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吉本隆明と「超資本主義」(1)──大世紀末パレード(30) [大世紀末パレード]

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 徳間書店が『サンサーラ』と呼ばれる月刊オピニオン誌を出していたことがある。1990年1月に創刊され、97年4月が最終号となった。
 思想家の吉本隆明は1993年5月号から97年4月号まで、この『サンサーラ』に時評を書きつづけていた。96年8月に、例年、夏の休暇で訪れていた西伊豆の土肥で遊泳中に溺れ、生死の淵をさまようが、それでも数カ月の休載をのぞいて、休刊となるまでこの雑誌に寄稿していた。
 そのころの思索は、のちに『超資本主義』と『思想の原像』(ともに徳間書店刊)というふたつの単行本にまとめられた。どちらの本も、経済・政治・情況という3方面の切り口から世相を切り取っている。
『超資本主義』が特異なのは1995年に発生した阪神大震災とオウム地下鉄サリン事件が別項として章立てされていることだ。このふたつのできごとの与えた影響がいかに大きかったかを示している。それらについては後述する。
 ここでは、まず吉本の規定した「超資本主義」なるものについて、それが何を意味していたかを追ってみることにしよう。
最初の寄稿で、吉本は、日本経済は1990年終わりごろから不況のきざしがみえ、93年5月になっても不況から抜けだせないでいると書いている。
 上からの景気対策の効き目は薄くなっている。なぜなら、アメリカ、日本、EC(93年11月にEUと改称)のような資本主義国は、すでに消費資本主義、すなわち超資本主義の段階に突入しているからだというのが吉本の認識だった。
 こうした国々では、政府がいくら経済を刺激しようとしても、企業は設備投資をしないし、消費者も消費を増やさない。そのため、政府がいくらカネをばらまいても、それはあらぬ方向に向かってしまい、肝心の実質経済の健全な回復につながらないのだという。
 ところで、政府はどのように景気を判断しているのか。証券会社や生命保険会社、銀行、サービス業、卸・小売業、レストラン外食、電機・通信機器など、各業界の経常利益が前年に比べマイナスになっていることをもって、不況だと判断するのが通例だ。だが、そのことにはたして妥当性があるのか、と吉本は問うている。
 たしかに93年の企業の業況判断はマイナスになっており、設備投資の伸び率も前年より低くなっている。いっぽう、個々の世帯の消費支出(92年)をみると、1世帯平均で31万1305円で、前年に比べほとんど増えていない。さらに、消費者態度指数からは、サラリーマンが今後消費を手控える兆候もみられる。不況かどうかの判断は、ほんとうは企業の設備投資指数や家計の消費指数にもとづいておこなわれるべきだという。
 もっとシンプルにいえば、景況は、企業の儲けが増えているか減っているかではなく、家計の消費支出が増えているか停滞しているか(あるいはマイナスになっているか)によって、判断すべきだというのが、吉本の考え方だったといってよい。この考え方はじゅうぶん納得できるものだ。
 ちなみに2024年9月の家計の消費支出は28万7963円で、この2年ほどインフレが進行したにもかかわらず、1992年よりさらに低くなっている。

 1993年4月13日に自民党の宮沢喜一政権が発表した「新総合経済対策」なるものについても触れている。これはバブルがはじけたあとの不況に対応するための景気刺激策だったといえるが、まもなくおこなわれるはずの総選挙を意識した自民党政権による大盤振る舞いでもあった。
 7月18日におこなわれた総選挙で自民党は大敗し、非自民・非共産の細川護熙連立政権が成立することになり、この「新総合経済対策」はうやむやになる。だが、細川政権でもこの経済対策の骨格は維持されることになった(第2次、第3次の補正予算が組まれている)。
 月刊誌の時評という性格もあって、吉本は「新総合経済対策」が出された時点での感想を書いている。
「新総合経済対策」は総額で13兆2000億円にのぼる大規模なものだった。その中心は公共事業費に置かれていた。
 ここで吉本が問うのは近年、「どうして公共事業費の投入を主にしたケインズ型の不況対策がそれほどの目立った効果をあげないのか」ということだった。
 吉本にいわせれば、その理由ははっきりしている。超資本主義の段階にはいった日本経済においては、就業者人口からみても、国内総生産からみても、産業はすでに第3次産業が中心になっている。だから、道路や港湾改修など、建設・土木工事に公共事業費を投入しても、たいした効果を挙げられないのだという。
 いくら巨額な公共事業費を投入しても、総消費の大半を占める「個々の国民大衆や民間企業体が選択的な消費や総支出をひき締めてしまえば、どんな政策を採用しても不況を脱することはできない」と書いている。
 吉本は、景気対策としては、建設や土木より、むしろ第3次産業を中心にしたほうがよいと考えている。具体的には、大学や研究所施設、教育、医療、福祉などにもっとカネをかけるべきだという。
「第3次産業関係の公共投資がむしろ50%を超えた額になるような割りふりをもつことが、不況を脱出するための経済対策としていちばんの早道だということはいうまでもないとおもう」。それなのに第3次産業関係への投資はあまりに少ない。
 しかし、そもそも現在の先進地域国家が不況におちいっている原因はどこにあるのか。吉本はいくつかの本を取りあげて、不況の原因をさぐろうとしている。
 宮崎義一は『複合不況』のなかで、金融の流れの不整脈化が物流の停滞に波及したことが不況の実態だとして、その背景には金融自由化の流れがあると指摘した。そして、こうした事態を解消するためには、巨額の資金の流れをコントロールできる強力な世界銀行をつくって、グローバルなケインズ政策を構築するべきだと提案した。
 吉本はこうした左派権威主義的な考え方に猛反発している。「わたしには支配の政策の補助学としての経済学の旧い体質を見事に象徴した結論のようにおもえた」と書いている。
 佐和隆光の『成熟化社会の経済倫理』も取りあげて、国民大衆へのお説教ぶりに茶々を入れている。佐和は、いまや大量生産、大量消費、大量廃棄の20世紀型文明の見直しが必要であり、地球環境を保全するための質素倹約、省エネが必要だと唱えていた。
 吉本は佐和のような考え方は「スターリン主義者の清貧主義やエコロジストの文明退化主義」と同じだという。文明と経済は「自然史的な過程」であって、人工的に制御することはできない。経済は第3次産業化への度合いをますます進め、都市はハイパー都市化していくと論じた。国民大衆に勤倹節約を説教するなど、まったくのお門違いだと批判する。
「上」からの弾圧や抑圧、さらにはお説教に、猛烈に反発するのは、吉本の習い性だったといえる。その反発は、抑圧的なスターリン主義から、リベラル派を含む左翼権威主義にまでおよんだ。巷に生きる独立左翼の意地は残っていたものの、それが左翼的思考からの転向のようにみえたのはいなめない。
 吉本はもはや社会主義に展望はないとみていた。資本主義は必然的に情報化、ハイパー化していく。そのときに、国民大衆の実質所得が増えていくかどうかこそが問題だと思っていた。

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自己調整的市場経済の誕生──ポランニー『大転換』を読む(7) [商品世界ファイル]

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 自己調整的市場経済が誕生するのは、近代の産業革命以降です。これによって、社会は経済を統制する社会から、経済に統制される社会へと変わりました。市場社会が生まれたといってもよいでしょう。

 ポランニーは市場経済をこう定義しています。

〈市場経済は市場価格によって統制され、規制され、方向づけられる経済システムである。そこでは生産と財(商品)の分配からなる秩序が自己調整的なメカニズムにゆだねられている。〉(拙訳)

 商品の生産・交換・分配からなる経済秩序を維持し、動かす基準となっているのは、貨幣にもとづく価格だといえます。
 さらに、こう書いています。

〈自己調整的とは、すべての生産が市場での販売に向けられ、すべての所得がそうした販売から生ずることを意味する。したがって、すべての生産要素について市場が存在するのである。財(常にサービスを含む)だけではなく、労働や土地、貨幣においても市場が存在し、それぞれの価格は商品価格、賃金、地代、利子と呼ばれることになる。そして、まさしくこれらの用語が指し示すのは、価格が所得を形成するということである。すなわち、利子は貨幣の使用にたいする価格であって、貨幣を供給しうる人びとの所得を形成する。地代は土地の使用にたいする価格であって、それを供給する人びとの所得を形成する。賃金は労働の使用にたいする価格であって、それを売る人びとの所得を形成する。最後に商品価格は企業家としてのサービスを売る人びとの所得に寄与する。利潤と呼ばれる所得は実際のところ二組の価格の差額、すなわち生みだされた財(商品)の価格とそのコスト──その商品の生産に必要な財の価格──との差額にほかならない。そこで、こうした条件が満たされるなら、すべての所得は市場での販売から生じることになり、その所得は生みだされた財のすべてを買うに足るものとなるだろう。〉

