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憲法撮要──美濃部達吉遠望(46) [美濃部達吉遠望]

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 1923年(大正12年)4月末、美濃部達吉は有斐閣から『憲法撮要』を刊行した。そのいきさつを序文でこう記している。

〈本書は、著者が今年四月から再び東京帝国大学及び東京商科大学において憲法の講座を担任することとなったので、その教科書に充(あ)てるために編述したるものである。著者は一昨年から比較的浩瀚(こうかん)な「日本憲法」の著述に着手しており、第一巻だけは既に公にし、第二巻以下は目下起稿中であって、教科書を書くのはその研究が全部まとまってから後にするのが至当であるが、それはまだ数年の後を待たねばならず、一方には大学での講義の時間がはなはだ乏しいため、教科書の助けをからねば、その講義は極めて簡単なものに終らねばならぬ憾(うら)みがあるので、今年一月欧州から帰朝して後、急にこの書を著すことに決心し、二月中旬から起稿に着手し、昼夜兼行、三月末日をもってようやく全部を書き上げることができたのである。もとより充分の推敲の暇もなく、急速力をもって書き上げたのであるから、往々詳略宜(よろ)しきを得ないところがあるけれども、それは他日版を新たにする機会に譲るのほかはない。〉

 欧州出張から帰国早々、4月から東京帝国大学で憲法学講座が再開され、あわせて東京商科大学(現一橋大学)でも憲法学の講義をすることになったので、にわかに憲法解説の教科書をつくらなければならなくなった。2年ほど前から『日本憲法』という大著に取り組んでいるのだが、ひとまずそれをさておいて教科書執筆に専念した。わずかひと月半ほどで全速力で執筆したから、よく練りあげたものとはいえないが、改版のときに訂正を期したいというのである。
 ちなみに『日本憲法』は第1巻が出版されただけで、完成することはなかった。それにしても『憲法撮要』は600ページ近くあるから、その原稿をひと月半ほどで仕上げたとはにわかに信じがたい。欧州から帰国中の船のなかでも執筆が進んでいたのではないだろうか。
 1912年(明治45年)に出版された『憲法講話』につづき、1923年(大正12年)の『憲法撮要』は美濃部憲法学の代表作となり、1932年(昭和7年)まで5版の改訂を重ねている。そのかん改正箇所はごくわずかだった。
 家永三郎はこの『憲法撮要』と、1927年(昭和2年)の『逐条憲法精義』、1934年(昭和9年)の『日本憲法の基本主義』の3冊を美濃部憲法学の集大成としている。そして、1935年の天皇機関説事件のあと、まさしくこの3冊が発禁処分を受ける。1923年から1935年にかけ、時代は急転換したのである。
 明治末の『憲法講話』と大正末の『憲法撮要』とのあいだに大きな変化があったとすれば、日本における民主主義の進展がからんでいる。
『憲法講話』と『憲法撮要』とのちがいは、その目次からもうかがうことができる。「講話」では国家と政体につづいて、まず天皇が論じられていたが、「撮要」では国家と政体の説明につづいて、憲法の歴史的由来が説明され、日本国民、国民の権利義務の項目が天皇より先に論じられている。帝国議会と立法権、予算についても、多くのページが割かれている。また「講話」では論じられなかった軍の問題が「撮要」では大胆に取りあげられている。
 大日本帝国憲法自体は一度も改正されることはなかったが、達吉のなかでは、その解釈は議会を中心とする民主主義的な方向に深化していたといえるだろう。おそらく1922年(大正11年)の欧州体験が、達吉に国家制度のあり方を再考する機会と刺激をもたらしていたのである。
『憲法撮要』において、達吉は日本の政体を中央集権的な立憲君主制だとしなたがら、しかも君主主義の色彩が強いことが特徴だと論じている。問題は天皇自体の権力ではない。天皇の名の下で政治をおこなう機関の権力が強すぎることが問題だった。
 帝国憲法では権力分立を建前とするものの、政府と議会は完全に分離せず、立法にあたっても法律の裁可権を君主が留保している。議院内閣制はとられず、国務大臣はもっぱら天皇の輔弼(ほひつ)にあたることを任としている。軍の統帥権が天皇のもとに独立していることも特徴的だ、と達吉はいう。
 憲法では自由平等主義が認められているものの、それはけっして保障されているとはいえず、国民は法律の範囲内において自由を享受しうるとされているにすぎない。政治は中央集権的な色彩が強く、地方自治制度は地方的利益に関する行政においてしか認められていない。
 こうした記述は、まるで明治憲法体制の問題性を指摘したかのように思えてくる。大上段に振りかぶったわけではないが、『憲法撮要』で達吉が明治憲法体制の内的刷新を図ろうとしているのを読み取ることは可能だった。
 達吉が最初に述べようとするのは、国家における国民の地位についてである。
 兵役や納税の義務などからみても、国民が国家の統治権に服従すべきことはいうまでもない。だが、国民は服従するだけではない。一定の範囲において、国家の支配に服従しなくてもよい自由権を有している。さらに国民は国家にたいする一定の受益権、すなわち国家から利益を得る権利、また、国家を構成する一員として、国家の統治権に参与する権利をも有しているのだ。民事訴訟権、行政訴訟権や請願権、参政権などがそれにあたる。
「国民は国家に対し義務の主体たると共に、また権利主体たる地位を有す」ることを達吉は強調する。
 いっぽう国家は国民に対し無制限の命令強制権をもっているわけではない。それは制限されなければならない。国家の権利、逆にいえば国民の義務は法律によって定められることを原則とする。
「国民が国家の権力によりても侵害せられざる自由権を有せざるべからずとする思想は近代の立憲制度の最も重要なる根本思想」だと達吉はいう。
 国民は元来、国家によって侵害されることのない自由権を有している。その自由権には「居住移転の自由」、「逮捕、監禁、審問、処罰を受けざる自由」、「裁判官の裁判によるにあらざれば刑罰を受けざる自由」、「住所を侵されざる自由」、「信書の秘密を侵されざる自由」、「財産権を侵されざる自由」、「信教の自由」、「言論、出版、集会、結社の自由」が含まれている。国家は原則として、こうした国民の自由権を保障しなければならない、と達吉は断言する。
 国民の権利義務につづいて論じられるのが天皇についてである。
 帝国憲法ではさまざまな天皇の大権が定められている。なかでも重要なのは、天皇が国の元首として統治権を総覧するという国務上の大権である。この国務上の大権は、国務大臣の輔弼(ほひつ)をへて発揮される。その意味で、天皇は国の最高機関である、と達吉はいう。その大権は立法、行政、司法におよんでいる。
 だが、大権事項に議会が参与することは許されないとするのは、なんら根拠のない謬説だ、と達吉は明言してはばからない。議会の協賛によらず天皇が親裁するというのは、近代的な立憲政治とはいえない。議会は予算を審議し、立法をおこなうだけでなく、行政を監視するなど、広く一般の国務に参与する権能を有しているのだ。
 達吉は国政を運営するにあたって、議会の役割を強化することを求めていた。天皇の大権をかざして、政府が政治を壟断(ろうだん)することは認められない。
 天皇には陸海軍を統帥する大権がある。この大権は憲法によって定められているといっても、慣習と実際の必要にもとづき、国務上の大権とは区別されるものだ。統帥大権が存在するのは、軍の行動の自由と作戦の秘密にたいして、局外者の関与が許されないからだとされている。
 しかし、達吉は統帥大権の範囲は、軍隊の指揮と作戦に限定すべきだと主張した。宣戦や講和はもちろん、戒厳令の布告、陸海軍の編成、軍事予算などはすべて国務に関する事項で、統帥大権とは切り離されるべきだと主張している。この主張は本の最終章で軍隊を論じるときにもくり返されるだろう。
 達吉が天皇の代表機関のひとつとして達吉が摂政とその役割を取り上げるのは、当時、大正天皇が発病し、政務を取ることが不可能になり、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政の地位に就いていたからである。
 いうまでもなく帝国憲法では、天皇(場合によってはその代理としての摂政)が国務大臣を輔弼機関とし、枢密院を顧問機関として、国家を統治するかたちをとっていた。皇室の一切の事務を処理するための宮内省と宮内大臣、天皇の常侍輔弼にあたる内大臣も天皇の機関だった。さらに法律外の慣習としては、元老制度があり、内閣が総辞職した場合は、天皇の重臣である元老が後任の総理大臣を推薦する決まりになっていた。
 天皇の名の下に国家を統治する天皇の機関は強大な要塞となっていた。これにたいし、できうるかぎり帝国議会が国政への関与の度合いを高めていく方向を模索したのが、達吉の姿勢だったといえるだろう。
「帝国議会は国民の名において国務に参与し政府を監視する国家機関なり」というのが、達吉による議会の規定である。

〈専制君主政においては国家の一切の統治権が君主に専属するに反して、立憲君主政においては君主の外に国民の代表機関として議会を置き、これをして国政に参与するの権を有せしむ。立憲君主政は君民同治の政体なり、君主独り統治権を専行することなく、国民が共にこれに与(あずか)るの権を有することが、その専制政と分るる所以(ゆえん)なり。〉

 帝国議会は全国民の総代であって、天皇の統治機関ではない。あくまでも天皇の外にある独立機関である。議会の権能は直接憲法によって与えられ、何人(なんぴと)の指揮に服することなく、自由な意見にもとづいて独立した議決をなすものだ、と達吉はいう。
 求められているのは、選挙制度を拡充し、議会の権能を高めていくことである。国務上の大権に属する事項は国務大臣の責任の範囲に属するが、国務大臣の責任に属する事項は議会もまた当然これに参与する権利を持っているというのが達吉の考え方だった。言い換えれば、国家の統治行為にたいし、議会は協賛ないし承諾を示す(逆に示さない)権利を持っているのだった。
 それは緊急命令(勅令)についても言えることだった。緊急命令は議会の閉会時に、枢密院での諮詢(しじゅん)を経て発令することができるとされていた。だが、それは次期の議会で、必ず承認を求めることを要し、承認が得られなかった場合は取り消されねばならなかった。
軍についてはふつう言及を避けるものとされていた。ところが『憲法撮要』の最終章に記されている以下のようなごくあたりまえの文言が、のちに軍事体制が敷かれるにつれて、軍部の憤激を呼ぶことになる。
 達吉はこう書いていた。

〈軍隊は国家の設くるところにして軍の編成を定むることは国家の行為なること言を俟(ま)たず。軍隊の行動を指揮し、その戦闘力を発揮することは、軍令権の作用に属し、内閣の職務の外にありといえども、軍の編成は内閣の職務に属すること他の一般国務に同じ。ただ従来の我が実際の慣習は必ずしもこの原則に従わず、軍の編成に関しても内閣の議を経ざるもの多し。〉

 達吉は軍政と軍令を区別し、軍の暴走に歯止めをかけようとしていた。軍が統帥権の範囲をほしいままに拡大し、天皇の名の下に内閣さらには議会の関与を拒否しようとすることは、けっして認められない。
『憲法撮要』の撮要とは、摘要、すなわち要点だけを書き記したものを意味する。だが、そこには憲法解釈を刷新しようとする気配が濃厚にただよっていた。

