前の10件 | -
イタリア夏の旅日記(4)
8月6日(日)
夜中から目が覚めてしまう。朝10時、洗濯を終えたミワが隣町に改築中の新しい家に連れていってくれる。田舎の大きな民家だ。3軒に分割されていて、すでに両端の家は人が住んでいるが、ミワたちがこれから住もうとしている部分はその真ん中にあたる。

ミワのつれあいのマテオは大の自転車好きで、暇さえあればトスカーナの山野を自転車で走っている。田舎暮らしは夢だったらしい。その点はミワも同じで、ふたりの意見が一致して、この古民家を買うことになった。

住みやすくするには中を改造する必要があった。そこで設計図をひいて、工事をはじめたのだが、1年近くたつというのに、できあがらない。
今回、引っ越しを手伝うつもりでやってきたわれわれは、拍子抜けしただけでなく、手持ち無沙汰となった。そうそう、驚くのは、イタリアには日本のように荷物を一切合切運んでくれる引っ越し屋さんがないことだ。あったとしてもべらぼうに高いという。そこで、たいていは友達の車を借りて、自分たちで荷物を運ばなければならない。
ロシア・ウクライナ戦争に加えて、コロナ明けで、EU圏内では急速にインフレが進行し、住宅ローンの金利もますます上昇している。工事は進まないわ、返すおカネは多くなるわで、ふんだりけったりだ。とはいえ、乗りかかった船で、ともかく完成にごきつけなければならない。
そんなわけで、けさは改築中の家にやってきた。行ってみて、正直驚いた。たしかにおカネがかかったかもしれないが、その値打ちはじゅうぶんあると思った。

いまの家からは車で10分ほど。バスの便の悪い田舎にはちがいないが、まわりを見わたすと映画に出てくるような風景が広がっている。古い家を改装して、いまの形になるまで1年近くかかった。しかし、住めるようになるまであとひと月かふた月かかるだろう。

昼は家に戻って冷やし中華。冷たいものは食べないユウキには温かいラーメンをつくる。そうこうしているうちに、サイクリングからマテオが帰ってくる。ぼくは少し昼寝する。
午後4時、マテオとミワが、少し歩いたほうがいいと勧めてくれ、われわれは車でコッレ・ディ・ヴァル・デルサに向かう。ユウキは行かないという。
ここは羊毛紡績や製紙、ガラスなどの製造業の町だという。そばにエルサ川が流れている。

谷に降りていく。エルサ川は石灰質のせいか少し灰青色に濁っている。

川に沿って、散歩道が作られていて、多くの人が三々五々歩いている。

歩いているうちに腰が少し痛くなった。しばらく歩いていないせいだ。片道4キロの行程のうち3キロ足らずで大事をとり、引き返すことにした。

途中で、ミワたちと合流し、7時ごろ帰宅。外はまだまだ明るい。
夜中から目が覚めてしまう。朝10時、洗濯を終えたミワが隣町に改築中の新しい家に連れていってくれる。田舎の大きな民家だ。3軒に分割されていて、すでに両端の家は人が住んでいるが、ミワたちがこれから住もうとしている部分はその真ん中にあたる。

ミワのつれあいのマテオは大の自転車好きで、暇さえあればトスカーナの山野を自転車で走っている。田舎暮らしは夢だったらしい。その点はミワも同じで、ふたりの意見が一致して、この古民家を買うことになった。

住みやすくするには中を改造する必要があった。そこで設計図をひいて、工事をはじめたのだが、1年近くたつというのに、できあがらない。
今回、引っ越しを手伝うつもりでやってきたわれわれは、拍子抜けしただけでなく、手持ち無沙汰となった。そうそう、驚くのは、イタリアには日本のように荷物を一切合切運んでくれる引っ越し屋さんがないことだ。あったとしてもべらぼうに高いという。そこで、たいていは友達の車を借りて、自分たちで荷物を運ばなければならない。
ロシア・ウクライナ戦争に加えて、コロナ明けで、EU圏内では急速にインフレが進行し、住宅ローンの金利もますます上昇している。工事は進まないわ、返すおカネは多くなるわで、ふんだりけったりだ。とはいえ、乗りかかった船で、ともかく完成にごきつけなければならない。
そんなわけで、けさは改築中の家にやってきた。行ってみて、正直驚いた。たしかにおカネがかかったかもしれないが、その値打ちはじゅうぶんあると思った。

いまの家からは車で10分ほど。バスの便の悪い田舎にはちがいないが、まわりを見わたすと映画に出てくるような風景が広がっている。古い家を改装して、いまの形になるまで1年近くかかった。しかし、住めるようになるまであとひと月かふた月かかるだろう。

昼は家に戻って冷やし中華。冷たいものは食べないユウキには温かいラーメンをつくる。そうこうしているうちに、サイクリングからマテオが帰ってくる。ぼくは少し昼寝する。
午後4時、マテオとミワが、少し歩いたほうがいいと勧めてくれ、われわれは車でコッレ・ディ・ヴァル・デルサに向かう。ユウキは行かないという。
ここは羊毛紡績や製紙、ガラスなどの製造業の町だという。そばにエルサ川が流れている。

谷に降りていく。エルサ川は石灰質のせいか少し灰青色に濁っている。

川に沿って、散歩道が作られていて、多くの人が三々五々歩いている。

歩いているうちに腰が少し痛くなった。しばらく歩いていないせいだ。片道4キロの行程のうち3キロ足らずで大事をとり、引き返すことにした。

途中で、ミワたちと合流し、7時ごろ帰宅。外はまだまだ明るい。
ピケティの新社会主義論(2) [商品世界論ノート]

