に耐えきれず、工場を海外に移転した。だが、いったん移転した工場は、ふたたび円安に戻ったからといって、現地の事情もあり簡単に本国に戻るわけにはいかなくなってしまう。あとには経済の空洞化が広がっていく。
 新自由主義と金融資本主義は二人三脚で進んだ。規制緩和と民営化に加えて、富裕層の減税が実施されたのだ。その減税分を補うのが国債の発行だった。
「本来ならば、資産保有者への課税を大胆に強化することによって、国家財政を均衡化させ、租税国家としての原則に立ち戻るのが本筋だ」と著者は主張する。
 なぜ大量の国債発行がまちがっているのか。それは、大量の国債発行がハイパーインフレや財政破綻を招く恐れがあるからだけではない。

〈本書の視点から見ると、国債発行の真の問題は別にある。資産保有者の税負担を賃金依存者の税負担よりも相対的に軽くした上で、租税の不足分を国債発行で賄い、その金利を租税の中から資産保有者に払い続けるということは、とりも直さず、賃金依存者である租税負担者から資産保有者への長期的な所得移転を国家が仲介しているということだ。〉

 この指摘はまったく正しい。ただし、国債の発行を停止すれば、増税しなければならないが、それをどういうかたちでおこなうかが問題となるだろう。
 それはともかくとして、著者が最後に指摘するのが、金融資本主義がアディクションを生みだしやすいということである。
 ほんらい商品の媒介機能をはたす貨幣がフェティシズムの対象となれば、ますます貨幣愛が高まり、貨幣へのアディクションが強まることはまちがいないだろう。
 1980年以降の金融資本主義の発展は、デリバティブを生みだし、すべての人に投機の機会をもたらした。
 2016年にはイギリスがEUを離脱し、トランプがアメリカ大統領になるという信じられないできごとがおきた。だが、このふたつのできごとには共通点がある、と著者はいう。
 それは「忘れられた人々」の怒りの噴出だ。
為替相場が招いたドル高は、国内の製造業に大きな圧力をかけ、その結果、製造業の疲弊と地域共同体の解体を招いた。そのいっぽう、新自由主義国家は高金利で資本を招き寄せ、経済社会全体をカジノ化していく。
 製造業で地道にはたらくよりも、金融商品を動かして利ざやを稼ぐほうが収入が高いとなれば、優秀な人材はそちらに流れ、貨幣へのアディクション傾向がますます増大していく。
 その結果、忘れられた人びとは、トランプの暴言や単純なメッセージに共感を寄せ、みずからの不満と怒りのはけ口としていく。

〈トランプ現象を通じて垣間見えてくるのは、金融資本主義がもたらした産業資本主義の解体過程と、そこでの人々の孤立化だ。そこで生じた不安や怒りは、単純なものを求めて、アディクション的行動へと流れていく。〉

 資本主義はいつもコマのように回りつづけていて、止まったときにはおしまいになる。そのため、資本はいつも人びとを、満足感が永久に得られないアディクション状態に置く、と著者はいう。
 今後、資本がめざす方向は認知機能の開発だ。食欲に限界はあっても、認知機能に限界はない。
情報社会が発達していくと「社会のあらゆるレベルで複雑な議論や手続きや行為調整が敬遠され、単純な命令や簡明な権力行使が喝采を浴びるようになる」状況がくることを、著者は恐れている。
 ここで問題はふたたび現在の金融資本主義とアディクションの共依存に戻る。
 アディクションとは何か。そもそも人はなぜアディクション行動におちいるのか。それをふり返ることは、みずからのアディクション行動を脱することにつながるだけではない。「資本主義が民主主義をコントロールする社会ではなく、民主主義が資本主義をコントロールする社会を再構築すること」につながるはずだ、と著者は述べている。

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鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 通読したわけではない。読みはじめたところだ。最近は何もかもすぐ忘れてしまうので、メモしておかないと、前に何が書いてあったかもわからなくなってしまう。そこで読んだところから、とりあえず印象に残った部分を記録しておこうというわけだ。
 あくまでも自分用のメモだ。全部読み終えてから、全体像を示すのが書評のほんらいのあり方だと思うが、最近は読書のペースも落ちている。自然、だらだらした断片的メモがつづくことになる。
 御託はともかく、まず本書のタイトルになっているアディクション(addiction)についてだ。アディクションとは何か。手元の辞書を引くと、addictionとは「常用癖、中毒、(悪癖に)おぼれること、耽溺(たんでき)」とある。
 著者によると、アディクションは次のように定義される。

〈アディクションとは、自発的選択がもたらす短期的報酬によって動機づけられたオペラント行動を、しばしばみずからの意志に反して反復的に継続する状態をさす。〉

 なかなか、むずかしい。
 オペラント(operant)には自発的という意味がある。オペラント行動は心理学用語らしい。かつて経験した何らかの快楽を求めて、みずからおこす行動を指す。そのオペラント行動が止まらなくなるのがアディクションだ。
 のっけからややこしくなってしまったが、植木等の歌の文句でいえば、要するに「わかっちゃいるけど、やめられねぇ♪」状態になるのがアディクションだという。
 古典的にいえば、身勝手な男たちのその領域は「飲む、打つ、買う」、下世話にいえば、酒、女、博打だった。そして男たちはだいたいにおいて、酒、女、博打に夢中になり、その結果、何もかもすっからかんの状態になる。
 とはいえ、植木等が陽気にこの歌を歌っていた時代は、高度成長期で、将来も明るかった。どんなにばかをしていても、先は何とかなりそうだった。世間も寛容だった。
 だが、次第に「わかっちゃいるけど、やめられねぇ♪」ではすまされない時代がやってくる。
 サラリーマンは「気楽な稼業ときたもんだ」と笑っていられたのは昔の話で、いまやサラリーマンの世界もきびしくなった。グローバル化と産業構造の変化、競争の激化、合理化とリストラ、正規と非正規の分断、挙げ句の果てに賃金カットときている。気楽な稼業はどこへやら。
 そうしたなか、アルコールや薬物、ギャンブルやゲームへの過度の依存が社会問題になってくる。学校や職場でのいじめやハラスメント、若者のひきこもりも増えている。社会全体にスマホやネットへの依存が広がっていった。
 これらをすべてアディクションという精神病理現象として片づけるのは簡単だ。だが、じつはアディクションは特異な病理現象ではなく、あらゆる領域に広がっているのではないかというのが、著者の疑問である。
 それを象徴するのが、資本主義のカジノ化であり、リーマン・ショックなるものをきっかけとする国際金融危機だった。
 為替や株の世界はギャンブルと似ている。もし世界じゅうがこのギャンブルに取りつかれているとすれば、その先には何が起こるのだろう。