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吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(4) [商品世界論ノート]

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 吉本は消費社会を「必需的な支出(または必需的な生産)が50%以下になった社会」と定義している。これは必需的な消費支出が50%を切ると同時に、国内総生産に占める第3次産業の比率が50%を超える社会に対応している。この定義からすれば、1980年代後半の日本はすでに消費社会にはいっていた。
 そして、吉本にいわせれば、こうした消費社会の実現は、産業の高度化を反映したものだ。
 その例として、吉本は多くの下請けをかかえる自動車産業を取りあげて、そのイメージを次のように説明する。

〈一台の自動車はそのあらゆる小さな部品毎(ごと)に一企業の高度な専門的な製造工程が対応しているという画像をいだかせることになる。これはたとえば自動車産業を産業としての高次化という概念にぴたりと適合せずにはおかないとおもえる。消費者がこのようにシステム細胞化された産業の集大成として、自動車にたいして、選択的な商品として消費支出したとき、かれは部品企業の幾何級数的な増殖によってもたらされた空間的な遅延と時間的な遅延の細胞のように微細な網状の価値物を購買しているのだといってよい。〉

 消費社会はかならず産業の高次化に対応している。高次化とは、いってみれば迂回生産である。一台の自動車は高度な部品の集積から成り立っているが、その部品は無数の部品企業によってつくられている。それは空間的・時間的な遅延、すなわち製造工程の切り離しや専門化、特異化によってもたらされる。
 動物と人間の消費のちがいはどこにあるか。消費すること自体にちがいはない。問題は動物がほとんど意図的な生産をおこなわないのにたいし、人間が意図的で高度な生産をおこなうことにある、と吉本はいう。

〈[人間と動物との]相違はわたしたちのなかにメタフィジック[形而上学。ここでは創造力というべきか]が存在するということだけだ。このメタフィジックによれば消費は遅延された生産そのものであり、生産と消費とは区別されえないということになる。〉

 ここで、吉本はボードリヤールの『消費社会の神話と構造』を取りあげ、それを強く批判している。「そこには大胆な踏みこみといっしょに、ひどい判断停止があり、哲学と経済学の死に急ぎがつきまとっている」という。
 ボードリヤールは消費社会を神話の世界としてとらえ、ものが氾濫する消費社会を産業社会の崩壊のはじまりとみている、と吉本は批判する。
 ボードリヤールは消費社会で消費されているのは記号だという言い方をする。消費社会は「脅かされ包囲されたエルサレム」だともいう。
 ここには、知的エリートによる大衆への侮蔑が感じられる、と吉本はいう。

〈ボードリヤールは消費社会を誇張した象徴記号の世界で変形することで、資本主義社会の歴史的終焉のようにあつかっている。実質的にいえば産業の高次化をやりきれない不毛と不安の社会のように否定するスターリニズム知識人とすこしもちがった貌をしていないとおもえる。〉

 吉本にいわせれば、消費社会とは選択的なサービス消費が主体となり、日常必需品の消費支出、また選択的な商品を購買するための消費支出は二義的なものとなった社会を指す。それは生産の高次化にともなうもので、資本主義社会の歴史的終焉をあらわすものでもなんでもない。
 ボードリヤールは教育格差の存在を指摘する。しかし、現在では「格差は縮まって相対的な平等に近づいている」と、吉本は反論する。
 またボードリヤールは消費社会で格差が縮まっているのは、うわべだけで、社会的矛盾や不平等は隠されているという。だが、吉本にいわせれば、格差は明らかに縮まっており、こういう言い方をするのは「左翼インテリ特有の根拠のない感傷と大衆侮蔑的な言辞にすぎない」と言い切る。
 ボードリヤールは肉体労働者と上級管理職のあいだの賃金格差は大きく、休暇がとれる期間についても格差があるという。
「ボードリヤールは消費社会を、所得の平等が実現した共産主義社会でなくてはならないとおもっているのだろうか」と吉本は反論する。吉本にいわせれば、むしろ、現代の特徴は、かつてに比べて格段と平等が進んできたことにあるのだ。
 さらに、ボードリヤールは現在の消費社会で、健康や空間や美や休暇や知識や文化が求められているのは、そもそもそれらが奪われたことを示しており、そのうえでそれらが商品として資本主義システムに組みこまれようとしているにすぎないという。だが、何であれ、それが「社会の進歩」であることはちがいない、と吉本は反論する。
「わたしにはボードリヤールの理念は、誰がどうなればいい社会なのか、まったく画像を失っているのに、なお不平のつぶやきが口をついて出るので、それをつぶやいている常同症の病像にみえてくる」
 こういうきっぱりした言い方に、かつてのぼくは拍手を送ったものだ。
 ボードリヤールは、狩猟採集民が絶対的な貧しさのなかでも真の豊かさを知っていたのにたいし、現代人は市場経済のもとで競争を強いられ、つくりだされた欲求を満たすために四苦八苦しているという。だが、こうした言説は信じられない、と吉本はいう。

〈ボードリヤールの見解と反対に、消費行動の選択に豊かさや多様さ、格差の縮まりが生じていること。そこに核心があるように思える。……わたしたちの倫理は社会的、政治的な集団機能としていえば、すべて欠如に由来し、それに対応する歴史をたどってきたが、過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。ここから消費社会における内在的な不安はやってくるとおもえる。〉

 ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は1968年のパリ五月革命のさなかに発表され、吉本の『ハイ・イメージ論』は1880年代後半、日本のバブル絶頂期に執筆されている。
 そのことがふたりの論点に影響をおよぼしていることは否定できない。いまからみれば、どっちもどっちである。

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吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(3) [商品世界論ノート]

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 消費社会論。
 まず、吉本はマルクスの『経済学哲学草稿』から、人間と自然とのかかわりを考えるところからはじめている。

〈マルクスはヘーゲルの[無機物・植物・動物という]段階化の概念のうえに人間(ヒト)をかんがえた。順序でいえば動物的の上位に人間的をおいたといってもいい。そして人間とそれ以外の自然との関わりは部分的ではなく全面的で普遍的な関係をつくるものとかんがえようとした。これは逆にいってもいい。じぶん以外の自然にたいして、全面的な普遍な関係をもちうるものを人間(ヒト)と定義した。〉

 これはどういうことか。
 マルクスは無機物が単に自然によってつくられ、植物や動物が周囲の自然に対応するだけの存在であるのにたいして、人間だけは自然と全面的で普遍的な関係をもちうる存在だと考えたというわけだ。
 人間は自然を対象化し、それを自己の身体に全面的かつ普遍的に取り込もうとした。そのことは人間が頭脳と身体を用いて、外部の自然を人間的自然に変換しようとしたことを意味している。その前提となるのが自然を認識することだった。「言語は感性的自然である」とマルクスはいう。
 さらに吉本は書く。

〈マルクスにとって、すぐにもうひとつの問題があらわれる。人間がまわりの自然とのあいだにこの〈組み込み〉の関係にはいったとき、べつの言葉でいえば自然にたいして行動にうつったとき、この非有機的な肉体である自然と、有機的な自然である自分の肉体との〈組み込み〉の領域から価値化されていくということだ。〉

 自然を人間的自然に転換する、いいかえれば価値化するにあたって、人間は身体を道具化することからはじまり、発明された道具や機械、装置を用いるようになる。
 自然の人間的自然への転換は、よきもの、すなわちグッズへの無限の可能性を秘めているようにみえた。採集や狩猟、漁撈を軸として、住居や着物が整えられ、集落が形成されていく。さらに、マルクス流にいえば、宗教、家族、国家、法、道徳、科学、芸術などが「生産」される。この段階では、すでに生産の専門化と生産物の贈与や貢納、交換がはじまっている。
 生産のための生産はありえない。生産するのは消費するためである。
「人間とそのほかのぜんぶの自然との普遍的な関係は、人間の働きかけの面からは生産といっていいように、働きかけによって有機的な自然となった肉体(筋力)という面からいえば、消費にほかならない」と、吉本は書く。
「生産は同時に消費の行為であり、また逆に消費があるときかならず生産をモチーフとしていて、人間の行為はそれ以外のあらわれ方はしない」とも書いている。
 原理的にいえば、生産と消費は一致する。しかし、それが分離しているようにみえるのは、人間的自然の領域が拡大するにつれ、商品がかぎりなく増え、その交換をうながすために貨幣が導入されることによってである。貨幣による媒介が日常化、ルール化されることで、生産は商品の生産となり、消費は商品の消費へと二極化されることになる。
 商品は次々と新たな商品を分化していく。商品を得るには商品によるほかないからだ。商品による商品の淘汰もおこなわれる。そして商品化の波は、みずからの労働力にもおよぶだろう。人は働かないかぎり、賃金を得ることができない。労働力が商品になる。
 こうして貨幣を媒介として、商品を中心とする人間的自然の拡充が進み、商品世界が形成されていく。その過程は、外的自然による限界が露呈しないかぎり、拡大方向をたどり不可逆的だ。吉本もそうみているように思える。
 しかし、商品世界の拡大につれて、「生産の局面とそれに対応する消費の局面とが時間的にか空間的に」隔たる」ようになる。そのことは、「生産と消費の高度化にとって避けることができない」という。
 ここから「生産にたいする消費または消費にたいする生産の時空的な遅延」が生まれてくる。つまり、需要と供給のギャップが生じる。
 そうしたギャップが生じるとしても、しかし、そのことによって商品世界の拡大が停止するわけではない。商品世界が高度化するにつれて、消費はかならず多様化していく。
「消費支出は高度(産業)化社会になるにつれて、必要的(必需的)支出と選択的支出に分岐してゆき、その分岐の度合はますます開いていく」
 現代の消費は必需的支出と選択的支出に分かれる。
 この分類は必ずしも厳密ではないが、総務庁の家計調査は、必需的支出には外食を除く食料費、家賃・地代、光熱・水道費、保険医療費、通勤・通学費、塾や補習教材などを除く教育費が含まれるとしている。
 いっぽう、非必需的支出が選択的支出である。統計では選択的支出は、選択的サービス支出と選択的商品支出に分類される。選択的サービス支出には、旅行、塾、習い事、外食などが含まれ、選択的商品支出には家電製品、乗用車、衣料品などが含まれる。
 1980年代をとおして、消費支出の総額は増えている。しかし、相対的にみれば、必需的支出の割合は50%を切りつつあり、選択的支出の割合は50%を超えつつある。そのなかでも選択的サービス支出の割合が増えつつあるのが特徴的だ。
 吉本はこう書いている。
「ここでは生産が同時に消費だというばあいの消費は必需的消費だけをさすことになり、選択的消費は生産にたいして大なり小なり時空的な遅延作用をうけることになるといえよう」
 またむずかしいことを書いているが、選択的消費は、それを遅らせても、何とか人がくらしていける消費だということだ。たしかに車やパソコン、食器洗いがなければ、多少不自由かもしれないが、生活に大きな支障があるわけではない。
 だが、「高次の価値領域の成立はすなわち高次の生産業の成立を意味している」。つまり、人類は高次の商品世界の領域に達したということだ。
 産業の高度化は、末端のところで、「消費にひとりでにスイッチされている」という構図を吉本はえがいている。
 産業の高度化は想像以上に進んでいる。高度付加価値化、生産工程の改善、技術開発、多角化、ネットワーク化、情報産業の発達。そうした産業が生みだそうとしている段階が「高次の自然(人工)と高次の人間(情報機械化)」であることを、吉本はかならずしも否定していない。
 もう少し話はつづく。

