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船場の丁稚どん──山片蟠桃補遺(4) [山片蟠桃補遺]

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 一説に、船場はもともと着船場(ちゃくせんば)、つまり船着き場のことだったとあります(牧村史陽『大阪ことば事典』)。この説にしたがうと、着船場の着がとれて船場になったわけです。たしかに「せんば」という特殊な読み方は、そんなところに由来するのかもしれません。
 さて、今回は香村菊雄の『船場ものがたり』 に沿って、話を進めていきましょう。
 まず、船場の範囲ですが、それは土佐堀川と東横堀川、そしていまは埋められてしまった西横堀川と長堀川に囲まれた東西に長い長方形の地域でした。昔の大阪は堀川がめぐらされた水の都だったことがわかります。これは物資が水路で運ばれたためですね。
 町は碁盤上に形成され、南北に筋、東西に通(とおり)が走っています。江戸時代の町名は、北から南に、北浜、内北浜、今橋、高麗橋、伏見町、道修町(どしょうまち)、平野町、淡路町、瓦町、備後町、安土町、本町、南本町、唐物(からもん)町、北久太郎町、南久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町、順慶町、安堂寺町、塩町となっていました。だいたい1丁目から5丁目までありました。
 町は「ちょう」ではなく「まち」と読みます。いまも残っている町名もあるし、残っていない町名もありますが、その名前をみていると、なんとなく町の由来や扱っている商品がわかってくるから不思議です。
 ほかにちいさな町もあります。北浜の東側、土佐堀川に面しているのが大川町(おおかわちょう)です。「ちょう」と読む例外。ここはいまも昔も住友の拠点です。そして、その一本通りを南にはいったところにあるのが、われらが蟠桃の勤めていた升屋のある梶木町(かじきまち)ですね。
 船場を横切って通りは城に向かっています。縦の筋として有名なのは、何といっても御堂筋ですね。御堂筋には北御堂(西本願寺)と南御堂(東本願寺)が立っています。だから、御堂筋というわけです。明治以降、御堂筋は大幅に拡張されました。堺筋も同じです。
 船場の町をつくったのは、豊臣秀吉です。大坂城築城にあわせて、堺や伏見、平野、伊勢などから商人を呼び寄せて、あきないをさせたといいます。
 しかし、秀吉の時代は短く、大坂夏の陣の落城で船場も焼け野原になりました。それを立てなおしたのが徳川幕府です。大坂城は再築され、新たな堀川がつくられ、商業優遇措置がとられ、船場は復興します。
 徳川幕府は商人に自由な活動、自由な生活を認めていたわけではありません。むしろ、些細な部分まで統制がおよんでいたというべきでしょう。商人には、生活態度、着る物、持ち物、食事、建物、乗り物にいたるまで、制限が課されていました。基本はぜいたく禁止令です。これに違反した淀屋辰五郎は身代を取り潰されました。ばかばかしいほどの法令ですが、徳川期に、この法令は意外ときいて、船場の商人はぜいたくを慎み、富の蓄積にはげむことになります。
 ぜいたく禁止は、けちとしまつの精神へと結実し、商家には上から下までその精神がしみついていきます。
 商家の構成は、旦さんを筆頭に、それを補佐する大番頭、その下に番頭、手代がいて、一番下が丁稚です。もちろん、家の中では御寮人(ごりょんさん、若奥さん)が大きな力をもっていて、女衆(おなごし、下女)をまとめるとともに、家内に何かと気を配っています。
丁稚は7、8年修行して、17か18で手代見習になります。それから二十歳をすぎて、番頭の娘や、時に主人に見込まれたときにはいとさん(お嬢さん)を嫁にもらったりして、30そこそこで番頭になるわけです。
 番頭になると、別家を認められ、いわば支店のようなものをまかせられることもあります。別家しないで残り、大番頭に進む者もでてきます。蟠桃が選んだのは、この道ですね。主人が幼かったため、蟠桃は実質的に升屋の経営者となり、倒産寸前だった升屋を立てなおすことになります。
 ところで、丁稚の話です。丁稚の1日はどんなふうだったのでしょう。