 これがポランニーのいう自己調整的市場の仕組みです。ぼく流にいいかえれば、商品世界の成り立ちです。ここでは、さまざまな商品が生みだされ、あらゆるものが商品になっていくだけではありません。商品の生産や販売にかかわることで、さまざまな所得が形成され、それによって商品が購入され、消費され、生活世界が形成されているのです。さらにいえば、資本主義は商品を生みだしつづけることを余儀なくされているシステムだということもできるでしょう。
 話を元に戻しましょう。
 ポランニーは、こうした自己調整的市場が生まれるには、市場にたいする国家の干渉が排除されなければならなかったといいます。
 封建制とギルド制のもとでは、土地にしても、労働にしても、それを自由に売ることはできませんでした。土地も労働も法や慣習に縛られていたのです。近世の重商主義の時代になり、市場が全国化するようになっても、土地財産は相変わらず社会的特権の源であり、イギリスでは労働者も職人条例(1563年)と救貧法(1601年)によって規制されていました。
 労働と土地はまだ商品化されていなかったのです。土地が自由に売れるようになり、職人条例や救貧法が廃止されて自由労働市場が生まれるのは、ようやく18世紀終わりから19世紀前半にかけてのことです。この時代に近代への大転換が生じます。これにより自己調整的市場、すなわち市場社会が生まれ、社会は経済的領域と政治的領域に分割されていくことになります。ちがった言い方をすれば、社会が経済社会になり、政治と社会が分離されたということです。
 さらに、ポランニーはこんなふうにも書いています。労働は人間そのものであり、土地は自然環境そのものである。したがって、それらが市場メカニズムに包摂されるということは、社会の実体が市場の法則に従属させられることを意味する、と。
 市場社会では、ほとんどあらゆるものが市場で売買しうる商品とみなされるようになります。それだけ商品の種類、数、量が増えてくるわけですが、同時に商品としての役目を終え、もはや商品とならず廃棄されるものも莫大な量になっていきます。そのこと自体、大きな隠れた問題なのですが、ここでポランニーが問題にしているのは、そのことではありません。
 こういいます。

〈決定的なのは次のことである。労働、土地、貨幣は生産にとって根本的な要素だが、それらは市場において組み立てられねばならず、実際、それらの市場は経済システムにおいて欠くことのできない重要な部分をかたちづくっている。ところが、労働、土地、貨幣が本来、商品でないことは明らかである。売買されるいかなるものも販売するために生産されたものだという[商品の]公準は、これらについてはどうみても当てはまらない。つまり、商品の経験的定義にしたがえば、これらは商品ではないのである。労働は生活自体にともなう人間行動以外の何物でもなく、言い換えれば販売するために生産されたものではない。労働はまったく別の理由から生みだされたものであり、この活動を生活自体から切り離して、貯蔵したり、動かしたりすることはできない。土地も自然そのものにほかならず、人間が土地を生産しているわけではない。最後に現実の貨幣は購買力の象徴であって、商品として生産されたものではなく、金融や国家財政のメカニズムに由来するものである。これらはいずれも、販売のために生産されるものではない。労働、土地、貨幣が商品だというのは、まったくの擬制(フィクション)にほかならない。〉

 市場経済は、ほんらい商品ではない労働、土地、貨幣を、あたかも商品であるかのように呑みこむことによって成り立っているというのが、ポランニーのとらえ方です。したがって、市場経済が社会の市場化をどんどん推し進めて、社会が〈豊か〉になればなるほど、人間の社会はどこかですさみ、こわれていくことになります。
 それは人間の肉体や心理、道徳にも大きな影響をもたらすでしょう。悪徳、堕落、犯罪、飢餓が広がっていきます。自然は収奪され、近隣やまわりの風景もきたなくなり、河川も汚染され、 治安は脅かされ、食料や原料の生産もあやうくなってくる。人間は貨幣の魔力にとりつかれてしまう。そんなふうにポランニーは心配しています。
 社会の市場化が促進されたのは、19世紀に本格化する産業革命によってです。「18世紀末までは、西ヨーロッパにおける工業生産は、商業の単なる付属物にすぎなかった」。ところが「精巧で、特別な機械設備」が発明されると、工業が発展し、本来商品ではない労働、土地、貨幣が生産に投入されるようになったと書いています。

〈これはまさに市場システムが求められたということにほかならない。周知のとおり、このシステムのもとで利潤を確保しようとすれば、相互依存的な競争市場のもとで、自己調整性が保証されるだけでじゅうぶんである。売買プロセスの一部として、工場システムの整備が進んでいくにつれて、労働、土地、貨幣は商品に変わることを余儀なくされ、生産の進行を支えるようになった。もちろん、これらが実際に商品に変わったわけではない。そもそも市場で販売するためにつくられたわけではないからである。しかし、それらが商品としてつくられたという擬制が、社会の組織原理となった。〉

 こうして、市場システムが発展するにつれて、人間社会はことごとく経済システムの付属物となってしまう、とポランニーはいいます。市場社会の変化とともに、人間の生活も変化を余儀なくされるのです。
 しかし、自己破壊的な市場メカニズムにたいして、19世紀社会は──それは20世紀社会も同じですが──対抗的防衛行動をとって、社会と国民生活を防衛しようとします。それがどのようなものであったかを、ポランニーは1795年のスピーナムランド法を例にとって説明します。長くなったので、それはまた次回。

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市場システム以前の市場──ポランニー『大転換』を読む(6) [商品世界ファイル]

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 ほんとうにのんびりした読書です。なかなか進みませんが、別にあせる必要もありません。時間はないようでいて、まだ残っています。
 今回は第5章「市場パターンの進化」(Evolution of the Market Pattern)を読んでみましょう。
 最初にポランニーは、こう書いています。

〈資本主義経済では市場が支配的役割を演じている。またこの経済では、交易ないし交換が根本的な重要性をもっている。しかし、19世紀のこうした思い込みを捨てるべきだとするなら、市場の本質と起源を注意深く探ってみなくてはならない。〉(拙訳、以下同)

 資本主義がいつからはじまったかについては、さまざまな議論がありますが、資本主義は19世紀、すなわち近代の産物だというのがポランニーの考え方です。
 資本主義の核心は市場にあります。市場があってこそ、交易や取引、交換が成り立つのです。そうした経済パターンが普遍化しないと、価格もそもそも存在しません。
 とはいえ、市場は近代以前にも存在しました。ただ、それは近代の、言い換えれば資本主義時代の自己調整的市場とは大いに異なっていた、とポランニーは考えています。
 近代の市場が普遍的なのにたいして、近代以前の市場は普遍的ではなく、あくまでも特殊で周縁的なものでした。ところが、近代においては、社会が市場を統制するのではなく、市場が社会を統制するようになって、社会全体が市場社会になってしまいます。こうして、社会が経済にのみこまれてしまう時代がはじまります。

〈孤立したさまざまな市場を市場経済に変え、それぞれ統制されていた市場を自己調整的市場に変えていく動きは、実際、決定的なものだ。このことを文明の頂点として歓迎するか、あるいはがんの広がりとして嘆くかはともかくとして、19世紀には無邪気にも、こうした発展が市場拡大のとうぜんの帰結だと考えられていた。諸市場が途方もない力をもつ自己調整的システムに組みこまれたのは、自然成長する市場固有の傾向によるものではないと認識されることはなかった。まして、それが機械というまさしく人為的現象によって生みだされた状況に対応するために、社会構造に加えられた高度な人為的刺激剤によるものなどとは思いもされなかった。〉

 ポランニーはもともと市場は狭い地域に成り立つもので、膨張するものではないと考えています。ところが、それが突然膨張し、社会全体をおおうようになったのは、機械文明を軸とする産業革命によるととらえるのです。
 それでは産業革命以前の市場とは、どのようなものだったのでしょう。ポランニーは歴史をさかのぼります。
 部族社会の経済は基本的に互恵関係のうえに成り立っています。たとえ、貨幣が発明されたとしても、それによって分業が促進され、交易や取引、交換への性向が解き放たれるわけではありませんでした。
 部族社会でも交易は存在しました。市場がなかったわけではないのです。しかし、この場合の市場は「主として経済の内部ではなく、経済の外部で機能している制度」でした。交易のはじまりが遠隔地交易だったことがわかります。