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ワイマール憲法をめぐって──美濃部達吉遠望(45) [美濃部達吉遠望]

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 日本に帰国して早々の1923年(大正12年)2月1日に、美濃部達吉は東京帝国大学の法理研究会で「独逸[ドイツ]新憲法に就いて」と題する講演をおこなった。その内容が『国家学会雑誌』の3月号と6月号に掲載されている。
 これを読むと、達吉がワイマール憲法のどのあたりに興味をもっていたかを知ることができる。その内容をかいつまんで紹介しておこう。
 達吉の講話は、憲法公布以来のいくつかの改正点の解説を含むものだったが、そこまで細かくみていく必要はないだろう。
 ただ、次のように述べていることが注目される。

〈日本の憲法の如き制定以来既に34年を経て未だ1回の修正を加えられず、またいつ修正せられる機運に達するかも予期しがたいのに比べると、発布以来、僅々2、3年ならずして、既に一再ならず改正せられたということは、異様に感ぜられるようでありますが、これはドイツ憲法の内容が日本の憲法などよりははるかに詳細であり、ことに多くの経過法を含んでいること、ドイツが戦敗以後、引きつづき未曾有の国難に遭遇し、予期せられない事変や国際関係などが頻発して憲法の改正を余儀なくしたこと、日本におけるような憲法がひとたび制定せられた上は千載不磨の大典のごとくに考え、憲法を極度に固定的のものたらしめようとする感情が欠乏していることなどに原因しているのであって、あえて新憲法が革命の際、軽率に議決せられたがためとか、または国民の輿論が変わったがためとか言うのではありませぬ。〉

 達吉は憲法が時代に応じて改正しうるものであることを認めていたといえるだろう。
 そのうえで、まず達吉が注目したのは、旧ドイツ帝国と新生ドイツ国のちがいである。
 旧ドイツ帝国は君主的連邦国家だった。帝国は25邦から構成されていた。そのうちハンザ自由市の3邦を除いて、22邦はすべて君主国だったと達吉は指摘する。
 だが、それは対等な諸邦の結合体ではなく、あくまでもプロイセンの領主権のもとに服属していた。すなわち、プロイセン国王がドイツ皇帝を兼ね、プロイセンの総理大臣が帝国の宰相を兼ねることが憲法(いわゆるビスマルク憲法)で定められていた。
 新憲法(ワイマール憲法)では、そうした点が改められた。プロイセンの優位性は排除され、ドイツは君主的連邦から民主的連邦に変わった。革命によって、帝国においても、各邦においても君主制は廃止された。
 だが、民主政体がただちに確定したわけではない。革命党のあいだでは、ふたつの相異なる主張があった。達吉の呼び方では「極端社会党」のカール・リープクネヒトは、労農会を設立し、プロレタリア独裁体制をとるべきだと主張した。これにたいし、多数派の穏健派はできるだけ早く国民議会を開いて、民主政体を樹立すべきだという立場をとった。
 最初、ベルリンでは労兵会が設立され、仮政府がつくられたものの、急進派と穏健派の対立は高まる一方だった。しかし、けっきょく急進派の主張は退けられ、1919年1月19日に国民会議の総選挙が行われることになった。選挙の結果、労兵会は解散され、2月6日からワイマールで国民会議が開かれることになり、8月11日に憲法が議決されるにいたった、と達吉は解説している。

〈これを要するに、[1918年]11月9日にドイツの旧君主政が破壊せられたのち、約3ヶ月の間、一時の過渡期として無産者専制主義に基く労兵会制度の共和政が行われていたのが、2月6日に国民会議が開かれて最高の権力を掌握することとなったことによって、民主政体が確定したものと言ってよいのであります。〉

 1月にカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクらの「スパルタクス団」が鎮圧され、ふたりとも殺害されたことには触れていない。
 達吉はワイマール憲法の民主的特徴を列挙している。

(1)連邦議会議員だけでなく大統領をも国民が選挙で直接に選ぶようにしたこと。
(2)立法に関する国民の発案権が認められていること。
(3)場合によっては国民投票の実施が定められていること。
(4)大統領に対する国民のリコール権が認められていること。
(5)国民の代表会議である連邦議会が最高主権者であることが明確にされたこと。そのいっぽう、各邦の代表によって構成される参議院の権限は大幅に弱められたこと。
(6)議院内閣制を基本とすることが定められたこと。
(7)満20歳以上のドイツ人たる男女に選挙権が認められたこと。
(8)プロイセンの優先権、ならびに各邦の特権が廃止されたこと。

 こうして、新生ドイツ国が世界でも最も民主的な国家へと変貌したことを達吉は強調している。
 しかし、達吉はワイマール憲法のもう一つの特徴が、統一主義、中央集権主義の強化にある点を指摘するのを忘れてはいない。
 旧帝国時代は、帝国だけではなく帝国を構成する各邦も一定の立法権をもっていた。これにたいし、新憲法のもとでは、国の立法権の範囲が拡張された。
 対外関係に対する立法権は国だけが占有することになり、バイエルン王国がもっていたような各邦の外交権は失われた。
 兵役制度や外交権、郵便制度なども、国のもとに一元化されることになった。さらに国の法律が各邦の法律よりも強い効力を有することが定められた。租税権もその一つで、それによって国の財政的独立性が保証されるようになった。福祉の増進や安寧秩序の保護についても、国に権限があることが認められた。
 国における立法権の強化は行政権の範囲拡張にもつながっている。
たとえば、従来、軍政は各邦にそれぞれ陸軍省が設けられていたものが、各邦の陸軍は消滅して、国の陸軍だけが存在し、大統領が全陸軍に対する最高命令権を有するようになった(海軍は以前から国の指揮下にあった)。
 財政の権限は著しく拡張された。従来、国は関税と消費税だけしか徴収できず、直接税はもっぱら各邦に委ねられていた。それが新憲法のもとでは、租税の徴収と管理はすべて国がおこなうことになり、それまでのような各邦の分担納付金は廃止されることになった。
 交通行政についても、各邦のおこなっていた郵便、電信、電話事業は国の専属となった。外交業務が国に一元化されたこともいうまでもない。
 各邦の自治権が縮小され、各邦に対する国の監督権が拡張された。それと同時に各邦は自主的立法権を抑えられ、国の憲法にしたがって、民主的共和政体をとるべきことが定められ、連邦議会ならびに地方議会の選出は、比例制にもとづき男女平等の普通選挙の形態をとることとなった。
 各邦にたいする政府の監督権が強化された事例として、達吉は次のようなケースを挙げている。かつては、帝国政府とプロイセン政府の首脳が同じであったため、プロイセンに対しては帝国政府の監督権が及ばなかった。ところが、新憲法のもとでは、プロイセンに対しても他邦に対するのと同じように、政府の監督権が及ぶようになったというのである。
 連邦政府の行政権が強化されたということは、大統領の権限が強まったことを意味する。大統領は皇帝と同様の権限をもっていた。首相の任免権、国会の解散権、憲法停止の非常大権(緊急事態条項)、国軍の統帥権などである。のちにこれがヒトラーとナチ党の進出につながることを予測する人はほとんどいなかっただろう。その経緯については、あらためて述べなければならない。
 1923年の時点で、むしろ達吉が注目したのは、ワイマール憲法下での選挙法だった。
新憲法のもと、ドイツでは大統領と連邦議会議員が選挙によって選ばれることになった。
 当時の大統領は社会民主党出身のフリードリヒ・エーベルトで、国民の投票で大統領が選ばれるのは次期大統領からだった。
 20歳以上の男女が選挙権をもつ総選挙は、1919年以降、1922年までにすでに2回行われていた。選挙権が男子と女子とにあまねく認められた結果、全人口に対する有権者の割合は6割以上に達し、1919年の投票率は84.2%だったという。
 新生ドイツの選挙は比例選挙法をとっていた。1919年の選挙では、ドイツ全国を36の選挙区に分かち、少ない区では6人、多い区では17人が選出された。比例選挙はいわゆる拘束名簿式をとり、ドント方式で票を割り当てた。その欠点についても達吉は指摘しているが、比例代表制が完全な制度であるかどうかは別として、ドイツの選挙法は十分検討に値するものだと述べている。
 比例代表制の長所は死票が少なく、民意が正確に議会に反映されることである。いっぽうその欠点は小党分立を生じやすく、議会運営がむずかしくなることだった。それでも、達吉は日本でも比例代表制による普通選挙をめざすべきだと主張しており、ワイマール憲法下の選挙法には強い関心をもっていたことがうかがえる。
 しかし、その後10年のあいだにドイツはファシズムの扉を開け、日本は大陸侵攻に舵をきっていくことになるのである。

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欧州出張とワイマール憲法──美濃部達吉遠望(44) [美濃部達吉遠望]

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 宮先一勝氏の『評伝 美濃部達吉』にはこう書かれている。

〈達吉は、大正11年[1922年]3月から12月まで欧州へ出張している。旅先(ドレスデン、デュッセルドルフ、ロンドン、ブダペスト等)から民子夫人宛に絵はがきで、当時の第一次世界大戦直後のヨーロッパの混乱や街の状況を具(つぶさ)に報告している。そして翌年、「欧州諸国戦後の新憲法」や「憲法撮要(初版)」を刊行し、大正13年には東京帝国大学法学部長(九州帝国大学法学部長兼任)に任命された。〉