〈人々の脳を乗っ取ってしまうアディクションと、資本主義社会を乗っ取ってしまう金融危機。この両者は、本当にまったく無縁の現象なのか。そこには何かしら共通のメカニズムが、あるいは隠れた共犯関係が存在しているのではないか。そもそも資本主義は、アディクションと非常に親和性の高い社会経済体制なのではないか。〉

 それが著者の発する問いである。
 アディクションは「嗜癖」と訳されることが多い。しかし、著者があえて嗜癖といわず、カタカナ語のアディクションを採用したのは、アディクションが特異な病理現象だけで収まらず、現代の資本主義をおおう社会的風潮、いわば社会的な行動様式になっていると考えたからだろう。
 本書のタイトル『アディクションと金融資本主義の精神』が、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』に呼応していることにも注目したい。
 ウェーバーは、合理的で勤勉なプロテスタントの精神が資本主義を支えていることを指摘した。だが、著者は現代の金融資本主義の背景に、神や自然を恐れぬアディクションの存在をとらえているようにみえる。
 難解な本だ。どこまでついていけるかわからないが、ゆっくり読んでみたい。

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貨幣論(2)──メンガー『一般理論経済学』を読む(9) [商品世界論ノート]

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 つづいて、メンガーは貨幣の「機能」について述べる。
 交易の最古の形態は自発的な贈与、もしくは強制的な貢納のかたちをとった。そのさい提供されたのは高い使用価値をもつ財である。
 だが、交換が発展するにつれて、そうした財は貨幣へと移行する。それは資産の賠償、家族への給付などにもあてはまった。その理由は貨幣経済が発展するにつれ、「貨幣はどの経済主体にとっても必要となり、万人が需求をもつ資産対象となる」からだ、とメンガーは書いている。
 これは貨幣が、贈与、貢納(税)、賠償、保証などでも機能するようになることを示している。
 次は支払(清算)手段としての機能だ。貨幣は取得した財にたいする支払いや債務にたいする清算のために用いられる。ここでは貨幣は「商品および資本市場の一般的[交換]媒介者」としての役割をはたしている。
 貨幣には蓄蔵手段や資本形成(あるいは譲渡)のための機能もある。貨幣が蓄蔵手段としてすぐれているのは、「耐久性、稀少性、相対的な価値的安定性」をもつとともに「僅少な経費と手間で保管できる」からである。
 貨幣の蓄積は「動産的生産財の蓄積や資本形成」のためにも有効である。加えて、容易に輸送しやすいという点で、貨幣は「資産の空間的移動」にも適している、とメンガーは論じている。
 次に、貨幣は消費貸借業務をになう。貨幣は貸し付けられて、資本の一部として、あるいは消費の一部として利用されることになる。
 貨幣が「価格の指標」としての役割をはたすことも重要だ。
 ただし、注意しなければならない。よく貨幣は財の価値をあらわす「価格度量器」だという言い方がなされるが、メンガー自身は財の価格は契約当事者どうしの駆け引きによってなされるのであって、交換以前に財のなかに交換価値が含まれているかのように考えるのは空想の産物だと考えていた。
 とはいえ、貨幣が「財の交換価値の度量基準」となることによって、経済計算がより合理的におこなわれるようになったことはまちがいない。
 資産の評価や損害賠償の額にしても、市場における財価値の提示にしても、計算はより容易になった。収益の見積もりや消費の計画にしても同じである。貨幣による価値評価と計算によって、複雑な経済経営ははじめて成り立つ。
「こうして貨幣での財の評価は人々の経済的思考と行動にとってますます高い意義を獲得するようになる」と、メンガーは記している。
 重要なのは、貨幣が一種の価値尺度として機能し、財の交換価値の測定(評価)を可能にすることである。ただし、その評価は一方的な提示ではありえず、経済主体どうしの売買と経済計算によって定まることはいうまでもない、とメンガーは念を押す。
 いっぽう、貨幣の購買力が場所や時間によって異なることもたしかである。たとえば、ある場所で1000円で買えた品物が別の場所では2000円ださないと買えなかったり、1930年の1000円と2000年の1000円とでは価値が異なっていたりすることをメンガーは指摘しているわけだ。
 そこで、時間的にも空間的にも、普遍的かつ不変の交換価値をもつ財(貨幣に代わるもの)を探求しようとする試みがなされることになる。たしかにこうした「価値恒常性」をもつ財があれば、経済生活の不確実性は取り除かれるだろう。だが、それは不可能だ、とメンガーはいう。その理由は市場が常に動いているからである。
 とはいえ、貨幣の購買力の測定がなされれば、貨幣の交換価値が時間的・空間的にどのような差異をもつかが確定できるのも事実だ。
 たとえばロンドンとハンブルクで、小麦の値段が10年前と今でどのように異なっているかを測定してみる。それによって異なった市場空間での一般的価格水準の比較が導かれる。それは大まかな指数にすぎないが、そこからは少なくとも貨幣のもつ問題性があぶりだされるはずだ、とメンガーは述べている。
このことは現在にも通用する問題点だといえるだろう。
 貨幣の価値が時間や空間によって異なることは、いわば貨幣の外的交換価値にかかわる問題である。しかし、貨幣には「内的交換価値」にかかわる問題もある、とメンガーはいう。
 市場が貨幣の外的価値に変動をもたらすとしたら、貨幣の内的価値に変動をもたらすのは貨幣そのものの要因による。
 メンガー自身は「貨幣の流通量の変動、国民経済の流通手段にたいする需求の変動、貨幣金属の生産費用の増減、証券貨幣[紙幣]の使用の普及の増減等々の、価格形成の諸規定要因のうちもっぱら貨幣の側の要因におこる変化が貨幣と交換比率におよぼす深い影響を認識すること」がだいじだと述べている。
 ここで、メンガーは「恒常的な内的価値」をもつ財を確定することは可能だろうかという問いを発している。経済学的にみれば、けっして不可能ではないというのが、その答えのようにみえる。それは価格変化の影響力を貨幣とりわけ紙幣の流通量を調整することで相殺し、それによって価値の恒常的な流通手段を創出するこころみだといえる。
 もちろん、それができるのは中央銀行があってこそである。さらに、貨幣の安定化には世界的な取り組みが必要なことをメンガーは強調している。
 価格の変動は、その多くが貨幣の内在的価値の上昇ないし低下に原因を求められがちだが、購買財の貨幣価格が上昇ないし低下した可能性も排除できない。だが、そのどちらとは確実にいえない。財価格の変動は、一般的に購買財と貨幣の両方にはたらく要因の合成結果だ、とメンガーは論じる。