〈ほんとうの出発点は遠隔地交易である。それは財が地理的に遍在し、場所に応じた「分業」がなされることによる。〉

 部族社会でも遠隔地間の取引がおこなわれていました。たとえば、狩猟や調理に使う黒曜石はどこでもとれたわけではなく、とれる場所が決まっていました。そこで、黒曜石がとれる遠方との取引がはじまります。しかし、かならずしも市場があったわけではありません。
 住んでいる場所にすべての物が満たされていることはまずなく、あこがれるものを含めて、ほしいものは外部から取り入れなくてはなりませんでした。
「対外取引は交換というより、もともと冒険や探検、狩り、海賊行為、戦争といった性質を帯びていた」。だから、取引が必ずしも平和的におこなわれたとはかぎりません。しかし、そうした対外取引も、次第に互恵原理にもとづいて組織されるようになります。
 遠隔地の首長が示す条件に応じて、たがいに財を交換するようになるというのも、ひとつの方式です。さらにアフリカ奥地にみられるような「沈黙交易」という方式もありました。これはたがいが顔を合わせて直接取引するのではなく、隠れてかわるがわる品物を置いていき、おたがいが満足した時点で取引が成立するという方式です。
 その後、社会が発展するにつれて、局地的市場や内部市場も発展します。しかし、対外市場はそれとはまったくタイプを異にしていた、とポランニーはいいます。
 ここでいう局地的市場とは、たとえば農村と都市間で財の交換がおこなわれる場合です。これにたいし内部市場は、たとえば都市内のいくつもの市場(いちば)を指しています。
 いっぽう、対外交易はというと、

〈対外(遠隔地)交易は輸送である。そのポイントは地域に同じような財が存在しないことだ。たとえば対外交易では、イギリスの毛織物とポルトガルのワインが交換される。これにたいし局地的取引はその地域の財に限られる。財が重すぎたり、かさばりすぎたり、腐りやすかったりすると、輸送に耐えられないからである。つまり、対外的取引と局地的取引は地理的なへだたりと関係している。……対外交易は必ずしも競争を伴わない。競争が交易を阻害するなら、それを排除すればいいだけだ。いっぽう、対外交易や局地的取引とちがって、内部市場は基本的に競争的だ。〉

 こうした3つのタイプの市場が存在するのをみると、市場は遠隔地交易からはじまって、局地的市場、さらに都市の内部市場、そして全国市場の成立にいたるというのが必然の流れのように思われるが、ポランニーはそれはけっして事実ではないと論じています。
 部族社会でも古代社会でも、対外交易や局地的取引(たとえば漁村と農村)がおこなわれていました。しかし、それはあくまでも従属的なもので、けっして日常的ではなかったというのがポランニーの見方です。
 もっと平たくいうと、ほとんどの財はごく身近なものでまかなわれており、商品は自分たちではつくれないごく特殊なものにかぎられていたということです。商品があふれるようになったのは近代以降、むしろ現代になってからだといえるでしょう。
 近代以前では市場はむしろ制限を受けていました。時折開かれる局地的市場はありましたが、それもむしろ例外的に認められていたというべきでしょう。

〈局地的市場の起源ははっきりしないが、次のことだけは断言できる。すなわち、この制度は当初から一連の安全装置に囲まれていたのである。その目的は、社会の現行経済組織を市場慣習による干渉から守ることにあった。この市場の平和は、一定の狭い範囲で市場が作用する能力を保証するとともに、慣習や儀礼にもとづいて、その広がりを制限することによって保たれていた。市場のもたらしたもっとも重要な成果は、都市と都市文明の誕生かもしれない。しかし、それは逆説的な発展をたどった。都市は市場によって興隆した限りにおいて、市場の守護者となったが、同時に市場が農村に拡大し、社会の現行経済組織を浸食することを防ぐ手段ともなっていたのである。〉

 つまり、都市は市場を包みこむとともに、市場が外に広がるのを押さえこんでいたというわけです。
 中世後期にはハンザ同盟が生まれ、地中海方面以外でも商業が活発化しました。ハンザ同盟とは、北海およびバルト海諸都市の独占商人がつくった自治団体のことです。しかし、ハンザ同盟はあくまでも自治都市間の取引を促し、統制する団体であって、「ドイツの経済活動を『全国化』するどころか、むしろ意識的に内陸地を取引から切り離す」ものだった、とポランニーはいいます。
 産業活動も活発化していました。これを支えていたのは職人ギルドです。その生産は生産者の要求に応じて調整され、制限されていたといえます。遠隔地交易の割合も次第に大きくなっていきます。
 しかし、都市はあくまでも自身の権利を守るために、全国市場の形成を妨げたといいます。これを打ち破ったのが、近世、すなわち15、16世紀における領域国家(イギリスやフランスなど)の台頭でした。
このとき領域国家は重商主義政策を採用しますが、これによって都市の排他的な取引は排除され、市場が全国化されていくことになります。近世の領域国家こそが、それまでばらばらだった市場を全国化したというのが、ポランニーのとらえ方です。
 それでも近世国家は全国市場をしっかりと統制しようとしていました。独占と競争がもたらす危険性を可能なかぎり排除しようとしたのです。
 最後に産業革命にいたるまでの市場の歴史を概観して、ポランニーは次のように述べています。

〈だれもが知るとおり、人類史の次の段階は、単一の大きな自己調整的市場を立ち上げる試みへと向かった。とはいえ、重商主義という西欧の国民国家による特徴的な政策には、こうした特異な発展を予感させるものはなかった。重商主義のおこなった交易の「自由化」は、交易を排他主義から解放したにすぎず、そのいっぽうで統制の範囲を拡大していたのである。経済システムは一般的な社会関係のなかに沈みこんでいたのだ。市場はひとつの制度的装置のアクセサリーにすぎず、いままで以上に社会的権威によって管理され、統制されていたのである。〉

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たとえば橋本治の1998年(2)──大世紀末パレード(29) [大世紀末パレード]

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 橋本治の1998年がつづいている。
 かれは、いつもつまらないと思いながらNHKのニュースを見ている。アナウンサーやリポーターは個性をもっとだしてもいはずなのに、何を報道しても、どこか他人事(ひとごと)だ。
 大蔵省のスキャンダルには、もっと怒っていいはずだ。民放のほうが、むしろ「ざまァ見ろ」感覚があふれている。ところが大蔵官僚逮捕や株安にしてもNHKはそれを冷静に解説して、おしまい。それで国民は納得してしまう。日本の官僚社会も企業社会もちっとも変わらない。
 政治も同じ。自民党と社会党がいまや仲良く与党になって、権力の安泰をむさぼっている(1998年の時点では、自民党の橋本龍太郎内閣に社会民主党と改名した社会党が閣外協力していた)。
 4月に郷ひろみと二谷友里恵が離婚したときは、なぜか十数年前に、松田聖子が郷ひろみと婚約して破談したときのことを思いだした。小学生か中学生のころの松田聖子にとって、すでに数々のヒットを飛ばしていた郷ひろみはあこがれのアイドルだった。しかし、けっきょくは郷ひろみにふられる。現実はそううまくいかない。
 アラン・ドロンが引退を発表した。それでも女たちにとって、アラン・ドロンは年取っても、いつまでも自分たちの青春なんだ、と橋本は痛感する。
「男は、自分の対象に若さを見る。しかし女は、自分の中に若さを見る」というような言い方をしている。意味深長である。
 口の悪い橋本は、そうした中高年女性のことを「ババア少女」と名づけている。そして、夢みる少女でありつづける松田聖子はつねに「理想の男」を追いかけてきたと悪態をつく。
 女のファザコンはどうしようもなく腹立たしいとも書いている。日本で女のファザコン文化がはじまったのは平安時代で、藤原家は自分の権力を維持するために娘たちを道具として使い、娘たちの最上流の教育を与え、わがままに育てた。

〈女にとって、ファザコンてのは快楽なんだろうな、とは思う。ファザコンを作る父は、娘を虐待しないから。ファザコンを作る父は、社会的に力のある男で、娘の欲求を先取りしてなんでも与えちゃう。だから、自分の欲望に目をつぶる限り、ファザコンは女にとって快楽なんだと思う。〉

 なるほどなあと思う。これにたいし、「マザコンというのは、母による児童虐待だ」という鋭い指摘もある。マザコンといわれる男の多くは、母から愛されておらず、自分が母を愛さなくてはいけないと思いこんでおり、そして好きな女から「マザコンね」とののしられて、傷つくことになる。
 98年6月、7月の状況は、こんなふうにまとめている。

〈「郷ひろみさんは離婚しましたが」と問われて「ふふふ」と笑っていた松田聖子は電撃再婚をしたが、しかし時代状況はそんなものに関心を持たず、インドネシアでは暴動が起こってスハルト大統領は退陣し、インドが原爆実験をやった後ではパキスタンもおんなじことをやり、三浦知良と北沢豪はワールドカップから降ろされて日本へ帰って、国内総生産GDPは既に1年前に戦後最大のマイナス成長をしていたことが明らかになって、円は1ドル140円の線を切って、ワールドカップのチケットは詐欺まがいのブローカーの暗躍とかなんとかで全然手に入らなくてダフ屋は横行し、日本人は1枚何十万ものチケットを買ったが、結局アルゼンチンに負けた。〉