 宮先一勝、田中由美子編『美濃部達吉博士関係書簡等目録』によると、達吉から民子夫人に宛てた絵はがきは22通残されており、そのうち1通は地名、日付が不明とはいえ、これをたどれば達吉がどこを訪れたかがわかってくる。
 残念ながら、目録にははがきの中身まで収録されていないので、達吉が「第一次世界大戦直後のヨーロッパの混乱や街の状況」をどんなふうに伝えていたかは、詳しいことがわからない。そのうち、いなかに帰った折にでも、現物をみせてもらい、その中身を紹介することができればと考えている。
 それはともかく目録に沿って列記すると、下関(3月24日)、上海(3月28日、29日)、香港(4月2日)、シンガポール(4月10日)、プラハ(6月3日)、ドレスデン(6月29日)、ブランデンブルク(8月10日)、デュッセルドルフ(8月20日、30日)、パリ(9月10日)、ヴェルサイユ(9月11日)、ロンドン(9月26日、10月2日)、ブダペスト(10月20日、30日)、リヨン(11月18日)といった地名が記されている。国でいえば、チェコスロヴァキア、ドイツ、フランス、イギリス、ハンガリー。日本に帰国したのは1923年(大正12年)1月である。
 第一次世界大戦の帰結はヨーロッパに大きな近く変動をもたらした。
 ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマンの3帝国は敗戦国である。ロシア帝国では革命が発生した。その結果、4つの帝国は解体され、皇帝が退位し、ヨーロッパでは、そのなかから多くの独立国が生まれた。
 ポーランド、オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキア、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(のちユーゴスラヴィア)、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、フィンランドである。
 帝国が解体されたあとは、とうぜんのように民主化が進むものと期待された。ところが、そう簡単に、ことは進まない。
 第1次世界大戦の終結から第2次世界大戦の開始までの1918年11月11日から1939年9月1日までの期間は一般に戦間期と呼ばれるが、その時期はけっして平穏ではなく、つねに戦争の影がつきまとっていた。
 この時期について、歴史家のノーマン・デイヴィスはこう書いている。

〈戦間期の政治力学を支配したのは、自由民主主義が独裁主義の餌食になるという光景の繰り返しである。西側列強は自分たちの勝利によって、みずからの姿をモデルとした時代が始まることを期待していた。大戦開始時にヨーロッパ大陸には、19の君主国と3つの共和国があったが、終戦時にはそれが14の君主国と16の共和国になっていた。ところが「民主的改革」は錯覚にすぎなかったことがすぐに明らかになる。民主国家がいろいろなタイプの独裁者に踏みにじられなかった年は1年もないくらい。……ありとあらゆる種類の独裁者が現われた。共産主義者、ファシスト、急進派、反動主義者、左翼権威主義者、右翼軍国主義者……。かれらの唯一の共通点は、西欧民主主義は自分たちのためにはならないという確信だった。〉

 歴史は同時代的に動いていく。日本の大正デモクラシーにも暗雲がただよいはじめる。
 ここで事実関係についていうと、達吉が『欧洲諸国戦後の新憲法』を有斐閣から上梓したのは、帰国後の1923年(大正12年)1月ではなく、訪欧直前の1922年(大正11年)1月だった。つまり、達吉は欧州視察に出向く前に、世界大戦後、敗戦によって生まれた新生国の憲法を訳出していた。具体的には、ドイツ憲法、プロイセン憲法、チェコスロヴァキア憲法、ポーランド憲法、オーストリア憲法である。それらを予備知識として、達吉は欧州歴訪の旅にでたといってよい。
『欧洲諸国戦後の新憲法』には何の解説も施されていない。新憲法の条文が淡々と訳出されていた。しかし、帝国が崩壊し、皇帝がいなくなった国の新憲法については、少なくとも法学者なら強い関心を寄せるところだったにちがいない。
 なかでもドイツ憲法、通称ワイマール憲法には、大きな興味がいだかれてしかるべきだった。皇帝なきあと、はたして国家の運営はうまくやっていけるものなのだろうか。そのころは、まだワイマール体制のなかからヒトラーのような独裁者が浮上してくるなどとは、だれも夢にも思っていなかった。
 1919年8月に制定されたワイマール憲法の前文を、達吉はこう訳している。

〈ドイツ国民はその各民族相共同し、かつ自由と正義とによりて国家を改造し、これを強固にし、国内および国外の平和を保持し、および社会の進歩を促さんことを欲し、ここにこの憲法を制定す。〉

 第1条は「ドイツ国は共和政体とす。国権は国民より発す」という宣言である。
 達吉の訳によれば、ワイマール憲法は全181条の詳細な規定からなる。その大きな内訳は次の通り。

第1篇 ドイツ国の構成および権限
 第1章 ドイツ国および各邦
 第2章 国議会(ライヒスターグ)
 第3章 国大統領および国政府
 第4章 国参議院(ライヒスラート)
 第5章 国の立法
 第6章 国の行政
 第7章 国の司法
第2篇 ドイツ人民の基本権および基本義務
 第1章 個人
 第2章 共同生活
 第3章 宗教および宗教団体
 第4章 教育および学校
 第5章 経済生活
経過規定および附則

 達吉は実質半年足らずのヨーロッパ滞在中、3カ月近くをドイツですごした。敗戦後のドイツが苛酷な状況に置かれていることを痛感したのではないだろうか。
 ヴェルサイユ講和条約は、誇り高いドイツ人の多くに屈辱感を覚えさせていた。ドイツにたいする懲罰と賠償はあまりに露骨だった。
 敗戦によりドイツは東部の農業地域、工業地域を中心に13%の国土を失った。重要な港ダンツィヒ(グダニスク)はポーランドに包摂され、石炭と鉄鉱石を埋蔵するザールラントは実質上フランスの管理下に置かれた。非軍事化が進められ、徴兵制は廃止され、陸軍と海軍は極端にまで削減され、空軍は禁止された。これに加え、1320億金マルクという気の遠くなるような賠償金が課されることになった。
 ワイマール憲法下で発足したドイツの民主主義体制は当初から大きな危機にさらされていた。
ヒトラーが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導者になったのは1921年のことである。その勢力は南部のバイエルン州を中心として急速に拡大していくが、達吉がドイツを訪れたころ、ナチ党のメンバーはまだ2万人ほどだった。
 左翼は議会制民主主義を支持する多数派(社会民主党)と徹底したソヴィエト型革命を求める少数派(ドイツ共産党)に分裂し、鋭く対立していた。
 1920年3月には、ヒトラーとは別の武闘派右翼の過激派が政府転覆を企てるが、失敗に終わっている(カップ一揆)。
 ザクセン、チューリンゲン両州、ルール地方などでは、労働者の「赤軍」と政府軍が激しく衝突した。
右翼テロが横行した。経済人でヴィルト政権の外務大臣を務めていたユダヤ人、ヴァルター・ラーテナウは、1922年6月にベルリン郊外で極右テログループによって暗殺されている。
 それでも、1922年の時点では、社会民主党とカトリック中央党を中心に、ドイツの民主主義体制はかろうじて維持されていた。
 達吉はそんなドイツを見たのである。

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吉本隆明『ハイ・イメージ論』断片(2) [商品世界論ノート]

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 エコノミー論。
 たとえば、生産と消費を規定しようとする。しかし、規定すると同時に否定性があふれでてくる、と吉本はいう。
 生産とは、労働力、生産手段(装置・道具)、原料(資源)の「消費」にほかならない。いっぽう、食事をするなどの消費が、身体や人間関係の「生産」につながっていることはいうまでもない。
「生産を規定することは、裏面についた生産の否定としての消費を規定することとおなじだ」。消費についても、同じことがいえる。「生産と消費はつきまとってどこまでいっても分離できないことになるとおもえる」
 それでも生産と消費は分離される。その分離基準となるのは、商品かどうかという区別だといってよい。生産とは商品を生産することであり、消費とは商品を消費することである。「この分離はどうして起り、どんな意味があるのだろうか」
 生産と消費が分離されると、「交換とか分配とか流通とかがエコノミー世界の中間に介在することになる」。
 こうした隔離が「自然な過程」となった理由は、生産が高度かつ大量になったために生産の場所を特別につくらねばならなくなったためだが、それによって、他方、消費する人間を集める場所もつくらねばならなくなった。

〈この場所的な隔離は、生産と消費のあいだの否定性を、どんなふうに何にむかって変化させるだろうか? すぐにいえることは、凝集は分散に転化し、反復は方向性に変化するということだ。〉

 凝集によって生まれた大量の商品は分散されなければならない。それは一回切りではなく反復される。そして、反復は方向性をつくる。方向性とはすなわち成長性にほかならない。
 消費の側からみれば、分散とは分配や交換であり、その反復は同じく消費における成長性を内在している。とりわけ成長の方向性に関係するのはは、「消費の場面の内面にある生産についての願望や要求や欲望の刺激のイメージ」だ。
 こうして市場をはさんで、生産と消費が構造的に対応することになる。ただし、それは機械的な分配という対応関係だけではおさまらない。生産と消費それ自体がもつ本来の否定性をはじめとして、そこには対立関係(等量と等価の否定態)が潜んでいて、それがエコノミーを活性化させることになる。言い換えれば、「生産と消費、あるいは総供給と総需要は、過剰と過少のあいだで波立っている」。
 もちろん、「エコノミーの活性化や膨張がなくてより低い水準であっても、平等と充足がえられて、静謐な生が保てる保証がえられるならば、理想の社会像にあたっているとかんがえる」こともできる。
 しかし、そうした社会像のこころみは、「現在までとられた方法[つまり社会主義計画経済]では、ほとんど完全に失敗し、現在もとの黙阿弥に当面していて、あらためてそれをつくづくと眺めまわしている状態にあるといっていい」。

 ここで吉本が取りあげるのが、シュンペーターの静態的ではありえない「創造的破壊」をともなう資本主義過程である。
「資本主義のエンジンを起動せしめ、その運動を継続せしめる基本的衝動は、資本主義的企業の創造にかかる新消費財、新生産方法ないし新輸送方法、新市場、新産業組織形態からもたらされるものである」とシュンペーターはいう。
 吉本は、シュンペーターのこうした資本主義像を評価するところから、みずからのエコノミー論をくり広げようとしている。
 いわく。

〈この画像がなぜ見事かは誰の眼にもはっきりしている。わたしたちが確かにそうだと実感できる社会像が、生産と消費、総供給と総需要の跛行してはまた傷をいやし、傷を回復しては跛行する反復のイメージとして、とても根本的な、枝葉には足をとられない画像で記述されているからだ。〉

 生産と消費は対立しながらも同じだという二重性をもっている。商品という項を排除すれば、この二重性はあらわれることなく、過剰なら過剰なりに、過少なら過少なりに、生産と消費は一致するだろう。しかし、生産と消費が二重性をもつということは、そこに商品世界と市場とが展開していることを意味している。
 吉本は市場を、物と物とが交換され、生産と消費の対立が解消される場としてとらえない。「生産と消費との場面の距たりそのものが市場だという規定を、あくまでも固執しなければならない」という。
 ワルラスならば、「市場とは商品が交換される場所のことをいう」とシンプルに示すことで、それでよしとするだろう。たとえば労働力市場においては、労働力の買い手である資本家と労働力の所有者である労働者が出会って、賃金契約によって労働力を買うことが決まる。
 だが、そうスッキリとはいかない。労働力の売りは、労働力の生産によって支えられている。その労働力の生産を支えるのは、飲んだり食べたり遊んだりする別の消費市場である。いっぽう労働者の買い手である経営者も、同じく自らを生産するための消費市場を有している。
 労働市場における労働力の売買は、そこで完結するわけではない。それはさらに別の市場での作用を引き起こす。
 労働者と経営者のあいだに大きな差があるわけではない、と吉本は書いている。経営者になればなるほど給付される貨幣の量が逓増する傾向があるだけのことだという。そのあたり、資本家と労働者が労働市場において労働力を売買するという古典的な階級図式を、すでに非現実的なものと吉本がとらえていることがわかる。
 にもかかわらず、吉本はワルラスのように労働価値説を否定しない。ワルラスは「交換価値という現象は市場において生ずるもの」とし、その根拠を労働でもなく、効用でもなく、稀少性においた。労働力を含め、財が交換価値を有するのは、それが稀少だからだというわけだ(空気は効用があっても、交換価値をもたない)。
 しかし、吉本に言わせれば、これはマルクスの労働価値説をまるでわかっていないということになる。

