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中世史(2)──宮崎市定『中国史』を読む(6) [歴史]

 楊堅は北周を乗っ取り、同じ武川鎮軍閥(北魏守備部隊)の宇文一族をことごとく殺して、隋の文帝として即位した(581年)。
 文帝は南朝の陳を滅ぼし、中国再統一の偉業を成し遂げ、在位24年で亡くなる。科挙をはじめたのも文帝である。
 その子、煬帝は豪奢を好み、しきりに土木工事をおこして、民力を疲弊させた。かれの最大の事業は白河から黄河、淮水、揚子江を経て銭塘江にいたる南北の大運河を開いたことである。
 だが、3回にわたる高句麗侵攻の失敗が命取りになった。各地で叛乱が勃発したため、大運河沿いに揚州まで南下したところを、煬帝は近衛軍によって殺された(618年)。
 このとき、武川鎮軍閥の李淵は、その子、李世民とともに都の長安にはいり、煬帝の子、恭帝を立てた。だが、すぐに禅譲によって天子の位についた(618年)。これが唐の高祖である。
 宮崎によれば、李氏は「異民族気質を濃厚に受けた、いわゆる漢胡混淆の血統」だったという。
 唐代は約300年にわたってつづいた(618〜907)。
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[唐地図。ウィキペディア]
 高祖、太宗、高宗と3代つづいたあと、則天武后の簒奪にあう。だが、玄宗が唐を中興した。それ以降は後期の混乱期となる。
 唐といえば律令制といわれるが、律令は漢魏の時代からあったもので、注目すべきは均田法だろう、と宮崎はいう。
 均田法は華北中原を中心におこなわれた土地制度である。人民は政府から土地の分配を受け、課戸と称された。課戸は毎年、田租を収め、力役、雑徭にあたらねばならない(いわゆる租庸調)。
 すべての土地を政府が所有しているわけではなかった。王侯貴族高級官には、永業田や賜田が与えられていた。また市街地に住む商工業者は原則として土地の配分を受けなかった。また揚子江以南の地方は、均田法からはずされていたという。
 高祖は在位7年のうちに統一を完成し、軍功の大きかった次男の李世民に位を譲った(626年)。これが太宗である。
 太宗が在位した貞観の23年は太平の時代だったといわれる。東西交易がふたたび盛んになった。太宗はトルコ系遊牧民の突厥を撃破し、ペルシアにいたる交通路を確保した。西方からは絹の代価として銀が流入し、経済をうるおした。
 事態が急変するのは、その次の時代である。
「太宗の子高宗は即位の後、太宗の妾で尼となっていた武氏を連れ戻して寵愛し、秘書として用いるうちに、武氏は宮中に勢力を張り出した」と宮崎は書いている。だが、武氏は尼にはなっていなかったらしい。
 武氏は高宗に代わって次第に宮中の実権を握り、高宗の死後に即位した中宗を廃して、みずから天子となった。武則天(則天武后)である。このとき、国号は周と改められた(690年)。
 この奪権には無理があった。武則天は唐の宗室や功臣の家などを取り潰し、その一族を殺した。しかし、16年後、みずからも反対勢力によって幽閉され、中宗が帝位につく。このときの対応が不徹底だったため、またも武氏が盛り返し、中宗の皇后韋が実権を握る。中宗は毒殺された。
 中宗の弟で睿宗の子の李隆基が兵を挙げて、韋皇后と側近、ならびに武氏の残存勢力をことごとく殺し、睿宗を位につけた。その3年後、李隆基は父から位を譲られ、皇帝となる。すなわち玄宗である(712年)。
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[玄宗。ウィキペディア]
 玄宗時代に唐は栄えた。漢の五銖銭以来中断していた貨幣制度が復活して、開通元宝が鋳造され、経済は好景気を迎えた。
 アラビアではムハンマドがあらわれ、イスラム帝国が生まれた。ササン朝ペルシアは滅亡し、ゾロアスター教を信じるペルシア人はアラブ人に追われ、シルクロードを経て、中国にやってきた。これにつづき、大食人、すなわちアラブ人が海路で渡来し、広州、泉州、揚州などに拠点をつくった。こうして、世界的な大循環交通路ができあがり、国際交易がにぎわった。玄宗は国境の警備と貿易の保護に力をいれた。
 だが、繁栄は弊害も生んだ。「玄宗と楊貴妃との逸楽生活は、官僚、軍隊の紀綱を解体せしめた」と、宮崎は記している。そこに異民族色の強い河北の軍閥、安禄山と史思明が立ち上がり、叛乱をおこした(755年)。
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[楊貴妃。ウィキペディア]
 玄宗は蜀に逃れ、その子の粛宗は、いわゆる安史の乱の鎮圧に5年を費やした。その後、唐はすっかり変わってしまう。中央政府の権力は次第に衰えていった。
 それでもまだ統一は保たれていた。新たな税制が導入されたためである。粛宗は財政を確たるものにするため、塩の専売法を実施した。塩だけではない。酒や茶、鉱物、川渡しにいたるまで、あらゆる物品に税がかけられるようになった。
 粛宗のあと、代宗から徳宗の時代になると、均田法が廃止される。農民は土地所有を認められ、従来の租庸調に代わって、春と秋に銭で税を納めることになった。しかし、多くの農民は実際には現金収入を持たないため、絹と穀物で納税することも認められていた。
 宮崎はこう書いている。

〈安禄山の乱後、唐王朝は最早や統一国家ではなくなり、河北を始めとし、各地に軍閥勢力が割拠して、半独立の状態にあった。併(しか)し長安を都とする唐王朝は大運河の沿線を確保することによって、財政国家に変身してその命脈を保持することができた。〉

 しかし、唐でも後漢末期と同じ症状があらわれてくる。すなわち官僚の党争と宦官の専横である。何代にもわたり宮中でくり返される勢力争いは、とても細かくは紹介しきれない。そして、いつのまにか宦官が実権を握るようになった。
「併し朝廷で大臣が派閥争いし、宮中では宦官が天子を愚弄し、天子は自暴自棄となって奢侈宴楽に耽っている間に、社会には天地を驚動するような大事件が進展しつつあった」と宮崎は書く。
 すなわち、黄巣の乱が勃発するのである(875年)。
 政府が塩を専売とすると、闇商売がはやり、それを政府が取り締まると、闇商人は秘密結社を組織して対抗するという循環が生まれていた。
 山東省と河南省のの省境に近い黄河のほとりで活動していた黄巣も、そんな私塩の密売に従事していた一人だった。
 王仙芝につづき、黄巣は兵を集めて乱をおこし、秘密結社間の情報網を利用して、官軍を撃破した。黄巣の軍は長江を渡り、広州を落とし、ふたたび南北を往復して、都の長安を占領した。
 天子の僖宗は蜀に逃げ、そこで軍閥の李克用に助けを求め、賊軍から降った朱全忠とともに黄巣を追いつめ、これを殺した。
 その後、李克用と朱全忠は争い、朱全忠が中原を制する。孤立無援となった唐王朝はまもなく滅び、朱全忠が後梁の太祖となった(907年)。
 それから宋によってふたたび中国が統一されるまでを五代十国時代という。
 後梁の範囲は黄河沿岸の華北中原地帯に限られていた。それ以外の地域では、黄巣の乱から生まれた軍人集団が、それぞれ独立政権を樹立するようになった。
 浙江省一帯では呉越、その領土をおおうように江蘇、安徽、江西の南唐(呉国)、湖南省方面には楚、福建省には閩(びん)、広東省には南漢、このほか四川省には蜀、長江中流の荊州には荊南などが乱立した。
 そして、中原では、権力争いにより、後梁をはじめ五代にわたる王朝が継起した。すなわち後唐、後晋、後漢、後周である。このかん、都は汴州(べんしゅう)、すなわち開封と洛陽のあいだをいったりきたりしていた。
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[五代十国時代。「世界の歴史まっぷ」から]
 五代十国は分裂を重ねた末に統一に向かう。
 このころ北方では契丹帝国が勃興しつつあった。太祖、耶律阿保機(やりつあぼき)が渤海を滅ぼし、内外モンゴルをあわせて、アジアにおける最大の軍事国家を築いていた。
 契丹帝国は一時、中国内地に攻め入るが、内地を支配するにはいたらず、北方に引き返した。
 五代では最後の王朝、後周が誕生する。後周の太祖(郭威)は軍隊を中央に直属させ、禁軍を強化した。2代目の世宗は、後漢の残存勢力である北漢の侵入を阻止し、この戦いで功を挙げた将軍、趙匡胤(ちょうきょういん)を重用した。
 その後、後周の世宗は淮南の地に向かい、南唐を支配下においた。これによって南方の諸政権が崩壊するのは時間の問題となった。
 だが、後周の世宗は在位わずか6年で病死する。そのあと、兵乱がおこり、趙匡胤がそれを収拾して、宋の太祖として即位する。
 こうして、宋の建国により中国はまた統一された。ここから近世がはじまるというのが、宮崎説である。

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中世史(1)──宮崎市定『中国史』を読む(5) [歴史]

