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万葉集(第2巻)[156〜166] [超訳「万葉集」]

■天武天皇の時代
十市皇女(とおちのひめみこ)が亡くなったとき、高市皇子(たけちのみこ)のつくった歌[十市皇女(653?-78)は大海人皇子(天武天皇)と額田王の子。大友皇子(弘文天皇)の妃。壬申の乱(672年)では父と夫とのあいだで板挟みになった。678年初夏、宮中で急死、自害説もある。高市皇子(654?-96)は天武天皇の第一皇子、壬申の乱では大友皇子を攻める側にまわった。十市皇女とは異母きょうだいにあたる。天武天皇は686年に55歳ほどで亡くなったが、持統天皇の時代に太政大臣をつとめた]
[156]
三諸(みもろ)の神[三輪山]の
神杉のように
遠く夢のなかでしか会えなくなった
そんな夜がつづいています

[157]
神山[三輪山]の山辺に祭る
麻幣(しで)はあまりに短い
どうしてもっと長くならないのか
あまりに早いあなたの死に
そんなことを思う

[158]
山吹の花咲き誇る
山の清水をくみにいきたい
あなたの眠る場所へ
でもどういけばいいのだろう
そこへは

■天武天皇がみまかったとき皇后(のちの持統天皇)がつくった歌
[159]
天下をすみずみまで治められた
わが大君が
夕べにご覧になり
朝方に声をかけていた
神の山の紅葉に
きょうも声をおかけください
あすも目をお向けください
そう思いつつ
山を遠くおがむと
夕べにはあやに哀しく
明けても日がなさみしくて
荒布の喪服の袖が
かわくときもありません

■一書に以下2首も皇后の御製
[160]
燃える火でさえ
つまんで
袋にいれられるというのに
雲よ
その面立ちを知っているのだから
大君を包んでください

[161]
神山にたなびく雲の
青雲が
星を離れていく
月を離れていく

■天皇がみまかって8年後(693年)の8月8日、供養のための御斎会(ごさいえ)の夜、夢のなかでつくられた歌
[162]
飛鳥清御原(あすかきよみはら)の宮で
天下を治められた偉大なる大君
輝ける日の御子は
どのように思われたのか
神風吹く伊勢の国
海の藻のなびく浪のかなた
潮のかおりただよう国に
神々しい姿で立っておられる
輝ける日の御子よ

■持統天皇の時代
大津皇子が亡くなったあと、大来皇女(おおくのひめみこ)が伊勢の斎宮から都にのぼったときにつくった歌2首[以下、[105]の注を再録。[105]〜[110]の歌も参照。大津皇子(663-86)は天武天皇の皇子。人望があり、天武・持統の子で異母兄となる皇太子、草壁皇子と皇位を競っているかのようにみえた。しかし天武天皇の亡くなった686年に親友、川島皇子の密告により、謀反の疑いがあるとして逮捕され、死を命じられる。妃の山辺皇女も殉死。大伯(大来)皇女は伊勢の斎王で、実の姉。大津の死後、大和に戻り、謀殺されたようだ。以下の歌は歌物語として、のちにつくられたものと思われる]
[163]
神風吹く伊勢の国に
いればよかったのに
どうしてやってきたのだろう
弟ももういないというのに

[164]
会いたいと思う弟もいないのに
どうしてやってきたのだろう
とてもむなしい
馬に苦労をかけただけで

■大津皇子のなきがらを二上山に埋葬したとき、大来皇女が悲しみ嘆いてつくった歌[折口信夫の『死者の書』はこの伝承をもとに大津皇子を哀悼する物語である]
[165]
まだこの世に残るわたし
あしたからは二上山を
あなたのお姿とみましょう

[166]
岸のほとりに生える
馬酔木(あしび)を折ってみましょうか
やめておきましょう
みせようと思うあなたが
生きているわけでもないのですから

超訳万葉集(第2巻)[141〜55] [超訳「万葉集」]