引きつづき、ピケティの新社会主義論をみていく。
累進資産税の実施にあたっては国際協力が欠かせない、とピケティはいう。税金逃れが生じる恐れがあるからだ。
しかし、国レベルだけでも、資産の透明性を高めることによって、資産への課税(不動産税と富裕税)が大きな効果をもたらすことはまちがいない。とりわけ、不動産税は、不動産の所有者が個人であっても法人であっても、情報登録を義務づけることによって、確実に課税することができる。
ピケティは、私的所有権を一時的所有権とし、社会的所有に置き換えることをめざしている。そのためには、憲法改正をおこない、企業の議決権共有や累進所得税、累進資産税、資本支給の決まりを憲法の条文に追加するべきだとも述べている。
また、政府は所得や資産の区分ごとに実際の税金支払額を公表しなければならないともいう。公表された情報にもとづいて市民は税制に関する議論を深め、議会も税のパラメーターを調整することができる。
現在、西欧では税収の内訳は、国民所得の10〜15%が所得税、15〜20%が社会保険料、10〜15%が間接税(消費税や付加価値税)となっている。しかし、ピケティによれば、間接税を正当化する理由はなく、間接税は所得税や資産税に置き換えられるべきだという。
こうした置き換えをおこなっても、全税収のうち、圧倒的な部分を占めるのは累進資産税ではなく累進所得税だ。社会保障費は独立財源として守られるが、資産税は若者への資本支給として活用され、所得税はベーシックインカム(最低所得保障)の財源として用いるというのが、ピケティの考え方だといってよい。
ベーシックインカムを拡張しなければならない、とピケティはいう。かれの提案では、ベーシックインカムは平均税引き後所得の60%に設定される。すべての成人がこの最低所得を保障される。ほかの所得が増えると支給額が減らされるのはいうまでもない。
ベーシックインカムは人口の3割ほどに適用され、その総費用は国民所得の5%ほどになるという。ベーシックインカムの目的は、少ない支払いしか受けられない人びとの所得を増やすことにある。
いうまでもなく、国には保健、教育、雇用、賃金、年金、失業手当などにたいする責任もある。さらに重要なのは公正な労働報酬にもとづく社会をつくることだ。累進所得税はそのきっかけになる。
教育システムを改善しなければならないとも書いている。現在のシステムは、エリート主義的な教育に重きを置きすぎており、多くの生徒が教育的に恵まれないまま放置されているという。
経済発展と人間の進歩は教育のおかげであって、神聖化された資本によるのではないというのがピケティのとらえ方だ。1980年代以降、アメリカでもヨーロッパでも教育格差が広がっている。教育投資への公正な分配がおこなわれていない。アメリカでもイギリスでも高名な私立大学にはいるには莫大な費用がかかり、金持ちが優位に立っている。
公平な教育というけれども、実際には偽善がまかり通っているのだ。公共教育投資も実際には一部の集団に片寄っている、とピケティはいう。教師の平均給与を上げるべきだし、初等教育と中等教育への投資をもっと増やすべきだ。高等教育の受益者には、社会的多様性がもっと反映されるべきだとも述べている。
地球温暖化は格差増大と並んで、現在、人類が直面する最大の課題である。その対策として打ち出されているのが、炭素排出削減であり、その方策として、炭素排出に課税すること(いわゆる炭素税)が検討されている。だが、それだけではじゅうぶんではない。自動車やエアコン、建物の断熱についても基準をもうけ、厳格なルールが適用されなければならない。
炭素税は累進所得税に統合することが自然だ。それを再生可能エネルギーへの移行費用に回す。炭素含有量は電気などに関してはすでに計測されている。また、炭素排出が多いとされる財やサービス、たとえばジェット燃料やビジネスクラスの航空券などに高い税率を課すことなども考えられる。
新しい社会主義がめざすのは公平な経済社会だけではない。それは政治レジームの変革とも結びついている。
現在の議会制民主主義のモデルは、格差増大に対応できていない。普通選挙は一人一票の原理にもとづいているが、実際には金銭的、経済的利害が投票を動かしている。政治資金が政党の政策に影響をおよぼしていることは、まぎれもない事実だ。
これにたいし、ピケティは企業の政治献金を禁止して、「民主的平等性バウチャー」の導入を検討せよという。これは国がすべての市民に5ユーロ程度のバウチャー(クーポン券)を渡して、各自がそれを気に入りの政党や運動に寄贈するというものだ。各政党はそれを政治資金とし、完全な透明性のもとで候補者を擁立する。
「民主的平等性バウチャーの中心的な狙いは、平等で参加型の民主主義を促進することだ」と、ピケティは書いている。それにより金権議会制民主主義を打破し、直接民主主義を拡大しようというのだ。
とはいえ、ピケティは直接民主主義を実現しようというわけではない。「直接民主主義が議会制民主主義の熟議に置きかわるとは考えにくい」とも述べているからだ。あくまでも「民主的平等性バウチャーの精神は、議会制民主主義をよりダイナミックな参加型にすることであり」、全市民が政党の政策と選挙公約に関心を向けることなのだという。
さらにピケティは国家の問題にふれる。「現在のシステムで最も明確な矛盾は、財と資本の自由な流通が、各国の税制や社会政策の選択肢を大きく制限する形でまとめられていることだ」
経済社会が国家単位でまとめられていることに、そろそろ限界が露呈しはじめているのではないか。公正の問題は、すでに超国家的な課題になっている。富裕国から貧困国への開発援助の流れも存在している。さらに環境問題や生物多様性、気候変動を考えてもグローバルな公正が求められる時代になっている。にもかかわらず、国家という枠組みは相変わらずだ。
文明国は財やサービス、資本の自由な移動を認めるようになっているが、人の移動はできるかぎり阻止している。「EUの特徴は、内部で自由な移動を実現しつつ、アフリカや中東からやってくる人については、貧困や戦争を逃れてきた人々を含め、制限が強いままだという点にある」。非ヨーロッパ移民にたいする敵意は増すばかりだ。
超国家的な公正にたいする考え方は、いまだに混乱したままだ。それでもピケティは国際間における「社会連邦主義」の推進を掲げる。当面はEU内部で共通の公正性を高める努力をつづけることが重要だ。グローバルな税制やグローバルな環境保護、研究促進、グローバルな人の移動についても、超国家的な議会で議論を深めるべきだろう。
こうした超国家民主主義モデルは、EUだけではなく、たとえばEUとアフリカ連合、EUと米国とのあいだでも確立できるはずだとも述べている。それにより多国籍企業への課税や地球温暖化への対処、移民の原則、開発援助のあり方などについても、いわば超国家議会において論議することが可能なはずだという。
とはいえ、世界社会―連邦制への移行が理想的すぎて、実際にはそう簡単ではないことも、ピケティは認めている。時代はそれに逆行しているからだ。
国際的な緊張を高めることなく、はたして世界社会―連邦制への移行は実現できるのか。当面は何カ国かのグループのあいだで、これを実行し、平和的にそれを国際レベルに広げていく努力を重ねるほかない。
大著『資本とイデオロギー』において、ピケティははっきりと新社会主義の方向を打ちだしている。
それは理想論すぎるようにみえるかもしれない。それでも注目しなければならないのは、ピケティが20世紀の社会民主主義の限界、ソ連型共産主義の抑圧性、ハイパー資本主義の暴走を踏まえながら、新社会主義=参加型社会主義を提唱していることだ。
そのことにふれることで、かれの新社会主義論の根拠がさらに明らかになってくるだろう。
イタリア夏の旅日記(3) [旅]
8月5日(土)
前夜も目が覚めてしまい、眠れなくなった。時差ボケがまだつづいているのだろうか。
朝、ミワといっしょにゴミ捨てに行く。ゴミを分別するのは日本と同じだ。面白いのはゴミ収集のボックスで、カードをかざすとふたが開く仕組みになっている。これは地域の人専用で、通りすがりのだれでもが、ここにゴミを捨てられるわけではないらしい。

8時過ぎ、ミワと駅近くの生協に買い物に行く。早くから開いていって、にぎわっている。100ユーロほどの買い物をすませた。物価上昇がつづいているという。

生協にはミニ図書館もあって、会員ならだれでも自由に本を借りられるらしい。

昼、マテオの運転する車で、郊外のコロンナ・ディ・グリッロにあるレストラン、イル・ビヴァッコに行く。われわれ、ミワ一家、マテオのご両親。お母さんのふたごの妹さんがそろって食事。

つれあいとぼくはそれぞれタリアテッレとピチを頼み、二人でビフテキを一つ。赤ワインも飲み、すっかり満腹となる。おしゃべりはつきない。


小麦の収穫が終わっているため、いまはトスカーナの緑なす小麦畑は見られない。それを見るには4月か5月にまた来なければならない。
レストランからの帰り、遠回りをしてキャンティの田舎を回るつもりだったが、なんだかくたびれたので、家に戻ってくる。ちょっと食べすぎた。
途中、ブドウ畑が広がる。トスカーナの空だ。

家に戻り、4時から8時まで昼寝してしまう。まだ昼と夜の逆転がつづいている。
前夜も目が覚めてしまい、眠れなくなった。時差ボケがまだつづいているのだろうか。
朝、ミワといっしょにゴミ捨てに行く。ゴミを分別するのは日本と同じだ。面白いのはゴミ収集のボックスで、カードをかざすとふたが開く仕組みになっている。これは地域の人専用で、通りすがりのだれでもが、ここにゴミを捨てられるわけではないらしい。

8時過ぎ、ミワと駅近くの生協に買い物に行く。早くから開いていって、にぎわっている。100ユーロほどの買い物をすませた。物価上昇がつづいているという。

生協にはミニ図書館もあって、会員ならだれでも自由に本を借りられるらしい。

昼、マテオの運転する車で、郊外のコロンナ・ディ・グリッロにあるレストラン、イル・ビヴァッコに行く。われわれ、ミワ一家、マテオのご両親。お母さんのふたごの妹さんがそろって食事。

つれあいとぼくはそれぞれタリアテッレとピチを頼み、二人でビフテキを一つ。赤ワインも飲み、すっかり満腹となる。おしゃべりはつきない。


小麦の収穫が終わっているため、いまはトスカーナの緑なす小麦畑は見られない。それを見るには4月か5月にまた来なければならない。
レストランからの帰り、遠回りをしてキャンティの田舎を回るつもりだったが、なんだかくたびれたので、家に戻ってくる。ちょっと食べすぎた。
途中、ブドウ畑が広がる。トスカーナの空だ。

家に戻り、4時から8時まで昼寝してしまう。まだ昼と夜の逆転がつづいている。
ピケティの新社会主義論(1) [商品世界論ノート]