 以上述べたことをさらにまとめてみよう。
 貨幣の意義は、それが商品の売買でどれだけ役立つかによって決まる。貨幣の素材や形態はどうでもいい。
 貨幣は権力者の意志によってつくられるわけではないことをメンガーは強調する。

〈その財が財交換を媒介する交易対象の代表として、それによって交換を媒介されるそれ以外の交易対象の全体と対照的な位置にたつようになると、ただちに、またその限りでその財は貨幣になる。〉

 これが貨幣の本質である。
 要するに、貨幣において問われるのは、それが財の交易にじっさいに役立つかどうかである。加えて、貨幣が貨幣となるのは場所的・時間的限界の範囲内にかぎられていることにも留意しなければならない。
 貨幣の本質は交換媒介機能である。そして、交易が発展し、日常化するにつれて、貨幣に「価格指標および交換価値の度量標準」としての機能がつけ加わるとみるのが正しい、とメンガーはいう。
 貨幣は国家による「強制通用力」を付与されてはじめて貨幣になるというとらえ方をメンガーは批判している。
 貨幣が統一的でなければならないのは、交易を用意にするという必要性にもとづくものであって、国家の強制によるものではない。住民の意思にさからって、国家が無理やり貨幣を押しつけようとしても、そうした貨幣は通用しないか忌避されがちなのは、歴史の経験が示しているという。
 あらためていうと、貨幣が成立するのは、交易の過程において、財の交換を媒介する財とそれ以外の一般的な財とが分離されることによってであり、貨幣は国家により強制通用力を付与されてはじめて誕生するわけではないという考え方をメンガーはとっている。
 とはいえ、国家的強制がやむをえない場合もある。しかし、それは交易を整備し、発展させるかぎりにおいてである。
 むしろ「一国の貨幣制度は強制通用を実施する必要がなくなればなくなるほど、ますます完全になるといわざるをえない」というのがメンガーの立場だといえるだろう。

 最後に言及されるのが貨幣への需求についてである。
 交易が活発になり、交換媒体としての貨幣が生じると、貨幣自体への需求が発生する。そのため、交易のために貨幣を貯える必要もでてくる。
 経済が市場に依存する度合いが高くなればなるほど、用意すべき貨幣は大きくなる。その度合いは消費経済よりも営利経済のほうが大きくなるだろう。
 そこで、貨幣での支払いをより効率的かつ安全におこなうという点から、銀行が大きな業務をはたすようになる。
 残る問題は、国民経済全体にとって貨幣はどれくらい必要かということである。
 メンガーはこう述べている。

〈一国民経済の貨幣需求は、一国民の分業的に組織された個別経済および公共経済に必要な貨幣在高の総和であり、したがってそれらの貨幣在高の全体が国民経済の貨幣需求の究極的度量である。〉

 支払いのさいに使用される貨幣量はごくわずかにすぎない。だが、それだけではじゅうぶんではなく、さまざまな準備金が用意されなければならない。
 準備金が必要なのは「不確定で大多数の場合には実際には起こらない支払いを保証するために、国民経済を円滑に機能させるために」である。
 紙幣の弾力的な発行が「国民経済の流通手段への欲望の変動に、貨幣流通量を有効に適合させるという重要な機能を果たしている」ことはまちがいない。
紙幣の発行は、一国の現金の総流通量を間接的に増やすものといえるだろう。これにたいし、手形決済は現金の流通量を抑制する方向にはたらく。
 貨幣の需求は変化する。インフレやデフレの場合を考えてみればよい。
 一般に国民の裕福さが上昇すれば、一国民の貨幣需求は上昇する、とメンガーは書いている。それは財の交易が活発になり、支払いが増加するとともに、資本の活動も活発になるからである。
 だが、それとともに反対の作用もはたらく。信用(クレジット)経済や支払事務の簡素化、不経済な貨幣蓄蔵の削減などが促進されて、「国民経済の現金需求を相対的に減少させる効果」も生じる、とメンガーは述べている。
 これは現在にも通用する所論だろう。貨幣論の領域はまだまだ奥が深い。メンガーの貨幣論は、その重要な一歩を指し示したものといえるだろう。

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貨幣論(1)──メンガー『一般理論経済学』を読む(8) [商品世界論ノート]