鎮魂歌
■斉明天皇の時代(はじめ皇極天皇、のち重祚、在位655-61[女帝])
有間皇子(640-58)がみずからの身を悲しんで、松の枝を結ばれたときの歌2首[有間皇子は孝徳天皇の子。孝徳天皇は宮中の実権を握った中大兄皇子に批判的だった。孝徳天皇死後、有間皇子は蘇我赤兄の陰謀により、斉明天皇と中大兄皇子に謀反をくわだてているとのうわさをたてられ、中大兄皇子による尋問のすえ、藤白坂(現和歌山県海南市)で絞首刑に処された。有間皇子の伝承には、おそらく歌物語が存在したものと思われる。それにしても中大兄皇子(のちの天智天皇)には謎が多い。そもそも大化の改新とは何だったのか、なぜかれは晩年まで天皇になれなかったのか、大海人皇子(のちの天武天皇)はほんとうに弟だったのか、壬申の乱の正体は? 歌のかずかずから、はたしてどのようなイメージが浮かんでくるだろうか]
[141]
磐白(いわしろ)の浜松の枝を結んでおこう
だれもがするように
旅の安全を祈って
もし無事でいられたなら
戻ってまた見たいから

[142]
家にいるときは
器に盛って食べるのに
流亡の旅のいまだから
椎の葉にめしを盛っている

■長忌寸意吉麿(ながいみのおきまろ)が結び松をみて、嘆き悲しんだ歌
[143]
磐白の岸で
松の枝を結んだ人は
戻ってまた
これをみただろうか

[144]
磐白の野中に立つ
結び松をながめると
心結ぼれたまま
昔がしのばれる[作者は不詳]

■山上憶良(660?−733?)が持統天皇行幸のさい(690年)意吉麿にあわせてつくった歌[事件から32年後]
[145]
天翔る皇子は
ここにきて
見ておられるだろう
人はわからないけれど
松にはわかるはず

■大宝元年[701年]紀伊国行幸のときに結び松をみた歌[柿本人麿歌集から]
[146]
また戻って見ようと
皇子が結んだ
磐代の小松
その緑の新芽を
またご覧になっただろうか

■天智天皇の時代(626-72、在位668-72)
天皇が重い病気になられたとき皇后のたてまつられた歌

[147]
天の原を
はるかにあおぐと
大君のお命が
どこまでも
満ちておられます

■一書によると、天皇がみまかったとき、皇后のつくられた歌

[148]
青く木々のはためく
木幡山の上を
おわたりになっている
それが目にはっきり見えます
すぐにでもお会いしたいのに
いまはまだそれがかないません

■天皇がみまかったとき、皇后(倭姫)のつくられた歌
[149]
たとえ人が
思わぬようになっても
いつまでも
そのお姿やかたちが
しのばれ
わたしはけっして忘れません

■天皇がみまかったとき、ある女官がつくった歌(姓名未詳)
[150]
いまあるこの身は
神に近づけない
離れて目覚めるたび
悲しみにくれ
遠くから思っております
玉ならばいつも手に巻き
衣ならばいつも身につけ
そのようにお慕いする大君を
昨夜夢にみました

■大殯(おおあらき)[埋葬に先立つ祭]のときの歌2首
[151]
早く逝かれるのを知っていたら
大きなみ船の泊まる泊まりに
しっかり標(しめ)をつけておけばよかった
船がそこから出ていかないように[額田王]

[152]
天下をあまねく治められた
大君の大み船が
戻るのを待ちかねておりましょう
志賀の辛崎では[舎人吉年]

■皇后の歌1首
[153]
大きな淡海の海[琵琶湖]の
沖遠く漕ぎゆく船
岸近く漕ぎゆく船
櫂のしずくをはねずにおくれ
若いころ夫の好きだった鳥が飛び立ってしまうから

■石川の夫人の歌1首
[154]
さざ浪の大山の山守が
山に標(しめ)を結んでいる
いったいだれのため
もう大君もいらっしゃらないのに

■山科の御陵からまかりでるとき、額田王がつくった歌[天智天皇陵ができたのは、壬申の乱のあと。宮中の様子はすっかり変わっている]
[155]
天下をあまねく治められた尊い大君の
畏れ多くもその御陵にお仕えする
山科の鏡の山に
夜は夜どおし
昼はひねもす
さめざめと泣いてばかりいた
あの宮の大宮人も
もはやちりじり

万葉集(第2巻)[131〜140] [超訳「万葉集」]