 220年、曹操の子、曹丕(そうひ)は漢の献帝に迫って、帝位を禅譲せしめ、魏の文帝となった。事実上の王位簒奪だった。
 これにたいし、蜀の劉備はみずからの正統性を主張して成都で帝位につき、つづいて呉の孫権が天子の位についた。こうして中国には一時、3皇帝が出現した。
 のちに司馬光は魏を正統とし、朱子は蜀こそが正統だとした。しかし劉備が漢の一族だというのは疑わしく、歴史学の立場では司馬光のほうが筋がとおっている、と宮崎はいう。
 三国時代以降は、中世の特徴が顕著になってきた。
 経済は停滞した。黄金が流出し、貨幣量が不足したため、布帛や穀物が貨幣代わりとなった。商業は衰え、農業の重要性が見直される。
 この時代には荘園が発達した。荘園で働く賎民は、唐にいたって部曲と総称されるようになる。
「部曲なるものの代表的な性質は、飢饉などの際に捨て児となり、主人に拾い育てられた者で、その恩義があるから主人の許を離れられない下僕のことであった」と宮崎はいう。
 後漢末は、各地に戦乱が勃発し、飢餓にさらされた窮民が増大した。
 そんな時代に、曹操は常時戒厳令をしいて天下を治めようとした。軍による統制が優先され、官尊民卑の風潮が濃厚になった。
 漢から三国に移るさいには、大きな社会変動がみられた。農民は城壁をめぐらせた郷や亭を離れて、耕地と一体となった村落で暮らすようになった。そして、その周辺には、ちいさな要塞がつくられた。
 都市もまた変わった。農民は都市から締めだされ、都市はもっぱら官吏、軍隊、商工業者の居住する場所となった。
 軍は膨張しつづけたが、そのなかには異民族出身者が数多く混じっていた。こうした軍隊を維持するために、魏は屯田をおこない、大規模な耕地を造成した。
 屯田は政府の荘園にほかならなかった、と宮崎は書いている。兵は戦うだけではなく、みずからを養うため耕作にも従事したのである。
 曹操はこのあやうい綱渡りを、戒厳令を発することで持続させようとした。
 三国のなかでは、魏がもっとも勢力が強かった。魏、呉、蜀の実力は6対2対1くらいか、と宮崎はみている。劣勢にたつ呉と蜀は攻守同盟を結び、魏と対抗した。だが、次第に魏の優位が顕著になってくる。
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[三国時代の地図]
 蜀は劉備の子、劉禅の時代に魏に降った(263年)。そのころ、魏を牛耳っていたのは将軍司馬懿(しばい)の息子、司馬昭だった。曹操から5代目にあたる魏王は司馬昭を倒そうとしてクーデターを起こすが、逆に殺され、5年後、魏は滅亡する。
 司馬昭の子、司馬炎が晋王朝を創建し、武帝となった(265年)。
 晋は280年に呉を滅ぼし、天下をふたたび統一した。しかし、その前途には大きな困難が待ち受けていた。
 モンゴル系の匈奴、チベット系の羌(きょう)や氐(てい)、モンゴル系ともトルコ系ともいわれる鮮卑(せんぴ)などの遊牧民族のなかから内地に住む者が多くなり、漢民族と摩擦をおこすようになっていた。
 それ以上に問題だったのは、王族内部の内訌である。武帝の死後、「八王の乱」が発生する。
「武帝が王室を強化しようとして一族諸王を封建して、これに兵権を授けた結果は、みじめな失敗に終った」と宮崎は書いている。
 政権を取るまで結束していた司馬氏の一族が政権を取った途端に、反目し憎悪しあうようになった。加えて、宮廷では、貴族化と奢侈化が進行していた。
武帝の子、恵帝が東海王の越によって殺されると、内地の匈奴、氐、鮮卑が叛乱を起こし、収拾がつかなくなった。
 東海王の越は匈奴(漢を称していた)の討伐に向かうが、陣中で病死する。すると、匈奴の武将、石勒(せきろく)が洛陽を落とし、晋の懐帝を捕らえて、死に処した。それからまもなく長安が陥落し、西晋は滅亡する(316年)。
 いっぽう、晋の一族で瑯邪王(ろうじゃおう[瑯邪は現在の山東省から江蘇省にかけての郡])の司馬睿(しばえい)は、華北に見切りをつけ、呉の旧都、建業[現南京]で自立をはかり、長安陥落後、天子の座についた。東晋の元帝である(318年)。
 淮水(わいすい[現在では淮河と呼ばれる])と揚子江(長江)は、北方からの侵入軍を防ぐ天険の役割を果たした。そのため、東晋政権は立ち直りの時間を稼ぐことができた。北方では五胡と呼ばれる異民族が覇権を争いながら、収奪と虐殺をくり返していた。
 南北朝時代がはじまろうとしている。
 華北では後秦と後燕が盛んだったが、やがて鮮卑族拓跋(たくばつ)氏の北魏が長城の南に建国し、軍事的な成功を収めていく。その都は最初、平城(現大同)に置かれた。
 439年、黄河一帯の中原を統一した北魏は、敦煌にいたるまでの国々を平定した。「北魏が覇を制するに至った原因は、長城外に同じ遊牧民族の集団があり、そこから絶えず人員馬匹の補給を受ける便があったためである」と、宮崎はいう。
 だが、鮮卑族が内地に移住すると、こんどは北方に新民族、柔然が勢力を増し、北魏はその脅威にさらされるようになった。493年に北魏の孝文帝は、都を洛陽に移した。その後、北魏は急速に中国風文化を取り入れたため、本来の素朴剛健な気風を失っていくことになる。
 江南では東晋王朝が衰亡に向かいつつあった。宮崎によれば、「東晋はもともと西晋王家の一派が華北から官僚、軍隊を引率して、江南の新天地に流れこみ、いつかは中原の失地を恢復することを理想として、一時的に住みついたものである」。
 したがって、南の人びとから不満が出るのはとうぜんだった。それを東晋の朝廷は無視する。やがて不満が爆発し、それを押さえるために軍人が台頭した。
 そうした軍人のひとりが劉裕だった。劉裕の関心は、東晋王朝を簒奪して、新王朝を建てることにあった。そこで、東晋の安帝を殺し、恭帝をいったん位につけてから、禅譲によって帝位を譲り受けるかたちをとった。
 こうして420年に宋の武帝が登場する。その3年後、華北では、北魏の太武帝が即位した。
 北の北魏と南の宋が並立する時代になったのだ。そのため、この時代を南北朝時代という。
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[南北朝時代。「世界の歴史まっぷ」から]
 581年に隋が成立するまでの南北朝時代の歴史は複雑である。
 宋の武帝は土断(戸籍調査)を実施したものの、北部出身の貴族たちには手をつけることがなかった。その代わり、武帝は政治的な決定を側近のみ(中書と呼ばれる)とおこない、貴族を骨抜きにするよう努めた。中書には、優れた才能をもちながら家柄の低い寒士が選ばれた。
 秘密側近政治の欠陥は、ブレーキがきかず武断におちいりやすいことだ、と宮崎は指摘する。とくに昏愚な天子が位についたときは、宮中が暴威にさらされやすかった。そのせいか、宋は治世60年にして、その大臣、蕭道成(しょうどうせい)によって滅ぼされることになる(479年)。
 そのあと斉が建国されるが、斉も502年に滅んだ。
「斉王朝もまた前代の宋と同じ失敗の跡を辿ったわけで、天子が平気で大臣を殺し、一族がまた互いに殺しあい、最後に大臣が天子を廃して殺す結果になる」と、宮崎は解説する。
 斉を倒した蕭衍(しょうえん)が梁の武帝となった。在位48年におよぶ治世の前半は、血なまぐさい南北朝時代でも、もっとも平和な時代だったといわれる。しかし、仏教に心酔した晩年は、政治的な決断力がにぶり、国家を荒廃におとしいれ、みずからも非命に倒れることになる。
 華北の北魏では、孝文帝のもと洛陽を中心に中国文化が復活していた。北魏は鮮卑族の王朝である。その上層部が貴族化すると、軍人たちは不満をいだくようになった。
 孝文帝の孫、明帝の時代に叛乱が勃発する。宮中は乱れに乱れ、うまく対処できない。叛乱を鎮圧しようとして、豪族が立ち上がるが、そのあとも混乱がつづいた。
 そうしたなか勢力を強めたのが、高歓と宇文泰だった。両者はそれぞれ魏王を立てたため、これによって北魏は分裂し、東魏と西魏とわかれた。だが、名目的な王朝はけっきょく滅んで、北斉(550年)と北周(557年)に衣替えすることになる。
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[東魏、西魏、梁の時代。ウィキペディアより]
 そこに登場するのが、侯景という人物である。侯景の乱が発生する。それによって、中国は南北ともに、さらに分裂状態となり、何が何だかわからなくなってくる。
 もともと侯景は軍功により、東魏の高歓から河南13州をまかされていた。高歓の死後、その跡継ぎ、高澄が兵を出して、侯景を攻めた。侯景は西魏に救いを求めた。だが、西魏は動かなかった。同時に、侯景は梁に服属したいと、梁の武帝にも働きかけていた。
 東魏との戦いに敗れると、侯景は部隊とともに梁に逃げこんだ。しかし、梁に帰順したわけではなかった。長江を渡って、梁の都、建康(現南京)を攻め、86歳の武帝を幽閉し、餓死させたのである(549年)。
 侯景の粗暴な振る舞いに江南人は怒り、立ち上がって、侯景を殺した。この戦いにより建康は焼け野原になってしまう。そのため、梁の元帝は都を湖北の江陵に移した。
 そのころ、東魏では高澄が暗殺されて、弟の高洋が魏帝を廃し、北斉の文宣帝となった。北斉は梁の混乱に乗じて南下し、淮南[淮河の南]の地を占拠した。
 これをみた西魏も黙っていない。丞相の宇文泰は梁の新都、江陵を攻め、梁の元帝を殺した(554年)。そのあと、梁の国名は名目だけとなり、領土の半分は西魏に奪われた。
 ところが、梁の旧都、建康では梁の将軍、陳覇先が元帝の息子をいったん帝位に就け、その位を譲らせて、陳を創始する(武帝、557年)。
 同じ年、宇文泰の息子、宇文覚は魏王から禅譲されて、北周を建国した。
 こうして、北斉、北周、陳の時代がはじまる。
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[北斉、北周、陳。ウィキペディアより]
 その後、北斉では異常性格の暴虐な帝が続出した。北斉の国政の乱れに乗じて、北周の武帝が北斉の都を落としたのは577年のことである。
 だが、華北を統一したのもつかのま、武帝の死後3年にして、北周は外戚の楊堅によって乗っ取られる。楊堅は幼帝を廃し、隋を建国し、文帝となった(581年)。
 文帝はまず江陵の後梁を取り潰してから、陸路、水路にわかれて、陳の都、建康を攻略し、陳を滅ぼした(589年)。これにより、南北に分断されていた中国がようやく最統一されることになる。
 だが、一時の統一はあっても、中世の分裂的傾向は収まらなかった、と宮崎は論じている。このつづきは次回。
 それにしても、三国時代から南北朝時代にかけては、ものすごい時代だと思わないわけにはいかない。
 一瞬の油断もならない血みどろの時代だ。しかも、ややこしい。
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古代史(2)──宮崎市定『中国史』を読む(4) [歴史]

 秦の始皇帝の父、荘襄王(そうじょうおう)は若いとき趙の人質になっていた。そのころ大商人の呂不韋(りょふい)と知り合い、カネを秦の朝廷にばらまいて、王位につくことができた。
 しかし、荘襄王の在位は短く、13歳の始皇帝が即位し、呂不韋は宰相となった。だが、始皇帝の10年に内乱があり、呂不韋は罷免され、李斯(りし)が重んじられるようになる。
 始皇帝は戦国の列強6国を次々と滅ぼし、即位26年目にして、天下を統一した(前221年)。最初に滅んだのは韓で、つぎに尚武の国、趙、最先進国の魏、南方の楚、東方の燕、斉が滅亡した。
 天下を統一すると、始皇帝は矢継ぎ早に重要な詔を発した。これにより、二千年以上にわたる皇帝制度が開始される。
 始皇帝は新領土を郡と県に分け、そこに中央直属の官を派遣するとともに、地方を巡狩(じゅんしゅ)し、道路を整備している。
 始皇帝は北方では匈奴を撃ち、万里の長城を築いた。同時に、越人の土地を征服し、南海、桂林、象郡(しょうぐん)の三郡を置いた。南海と桂林は現在の福建、広東、広西の各省、象郡はベトナムのハノイあたりとされる。
 始皇帝はこの空前の領土を支配するため、画一化政策を強行した。度量衡や書体だけではなく、馬車の幅まで統一している。封建制は廃止され、郡県制のもと、20級の爵からなる新たな階級制が導入された。
 爵をもたない庶民は黔首(けんしゅ)と名づけられ、その下に多くの奴隷がいた。商人は徹底して管理された。
 専制君主、始皇帝の暴政では、焚書坑儒が有名である。しかし、その目的は民間での私学を禁じ、法家の学を学ばせることにあって、儒者がむやみに殺害されたわけではないという。
 前210年、巡狩の途中で始皇帝は急死する。すると、国はたちまち混乱におちいり、地方の不満も爆発して、4年後に秦は滅んだ。
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[秦の武人。陳舜臣『中国の歴史』第3巻カバーから。平山郁夫]
 旧勢力をまとめ、合従の盟主となったのが楚の項羽である。だが、秦の都、咸陽を先に落としたのは、中流農民の子、劉邦だった。前206年、項羽は劉邦を漢王に封じた。だが、やがて両者の戦いがおこり、劉邦が勝利して、漢王朝の皇帝、高祖となる(前202年)。
 漢王朝は前漢と後漢に分かれる。紀元8年、14代目の孺子嬰(じゅしえい)のとき、王莽により王位を簒奪され、前漢は滅ぶ。だが、王莽の新はすぐに途絶え、25年に劉秀が後漢を立て、光武帝となった。
 秦の暴政と漢楚の戦いが終わったあと、中国は疲弊していた。そのため、漢の政府は、何よりも時局の安定を優先した。戦争による人口の減少と生産設備の破壊は経済上の大打撃にちがいなかった。だが、災禍がすぎてしまうと、それから後の発展は容易だった、と宮崎は書いている。
 高祖は政治の安定をはかるために、封建と郡県とを混ぜ合わせる姑息な手段をとった。諸将に領土を与えて王とすると同時に、機を見計らって取り潰しをはかることによって事実上の直轄地を増やし、そこに親族を配置していった。
 最大の外敵はモンゴル系の匈奴だった。前漢初期、匈奴は冒頓(ボクトツ)があらわれ、遊牧帝国を築いていた。高祖は匈奴との戦いに敗れ、毎年、多くの金帛を贈ることで平和を保った。
 高祖は在位12年目で亡くなり、子の恵帝が即位する。だが、権力を握っていたのは実母の呂太后である。恵帝が在位7年、24歳で亡くなると、その子が天子となり、呂太后が正式に摂政となった。
 呂太后が病死すると、高祖の同郷グループがクーデターをおこし、呂氏一族を誅滅し、恵帝の弟、文帝を位につかせた。文帝の治世23年は泰平無事のうちにすぎ、宮中の生活もきわめて質素だった。
 問題がなかったわけではない。ひとつは封建諸王の勢力が強く、ややもすれば中央から離反しがちなことだった。実際、次の景帝のときには、呉楚七国の乱が勃発した。匈奴による侵攻も多く、漢はこれを防御することに追われた。さらに貧富の格差や奢侈の傾向も進んでいた。
 呉楚七国の乱は平定され、漢の地盤はかえって強固なものとなった。景帝を継いだ武帝は在位54年を数え、漢を全盛に導いた。
 儒教が次第に学問の正統と認められるようになったのも武帝の時代である。このころ年号が制定され、暦がつくられた。
 武帝は匈奴との戦いにも乗り出した。側近のなかから衛青、霍去病(かくきょへい)、李広利などを将軍に任じ、匈奴を打たせた。戦いは長引いたが、大打撃を受けた匈奴はゴビ砂漠の向こうに退いた。
 武帝はさらに南越を征し、朝鮮を滅ぼした。西方の大がかりな遠征にも乗りだし、張騫(ちょうけん)を使節として遣わしている。張騫は大月氏(だいげっし)の国都(現在のサマルカンド付近)にまで出向いた。
 武帝は万里の長城の西端を北に押し上げ、その南に酒泉、武威の2郡を設け、大砂漠への出口となる敦煌に至るまでの道を保護させている。
 西の方、現在のフェルガナ地方(現ウズベキスタン東部)に大宛国があり、そこが名馬の産地であることも知った。武帝は軍を送り、三千匹以上の馬を連れ帰らせている。
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[前漢時代の地図。「世界歴史まっぷ」から]
 大規模な東西交易がはじまっていた。
 宮崎はこう書いている。

〈中国が西アジアから求めたものは宝石、珊瑚、ガラス、香料などであり、加工品、工芸品が多かった。これに対し中国から輸出するには黄金と絹を主とした。絹は中国の特産品であり、黄金の価値は東方の中国において低く、西へ行くほど高かったからである。〉