トマ・ピケティの『資本とイデオロギー』は大著で、全部読み切るには半年以上かかるだろう。それに、ぼくの頭ではたぶんとても理解しきれない。
ピケティの今回の本が大著になったのには理由がある。古代から現代までの格差の歴史をふり返ろうとしたからである。とりわけ20世紀の大転換を扱った部分はぱっと見しただけでも力がこもっている。資本主義の危機と、ふたつの世界大戦、社会民主主義の展開、その限界、共産主義の解体とポスト共産主義社会、そしてハイパー資本主義の登場と、20世紀は目まぐるしく変遷した。
それをここで過不足なく紹介するのは骨が折れる。もし元気が残っていたら、挑戦してみることにしよう。
今回は安直に『資本とイデオロギー』の最終章だけを読んでみることにした。「21世紀の参加型社会主義の要素」と題されている。
ここでピケティは、新社会主義を提唱している。
「1980年代の保守革命、ソヴィエト共産主義崩壊、新財産主義イデオロギーの発達によって、21世紀初頭の20年間で、所得と資産の集中は全世界で抑えのきかない水準に達した」と述べている。その結果、現在はさまざまなフラストレーションにあふれ、アイデンティティの亀裂と無闇なナショナリズムが世界じゅうをおおっている。
こうした状況ははたして克服できるのか。それとも、世界はこのまま混沌の時代に向かっていくのだろうか。
これにたいして、「私は今日の資本主義システムを乗り越えて、21世紀の新しい参加型社会主義の概略を描けると確信している」と、ピケティは言いきる。
いまどき、社会主義と思うかもしれない。
しかし、基本となるのは公正な社会だ。つまりだれもが、社会的、文化的、経済的、市民的、政治的な生活に参加できるようでなければならない。
ピケティが継承すべきだとしているのは、20世紀の西欧における社会民主主義であって、「ソ連などの共産主義国で試された(そしていまだに中国の公共部門で広く実践されている)、ハイパー中央集権型の国家社会主義」ではない。
ソ連とその影響を受けた国々によって、「社会主義」という用語が毀損されていることをピケティも認めている。しかし、かれがそれでも引き続き、社会主義という用語を用いるべきだというのは、とりわけ20世紀西欧における社会民主主義の経験と伝統を尊重したいと考えているからだ。
ピケティはみずからの提唱する社会主義を「参加型社会主義」と名づけている。それはどのようなものなのだろうか。
資本所有者が経済権力を専有するというのが資本主義の原理である。 その資本は私有財産(資産)と結びついている。
19世紀以来、こうした純粋な資本主義モデルを、各国は法制度や社会制度、税制によって規制してきた。
ピケティがめざす方向は、資本主義と私有財産を克服し、参加型社会主義(新社会主義)を実現することである。
それは何も暴力的な革命による必要はない。法律や税制を変えるだけで、かなりのことが実現できるというのである。
そのひとつとして、かれが挙げるのは、企業内部で徹底した権限共有をおこなうこと(資本の社会所有という原則を確立すること)。
もうひとつは巨額の財産にたいして累進課税をかけること(資産の一時所有という原則を確立すること)。
たったこれだけと思うかもしれない。だが、この変革のもたらす波及性は大きい。
その内容をみていくことにしよう。
まず企業内部での権限共有について。
具体的にいうと、これは取締役会だけではなく労働者代表も、企業内の議決権をもつようにする仕組みである。実際、ドイツやスウェーデンでは、こうした労働者参加の仕組みが実施されている。このことによって、すでに株主万能主義や短期利益主義を抑制した社会的・経済的な企業モデルが生まれつつあるという。
大株主の議決権にも上限が設けられなければならない。この生産的で公平な企業モデルには、これからさまざまな試行錯誤がなされるだろう。とはいえ、その方向は、社会に開かれた企業モデルをつくることによって、利潤追求に縛られた資本主義から生産システムを解放することにある。
次に累進資産税について。
ピケティは、際限のない所有権の集中を防ぐ制度的な仕組みを見つけなければならないという。そのためには、まずかつておこなわれていた相続と所得への累進課税を復活する必要がある。だが、それだけでは不十分だ。加えて、累進的な資産税が課されるべきだ。
現在、金持ちへの課税は、資産にくらべればごくわずかでしかない。多くの資産が免税になっており、金融資産にたいしても定率税しかかけられていないのが現状だ。
相続税を待つことなく、現時点で総資産(個人所有の不動産、事業資産、金融資産などの正味価値)に累進課税をかけるべきだ、とピケティはいう。金持ちは何十年かにわたり総資産の1〜2%を税として支払うほうが、遺産を遺族に残すときに20〜30%支払うよりも楽だとも述べている。
累進資産税の目的は、資産の循環を高め、財産の分散を促すためだ。現在、アメリカでは豊かな人びと(トップの10分の1)が総資産の70%以上を所有している。こうした状況が下層50%の人びとの経済機会を奪っていることはまちがいない。
ここで、ピケティは、これまで世界でおこなわれてきた農地改革を例に挙げる。農地改革はいまではほとんど誰もが正しかったと認める改革だ。農地改革によって、貧しい農民は自分の土地をもつようになり、田畑を耕して収穫を自分のものにすることができた。それ以前は、少数の地主の手に経済力が集中し、社会全体に貧困と対立を巻き起こしていたのだ。
しかし、ピケティにいわせれば、資産は農地だけとはかぎらない。かつての農業社会では、農地こそが資産だった。これにたいし現代では工業資産、金融資産、不動産が資産の中心となっている。いわば、現在の金持ちはかつての大地主と同じなのだ。そうだとするなら、累進資産税はいわば新時代の農地改革だというわけだ。
ピケティによれば、資産への年次累進課税、累進相続税、累進所得税の3つが、公正な社会の基本的税制となる。累進所得税には社会保障税と累進炭素税が含まれる。そして、だいじなのは、この税収によって、ベーシックインカムと公共支出のすべて(保険、教育、年金、その他)がまかなわれることだ。
ここでピケティはユニークな提言をしている。それは25歳になったすべての若者に、国がたとえば1500万円の資金を提供するというものだ。これをかれは「公的相続システム」と名づけている。この資金はどう使ってもいい。起業してもいいし、家を買ってもいいし、好きなようにつかえる。いずれにせよ、この「公的相続システム」は職業生活のスタート台になる。
その財源は、相続税と年次資産税だ。「公的相続システム」による資産の分散と若返りは、経済に新たな力をもたらすだろうという。
累進所得税について、ピケティはレーガン政権以前と同じ税率に戻すことを主張している。それは平均所得の10倍超には60〜70%、100倍超には80〜90%というものだ。
累進資産税は新しい税といえるが、重要なのは累進性だ。ピケティは、たとえばとして、全国平均より低い資産については税率0.1%、平均の2倍の資産には1%、100倍だと10%、1000倍なら60%、1万倍だと90%の累進性を提案している。これによると、億万長者の資産はただちに10分の1になる。
以上をまとめて、ピケティはこう述べている。
〈ここで提案した参加型社会主義のモデルは二つの大きな柱を持つ。まず社会的所有権と企業内の議決権共有、そして第二に一時的所有権と資本循環だ。これらは現在の私的所有権の仕組みを超克するために不可欠なツールだ。これらを組み合わせることで、今日の私有資本主義とは似ても似つかない所有権の仕組みが実現できる。これは本当の意味で資本主義の超克となる。〉
はたして、それは実現可能なのか。可能だとしても、そこには大きな落とし穴がひそんでいないか。ピケティの新社会主義論はまだまだつづく。引きつづき、考えてみることにしたい。
イタリア夏の旅日記(2) [旅]
8月2日(水)〜8月4日(金)
ミワの夏休みは8月5日の土曜日から20日の日曜日までの2週間だ。それまでは仕事に行かなければならない。休みにはいるまでの3日間、われわれ夫婦はここシエナ郊外の家で、のんびりすごした。この場所は、世界遺産になっているシエナの旧市街から鉄道駅をはさんで、向かい側の丘の上にある。旧市街からはバスで10分ほどの距離だ。

ベランダからの風景。何といっても、空が青く広いのがトスカーナの恵みだ。一戸建ての家はお金持ちで、ふつうの人の家は集合住宅と相場が決まっている。屋根の色と壁の色は、レンガ色(シエナ色といってもいいだろう)で統一されている。窓はシャッターで、上にもあがるが、押せば開くようになっている。地域住民の車なら路上に駐車できる。
2日の朝は6時半に目が覚めた。7時半に車で仕事に行く娘を見送る。仕事場はモンテバルキにあるプラダ本社で、通勤に1時間ほどかかる。9時ごろ、この家の亭主マテオが病院の夜勤明けで戻ってくる。久しぶりの再会で、たがいの無事を喜びあった。
これはお隣の写真。1階はガレージ。道路際には植え込みがあって、ベランダにはテーブルが置かれている。写真には写っていないが、この先には教会がある。

つれあいは洗濯をはじめる。そのかんに、ふだんはあまり使わない炊飯器を取り出し、日本から持ってきた米をとぎ、炊飯の予約をした。
高校生のユウキは昼にならないと起きてこない。イタリアの学校は6月半ばから9月半ばまでと夏休みが長い。部屋に閉じこもってゲームをする至福の日々がつづく。
ユウキが起きてから、うどんを茹でて、冷やしうどんをつくった。ユウキは温かいのしか食べない。なかに玉子を割って入れたら、きらいらしく、渋々食べた。好き嫌いが激しいのは小さいときからだ。
午後1時半、マテオが再び病院の仕事に出かける。シエナも暑いけれど、船橋に比べると、ずっと涼しく感じられる。標高が300メートルほどあるせいかもしれない。それだけではない。湿度が低いのだ。日本の蒸し暑さから逃れられるだけでもありがたい。
昼過ぎになると、時差ぼけのせいで(それだけではないかもしれないが)、急に眠気が襲ってきて、うとうとしてしまう。
夕方7時半ごろから食事を始める。ミワが仕事から戻ったのは8時ごろだ。ふたりとも毎日、忙しい。
夜は時差ボケのせいで、あまりよく眠れない。翌日もふたりは仕事に行き、われわれは帰路に立ち寄ることにしているコモ湖とミラノの旅行計画を練る。ユウキは昼になって起きてくる。きのうのうどんは評判が悪かったので、きょうはパスタをゆでる。
ユウキは日本語が話せない。
iPadで日本の孫たち(かれにとっては年下のいとこたち)の写真を見せながら、英語で話しかける。
「学校はおもしろい? どんな科目が好き? ガールフレンドはできたの?」などと、聞いてみる。
学校はいやではないらしい。哲学が好きというのはびっくり。友達はいるけど、ガールフレンドはいないらしい。恥ずかしそうにノーノーとくり返して笑う。
じいさん、ばあさんにとっては、ユウキと会話ができるのが、何よりも楽しい。イタリアにやってきた甲斐があるというものだ。
また昼寝をする。起きてから、退屈なので、テレビをつける。ワイドショーのような番組をやっている。ストーカーによる殺人事件、それからミラノの森の老女殺害遺棄事件などが話題になっているようだ。イタリア語なので、詳細はよくわからない。同じような事件が起こっているのは日本もイタリアも変わらないようだ。
こちらでは、よほど大きなできごとでもないかぎり、日本のニュースは流れない。精神衛生上は、そのほうがいいかもしれない。
晩は残り物のハンバーグと麻婆茄子を用意する。マテオは7時ごろ、ミワは8時ごろ、仕事から戻ってくる。みんなでワインを開けながら食事をする。
その夜もよく眠れなかった。朝、かなり激しい雨が降った。
ミワとマテオが仕事にでかけたあと、われわれはフェイスタイムを開き、船橋に住む次女や孫たちとテレビ会話をする。便利な時代になったものだ。
家じゅうの掃除をし、洗濯もした。昼、ユウキは自分でパスタを調理し、われわれは残り物を食べた。午後は少し昼寝。このパターンがつづいている。時差ぼけがなかなか戻らない。夕方、マテオの両親が挨拶にやってきてくれた。二人とも5年前とさほど変わらず、安心する。早口のイタリア語はわからないが、その端々からお互いコロナ禍を生き延びた喜びが伝わってきた。夜は、生姜焼きとスペイン風オムレツを作る。マテオは休暇前の最後の夜勤で病院に。8時過ぎ、ミワが戻ってくる。明日からはようやく2週間の夏休みだ。
ミワの夏休みは8月5日の土曜日から20日の日曜日までの2週間だ。それまでは仕事に行かなければならない。休みにはいるまでの3日間、われわれ夫婦はここシエナ郊外の家で、のんびりすごした。この場所は、世界遺産になっているシエナの旧市街から鉄道駅をはさんで、向かい側の丘の上にある。旧市街からはバスで10分ほどの距離だ。