[柿本人麿(人麻呂)[660頃〜720頃]は天武・持統期の宮廷歌人。亡くなったのも石見の国とされ、石見とはゆかりがあるが、石見から都にのぼり朝廷に仕えたかどうかは疑問。以下の歌はおそらく物語として宴席で歌われたものだろう。石見のおとめは、あとに出てくる依羅(よさみ)のおとめとは別人。よさみのおとめの歌は地方に赴任する夫を送る歌で、人麿と関連づけて収録されたのかもしれない]

■柿本人麿が石見国[いまの島根県西部]から妻と別れて都にのぼってきたときの歌2首、あわせて短歌
[131]
石見の海、津野の浦[現江津市]には
いい泊まりがないと人はいう
干潟もないと人はいう
いいではないか
泊まりがなくても干潟がなくても
いさな[クジラ]とる海へ向かう港の荒磯には
青い玉藻や沖の藻
あしたには心地よい風が吹き
ゆうべには静かな波が寄せてくる
その波とともに寄せる玉藻のように
寄り添ってすごしたあの子を
露霜のようにおいてきてしまった
この道を曲がるたび
何度もふりかえるけれど
どんどん里は遠くなるばかり
いくつも高い山も超えた
どうしているだろう
夏草のようにしおれて
わたしのことを思っているだろうか
あの子の家がみたい
たちはだかる山よ
なびけ

■添え歌2首
[132]
石見といえば
高角山
その木の間から
振った袖が
あの子に
見えただろうか

[133]
笹の葉が
山道にざわざわ
音をたてるけれど
ひとえにあの子を思っている
別れてきたのだから

■異本に収録された歌
[134]
石見にある
高角山の
木の間から
振った袖を
あの子は
見ただろうか

[135]
ごつごつの石見の海の
ことばも通じぬ韓(から)の崎
その海中の岩に海松(みる)がはえ
荒磯に玉藻がはえている
その玉藻のように寄り添ってすごした
あの子を海のように深く思ったけれど
ともにした夜はほんのわずか
つたがはうように思いを残して別れてきた
いつまでも心が痛み
ふりかえってみるけれど
遠くへ向かう山のもみじが散るあわいから
あの子の振る袖もはっきりとは見えない
妻籠もる屋上山(やがみやま)[江津の高仙山]の
雲間を渡る月のようにあの子の家も見えなくなった
天空を陽が西に移り夕陽がさすと
大の男であるはずのわたしも
旅の衣の袖を
涙でしとど濡らしている

■添え歌2首
[136]
白馬の歩みが早いので
はるか遠く
きみのところを
離れてしまった

[137]
秋山に落ちるもみじ
しばらく散り乱れるな
あの人のいるあたりを
みたいのだから

■異本の歌1首、あわせて短歌
[138]
石見の海には
いい泊まりがないと人はいう
干潟もないと人はいう
いいではないか
泊まりがなくても干潟がなくても
いさな[クジラ]とる海へと向かう港の荒磯には
青い玉藻や沖の藻
あければ心地よい風が吹き
ゆうされば静かな波が寄せてくる
その波とともに寄せる玉藻のように
わたしになびいて共寝したあの子を
露霜のようにおいてきてしまった
この道を曲がるたび
何度もふりかえるけれど
どんどん里は遠くなるばかり
いくつも高い山も超えた
愛する人は夏草のようにしおれて
わたしのことを思っているだろうか
津野の里がみたい
たちはだかる山よ
なびけ

[139]
石見の海の
うつた山
その木の間から
振った袖が
あの子に
見えただろうか

■柿本人麿の妻、依羅(よさみ)のおとめが人麿と別れたときの歌
[140]
心配するなと
あなたはいうけれど
こんどいつ会えるか
わからないのに
なごりが惜しい

万葉集(第2巻)[114〜130] [超訳「万葉集」]

■但馬皇女(たじまのみこ)が高市皇子(たけちのみこ)の宮に滞在したとき、穂積皇子(ほづみのみこ)のことを思いだしてつくった歌[但馬皇女(?-708)は天武天皇と氷上大刀自(ひかみのおおとじ)の娘。氷上は藤原鎌足の娘。したがって藤原系の皇女ということになる。高市皇子(654-96)は天武天皇の第一皇子で、太政大臣を務めていた。その邸宅(宮)は香具山のふもとにあり、但馬皇女は小原(大原)の藤原邸を出て、長兄の屋敷で暮らしていたことになる。穂積皇子(?-715)は天武天皇の第5皇子で、その母は蘇我氏の出身。ハイティーンどうしだったと思われる兄妹の恋は、いつまでも緒を引く藤原・蘇我の暗闘もからんで、たちまち引き裂かれる。事件が起きたのは持統5年の691年とされる。5年前に大津皇子が反乱の疑いで死をたまわり、2年前に次期天皇と目されていた草壁皇子が病死し、のちに文武天皇となる草壁の皇子はまだ7歳で、宮廷は不安に包まれていた。そんななかでのラブアフェアである。おそらく持統天皇も叔父の藤原不比等も激怒したと思われる]
[114]
秋の田の稲穂が
風になびいています
そんなふうに心を傾けて
あなたに寄り添いたいのです
評判が立ってもかまわないわ