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 いまや貨幣といえば金貨や銀貨でなく、紙幣と少額コインが中心で、しかもカード決済が広がり、だれもが銀行口座をもち、為替相場が日々変動し、株の上がり下がりに一喜一憂する人が増えている時代である。
 メンガーが『一般理論経済学』を残した100年以上前とは、すっかり貨幣をめぐる状況がさまがわりしている。さらに、これからも貨幣の世界は変わりつづけるだろう。
 にもかかわらず、人が貨幣に振り回されていることは、100年前もいまも変わらない。20世紀のはじめにメンガーが貨幣をどのようにとらえていたかを確認しておくのは、それなりに意味がある。
 最初にメンガーは、貨幣の本質と起源を論じている。
 貨幣の歴史は長い。金や銀が交換媒体(流通手段)になるのは、経済がある程度発展した段階である。鋳造された金貨や銀貨が登場し、紙幣や銀行券が一般的になるのは、さらにその後だ。
 人間は貨幣を手に入れることに血道を上げてきた。市場以外の日常の領域でも、人の生活を縛るこの「紙切れ」の本性はいったい何なのか。それは古くからの制度や取り決めのひとつなのか、それとも経済と交易の発展がもたらした所産なのか。メンガーはそんなふうに問うところから貨幣の考察をはじめている。
 人類の歴史をさかのぼると、自己充足的な自然経済のなかでは貨幣など必要ではなかった。また物々交換が容易にできるなら、貨幣はいらなかった。何らかの交換媒体が必要になるのは、交換や交易がさかんになってからである。
 当初は定期的に開かれる市場で物々交換がなされていたとしよう。だが、物々交換は、ただちに困難にぶつかる。たとえば奴隷や牛、象牙などの大型財は、それらと交換しうる財を容易にみつけることができない。
 物々交換の市場では、たがいに商品を交換しようという当事者の組み合わせがまったく成立しないか、成立してもごくわずかにとどまってしまう。したがって、商品の需要があっても、商品がほとんど動かないことになる。物々交換を実現するには、よほどの骨折りと努力を必要とする、とメンガーはいう。
 そこで、物々交換の困難を除去する補助手段が生まれてくる。ほしい商品を手に入れるためには、まず自分の商品を市場性の高い商品と交換することが求められる。そして、その市場性の高い商品を、ほんとうに自分がほしい商品と次に交換するわけだ。
 市場性の高い商品としては、無限に需要のある商品(たとえば奴隷や指輪、銅など)、さらには地元産品(武器、装飾品、穀物、カカオ豆など)、輸出品(塩板、鉄、延べ棒、木綿など)、その他、だれもがほしがる財が挙げられる。
 こうして市場性の高い商品との交換が日常化すると、そのうちに「残りのあらゆる商品と比較してより販売可能性があり、したがって通例それだけが一般的に使用される交換手段」が生まれるようになる。
 一般的に使用される交換手段が成立するのは、習慣の影響が大きい、とメンガーは書いている。それは経済的利益に沿うものとして積極的に需要され、また蓄積や持ち運びに便利な財でなくてはならない。こうした交換財は高価であると同時に分割可能であり、同時にできるかぎり空間的・時間的な制約を受けないものでなければならないという。
 こうして交換媒介手段としては、次第に家畜や貝殻、カカオ豆、固形塩などより金属のほうが便利だということになっていく。
 こうした説明を通じて、メンガーが強調したいのは「交換手段はもともと法律や社会的契約によって成立したのではなく、『慣習』によって成立した」ということである。ただし、メンガーはのちに国家が社会の慣習に手を加える可能性を排除していない。
 最終的に一商品が一般通用交換手段になると、その商品(つまり貨幣)と残りのあらゆる商品とのあいだでは本質的な区別が生じてくる。

〈特定の財がすでに交換媒介物となり、交換媒介物としての一般的使用が確立している国民のもとでは、財を他の財と取引するために市場に行く者は、いまやこの目的を達成しようとすれば、自分の財をまず貨幣にたいして譲渡することに経済的利害関心を抱くようになるだけではない──彼は今後はまさにそれを強制されるのであり、また市場で財を得ようとする者は、たいていはまさしく、この目的のためにあらかじめ「貨幣」を調達せざるをえないのである。〉

 こうして貨幣は商品のなかでも一般の商品と画然と区別された「例外的な地位」を得ることになる。
貨幣の登場は市場の様相を一気に変化させる。貨幣によって商品の価格が示されると、商品の販売はより容易かつ継続的になり、市場は「はるかに厳密で経済的なもの」となっていく。
 貨幣はそれ自体無価値なもので、単なる表章にすぎないという考え方はまちがっている、とメンガーはいう。独自の商品として交易価値を保証されてこそ、貨幣ははじめて機能する。国家は布告だけで貨幣を思うままに規制できるわけではない。
 メンガーは貨幣を財交換を媒介する商品ととらえる。ただし、一般の商品が消費の場に移行するのにたいし、貨幣はたいてい市場にとどまりつづけるという独自性をもつ。
 歴史的にみると、さまざまな財のなかでも場所的にも時間的にも最も通用する財が、交換手段としての役割をはたすようになってきた。そのなかでも金属、とりわけ貴金属が貨幣として用いられるようになった。
 貴金属への需求は、空間的にも時間的にも大きく、恒常的だ。しかも、貴金属は分割しやすく運びやすいという特性をもっている。さらに保存しやすいこと、ほかの財とくらべて価値が安定していること、また長持ちして判別しやすいことも、貴金属が貨幣として用いられる理由だった、とメンガーはいう。
 貴金属はもともと未加工の状態や半製品のままでも交易に用いられていたが、それは次第にかたまりに分けられるようになった。だが、市場でそのかたまりが本物かどうかを判定し、いちいち秤で重さを計るのはわずらわしい作業にはちがいなかった。
 そこで金属の延べ棒や小片に小さな刻印がつけられ、その純分量が保証されるようになる。やがて、それは鋳貨に発展していく。
 やがて鋳貨はその重量や純度を含め、画一かつ大量に製造されるようになる。そして、その枚数を数えるだけで、その価値を簡単に計算できる道具となった。
 さらに、複数の鋳貨がつくられ、各種鋳貨の交換比率が定められ、鋳貨体系が確立されると、交易はより容易で厳密なものになっていく。
 とはいえ、「貨幣制度は自生的な発展にまかせるだけでは、発展した国民経済のそれにたいする諸欲求を満足させることができない」と、メンガーはいう。