ベランダからの風景。何といっても、空が青く広いのがトスカーナの恵みだ。一戸建ての家はお金持ちで、ふつうの人の家は集合住宅と相場が決まっている。屋根の色と壁の色は、レンガ色(シエナ色といってもいいだろう)で統一されている。窓はシャッターで、上にもあがるが、押せば開くようになっている。地域住民の車なら路上に駐車できる。
2日の朝は6時半に目が覚めた。7時半に車で仕事に行く娘を見送る。仕事場はモンテバルキにあるプラダ本社で、通勤に1時間ほどかかる。9時ごろ、この家の亭主マテオが病院の夜勤明けで戻ってくる。久しぶりの再会で、たがいの無事を喜びあった。
これはお隣の写真。1階はガレージ。道路際には植え込みがあって、ベランダにはテーブルが置かれている。写真には写っていないが、この先には教会がある。

つれあいは洗濯をはじめる。そのかんに、ふだんはあまり使わない炊飯器を取り出し、日本から持ってきた米をとぎ、炊飯の予約をした。
高校生のユウキは昼にならないと起きてこない。イタリアの学校は6月半ばから9月半ばまでと夏休みが長い。部屋に閉じこもってゲームをする至福の日々がつづく。
ユウキが起きてから、うどんを茹でて、冷やしうどんをつくった。ユウキは温かいのしか食べない。なかに玉子を割って入れたら、きらいらしく、渋々食べた。好き嫌いが激しいのは小さいときからだ。
午後1時半、マテオが再び病院の仕事に出かける。シエナも暑いけれど、船橋に比べると、ずっと涼しく感じられる。標高が300メートルほどあるせいかもしれない。それだけではない。湿度が低いのだ。日本の蒸し暑さから逃れられるだけでもありがたい。
昼過ぎになると、時差ぼけのせいで(それだけではないかもしれないが)、急に眠気が襲ってきて、うとうとしてしまう。
夕方7時半ごろから食事を始める。ミワが仕事から戻ったのは8時ごろだ。ふたりとも毎日、忙しい。
夜は時差ボケのせいで、あまりよく眠れない。翌日もふたりは仕事に行き、われわれは帰路に立ち寄ることにしているコモ湖とミラノの旅行計画を練る。ユウキは昼になって起きてくる。きのうのうどんは評判が悪かったので、きょうはパスタをゆでる。
ユウキは日本語が話せない。
iPadで日本の孫たち(かれにとっては年下のいとこたち)の写真を見せながら、英語で話しかける。
「学校はおもしろい? どんな科目が好き? ガールフレンドはできたの?」などと、聞いてみる。
学校はいやではないらしい。哲学が好きというのはびっくり。友達はいるけど、ガールフレンドはいないらしい。恥ずかしそうにノーノーとくり返して笑う。
じいさん、ばあさんにとっては、ユウキと会話ができるのが、何よりも楽しい。イタリアにやってきた甲斐があるというものだ。
また昼寝をする。起きてから、退屈なので、テレビをつける。ワイドショーのような番組をやっている。ストーカーによる殺人事件、それからミラノの森の老女殺害遺棄事件などが話題になっているようだ。イタリア語なので、詳細はよくわからない。同じような事件が起こっているのは日本もイタリアも変わらないようだ。
こちらでは、よほど大きなできごとでもないかぎり、日本のニュースは流れない。精神衛生上は、そのほうがいいかもしれない。
晩は残り物のハンバーグと麻婆茄子を用意する。マテオは7時ごろ、ミワは8時ごろ、仕事から戻ってくる。みんなでワインを開けながら食事をする。
その夜もよく眠れなかった。朝、かなり激しい雨が降った。
ミワとマテオが仕事にでかけたあと、われわれはフェイスタイムを開き、船橋に住む次女や孫たちとテレビ会話をする。便利な時代になったものだ。
家じゅうの掃除をし、洗濯もした。昼、ユウキは自分でパスタを調理し、われわれは残り物を食べた。午後は少し昼寝。このパターンがつづいている。時差ぼけがなかなか戻らない。夕方、マテオの両親が挨拶にやってきてくれた。二人とも5年前とさほど変わらず、安心する。早口のイタリア語はわからないが、その端々からお互いコロナ禍を生き延びた喜びが伝わってきた。夜は、生姜焼きとスペイン風オムレツを作る。マテオは休暇前の最後の夜勤で病院に。8時過ぎ、ミワが戻ってくる。明日からはようやく2週間の夏休みだ。
イタリア夏の旅日記(1) [旅]
2023年8月1日(火)
イタリアに行くのは5年ぶりだ。長女の一家がトスカーナ州のシエナで暮らしている。日本に来てくれたのは4年前、それ以来、新型コロナが流行し、往来ができなくなった。フェイスタイムで2週間に1度くらいは連絡するものの、直接会えないのはやはりさみしい。
孫のユウキは17歳になった。このところフェイスタイムにも出てこない。元気でいるのかも気になる。
この4年で、ぼくは髪も眉毛も真っ白になり、すっかり年を取った。母に次いで6月には父が亡くなり、心のうちはともかく、故郷との縁も薄くなりつつある。だんだんと外に行くのがおっくうになった。
今回の旅行も計画したのはつれあいで、ぼくはノコノコついていく感はいなめない。積極的に何かをやろうという意志が欠けているのも年を取った証拠だ。体も頭も劣化が進んでいる。飛行機による長い移動に耐えられるか、とくにトイレが心配だったので、紙おむつを着用した。
船橋駅前発朝5時55分の羽田空港行きバスに乗り込む。ふたりで自宅から重い荷物3個を引っ張って、よたよたと駅まで歩く。重くなったのは、中身に10キロのお米や、真空パックのお餅、乾麺、インスタントラーメンなどの食料品が含まれているからだ。明け方まで降っていた雨が5時すぎにやんだのは助かった。
7時すぎ羽田第3ターミナルに到着。大混雑だ。日本からの外国人帰国客が多い。円安がつづいている。インバウンドとやらの影響が大きいのだろう。ミュンヘンまでは、9時40分発のルフトハンザ機だ。
ロシアとウクライナが戦争をしているため、ロシア上空は飛べない。そのため、ベーリング海峡を抜けて、アラスカ上空を通過するルートをとったのには、さすがに驚いた。さらに飛行機はグリーンランド、北海、ノルウェーを経由してミュンヘンに到着する。14時間半ほど、いつもより2時間半ほど長くかかった。
機内では日本映画を含め、3本ほど映画を見た。はずればかりだった。あとはうとうと。ビジネスはもちろん、プレミアムエコノミーの席も高すぎて、われわれにはとても手がでなかった。しかし、ひとり1万8000円ほど追加料金を出して足元の広い座席を確保できたため、エコノミーだったにもかかわらず足が伸ばせて楽ができたのはありがたかった。
ちなみに、イタリアとの往復料金は追加分を除いて2人で約50万円。これでも安い日にちを選んだつもりだが、以前に比べると、ずいぶん高くなったのを痛感する。しかし、この4年海外旅行に行けず、あと何回かしか行けないだろうということを考えれば、高くても仕方ないのかとも思ってしまう。最近は怒ることも少なくなり、何もかもすっかりあきらめの境地だ。
初めてのミュンヘン空港ではターミナル2への行き方がわからず、ウロウロしてしまう。まさか地下から電車に乗るとは思ってもみなかったが、乗り換え時間はたっぷり2時間あったので、その点は安心だった。
ミュンヘン発フィレンツェ行きのドロミテ航空は出発がずるずると遅れ、少しいらいらする。せっかちな日本人気質が抜けない。この季節、ヨーロッパ時間の夜8時、9時はまだ明るい。