■みかど(持統天皇)に命じられ、穂積皇子が近江にある志賀の山寺(崇福寺)に出向いたとき、但馬皇女がつくった歌[大津の崇福寺は廃寺となり、いまは跡だけが残っている]
[115]
あとに残されて
恋に苦しむのはいや
追いかけていきます
だから分かれ道に
しるしをつけておいて
愛する人よ

■但馬皇女が高市皇子の宮に滞在したとき、ひそかに穂積皇子と会い、それが露見してつくった歌
[116]
人のうわさが多いので
とてもつらい
あなたは来ない
だから勇気をふるって
わたしが夜更け
あなたに会いにいきます
■舎人皇子(とねりのみこ)の歌[舎人皇子(676-735)は天武天皇の第6皇子で、母は新田部皇女(にいたべのみこ、天智天皇の娘)。『日本書紀』(720)の編纂責任者でもある。これは、かれが若いころ乳母の娘に恋をして、つくった歌と思われる]
[117]
大の男が
どうして片思いなんか
そう思うのだけれど
それでもこのダメ男は
恋に苦しんでいます

■舎人のおとめがそれに応えてつくった歌
[118]
そうお嘆きになりながら
恋してくださるからでしょうか
わたしの髪の
留め糸が濡れて
ほどけてしまいました

■弓削皇子が紀皇女(きのひめみこ)をしのんでつくった歌4首[弓削皇子は天武天皇の第9皇子、27歳で亡くなっている。紀皇女も天武天皇の娘だが、ふたりはどういう関係にあったのだろうか]
[119]
吉野川の
流れは早いので
淀むことがない
わたしたちも
そんなふうにいたいですね

[120]
自分の妹に
恋してなんかいずに
秋の萩のように
きれいに咲いて
散りたいものです

[121]
夕方になれば
潮が満ちてくる
その前に
住吉の朝鹿の浦で
玉藻を刈りたい
あなたといっしょに

[122]
船が港で揺れるように
ぼくの心もいつも揺れている
恋やつれかな
あなたのことを思って

■三方沙弥(みかたのさみ)が園臣生羽(そのおみいくは)の娘をめとって、それほどたたないうちに病に伏してつくった歌3首
[123]
束ねるには短く
束ねなければ長い
幼いあなたの髪
それをこのごろ
見ることができません
ひょっとしたらだれかが
その髪に
くしをいれてしまっているのでしょうか(沙弥)

[124]
人がみな
もう長いから
束ねなさいというのですが
あなたが見た髪です
乱れてもそのままにしています(娘)

[125]
橘の香りがする
あなたの髪を思い出します
わたしはどこに行くのでしょう
あれこれと考えてしまいます
あなたに会えないのが
とても悲しい(沙弥)

■石川のいらつめが大伴田主(おおとものたぬし)に贈った歌1首[大伴田主は安麻呂の二男で、旅人の弟。石川のいらつめは前出とは別人。しかし、同じく男を翻弄する絶世の美少女という趣がある。以下は、石川のいらつめがわざと老女のかっこうをして田主を誘惑し、邪険にされたことを題材にした滑稽歌]
[126]
みやびな人と
聞いておりましたのに
わたしを引きとめもせずに
お帰しになった
とんだイケメンさん

■大伴田主がこれに応えて贈った歌
[127]
わたしはみやびな男ですよ
引き留めもせず
お帰しした
それがイケメンというものです

■同じく石川のいらつめが大伴田主に贈り返した歌
[128]
ほんとうに
聞いたとおり
なよなよしていて
心配だわ
もう少し修業してね

■大津皇子の屋敷で女官をしていた石川のいらつめが大伴宿奈麿(おおとものすくなまろ)に贈った歌[この石川のいらつめの呼び名は山田。大伴宿奈麿は安麻呂の3男]
[129]
いい年をした
おばさんなのに
どうして
こんなに恋い焦がれてしまうの
まるで少女みたいね