〈貨幣は法律によって成立したものではなく、その起源からして、国家的な現象というよりは、社会的な現象である。貨幣が国家の権威によって裁可をうけるかどうかは、貨幣の一般概念とは無関係である。けれども、貨幣制度や、その交換媒介物としての機能、またそれから生じる結果的諸機能は、国家によって承認され規定されることによって完成され、交易の発展とともに生じる多様にして変化の多い要求に適合させられるのである。〉

 国民経済全体で貨幣が必要になってくると、貨幣の鋳造は民間にまかせるわけにはいかず、国家が介入しないわけにはいかなかった。
 国家が貨幣鋳造の専権を濫用する事例には事欠かないが、それでも変造や偽造から貨幣を守り、交易に応じて必要な貨幣を提供するのは、国家にしかできない役割だった、とメンガーは書いている。
 さらに国家は国内はもちろん、国外にたいしても、自国の統一的な貨幣制度を維持するという役割をはたしている。それによって交易の支障は取り除かれ、債務の履行なども確実なものとなるのだ。
 とはいえ、さまざまな種類の鋳貨には異なる金属を用いる必要があり、金属市場が変動することを考えれば、統一的な鋳貨体系を維持するのはなかなか困難なことだった。
 そこで、国家は金属の品位や価値に多少の偏差が生じたとしても、法令によって貨幣の名目価値を定め、その支払い能力と交換比率を保証するようになる。
「秩序だった鋳貨制度を有する一国では誰もが、すべての賃金稼得者、いやすべての子供でさえも、一つの統一的な、あらゆる価格段階を容易かつ厳密に表示し、きびしい危機においてすら正常に機能する貨幣制度の利点にあずかることができる」と、メンガーは書いている。
 経済が安定し、盛んな交易がおこなわれるには、「十分整備された統一的な国定法貨」が求められるのである。
 以上は前置きにすぎない。問題はこうしてつくられた貨幣が、実際にどのような機能をはたすかである。そのことが次に論じられる。

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商品論──メンガー『一般理論経済学』を読む(7) [商品世界論ノート]

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 メンガー『一般理論経済学』は商品論にはいっている。
 はじめにメンガーは、孤立経済、つまり原始社会では、財がつくられるのは、自己消費(あるいは贈与)のためであって、交換目的のためではないと書いている。
 原始社会でも分業がなかったわけではない。だが、財の需求はかぎられていた。過剰や欠乏が生じるときに他の共同体と交易がなされることもあるが、それはあくまでも偶発的なものだったという。
 文化が発達するにつれ、自分のいる場所では産出しない財への需求が生まれてくる。金や鉄などの金属もそうした財のひとつだ。これを手に入れるには征服もしくは交換による以外にない。いずれにせよ交易が広がっていく。
 特別の財をつくる職人も登場するだろう。当初、それは注文による生産で、交易を目的としているわけではなかった。
 だが、経済活動が活発になると、しだいに交換を目的として財が生産されるようになる。これが商品だ、とメンガーはいう。
 商品が商品たりうるのは、その財のもつ性質によるのではない。あくまでも、その財が交換されるということによる。したがって、交換(売買)することをやめてしまえば、その財はたちまち商品ではなくなる。

〈したがって、商品としての性格は……一般に財と経済活動を行なう主体との間の一時的な関係にすぎない。ある種の財は、その所持者たちによって、経済活動を行なう他の主体の財との交換のために定立されている。最初の占有から最後の占有へと移る間の、しばしば多数の人の手によって媒介される、中間期においては、われわれはそれを「商品」と名づける。〉

 つまり、商品とは生産と消費の中間期において交換(売買)される財をいうのであって、すでに最終的消費者の手中にある場合は、その財は商品ではなくて使用財になっている、とメンガーはいう。
 商品は販売可能な財でなければならない。
 販売可能ということは、何を意味するのだろうか。
 メンガーは商品の販売可能性の条件を探る。むしろ、商品の販売可能性は限定されているというのがおもしろい。
 ここでは4つの制限が挙げられている。
(1)商品の販売可能性は買う人によって制限されている。だれもがその商品を買うわけではない。商品を買う人の範囲はおのずから決まっている。

〈特定商品の販売を見込みうる人々の範囲、言い換えれば商品の販売可能性の人間的な限界は、この商品への需求を有する人々の数が少なければ少ないほど狭くなり、またこれらの人々に対象をかぎっても、法律、風習や偏見によってそれを消費することを妨げられている人、あるいはまた商品の価格によってそれを入手することから経済的に締め出される人の数が多くなればなるほど狭められるのである。〉