 グローバル化が進むなかで、日本も海外に進出するが、世界の壁は厚く、日本経済の停滞がめだつようになった。そんななかアジアでは大きな変化がおころうとしている。いっぽう芸能界やスポーツ界はああだこうだと相変わらずにぎやかだ。
 そして、7月の参院選で自民党が大敗し、その責任をとって橋本龍太郎内閣が退陣、小渕恵三が新総理になった。
 このとき橋本治は「私は、橋本龍太郎の顔をテレビで見なくてすむようになってほっとした」と書いている。
 そもそもポマードでこさえた「奇っ怪な髪型」がへんだったし、「あの表情がいやだ」、「どうだ、俺は大物だろう」といわんばかりで、まるで三流以下の役者だ、と容赦ない。

〈橋本龍太郎の悲劇の根本は、彼がぬけぬけと嘘をつけるような大物じゃないというところにありますね。うっかりすると、自分が表情をあらわにする小物になってしまう──そうなると自民党の中では露骨にバカにされる。だからそうならないように、あの人は仮面をかぶる練習をしたんでしょう。〉

 バカにされないようにという心理は日本社会のなかに深く根づいている。そして、それが暗い熱量を生みだしていることも真実だ。
 そこからなぜか、橋本治の考察は化粧へと向かう。女性はなぜ化粧をするのか。「化粧をすると美しくなる」というのは、大いなる誤解だという。なるほどと思う。

〈化粧というのは、実は「自分の顔の上に別の顔を描くこと」なのである。だから、「化粧をする」と「きれいになる」は一致しないのである。であるにもかかわらず、世の女、あるいは男が「化粧をするときれいになる」と信じているのは、世の女達の多くが、化粧というものを「自分の顔の上に別の美人の顔を描くこと」だと理解しているからである。自分の顔と「描かれるべき美人の顔」がほぼ等しい女は、ほとんど化粧をしない。〉

 自分の顔に別の顔をえがいてみて、女たちは似合う、似合わないの論争をえんえんとつづける。化粧は外に何を着ていくかとおなじくらい日常的な非日常なのだ、と橋本はいう。
 その伝でいうと、橋本龍太郎の「化粧」は自分が「大物」であると見せかける虚勢だったということになる。その結果、「大した大風呂敷を広げたわけでもないのに、今の自分がなにを考えて、なにを言っているのかが分からなくなるという状態が慢性的に出現する」。
 9月になっても、株は上がったり下がったりしながらも、「下がる方向に行くしかないものがジタバタしている」状態がつづいていた。ロシアのルーブルが大暴落した。
 北朝鮮がミサイル発射実験をはじめた。「北朝鮮てのはオウム国家なんだな」と思っている。
 ショックだったのは11月に映画評論家の淀川長治が亡くなったことだ。

〈「ご冥福をお祈りします」という言葉は、なんだか白々しいような気もする。「ご冥福をお祈りします」というのは、「生きることがそこで終わってしまった、そこまでだった」というような人に送る餞(はなむけ)の言葉のような気がして、淀川さんみたいに、生きているとか死んでいるとかを超越していたような人には向かないような気がする──というよりも、僕は、自分の好きな人が死んだ時には「どうぞいつまでもお元気で」としか言いたくない人間なのだけれども、それはきっと、その死んだ人からもらったなにかが、まだ自分の中では生きているということなんだろうと思う。〉

 最大の賛辞である。淀川長治は映画の楽しさをずっと語りつづけた人だった。
 98年にヒットした映画『タイタニック』についても書いている。
 これは女性のための映画だ。上流階級なのに強い女をケイト・ウィンスレットが演じ、その恋の相手は貧乏な美少年、レオナルド・ディカプリオ。この恋は、船上以外ではおそらく成り立ちがたい。
 タイタニックで生き残るのは女であって、死んで海に沈められるのは男だ。女は恋の思い出とともに生きることを選択する。
「『タイタニック』は、やっぱり終わり行く二十世紀の記憶なんでしょうな」と橋本は書く。どこかこの大作娯楽映画にむなしさを感じていた。

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たとえば橋本治の1998年(1)──大世紀末パレード(28) [大世紀末パレード]

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 1998年というのは特別な1年ではない。特別といえば、昭和が終わり冷戦が終結した1989年のほうがよほど特別だろう。橋本治も『‘89』という批評を残している。
 雑誌『広告批評』に連載した橋本のエッセイは1997年から12年におよんでいる。1998年はまだその連載がはじまったばかりのころだ。
 しかし、どの年も特別でない年はないともいえる。橋本はこの年の社会現象をどのように切り取っていたのか。もっとも雑誌の新年号は前年12月に発売されるのが恒例になっているので、98年の1月号は、前年12月はじめに執筆されている。
 最初に98年がどんな年だったかをイメージするために、代表的なできごとをいくつか挙げておこう。金融機関の不良債権問題が景気に暗く長い影を投げかけている。アジアで経済危機が発生した。長野冬季五輪がはじまる。企業倒産が増える。参院選で自民党が大敗し、橋本龍太郎首相が退陣、小渕恵三が新総理となる。米大統領クリントンの不倫疑惑。和歌山カレー事件で林真須美容疑者とその夫を逮捕。中央公論社が読売新聞傘下に。映画評論家、淀川長治死去。映画『タイタニック』のヒットなどなど。
 橋本治はこの1年を例によって「ああでもなくこうでもなく」書き綴っている。その長大な思索をすべて紹介するわけにもいかないので、ここではごく簡単なピックアップを試みることにしよう。
 98年1月号で、橋本は金融恐慌なんて関係ない、うちの事務所はいつも貧乏と書いている。
 山一証券が営業停止になり、その前に北海道の拓銀が破綻し、その後に仙台の徳陽シティ銀行がつぶれた。
 そのころ原稿の締め切りで缶詰になっていた橋本は、寮のおばさんから、「どうしてこんなにつぶれるの」と聞かれて、「[バブルのときに]もう[おカネが]余ってたんだからさ、今更金貸しって、いらないのよ」と答えている。言われたおばさんは、キツネにつままれたような顔をしていたという。
 橋本はあらためて、こう考える。
 銀行は「余っている金を貸す預金者と、その金を借りてくれる企業」があって、それを仲介することで成り立っている。しかし、預金者は利子を当てにして、自分の預金を預けっぱなしにするのがふつうだ。
 ところが高度成長時代に、企業は自己資金ができるようになって、銀行から預金を借りる必要がなくなった。そのため銀行は自分たちの延命をはかるために、無意味な借金を押しつけるようになる。
 ここに値上がりする土地という神話が登場する。そこで、土地に金がつぎこまれる。すると、慢性的に値上がりしていた土地が、爆発的に値上がりし、やがて暴落し、不良債権なるものが生まれるのだ。
 最大の問題はもう投資先がないことだ。「膨大な金を持っていても、その金を貸せる相手がいなくなったら資本主義は終わりなんじゃないか?」と橋本は考えるようになっている。
 昭和の終わりはバブル絶頂期で、バブルがはじけたのは1992年だ。しかし、バブル崩壊が実感されたのは、金融機関の破綻が表面化した1997年末で、橋本も日本はこのままお先真っ暗な状況がつづくのではないかと思いはじめていた。
 日本の企業の内実はけっこうあやういのではないか。企業はへたに儲けを残したら税金でもっていかれるから、土地を買って施設を建てたりして、金を使っちゃう。手元に金を置いておかない。また、銀行が金を貸してくれるから安心もする。それが綱渡りの経営を生む。
 企業は税金を払いたくないから金を借りたのに、金融不安が生じると、借金返済に追われて、回転資金がなくなり、社員への給料も払えなくなる。「借金があるのは当たり前」という考え方は、いたって不健全ではないか、と橋本は断固宣言する。「20世紀末の世界的不景気は、『資本主義は永遠だ』という幻想の終わりを告げているもんなんだ」
 大蔵省の腐敗ぶりにも怒りを覚えていた。東大出の人間は内部で固まっていて、東大出じゃない人間を平気で「外部の人間」と呼んだりする。
「しかも、大蔵省に行くのは、ちょっとばかり入試の成績がよかったことを鼻にかけていて、そのことに気がつかない、『人格に問題のあるやなやつばっかり』の法学部出なのである」
 東大文学部出身の橋本治がそういっているのだから、これはまちがいない。
 そういうやなやつらが日本の経済を牛耳っていることに、橋本の怒りはおさまらない。さらに日本には1200兆円の個人金融資産があるなどと聞くと、金持ちに税金をかければ、金融不安なんかさっさと解消してしまうじゃないかと思う。それなのに、じっさいには「金持ちは絶対に自分の金を使わない」。
 そんななか社会ではストレスがたまる。中学生の男の子が女教師をナイフで刺殺する事件もおきていた。
 いまの子どもたちはストレスのかたまりだという。そのストレスに耐えれば「将来の見返り」があるという時代は終わった。「それであるにもかかわらず、教育だけは相変わらず『企業戦士養成システム』であることをやめていない」
 そんなふうにうつうつとしているときに長野冬季五輪がはじまる。そのころは『双調平家物語』を執筆するため、中央公論社の軽井沢寮で缶詰になっていたのだ。それ以前は白馬にいて、缶詰になって、やはり原稿を書いていた。そのため、橋本は現地で冬季五輪を体験することになった。
 聖火ランナーが走るのは、人の集まる短い区間だけだということを知ったのもこのときだ。かなりの部分、聖火は車で運ばれていたのだ。
 オリンピック開催前、長野駅前はにぎやかで、新幹線に加えて新しい道路ができたこともあって、毎日が開通式とパレードに明け暮れていた。
 だが、その裏で自然破壊がおきていたのを橋本は見ている。白馬では「とんでもない数の車が、朝の5時から夜の8時まで、ひっきりなしにゴゴゴゴゴをやっている」状態だったという。
 オリンピック道路がつくられ、森の木が切り倒され、斜面にブルドーザーがはいり、大量の土砂が投入されて、スキーコースができあがった。しかし、集中豪雨のときは、土石流災害で人が死ぬできごともあった。
 橋本はオリンピックがはじまると、白馬へ出かけた。オリンピックの競技を見るためじゃない。「オリンピックをやってる白馬はどうなったか」を見るためだった。
 宿泊客はオリンピック関係者とボランティアばっかりで、スキー客はほとんどいなかった。
 道路規制が敷かれて、別荘地のペンションに人は泊まれず、明かりが煌々とついているのに、町はゴーストタウンみたいだったという。
 そして、白馬に3日間いて、競技がおこなわれる八方屋根のスキー場とジャンプ台周辺の混乱を見て帰ってきた。
 スキーとは何かを考えてみたりもしている。