ドロミテ航空という名前どおり、飛行機がドロミテ山塊の上を通過することはじゅうぶんに予測できた。窓際の席を確保したつれあいは、目をこらして地上を見つめ、スマホで写真をとっている。

飛行機はドロミテの上を飛んでいる。どこかにトレチーメが見えるはずだが、よくわからない。

つれあいによると、この独立峰はモンテペルモのはずだという。

ドロミテにはこれまで3回訪れている。雄勁な山容は一度見ると忘れられない。11年前、その麓で撮ったユウキの写真が残っていた。

現地時間の夜10時ごろフィレンツェ空港に到着。迎えに来てくれた長女ミワの車で、シエナの自宅へ。11時半ごろ到着。時差を考えると、日本からほぼ丸1日かかったことになる。ユウキが起きていて、出迎えてくれた。すっかり高校生だ。
イタリアに行くのは5年ぶりだ。長女の一家がトスカーナ州のシエナで暮らしている。日本に来てくれたのは4年前、それ以来、新型コロナが流行し、往来ができなくなった。フェイスタイムで2週間に1度くらいは連絡するものの、直接会えないのはやはりさみしい。
孫のユウキは17歳になった。このところフェイスタイムにも出てこない。元気でいるのかも気になる。
この4年で、ぼくは髪も眉毛も真っ白になり、すっかり年を取った。母に次いで6月には父が亡くなり、心のうちはともかく、故郷との縁も薄くなりつつある。だんだんと外に行くのがおっくうになった。
今回の旅行も計画したのはつれあいで、ぼくはノコノコついていく感はいなめない。積極的に何かをやろうという意志が欠けているのも年を取った証拠だ。体も頭も劣化が進んでいる。飛行機による長い移動に耐えられるか、とくにトイレが心配だったので、紙おむつを着用した。
船橋駅前発朝5時55分の羽田空港行きバスに乗り込む。ふたりで自宅から重い荷物3個を引っ張って、よたよたと駅まで歩く。重くなったのは、中身に10キロのお米や、真空パックのお餅、乾麺、インスタントラーメンなどの食料品が含まれているからだ。明け方まで降っていた雨が5時すぎにやんだのは助かった。
7時すぎ羽田第3ターミナルに到着。大混雑だ。日本からの外国人帰国客が多い。円安がつづいている。インバウンドとやらの影響が大きいのだろう。ミュンヘンまでは、9時40分発のルフトハンザ機だ。
ロシアとウクライナが戦争をしているため、ロシア上空は飛べない。そのため、ベーリング海峡を抜けて、アラスカ上空を通過するルートをとったのには、さすがに驚いた。さらに飛行機はグリーンランド、北海、ノルウェーを経由してミュンヘンに到着する。14時間半ほど、いつもより2時間半ほど長くかかった。
機内では日本映画を含め、3本ほど映画を見た。はずればかりだった。あとはうとうと。ビジネスはもちろん、プレミアムエコノミーの席も高すぎて、われわれにはとても手がでなかった。しかし、ひとり1万8000円ほど追加料金を出して足元の広い座席を確保できたため、エコノミーだったにもかかわらず足が伸ばせて楽ができたのはありがたかった。
ちなみに、イタリアとの往復料金は追加分を除いて2人で約50万円。これでも安い日にちを選んだつもりだが、以前に比べると、ずいぶん高くなったのを痛感する。しかし、この4年海外旅行に行けず、あと何回かしか行けないだろうということを考えれば、高くても仕方ないのかとも思ってしまう。最近は怒ることも少なくなり、何もかもすっかりあきらめの境地だ。
初めてのミュンヘン空港ではターミナル2への行き方がわからず、ウロウロしてしまう。まさか地下から電車に乗るとは思ってもみなかったが、乗り換え時間はたっぷり2時間あったので、その点は安心だった。
ミュンヘン発フィレンツェ行きのドロミテ航空は出発がずるずると遅れ、少しいらいらする。せっかちな日本人気質が抜けない。この季節、ヨーロッパ時間の夜8時、9時はまだ明るい。

ドロミテ航空という名前どおり、飛行機がドロミテ山塊の上を通過することはじゅうぶんに予測できた。窓際の席を確保したつれあいは、目をこらして地上を見つめ、スマホで写真をとっている。

飛行機はドロミテの上を飛んでいる。どこかにトレチーメが見えるはずだが、よくわからない。

つれあいによると、この独立峰はモンテペルモのはずだという。

ドロミテにはこれまで3回訪れている。雄勁な山容は一度見ると忘れられない。11年前、その麓で撮ったユウキの写真が残っていた。
現地時間の夜10時ごろフィレンツェ空港に到着。迎えに来てくれた長女ミワの車で、シエナの自宅へ。11時半ごろ到着。時差を考えると、日本からほぼ丸1日かかったことになる。ユウキが起きていて、出迎えてくれた。すっかり高校生だ。
『貧乏人の経済学』を読む(4) [商品世界論ノート]

貧しい人たちは思いもかけぬ手段を用いて、稼ぎを得ようとします。かれらは天性の起業家だ、と著者はいいます。
ゴミ拾いから始めて、ゴミの分別をし、そこからリサイクル事業を立ち上げた人もいます。服飾学校を終えたあと、村の人に服飾を教え、中古ミシンを買い、縫製事業を始めた人もいます。その事業は大成功を収めました。しかし、それはごくごく例外です。
現実はといえば、多くの人の営む事業(商売)はとてもちいさくて、競争相手も多くて、ほとんどもうからないのです。インドでは1日2ドルほどの儲けがでればいいところだといいます。そういう人は、さらに融資を受けて、商売を大きくしようとはしません。
たとえ投資をして商売を大きくしても、商品を多く仕入れ、人も雇わなければいけないし、忙しい目にあうだけで、たいして儲からないことがわかっているからです。
本気で稼ぐつもりなら、どこかで壁を突破しなければなりません。それが起業のむずかしさです。たいていの人はそこであきらめてしまい、たとえ融資を受けることができても、その多くを別のことに使ってしまいます。
残念ながら貧乏な人の商売は働き口がないときに、何とか食っていくための手段でしかないようです。商売をするのはたいてい女性で、家事とかけもちです。
「貧乏人による多くの事業は、その起業家精神を証明するものではなく、むしろ彼らの暮らす経済がもっとましなものを提供してくれないというひどい失敗の症状なのかもしれない」と、著者は書いています。
そこで、成長著しいインドあたりでは、貧乏な人の夢は子どもに公務員か民間企業のサラリーマンになってほしいということになります。女の子なら、教師、公務員、看護婦が職業選択の上位を占めます。
特に公務員が人気があるのは、安定性への欲求が強いからです。「実は雇用の安定性こそが、中流階級と貧乏な人々との大きなちがいのよう」だ、と著者も指摘しています。
安定した雇用は人生の見通しを変えます。未来があるという感覚が与えられるのです。これは貧困の落とし穴にはまった人にはないものです。
都市への移住は貧乏から脱出するひとつの可能性を与えます。しかし、都市でも安定した所得が得られる仕事はごくまれです。出稼ぎはあくまでも一時的な収入を得るためでしかありません。それでも同じ村の人が都市に移住しているのなら、村のつながりをあてにして、都市でも何かの仕事を見つけられるかも知れません。とはいえ、都市で「よい仕事」を見つけるのは至難の業です。
著者はマイクロファイナンスの融資が10億人もの「はだしの起業家」を生み出すというのは幻想にほかならないと断言します。
〈マイクロ融資など、ちっちゃな事業を助ける手法は、それでも貧困者の生活において重要な役割を果たせます。というのも、そうしたちっちゃな事業は、おそらくこの先当分のあいだは貧乏な人たちが生き延びるための唯一の方法であり続けるからです。でも、それが貧困からの大量脱出になると思うのは、自己欺瞞でしかありません。〉
これはなかなか厳しい結論です。
それならば、マイクロ融資の手助けには限界があるとしたら、政治もまた救いの手にはならないという結論が導かれるかもしれません。
貧困国政府の無能ぶりと汚職はずいぶん前から指摘されてきた、と著者はいいます。たとえば、ウガンダでは、初等教育を改善するために外国からの援助をもらっても、途中でピンハネされて、その予算が実際に学校に届いたときには、ごくわずかの金額になっていました。
ところが、その調査報告がウガンダの新聞に発表されると、全国で怒りの声が巻き起こったのです。そして、ついには学校が自由に使える資金が増えていったという事実があります。
「小刻みの進歩とこうした小さな変化を積み重ねれば、時には静かな革命だって起こるのだ」と、著者はコメントしています。
途上国ではダメな政治・経済制度のもと、汚職や怠慢が横行しています。しかし、著者は、それでも「小刻みの進化」と「小さな変化」を積み重ねるなら、「静かな革命」が起こりうるのだというのです。
選挙方法のチェックと改善、公共サービスの情報開示と苦情の受け付け、村落集会の新しいやり方、そうしたこまごまとした点検と改革から大きな変化が生まれてくる可能性があります。とりわけそのなかで女性の果たす役割がだいじです。できることはいろいろ残っている、と著者はいいます。
途上国でも公務員がしていいこと、悪いことについてはたくさんの規定があります。しかし、公務員の給料が低く、監視もふじゅうぶんな場合や、裁量と目に見えぬ賄賂が横行しているところでは、つねに汚職と怠慢のリスクが発生します。
また紙の上でつくった官僚のルールが、現場と適合していないこともよく見かけられます。それは医療現場でも教育現場でも、しばしばあることです。多くの計画がかたちだけしか知らされず、実際に機能していないこともあります。それらはすべて改善の余地があります。
「大規模な無駄と政策の失敗が起こるのは何か深い構造問題があるからではなく、政策設計の段階できちんと考えなかったからであることが多い」という著者の指摘には聞くべきものがあります。
政策にたいする低い期待は、政策そのものの効果を奪っていきます。こうした悪循環を断つことがだいじです。政治といえば、「公共の利益」よりも「利益誘導型」の政治のほうが優位に立ちがちです。しかし、信頼できるメッセージがあれば、有権者は全体の利益につながる政策を支持するはずだ、と著者は述べています。
周縁部分で制度や政策を改善する余地はあり、こうした変化を持続し、積み重ねていくことが、「静かな革命」につながるのだというのが、著者の考え方のようです。
最後に貧しい人たちの生活を改善するための5つの教訓が示されています。
第1に、貧しい人は正しい情報をもっていないことが多く、それを伝えることがだいじだということです。
第2に、貧しい人はあまりにも多くさまざまな問題をかかえこみすぎており、たえず心配を強いられているが、預金にしても健康にしても、正しいとわかっていることを確実に実行すれば、現在の生活を改善できるということです。
第3に、貧しい人たちはこれまで市場や金融からも排除されていたが、マイクロファイナンスが新しい生活の可能性を開き、公共サービスの充実もますます求められているということです。
第4に、貧乏な国は貧乏だからといって、失敗を運命づけられているわけではなく、むしろ周縁から無知、イデオロギー、惰性を克服していけば、いくらでも改善の余地はあるということです。
第5に、悲観主義におちいらず、無理のない期待をもちつづけることがだいじであって、それは楽ではないが、不可能な道ではないということです。
最後に著者は貧困を解決する一般原理などはないと述べています。現場の実情を辛抱づよく理解することに努め、貧困から抜けだす道をさぐる以外にないのです。貧困は何千年も人類とともにありましたが、さまざまなアイデアを探求することで、だれもが1日1ドル以下で暮らさなくておいい世界に到達できるはずだと記しています。
われわれはおうおうにして自分の国のことしか考えず、それもしばしば自分に都合のいいことばかりを想定しがちですが、もっと世界全体のことに目を開くのもだいじではないでしょうか。そのことを本書は教えてくれます。
『貧乏人の経済学』を読む(3) [商品世界論ノート]