 黄金の流出は、やがて貨幣量の減少という重要な影響をもたらす。

 度重なる戦争は国庫に大きな負担をもたらした。いっぽう、資本家は戦争でうるおい、とりわけ武器製造業者は巨利を博していた。そこで政府は塩と鉄を専売とし、そこから利益をあげようとした。だが、なかなかうまくいかない。品質の悪いものが流通し、苦情が増えるばかりだった。
 それでも政府はあらゆる手段を用いて、税の増収をはかった。
 金に加えて銀を貨幣とすることもこの時代からはじまっている。武帝はさらに銅銭の形状を統一し、青銅の五銖銭を鋳造した。
 この時代、多くの成金長者が生まれた。だが、好景気はいつまでもつづかなかった。
 武帝の長い治世が終わると昭帝が後を継ぎ、民力の休養をはかった。宣帝は朝廷で威をふるう霍氏一族を排除し、地方官のなかから成績のよい者を抜擢して、中央の大臣に登用した。しかし、宣帝が在位25年で死ぬと、そのあとは凡庸な君主がつづき、またも外戚が権力をほしいままにするようになった。
 宣帝の子、元帝は在位16年で死に、子、成帝の時代になると、朝廷の様子ががらりと変わった。淫乱で酒飲みの成帝は政治に興味がなく、母の王氏一族に政治を任せきりとなる。その一人が王莽だった。
 成帝が死ぬと、哀帝、平帝と、年若い天子が帝位をつぐ。大臣の王莽が政治の衝にあたるようになるのは、自然の成り行きだった。王莽はやがて帝位を簒奪するにいたる。紀元8年のことである。
 王莽に協力したのは、若いころにともに学んだ同学のグループだったという。かれらは儒教の再生という理想に燃えていた。
 王莽は官僚が堕落し、貧富の格差が広がり、貧民が塗炭の苦しみを味わっているこの社会を立てなおすには、古代聖王の政治を復活させるほかないと考えていた。
 王莽は国号をあらため新とし、次々と政令を発布した。だが、何もかもうまくいかない。匈奴との関係もおかしくなる。そして、四方に叛乱が発生するなか、都の長安にはいった劉玄の軍によって殺される。
新はわずか15年で滅んだ。

 王莽の末期には、多くの劉氏が立ち上がった。劉氏の末裔を名乗ることが、蜂起の名目としても好都合だったという。混沌とした戦いの末、最後は劉秀が中原一帯をおさえ、紀元25年に漢の皇帝を名乗った。後漢の光武帝である。都は長安から洛陽に移された。
 在位31年のあいだ、光武帝は北方の匈奴と争わず、西域も放棄して、もっぱら民力の回復にあたった。
 次の明帝、章帝、和帝のころから、対外政策がふたたび活発になる。西域の攻略にもっとも貢献したのは班超である。「西域にあること三十年、その間に西域五十余国を漢に朝貢せしめた」という。班超はシリアにまで使者を派遣した。
 このころ、ふたたび東西交通がさかんになった。
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[シルクロード。『中国の歴史』より]
 匈奴は南と北に分裂した。後漢は南匈奴と連合して北匈奴を攻め、北匈奴を西方に敗走させた。宮崎によると、ローマ帝国末期にヨーロッパに侵入するフン族は、この北匈奴の末裔にほかならないという。
 後漢に衰退のきざしが見えはじめるのは、6代目の安帝(在位106〜125)のころからである。外戚の専権がはじまり、宦官が勢力をふるうようになっていた。官位も売られるようになり、品質の悪い金持ちと中央の宦臣が結びつく構造が生まれていた。
 中央と地方の分裂もはじまった。
 このころ地方では荘園が発達する。
 荘園について、宮崎はこう書いている。

〈原来(がんらい)人民の耕地は牆壁(しょうへき)を廻らした亭[部落のこと]の外側にほぼ拡がっているものであるが、その郊外には原野が横たわっていることが多い。富人等は既墾の耕地を買い漁るだけで満足せず、未墾の原野を開拓して、此処を自己の別荘としだした。……単に別館があるばかりでなく、周囲に山林、原野、池沼、耕地が付属して、多種多様の産物があり、それだけで自給自足できる囲いこみ地である。その労働力には貧民を招き、半ば奴隷的に使役するのであった。〉

 この風習は前漢時代にはじまり、後漢時代にさかんになった。荘園には政府の力がおよばないから、従来の郷や亭に残された人民のうえに租税負担が重くのしかかってくる。本籍を捨て、荘園に逃げこむ流民も増え、部曲となった。
 そこに太平道という道教の運動が登場する。
太平道をおこしたのは、鉅鹿(きょろく)の張角という者だった。符水の呪により、医薬を用いないでも病気を治せると唱えて、数十万の信者を集めた。
 最初は単なる民間の相互扶助団体だったが、それが当時の反政府気運にあおられて、革命運動に転化し、紀元184年に一斉蜂起した。
 いっぽう、益州[現在の四川盆地と漢中盆地]でも、張魯による五斗米道がはやりはじめていた。米を五斗だせば入会できたので、五斗米道という名前がついたという。
 五斗米道も太平道と同じく、病気治療と旅の便宜をはかる相互扶助団体である。一時は漢中に宗教王国を築くことになる。
 蜂起した張角の太平道の信徒は、黄巾をつけていたので、黄巾賊と呼ばれた。政府は正規軍をくりだして、この黄巾の乱の鎮圧にあたった。
 黄巾の乱はまもなく平定される。しかし、このとき義勇軍を組織した新興勢力のなかから、新たな英雄があらわれ、覇を争うようになる。
 後漢の朝廷では、霊帝のあと、14歳の息子、弁が即位する。だが、宦官勢力に取りこまれてしまったため、司隷校尉[いわば都知事]の袁紹(えんしょう)が兵を率いて宮中にはいり、宦官を排除した。
 だが、袁紹に政治力はない。そこに将軍の董卓(とうたく)が大軍を擁して、朝廷に乗りこみ、少年天子を廃して、その弟で9歳になる献帝を位につけた。
 都を逃れた袁紹は諸将を糾合し、洛陽の董卓を攻めた。董卓は洛陽を捨てて、献帝をつれて長安に逃げ、長安で病死した(殺害説もある)。
 その後、天下は四分五裂状態となる。そこに台頭してくるのが曹操だった。曹操は黄河流域を平定し、献帝から魏王に封ぜられ、河南省の許に都を置いた。だが、揚子江の上流、蜀には劉備、下流の呉には孫権がいた。三国時代が幕を開ける。

〈従来の中国の大勢は、分散から統一へと進む動きが主潮であったが、これから以後の中国は分裂的傾向が強く現われ、時に統一が出現しても忽ち分裂の波に捲きこまれる。明らかに世の中が変ってきたことが分る。〉

 そう宮崎は書いている。

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古代史(1)──宮崎市定『中国史』を読む(3) [歴史]

 古代史でむずかしいのは、史実を確定することだ、と宮崎は書いている。伝説はあるが、それを史実とするわけにはいかない。
 最初の王朝とされる夏王朝が実在したかどうかもわからない。その都は、現在の山西省西南端、安邑にあったとされる。ここには塩池があり、塩がつくられていたから、繁栄する都市国家があったとしてもおかしくないのだが、と論じるにとどめている。
 殷からは実在の王朝だ。その都、商邑は現在の安陽市[河南省北部]付近にあった。
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[殷墟。陳舜臣『中国の歴史』から]
 この時代の資料として甲骨文字がある。だが、はたしてどこまで歴史資料として扱えるかは疑わしい。殷代には青銅器の武器や容器もつくられていた。その源は西アジアにある、と宮崎はいう。
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[甲骨文字。同]
 殷周革命があったのは、おそらく事実である。
 殷の28代目、紂(ちゅう)王は、妲己(だっき)を寵愛するあまりに、国がみだれたとされる。そのため、周の武王は商邑を落とし、紂を殺した。それ以降、周の時代がはじまった。
 紂の説話はあとからつくられた物語だ、と宮崎はみる。おそらく事実は、西方におこった周が、異民族の圧迫を受けて、東の平野に押し出され、先進国の殷を滅ぼしたのだ。宮崎によれば、それは紀元前770年ごろのことである。
 武王は殷を滅ぼしたあと、弟の周公を魯に、召公を燕に封じて、東と北の国境を守らせ、さらに弟の康叔を衛に、子の成王の弟、唐叔を唐に封じたとされる。封建のはじまりである。
 しかし、宮崎はこの系図を疑う。当時の同盟関係を親戚関係としてあらわしたものではないかという。
 春秋時代以前のことは、はっきりとはわからない。史実が描かれるのは、魯の隠公の元年(前722)以降だという。
 このころ都市国家は王のもと、軍と宰相を有し、官僚を整え、庶民、奴隷(戦争捕虜)を従えていた。
 国家の人材の教育にあたったのが孔子である。孔子がもっとも重視したのが礼にほかならない。礼とは、元来神を祭る儀式を意味した。それが、次第に交際上の作法や有職故実の実践学にまで拡張されていく。
 孔子は詩と書も重視した。さらに実用の学に加えて、人生の理想を説いた。
 宮崎は、孔子がもっとも力説したのは忠よりも、むしろ信だと論じる。 だが、孔子は後世、権力者たちによって都合よく解釈され、利用されてきたのだという。
「いわゆる春秋時代の初めには、河南省を中心とした黄河の平野一帯、いわゆる中原の地に、数十の有力な都市国家が並立していた」と、宮崎は記している。
 このころ洛邑の周はすでに力を失っていた。魯は一時、強大だったが、次第に力を失い、それに代わって、北方の斉が桓公の時代に勢いを増した。ついで、晋の文公、楚の荘王、呉の夫差、越の勾践が覇を唱えた。これを春秋五覇という。
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[春秋時代の地図。「世界の歴史まっぷ」から]
 春秋の五覇は、いずれも周とは民族を異にしていた、と宮崎は書いている。新興国の斉は塩の製造によって強大となった。晋は北方の遊牧民族から家畜を移入し、それを転売することで富を築いた。楚はインドシナのモン族の系統、呉と越はともに海洋民族だったという。
 春秋時代においては、かつて中原に存在した都市国家文化が、異民族の五覇によって領土国家へとのみこまれていった、と宮崎は論じる。

 戦国時代のはじまりは、当時の強国、晋が韓・魏・趙に分裂した前403年とされる。孔子による『春秋』の年代記は前481年に終わるから、そのかん、記録に空白がある。いずれにせよ、戦国時代は秦の始皇帝が中国を統一する前221年までつづいた。
 晋が強国だったのは、塩池をもち、北方に牧畜に適する原野を控え、南方に武器製造所をもっていたからである。その常備軍は次第に王室のもとを離れ、世襲の将軍のもとに帰するようになり、そこから、晋はそれぞれの将軍の名をもつ韓・魏・趙の3つに分裂した。
 斉は大臣が権力を奪い、軍事国家に変身した。南方では楚が呉越の2国を併合した。そこに西方の秦が登場する(現在の陝西省)。さらに、北方の燕が勢力を強めた。
これが戦国七雄である。
 どの国の王も専制君主であり、常備軍を擁していた。戦国時代、かつての都市国家は独立性を失い、領土国家に包摂された。そこに国境という観念が生じ、境界線に長城が築かれることになる。
 領土内では、さまざまな分化が生じる。都と市が区別される。都は軍隊と官僚をかかえ、農民も住んでいる。農民は郊外の畑で生鮮食料をつくる仕事をし、穀物は領土内の各地から運ばれていた。必要な物資を集めて売る商人もいた。
 商人がいたのは都だけではない。大きな都市には交易のための商業区域があり、政府から許可を得た商人が売買に従事していた。商人は賤業とみなされた。だが、その背後には大資本家がいて、大きな富を築いていた。
 宮崎によれば、春秋時代はまだ自然経済の状態で、穀物や絹帛(けんぱく)[絹の布]が貨幣代わりに用いられていたという。

〈黄金及び青銅貨が盛んに用いられるようになるのは戦国時代であり、燕・魏の地方では刀とよばれる小刀形の青銅貨が、趙・魏の地方では布とよばれる鍬先形の青銅貨が鋳造使用された。これらは少額の取引に用いられるもので、巨額の決済には黄金が用いられた。〉

 商人は黄金を求めて、隊商をつくり、未開民族のあいだに進入していった。豊富な黄金は中国に好景気をもたらした。
 大都会の市でおこなわれていたのは、単なる売買だけではない。ここでは酒や食物も売られ、交際・娯楽の場としてもにぎわっていた。
 宮崎にいわせれば、中国古代の市はさながら古代ギリシアのアゴラ、ローマのフォルムに比すべきものだった。ただ、政治的談論の場でなかった点が異なっていた。
 戦国時代は政治の裏づけとなる理論が求められるようになり、諸子百家と呼ばれる学者たちが登場した時代でもある。
 墨子は夏の禹王を理想の聖人とあがめ、自他を区別せぬ兼愛を説いた。戦争は防戦の場合にのみ認められるべきであり、すべての人民が平和に生存することを鬼神[祖先と天地の霊]も願っていると論じた。
 儒家の孟子は墨子に反撃し、儒教こそ徳を重んじる堯舜の道だと論じた。兼愛は親に孝を尽くす自然の愛情にそむくものだとも批判した。
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[孟子。ウィキペディアより]
 老子は若い孔子に教えを垂れたとされるが、宮崎は老子は孟子よりもあとの思想だと判断する。その思想は個人主義だが、楊朱のような快楽主義ではなく、快楽を超越すべきことを説く。儒教のいう礼節を超越して、精神の自由を獲得することを理想とした。
 兵家としては、孫子、呉子が登場した。
 荀子は同じ儒家でも孟子の性善説にたいし性悪説を唱えた。悪行におちいりやすい人間が誤りない道を歩むには、礼制を学ぶほかないというわけである。その学説をまとめたのが『礼記』であり、そのうちの一篇が『中庸』だった。
 礼は強制力をもたない。それなら礼に背いた者を罰したほうが有効だという考えが生まれた。それを唱えたのが、李斯や韓非子のような法家である。