 商品が買われる範囲は、その商品を買いたいと思っている人の数によって決まる。商品を買いたいと思う人の数が少なければ、その商品はさほど売れない。法律や風習、偏見が商品の購買を妨げている場合もある。また商品の価格があまりにも高ければ、商品が売れる量はおのずとかぎられてくる。商品を買えない人の数が増えてくる。
 したがって、そこからは、逆に商品の販売可能性を広げるには、どうしたらよいかという方策も導かれる。
 何といっても、商品を求める人を増やすことだ。法律や風習、偏見などがあれば、そうした人為的制限は除去されなければならない。価格を下げて、商品を買える人を増やすこともだいじだろう。
 また、人口が増えることや、商品の認知度が高まること、住民の経済レベルが上がることも商品の販売量拡大につながる、とメンガーはいう。
 だが、商品の販売可能性は、人の数だけによって制限されるわけではない。
(2)商品の販売可能性は地域によって制限される。逆に場所的に拘束されることが少なくなればなるほど商品の販売可能性は広がる。
 たとえば毛皮などの防寒着は熱帯では売れないだろう。カザフ語の小説も世界じゅうではあまり売れないだろう。しかし、Tシャツや車、テレビなら世界じゅうで売れるかもしれない。
 輸送コストや輸入禁止措置なども、商品の販売を妨げる要因となりうる。だが、何といっても経済的要因が大きい。交易に利益がなければ、商品の販売は閉ざされてしまう。
(3)商品の販売可能性は量によっても制限される。商品の需要には限界があり、商品の販売量はそれ以上になることはない。しかし、住民の裕福度の上昇が、消費量の拡大をもたらすことは、じゅうぶんにありうる。
(4)商品の販売可能性は時間によっても制限される。それは財が時間的特性を持つ場合である。たとえば、腐りやすい商品は、すぐに販売されなければならない。しかし、財の保存性が高まったり、保管費が減少したりすれば、そうした時間的制限は拡大されることになる。
 以上の点を踏まえていうと、商品の販売可能性には、人的、空間的、量的、時間的限界(制約)があることがわかる。しかし、その制約が緩和されるなら、商品の販売がそれだけ容易になることはあきらかだ。
 商品の運動は、そうしたさまざまの制約を突破することに向けられてきた。
 ここで、メンガーは商品の本性をもう一度問いなおしている。
 商品は交換を目的とする経済財だが、それはどんな価格でも売却されるわけではなく、一般的な経済状態に釣りあう価格で、はじめて販売される。とはいえ、もし商品にたいする需求が減れば、商品の価格は水準より低下するし、逆に需求が増えれば、水準より上昇する。
 商品の販売可能性を考える場合は、その財がコンスタントに入荷するか、それとも不規則にしか入荷しないかで、価格と販売に大きなちがいがでてくる。
 交易はふつう経済的な利害にもとづいておこなわれるが、時に非経済的な動機でおこなわれることがある。その場合は、価格形成がしばしば歪められる。錯誤と無知も財の交易にマイナスの影響をもたらす。正しい情報が価格形成を経済的にし、商品の販売可能性を上昇させる。
 メンガーは商品世界が正しく成長するうえで、商人階級が果たす役割の重要性を、次のように指摘する。
 ひとつは商人階級の有する高度な専門知識が、国民経済に経済的利益をもたらすことである。
 さらに重要なのは商品階級による交易の組織化と取引の恒常化である。
 市場、定期市、取引所、競売などの存在が、商品の価格形成を適切なものとする。市場が生まれれば、生産物の販売可能性も高まり、生産にも安定性がもたらされる。市場における価格形成は、消費者にも商品を経済的価格で買う機会を与える。
 市場では先を見越した投機もありうるが、メンガーは投機をむしろ肯定的にとらえている。

〈投機は、たしかに自分たちの独自の利害を追求することに発するものではあるが、飽和した市場にはけ口を与え、逆に貧血気味の市場には商品を補給し、またそれによって、経済的な価格から遠ざかりすぎている価格を抑制するという経済上の使命を果たすのである。〉

 メンガーはもう一度最後に、流通しやすい商品と流通しにくい商品について述べている。
 たとえば金などの貴金属なら、だれが採取しようとすぐに流通するけれども、だれがつくったかわからない食品や装飾品などは、しばしば流通にためらいが生じる場合がある。価格がはっきりと示されていない商品も、また買うことがためらわれる。
 とりわけ次の場合は、商品の販売可能性はいちじるしく損なわれるとメンガーはいう。

〈その販売可能性が狭い範囲の人々に制限され、その販売地域が狭く、その保存期間が短い商品、あるいはまたその保存にいちじるしい経済的犠牲をともなう商品、つねにただ狭く限定された数量しか市場にもちだすことができず、その価格が十分には規制されていない商品等々も、きわめて狭い限界内であるがともかく一定の限界内で、ある程度の販売可能性を示すこともあるであろう──けれどもそれらの商品は、流通性をもつまでにはいたらない。〉

 翻訳に問題があるのかもしれないが、何となくわかればよい。説明する必要はないだろう。
 だが、商品世界が安定的に広がっていくことが、生産者にも消費者にも利益をもたらすとメンガーが信じていたことはまちがいない。
 メンガーが見ていたのは19世紀末から20世紀末にかけての商品世界である。日本でいえば、夏目漱石の小説にでてくる時代背景に近い。それから100年、商品世界はさまがわりして、経済がどこかでビッグバンをおこしたきらいすらある。
 それはたしかに人類に多くの恩恵をもたらした。だが、その商品世界に囲まれながらも苦しむ人は多い。人を財として扱う商品世界は、人の生活様式をも変えたのである。

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価格論──メンガー『一般理論経済学』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 価格が労働量、あるいは生産費を根拠にしていると考えるのは誤謬である。価格を論じるさいに重要なのは「経済活動を行う人々が自分たちの欲望を可能なかぎり完全に満足させようと努力することから、どのようにして、実際にも、諸財を、しかもその一定数量で、交換しあうようになるかを示すことである」とメンガーはいう。
 価格はあくまでも、各自が自分たちの欲望を満たそうとしておこなう交換のプロセスから生じるというのがメンガーの考え方だといってよい。そのプロセスを、かれは単純な形態からはじめて、複雑な形態へと拡張することによって、価格の形成を説明する。
 まずは1対1での交換の場合だ。
 たとえばAとBの農民がいて、ふたりのあいだで財(たとえば小麦とワイン)の交換がなされる場合を考えてみよう。そのときは、両者のあいだで駆け引きがなされ、80単位から100単位のあいだの小麦なら40単位のワインと交換してもよいという範囲がおのずと決まってくる。
 その範囲内で、両者はお互いにできるだけ多くの経済的利益を得ようとする。そこで、たとえば平均をとって、90単位の小麦と40単位のワインとが交換されるという結果になる。もちろん、駆け引き次第で、90単位ではなく、95単位あるいは85単位で取引が成立することもありうるだろう。
 次は1対1の交換ではなく、買う側も売る場合も多数の場合である。しかし、一挙に複雑にしないで、まず簡単なケースとして、買う側が多数で、売る側が1人の場合を想定してみよう、とメンガーはいう。
 たとえばAの馬1頭をめぐって、農民B₁とB₂が競いあうとする。馬を購入するとしたら、B₁は小麦80単位までならだせると考えており、B₂は小麦30単位までならだせると考えている。すると馬の価格は小麦30単位と80単位の範囲で形成されることになる。この場合は、ひとりだけではなく、2人の競争者によって価格の範囲が設定されるわけだ。
 さらにここにB₃という競争者が現れ、かれは小麦70単位ならだそうというとする。すると、価格の範囲は変わって、70単位と80単位のあいだになる。また90単位をだすという新たな競争者B₄が登場すれば、馬の価格は80単位から90単位のあいだにはねあがる。こうして馬の価格は決まってきて、もっとも有利なかたちで売られることになる。
 ここでメンガーは独占者が売る馬を何頭ももっていて、これを買おうとする農民が何人もいる場合を想定する。農民はそれぞれ馬をほしいと思っていて、その値段として自分はこれだけの量の穀物ならだせると考えている。この場合、馬の価格はどのようにして決まるのだろうか。
 メンガーが示している経済ゲームの細かい推移は省略する。結論からいえば、こうしたケースには、どういう事態が生じるかをメンガーは次のように説明する。