〈スキーというのは、昭和30年代まで、教養体系の一つだったのである。ドイツ教養主義は、日本の近代に「登山」というスポーツを持ち込んだ。「スキー」は「登山」の親戚で、昔は教養世界にいる大学生のものだったのである。ただ、登山よりもスキーは娯楽度が高い──金が余分にかかるからである。〉

 スキーが教養主義を脱して娯楽に変わるのは70年代にはいってからだ。バブルのころには、だれもが「スキー場に行った」。スキーに行ったかどうかはわからない、と橋本はのたまう。

〈それでは、バブルの時代、なんでみんなスキーに行ったのか? ハイソへの誘いである。「上流階級のすることを大衆がする」がバブルの時代だから、そういうことになる。〉

 そして、バブルがはじけると、スキー人口も減った。
 橋本は長野オリンピックの開会式が嫌いだったという。とくに「第九」の合唱。あれを聞くと、ファシズムの恍惚感を覚えて、ぞっとした。
 オリンピック期間中、テレビ中継は「愛と参加」のテーマをかかげて、連日盛りあがっていたけれども、結果は案の定だった、と橋本はわりあい冷淡だった。祭典にはあまり興味がなかったらしい。
 それでも、働くしか能のない日本人は、もっと「スポーツで遊ぶをやるべきだ」と主張している。登山もスキーももっとやったらいい。
といいても、「私はもう五十ですから、この年になって、今更スキーも山登りもしませんが──体壊すだけだ」。
 それよりもオリンピックが終わったあと、橋本が怒っていたのは、白馬の森が壊されて、キノコ狩りができなくなったことだった。
 自身のことをふり返ると、このころぼくは会社で「長野五輪グラフ」をつくる仕事に駆り出されていたことを思いだす。
 1998年の話、もう1回つづけます。

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基地とようかん──大世紀末パレード(27) [大世紀末パレード]

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 作家の橋本治は雑誌『広告批評』の1997年1月号からほぼ12年にわたって「ああでもなくこうでもなく」と題する時代批評を書きつづけた。その連載のほとんどが単行本化されている(全6冊)が、たまたま図書館で見つけた最初の1冊を眺めてみることにした。
 97年1月号から99年9月号にかけての連載である。これに96年11月の同誌に掲載された「基地とようかん」と題するエッセイが加わっている。
「基地とようかん」からはじめるのが順当だろう。
 96年9月に橋本治は沖縄にでかけている。ちょうど県民投票の前日だった。それに合わせたのではなく、たまたまそうなったのだ、と書いている。
「オレ、そんなに社会派じゃないから」という。
 沖縄では95年9月の米兵3人による少女暴行事件のあと、大田昌秀沖縄県知事が米軍用地強制使用の代行(更新)手続きを拒否していた。
 全国初となった96年9月の県民投票は、沖縄県民に日米地位協定の見直しと、基地の整理縮小を問うものだった。
 有権者約91万人のうち、投票率は59.53%、基地整理縮小と日米地位協定の見直しに89.09%が賛成する結果となった。
 その県民投票がおこなわれる前日に、橋本治はたまたま那覇をおとずれたのだった。
 最初の印象は「やっぱり、沖縄って“日本じゃない”とつくづく思った」。
 それは肯定的な意味合いだ。
「沖縄と日本ははっきり違って、唯一、日本の中でローカリティのある場所が沖縄なんだということをちゃんと理解すべきだと思う」
 橋本にとって重要なのは、沖縄がもともと琉球王国だったということだ。
 琉球は農業でもなく漁業でもなく、貿易で栄えていた国だった。
 踊(おどり)奉行というユニークな閣僚もいて、民衆に踊りを広め、宮廷舞踊の質を高めていた。
「活字よりも芸能のほうが文化としては上じゃないかって気がする」と橋本はいう。
 そんな沖縄舞踊に合っているのが、日本のとはまるでちがう三味線音楽だった。のちにロックにもとりいれられることになる。
 かつて自由貿易と芸能で栄えた沖縄が、いまは残念ながら基地で食べている面はいなめない。県民投票の棄権率の高さは「心情的には[基地を]なくしたいけれど、なくなったら食べていけないから棄権してしまった」というのではないか、と橋本は考える。
 だから単純に基地がなくなればいいという話ではない。基地がなくなっても食べていける沖縄を想像してみなければならない。
 しかし、本土から大資本を呼べばよいという発想は、もうだめなのではないか。
「それはつまり、どの県も、自分の生活をまかなえるだけの産業を持ってなきゃいけない、ということさ」
 地方の自立があって、はじめて協力が得られる。「自立と孤立は違うんだよね」
 問題は国だ。日本という国は、いまブローカーのような存在で、アメリカの仲介役しかしない。アメリカさんとの約束で、アメリカさんがこう言ってるから、したがってくれの一点張りで、それが国の役割だと思っている。
 ここで、いきなり「ようかん」の話がでてくるのが、いかにも橋本治らしい。
 日本の和菓子にはランクがあって、いちばん位が高いのがようかんだという。もち菓子や駄菓子はランクが低い。ようかん文化は城下町の産物だ。基地に代わる何かというんだったら、「お菓子というものから考えていくルートだってあるのよ」。
 基地に対抗できるのは、ようかんだ。
 振興予算は、沖縄をダメにしている。

〈大体、沖縄が日本に復帰して、沖縄開発庁ができて、それ以来何が起こっているかといえば、開発庁を通して国から金が流れこんで、それが全部土建屋に流れて、土木工事ばかりやって、道路ができたのはいいけれど、道路は工場じゃないから何も生まなくて、自然壊して土砂の流出が起こって、また工事が必要になって、リゾートということになれば、本土から大資本が来て孤立したリゾート地作って、しかも沖縄はサンゴ礁の島だからあまり砂浜がなくて、そのために人工海浜を作ってたりするわけでしょう。〉

 けっきょくは自分がしっかりする以外にない。政治が何かやるとロクなことにならない。それには、その道のエキスパートになるのがだいじで、それによって人とつながっていくのが基本だ、と橋本はきわめてまっとうなことをいっている。

〈事態はそんなに簡単に解決なんかつかないけど、それは当たり前のことで、「簡単に解決がつかないのはダサイんだ」って考え方はしないほうがいいと思う。生きていくうちにはなんとかなるし、生きていくということはなんとかしていくためのプロセスなんだから。〉

 ああだこうだという思索はどこまでもつづく。
 日米安保条約を廃棄せよといっても、けっきょくは時間の問題だという。時間がかかるのを覚悟したほうがいい。安保条約はもういらないかもしれないという現実ができてきたら、いらないという現実をじっくりと伸ばしていけば、条約はいつかなくなるはずだという哲学も披露している。

〈防衛論議で、オレ、いつも不思議に思うのは、「本当に“防衛”って必要があるのか?」ってことなの。ないんだよね、本当は。ないという事実にみんな気がついていないだけだよね。〉