■長皇子(ながのみこ、?-715)が弟の弓削皇子に与えた歌[長皇子は天武天皇の子、弓削皇子とは母が同じ]
[130]
丹生川の
浅瀬など選ばなくていい
そんなふうに
ますます恋しさのつのってくる
わが弟よ
こちらに通ってきなさい

超訳万葉集(第2巻)[103〜13] [超訳「万葉集」]

■天武天皇(631?-86、在位676-86)の時代
天皇が藤原夫人[鎌足の娘いおえ]に与えた歌[五百重(いおえ)は不比等の異母妹。天武天皇夫人となり、新田部皇子を生む。天皇没後、不比等の妻となった]
[103]
都では大雪が降っている
ふりにしという
大原(小原)の古びた里に
ふるのはもう少しあとかな
[飛鳥の宮から大原(小原)の里まではほんの1キロほど]

■藤原夫人がそれに応えて奉った歌
[104]
いえいえ
岡の龍神に言って降らせた
雪のかけらが
そちらにも
散っているのでしょう
[早くこちらに来てください]

■持統天皇(645-703、在位690-97)の時代
大津皇子がひそかに伊勢神宮に下って戻られたときに、大伯皇女(おおくのひめみこ)の作った歌2首[大津皇子(663-86)は天武天皇の皇子。人望があり、天武・持統の子で異母兄となる皇太子、草壁皇子と皇位を競っているかのようにみえた。しかし天武天皇の亡くなった686年に親友、川島皇子の密告により、謀反の疑いがあるとして逮捕され、死を命じられる。妃の山辺皇女も殉死。大伯(大来)皇女は伊勢の斎王で、実の姉。大津の死後、大和に戻り、謀殺されたようだ。以下の歌は歌物語として、のちにつくられたものと思われる]
[105]
わが弟を
大和に送る
夜の時が過ぎ
明け方の露に濡れるまで
わたしは立ちつくしていた

[106]
ふたりで行っても
なかなか越えられない
秋の山を
あなたはひとりで
どんなふうに
越えているのだろう

■大津皇子が恋人の石川のいらつめに贈った歌[石川のいらつめは[96]とは別人。しかし、もともと歌物語に登場する伝説の美少女を指していたのかもしれない。この歌物語はどうやら草壁の愛人説をとっている。そうなると話はちとややこしくなる。大津と草壁の争いが、三角関係のもつれによることになるのだ]
[107]
あしひきの
山のしずくよ
いとしい人を待っていると
わたしはすっかり立ち濡れてしまう
そんな山のしずく

[108]
わたしを待っていて
あなたが濡れたという
山のしずくに
なってみたいわ

■大津皇子がひそかに石川のいらつめに会ったとき、陰陽師の津守連通(つもりのむらじとおる)がそのことを占って、ことが露見したとき、
[109]
大きな船が泊まるという
津守が占って
わかってしまうのを知りつつ
ふたりは寝てしまった

■草壁皇子が石川のいらつめ(呼び名はおおなご)に贈った歌
[110]
おおなごが
遠くの野辺で
草を刈る
そのつかの間も
忘れるものか

■持統天皇が吉野に出かけられたとき、同行した弓削皇子(ゆげのみこ、673?-99、天武天皇の第9子)が長寿を祈って額田王(ぬかたのおおきみ)に贈った歌[持統天皇の吉野行は693年か]
[111]
昔を懐かしんでいる
鳥でしょうか
ゆずりはの
泉のうえを
鳴き渡っていきます

■額田王の返歌[大和の都から]
[112]
昔を懐かしんでいた鳥は
ほととぎすでしょう
鳴いたのですね
きっとわたしが
昔を恋するのと
同じように

■吉野から苔むした松の枝を折って送ったところ、額田王がありがたく思い、詠んだ歌1首
[113]
み吉野の
かがやく松の枝が
いとしいことです
あなたのおことばをもって
やってきたのです

万葉集第2巻[96〜102] [超訳「万葉集」]