貧困の落とし穴から脱出するには、当の家族がみずからの力で脱出の方向を探る以外に方法はありません。すべての人を幸福にする社会主義はひとつの理想かもしれませんが、現実には存在しないといってもよいでしょう。だとすれば、いま現に存在する制度が、はたしてどの程度、貧困からの脱出を手助けする手段となるのかが問われなければならない、と著者はいいます。
人生にはリスクがつきものです。雇われていた会社を解雇される、夫と離婚する、子どもが引きこもりになる、事業に失敗する、干魃や洪水で田畑がだめになる、その他さまざまな困難が人を襲います。加えて、内乱や政治不安、金融危機や盗難、詐欺が生活を直撃することになれば、そこから立ちなおるのは、そう簡単ではありません。
いったん貧困のゾーンに陥ってしまうと、そこからはなかなか抜けだせなくなります。しまいには立ちなおろうとする意欲も失い、すっかり落ちこみ、何ごとにも集中できなくなるのは悲しい現実です。
貧しい人のあいだでも、できるかぎりリスクを避けるための工夫はなされている、と著者はいいます。たとえば所有する畑を分散する、家族のメンバーが多様な職業につく、出稼ぎにいくといったことです。貧しい一家が小作人になる道を選ぶこともあります。たくさんの仕事を掛け持ちする場合もあります。
村には困っている人を助ける助け合いのネットワークもありますが、それには限界もあります。
とりわけ健康上の問題が生じて、収入が落ちこみ、医療費もかさんだりすると、近所の助けだけでは間に合いません。そこで、仕方なく金貸しからカネを借りることになりますが、そうなると金利が積み重なって、借金がたちまち膨らんでいきます。
富裕国ではさまざまな保険が行き渡っていますが、途上国では健康保険を含め、貧しい人向けの保険はほとんどない、と著者はいいます。マイクロファイナンスのなかには、保険を導入しようとした機関もありました。しかし、保険にはいろうとした人はほとんどいなかったといいます。
なぜ貧しい人は保険にはいろうとしないのか。災害がおこったときは国が助けてくれるとたかをくくっているという見方もあります。保険をかけても、はたして元がとれるのかと疑いをもっている人が多いという見方もあります。
いずれにせよ、かなりの後押しと説得がなければ、貧しい人は保険にはいりたがらないといいます。保険会社への信用もいまひとつです。さらに、保険が支払われるのは、最悪の病気や事故の場合だけだということが、保険加入をためらわせています。
そのため、著者は当面は政府による介入が必要だといいます。政府が公共の資金を投入して、保険に補助金を出し、貧しい人のあいだにも保険システムが行き渡るよう努めるべきだと提言しています。保険会社を育成することは、途上国政府のひとつの任務といえるでしょう。
マイクロファイナンスについて考えてみましょう。
何も持たない貧しい人が商売をはじめます。路上に果物や野菜を並べて、それを売ります。屋台を引いて、食べ物を売ったりもします。その仕入れ費用やレンタル料はばかにならず、ほとんど稼ぎにならないこともあります。こうした貧乏な人たちの商売を手助けするためにつくられたのがマイクロファイナンスだといいます。
マイクロファイナンスの目的は、貧しい人への小規模融資によって、人びとを貧困の落とし穴から脱出させることです。銀行は貧乏人におカネを貸してくれません。金貸しは貸してくれますが、法外な利息をとります。それでも貧乏な人たちは金貸しからカネを借りて、その結果、悲惨な目にあうことが多かったのです。
マイクロファイナンスは、1970年代半ばにバングラデシュでムハマド・ユヌスがグラミン銀行をつくったときがはじまりです。以来、世界各地でさまざまなマイクロファイナンス機関がつくられ、現在、その利用者は2億人ともいわれます。
マイクロファイナンスの特徴は、個人に融資するのではなく、借り手のグループに融資し、連帯責任を負わせることだといいます。一定額を毎週ごと返済しなければならず、借り手は毎週、グループごとに集まって、決められた返済金額を融資担当者に渡すことになっています。南アジアのマイクロファイナンスでは、年利はほぼ25%ですが、債務不履行はまずないといいます。
マイクロファイナンスははたして貧困からの脱出に役立っているのでしょうか。奇跡的とはいえないが、まあまあの成果はもたらしているというのが著者たちの結論です。
それは多くの起業を手助けし、自転車や冷蔵庫、テレビなどの耐久財の購入に結びつくいっぽう、無駄な消費の抑制にも寄与しています。そのいっぽう、女性の地位はさほど上がっていないし、教育や保険への支出も増えていないこともわかっています。
マイクロファイナンスは全能ではありません。著者たちは、はっきりとその限界も指摘しています。マイクロファイナンス機関を特徴づける「貸し倒れゼロ」のこだわりが、多くの潜在的利用者にとっては厳しすぎるといいます。
マイクロファイナンスからおカネを借りて、新規事業をはじめ、それを成功させるには、相当の勇気と知恵が必要です。しかも、返済は連帯責任ですから、緊張関係もあります。
さらにいうと、マイクロファイナンスはあくまでも多くの貧乏な人に低金利で融資するのが目的なので、より大きな企業をめざす人にとってはじゅうぶんではないといいます。リスクをとりたがる人物にはまったく向いていないのです。ほとんどの融資はきわめて少額なままです。
著者はこう指摘します。
〈マイクロファイナンス運動は、困難はあっても貧乏な人に貸すのは可能だということを実証しました。マイクロファイナンス機関がどれほど貧乏人の暮らしを変えるかについては議論の余地があるでしょう。でもマイクロファイナンス融資がいまのような規模に達したという事実だけでも、驚くべき成果です。貧乏な人に向けたプログラムのなかで、これほど多くの人を助けたものはありません。でも、貧乏人への融資を成功に導いたプログラムの構造そのものが、もっと大きな事業の創設と資金提供への踏み台になれない原因になっています。発展途上国の金融にとって、次の大きな挑戦は中規模企業への資金提供手法を見つけることです。〉
限界はあるにせよ、マイクロファイナンスが多くの貧しい人を救っていることは事実のようです。
貯金の話にもふれています。
貧乏な人はほとんど融資をあてにできない。かといって、リスクを避けるための保険にはまずはいらない。貯金するかというと、貯金もしない。そんなふうに著者は書いています。
貧乏人はなぜ貯金しないのか。かれらも将来のことを心配していないわけではない。しかし、貧乏人でフォーマルな貯蓄機関に貯蓄口座を持っている人はあまりいない。かれらがよく利用するのは英語ではメリーゴーラウンド、フランス語ではトンタンと呼ばれる回転型貯蓄信用組合だといいます。
これは昔、日本にあった講のようなものです。何人か、あるいは何十人かのメンバーが定期的に集まって、共通の鍋に同じ金額を預け、ある程度の期間がくると、メンバーのひとりが、鍋の全額を受け取れるという仕組みです。いくつもの貯蓄信用組合(講)にはいっている人もいます。
このいわば講からおカネをもらった人はトウモロコシを買ったり、家を建てる資金の一部にしたりします。これは伝統的な創意工夫ですが、それはほかに代替案がないからです。
銀行は少額口座を扱おうとしません。管理費用がかかるからです。おカネを引きだすには引き出し手数料がかかるため、貧しい人は銀行口座をつくろうとしないといいます。
改善策がないわけではありません。たとえばグループを組んで、グループで口座をつくり、みんなで引き出しや預け入れをおこなうというのもひとつです。銀行が近くになくても、地元の商店に行けば預金ができるようにするというのもひとつの方法です。携帯電話を使って預金の出し入れを簡単にすることもできるでしょう。
しかし、そもそも預金しようとする人が少ないのです。預金を増やすには、たとえば少しお茶を控えるだけでいいのです。塵も積もればというわけですね。ところが、そうしないで、おカネがあればついつい使ってしまい、肝心なときにはおカネがないというのが実情のようです。
人間の心理と時間不整合はよく生じることだといいます。きょうはほしいものを買って、明日からはもっと有意義なおカネの使い方をするぞと決心するのは、よくある心理です。ところが明日になると、誘惑に負けてしまいます。その点、アルコールやタバコ、お菓子、お茶などは典型的な誘惑財だといいます。
収穫直後におカネを手にした農民が、その一部を貯蓄しないで、すぐに使ってしまうのには、あればパッと使うという心理がはたらいているのだろうか、と著者は推察します。
なかには娘の結婚資金として貯蓄するために、マイクロファイナンスから借金をするという人もいます。おカネを借りれば返済しなければならないから、無駄なおカネを使わないようにできるというのです。貯蓄をするために、わざわざ高い利子を払ってマイクロファイナンスからおカネを借りる必要はないのに、そうするのは転倒した心理ですが、少しずつ貯金しておカネを貯めようとしても、途中で使ってしまいそうで、自信がないというのもわかります。
しかし、こうした心理も貯蓄慣れしていないことから発しているのかもしれません。おカネがあれば、それを無駄づかいしかねません。どうせ明日誘惑に負けるなら、今日のうちに使ってしまおうというわけです。その結果、負のスパイラルが生じます。
能動的に預金するにはよほどの自制心を必要とします。サラリーマンならば、天引きで自動的に貯金することも可能ですが、日々ストレスにさらされている貧しい人が自制心を発揮するのはかなり困難なことだ、と著者はいいます。
こうして豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなるという構図が生まれます。
貯蓄のない貧しい人は、何らかの物入りがあれば、借金をしないわけにはいかず、借金をすれば、そこからなかなか抜けだすことができません。すると、ますますストレスがたまっていきます。
貧困の落とし穴から抜けだすには、長期的な目標と楽観主義が必要です。目先の気まぐれに流されず、無駄を切り詰め、ストレスを回避し、将来に希望をもつこと。そこから、貯金をしようという動機も生まれてくるはずだ、と著者はいいます。
できるだけ簡単に紹介しました。次回は結論になります。
『貧乏人の経済学』を読む(2) [商品世界論ノート]