〈労働価値説の源泉は、とくにマルクスの『資本論』のような完成された論理の配慮があるところでは、労働者の(人間の)身体が、労働力の表出者(生産者)として、無際限の反復に耐えるような底無しの価値体であるだけではなく、機能的な定常量の表出者ではなく主体的な状態によっては、どこまでも定常量を超えても気づかない存在だというところに根拠をおいている。〉

 交換価値をつくりだすのは、あくまでも人間の労働である(たとえ機械に媒介されていたとしても)。しかも、場合によっては、喜んで給料以上に働いてしまうのが人間なのだ。ここには吉本の大衆像をみてとれるといってもよいだろう。それは搾取され抑圧される大衆とはまた異なる一面をもつ大衆像である。
 そして、そこからは階級対立の激化というより、1950年代にシュンペーターが描いたような世界像に近づくことになる。
 シュンペーターはいう。富者と貧者とのあいだで分配率は変わらなくても、経済のパイが大きくなれば、現在での水準における貧乏はなくなる。経済の技術水準の上昇に伴い、労働者はかつての王侯も得られなかったレベルの豊かさを手にすることができる。社会保障もかつてないほど充実したものとなるだろう。
 吉本もまたシュンペーターのビジョンを共有しながら、古典的な階級社会イメージからの脱却をはかろうとしているようにみえる。
 それは、はたしてどういうものなのだろうか。

 ここでまず吉本は、労働者でもなく、経営者(資本家)でもない、貨幣資本の所有者である資本家を経済人の一つの像として描いている。かれらははたして経済人の理想像といえるのだろうか。おそらく、そうではない、と吉本はいう。かれらは「大なり小なり意図と実現の断層」をかかえていて、いつも「どこかで浮かない貌を見せている存在」として登場する。
 貨幣を所有する資本家は経営者たる資本家に対し、貨幣を貸し出すことによって、確実に利子を得ることができる。吉本に言わせれば「誰だってそんな手品みたいな境遇は経済的に理想像として願望するにちがいないとおもえる」。ところが、そう甘くはないのはなぜか。
 吉本はこう書いている。

〈利子は質としてみれば生産(商業)過程の外部にあってただ貨幣を所有しているだけでもたらされる剰余価値である。また量的には貨幣資本に対応して利潤のうちから利子になる部分は、利潤の大きさによって、ひとつの利子率によってきまったものになる。ここまできまってくれば〈借りだし〉た資本を運営する資本家と自己資本を運営する資本家とのちがいは、企業者所得だけをうる資本家と企業者所得と自己資金にたいする利子をじぶんで増殖分として元金といっしょにうけとる資本家との違いに還元されてしまう。〉

 なんだかややこしい言い方をしているが、しょせん利子生活者となった資本家は、産業(商業)資本家に付着するみじめな存在になってしまうというわけだ。浮かない顔にもなろうというものである。
 次に吉本は、経済人としては貨幣資本家に次ぐ理想といえる経営者についても触れる。「産業(商業)資本家は労働力の買い手としては労働者に貌をむけ、利子の支払い手としては貨幣資本の所有者に貌をむけている」。そのふたつの深淵に飲み込まれることなく、そのふたつをいかに手玉に取るかが、経営者の課題となるだろう。それはそれなりに苦労をともなうものだ。
 しかし、何といっても経済にとって理想的な情況は、貨幣が世の中にあふれて、いつの間にかそれが増大していることだ、と吉本はみている。そして、経済人だけではなく、一般大衆がこうした状態をつかんだときこそが「究極の理想状態」だという。
 これは本書が執筆されたまさにバブルさなかならではの発言と言えるかもしれない。そこでは具体である商品世界がまるで貨幣の抽象であるかのようにみえてくる。

〈近似的にだけいうとすれば、たくさんの産業は、そのレプリカのなかに抽象の面影を宿し、たくさんの産業のたくさんの生産物(商品)は、その機能的な形態のなかに抽象の似姿をもっているかのようにおもわれてきた。貨幣がたくさんの産業やそれらの産業の抽象なのではなく、たくさんの産業やその生産物(商品)が、貨幣の抽象であるようにおもわれてきたのだ。わたしたちは不思議な抽象の二重性を、貨幣とたくさんの産業や産業の生産物のあいだで体験している。〉

 商品の何もかもが、財やサービスの何もかもが、それ自体ではなく、値札をつけた抽象のなかでとらえられるようになるというのが、当代バブル時代のエコノミーの特徴である。

 吉本は万人、すなわち一般大衆が貨幣を資本として運営し、いながらにして利子を得るようになる状況を経済の理想形として描こうとしている。そのとき流通場面では純粋信用だけが行き来し、貨幣はすっかり姿を消している。
 日本の産業構造の人口割合は、この本が執筆された1987年時点で、第1次産業が9.3%、第2次産業が33.1%、第3次産業が57.3%となっていた。こうした条件においては一般大衆が貨幣資本の所有者であると同時に経済人として並外れた意欲を持っているというイメージは可能だ、と吉本はいう。
 だが、万人が貨幣の所有者になるというイメージには、どこか「浮かない」感じが伴う。こうした方向性を引き延ばしていけば、はたして大衆的富裕は可能で、しかも永続的に維持できるものとなるのだろうか。
 吉本はいう。

〈いくらか滑稽化していえばこの状態からでの貨幣資本の所有者は、たえず投資を繰返し、たえず経済の場面を移動させ、たえず「順応」を拒否し、たえず産業の高次化にむかってエコノミーの思考を沸騰させていなくてはならないことになる。……それとともにこの状態は、不安定な流動と沸騰の状態がじつは安定性の基盤であるという背理をうみだす。〉

 万人が貨幣資本の所有者に近づいているかどうかを測る指標として、吉本があげるのは、(1)週休が3日を超えること、(2)貯蓄の年間利子額が年間の生活費用を超えること、(3)エンゲル係数がゼロに近づくこと、である。
 これが吉本のイメージする、大衆にとってのエコノミーの最終形態だとみてよい。
 バブル時代の幻影をみているのだろうか。現在の労働者の理想は、プロレタリアートとして資本家と対立することではない。それはみずからが貨幣資本の所有者になることだ、つまり何千万もの貯蓄をもつようになることだ、と吉本は言ってのけた。
 だが、吉本はそういう時代を、いささか滑稽だともとらえていたようにみえる。

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吉本隆明『ハイ・イメージ論』 断片(1) [商品世界論ノート]

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 吉本隆明はむずかしい。とても歯がたたない。それをわかっていながら、本が出ると、つい買ってしまうのが習癖になっていた。この本も本棚に眠ったまま、ほぼ30年たつ。
 もう最後のチャンスだ。これを逃すと、読む機会は永久にめぐってこないだろう。そんなふうに意気込んでページをめくりはじめるが、たちまち頭に霞がかかってくる。少し読んだだけで挫折しそうだ。
 メモをとってみることにする。何でもすぐに忘れてしまうからだ。
『ハイ・イメージ論』は、1985年から1990年にかけて雑誌『海燕』に連載された評論をもとに、徐々に単行本化された。全部で3巻で、あわせると900ページ以上ある。
 評論といっても話題は文学にとどまらない。映像、都市、哲学、言語、経済、自然、歴史、身体、思想その他におよぶ。変わりつつある時代を最先端でとらえる。
 章は全部で26。映像都市論とか走行論、拡張論、分散論、モジュラス論といった見出しがついている。
 表層的な言い方をすれば、この評論が書かれた時期は、歴史の転換点だった。日本はバブル絶頂期にあり、ソ連は解体期にある。アメリカは停滞し、中国が台頭しようとしていた。パソコンはまだオフィスに浸透せず、IT化も進んでいない。そんな時期に、ニュースの次元ではなく日常の次元で何がおきているのかを意識化する(表出する)仕事は、困難をきわめたにちがいない。
 混沌は混沌のまま投げ出された。『ハイ・イメージ論』は体系とはほど遠い。体系化されようとしているのにもかかわらず、イメージはあちこちに飛んでいる。そう思うのは、理解していない証拠かもしれないが、少なくとも、ぼくはそんな印象を受ける。
 ぼくは何の専門家でもない。時事的な本にかかわる仕事をしたとはいえ、ごくふつうのサラリーマンとして、すごしてきた。
 だから、この本についても、えらそうなことはいえない。ただ、一本の補助線を引いてみる。もし商品世界論というジャンルが成り立つとすれば、この本がえがいている世界はどんなふうにとらえられるか。
 例によって、つまみ読みに走る。わかりそうなところだけを読むという怠惰な精神が先に立つ。文学、言語、詩、思想、幾何といった苦手な分野はパスさせてもらう。
 読もうとするのは、自然、都市、映像、経済といったあたりか。いずれにせよ、雑な読み方になりそうだ。
 1990年代半ば、吉本の「転向」ということがさかんにいわれた。左翼的思考からの訣別が鮮明になった。しかし、それはみずからが「転向」したというより、吉本が依拠する「大衆」の情況が変化したのである。
 ポストモダンという標語を安易に使うべきではないかもしれないが、たしかに第1次石油ショックのおきた1973年ごろから、日本では何かが変わりはじめていた。ぼくは狭義の「戦後」が終わったと感じていた。それをポストモダンのはじまりととらえる人もいたはずだ。
 左翼はもはやポストモダンの情況に対応しきれなくなっていた。

〈多分、そこが旧来の左翼と僕らの分かれ道になったのです。それは旧来の左翼の「都市資本主義を肯定し始めた」という僕への批判にあらわれました。エコロティシズム[エコロジー主義]、ナチュラリズム、科学技術の単純否定、反都市、反文明、反原発というように、旧来の左翼はこの時期から退化、保守化に入っていきます。つまり僕などの考え方との開きは拡大していったのです。〉(「わが『転向』」)

 世界が変わってしまったのに、左翼は相変わらず昔ながらの世界観で現状をとらえているという吉本の左翼批判を、あのころぼくは複雑な思いで受け止めていた。吉本の指摘はもっともだが、ぼく自身は相変わらずの心情左翼だった。ポストモダン情況の展開を素直に肯定する気にはなれなかった。
 2020年代の現在、老化とあいまって、吉本にいわせれば、ぼくの「退化」「保守化」の度合いはいちじるしい。いまは世も末だ、ポストモダンどころか、近代の終わりだ、アフターモダンだと嘆いているのが、憐れなぼくの末路である。
『ハイ・イメージ論』はさっぱりわからない。せめて、わかりそうなところだけでも理解したいと、いくつかの章を断片的に読んでみることにした。
 最初に取りあげるのは「エコノミー論」だ。
 こんな記述からはじまっている。