 漢字だらけのむずかしい議論が多すぎる。それで、すぐこぶしを振りあげる。ふだんのことばで考えればいいんじゃないか。
 かつては「国土をでっかくしたい」侵略戦争があったが、そんな戦争は第2次世界大戦でピリオドを打った(そんなことをすれば、あまりにも大きな犠牲をともなう)。
 1990年以降は、戦争の原因は「貧乏」になった、と橋本はいう。けっきょく、いま戦争を起こすのは貧乏な国だけ。「だとしたら、そういう国を刺激しないように、金持ちの国が徐々に貧乏になっていくことが必要なんじゃないかって思うのよ」と、へんなことも書いている。
 要するに戦争ほどばかばかしいものはないというわけだ。戦争より「ようかん」(泡盛でもいいのだが)のほうが、よほど上等だ。知らん顔をして、アメリカの要求をぐだぐだとやりすごすのも悪くないと考えていた。

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互恵、再配分、家政──ポランニー『大転換』を読む(5) [商品世界ファイル]

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 例によってややこしい言い方ですが、ポランニーは市場経済を次のように定義しています。

〈市場経済とは、さまざまな市場の自己調整的システムのことだ。もう少し経済学的な用語でいうと、市場経済は市場価格によって方向づけられ、それ以外では方向づけられない経済のことである。外部からの助けや干渉によることなく、すべての経済生活を組織することのできるこうしたシステムは、たしかに自己調整的と呼ぶことができるだろう。このように大まかに規定しただけでも、市場経済が人類史上、まったく前例のない試みであることがわかるにちがいない。〉(拙訳)

 ポランニーは何もかもがおカネで決められる異様な社会が生まれたのは、近代になってからだというわけです。
 近代以前はそんなことはなかった。どんな社会も経済に支えられていることはまちがいないが、少なくともその経済は市場によって統制されていなかった、とかれはいいます。
 ポランニーは人間の経済を近代だけではなく、少なくとも1万年をさかのぼる人類史全体から考えようとします。
 すると、たとえば、こんなことがわかります。
「[経済面でみるかぎり]西暦1100年の西ヨーロッパは、1000年以前のローマ世界にまったく追いついていなかった」
「経済については、中世ヨーロッパは、古代ペルシアやインド、あるいは中国と同水準であって、富と文化に関しては2000年前のエジプト新王国にとてもおよばなかった」
 こうした記述はヨーロッパ中心史観をくつがえすに足るものですが、ポランニーはむしろ、近代以前においては(市場)経済が社会の上に立って、社会を動かすようなことはなかったことを強調します。人類社会にとって、市場経済システムがいかに特異なものであるかを知ってほしいというわけです。
 それでは近代以前、たとえば部族社会の経済はどのようなものだったのでしょう。かれは人類学の知見を総動員して、そのかたちを探ります。
 部族社会では個人の経済的利益が至上とされることはありません。優先されるのは社会的紐帯の維持であり、人間的情熱はもっぱら非経済的な目的(儀式や祭など)に向けられます。共同労働の習慣があり、無償の贈与があり、さらに「双対性」にもとづく交換がおこなわれています。
 ここでの生産・分配の秩序は、互恵と再配分によって保たれている、といいます。互恵関係がみられるのは主に家族や親族のあいだです。これにたいし、再配分は首長によってなされます。首長は共同体の成員から集めた財を祭や他部族の隣人たちをもてなすさいに配るのです。
 次に、ポランニーは、互恵と再配分を成り立たせているのは、対称性と中心性という制度的パターンだといいます。
 対称性は対の関係があって成り立ちます。親族どうしはいうまでもなく対の関係にあり、ここでは互恵関係による財のやりとりがなされます。しかし、対の関係はそれだけではなく、たとえばトロブリアンド諸島(パプアミューギニア)の沿岸村落はそれぞれ内陸部の村落と対の関係をもっていて、決まった村どうしで、たがいに魚とパンノキなどを交換しています。別の島にはクラ交易の相手となるパートナーがいます。こうした対称性のパターンがあるからこそ、ギブ・アンド・テイクの互恵関係が成り立っているというわけです。
 いっぽう中心性という制度的パターンは、すべての人間集団に存在するものですが、ここでは財やサービス(奉仕する人)が中心に集められ、活用されます。部族社会では、とらえた獲物をいったん族長のもとに集め、それを再配分するのが決まりです。部族社会にかぎらず、こうしたやり方は、人間の社会で一般におこなわれているといえるでしょう。
 対称性であっても中心性であっても、この制度的パターンのもとでは、個人的な経済動機が生じるはずがありません。まして、取引や利潤という観念が発生する余地はない、とポランニーはいいます。
 先に述べたクラ交易についてですが、トロブリアンド諸島ではクラ交易なるものがおこなわれています。ここではある島から別の島へ時計回りに、またずっと離れた場所では、ある島から別の島へ逆時計回りに、二つの財宝(白い貝殻の腕輪と赤い貝殻の首飾り)が運ばれています。
 この二つの財はともに群島を一周するのですが、一周するにはほぼ10年かかります。クラ交易では、二つの財宝とともに、多くの贈り物が届けられます。ここにみられるのは広い地域にわたる互恵関係で、こうした交易がなされることによって島々の平和が保たれるわけです。
 いっぽう、北米西海岸のクワキウトル族の族長は、ポトラッチの祝宴を開くことで知られています。かれらは自分のもとに集まった食料や毛皮といった財産を祝宴のさい、盛大にばらまくのです。ここでは中心性のパターンにもとづく再配分がおこなわれているといってよいでしょう。
 バビロニアのハンムラビ王国やエジプトの新王国は、こうした中心性=再配分システムによって運営されていました。都に財や人が集められ、王宮や宗教施設などが建てられます。また、工芸品や装飾品、化粧品、衣装、銀器、宝物、武器など、さまざまな製品がつくられていました。王族や官僚や軍人などには多様な財が与えられ、王に奉仕する者にも食料をはじめとする財の配分がなされていました。
 こうした中心性=再配分システムは封建制でもあてはまる、とポランニーはいいます。アフリカでは定住牧畜民が農耕民を支配している社会があります。ここでは牧畜民が農耕民から穀物などを徴収し、その代わりにかれらにヒツジやヤギを与えるという仕組みができているのです。
 いずれにせよ、中心性=再配分システムでは、族長、寺院、専制君主、領主などを中心として、被支配者からの徴収がなされて貯えられ、これにたいし何らかの再配分がおこなわれているわけです。
 これらとは別に、ポランニーは「家政」という原理を挙げています。これは、みずから使用するために財を生産するシステムです。
 ギリシア人は「家政」のことをオイコノミアと呼びました。エコノミーということばは、オイコノミアが原型になっています。
「家政」の原理は、家族であっても荘園であっても閉鎖集団のなかで、生産と消費の循環が成り立つよう集団内の経済を運営することにありました。
「家政」、すなわちオイコノミアの原理を確立したのはアリストテレスにほかなりません。古代アテネにはもちろん市場がありました。しかし、アリストテレスは使用原理と利得原理を区別し、利得原理はあくまでも付属的な要因であって、それに引っぱられないようにすべきだと主張したというのが、ポランニーのとらえ方です。
 以上のことをまとめると、ポランニーが、近代以前には、互恵、再配分、家政の経済パターンがあったと論じていたことがわかります。裏返していえば、人間の経済では、市場はきわめて例外的な存在だったということです。
 ヨーロッパで市場が重要な存在となるのは16世紀以降です。しかし、当初は市場が人間社会を支配するなどとは考えられてもいませんでした。市場はあくまでも社会の付属装置にすぎなかったのです。
 ところが19世紀に大転換が生じます。市場は「自己調整的市場」、つまり自動装置のようなものになり、社会が市場に従属するようになるのです。これは人類がこれまで経験したことのない、まったく新しい型の経済だった、とポランニーはいいます。
 なぜ、そのような突然の転換が生じたのか。そのことを探るには、まず市場そのものの歴史をふり返ってみなければなりません。つづきは次回。ゆっくり読み進んでいきます。

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「悪魔のひき臼」──ポランニー『大転換』を読む(4) [商品世界ファイル]

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 18世紀後半の産業革命は生産用具の革新をもたらしたが、同時に民衆の生活に大混乱をもたらした、とポランニーは書いています。しかし、さらにその1世紀前に、最悪のかたちで、「悪魔のひき臼」が人びとをすりつぶしていた。そして、自由主義は経済進歩の名のもとに、それを容認していた、とポランニーは批判するのです。
 イギリスにおいて「悪魔のひき臼」の役割をはたしたのは、共有地の「囲い込み」(エンクロージャー)運動でした。
 最初にそれがはじまったのは、テューダー朝時代の16世紀です。「囲い込み」の目的は、牧地をつくって、そこでヒツジを飼うためだったとか。実行したのは領主やジェントリー(地主貴族)でした。農民の多くが土地を奪われました。
 囲い込み運動の背景には市場経済があります。ヒツジを飼育するのは羊毛を売って、もうけるためです。
 ポランニーはいいます。