「太古に万国あったと称せられる独立の邑が、春秋時代に入って数十の都市国家の並立となり、それが戦国に入るといわゆる七雄に整理されてしまったが、これは戦争による弱肉強食の結果、強者が勝ち残った結果に外ならない」と、宮崎は書いている。
 最後に一国が勝利し、天下が統一されるまで進むのが、事の成り行きだった。
 戦国のはじめ、もっとも富強を誇っていたのは魏である。しかし、魏は周囲を敵国に囲まれており、周辺諸国と戦ううちに、勢力を弱めていった。
 その隙をぬって台頭した秦が魏の塩池を狙っていた。それを防ぐために他の6国は合従(がっしょう)した。いっぽう、この同盟を分断するために、秦は連衡(れんこう)策をとった。合従連衡の外交的駆け引きがくり広げられた。
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[戦国時代の地図。「世界の歴史まっぷ」から]
 戦国の状況を一変させたのは、鉄器と騎馬だ、と宮崎が書いている。鋭い兵器と機動力が敵に殲滅的な打撃を与えたのである。
 騎馬戦術が東アジアの遊牧民族のあいだに流行するようになったのは、旧来の騎馬戦術に磨きをかけたアレクサンドロス大王による東征の影響が大きいという宮崎説は、なかなかユニークである。
 戦国時代の終わり、秦は趙から騎馬戦術を盗み取り、それを最大限に活用した。前286年に魏から旧都安邑と塩池を奪い取ると、秦の国力はますます強大になっていった。
 秦の昭襄王は前251年に亡くなり、孝文王、荘襄王についで、前246年に秦政が即位する。政は在位37年のうちに6国を滅ぼして、前221年に中国を統一、みずから始皇帝と名乗ることになる。
 こうして、皇帝政治がはじまる。

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宮崎市定『中国史』を読む(2) [歴史]

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 中国の中世についての概説。
(2)中世=三国時代から五代末まで
 というのが、宮崎による時代区分である。すなわち紀元220年から960年までで、このなかには隋(581〜618)や唐(618〜907)の時代も含まれている。
 中国の中世においては、古代に発展した貨幣経済が衰退し、自然物経済が復活し、それまで比較的自由だった人間関係が身分制へと後退した。いわば歴史の退行がみられた、と宮崎は書いている。
 漢代には黄金が多かったが、黄金は先進国である西域との交易によって流出し、姿を消してしまう。それにともない、中国は全般に不景気となった。
「中世には中世なりの進歩が行われたとしても、経済的には退化し、悪化した時代」だった。そのため、中世は「古代に比して明るい社会とは決して言えない」というのが、宮崎の見方である。
 この時代の特徴は豪族の荘園が増えることである。それにより、豪族の官僚化、貴族化が進み、差別的な階級社会が成立する。
 地方に豪族が増えることによって、中国は古代の求心力を失って、分裂割拠の傾向が強まってくる。例外は唐王朝である。ただし、約300年の唐時代のうち、統一が保たれていたのは、国初から玄宗の末までの130年にすぎない、と宮崎はいう。
 中国の中世を動かしたのは、皇帝ではなく貴族たちだった。貴族たちの信頼を失えば、帝王もその地位を保つことができなかった。
 中世はまた異民族侵入の時代でもあった。五胡十六国時代しかり、南北朝時代しかり。隋唐は漢人王朝と称するが、異民族化した中国人によって率いられていた。唐の中ごろから、新たな異民族の侵入がはじまる。五代の短命王朝のうち三王朝は異民族系統だった。
 中世の特徴を封建制と言い切るのは、西洋史を普遍化しすぎている、と宮崎はいう。封建制とは諸侯に所領を与え、分治する制度。重点は分治にあり、とうぜん皇帝の権力を前提としている。郡県制の対称にある。西洋のフューダリズムを封建と訳したことから混乱が生じたことを宮崎は指摘しているのだと思われる。ここでは、そのちがいに深入りすることはやめておいたほうがよさそうだ。
 要するに、中国の中世を封建制という概念で説明することを宮崎は避け、むしろ貴族制という言い方を採用している。しかし、貴族制も特に時代性があるわけではない。
「中国中世の貴族は君主制の下にありながら極めて自主性の強かった点に特色がある」。しかし、「中世的な特色は、その封建制、又は貴族制それ自体の中に求むべきではなく、それが原来遠心的であり、分裂割拠な傾向を有する時代であった点に求むべきであった」。
 規定の仕方にもよるが、西洋と中国の「中世」を比較するのは、どだい無理なのかもしれない。ヨーロッパの中世は750年ごろにはじまり、1250年ごろに終わる。これにたいし、宮崎のいう中世は220年から960年までを指す。これを同時代として考察するのは、かなり困難といえる。加えて、現在、歴史学での中世のとらえ方も、めまぐるしく変わりつつある。
 そこで、宮崎は概説では西洋の封建制とはことなる中国の中世的社会の特徴を指摘するにとどめている。
 六朝隋唐に荘や荘園と呼ばれるものが増えたことはたしかである。賎民も存在した。賎民は奴碑と部曲に分かれていた。奴碑が奴隷だとすれば、部曲は農奴のような存在である。奴碑は家族をもつことが認められず、部曲は家族生活を認められるとはいえ、荘園で労働する隷農にはちがいない。
 唐の時代には、朝廷に官位をもつ者は、官位に応じて、広い土地を永世にわたって私有することができた。こうした荘園は部曲によって耕されていた。
 けっきょく、中国の中世はどのような時代だったのか。宮崎はこう書いている。

〈社会の上層部には庶民から隔絶した高貴の家柄を誇る貴族があり、一方下層部には庶民から落伍して賎民扱いを受ける奴碑、部曲があり、特に部曲は三国の頃から現われて唐代に定着するものなので、中国中世は身分制の徹底した時代と称してもよいと思う。〉

 そこに近世の覚醒がはじまる。

(3)近世=北宋から清末まで(960〜19世紀半ば)
 宮崎の規定する中国の近世は、世界史的にみれば、早くはじまり、長くつづくとされるのが特異かもしれない。
 中世の貴族は、唐末から五代にかけて戦乱がつづいたことによって没落する。戦乱によって、貴族制は土台から崩れ去った。代わって登場するのが、近世の士大夫階級だ、と宮崎はいう。
 国家の性格も武力から財政に重点が移る。官僚も武官より文官が重用されるようになった。科挙によって採用された官僚は、まず地方官に任命され、その実力をためされた。天子も安閑とはしておられず、国の運営に心をくだかねばならなかった。
 この時代は、ふたたび流通経済が活発になった。隋代に開発された大運河が南北の大幹線として、一般人民にも開放された。都市は商業都市として発展しはじめる。政府は利益の大きな商品(たとえば塩)を政府の専売品とし、これを扱う商人を特許商人として、高額の益金を政府に納めさせ、それを軍事費にあてていた。
 商業の拡大は経済界に空前の好景気をもたらした。その背景には生産技術の革新があった。石炭は唐末から利用されはじめていたが、そのうちコークスや炭団がつくられるようになった。炭団は都市の厨房や暖炉に、コークスは製鉄に利用された。鉄は農具、工具、武器にとって不可欠な材料だった。銅銭をつくるのにも鉄は必要だったという。
 中国の鉄は、政府の禁令にもかかわらず、海外に輸出された。陶磁器や絹織物は中国の特産品として海外でも珍重された。その見返りとして流入したのが銀塊である。中国において銀塊は次第に貨幣として利用されるようになる。
 経済面だけではない。文化面でも大きな飛躍が見られた。世界の3大発明とされる火薬、羅針盤、活字印刷が普及するのは、宋の時代からである。文学や経学が復活し、絵画、とりわけ風景画が世界の最高水準に達した。中国文化の発展にはイスラム世界が大きく寄与したことを宮崎は強調している。
 モンゴル族が西アジアを征服すると、今度は中国文化が西アジアに流入していく。ヨーロッパ世界は、西アジアのイスラム文化から強い影響を受けてきた。そこには間接的に中国の文化が投影されていた。さらに17、18世紀になると、中国の山水画が直接ヨーロッパに紹介され、それにより西洋風景画が確立した、と宮崎はみる。
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[清明上河図(12世紀)は北宋の都、開封のにぎわいをえがいている]
 だが、中国文化は宋代にほぼ完成の域に達し、それ以後は停滞していく。 北宋の末年、景気は頂点に達し、それ以降、一転して下降に向かった。
 モンゴル族によって、南宋政権は北の金王朝とともに滅び、元王朝が成立する。だが、元は長続きしない。明王朝が成立すると、一時景気は上昇するが、その後、沈滞と回復をくり返し、全体として下降傾向がつづく。そこへ北方から満洲族が侵入すると、明はひとたまりもなく滅亡する。
 清王朝のもとで、中国社会は徐々に経済態勢を立て直し、康煕帝から乾隆帝の時代にかけて、経済は上向きに転じる。だが、その後、アヘンが流入し、銀塊が流出すると、不景気が進行した。生産活動が停滞すると、失業者が増え、治安がみだれ、世上は騒然となった。
 近世は古代を受け継いで統一的傾向が強かった。しかも、その傾向のなかに次第に民族主義的な自覚が生まれてくることが特徴だった、と宮崎は記している。

(4)最近世=中華民国以後
 宮崎によると、最近世とは近代のことだ。すると、近世と近代とはどう異なるのだろう。
 近世において中国はまだ西洋の影響をさほど受けていない。ところが、近代になると、西洋では産業革命がおこり、あらゆる面で、飛躍的な発見や発明が相次いだ。そこで、中国もその影響を受けざるをえなくなってくる。
 その意味で、近代は西洋化の時代にほかならなかった。その起点となったのがアヘン戦争である。中国が西洋化に抵抗したのにたいし、日本は西洋化を受けいれることによって、「中国のように大なる犠牲を払うことなく、世界の大勢に順応することができた」。
 おもしろいのは、宮崎がこう指摘していることである。

〈中国は最近世になって、従来と異なった点は初めて近代的国家の形態を取るに至ったことである。それまでの皇帝制度は、いわゆる国家なるものを超越した世界国家であり、対立する外国の存在を認めず、外国は理念として中国の属国たるべきものであった。対立する外国がないから従って、外国と対立する中国という国家もないはずである。そこに清朝までの中国は、外国との間に国境がなかったという説も唱えられる理由があった。〉

 清朝が倒れたあと、中国は諸外国と同じ性質の近代国家にならざるをえなかった、と宮崎は書いている。
 とはいえ、最近の中国は、なぜか清朝以前の錯覚に逆戻りしているような印象を受けてしまう。
 概説は以上。次回からはいよいよ本編にはいる。まずは古代史だ。

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宮崎市定『中国史』を読む(1) [歴史]