〈わたしたちが思いおこすあのふるい自由の規定は、現実が心身の行動を制約したり疎外したりする閾値のたかい環境のイメージといっしょに成りたっていた。……わたしたちが現に実感している自由の規定は、現実は心身の行動をうすめ埋没させてしまうという環境のイメージといっしょに成りたっているものだ。ふるい自由のように制約や疎外を実感できないので、まったく恣意的に振舞っていいはずなのに、と惑っているのだ。ほんとはちいさく部分的な疎外でしかないものを、誇大に拡張して、いやまだ深刻で人類の運命にかかわる制約や疎外はあるとみなして、虫めがねをたずさえて探しあるき、世界苦のたねを発見しなくてはならなくなっている。発見できなかったら、でっち上げなければならないのだ。だがふるい自由のこの振舞い方は、現在から遠ざかっていくほかない。〉

 その冒頭を引用してみたが、この熱い情念に導かれたような文体から浮かび上がってくる構図は、意外と単純なものだと思える。
 ふるい自由というときに、吉本はたとえば奴隷を思いうかべている。心身の自由を奪われた奴隷だ。そうした奴隷は、みずからを制約する身分からの解放を切実に願うだろう。制約や疎外からの解放こそが自由だ。
 これにたいし、現代のサラリーマンやOLは奴隷といえるか。会社から与えられた業務をわりあい好きなようにこなしているようにみえる。それもまた制約や疎外かもしれないが、それがいやなら別の方向を求めればよい。
 それなのに左翼は相変わらず奴隷のイメージにこだわる。何とか、抑圧、従属、虐待の事態をみつけて、それを告発することに執着する。そうしたことは、いまでもあるかもしれない。だが、そればかり取りあげるのはもう時代遅れなのだ、と吉本は言い切っている。
 こういう言い方をすれば、とうぜん吉本は右翼反動に成り下がったのかと、反発する向きもでてくるだろう。だが、おそらくそうではない。吉本はいまも「あたらしい自由」は現代の課題でありつづけていると考えているからだ。
 バーチャルとリアルが区別をなくし、ほとんど同じになってしまった時代。人びとは一日の多くを、テレビをみたり、本を読んだり、パソコンをいじったりしながらすごすようになっている。

〈制約と疎外をのみこんで、ひとりでに増殖する生物のように、ありあまる恣意性(自由)を先き占めしてしまった現実に、あたらしい自由の規定が戸惑っているとすれば、いちばん要めにあるのは、映像と、その対象になった現実とが、区別をなくし、同じになってしまったからだとおもえる。わたしたちはほんとをいえば制約や疎外をのみこまれてしまっているかどうかさえ把めていない。にもかかわらず、制約や疎外の画像がたしかにのみこまれ、うしなわれているのは、映像と現実との区別が無意味になってしまっているからだ。〉

 映像のような現実と、現実のような映像がごっちゃになっている現在、人はどう生きていけばよいのか。そうした現在においては、人のおかれた制約や疎外すらも幻想のなかにのみこまれてしまっているようにみえる。
 正直いうと、吉本のことばはむずかしくて、ぼくなどにはほとんど理解しがたい。左翼の人間解放論などはもう信用できないぜというメッセージが、こだまするだけである。
 経済にしても、昔ながらの「マルクス主義」経済学はすでに通用しなくなっている、と吉本は考えている。
 エコノミー論、はじまったばかりだ。これだけでも読み切れるかどうか、心もとない。

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仲正昌樹『統一教会と私』を読む(2) [本]

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 統一教会にはいり、伝道をはじめると、著者は次第にその活動にのめり込んでいく。話を聞いてくれる学生は少ない。入会してくれたのは、たった一人だった。
 珍味などの物を売る(いわゆる万物復帰)のは苦手だった。そのため、原理研のなかでも、落ちこぼれになったような気がした。それでも、いまさら退会するわけにはいかず、統一教会に身をまかせるほかなかったという。
 やる気をなくしていると、もっと自分を見つめなおせと説教され、ますますうんざりしてしまう。大学でも白い目で見られ孤立しているので、授業にでる気もなくなる。左翼とぶつかるときだけ元気がでた。
 原理研は韓国、日本、アメリカに組織があって、その英語略称がCARPだった。そこにドイツでもCARPを設立しようという話がもちあがる。まだドイツが東西に分かれている時代だった。著者もドイツに行ってみたいと思うようになるが、なかなか行かせてもらえなかった。やがて、チャンスがめぐってくる。ドイツ行きが決まった。
 西ドイツでは最初に北西部のミュンスター、つづいてボンやケルンで伝道や物売りをはじめた。だが、うまく行かない。人間関係もよくなかった。バカにされているようなので、ケルン大学に登録して、哲学を勉強し、学位をとって、みんなを見返してやろうと思った。
 そんなとき、原理研の東京ブロック長から指示があった。日本にいったん戻って、東大を卒業するようにというのだ。いろいろ考えた末、ドイツに帰らず、ふたたび東大に通うことにした。
 信仰歴が6年にもなるのに統一教会のなかで、著者はなかなか認めてもらえなかった。合同結婚式に参加できる「祝福」候補者にもしてもらえない。「祝福」は再臨のメシアによる原罪の清算を意味しているのに、それが認められないというのはどうしてかと、歯がゆい思いをつのらせていたという。このあたりの感覚は信者でないとわからない。
 大学はもちろん、ホームでもだんだん居心地の悪さを感じるようになったちょうどそのころ、ようやく「祝福」の話がでる。相手は日本人で、地方の教会に所属している人だという。知らされたのはそれだけだ。
 こうして著者は1988年に韓国での「合同結婚式」に出席することになる。相手と会ったのは、結婚式の前日で、軽くあいさつした程度だった。
 当日は、文鮮明教祖のお言葉のあと、6500組のカップルが全員で万歳(マンセー)を唱え、そのあと別の会場で、おたがいに棒で尻を3回ずつ叩き合う儀式がおこなわれた。アダムとエバ(イブ)の罪を清算する意味がこめられている。
 しかし、著者にとって相手は好みではなかった。話も合わなかった。
 大学院への進学をめざしたが、面接で落とされてしまう。原理研にはいっていることが大きな理由だった。
 大学院受験に失敗した著者は、統一教会系の新聞「世界日報」に就職する。住まいは駒場のホームから「世界日報」の川崎の寮へ移った。
 そのころ世間では霊感商法への批判が巻き起こっていたが、著者はそれを一種の献金だととらえ、マスコミが嘘の情報を垂れ流していると思っていた。その集めたお金は、世界での布教活動に使われていると理解していた。
 1991年ごろ、「世界日報」でもらう給料は5万円か6万円で、かなり低かった。生活が苦しいのは神が私たちに与えた試練だと思い、感謝して働いている信者が多かったという。
 しかし、けっきょく著者は大学院で学ぶ道を捨てきれなかった。ドイツ語と英語は得意なので、ドイツ思想史に関連する研究者なら、自分にもできるかもしれないと思った。
 こうして著者は三たび挑戦し、ついに1992年4月に東大大学院総合文化研究科に入学することができた。それが統一教会を脱会するきっかけになる。
 合同結婚式でマッチングされた相手とは気が合わず、別れることにした。いっしょに過ごしていく将来のかたちが、どうしても描けなかった。
 仕事場の「世界日報」での人間関係もうまくいかない。記事の論調にも不審を感じた。文鮮明が北朝鮮を訪問し、金日成と会談してからというもの、世界日報でも北朝鮮にたいする論調が露骨にあまくなっていた。
 そんなことが重なって、著者は「もう脱会してもいいかな」と思うようになる。
 親から送ってもらったお金でアパートを借り、奨学金をもらうことにした。相対者の女性とは正式に別れ、「世界日報」を辞めた。退職にあたっては、退職金をもらうとともに、統一教会の批判をしないという書面にサインした。
 数カ月たつと、統一教会の本部から「祝福」を辞退することを証明する書類が送られてきた。これはメシアの意志に従わないことを意味する。その書類にサインして、正式な脱会が決まった。
 その後、著者はドイツ思想史の研究者となり、ふたたびドイツに留学し、統一教会で「失われた10年」を取り戻すべく、がむしゃらに勉強する。博士号を取得し、駒沢大学で非常勤講師をしながら、19大学の公募に応募し、ようやく金沢大学から採用されることになる。
「なんだかんだと騒ぎながら、35歳になるちょっと前に就職できた私は幸運だった」と回顧している。それからは研究一筋。結婚していない。「ひとりでいることに慣れてしまったのかもしれない」という。
 著者にとって、宗教とは何なのか、あるいは何だったのか。
 意外なことに、統一教会のメンバーシップはさほど強靱ではなかったという。
 多かれ少なかれ、宗教と人間は切っても切れない関係にある。宗教とは「精神的な絆」を求める人たちの共同体だ。そのなかでは、神が私を導いていると思えると安心できる。
 そんな共同体は宗教団体だけでなく、国家でも企業でも家庭でも同じかもしれない。いつの時代も、将来は不安に満ちているからだ。しかし、そうした共同体になじめない人たちもいる。
 何らかのきっかけで、そこからはじきだされた人たちは、周囲から奇異にみえる「形而上学的なもの」にみずからの精神的基盤を求めるようになる。そういう人たちが新たに霊的な絆を基盤とする共同体をつくると、それが「宗教」にみえるようになる。
 それはあたりまえのことで、「宗教」をやたら危険視、敵視するのはおかしい、と著者はいう。
 日本でいうカルトとは、反社会的な宗教教団のことである。そこでは、反社会的ということに重点が置かれているが、異端の宗教教団をイメージだけで、安易にカルトというべきではない。信仰の自由は守られなければならないからだ。
「教団の存在自体を否定し、なんとしても解散に追いこもうとするようなマスコミの報道姿勢は、単なるスキャンだリズムだと思う」と著者は書いている。
 マインドコントロールというが、人間を思いどおりに操ることはそう簡単にはできない。多くの葛藤をへて、人は信仰や忠誠心を固めていく。それは統一教会でも同じで、「組織による拘束力や強制力は、統一教会よりも普通の会社のほうが強いようにも思える」。
 左翼が統一教会をはじめ宗教そのものを認めないのは、マルクス主義が宗教的性格を帯びているからだ、と著者は断言する。唯物論的な歴史的発展の法則というのは、きわめて形而上学的な想定である。労働を神聖視するのも、宗教的なイデオロギーである。マルクス主義がはやるのは、それが「疑似宗教的な『共同性』をつくり出すからだろう」。それが極端なかたちまで進んだのが、連合赤軍のリンチ殺人事件だった、と著者はいう。
 いつの時代も、人とのつながり(絆=共同性)と人からの承認を求める志向性は強い。しかし、絆を強調しすぎるのは危険だ、と著者はいう。絆を求めすぎると、特異な教理に帰依しようとする傾向も強まっていく。だれにもそれを阻止する権利はないが、特定の宗教や思想にのめり込むのは、あまり好ましくない。第三者的な視点を失って、考え方が閉鎖的になっていくからだ。
 新宗教は白い目で見られがちだが、信者の側にも言い分はある。自分たちは何も悪いことをしていないと思っているからだ。多くの人から見れば変わった思想であっても、それを誹謗中傷しない、ある程度の寛容さが必要ではないか、と著者はいう。
 どのような社会や組織でも、全体を統率しながら、一人ひとりの状態に心を配るような権力は必要である。人間にはだれしも「私の存在価値を認めてほしい」という欲求がある。「人から認めてもらったり、人を認めるという経験が日常的に不足していると、互いに認めあうシステムを構築している宗教に人が集まりやすくなるのは、当然のことだろう」
 人間にはかならず死が訪れる。しかし、それを常に意識していたら、それこそおかしくなってしまうだろう。自分が死に、魂が消滅すると考えたら、なにをやってもむなしいという気分になり、それこそ自暴自棄にもなりかねない。
 しかし、魂が不死であり、自分のやっていることが神によって見守られているとしたら、不安は取り除かれ、生きることに自信がもてるようになる。著者の場合は、そうした心の安定装置が原理研=統一教会だったという。そして、統一教会に心の安定を見いだせなくなったときに、脱会の道を選んだ。
 入会を決め、脱会を決めるのは、あくまでも個人だ。
 生きていくうえで、だいじなのは寛容の思想だ、と著者はいう。話を聞く前に非難するのは、批判ではなく、ただの誹謗中傷である。おかしな主張を掲げていると思ったら、その中身を批判すればいいという。
 著者は統一教会での体験を後悔していない。統一教会にはいっていなければ、学者になっていなかっただろうという。人とのコミュニケーションができるようになり、ドイツに行くことができ、マルクス主義や実存主義、キリスト教系の宗教哲学を学ぶことができ、取材して記事を書くことができるようになったのも統一教会のおかげだったという。
 もっと早く脱会してもよかったが、研究者としてはハンデがあったからこそ、がむしゃらに努力してきた。統一教会を否定したあとは、自分で自分の道をみつけなければならなかった。いまも心酔し、尊敬している思想家はいないという。
「他人に迷惑をかけない範囲で、宗教を信じたい人は信じればいいし、辞めたくなった人は適当な時期に辞めればいい、と思う」
 それは統一教会についてだけでなく、どんな宗教でもいえることだ。