〈囲い込みはまさしく貧者にたいする富者の革命と呼ばれてきた。領主と貴族は、時には暴力的手段によって、またしばしば圧迫や脅迫によって、社会秩序をひっくり返し、昔ながらの法や慣習を破壊していた。貧民のもつ共有地使用権を文字どおり簒奪し、貧民をその住まいから追いだした。それらが、それまで慣習の力によって守られ、先祖代々受け継がれてきたものだったにもかかわらず。
 社会の仕組みが崩れ去ろうとしていた。破壊された村々と、廃墟と化した住居が、革命の引き起こした激しさを物語っていた。革命はいなかの守備を引き裂き、町を荒廃させ、人口を減少させ、手塩にかけ育まれてきた土地を台無しにし、人びとを苦しめ、自立した農民を乞食や泥棒の群れへ変えていった。〉(拙訳、以下同)

 とうぜんのように農民一揆がおこり、それにたいする激しい弾圧がつづきます。
 とはいえ、市場経済の作用もはたらきます。牧羊地で生みだされた羊毛が、土地を奪われた農民に雇用を与え、羊毛工業の新しい中心地で職人に仕事を与えたこともポランニーは認めています。
 羊毛ブームが一段落したあとのほぼ100年後、新たな囲い込みが発生します。ただし、こんどの主役は領主や貴族ではなく、郷紳や商人でした。かれらは囲んだ土地を耕地に変えていきます。
 囲い込み運動を抑えようとする立法もなされました。しかし、それは焼け石に水で、囲い込み運動はどんどん進展していきます。それでもポランニーは変化の速度を落とさせたこと自体が重要であり意義があったといいます。
 囲い込み運動はたしかに経済進歩をもたらしたかもしれません。羊毛産業を生み、さらにはのちの綿工業を生みだしたのですから。しかし、それがあまりに早いスピードで進んだら、人びとはそれについて行けず、仕事を失ったうえに、新しい雇用機会も生みだせず、経済的にも肉体的にも道徳的にも、ますます大きな損害をもたらしたはずだ、とポランニーはいいます。
 ポランニーはおカネによって動かされる市場経済が、いかに容赦なく世界のあり方を変えたのか、またいまも変えつつあるかを指摘しながら、人類の歴史において、市場経済がけっして当たり前の仕組みではなかったことを、あらためて確認します。

〈[長期的にみれば市場経済はプラスの効果をもたらすという]こうした仮定がいかに自然にみえるとしても、それはけっして正当化できない。われわれはいとも容易に忘れがちなのだが、市場経済システムはわれわれの時代以外には存在したことのなかった、またたとえあったとしてもごく部分的にしか存在しなかった制度的仕組みなのだ。さらに経済学の仮定はともかく、「長期」的な考察は無意味である。変化のもたらした当面の効果が有害であるなら、それにたいする反証がなされないかぎり、最終的な効果も有害なのだ。〉

 ポランニーにいわせれば、経済面で長期的には発展をもたらすはずだから、いまは犠牲になっても仕方ない、がまんしろという考え方はまちがっているということになります。
 囲い込み運動に関していえば、その進行に歯止めをかけたのは、テューダー家や初期ステュアート家の王であって、議会ではなかったといいます。議会はむしろ「工業、商業の進歩を先導する階級」の側に立っていました。しかし、王権は議会の進歩主義を前にしては無力でした。
 さらに囲い込み運動から150年ほどあとに、産業革命がおこります。

〈今度の出来事もイギリス特有のものだった。今回も国全体に影響をおよぼしたのは海上貿易が主因である。またもや最大規模の進歩が、民衆のくらす場に未曽有の大被害をもたらしたのだ。その過程が広く進行する前に、働き手たちはすでに新たな荒廃の地、イングランドのいわゆる工業都市にこぞって流れこんでいた。農民は人間らしさを奪われ、スラムの住人と化した。一家は破滅への道を歩む。さらに、地方の大部分がまたたく間に、「悪魔のひき臼」から吐きだされた残骸の山に埋もれようとしていた。〉

 産業革命のもたらした社会的混乱は、「囲い込み」運動のときより、ずっと大きかったとポランニーはいいます。そのため、19世紀の歴史は市場経済のもたらした惨禍を修復するように努めることに終始しました。ポランニー流にいえば、社会を防衛しようとする機制がはたらいたのです。
 このとき生じていたのは、農業社会から(ぼくのいう)商品世界への大転換でした。

〈この転換は、社会成員の側からの、行動動機の変化をともなう。生存動機が利得動機に変わらなくてはならないのである。あらゆる取引は貨幣取引となり、そのためには媒介手段が経済生活の隅々まで浸透することが求められる。いかなる所得も何らかのものを売買することから生じなくてはならない。ある人の所得は実際の源泉が何であろうと、それは売買の結果と見なされる。「市場システム」という簡明な言い方には、まさしくこのことが含意されており、われわれは以上述べてきた制度パターンを市場システムと呼ぶのである。〉

 例によってむずかしい言い方ですが、市場システムのもとでは、貨幣を媒介とした商品のやりとりと、それによって利得を得ようとする行動によって、日々のくらしが成り立っているといえます。
 さらに、たとえ機械制生産のもとでも、商品には「社会の自然的・人間的実体」が転化されている、とポランニーは書いています。もちろん、商品は有用なものですが、いくら機械によってつくられているようにみえても、商品が自然と人間を実体としていることを忘れてはならないというのです。これは、いい換えれば、商品を基盤とする市場システムには、人間と人間関係だけではなく自然(環境)をも破壊する内因が含まれているということでもあります。
 のんびりと進みます。つづきはまた。

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1990年代の日本経済──大世紀末パレード(26) [大世紀末パレード]

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 野口悠紀雄の『戦後経済史』により1990年代の日本経済をふり返ってみる。
 90年1月4日の東京証券取引所大発会で、株価は全面安となった。だが、そのままとめどない下落がつづくとは、ほとんどだれも考えていなかった。
 三重野康新総裁のもと、日銀は3月に公定歩合を1%引き上げ、5.25%にした。この時点で株価は年初来20%下落している。しかし、地価は下落しない。大手銀行は子会社の住専を通じてまだ不動産やノンバンクに融資しつづけていた。
 10月にはいると、株価はさらに下落し、最高値の半分となった。ところが、地価はまだ上昇をつづけており、91年9月まで住宅地も商業地も上がっていた。しかし、それから地価のバブルがはじける。
 91年には湾岸戦争がはじまっていた。アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを攻撃する。憲法上、派兵できない日本は、115億ドルないし130億ドル分の戦費を負担した。このころの日本の1人あたりGDPは、アメリカよりはるかに高い水準にあった。
 だが、90年から91年にかけて、すでにさまざまな金融スキャンダルが発生していた。イトマン事件、富士銀行不正融資事件、興銀の尾上縫事件などである。いずれも絵画取引や不動産投資にからんで暴力団が暗躍し、詐欺がおこなわれた。
 94年には東京の東京協和信用組合と安全信用組合に巨額の不良債権が見つかった。この二つの信用組合は、高橋治則のEIEインターナショナルに巨額のリゾート開発融資をおこなっており、それがこげつきをおこしていたことが判明したのだ。
 さらに不良債権問題は住宅金融専門会社(住専)におよぶ。95年夏に大蔵省は住専8社に立ち入り検査をおこない、8兆円を超える不良債権があることを発見した。
 住専の損失額は、住専に貸し付けをおこなっていた金融機関が負うことになった。ところが、そのなかに農林中央金庫などの農林系金融機関があり、その損失処理は負担能力を超えていた。そのため6850億円の公的資金が投入されることになった。
 97年11月には三洋証券と北海道拓殖銀行が破綻した。さらに山一証券でも問題が発覚する。貸借対照表に記載されていない簿外の含み損が2600億円にのぼっていたのだ。そこには「営業特金」という法人向けの元本保証制度がかかわっていた。山一は自主廃業に追いこまれる。
 そのころ、注目されていたのが、大手金融機関、日本長期信用銀行(長銀)のゆくえだった。もともと長銀は基幹産業への融資を中心としていたが、バブルのころは不動産やリゾート開発への融資にのめりこんでいた。バブルが破裂すると、巨額の含み損が発生し、ごまかしきれなくなる。
 公的資金注入やさまざまな合併策も功を奏さず、けっきょく長銀は98年10月に経営破綻し、国営化される(のちに新生銀行)。その後、12月には日本債券信用銀行も同様に国有化された(のちにあおぞら銀行)。
 破綻した金融機関の処理には、あわせて10兆円強の公的資金が投入された。それは国民が負担したにもかかわらず、一般会計では処理されず、預金保険機構を通じて長期にわたって巧妙に処理されたために、ほとんどめだたず、社会的に問題視されなかった、という。
 バブルの崩壊で全国の銀行が処理した不良債権額は約100兆円にのぼると著者はみている。日本で法人税の税収が激減するのは、大蔵省が無税でのこうした償却法を認めたためで、そのぶん不良債権の償却が進んだことはたしかだ。しかし、法人税の税収減分がそのまま国民にのしかかってくるかたちとなった。
 バブル崩壊にともない、90年代後半には大蔵省スキャンダルが表面化する。大蔵官僚と投資家、銀行との癒着が次々とあきらかになったのだ。
 象徴的だったのは、「ノーパンしゃぶしゃぶ」事件である。銀行の大蔵省折衝担当(MOF担)が、大蔵官僚を風俗店で接待していたことが暴露され、これにより大蔵省にたいする世間の信頼は失墜する。
 金融界による大蔵官僚の接待は日常茶飯事になっていた。そうしたことが影響したかどうかはともかくとして、2001年に大蔵省という名称は消滅し、財務省と金融庁に分割されることになる。
 バブル崩壊の影響をこうむったのは銀行だけではない。その影響は日本経済の原動力だった製造業にもおよんだ。バブル崩壊後、日本の企業はこれまでと打って変わって守りの姿勢にはいる。
 著者によれば、日本経済のピークは90年代のなかごろだったという。そのころからGDP成長率は2%以下に落ちこむことが多くなった。賃金もピークは90年代半ばだった。書籍の売上高も96年をピークとして、どんどん下がっていった。
 日本の問題は、世界の産業構造の変化についていけなくなったことだという。
 ひとつには中国の台頭がある。中国では改革開放路線の推進により、産業が活性化し、鉄鋼などの重工業部門だけではなく、繊維製品、家電やIT、自動車、重機、通信機器、電子製品などの分野でも成長が著しかった。
 もうひとつはアメリカ経済の復活である。IT革命によって、アメリカは高度なサービス産業を中心とした新しい経済構造を築きあげ、高度な金融部門を発展させてきた。
 そうしたなか、日本政府は経済を守ろうとして、国家の介入を強め、異次元の金融緩和を実施し、円安を誘導してきたが、それはますます日本経済の体質を弱め、産業構造の転換を遅らせた。世界をリードするような新しい成長産業が日本に生まれていないことこそが問題だ、と著者は考えている。