食につづき健康が取りあげられます。
世界では毎年、5歳未満で亡くなる子どもたちが900万人いますが、そのうち2割がロタウイルスによる下痢が原因です。この症状は水を殺菌する塩素剤漂白剤と、塩と砂糖を含む経口補水液(ORS)で改善しますが、こうした手軽な方法が、上下水道のまだ普及していない地域では、ほとんど使われていない、と著者は指摘しています。
貧困と健康が密接に結びついていることはたしかです。不健康なら働けず、働けなければ借金がかさみます。健康を維持するには、蚊帳によるマラリアの予防、上下水道の整備などが大きな効果を発揮するのはまちがいありません。
しかし、こうした公衆衛生の普及には費用がかかります。でもたいした費用ではないのです。蚊帳もそうですが、水道がない場合は塩素系漂白剤を利用すればよいのです。しかし、多くの人はそれを利用しようとしません。
健康に関心がないわけではないのです。問題はかれらがむしろ伝統と習慣にもとづいて、困難を乗り越えようとすることにある、と著者は指摘します。インドでは病気になったとき、貧しい人びとが頼るのは、いまだに祈祷師と無資格の民間医なのです。民間医は注射に加え、やたら抗生物質を濫発しますが、その治療は「何の役にも立たないどころか害になる」と著者は憤慨しています。
さらに問題なのは予防措置を実施する政府の保健センターがうまく機能していないことです。保健センターは閉まっていることが多く、開いていてもおざなりな対応しかせず、村民にあまりあてにされていないのです。そのため、村民が信頼するのは昔ながらの方法で、相変わらず心療治療師や祈祷師に頼りがちになります。
しかし、移動式の予防接種キャンプを組織して村を訪れ、予防接種をすれば何か景品をもらえるというようにすれば、村人は集まり、予防接種の摂取率は高まるといいます。こうしたちいさなインセンティブも人びとを後押しすることになるのです。その意味では、ちょっとした工夫次第で貧しい村の健康を促進することが可能になる、と著者は指摘します。もちろん、そのさいには予防接種の効果にたいする説明も必要になってくるでしょう。
貧しい国の保健政策で第一の目標とすべきことは「貧乏な人々の予防的ケアをできるだけ容易にしつつ、同時に人々が得る治療の質を規制すること」だと、著者は論じています。
次は教育問題です。
教育は受けたほうがいいにきまっています。多くの国で小学校は無料になっています。しかし、途上国では、子どもの欠席率がかなりの割合にのぼり、中学校どころか小学校にも行かない(あるいは行かせてもらえない)子どもたちが多いといいます。
世界のほとんどどこでも小学校と中学校は設置されるようになってきました。学校に行く子どもも増えてきました。それでも簡単な文章を読んだり、簡単な算数ができたりする子どもの割合は低いのが実情です。
親からみれば教育は子どもへの投資であり、贈り物でもあります。しかし、それを嫌がる親もいます。教育におカネをかけるより、自分たちのために子どもをすぐはたらかせたほうがよいと考える親もいるからです。
しかし、教育による学習が高賃金の雇用と結びついていることはたしかです。中等教育を終えた人のほうが正規の仕事につきやすいし、自分の事業にしてもうまく営むことができるのです。教育を受けないまま仕事をしても、その成果には限界があるでしょう。
問題は途上国の学校制度そのものにある、と著者はいいます。2005年の段階で、インドでは公立小学校に通う5年生のうち47%が2年生レベルの文章を読めず、私立学校でも32%が同じ状況だというのです。しかも、6年生になるまで学校に通いつづける生徒は少ないのです。
途上国では、親は富を獲得する手段として教育をとらえがちです。「彼らにとって教育は宝くじのようなもの」だ、と著者はいいます。そのため、親は子どもたちを「頭のいい」子と「頭の悪い」子に選別し、「頭のいい」と思われる子だけに教育資金を集中的に投入するのです。その結果、かえって貧困の落とし穴から抜け出せなくなってしまうことがあるといいます。
教育制度自体がいまだにエリート主義を取っていることも問題です。多くの子どもたちはそれについて行けず、クラスも最高クラスと最低クラスに選別されていくことになります。最低クラスに配属された教師は投げやりになり、ろくに授業もしなくなります。
教師は落ちこぼれの子を無視し、親もその子の教育に興味を失ってしまいます。加えて多くの偏見とステレオタイプの思い込みが、子どもたちの教育機会を奪ってしまいます。
多くの発展途上国では、カリキュラムや教え方が、ふつうの子どもよりエリート向けにつくられています。そのため、教育にはごく一部を除いて、期待はずれの成果しか得られないのです。著者はあまりできない子どもたちをどう教えるか、そのため補習教育プログラムをどう組みこんでいくかがだいじだ、と主張します。エリートをつくるのもだいじですが、教育の本来の目的は、子ども全員がじゅうぶんに読み書き、計算ができるようにすることなのです。重要なのは、子どもたちを思いやりをもって扱い、ほんとうの潜在能力を発揮できるよう助けることだ、と著者は強調します。
「すべての子供が学校で基礎をきちんと学ぶのは十分可能だし、それだけに焦点を絞って取り組めば、実はかなり簡単に実現できる」。教師にしても、能力のある補習講師になるには、訓練はさほどいらない。そして、子どもたちが学教で自信をもつようになれば、かれらにも貧困の落とし穴から脱出できるチャンスが生まれるはずだ、といいます。
家族計画についても論じられています。
中国の一人っ子政策は有名ですが、インドでも一時、全国で強制的な不妊手術が実施されていました。しかし、この政策は国民の反発をくらい、インディラ・ガンジー政権の敗北とともに廃止されます。
日本ではいまや人口減少が懸念されていますが、世界全体の人口はまだまだ増えつづけています。人口増加は気候温暖化を引き起こし、食糧問題や水不足を引き起こします。人口抑制の必要が論じられているにもかかわらず、途上国では人口はいっこうに減る気配がありません。
途上国では、なぜ貧しい人びとが大家族をもとうとするのでしょうか。避妊法はもちろん知られています。とはいえ、とくに女性は、夫や義母、あるいは社会から、自分の望む以上に子どもをつくれというプレッシャーを受けているといいます。
著者にいわせれば、途上国では、多くの親が子どもをいわば金融資産と考えていることが問題です。子どもが多くいれば、自分たちが年を取ったときに、そのうちの誰かが面倒を見てくれるはずだという考えが、いまだに根強いといいます。
娘があまり喜ばれないのは、女性は結婚するものだし、そのときには持参金を持たせなければならないし、結婚すれば夫の家庭にはいってしまうと考えられているからです。そのため男の子がほしい夫婦は、男の子が生まれるまで子どもをつくりつづけます。伝統的家族のなかでは、女の子は労働力として評価されないかぎり、だいじにされず差別されるといいます。
豊かな国では、こうした考え方をする必要がありません。社会保障や健康保険、投資信託、退職金などが、老後の不安を解消してくれるからです。人生にはリスクがつきものですが、貧しい国では豊かな国ほどリスクを軽減する制度が整っていません。大家族をつくることは、そうしたリスクを軽減するためのひとつの防御策ととらえられているようです。しかし、子だくさんは同時に貧乏とつながるところにむずかしさがあります。
著者はこう書いています。
〈もっとも有効な人口政策とは、子だくさん(特にたくさんの男児)を不要にすることかもしれません。効果的な社会的セーフティー・ネット(たとえば健康保険や高齢年金)や、あるいは老後に備えた収益性の高い貯蓄を実現する金融商品の開発で、出生率の十分な減少と、おそらく女児に対する差別の緩和も実現できます。〉
しかし、はたしてそれは可能なのでしょうか。
こうした制度面の整備が次の課題となってきます。
『貧乏人の経済学』を読む(1) [商品世界論ノート]