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仲正昌樹『統一教会と私』を読む(1) [本]

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 仲正昌樹は政治哲学や政治思想の研究者としてよく知られている。
 マキャベリ、ルソー、カント、ヘーゲル、マルクス、ウェーバー、ニーチェ、ハイデガー、カール・シュミット、ベンヤミン、アーレント、フロム、デリダ、ハイエク、ロールズ、ドゥルーズ、ガタリ、フーコーなどなど、あまたにわたる思想家のテキストを読み解き解説する膨大な著書がある。
 ぼくも何冊かもっているが、手がつかないまま、ほとんどが本棚に眠る。かれのすさまじいパワーは、いったいどこからくるのか。
 1963年に広島県呉市で生まれ、81年に東京大学(理Ⅰ)に入学している。入学早々、原理研究会(原理研)にはいり、92年11月に脱会するまで、11年半、統一教会の信者だった。
 本書は著者の統一教会での体験を率直につづったものである。
 読みはじめて最初に感じるのは、統一教会がカルトというより、いわばサークルやセクトに近い存在だということだ。全共闘時代の大学を経験したぼくは、革命に疑問をもっていたためセクトにははいらなかったが、まわりにはセクト(共産党や新左翼を含め)に所属する人たちが大勢いた。
 その伝からいえば、統一教会はキリスト教系の──そう決めつけると反発する人もいるだろうが──新宗教団体、いや新宗教セクトといってもいいのではないか。
 そのコングロマリットは、統一教会を母体として、原理研、国際勝共連合、世界平和教授アカデミー、世界日報などのメディア、その他もろもろの企業からなりたっている。
 なお、本書にはいわゆる暴露はない。あくまでも著者個人の体験だけがつづられている。統一教会の資金がどのように使われたのか。自民党とのつながりはどうだったのか。あるいは、統一教会の活動がどれだけ多くの家族を不幸にしたのか。また、現在名称を変えた統一教会のことも描かれていない。それを知るにはジャーナリズムの力が必要である。
 それでも、本書からは統一教会がどんな団体か(だったか)が伝わってくる。
 ぼく自身は相変わらず愚鈍で、読書もはかどらない。ぼうっとしていることが多い。それはいたしかたないとして、少しずつ読んでみることにした。

 統一教会は1954年に韓国で文鮮明(ムンソンミョン)を教祖として設立された宗教団体である。日本に支部ができるのは1959年で、64年に宗教法人として認可されている。
 その教義はキリスト教の聖書をもとにした『原理講論』に集約される。
 話はアダムとエバ(イブ)の堕落論(楽園追放)からはじまる。
 統一教会はこの物語を次のように理解する。
 天使長ルーシェル(ルキフェル、ルーシェル)は、神が人間をかわいがるのを嫉妬して、エバを誘惑して関係をもち、それを悔やんだエバは夫となるべきアダムと積極的に交わってしまう。そのことを知った神はアダムとエバを楽園から追放する。ルーシェルは悪魔サタンと化す。
 神から見捨てられたアダムとエバは、サタンがとりつきやすい体質になっている。原罪を負ってしまったからである。
 しかし、神は人類を見捨てはしない。いつか再臨のメシアが人類の罪をあがない、ふたたび地上に神の国を実現する。統一教会では、その再臨のメシアこそ文鮮明だと考えられている。
 統一教会の特徴は、その宗教活動が反共を中心とする政治活動とつながっていることだという。共産主義、すなわちマルクス主義はサタンの思想であって、それに対抗する真の理想社会像を示すことが求められる。
 そうした「勝共理論」にもとづいて、勝共連合が結成される。勝共連合には、信者にかぎらず、信者以外の政治家や知識人、ジャーナリストも加わる。
 呉市に生まれた著者が統一教会にはいったきっかけは、東大に入学した早々、原理研究会というサークルに勧誘されたためだ。勉強は得意だが、スポーツは苦手、人づきあいも好きではなく、「ドンな奴」とコンプレックスをいだいていた。日教組や労働組合のスト、左翼的なものには反感をもっていた。自己変革を迫る共産主義の雰囲気が嫌いだった。キリスト教にもとくに興味をもっていなかったという。
 そんな著者がなぜ原理研(著者の言い方では原研)にひかれたのだろう。勧誘した人が自分の話をよく聞いてくれたというあたりがはじまりだった。原理研にはいれば、自分の不安や劣等感、さみしさが解消されるような気がした。
 サークルのホームでは「統一原理」を教えられた。それは聖書の物語を解釈した一種の人間学で、自分のようなうらみがましい、だめな人間にも救いが待っているという壮大な体系から成り立っていた。
 ホームにかよいだしてから1週間後、著者は「ツーデイズ」と呼ばれる2泊の研修合宿に参加した。そこで、さらにくわしく「統一原理」を学ぶと、統一教会を信じるという自覚をもつようになったという。聖書にもとづくその教えがじゅうぶん納得できるものと感じられた。
 共産党系の民青からの嫌がらせを受けた著者は、いづらくなった東大駒場寮を出て、原理研のホームに住み込むようになった。それからしばらくして、「セブンデイズ」と呼ばれる七日間の研修に参加し、正式に統一教会の会員となった。
 東大の原理研は世田谷区代沢に一軒家を借り上げ、ホームとして使っていた。そこでは20人くらいが暮らしていたが、手狭になったので、さらに近所のアパートの一室を借りた。信仰生活にもとづく合宿生活がはじまった。
 原理研は学区ごとにつくられ、その上にブロックがあり、さらに全国大学原理研究会という組織があって、会長がいる。学区の下に支部がある。韓国語風に食口(しっく)と呼ばれる信者は伝道活動を実践し、礼拝に参加し、共産主義を否定するための勝共理論を学ぶ。みずからの罪を神に告白し、夜を徹して祈禱することもおこなわれていた。
 原理研は基本的に統一教会、勝共連合の学生組織である。原理研では、女性会員をエバさん、男性会員をアダムと呼んでいた。男女関係を含め、堕落した人間は、「非原理的」とされ、批判された。
 東大の原理研はどちらかというと特別扱いされていた。学区長には元新左翼の人もいた。東大生への伝道は大きな目標で、ときに女子学生からなる「エバ部隊」が投入されることもあったという。しかし、色仕掛けは御法度だった。
 統一教会をセックス教団ととらえるのはまちがいだ、と著者はいう。合同結婚式もどちらかというと婚約に近く、家庭生活をはじめる許可を本部からもらうまでは、たがいに清い関係を保たなければならない。
 原理研では物品販売の仕事もあった。人は、おカネに執着しながら、「堕落世界」、「サタン世界」で暮らしている。神の元に復帰するには、まずおカネを献金しなければならない。これが万物復帰の考え方である。
 信者が物品を売るのは、ひとつの伝道であり、たとえ苦しくても伝道でおカネを集めることが、神の御旨(みむね)にかなうことになる。そして、物品を買ってくれる人も、それによって霊界が晴れ、先祖の罪が許されるのだから、これにより、たとえ霊感商法と呼ばれても、物品販売は正当化されることになる。
 もっとも、そう高い物品がいきなり売れるわけではない。著者が入信する前はよく、お茶が売られていた。それが珍味に変わり、さらにメタライト(金属絵画)に変わっていったという。
 夏休みには仙台で21日修練会があった。ここではさらにレベルの高い学習の場があり、信者どうしの結婚に関する話もされ、伝道(勧誘)や万物復帰(物売り)の実践もあった。ワゴン車に6、7人が乗って、珍味を売りにいく。50軒、60軒と回ってもなかなか売れなかった。徹夜祈禱も何度かおこなわれたという。
 東大に帰ると、左翼との戦いが待っていた。民青からは口げんかをふっかけられ、新左翼のセクトからは暴力をふるわれた。共産主義研究会という研究会を立ち上げて、マルクス主義のテキストを取りあげ、論破する講座を開いた。巨大な立て看板をつくって、統一原理や勝共理論にもとづき、左翼批判をくり広げたりもした。
 こうした活動を通じて、原理研の仲間どうしの結束がかたまっていく。左翼からいやがらせを受けるたびに「やはり左翼はサタンなんだ」という確信が強まっていく。
 左翼からの批判は、著者にいわせれば荒唐無稽なものが多かったという。「根拠もなく、無茶な話を信じて暴力をふるっているくせに、自分たちは『科学的社会主義』と称する態度は、私たちよりはるかに狂信的な宗教であるとしか思えなかった」
 著者も左翼から暴力を受けて、何度か病院に行ったという。
 こうして著者はますます原理研の活動にのめり込んでいった。
 誤解を恐れずにいうと、なんだかぼくの短い左翼体験とも似ている部分もあって、おもしろいし、なつかしくもある。
 長くなったので、今回はこれくらいで。つづきは次回ということにしよう。
 著者はますます統一教会にのめり込んでいくが、そこからどのようにして脱会していったのだろうか。