■久米の若僧が石川のいらつめ(みこ)に言い寄ったときの歌5首[歌物語から]
[96]
マコモで知られる信濃の強弓
その弓を私が引いても
あなたはつんとして
しらんぷりでしょうね[若僧]

[97]
マコモで知られる信濃の強弓
その弓も引かずに
はっきりしない人の気持ちが
どうしてわかるの[乙女]

[98]
梓弓を引いてくださるなら
お心のままにしたがいましょう
でも、のちのちのお心は
どうなるんでしょうね[乙女]

[99]
梓弓に弦(つる)をつけて
引く人は
のちのちの気持ちをたしかめて
引くのですよ[若僧]

[100]
東国から納める
初穂の箱を結わえた
紐のように
あなたはどっしりと
私の心をくるんでしまったのです[若僧]

■若き大伴安麻呂(?-714)[壬申の乱[672]で大海人(おおあま)=天武天皇側につく。のち大納言になるが、藤原不比等の権勢にはかなわなかった]が、巨勢(こせ)のいらつめ[安麻呂の妻、大伴旅人の母ともいわれる。近江方の大納言だった父は壬申の乱後、配流]に求婚したときの歌
[101]
きれいな葛がからまって
実のならない大きな木には
ちはやぶる多くの神がつくといいますよ
あなたという木にも

■巨勢のいらつめの返歌
[102]
きれいな葛がからまって
花しか咲かないのは
だれかが恋しているからではないでしょう
ほんとはわたしがあなたに恋しているのですよ

万葉集(第2巻)[85〜95] [超訳「万葉集」]

ラブソング
■仁徳天皇(255-399、在位313-399[まるでガルシア=マルケスの『百年の孤独』みたいだ])の時代
皇后の磐姫(いわひめ)が女のもとを転々とする天皇を思って作った歌4首
[85]
あなたが出ていってから
もう何十日
山道をたずねて
迎えにいきましょうか
それともここで
じっと待ったほうがいいの

[86]
こんなふうに
焦がれるのはもういや
高い山の岩を枕にして
死んでしまいたいわ

[87]
それでもずっと
あなたを待っているわ
長い私の黒髪に
霜が降りるみたいになっても

[88]
秋の田の穂のうえに
朝霧がかかっている
私の恋も
いつまでももやもや

■別の本に残されたもの([87]の異歌)
[89]
夜通し
あなたを待つわ
まっくろな
私の髪に
霜がおりてきても

■仁徳天皇の皇子、軽太子(かるのひつぎのみこ)が実の妹、軽太郎女(かるのいらつめ)と密通し、そのため伊予松山に流されたとき、恋しさのあまり彼女が追いかけていって作ったとされる歌(これは『古事記』によるが、別の言い伝えもある)
[90]
あなたが行ってから
ずいぶん日がたった
山たづ[植物、ニワトコ]のように
たずねていきたい
がまんしろといわれても
もう待てないわ

■天智天皇(626-672、在位668-72)の時代
難波にいた天皇が自分のもとを離れる鏡王女(かがみのおおきみ)に渡した歌
[91]
おまえの住んでいるところを
これからもずっと見たいものだ
大和の大島の嶺[信貴山の]あたりに
家があればよいのに

■鏡王女がそれに応えた歌
[92]
秋山の樹の下を
ひっそり流れていく
水のように
わたしのほうこそ
みかどのことを
お慕いしています

■内大臣の藤原鎌足が鏡王女に言い寄ったとき、鏡王女が鎌足に贈った歌[宴席の歌か]
[93]
玉くしげのように
だいじにしているものを
あっさりあげてしまうなら
あなたはご自慢でしょうが
わたしはおことわり

■藤原鎌足が鏡王女に応えた歌
[94]
玉くしげを見たい
みんまど山の
かわいいさな葛(かづら)さん
いっしょに夜をすごせないなんて
あんまりじゃないの

■藤原鎌足が采女(うねめ)の安見児(やすみこ)を賜ったときの歌
[95]
わしはそれ
安見児をちょうだいしたぞ
だれも手の届かなかった
安見児をちょうだいしたぞ

超訳万葉集[76〜84] [超訳「万葉集」]

[707年、文武天皇が数えの25歳で死去したため、急遽、その母が元明天皇(661-721、在位707-15)として即位します。いうまでもなく女帝です。元明天皇は天智天皇4女で、持統天皇の子草壁皇子の正妃でもありました。文武天皇の子聖武天皇が幼いため、中継ぎという含みがあったようです。以下は元明天皇時代の歌を集めたものです。なお、この時代に都は藤原京から奈良へ移ります。]