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 いまは岩波文庫にはいっているが、ぼくがもっているのは、出版されたばかりのオリジナル本である。1977〜78年に岩波全書として刊行されたときに買ったのだが、ときどきパラパラめくったものの、以来、ほとんど本棚に眠っていた。これを読まずに死ぬのは惜しい。
 閑人の特権で、ゆっくり読むことにしたい。これとは別に陳舜臣の『中国の歴史』(平凡社版)ももっているから、このさい、あわせ読みして、長年の本棚のほこりを払うとしますか。そう意気込んではみるが、最近は本を読みはじめると、たちまちコックリさんになってしまうのは困ったものである。
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 各篇は「総論」「古代史」「中世史」「近世史」「最近世史」からなる。本書は中国の全体像に挑んだ宮崎史学のダイジェストでもあり、総集編でもあるといえるだろう。
 まず「総論」を読もう。いうまでもなく中国の歴史は長い。その長い歴史を鷲づかみにする方法を最初に示しておかなければ、深い森のなかで、たちまち迷ってしまうことを宮崎も承知している。
 歴史のとらえ方は人さまざまで、事実は変わらないにしても、だれが書いても同じになるわけではない。それでも重要なのは事実である。
 ひとつの事件にも無数の原因があり、事件がおこるまでの長い時間がある。それを見きわめることが、歴史家に課された仕事といえる。
「人類の最古の文明は西アジアのシリア周辺に発生し、それが西に伝わってヨーロッパの文明となり、東に向ってインド、中国の文明になった」と、宮崎史学は出だしからスケールが大きい。その距離を超えるには、めっぽう長い時間を要した。「歴史学とは時に関する研究だと言うことができる」。
 宮崎が強調するのは、歴史学はどこまでも「事実の論理の学問」だということである。抽象語が独り歩きする危険性に注意しなくてはならない。事実と事実をつなげて網の目をつくっていくことこそが歴史学の課題だという宮崎の信念は揺らがなかった。
 専門バカになってはいけない。歴史家は少なくとも、自分が歴史の座標のどのあたりを研究しているかを自覚しておかなくてはならない。そのためには歴史の座標全体を思いえがく必要があると宮崎は考えていた。
 宮崎は歴史のチャートをつくる。空間的には東洋、西アジア、ヨーロッパ、時間的には古代、中世、近世、最近世(現代)のチャートである。地域によって、中世、近世、最近世などのはじまる年代がことなるとするのが、この歴史チャートのユニークなところである。
 詳しくは説明しないが、そのチャートをみれば、たとえばヨーロッパでは産業革命によって最近世が早くはじまったのにたいし、東洋の最近世はヨーロッパより、かなり遅れたことが理解できる。
 日本と中国とでは、時代区分に大きなずれがある。中国が隋唐の中世を迎えていたころ、日本はまだ古代を経験していた。最近世のはじまりは、日本のほうが中国より早い。
 人類のたどったすべての歴史をたどるのは不可能である。世界史に関連すると思われるテーマをみずからが選ぶほかあるまい、と宮崎は書いている。
 めまぐるしく現代世界が動くなかで、古い過去の歴史を整理することに何の意味があるのかという問いにたいしては、「過去を整理しておかなければ、明日の生活に支障を来すことになる」と答えている。
 人生の選択はむずかしいものだが、歴史学でもそれは同じだ。「あまり多くの記憶が頭の中を占領していると思考力が衰える」という考え方がじつにおもしろい。最近、なにごとにつけ名前がでてこないぼくにとっても、はげみになる。
 学問をするにあたっては、あまり流行を追わず、「細く長く続き得る勉強の方法を選ぶがよい」というのは、貴重なアドバイスだと思える。
 歴史学を学ぶうえでは、派閥的なグループに属さず、精神の自由を保ちながら、できるだけ中立を保つほうがいい。歴史家は筆を曲げてはならぬという最小限の覚悟をもつべきだという意見も納得できる。

 さて、いよいよ本体である。
 宮崎はほぼ内藤湖南の学説にしたがって、中国の歴史を古代、中世、近世、最近世の4つに区分している。

(1)古代=上古から後漢末まで
(2)中世=三国時代から五代末まで
(3)近世=北宋から清末まで
(4)最近世=中華民国以後

 まず時代区分ごとの概説。最初は古代だ。
(1)古代
 太古の人類は群れを成して生活していた。それが進化すると家族のような小さな単位が生じ、家族が集合した氏族や部族が発生する。この部族が都市国家を形成するようになる。
 古代の都市国家は農民の集まった城郭都市であり、周囲に城郭をめぐらして、人びとはそのなかに住み、農民は毎日、城郭外の耕地で働き、夕暮れには城郭内の家に戻っていた。
 都市国家はいくつもあり、それぞれが独立していた。やがて武力衝突が発生すると、勝者と敗者が生じ、支配被支配関係が生まれる。それにより敗者は勝者に吸収されて、大きな都市国家が生まれる。あるいは存続を認められた敗者が小さな都市国家を維持したまま、勝者に隷属することもある。
 時代が下ると、覇者どうしによる覇権争いがはじまる。中国では春秋時代(紀元前8世紀〜前5世紀)がそれにあたる。
 強大な都市国家はやがて領土国家へと成長する。全領土を支配する国王が登場し、都がつくられる。戦国時代(前5世紀〜前221)がはじまり、七雄が覇権を争う。
 秦の始皇帝が他の6国を併合し、古代帝国が生まれる。秦(前221〜206)につづき、漢(前206〜紀元8、25〜220)が帝国を継承する。
 帝国の出現によって、広大な国土人民のうえにはじめて平和がもたらされた。だが、その平和は「専制君主が掌握する軍事力という、極めて野蛮な実力の行使によって達成されたもの」だった。
 宮崎は帝国の出現をもたらしたのは、経済の発展だという。

〈古代の中国において、一方には着実な技術の進歩があり、他方には資源の開発、商業の拡大が行われた。地下の銅鉱が探索されて、銅銭が鋳造され、その存在高は徐々に増加して行く。これと同時に商人は黄金を求めて、周囲の異民族の間に進出して中国製品、絹や工芸品を売り広める。造れば造るそばから売れるという、好ましい経済状況が現われてきた。これがさらに技術の進歩、資源の開発を促すことになるのである。〉

 戦争は時に経済の発達を妨害し、時にそれを促進した。戦国時代の終わりに、秦が楚を滅ぼしたとき、秦は60万の兵力を動かしたという。それが可能になるためには、よほどの経済力がなくてはならなかった。
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[秦時代の銅鈁(どうほう)。酒を入れる生活用品。陳舜臣『中国の歴史』の写真から]

 春秋戦国時代を通じて、大きな都市には「市」という商業区域が設けられ、商品の取引がおこなわれていた。
 銅山を経営し、奴隷を集めて銅の精練鋳造にあたる商人もあらわれた。「他人の不幸に乗じて私利を計る、いわゆる死の商人も古代から存在していた」
 経済力を利用して、政界に進出する者もでてくる。その一人、呂不韋(りょふい)は、秦の丞相となり国政を左右した。
「古代の頂点を形成する秦漢帝国は、繁栄した経済を地盤として、富強を誇った」と、宮崎は評している。
 まだ概説がはじまったばかりだ。つづいて中世以下の概説がある。ひまだから、のんびり読みましょう。

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古代ギリシアの経済──ポランニー『人間の経済』を読む(6) [商品世界論ノート]

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 アッティカ(アテナイ、すなわち古代アテネとその周辺地域)の土壌はオリーブ油とワインをつくるのに適していた。だが、農耕地が決定的に不足していたため、アテナイ人は穀物の確保に最大限の努力を払わなければならなかった。
 紀元前5世紀から4世紀にかけてのアッティカの人口は20万から30万人ほどである。疫病がはやるたびにその人口は増えたり減ったりした。全人口のうち、市民の割合は半分たらず。奴隷が4割ほどで、残りは居留外国人だった。
 奴隷と居留外国人が地元産の大麦を食べていたのにたいし、市民は小麦を食糧としていた。その小麦はほとんどすべてを輸入に頼っていた。もっとも魚はよくとれたはずである。
 穀物供給への関心がアテナイの対外政策を支配した、とポランニーは書いている。アテナイはどういうやり方で穀物を確保したのだろうか。
 ソロン(前639〜559)は穀物の輸出を禁止した。アテナイの住民はアテナイ以外のどこにも穀物を輸送することを認められず、違反した場合には厳しい罰が科せられた。
 そのころ、アテナイが穀倉としていたのは、トラキア(ヨーロッパ寄りの黒海入り口)と黒海沿岸だった。
 ペイシストラトスはこの地域の穀物を確保するために軍を送った。黒海の周辺地域がアテナイの統制下にはいるのは紀元前5世紀になってからである。そのころまで、岬の沖や海峡は航行に危険があるため、穀物輸送には陸路で交易港にでるルートが使われていた。
 そんなとき重要性を増してきたのが、紀元前7世紀に建設されたビュザンティオン(現イスタンブール)だった。前512年、ペルシア戦争でビュザンティオンはペルシア軍によって焼かれたが、前479年に奪還され、復活を遂げる。
 前478年、ペルシア帝国に対抗するため、アテナイを盟主とし260の都市国家がデロス同盟を結成した。そのころ、トラキアでは、オドリューサイ族が帝国を築き、アテナイのトラキアへの伸張をはばんでいた。
 オドリューサイ帝国はプロポンティス(マルマラ海)に向かって勢力を広げ、やがてビュザンティオンを征服する勢いとなった。ペリクレスはギリシア人を保護し、交易路を確保するため、軍を率いてプロポンティスに向かった。
 前447年、アテナイはエウボイア(ギリシア北西部)の反乱を鎮圧した。その港が黒海方面から穀物の届く拠点になっていたためである。
 そのころ、アテナイはヘレスポントス(ダーダネルス海峡)からエーゲ海をへてギリシアにいたる航路を保全するため、途中の島々に移住市民団を送りこんでいる。
 ペリクレスは黒海地域のギリシア都市をアテナイの支配下に置き、前437年から436年にかけ、大艦隊を率いて黒海に乗り入れた。
 すべてはアテナイの穀物を確保するための軍事的制圧だった。ビュザンティオンはその結節点となった。
 穀物は黒海のアテナイ植民地で集められ、ビザンティウムを経て、海軍力に守られ、特定の交易路に沿って、ギリシアに運ばれていた。
 ペロポネソス戦争(前431〜404)でスパルタに敗れたあと、一時、アテナイは穀物貿易の支配権を失う。それはまもなく回復される。だが、黒海は、いまや強大な勢力となったボスポロス帝国によって掌握されていた。
 紀元前4世紀には、アテナイはボスポロス帝国から最恵国の待遇を得て、黒海の港から穀物を積み出すようになった。前世紀にもっていた独占をもはや享受できなくなったのだ。
 このころの交易は都市国家による管理交易だったといえる。穀物の供給は条約を通じて確保された。アテナイは黒海の西側半分の統制権を確保しようとするが、それは成功しない。
 まもなくマケドニアが勃興し、エーゲ海帝国の建設に乗り出す。アレクサンドロスの父、ピリッポスはアテナイの穀物補給ルートを締めつけるため、トラキアに進攻するとともに、ビュザンティオンを自己の陣営に引きこんだ。
 紀元前336年にアレクサンドロスが王位につくと、黒海からアテナイへの穀物ルートは完全に断ちきられ、アッティカは最悪の飢饉に見舞われた。ペリクレスの政治的天稟によって築かれたアテナイの交易は、事実上、終わりを告げた。
 ペリクレスが黒海方面に穀物供給ルートを切り開かざるをえなかったのは、ペルシアとシラクサの勢力が、穀物の豊富なエジプトとシチリアをそれぞれ押さえているためだった。アテナイによるエジプトとシチリアの攻略は成功を収めなかった。

 アテナイでは、穀物交易は管理されていたが、管理されていたのは穀物交易だけではない。交易全般が管理されていたのだ、とポランニーはいう。
 アテナイが管理交易をおこなっていたのは、木材、鉄、青銅、麻、蝋なども同じだった。これらの品物は、船の材料となった。
 アッティカの森林はすでに伐採しつくされていたから、木材は海外から輸入しなければならなかったのだ。マケドニアとトラキア、小アジア北部が木材その他の主な供給地だった。こうした商品を手に入れるには、供給先と条約を締結しなければならなかった。
 もうひとつ重要な貿易品が戦争捕虜だった。奴隷の売買は次第に従軍商人にゆだねられるようになる。
 アテナイでは、武器や毛織物、食料品、ワイン、椅子や寝台、絨毯や香料など、多くの奢侈品や工芸品を手に入れることができた。アテナイにこうした品物が流れこんだのは、海の支配のたまものだった、とポランニーは書いている。
 アテナイ人は対外交易の場であるエンポリウムと、地域市場とをはっきり区別していた。アテナイのエンポリウムはピレウスにあり、地域市場はアゴラにあった。そして、アテナイの政府はそのふたつをしっかりと統制していたのだ。
 アテナイのエンポリウムの最大目的は、安い穀物を確保することである。それは必要不可欠でもあった。
 帝国が没落すると、アテナイは海上路の軍事的支配を失い、外交と穀物販売者の意向に頼らざるを得なくなった。アテナイは黒海の君主国からようやく同意を勝ちとる。だが、かつてのような穀物にたいする独占権はもはや存在しなかった。そのことが、いわば市場を生むことになる、とポランニーはとらえているように思える。
 穀物の価格が高くなるのを防がねばならなかった。アテナイは、アゴラでの価格を外部の変動から分離するという方法をとった。ピレウスのエンポリウムに着いた穀物は3分の2が市によって管理され、仲買人による買い占めは禁じられた。市当局は、それによって、できるだけ価格変動を押さえようとしたのである。
 エンポリウムでの価格は上昇しがちだった。しかし、市当局は商人の公徳心に訴え、決められた「公正価格」で売るよう奨励し、それに応じた商人を顕彰した。商人の利が多くなりすぎるときには、献金が課されることもあった。
 前4世紀にマケドニアが台頭すると、伝統的な交易路は断ち切られ、アテナイは前330年から326年にかけ飢饉におちいった。アレクサンドロスの進攻により、黒海からの供給は激減した。
 その後、東地中海の穀物市場を組織したのは、プトレマイオス朝のエジプトだった。
 プトレマイオス朝は、アレクサンドロス大王の死後、ギリシア系のグレコ・マケドニア人がつくった王朝だった。このとき、新たにつくられた町、アレクサンドリアは、東地中海最高のエンポリウム、すなわち穀物取引の中心地となるよう設計されていた。
 アレクサンドリアを建設し、穀物市場を組織したのは、ナウクラティス(ナイル川デルタのギリシア植民都市)のクレオメネスだという。アレクサンドロスの信頼の厚かったクレオメネスは、プトレマイオス王朝の創始者、プトレマイオス・ソテルによって暗殺された。
 ポランニーによれば、クレオメネスこそが東地中海の世界穀物市場を創設した人物だった。その時期はギリシア世界が飢饉におちいっていた前330年前後である。
 アレクサンドリアの市場では、ギリシア、シリア、フェニキアの商人たちが活躍した。輸出される穀物はほとんど国家統制のもとに置かれており、仲買商人などは排除されていた。飢饉の時期、その固定価格は異例の高さに設定されていた。
 アテナイはこの措置に反発し、クレオメネスをあしざまにののしった。だが、この非難は額面どおり受けとるわけにはいかない、とポランニーはいう。アテナイで価格が上昇したのは、黒海方面からの供給が失われたためだった。アレクサンドリアの市場はそれを補ったのである。
 アテナイが反発した理由は、むしろアテナイではなくアレクサンドリアが、穀物市場の主導権を握ったからだろう。その後、アテナイは穀物を求めて西方に目を転じた。だが、この抵抗は失敗する運命にある。
 ポランニーはこう書いている。