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原首相暗殺事件──美濃部達吉遠望(43) [美濃部達吉遠望]

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 1920年(大正9年)2月26日、原敬は衆議院を抜き打ち解散した。
 公債発行による積極財政をとったため物価が上がっている。日本経済は好景気にあるとはいえ、賃金上昇を求めてストライキが多発していた。
 欧州大戦が終わったのだから軍備縮小の動きがでてもいいはずなのだが、実際は逆で、日本の軍備刷新と国民動員強化を求める声が強くなっていた。
 国防費の増強をはからなければならない。鉄道の建設や電信電話の整備、道路改良にも多くの予算が必要になってくる。労働政策や社会政策は後回しになる。
 そんななか、野党の憲政会(党首は加藤高明)と立憲国民党(党首は犬養毅)、新政会は、こぞって男子普通選挙法案を提出した。上野公園や芝公園では普通選挙を求める大集会が開かれ、衆議院での審議がはじまる2月14日には日比谷の帝国議会を群衆が取り囲んだ。
 議会では普通選挙をめぐり、反対、賛成の立場から議論がかわされたが、原は普通選挙の是非を国民に問うとして、衆議院の解散に踏み切った。
 美濃部達吉は4月発行の雑誌『太陽』に「衆議院の解散」と題する一文を掲載し、原敬の姿勢を批判している。

〈今回の解散ほど、何人(なんぴと)も解散を予期していなかった時にあたって、突如としてその大命が下され、しかもそれが何の理由のために下されたのであるか、ほとんどまったく合理的の根拠を求むることのできない場合は、世界の議会歴史においても、まれに見る例であろうと思う。〉

 今回の解散理由がまったく理解できないというのだ。憲法に違反していなくても、それは権力の濫用であり、不当な行為、非立憲的な行為だ、と達吉は断言する。
 原首相は普通選挙について民意の判断を問うことが解散の理由だという。しかし、それはとうてい納得しがたい。選挙法はすでに昨年改正され、納税要件を下げて選挙人を拡大し、小選挙区制を実施することが決まっている。これにたいし、野党はさらに普通選挙の実施を求め、法案を提出したのだが、これに反対する政府は解散して、民意を問うという。それはまったく解散の理由になっていない。

〈何ら民意の代表について疑いを抱くべき根拠のなきにもかかわらず、これを断行し、これがために予算を不成立に終わらしめ、幾多の重要なる法律案を葬るのやむを得ざるに至らしめたことは、その責任軽からずというべきである。〉

 そんなふうに達吉は原首相による突然の解散を批判した。
 いずれ日本も普通選挙を実施せねばならぬことはわかっている。しかし、時期尚早というのが原の考えだった。何よりも、昨年成立した選挙法改正による小選挙区制の選挙が一度もおこなわれていない。しかも、政友会は議会での過半数を確保していない。盛り上がる普通選挙運動を沈静化させることも目的だった。普通選挙は口実にすぎない。原は総選挙の機会をうかがっていた。
 帝国憲法では議会で予算が成立しない場合、政府は前年度の予算を施行すると定められている。解散前に原は加藤海軍大臣と田中陸軍大臣に了解をとった。予算成立を流しても、原が解散を断行したのは大きな賭けにちがいなかったが、勝算はあった。
 枢密院との打ち合わせが不備だったため、けっきょく選挙は5月10日にずれこむが、原の思惑どおり政友会は圧勝し、464議席のうち278議席を得て、絶対安定多数を確保した。
 巨大与党が生まれた。しかし、議会運営が楽になったわけではない。野党の憲政会、国民党が食いついてくる。
 世間では過熱した投機熱が異常な好景気を生んだあと、その反動で株価が暴落し、戦後の恐慌がはじまっていた。3月にはシベリアのニコラエフスクで日本人730人がロシアのパルチザンによって虐殺される事件も起きていた(尼港事件)。
 選挙後に開かれた議会で、大蔵省出身で憲政会の浜口雄幸(おさち)は、政府の財政金融政策を批判した。同じく憲政会の永井柳太郎は「西にレーニン、東に原敬」と演説をぶち、レーニン政権が労働者階級による専制であるとすれば、原政権は資本家階級による専制にほかならぬと揶揄した。
 大蔵大臣の高橋是清をはじめとする3閣僚に、株式売買をめぐる汚職の疑いありとの告発もだされる。政府は即座にその疑惑を打ち消した。
 1921年(大正10年)1月、美濃部達吉は『東方時論』に「一九二一年の問題」(のち「我が憲政の将来」と改題)と題する論説を掲載した。
 この年から東京帝国大学の入学時期は、政府の会計年度にあわせて9月から4月に変更される。その前年9月から達吉は東京帝国大学法学部(法科大学を改称)に新設された憲法第2講座を兼任するようになっていた。
 達吉はいう。議会はいま国民の失望を買っている。立法機関といいながら、法律の知識がある議員は少なく、その実態は政府の立案起草する法案に同意か不同意かを機械的に表明するにすぎない。もっとも重要な予算審議についても、予算の内容を理解している議員は少なく、財政の監督をはたしているとはいいがたい。「議員は予算の正否を監督するよりも、むしろ自分の選挙区の地方的利益のために、少しでも多く国費を支出することに熱心である」
 政党の弊害も甚だしい。議員の議決は自由意思ではなく、党議によって縛られている。その党議も必ずしも公平とはいえず、党派的な思惑にもとづくことが多い。党利が優先され、国益が損なわれる事態もしばしばみられる。
 議会が真に国民の意見を代表することは、事実上不可能である。議会はどちらかといえば資本家階級の代表に偏しやすく、中産階級や無産階級がこれに不満を抱くのは当然のことだ、と達吉はいう。

〈議会制度はかくの如き弱点を有するものであるから、世人の多くが議会に対して絶望の念を抱き、議会を廃止してこれに代うるに他の適当の手段をもってしようとするに至ったのは、あえて怪しむに足らぬ。しかしながら議会制度を廃止して、ほかにこれに代わるべきいかなる手段があるかと言えば、不幸にして適当なる何らの制度をも見いだすことができぬ。〉

 議会制度には多くの欠点があるが、残念ながらこれに代わるものはない、と達吉は断言している。官僚政治はまったく問題外だ。
 大政治家が起こって、国家の重責を担い、国民を満足させるような独裁政治をおこなうのなら、それは理想に近いかもしれないが、そんな政治家の出現は望みがたいし、制度として維持できるものでもない。
 国民が政治的に自覚した近代においては、いかなる哲人であっても、いかなる聖雄であっても、国民はこれにたいし永く服従に甘んずるものではない。いっぽう、直接民衆政治、たとえば国民投票による政治、労働者による直接支配も国家や社会の混乱を招くだけだろう、と達吉はいう。
 議会制度はけっして理想的なものではない。しかし、多くの欠点があるにせよ、これに代わるべき制度が見当たらないとすれば、当面、これを維持するほかない、と達吉は断言する。
 実は議会の最大の役割は、政党の勢力にもとづいて内閣を組織すること、そのいっぽうで内閣を監視すること、質問その他によって、内閣の施政を批評し輿論の喚起をはかること、場合によっては内閣に不信任を突きつけることにある。何よりもおおやけの場で議論がおこなわれ、いま政治の場で何が起こっているかを知らしめ、国民の自治的精神に寄与することこそが、議会の価値なのだ、と達吉はいう。
 それでも現在の議会制度には大きな欠点があり、多くの改善の余地がある、と達吉は指摘する。問題はいまの議会が資産家階級の利益を代表し、無産者階級の利益を反映していないことだ。それを改善するには、普通選挙制を採用するほかない。選挙の費用を考えれば、比例代表制を採用すべきである。
 政府が警察権によって選挙に干渉することを防ぐこと、府県知事を公選とし地方自治を促進すること、議員の発言表決の自由を認めること、政党資金の規制を図ること、議会の調査権を確立すること、貴族院や枢密院のあり方を検討することもだいじだと述べている。
 第44議会は1920年(大正9年)12月27日に開会し、翌年3月26日に閉会した。前年度から16%増の積極予算が可決され、臨時軍事予算追加も認められ、郡制廃止法案、国有財産法案、米穀法案、航空法案が議会を通過した。
 しかし、議会運営がスムーズに進んだわけではない。議会は大荒れに荒れた。野党からはまたも普通選挙法案が出されたが、ただちに否決された。それでも野党はひるまない。13の政府反対建議案が出され、かずかずの暴露合戦がくり広げられた。満鉄からの選挙資金提供や関東庁のアヘン取引疑惑、東京市のガス料金値上げをめぐる贈収賄なども取りあげられた。
 達吉は裁判制度に陪審制を取り入れる法案が提出されることを期待していたが、この法案は枢密院で止まり、議会で審議されなかった。
 そのころ、世上では、皇太子妃候補に色覚異常の遺伝があるのではないかという疑惑が取り沙汰されていた。あげくのはてに原首相の女性問題もうわさされるほどだった。
 数のうえでは原政権は安定しているはずだった。だが、世界大戦後の政情は波乱に満ちていた。大正天皇の病状も思わしくなく、摂政を立てねば国政に支障をきたすほどになっていた。
 摂政になるのは裕仁皇太子(のちの昭和天皇)以外に考えられないが、原には摂政就任前に皇太子に広く世界を見ておいてもらいたいとの思いがあった。その願いがかなって、1921年(大正10年)3月から半年間、皇太子は訪欧の旅に出ることになった。日程の都合上、アメリカには立ち寄れない。
 11月からはワシントン会議がはじまる。アメリカが国際連盟に加入しなかったため、極東における国際秩序の枠組みを定めるためにも、日本とアメリカの協議は欠くことができなかった。
 原は首席全権に加藤友三郎(海軍大臣)、幣原(しではら)喜重郎(駐米大使)、徳川家達(貴族院議長)を任命し、10月に外交代表団をアメリカに送りこんだ。原自身が行くべきだという声もあったが、課題が山積しているため原は国内にとどまった。
 その矢先、11月4日に事件はおこった。
 午後7時すぎ、夜行列車で政友会近畿大会に向かおうとしていた原は、東京駅の乗車口手前で、群衆のなかから飛び出してきた18歳の青年に刺され、死亡した。享年65歳。
 犯人の青年の名は中岡艮一(こんいち、1903〜80)。山手線大塚駅で転轍手(てんてつしゅ)をしていた。新聞や雑誌を読んだり、駅の上役の話を聞いたりして、原の財閥寄りの政策、尼港事件への対応、さまざまな汚職事件に憤りを感じていたという。
 9月28日に発生した朝日平吾による安田善次郎(安田財閥の総帥)暗殺事件に刺激され、原首相の暗殺をくわだてたと伝えられる。
 議会政治否定のロマン的衝動が、思わぬところから噴きだしはじめていた。

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