■708(和銅元)年、元明天皇の大嘗会(だいじょうえ)に際しての御製
[76]
ますらおの
弓の鞆(とも)を
弦(つる)がはじく
音がする
もののべの大臣(おおきみ)も
楯を立てているらしい

■御名部皇女(みなべのひめみこ[元明天皇の姉])が、それに応えての歌
[77]
わが大君よ
何も心配はありません
皇神(すめらがみ)の末で
姉でもある私が
しっかりとお守りします

■710(和銅3)年、春2月に藤原宮から奈良に遷都されたとき、御輿を長屋の原[現在の天理市あたり]に停め、ふるさと飛鳥を望んでつくった歌
[78]
飛ぶ鳥の
明日香の里を
捨てていくなら
あなたの住んでいたあたりも
見えなくなってしまう

■藤原宮から奈良に移るときの歌
[79]
天皇の
ご命令をかしこみ
住み慣れた家を後に
こもりくの泊瀬(はつせ)の川に
舟を浮かべて
川をくねくね曲がるたびに
何度も何度もふりかえり
長い時間をかけて
あおによし奈良の都の
佐保川にたどりつくと
野宿する衣をとおして
月明かりが
夜の霜や岩床、川に張る氷を
照らしだします
そんな寒い夜を押して
通ってきてはつくった家に
いつまでもお越しください
大君よ
わたしもまたやってきますから

■添え歌
[80]
あおによし
奈良の家に
いつまでも
通ってきます
けっして忘れませんから

■712(和銅5)年、夏4月[現在の暦では5月か6月ごろ]に長田王(ながたのおおきみ)を伊勢の斎宮に遣わしたとき、山辺の御井(みい)でつくられた歌
[81]
山の辺の御井を
見にきたら
ちょうど
神風の伊勢のおとめらが
水をくんでいるのに
ぶつかった

[82]
さみしさがつのる
はるかな空から
しぐれが
流れ落ちるのを
見ると

[83]
海の底から
奥つ白波が
立つように
ふたりをへだてる
立田山を
いつか越えて
いとしいきみのもとに
行きたい

■奈良の佐紀の宮で、長皇子(?-715)と志貴皇子(668?-716)が宴を開いたときの歌[天武系と天智系の皇位とは無縁のいとこ同士は風雅の友だった]
[84]
秋になれば
ほら
あそこに見えるでしょ
妻恋しさに
鹿がなくのですよ
あの高野原の上では

[第1巻終わり]

超訳万葉集[67〜75] [超訳「万葉集」]

[舞台は引きつづき難波が主です。海に近い都です。天武天皇は683年に飛鳥とともに難波を都としましたが、686年に宮殿は焼けてしまっています。それでも難波は殷賑の地で、港があるせいか、遊女も大勢いたようです。歌の時代は文武天皇(683-707、在位697-707)のころでしょう。しかし、祖母であり、上皇となった先の持統天皇(645-703、在位690-97)の影響力が色濃く残っていました。後期の難波宮は平城京の副都として726年に計画され、744年、聖武天皇(701-56、在位724-49)の時代に1年間だけ都として用いられました]
[67]
旅の空にあって
何やら恋しいのに
[鶴の]鳴く声が聞こえてくる
わたしも声のかぎり
きみの名を呼んでみたい

[68]
難波の御津の浜には
何もかも忘れさせる
忘れ貝があるとか
けれども家で待つ
かわいい人のことを
どうして忘れられようか

[69]
草を枕に
旅ゆく人と知っていたなら
私を忘れないように
この岸の黄土(はに)で
衣を染めてさしあげたのに
[住之江のおとめが長皇子(天武天皇の子)に差し上げた歌]

■太上天皇(持統天皇)が吉野の宮におでましになったとき、高市連黒人(たけちのむらじ・くろひと)のつくった歌
[70]
大和のほうに
鳴いていくのだろうか
子を呼ぶ呼子鳥[カッコウ]が
象(きさ)の中山を
鳴きながら越えていく