〈独立と支配にたいするアテネの甘い見通しのことごとくに最終的な審判を下すことになる力は、アテネがいまや目を向けはじめた西方から出現した。ローマが胎動を開始したのである。それは、数世紀のうちに、新しい市場組織も、ギリシアの管理された交易の試みも、両方とも潰してしまった。ローマはすべての供給源──シシリー、リビア、エジプト、クリミア、小アジア──をその軍事的・政治的支配下に置くことによって、食糧供給を確保した。アテネ人の夢は、ギリシア文明を、ずっと矮小化した形でではあるが、近代に伝えることになるこの勢力のなかに実現されたのである。〉

 なかなか、みごとなまとめである。

 だいじなことを書き忘れている。それは古代の貨幣についてである。
 ヘロドトスは、アナトリアのリュディア人がはじめて金貨や銀貨をつくったのは、豊富な金銀に遊びの精神が結びついたからだと考えていた。もちろん、このときヘロドトスのなかで、金貨や銀貨は市場システムと結びついてはいなかった、とポランニーは書いている。
 アリストテレスも国家運営については論じるものの、市場システムにはふれない。交換とからんで、貨幣を論じるものの、利潤の発生は想定されていない。鋳貨が必要だとされているが、あくまでも交換のさいに計算を容易にする手段としてである。
 ギリシアでは地域の貨幣と対外貨幣がはっきりと区別されていた。「小額の銀貨、そしてとくに紀元前4世紀以降は、青銅貨が地域の交易またはアゴラに利用され、スタテル貨のような大きい額面の銀貨は対外交易に利用された」とポランニーは書いている。
 これはとうぜんのことかもしれない。だいじなのは大きい額面の貨幣が地金の価値で流通したのにたいし、地域の貨幣が都市の権威によって、価値を裏づけられていたことである。地域の貨幣は地金の価値をもたず、刻印で示された計量単位(ドラクマ)をもつ代用貨幣だった。
 古い鋳貨は時折回収され、新しい鋳貨に置きかえられていた。銅貨が出されたのは、銀貨が欠乏したためである。改鋳のさいには、貨幣単位の変更もこころみられたようだ。
 地域の鋳貨と対外鋳貨は制度的には分離されていた。にもかかわらずギリシアでは、それらは相互に交換可能だった、とポランニーはいう。
 それを可能にしたのが銀行家の存在である。こうした銀行家が現れるのは紀元前400年ころからで、まずアテナイに出現し、またたくまにギリシア世界全体に広がった。かれらの役割は、大きな額面の鋳貨を小さな額面の鋳貨に、あるいは外国貨幣をアテナイ貨幣に(その逆も)取り替えることだった。
 銀行家の役割は次第に大きくなっていった。貨幣や宝石を保管するようにもなった。利子が支払われたわけではない。預け入れにさいしては、むしろ、保管料を払わねばならなかった。銀行家が預金者の代理人として、貸し付けをおこなう場合もあったという。
 銀行家が奴隷か解放奴隷、あるいは外国人だったというのは、当時の銀行家の地位の低さを物語っている。
 しかし、銀行家はやがてなくてはならないものになっていく。貸し付けもおこなっているし、質屋のような仕事もしている。預金と支払い業務もはたすようになった。だが、それはごく初歩的なものである。当時は、銀行に基礎を置くいかなる信用機構も存在しなかった。
 ここで、国家と市場の関係という話がでてくる。財政基盤を強化したり、緊急事態に対処したり、臨時の出費に対応したりするために、国家は市場を利用するようになった。これがはじまったのは紀元前5世紀ごろからだという。
 たとえば、ある都市はペロポネソス戦争の費用を捻出するために、市民に不要な奴隷の供出を命じ、集めた奴隷を売却している。
 ビュザンテイオン(コンスタンティノープル)は、食糧の供給が途絶えたとき、黒海の穀物船を拿捕し、穀物を市民に売却したうえで、その売り上げの一部を商人に賠償金として支払っている。そうした話は枚挙にいとまがない。
 ポランニーによれば、笑い話のようなものもある。
 エーゲ海中部にあるナクソス島の僭主リュグダミスは、追放した一味の没収財産が安い値でしか売れないことがわかると、その財産を亡命者自身に売りつけたという。
 ディオニュシオスはみずからの支配するシュラクサイ(シラクサ)で、だれからも貸し付けを受けられず、自分の宮殿の家具を売却し、そのあとこれを購入者から没収するという策にでた。
 いずれも国家が市場を利用するようになったことを示すエピソードだったといえるだろう。

 だが、古代ギリシア時代に生まれた、都市国家と一体の市場は長続きしなかった。
 アレクサンドロスが活躍した紀元前4世紀後半のヘレニズム期から、ローマ帝国全盛期の紀元2世紀までが古代「資本主義」の全盛期だった、とポランニーはいう。
 ギリシアのアッティカ地方は次第に交易中心地から離れ、東地中海ではアレクサンドリア、アンティオキア(シリア)などが勃興し、ロードス島やデロス島が海上交易の大集積地となった。このころプトレマイオス朝のエジプトは、信じがたいほどの富を誇っていた。
 ポランニーによれば、古代史家のロストフツェフは、古代資本主義はローマ帝国の衰退とともに衰弱したとみる。これにたいし、マックス・ウェーバーの見解は正反対で、むしろローマ帝国の勃興こそが、古代資本主義の没落を招いたととらえているらしい。
 ウェーバーは古代資本主義が近代の資本主義とはまったく異なるものだとみていた。それは都市国家を抜きにしてはありえない制度だった。基本的に再分配、実物経済のうえに成り立っていたローマ帝国では、むしろギリシア型の古代資本主義は排除されたという。ポランニーもまたこの見解に同意しているようにみえる。
 ローマの経済は、土地と人間の征服、略奪、分捕りのうえに成り立っていた。支配地域の拡大とともに奴隷や隷農が生みだされ、そこから得られた財や財宝はローマ市民のあいだに分配された。私的な事業は禁止され、公共事業と公共サービスが繁栄のあかしとなっていた。
 ここには市場的方法がはいりこむ余地はなかった。古代ローマ世界においては、交易や貨幣の使用はみられたにせよ、ギリシア時代のように市場が組織化されることはなかったというのが、ポランニーの結論のようである。
 ギリシアの衰退とともに、古代資本主義もついえた。それでもギリシアが民主主義と市場制度を後世に伝えたことは、大きな意義をもっている。

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古代ギリシアの経済──ポランニー『人間の経済』を読む(5) [商品世界論ノート]

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 第3部「古代ギリシアにおける交易・市場・貨幣」から。
 最初にポランニーが、古代ギリシアの経済には、市場体制と計画化体制のせめぎあいがあると書いているのがおもしろい。
 ギリシアで市場体制が発展するようになるのは紀元前7世紀初頭になってからである。植民地のイオニア(小アジアの地域)がはじまりだった。紀元前5世紀に3度くり広げられたペルシア戦争の直後から、アテナイ(古代アテネ)のアゴラでは、食料その他日常品を鋳貨で買う光景がみられるようになった。東地中海の穀物取引も通貨でおこなわれはじめた。
 いっぽう、エジプトは、ギリシア人の指導下で、古代から受け継いだ経済計画体制を洗練させていた。

 ポランニーは紀元前7世紀のヘシオドスが書いた作品『仕事と日々』を読み解くことから古代ギリシア経済の様相を再現しようとしている。
『仕事と日々』が描くのは、不安と不平に満ちた自立小農民の世界である。このころ、かつてホメロスが称えた伝統的な部族社会は衰微しつつあった。
 ヘシオドスはいう。神の怒りによって、人はひとりぼっちとなり、心配がつきぬようになった。生命のパンをいかに得るか、どう餓えを防ぐかをみずから考えねばならなくなったのだ、と。
 部族社会を破壊したのは、紀元前1100年ごろのドーリア人の侵入と鉄の伝来だった。ドーリア人は中部ギリシアを瓦礫の山と化した。暗黒の時代がつづき、その後にもたらされた鉄が人びとの生活を変えていく。鉄製の用具と道具は、戦争と農業に革命的な変化をもたらした。
 鉄の道具は農民のくらしを楽にはしなかった。むしろ、人は鉄の召使いとなって、土地にへばりついて、たえず汗水を流さなければならなくなった、とヘシオドスは書いている。
「ヘシオドスがわれわれに伝えるのは、ギリシア的生活の挽歌なのである」と、ポランニーはいう。クラン(氏族)の紐帯は失われた。個人主義と競争がはじまり、階層が分化して、混乱が生じていた。頼りになるのは、もはや親族ではなく、よき隣人だった。血の紐帯が優勢なのは貴族のあいだだけである。ヘシオドスが描くのは、そんな世界だ。
 ヘシオドスは王侯や貴族の強欲と残忍さ、富者の貪婪(どんらん)と情け容赦のなさを、かずかずのエピソードによって暴きだす。賄賂が横行し、正義はゆがめられていた。政治はいまや富める者のためとなった。
 いっぽう、農民は休みなく懸命にはたらかねば、借金や餓えを避けられない。ヘシオドスが「仕事はけっして恥ではない、無為こそ恥である」と言わざるをえないのは、さもなければ、独立した生活が保てないからだ。
 経済の単位は家政である。よき家政を築くには、よき妻を選び、子どもはせいぜいふたりにすることだ、とヘシオドスはいう。労働と節約こそが家政を保つ秘訣である。さらに、すぐれた腕前をもつよう努力することが求められていた。