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1980年代の日本経済──大世紀末パレード(25) [大世紀末パレード]

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 野口悠紀雄の『戦後経済史』を読むと、日本経済は1980年代にピークを迎え、世紀末にかけて急速に落ちこんでいったことがわかる。
 まずは「金ぴかの80年代」と呼ばれたころをふりかえっておこう。
 このころ世界経済における日本の地位が飛躍的に高まったと書かれている。
 日本の自動車生産台数は1980年にアメリカを抜いて世界第1位になった。
 半導体産業も躍進し、DRAMの生産で世界トップとなった。
 82年には日本電気(NEC)がパーソナルコンピュータPC-9801を発売し、ヒットする。
 84年1月には、東京証券取引所のダウ平均が1万円を突破する。
 79年にはエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版し、日本型の企業経営方式を高く評価していた。
 いっぽう、80年代はじめのアメリカ経済は凋落していた。ニューヨークもデトロイトも荒廃がめだったという。
 日本に活気が感じられたのは、総人口に占める日本の高齢者(65歳以上)の割合が、80年段階で9.1%にすぎなかったことも関係している。
 そこに勃発するのがアメリカとの貿易摩擦だ。
 70年代前半には繊維製品、後半には鉄鋼がすでに日米間で貿易摩擦を引き起こしていたが、80年代にはいるとカラーテレビやVTRなどの電化製品、さらに半導体、自動車などが大きな問題として浮上してくる。
 アメリカ側は日本に是正を求め、これにたいし日本側は「内需拡大、市場開放」により、対米黒字を縮小し、加えて金融自由化を約束することになった。
 89年には貿易不均衡の是正を目的とした日米構造協議がはじまる。
 すでに85年9月には、先進5カ国の蔵相・中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに会し、いわゆるプラザ合意がまとめられていた。
 その内容は、国際的な協調介入によって為替レートを「円高、マルク高、ドル安」に誘導しようというものだ。
 これにより、1ドル235円だったレートは一挙に円高にふれ、86年7月には1ドル150円、87年には120円台になった。いっぽう、83年に2%台だった消費者物価指数は86年には1%未満ないしマイナスとなった。
 急速な円高で、輸出が鈍化したため、景気の悪化を恐れ、金融緩和への要望が強まっていた。
 すでに80年8月から公定歩合は段階的に引き下げられ、83年には5%になっていたが、日本銀行は86年からさらに金融緩和を推し進め、87年2月にはついに2.5%という戦後最低水準を打ち出す。マネーサプライ(貨幣供給残高)も急速に増えた。
 そのころ石油ショックによって1バレル40ドル台まで上昇した原油は1バレル20ドル台、あるいはさらにそれ以下に下落していた。
 これにより、日本経済にとっては原油安、円高、金利低下という条件が整う。実質GDPはプラザ合意の影響で86年には2.8%と低下したものの、80年代後半は5%台に回復する。
 87年2月には先進7カ国の蔵相・中央銀行総裁がパリのルーブル宮に集い、先のプラザ合意による行きすぎたドル安を是正しようとしたが、ドル安円高の勢いはとまらなかった。
 同10月19日にはニューヨークで「ブラックマンデー」と呼ばれる株価大暴落がおこる。
 そのころ、日本では地価上昇の兆しがみえていたが、日銀は金利引き締めには動かない。金利を上げれば、さらにドル安を加速し、アメリカ経済に悪影響を与えることを懸念したためだといわれる。
 日銀は公定歩合の引き上げを見送り、日本では異常な金融緩和状態がつづく。これにより80年代末のバブルが発生した、と著者はいう。
 バブルの背景のひとつには、上場企業が株を発行し、資金調達が容易になったことがある。それにより大企業は銀行借入を減らして、株式市場での資金調達を拡大していった。
 社債の発行についても規制緩和が進んでいた。企業は転換社債やワラント債を発行し、低い金利負担で資金調達できるようになった。
 加えて、企業内における「財テク」が流行する。財テクとは、金融資産の運用で収益を挙げることをさす。
 大企業は転換社債などを発行して手に入れた資金を、銀行の大口定期預金に入れたり、証券会社の「特金」や「ファントラ(ファンドトラスト)」に投入したりして、利ざやをかせいだ。
 地価が上がりはじめたのは1983年のことだ。それは東京中心部からはじまって、やがて「地上げ」とか「土地転がし」に発展する。
 下請け業者が低い建物の建っていた土地を買い集めて更地にし、ビル用に整備するのが地上げ。買った土地を転売してもうけるのが「土地転がし」だ。
 地上げや土地転がしが活発になって、東京圏の地価は87年1月に前年比23.8%、88年1月に65.3%上昇した。そして、地価の上昇は東京圏から全国の都市圏に波及していく。
 地価上昇にともない、株価も上昇していく。1983年には年平均で8800円だった株価が、87年10月には2万6646円となり、89年末には最高値の3万8915円をつけた。
 都心で地価が高騰するのと並行して、地方ではゴルフ場の開発が進んだ。85年に1400だった日本のゴルフ場は、十数年のちには2400まで増えている。
 不動産ディベロッパーはさらに海外リゾートの開発に乗りだした。イ・アイ・イ(EIE)の高橋治則は、サイパン島やオーストラリアのゴールドコーストまで手を伸ばしている。
 86年には第一不動産がニューヨークのティファニービルを記録的な価格で購入、89年には三菱地所がロックフェラーセンターの14棟を買収した。ほかにも麻布建物や秀和、コスモワールドなどの不動産会社がハワイやカリフォルニアの不動産を買い漁った。
 絵画までもが投資の対象になった。安田火災海上保険はゴッホの「ひまわり」を58億円で購入した。このころ日本企業が買い入れた海外の有名絵画は数限りない。
 しかし、こうした地価や株価の上昇、あるいは投機行動がバブルと認識されることはなかったという。

〈バブルが進行している最中にそれをバブルだと認めることは、非常に難しいのです。バブルと指摘することは、もっと難しい。〉

 いちはやく80年代後半の地価高騰をバブルと指摘した著者は、多くの経済学者から強い批判を浴びたという。
 バブルを引き起こした背景には、加えて日本の金融システムの問題があった。
 銀行がてっとり早く収益をあげることのできる不動産融資にのめりこんでいったことがバブルをさらにふくらませていったのだ。
 それは市中銀行だけではない。本来、長期資金を貸し付けることを目的とした長期信用銀行(日本興業銀行、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行の3行)までもが子会社(住宅金融専門会社[住専]など)を通じて、投機的な不動産開発に大量の資金を貸し込んでいた。それがのちに大きな災厄を招くことになる。
 1990年にはいるとバブルの崩壊がはじまる。

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