〈われわれがそこに見るのは、市場にもちだされた独占財の諸数量をめぐって、交換能力にきわめて差異のある諸階層の住民が競争している様子である。また先に、一人ずつの諸個人を想定して提示した場合とまったく同様に、交換能力の優る階層が交換能力の劣る階層を、問題の財の交換から経済的に排除する様子も見られる。さらに、市場にもちだされる独占財の数量が少なくなればなるほど、独占財の享受を断念しなくてはならない住民の層がそれだけ多くなり、また逆に、この数量が増大すればするほど、交換能力の劣る住民諸階層の間にも独占財が入りこむのであり、こうした現象と平行して独占財の価格が上下する、そうした様子を、われわれは見るのである。〉

 生産が独占されていても、財を求める人が多くいて、それに応じて大量の財が売りにだされれば、一単位あたりの財の価格は低くなることが示されている。もちろん、それとは逆の選択がなされることもある。
 とはいえ、通例、価格はせりの結果によって決まるわけではない。財の独占的保有者が、あらかじめ特定の価格をつけておくのが一般的だ。その価格にもとづいて、諸個人は財を購入するかいなかを決定し、それに応じて販売量が決まることになる。
 独占者があまりに高い価格を設定すると、購入者を排除してしまい、経済的交換の可能性はなくなる。比較的に高めの価格設定も、多くの人を経済的に排除することになるだろう。逆に独占者が価格を低く定めれば、財を需求しようとする人の数は増える。
 すると、財の独占者はどれだけの価格でどれだけの量の財を出荷すればいいかという問題がでてくる。
独占者は大量の財を売りにだしながら、高い価格を実現することはできない。また高い価格を維持しながら、大量の財を販売することもできない。
 そこにはおのずから経済法則がはたらく。
 独占者の利点は、供給面において他者との競争にわずらわされないで、財の数量と価格を調整しうることだ、とメンガーは書いている。

〈彼は、出荷する独占財の数量を多くしたり少なくしたりすることによってその価格を、あるいは、価格を高めに設定するか低めに設定するかによって独占財の売却される数量を、それぞれ彼の経済的利害関心にしたがって規制することができるのである。〉

 独占者がそうした調整をおこなう目的は、最高の収益を挙げるためである。そのためには、予想される販売量にもとづいて価格が設定されなければならない。たとえ販売量が減っても価格を挙げたほうがもうかる場合もあるし、逆に価格を下げて販売量が増えたほうがもうかる場合もある。また最初はできるだけ価格を高く設定して、販売量が増えるにつれて価格を安くしていく方法も考えられる。
 だが、いずれの場合も目標は最高の収益を挙げることである。価格を下げて販売量が増えても、かえって収益が減ってしまうようでは元も子もない。
 こうした経済行動は、独占者がすでに支配している財を売る場合だけではなく、これからどれだけの財を生産するかを決定する場合に、とりわけ重要になってくる。より多く財を生産しても、それによって価格が下がり、逆に収益が減ってしまうのでは何の意味もない。
 そのため、独占者は次のような行動をとる。

〈独占者は価格の高低を定めたり、売りに出す独占財の数量の大小を調節できるとはいっても、彼の経済的利害関心に完全に適うのは、特定の一点に価格を定めることだけ、ないしは特定の一数量の独占財を市場に出すことだけである。したがって、独占者は、いやしくも経済活動を行なう主体であるかぎりは、価格形成に関しても、あるいは売りに出される独占財の数量に関しても、恣意的に行動するのでは決してなく、一定の諸原理にしたがって行動するのである。〉

 経済社会では、こうした独占者はけっして例外ではない。メンガーはたとえばオランダの東インド会社を例に挙げているが、どの地域でも独占的な経済主体は存在するのであって、「独占はまさに競争にとっての自然的先行者」なのだという。
 とはいえ、経済が発展するにつれて、独占が競争へと発展していくのは自然の成り行きであって、そうなると「競争の登場が、財の配分、販売量、商品の価格におよぼす効果」を研究することが次の課題となってくる。
 そこで、供給側に経済競争がある場合が論じられることになる。ここでは「一財を獲得しようとする多数の競争者が、供給の側の多数の競争者と向かいあっている状態」が想定されているわけだ。
 このときはどのような経済的法則がはたらくのか。
わずらわしいので、要点だけをいう。
 メンガーは商品を供給するのが、独占者であろうが、多数の競争者であろうが、商品が一定の価格で出され、一定の量が販売されること自体は、何ら変わりないと述べている。
 しかし、供給側に競争者がいる場合は、明らかに価格にも販売量にも影響がでてくる。いちばん大きなちがいは、独占者が価格と供給量を単独で決定できるのにたいして、生産側に競争者がいる場合は、価格にしても供給量にしても、たとえ個々に決定がなされたとしても、その決定は競争の影響を受けざるをえないということである。