 ギリシアの歴史家ヘロドトスは、ペルシアの大王キュロスが、紀元前546年に占領したリュディア(小アジア西部)で、ギリシアの市場をせせら笑う場面を描いている。そこでは、人が集まってきて、だましあい、何やら取引しているというわけだ。
 だが、キュロスがいうような市場は、ギリシア全体に広がっていたわけではなかった。アゴラに市場があったのはアテナイだけである。もちろん、それは人がだましあう場所ではなかった。
 専制主義のペルシアが民主主義のアテネを攻撃する時が迫っていた。だが、その攻略はけっきょくのところ失敗する。
「この制御しにくいアンビヴァレントな制度を操るギリシア人の能力を不当にしか評価しなかったため、ペルシア人たちはギリシア人のポリスのもつ市民的規律、安定的力を見抜けず、破滅の道を歩むことになった」とポランニーは評している。
 古典期のアテネでは、実践的民主主義と市場とが奇妙に結びついていた。ペルシア戦争後、アテネの政治指導者となったペリクレス(前495?〜429)は「自由で文化的な共同体」という理念をたたえた。
 ペリクレスは市場を支持していた。ポランニーによると、当時アテナイのポリス経済は、領地型の再分配、国家レベルの再分配、そして市場要素の三つからなりたっていたという。
 ペリクレスの政敵で貴族のキモンは、とうぜんながら大領地の経営に依拠した家政を支持した。これにたいし、ペリクレスは、みずからつくったものを市場で売り、必要なものを市場で買うことによって、市民がみずからを管理する小規模民主制を支持した。
 ギリシア人は文明を可能にするのはポリスであり、ポリスにかかわることが政治だと考えていた。ただし、ポリスの政治に参加できるのは市民(男子)だけで、外国人には市民権が与えられなかった。
 ポリスでは市民は平等であり、法による支配を受けた。ポリスを離れた個人は考えられなかった。自由とは、政治に参加することを意味していた。
 こうしたポリスにおいて、市場は食料調達の工夫にほかならなかった。しかも、市場は再分配の機能も担っていた。それを可能にしたのは鋳貨である。
 アリストテレス(前384〜322)にいわせれば、寡頭制とは富者の支配であり、民主制とは貧者による支配にほかならない。このことばからもわかるように、師のプラトン同様、アリストテレスも民主制をこころよく思っていなかった。
 民主制を維持するためには、富裕者による公的機関の支配を排除しなければならなかった。それだけではない。アテナイでは、官僚制が徹底して否定されていた。政府(評議会)の役職は、くじによって市民が交替で担っていたのだ。政府を支える民会も、すべての市民が参加できるようになっていた。
 こうした体制を可能にするためには、国家が政治にかかわる民衆に貨幣で支払いをおこない、それによって民衆が食料などの必需品を買えるようにしなければならなかった。
 この仕組みをつくりだしたのは、紀元前510年ごろに活躍したクレイステネスだという。だが、その後、貴族による巻き返しがなかったわけではない。
 実際には、アテネの民主主義は、強大な海軍帝国と配下の同盟国のうえに成り立っていた。この帝国を維持するには、軍事力と同時に穀物供給を確保することが重要だった。
 アテナイでは「公共奉仕に専念することを余儀なくされている多数の人口のために生計の糧を保証し、同時にまた海外から入る食糧を確保するということが、防衛のうえから必要だった」とポランニーは書いている。
 ペルシア戦争で、サラミスの海戦がくり広げられ、ギリシア連合軍が勝利したのは、紀元前480年のことである(マラトンの戦いは前490年)。このとき、アテナイでは半数にのぼる2万人以上の市民が軍に加わった。
 戦争と民主主義の結びつきは否定できない。貧者は国家から食料を与えられていた。そして、自発的に公共奉仕の義務をはたしたのである。
 3度のペルシア戦争(前492〜前449)後は、寡頭制の反動がつづいたが、前462年には民主派のペリクレスがアテナイの実権を握った。
 ペリクレスは長期的な公共事業をおこし、パルテノン(神殿)やプロピュレイオン(楼門)を建設した。多くの人が農村から都市に移住してきた。貧民や老人への援助もなされた。こうした資金は同盟国や属国の貢納や税によってまかなわれた。
 古代アテネのアゴラでは、調理した食品の小売市場が開かれていた。そこで商売を担っていたのが、カペーロスと呼ばれる人びとだった。
 アテナイのアゴラは、市場システム揺籃の地ではない、とポランニーは強調する。まだ、この時代に近代の市場システムは生まれていない。地域市場と海外交易はまったく別物として扱われていた。
 市場と交易はそのまま結びつかない。市場は集会の開かれるアゴラにあり、市場ではさまざまな食べものが売られていた。アゴラで市場が開かれるようになったのは、紀元前6世紀ごろになってからだ。これにたいし、交易は市場よりも古く、金属や軍事資材、貴重品、それに不足気味の食料を得るには遠隔交易に頼る以外になかった。
 市場に従事するのがカペーロスだとすれば、交易に従事する人びとはエンポロスと呼ばれていた。カペーロスは女性が多かったのにたいし、エンポロスはまちがいなく男性だった。市民は市場や交易の仕事に従事しない。この仕事をになったのは居留外国人と外国人である(もっとも外国人といっても、都市国家アテナイに帰属しない人びとという意味で、実際にはさまざまな事情で故郷に戻れないギリシア人が多かったと思われる)。
 アテナイでは居留外国人はピレウスに住み、エンポロスとして、主に穀物輸入にあたっていた。海上交易の規模はちいさく、多くが貸し付けに頼っていた。居留外国人のなかにも、貸し付けをおこなう大商人がいたわけである。
 アテナイの富は、強力な海軍力のもと、海外の同盟国や従属国、植民地によって支えられていた。
「海外交易は一部は管理交易、一部は贈与交易であり、ときたま現れる市場的要素は相対的に重要でなかった」とポランニーは書いている。
 アテナイには租税や貢納のかたちで、物資が流入していたとみてよい。エンポロスと呼ばれる居留外国人は、政府に命じられて、その任務にあたっていたと考えられる。かれらの地位は低く、市民権を与えられなかった。それは市場で、小額貨幣を受けとり、食料の配分にあたるカペーロスと呼ばれる人びとも同様である。
 アテナイを下支えしていたのは、こうした居留外国人や奴隷だった。居留外国人や奴隷がいなければ、アテナイの繁栄も安定もなかっただろう。古代帝国においては、商業活動や労働はいやしいもので、民主主義をになう市民の仕事ではないと考えられていたことに留意すべきだろう。
 話はもう1回つづく。

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ポランニー『人間の経済』を読む(4) [商品世界論ノート]

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 第2部「市場経済の3要素──交易・貨幣・市場」を読む。
 ここでは、交易、貨幣、市場の起源が論じられる。この3つは同時に発生したと思われている。だが、そうではない、それらは、いずれも別個に発生したのだとポランニーはいう。
 対外交易が対内交易に先行したこと、交換手段としての貨幣が用いられたのは対外交易においてであったこと、組織化された市場が発展したのは最初に対外交易においてであったことをあきらかにしたのは、マックス・ウェーバーの業績だった。
 市場が存在しないのに、交易や貨幣が存在したと聞くと驚くかもしれないが、これはまぎれもない歴史的事実なのだ、とポランニーは論じる。

 まず交易の起源をたどってみよう。
 交易とは「その場では入手できない財を獲得する方法」である。日常生活からかけ離れたこうした活動では、「遠くから財を獲得、運搬することが重要」になってくる。「交易は狩猟や遠征、侵略などの組織的な集団活動に似ている」とポランニーはいう。
 共同体と共同体が出会うところで、財の交換がなされれば、それは交易となる。もちろん、当初から利潤などは考えられていない。交易にあたっては、何らかの儀礼が交わされねばならなかった。
 財はその場では得られないがゆえに、遠隔地からの財の獲得が重要になった。モンゴル人やアラビア人の場合は、侵略と交易が重なっている。ギリシア人やフェニキア人も、けっして平和的な交易ひと筋だったわけではない。
 大帝国は軍事力を背景に遠隔地交易を推進していた。織物や日用品などは近隣から取り入れていたが、金や奴隷、宝石、絹、毛皮、化粧品、装身具などの奢侈品は遠方からしか手に入らなかった。
 チンギスハンによる遊牧民の大帝国は、長大な交易ルートをつくりあげ、組織的な交易をおこなっていた。交易を補助し、隊商路の治安を守り、販路を確保するためには、軍事力が必要だった。駅逓制度がつくられ、輸入品量が拡大され、領域内の富が拡大された。あらゆる国籍の商人が交易路を行き来した。
 モンゴル人自身は積極的に交易に参加しなかった。中国で元が滅びると、草原に汗国が残され、徐々に衰退していく。そのあとをついだアラブ人の帝国では、さらに積極的な交易がおこなわれ、広範な商業構造がつくられていった。
 交易は古来、共同体の拡張や充足と結びついていたといえるだろう。

 交易活動で問われるのは、だれが何をどのように、両方向に運ぶかである。
 まず人の面でいうと、交易者には二種類ある。身分動機にもとづくのが仲買人であり、利潤動機にもとづくのが商人だ、とポランニーはいう。
 古代においては、主人や君主の命で交易をおこなう仲買人が主流だった。だが、ふたつの区分はしばしばあいまいになる。
 命じられた義務を果たしたあと、身分の低い仲買人が多少の余録を得たとしても、それは黙認されていた。
 交易者の地位は、場所や時代に応じて異なる。古代のメソポタミアやエジプトにおいては、首長や王、その属臣だけが交易の権利をもっていた。だが、とうぜん、そこからは多くの代理人が生まれてくる。
 紀元前7世紀以降の古代ギリシアになると、王や貴族の交易は姿を消す。古代アテネの政治家ソロンは商人と呼ばれ、大規模な対外交易事業にあたっていた。だが、それは例外である。アテネには、食料を小売りする商人と、船で交易する居留外国人がいたが、ともに下層階級だった。
 西洋で市民と呼ばれる商業的中間階級が生まれたのは、近世になってからである。古代には、こうした中間階級はいない。交易者は王や政府に結びついたごく少数の大商人を除いて、ほとんどが下層の仕事をしていた。
 古代メソポタミアにはタムカルムと呼ばれる下層の交易者がいた。かれらは王や寺院の任命によって仲買人となった。隊商を組み、情報を収集し、売買交渉や遠隔地交易をおこなうのが仕事である。その身分は保証され、宮廷や寺院から収入が与えられた。東洋とアフリカの大文明で、商業生活をリードしていたのは、こうしたタムカルムだった、とポランニーはいう。
 アテネで交易をおこなっていたのは居留外国人であり、その身分は低かった。こうした居留外国人は、海外の共同体から離れざるを得なかった人びとで、商売をしてくらしていた。そのなかには小さな船をもったり、小さな食料店を開いたり、両替や金貸しをしている者もいた。だが、当局による規制は厳しかった。
 ポランニーはこう書いている。

〈その生活はまったく単調な骨折り仕事の連続であった。いまわしいほど苦しい海の生活にさらされる激しい肉体労働の日々であった。しかも、その報酬に富を得ることも期待できなかった。土地や家を持つことは禁じられていたし、抵当権も持てなかった。その結果として、財産たるべきものは何も持てなかったのである。〉

 さらに、インダス川流域からジブラルタル海峡にいたるまで、受動的交易を担う外国人の群れが存在した。かれらはストレンジャーであって、けっして当該共同体に所属せず、外国人居住者という中間的な身分にも甘んじなかった。「完全に疎遠な別個の共同体の成員」だった。
 専門的な交易者が現れるのは、古代になってからである。交易によって生活を立てる種族もでてくる。これをポランニーは「大衆的交易者」と呼んでいる。その例と挙げられているのが、海ではフェニキア人、ロードス人、西ヴァイキング、砂漠ではベドウィン族、トゥアレグ族、川では東ヴァイキング、ケデ族(ニジェール川)などである。
 アフリカにも定期的に交易をおこなうさまざまな種族がいた。すでにアルメニア人やユダヤ人も歴史に登場している。

 次に交易の財をみておこう。
 遠方から財を獲得し運搬するには、その緊急性や運搬の難易度も考慮されなければならない。こうした交易は非継続的な事業になることが多く、ローマでもその都度、協同事業組織がつくられていた。
 それぞれの交易がそれぞれの苦難をともなった。奴隷や家畜の輸送、石や木材の輸送にしても、その都度、運搬手段と人手の調達を必要とした。
 輸入があれば、とうぜん輸出も必要となる。それでなければ交易は成り立たない。
ロシアのキエフ公国は、国内から毛皮や亜麻、蜂蜜を集めて輸出し、ビザンティンの高価な絹やラシャ、宝石などを輸入していた。いっぽうローマでは、属州から食料品や必需品が集められ、これにたいし代価は支払われなかった。
 輸送がどのようにおこなわれるかも大問題だった。
 現在の市場社会では、輸送は単なるコストとみなされる。しかし、歴史を知るためには、かつての運搬経路や運搬手段、運搬態様、交易組織などがどうであったかをしっかり把握せねばならない、とポランニーはいう。
 陸路でも海路でも、盗賊や海賊の危険性があった。そのため古代帝国では通商路の保全が、国家の大きな課題となった。エジプトでも中国でも、輸送路は河川を中心に組み立てられていた。いっぽう、モンゴルやアラブなどの遊牧民は、大陸間の隊商路に沿って帝国を拡大した。
 隊商は帝国以前から存在した。それは公的権力によって編成され、武装されていた。しかし、のちの時代になると、独立した隊商があちこちを交易して歩くようになる。アフリカでは奴隷輸送カヌーが河川を漕ぎ回った。
 隊商は軍隊でもあった。インドのムガール帝国では、デリーのバザールの商人たちが、毎年、軍隊とともに夏季の大遠征をおこなっていた。
 共同体は、その場所で入手できない品物を獲得するために、狩猟や遠征、侵略をおこなった。そこでは財の移動は一方向だった。これにたいし、交易は平和的な二方向の活動となる。
 そのひとつの例が、クラ交易にみられるような贈与交易である。次に登場するのが管理交易である。そこでは政治的に承認された組織どうしの交易がおこなわれる。こうした組織は、輸入財を分配するとともに、輸出財を徴集しなければならない。そのためには、保管や管理も必要になった。あらかじめ等価物を規定することも求められた。交易場所も定められるようになる。
 市場交易が登場するのは、比較的近代になってからである。交易の当事者は交換そのものによって結びつき、交換可能な財はそれこそ無限に広がる。経済史においては、いついかにして対外的な交易が市場に結びつくようになったかを解明することが最大の問題だ、とポランニーは述べている。

 つづいて、貨幣の問題をみていくことにしょう。
 貨幣の機能として挙げられるのは、支払手段、計算手段(価値尺度)、富の蓄積手段、交換手段などである。しかし、貨幣のこうした機能が全面的に登場するのは、近代にいたってからで、初期的な社会では全目的の貨幣はない、とポランニーは断言する。貨幣は特定目的にしか用いられていなかったのだ。
 条件が適合すれば、どのような物も貨幣として用いることができた。貝殻や羽毛、羊、大麦なども、貨幣の役割を果たしていた。無文字社会でも、計算の工夫は求められていたから、計算しやすいものが貨幣に選ばれた。
 たとえば、ある地域では、大きな富をはかる価値尺度には奴隷が、ちいさなものをはかる価値尺度には子安貝が用いられた。外国との交易には貴金属が使われた。奴隷や子安貝や貴金属は、貨幣代替物だったといえるだろう。だが、こうした貨幣代替物は、現在の貨幣のような全目的性をもっていなかった。
 市場のない初期社会では、基本的に売買関係がないので、現在、貨幣のもっとも重要な機能とされる交換手段として貨幣が用いられることはなかった、とポランニーはいう。
 しかし、支払手段としての貨幣は存在した。支払いとは、一般に責務(あるいは債務)を返済することをいう。初期社会では、神や支配者による保護にたいし支払いがなされねばならなかった。共同体の掟に背いた場合も、支払いが課せられた。それは死を含む刑罰や償いのかたちをとることもあったが、状況に応じて、貨幣で支払われることもあった。その貨幣は、犠牲の動物や奴隷、貝、食糧などのかたちをとった。
 蓄蔵手段としての貨幣も、もともとは支払いに備えることが目的だった。その支払いというのも経済的な支払いというより、むしろ宗教的・政治的理由によるものだった。貯えられた食糧や家畜、財宝は貨幣として機能した。
 しかし、交換されるにせよ、貯蔵されるにせよ、それを効率的におこなうには計量や尺度が必要になってくる。古代バビロニアではそのための銀貨シェクルがつくられ、たとえば戦車は100シェクル、雄牛は30シェクルなどで取引された。しかし、戦車や雄牛は市場に出された商品ではなく、銀貨が支払われたのは、あくまでも代償としてだった。
 ポランニーはこう書いている。