ツンドク本の整理です。原著のタイトルPoor Economics を『貧乏人の経済学』と訳す理由はわからないでもありませんが、やや違和感があります。刺激が強すぎるというか、ちがうニュアンスを喚起させるというか、まるで自分のことを言われているみたいというか。最初『貧困の経済学』でじゅうぶんなのではないかと思ったりもしたのですが、それでは「人」に即したこの本の意図が伝わらないかと考え直したりもします。タイトルはむずかしいですね。
それはともかく、本書は開発経済学の専門家、アビジット・バナジーとエスター(エステル)・デュフロの共著です。バナジーはインド・コルカタ(旧カルカッタ)生まれの経済学者、デュフロはフランス人の経済学者(ともに現在マサチューセッツ工科大学教授)。ふたりは本書出版後の2015年に結婚し、2019年にノーベル経済学賞を共同受賞しています。
ぼく自身は、開発途上国の貧困問題について、ほとんど何も知りません。もちろんニュースなどで伝えられることもありますが、あまり深く考えたことはありませんでした。しかし、評判になっている本なので、読んでみるかと買い求め、それだけで満足し、ツンドク本のままになっていました。それを今回は思い立って読んでみようというわけです。おかげさまで、暇だけは財産で、当面、時間はあります。
とはいえ、最近は活字が以前にもまして頭にはいってこないし、読みはじめるとすぐ眠くなってしまう始末です。こっくりこっくり、同じページをいったりきたりして、なかなか前に進みません。中身もすぐ忘れてしまいます。そこで、いつものように、少しずつ読みながらメモにまとめてみることにしました。途中で挫折したら、あやまるほかありません。もっともぼくが挫折したところで、それを気にとめる人もいないでしょう。
「はじめに」で、「貧乏な人の経済学は、貧困の経済学と混同されることがあまりに多い」と書かれています。貧困の経済学はあまたある。しかし、それはほんとうに現実の「貧乏な人」に即して論じられているのかというわけです。
著者たちは「貧乏な人々が住む裏道や村に出かけ、質問をして、データを探す」ところからやりなおし、あらたな道筋をみつけようとしたといいます。
ここで注目されるのは、世界の最貧者です。2005年段階で、貧困国といわれる50カ国のなかで、1日1ドル以下で暮らす人が8億6500万人(全世界人口の13%)いました。その実際を知らなければ、さまざまな方策を立て、さまざまな援助をおこなっても、まったく空振りに終わってしまう、と著者たちはいいます。
貧乏の落とし穴にはまると、人はそこからなかなか抜けだせない。課題はあまりに大きい。それでも努力をつづける必要がある。「成功は必ずしも、見た目ほど遠いわけではない」と宣言するところから、本書はスタートします。情熱が感じられます。
世界の貧困問題はあまりにも大きく、手のつけようがないようにみえます。しかし、一つずつ解決していけばよいのだというのが、著者たちのスタンスのようです。
ところが、貧困問題を「大問題」として、一挙に片づけようという考え方も根強く存在します。たとえば国連顧問でコロンビア大学教授のジェフリー・サックスは、現在よりはるかに大規模な外国援助の必要性を強調します。
そのいっぽう、ニューヨーク大学教授のウィリアム・イースタリーは援助などは無意味などころか弊害が大きく、現地の人びとの自立を促すことにはならないと反論します。
著者たちの考えは、そのどちらでもありません。具体的なプロジェクトをつくって、それに適切な援助をおこなうことは必要だ。ただし、援助は何でもかでもやればよいというものではないと論じています。つまり、援助は有効なこともあれば、有効でない(かえって害を与える)場合もあるということです。あくまでも現場に即して、問題を理解し、適切な方法を見いださなければならないというわけです。
3つのiが政策の失敗や援助の低効果を招く原因になっているという指摘がおもしろいですね。それはイデオロギー(ideology)、無知(ignorance)、惰性(inertia)です。たしかにそうかもしれません。ただし、これは貧困対策にかぎった問題ではないでしょう。
ここからが第1部です。「個人の暮らし」と題されています。
まずは食の問題。
最初に目を開かされるのは、貧困といえば飢餓だと思うのはまちがいだ、と著者が指摘しているところです。たしかに大飢饉は起こりうる。しかし、世界で10億人が飢えているという見方は、けっして正しくないといいます。
おカネのない貧乏な人が、じゅうぶんに食べられないというのは事実でしょう。だからといって1日1ドル以下で暮らす人が、その少ない実入りをすべて食糧につぎ込んでいるわけではありません。アルコールやタバコ、お祭りに使っていることも多いのです。少し収入が増えても、それは主食に回らず、美食や嗜好品に向かう傾向があるといいます。
少なくとも現在の地球では、1日1人あたり2700キロカロリーが供給できるほど、食料はじゅうぶんに生産されています。絶対的な食糧難はありません。水道と公衆衛生の普及、重労働の軽減などによって、人の平均カロリー摂取量はむしろ減っています。飢えがあるとすれば、それは食糧分配の仕組み(さらに干魃や戦争)のせいです。餓えはもちろん大きな問題です。しかし、「多くの人が貧乏なままなのは、食が足りていないせいではない」と、著者たちはいいます。
とはいえ、こういう言い方は誤解を生むかもしれません。最貧層のカロリー摂取量が少なく、栄養不良が身体の発達に影響をおよぼしていることはたしかです。食べるものが増えて、それが栄養をよく考慮したものであれば、子どもを含め、体力もついて、一家の生活はより改善される可能性があります。
にもかかわらず、食事の慣習を変えるのはむずかしく、貧しい人びとはなかなかバランスのよい食事を取ろうとしないことが問題なのです。かれらは食事を改善するよりも、昔ながらの伝統にしたがって、結婚式や持参金、祭や葬儀などに収入の多くを費やしてしまいます。あるいは最近では、テレビや携帯におカネをつぎこんでしまいます。
貧困と栄養不良はけっして無関係ではありません。だからといって、貧乏な人には安価な穀物を与えればよいという食糧政策はまちがっている、と著者たちはいいます。問題はカロリー量ではなく、ほかの栄養素であり、バランスのよい食事なのです。慣習はなかなかあらたまらないかもしれません。しかし、少なくとも、お腹のなかの子どもと、ちいさな子どもにたいしては、その栄養状態が配慮されるよう、政府が保健所や学校、保育園を通じて必要な対策をとることはできるはずだ、と著者は述べています。
まだ、はじまったばかり。引きつづき読んでみましょう。
食につづいて、「個人の暮らし」では、健康、教育、家族計画の問題が論じられます。
前の10件 | -