■いまは亡き文武天皇が、難波の宮におでましになったときの歌[忍坂部乙麿(おさかべのおとまろ)]
[71]
大和が恋しく
寝つけぬというのに
人の気持ちも知らず
この渚﨑(すざき)あたりを
鶴がにぎやかに鳴きやまないのは
どうしてだろうか

[72]
玉藻を刈る
沖には出ないよ
敷栲(しきたえ)の枕を交わしたきみが
忘れられないのだから
[式部卿の藤原宇合(うまかい、694-737)の歌。宇合は藤原不比等の3男。726年に難波宮再建の責任者となった。]

■長皇子(ながのみこ、?-715、天武天皇の4男)の歌
[73]
いとしい人と
早く会いたい
住吉の浜風よ
大和で待っている
椿のようなきみに
思いを伝えておくれ

■いまは亡き文武天皇が吉野の宮におでましになったときの歌[御製とも]
[74]
み吉野の山の嵐は寒いのに
今夜もまた
ひとりで寝るのだろうか

[75]
吉野の宮にいると
宇治間山からの朝風が寒い
旅路にあって
衣を貸してくれる
ひともいないのだから
[長屋王(684?-729)の歌。長屋王は天武天皇の孫にあたる皇族。聖武天皇の時代(724-49)、藤原家の陰謀により、服毒自殺する。のち藤原4兄弟が天然痘で次々死亡したのは、長屋王のたたりではないかとうわさされた]

超訳『万葉集」[57─66] [超訳「万葉集」]

[第1巻のつづきです。文武天皇(683-707、在位697-707)の時代。697年に退位して上皇となった先の持統天皇が孫の年若い文武天皇をつれて、あちこち行幸しています。三河を訪れたのは壬申の乱で功績のあった三河の豪族へのあいさつまわりだったのかもしれません。その権勢を誇った持統天皇も703年に数えの59歳で亡くなります。しかし、朝廷はまだ持統天皇時代の雰囲気を引き継いでおり、このころの歌は持統天皇の追悼やポスト持統の不安にあふれています。それにしても「万葉」の歌はさびしい、恋しいの連発ですね]

■702(大宝2)年の11月、太上天皇(先の持統天皇)が三河の国に行幸されたときの歌[長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)
[57]
引馬野(ひくまの)に
色づく
榛(はん)の原に
わけいり
衣を染めましょう
旅のしるしに

[58]
いったいどこに
舟をとめているのだろう
安礼(あれ)の崎を
ぐるりと回っていった
あの小さな舟は
[高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の歌]

■誉謝女王(よさのおおきみ)のつくった歌
[59]
あれからずいぶんたち
衣の端に吹く風の
寒い夜に
愛しい人は
ひとりで寝ているのでしょうか

■長皇子(ながのみこ)のお歌
[60]
夜を共にすごし
朝は顔を隠すという
隠(なばり)[名張]の地で
何日も何日も
あなたは
わたしを待って
仮のいおりを
結んでいたのだろう

■旅につき従った舎人娘子(とねりのおとめ)がつくった歌
[61]
ますらおが
狩りの矢を
手にはさみ
標的を射るという
あの円方(まとがた)の地は
見るにつけ
さわやかな気分

■三野連(みののむらじ)が唐に渡ったとき、春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)のつくった歌[701年、この年は失敗。翌年再挑戦して成功。704年に帰国]
[62]
峰々つづく
対馬の渡りの
海中に
幣(ぬさ)をささげて
無事に
お帰りください

■山上憶良(やまのうえのおくら)が唐に滞在中[702-04年]、故郷を思ってつくった歌]
[63]
さあみんな
早く大和へ帰ろう
大伴の御津の浜松が
われらを待ちこがれているだろう

■706(慶雲3)年9月、文武天皇が難波の宮に行幸したとき、志貴皇子(しきのみこ)のつくられた歌
[64]
芦辺を泳ぐ
鴨の背に
霜が降り
寒い夜は
大和が
しのばれる

[65]
あられ打つという
あられ松原に
住吉の
弟日娘(おとひおとめ)[伝説の遊女]が
と思って見れば
いつまでもあきないものだ

■亡くなられた太上天皇(先の持統天皇、703年没)が難波の宮に行幸されたときの歌[置始東人(おきそめのあずまひと)の作]
[66]
大伴の
高師の浜の
松を枕に
寝るものの
[遊女に添い寝してもらっても]
遠く離れた家が
やはり恋しい

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