〈個別生産者の誰も、価格ないし財の交易数量を規制する力を、独立に手にしていないという競争の状態のもとでは、ごく小さな利潤ですら個々の競争者にとっては望ましいものであって、したがってこうした利潤を得る機会が長い間みすごされることは決してない。したがって、競争は、薄利多売への傾向をもち、高度の経済性をそなえた大規模生産を促進する。〉

 さらに重要なことは、競争が商品の大衆化をもたらし、それによって社会を前進させる効果をもつことだ、とメンガーはいう。

〈どのようなものであれ真の競争の登場は、売却目的のために支配可能な財数量の全体が実際に売却されるという効果をもたらすだけではない。真の競争の登場はさらに、この財数量自体をかつて以上に増大させるのである。つまり、競争は、生産手段に自然的制約がないとすれば、価格の低下によってますます多くの社会諸階層を問題の財の消費に参加させるだけでなく、支配可能数量を増加させて、この財の社会にたいしての供給をそれだけ完全なものにするという前進的な成果をも、もたらすのである。〉

 ここでは自由な経済競争が、大衆レベルまで商品の購買層を広げ、社会全体の進歩をもたらすというオーストリア学派の考え方が示されている。

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交換論──メンガー『一般理論経済学』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 人間の経済社会は交換のうえに成り立っている。だが、交換が常になされるわけではない。交換は経済性の原理のもとでおこなわれているのであって、経済性に反する場合には基本的に交換は成立しない。アダム・スミスのように、人間には交換性向があるというだけでは、交換の問題はじゅうぶんに説明できない、とメンガーは考える。
 交換はどういう場合になされ、どういう場合にはなされないのか。交換の始原と本質を原理的に探るのが、ここでの目的だ。
 例によって、メンガーはモデルを設定するところからはじめている。
 小麦だけをつくる農民Aとワインだけをつくる農民Bがいるとする。Aにとっては小麦はありあまっているし、Bにとってはワインはありあまっている。Aは渇きを覚え、Bは腹をすかせている。
 このとき両者のあいだで、支配する(所有する)財の交換がなされれば、両者の欲望はより満たされることになるだろう。
 交換のなされる前提は何か。Aが自身の小麦よりもBのワインのほうにより大きな価値を感じ、またBが自身のワインよりもAの小麦のほうにより大きな価値を感じるのがまず最初だ。そして、それを双方が認めたうえで、財の移転が実行さえること、これが交換のなされる前提だという。
 つまり、「自分の欲望をできるかぎり完全に満足させようとする努力、自分たちの経済的状況を改善しようとする配慮」に導かれて、はじめて財の移転が生じることになる。
 交換は自己目的でも人間の本性でもない。「人々に交換をおこなわせる原理は、彼らの経済的活動を一般に導く原理、すなわち、自分たちの欲望を可能なかぎり完全に満足させようとする努力以外の何物でもない」とメンガーは論じる。
 このことは逆に、これ以上、欲望が満たされないだろうと判断されれば、あるいは自分たちの経済的状況がこれ以上改善されないだろうと判断されれば、交換が停止されることを意味している。
 メンガーはさらにモデルを用いて、この原理を説明する。
 Aは馬を6頭と乳牛を1頭もっている。これにたいし隣人のBは馬を1頭と乳牛を6頭もっている。馬は土地を耕したり、その他さまざまな用役に利用され、乳牛は牛乳や乳製品のために必要とされる。
 それぞれの経済的条件を捨象して、単純に比較すれば、AとBが支配する財の価値は以下のようにあらわされる。そのさい、所有する財の価値は、その数に応じて次第に減少するものと想定される。

[A]
馬 50 40 30 20 10 0
牛 50 ─ ─ ─ ─ ─
[B]
馬 50 ─ ─ ─ ─ ─
牛 50 40 30 20 10 0

 ここでAとBのあいだで、それぞれの財である馬と牛が1頭ずつ交換されれば、両者の経済状況は次のように改善される。

[A]
馬 50 40 30 20 10
牛 50 40 ─ ─ ─
[B]
馬 50 40 ─ ─ ─
牛 50 40 30 20 10

 馬と牛の交換によって、両者の経済状況が改善され、ともに経済的利益がつけ加わったことがわかる。そこで、2回目の交換がおこなわれる。その結果はどうなるか。

[A]
馬 50 40 30 20
牛 50 40 30 ─
[B]
馬 50 40 30 ─
牛 50 40 30 20

 2回目の交換でも、両者の経済状況はさらに改善され、ともに経済的利益がつけ加わっていることがわかる。
 だが、3回目となると、そうはいかない。両者の経済状況は、2回目と同じで、それ以上改善されない。
 にもかかわらず、さらに4回目、5回目と交換がくり返されると、経済状況は次第に元に戻り、さらに6回目となると、経済状況はスタート時点よりも悪化してしまう。
 メンガーは、こうしたモデルから、財の交換は一定限度までは双方の経済的利益を増進するが、それを超えるとその利益がふたたび減少していくという現象を引きだしている。
 交換はむやみやたらにおこなえばいいというものではなく、じっさいに人びとは無制限に交換をおこなっているわけではない、とメンガーはいう。

〈人々は実生活では、無制限に交換をおこなっているのではない。むしろ交換をおこなうのは特定の人々であり、彼らは、所与の時点ごとに、しかも、特定の財種類、またその時々の所与の経済的事情に応じて、それ以上の交換をさしひかえるある一定の限界に到達するのである。〉

 このことは諸国民全体の交易についてもいえる。
 生産が拡大され、財が更新されるにつれ、交換行動も次々と拡張されることはまちがいない。しかし、どこかで交換の経済的基礎がくみつくされて、財の交換がなされない時点がやってくる、とメンガーはいう。
 交易の自由化やさまざまな障害の除去によって、財の交易は盛んになるかもしれないが、それでも、それはいつか通常業務の軌道にはいり、交換による利益は段階的に逓減していく。
 それがメンガーの見通しだった。
 ここから市場と価格の理論が導かれる。それが次の課題だ。

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