〈原始社会およびアルカイックな社会のデータが明らかにすることは、貨幣の交換手段としての用法が、他の貨幣用法を生じたとは言い切れないということである。逆に、支払、蓄蔵、計算手段としての用法は、それぞれ独自の起源をもち、相互に独立して制度化されたのであった。〉

 部族社会や古代国家においては、貨幣は商品の交換手段として利用されたわけではないという指摘は重要である。
 古代ギリシアでは紀元前5、6世紀に貨幣鋳造が開始されるが、市場が発展するのはだいぶたってからで、古代国家の経済はあくまでも再分配を基本としていた
 ポランニーはさらに次のように要約している。

〈交換は、原則として、組織化された交易や市場の枠内で発達するものである。その枠外では、間接的交換〔言い換えれば貨幣を媒介とした交換〕はほんのたまにしか起きない。だから、貨幣の交換手段としての用法は、完全に原始的な状態のなかではほとんど何の重要性ももたない。シュメールやバビロニア、アッシリア、ヒッタイト、あるいはエジプトのような、高度に組み立てられたアルカイックな社会でさえも、貯蔵が経済的に普遍的だった。価値尺度としての貨幣の使用は大規模に見られたにもかかわらず、間接的交換に貨幣が用いられることはほとんどなかった。ギリシア世界がまだ貧しくなかば野蛮だったくせに、たくさんの美しい鋳貨をつくっていたその時期に、バビロニアやエジプトの大文明には鋳貨がまったくなかったということは、このことから説明されるだろう。〉

 ここから言えることは何か。
 交換手段として広く貨幣が用いられるのは、ずっとあとに市場が発展してからだということである。にもかかわらず、金属のかたちをとるにせよ、大麦や貝殻、羽毛などの代替貨幣のかたちをとるにせよ、部族社会の段階から人類は貨幣を必要としていた。これは商品から貨幣が生まれたという経済学の通説とは異なる。商品がなくとも、いやむしろ商品に先行して、貨幣が存在したことを意味している。
 言い換えれば、貨幣とは将来の生存を担保しうる用具にほかならなかった。商品世界が日常化するのは19世紀にはいってからである。しかし、貨幣代替物を含む貨幣の発明こそが、人類社会を永続化させる工夫につながっていたといえる。
 ポランニーがいいたかったのは、そんなことではないか。

 最後にポランニーは、市場の起源にふれている。
 初期の社会でも交易や貨幣は存在した。市場が誕生するのは、もっとあとの時代である。とはいえ、市場の起源をたどるのはむずかしい、とポランニーは書いている。それは現れたり消えたりするからである。
 まず市場を場所としてとらえるか、それともメカニズムとしてとらえるかの問題がある。場所としての市場が誕生するのは、需要・供給メカニズムとしての市場よりも、ずっと前である。社会全体をおおう市場経済システムが生まれるのは19世紀になってからだといってよい。
 市場が三千年にわたって次第に発達を遂げてきたとみるのはまちがいだ、とポランニーはいう。初期社会の市場は、現在の経済メカニズムとしての市場とは、まったく似ても似つかぬものだ。
 市場は、財の集まる場所、財を供給する人、財を求める人、慣習や法、取引があって、はじめて成立する。
 市場には多様な起源があるが、大きくわければ外的な起源と内的な起源にわかれる、とポランニーは考えている。
 外的な起源は共同体の外部からの財の獲得に関係する。内的な起源は内部での食糧の分配に関係する。
 対外交易は市場に先行していた。メソポタミアではタムカルムという身分があり、かれらは仲買人や代理人、管財人、旅商人、銀行家、奴隷取扱官、徴税吏、王室の財政執事などとして、国家のもとで働いていた。メソポタミアに市場がなかったことを理解すれば、かれらを民間の商人と理解するのはまちがいだ、とポランニーはいう。それでも、かれらは外部世界との交易にあたっていたのだ。
 タムカルムは独自の身分を与えられ、公的権威に命じられて行動している。メソポタミアにかぎらず、古代社会では、こうした人びとが古代社会では数多くみられたのだ。こうした対外交易が内部化して、市場交易となるには長い時間を要した。それを促したのは、土地と労働の商品化だ、とポランニーはいう。
 しかし、共同体内部に内的な市場がなかったわけではない。
 有名なのは古代ギリシアやローマのアゴラ型地域市場である。アテネのアゴラは、民衆に食物を供給する場所であり、ここでは牛乳や卵、野菜、魚、肉が売られていた。だいたいが調理済みだったという。
こうした品物は近隣から運ばれ、貧しい労働者や旅行者がそれを求めた。富裕な住民がこうした地域市場に来ることはなかった。
 ギリシアの植民地、小アジアなどで、市場の形成を推進したのは、スパルタ人やアテネ人に率いられていたギリシアの傭兵だった。
 軍隊と市場は密接に結びついている、とポランニーはいう。ひとつは戦利品(財宝、家畜、奴隷)の処分、もうひとつは軍隊への補給が、貨幣と市場の必要性を促した。
 スパルタ人は、獲得した奴隷をすぐに近隣のエンポリウム(交易地)に送り、売却するのが通例だった。アテネ人は遠征にあたって、食糧を地域住民ないし従軍商人から買い入れていた。
 軍の移動にあたっては、兵站が大きな問題となったことはいうまでもない。
 ポランニーはこう書いている。

〈市場は時に応じて、城門の内へも外へも移動する。また海岸に沿って移動することもある。市場には特定の軍隊が入ることを許可されたり、拒否されたりする。また市場は一定の期間開かれる。とくに興味あることは、交易が始められる前には必ず外交交渉が行なわれることである。〉

 市場は常設されているわけでも、場所が決まっているわけでもなかった。それは移動するものだった。
 さらに軍とは別に、ポランニーはシュメールやメソポタミアなどの古代灌漑帝国に見られた城門に注目している。税と支払いは、こうした門でおこなわれ、労働者や兵士への配給もここでおこなわれた。しかし、その広場では、アテネのアゴラのような食糧市場はつくられなかった。
 バザールはもともと食糧市場ではなく、職人のつくった製造品を扱う市場として発達し、城壁で取り囲まれた町の裏道に置かれていた。品物に値段はつけられていなかった。そして、このバザールはのちにイスラム商人の影響を受けて、食糧市場ともなり、外国商品の販売もおこなうようになる。
 ここで、ポランニーがあきらかにしようとしたのは、歴史的にみれば、市場よりも貨幣が先行したこと、貨幣は商品以前に存在したことである。
 その発見は経済学の認識にも大きな衝撃を与えた。

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ポランニー『人間の経済』を読む(3) [商品世界論ノート]

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 第1部「社会における経済の位置」のB「制度」から。経済制度をめぐる論考が4本集められている。断片もある。
 市場システムが確立されるのは19世紀になってからである。それは「餓えの恐怖と利得の希望」を誘因とするシステムだった。これまでとちがい、政治や宗教、親族組織などからいちおう切り離されているところに、市場システムの独自性があった。
 しかし、経済を人の暮らしという大きな意味でとらえるなら、市場システムだけが経済ではないことがわかる。市場システム以前には、経済は、いわば「社会に埋め込まれていた」のだ、とポランニーはいう。
 近代社会は契約のうえに築かれている。これにたいし、近代以前の社会は身分を基礎としていた。身分は、家柄や家族内の地位で決められ、人は身分に応じて、それなりの権利と義務を有する。
 近代が契約社会なのにたいし、古代から封建制にいたる社会は身分社会だったということができる。テンニースは契約社会をゲゼルシャフト、身分社会をゲマインシャフトと呼んだ。
 マリノフスキは経済人類学の確立に寄与したが、とりわけ、かれの提示した互酬の概念は画期的な意義をもっている。
 現在、パプアニューギニアに属するトロブリアンド諸島では、互酬的な贈与システムが生みだされていた。
 諸島の住民間でおこなわれていたクラ交易は、いわば国際的な互酬システムだった。クラ交易は「対抗や争いを最小化し、贈物の接受の喜びを最大化するように作用した」。この気前のよい交易は、一種のポトラッチ(富の贈与)だったと理解することもできる。
 野に生きる人びとは個人主義的でも共産主義的でもなかった。ただ、市場システムとは異なる制度をもっていたのだ、とポランニーはいう。
 ここでは「物的財の生産と分配は非経済的種類の社会関係のなかに埋め込まれている」。そこには経済システムも経済的動機も存在しなかった。存在するのは社会組織であって、経済はあくまでも、そのなかに組みこまれているのだった。
 社会組織は複雑な親族関係と婚姻関係から成り立っており、そこに互酬関係が発生していた。そこでは計量的な経済関係は存在しない。
 マリノフスキは、経済的な接受関係を「純粋贈与」から商業的交易まで分類したが、彼自身も純粋贈与は特別で異例なものとみなしていた。
 贈り物には、返礼が想定されている。だが、それは交易とはほど遠い。
 村どうしでは、魚とヤムイモの儀礼的交換がなされる。その大きな目的は、互いの友好関係を確かめることだ。
 親族間の互酬は、もちろん経済的な取引ではありえない。財の生産と分配は、労働の組織化と同様、親族によって制度化されている。採集のための土地や牧草地、耕作地は親族によって管理されている。基本物資の貯蔵は、親族の協同的活動の一部である。
 そこには経済的な観念が存在しない、とポランニーは述べている。
 ポランニーは互酬を単なる原始社会の風習とはとらえていない。未来の経済を開くカギとも考えているのだ。
 経済的取引が発生するのは、アルカイックな段階、すなわち古代王国や古代帝国が登場してからである。
 アルカイックな社会と部族社会の大きなちがいは何だろう。
 ポランニーは「経済的なもの」が次第に出現するところに、そのちがいをとらえているようにみえる。すなわち、生活の一般的過程から経済活動が分離しはじめるのだ。経済的取引そのものが出現する。
 アルカイックな社会の中心には国家がある。そして、国家を中心とする再分配経済がおこなわれていた。
 シュメールの都市国家もエジプトのファラオの帝国も、みごとに再分配経済を運営していた。しかし、メソポタミアでは、基本は再分配経済でありながら、すでに経済取引が導入されていたことにポランニーは注目している。
 互酬は部族内の敵対と争いを避け、部族の連帯を助けるための統合手段だった。これにたいし、再分配は国家内部の共同体的絆を強化し、中央権力への積極的従属を促進することを目的とする。
 部族社会にしても、アルカイックな社会にしても、念頭に置かなければならないのは、こうした共同体が儀式や魔術、タブー、宗教的規範、身分などによって縛られていたことである。
 そこになぜ、経済的取引が出現するのか。
 非合理な束縛から逃れた個人が利得的なバーターに乗り出したというのは、19世紀の経済合理主義による解釈にすぎない、とポランニーはいう。
 実際には、メソポタミアでは、経済的取引は、国家の承認のもと神の代理人の名によってなされたのだ。アテネのアゴラでの取引についても、「アテネのアゴラは現代の意味での市場の自由を知っていなかった」と、ポランニーは記している。
 互酬の場合は、贈り物にたいする返礼は慣習によって定められている。再分配の場合は、税ないし義務のかたちで、財はいったん中央に集められ、そののち中央からある種の配給がなされる。
 メソポタミアでは、こうした再分配と別に、銀や小麦、油、ぶどう酒、煉瓦、銅、鉛などが取引されていた。だが、それはあくまでも緊急時を乗り切るための措置だった。
 アリストテレスによれば、「野蛮人たち」のあいだで、こうした取引がなされるのは、あくまでも自給性を回復するためだったという。それは利得ぬきの交易だった。世帯主は必需品を、最低限度を超えない範囲で隣人に頼ることを認められていた。信用貸は排除され、交換される等価物がない場合、その負債は徐々に返済されることになっていた。
 ここでは市場は存在しない。等価物は、一定量の貝が豚と交換されるというように、慣習や伝統によって定められていた。
 原始社会では食料の取引はタブーとみなされていた。禁止が解けはじめるのは、古代国家が登場してからだ、とポランニーはいう。
 バビロニアなどの灌漑帝国においては利得抜きの公正価格が定められ、それによって、労働の治水事業への動員が可能になった。それは法の定めによる取引であり、あくまでも市場への発展は回避された。交易に関しても同様である。
 これらは再分配経済のもとでの措置にほかならないが、そのことが個人の自主性を大きくしたことはまちがいない、とポランニーは論じている。なにやら、社会主義的市場経済の原型をみるようである。

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