 丁稚は商家ではたらく、だいたい10歳から17歳くらいまでの男の子で、番頭や手代に呼び捨てにされ、休む間もなくこきつかわれます。縁故採用が基本です。蟠桃の場合も、おじさんが升屋の番頭を務めていました。
 お目見えの日は、店の者に丁稚の呼び名で紹介され、つづいて家族や女衆にも紹介され、ごりょんさんから木綿縞の着物、下着、前垂や草履などをもらいます。女中頭からは箱膳を渡され、食器や箸をもらい、そのしまい方を教わります。掃除の仕方や寝る場所、その他こまごまとしたことを教えてくれるのは先輩の丁稚です。
 やっかいなのは船場のことばです。播州のいなかからやってきた蟠桃は、最初、聞き慣れないことばに、ずいぶんとまどったと思いますが、徐々に慣れてきたことでしょう。たとえば、船場では出かけるときに「いて参じます」といわねばならず、それにたいして「はよ、お帰り」ということばが返ってきます。船場では、いまの漫才やコントのようなことばはけっして使わず、なめらかな浄瑠璃のようなことばで、丁寧語の「ござります」や「ござりまへん」がよく用いられていました。
 播州にくらべ、船場のことばはやわらかい。ずけずけした言い方はしません。それにどことなくユーモアや皮肉、しゃれも含まれています。蟠桃が番頭である自分に引っ掛けて、一度だけ蟠桃と名乗ったのは、こうしたしゃれ心をきかせたためでしょう。それが、いまでは山片蟠桃という堅苦しい名前になって通用しているのですから、泉下の升屋小右衛門(こえもん、略称、升小)も苦笑いしていることでしょう。
 ちなみに香村菊雄によると、谷崎潤一郎が『細雪』でくり広げていることばは、昭和10年代のもので、船場ことばとしては、ずいぶん崩れていて、チャンポン船場弁になっているといいます。
話がちょっと脇にそれてしまいましたが、『船場ものがたり』のえがく丁稚の一日はコマネズミのようにすぎていきます。
 いまの時間で朝5時ごろ起きると、自分のふとんをあげ、店の着物に着替え、顔を洗うと、すぐに表の掃除です。終わったら夏なら外に水をまきます。つづいて、店の間にはたきをかけ、隅から隅まで拭き掃除をします。硯の水を替え、たばこ盆を掃除し、灰吹きを洗い、火鉢の灰の処理、花瓶の水の取り替えと目まぐるしく仕事をしたあと、やっと朝食です。早飯早糞が原則。そのあと、仕事にとりかかります。職種によって、その作業はさまざま。升屋のような米仲買にはどんな仕事が待ち受けていたのでしょう。ことこまかな仕事が休む間もなく次々に押し寄せたにちがいありません。
 雑用もまたきりがありませんでした。買い物や洗濯物の片づけなど、女衆の手伝いもやらされたかもしれません。いとさんやこいさんの雑用、おえさん(年配のごりょんさん)の仕事、それにだんさんのお供もあったでしょう。「それはもう連続的に、あれやこれやの雑用私用が、よくもこれだけあるものと思うほどあるのであった」と香村菊雄も書いています。
 それでいて、給金はなし。番頭さんの言では、店は「金もうけの秘訣を教えてくれはるのに、一文の月謝も取りはらん。あべこべに、ここでは三度の御飯もただで食べさしてくれはる」という理屈になります。
 明治の終わりになっても、尋常小学校を出て10歳のころからすぐに丁稚として船場の店に勤める人は多かったようです。松下幸之助もそのひとりでした。「ぼくの場合は(丁稚時代の)生活体験がそのままぼくの人生観をかたちづくってくれたような感じがします」と語っています。
ですから、丁稚の仕事は、学校とはまるで無縁のようにみえて、じつはそれ自体が実地の商業学校だったのです。
 すると、蟠桃もまた学校とは無縁だったかというと、そうではありません。むしろ、かれは徳川時代の高等学府ともいえる懐徳堂で学んでいるのです。どうして、そんなことが可能だったのでしょう。そこには升屋主人、二代目平右衛門の考えが強く作用しています。
 升屋文書はいま大阪大学の懐徳堂研究センターに預けられ、解読が進められているところです。ですから、これからさまざまな資料がでてくる可能性がありますが、いまのところ升屋平右衛門の考えは推測の域をでません。おそらく平右衛門はこれから商家の経営を担う者には、学問が必要だと考えていたのでしょう。蟠桃はお気に入りの丁稚でした。そのため、平右衛門は蟠桃を懐徳堂で学ばせることにしたのです。丁稚としては破格の扱いです。
 当時、大坂を代表する豪商は鴻池ですが、香村菊雄によると、鴻池の3代目善右衛門宗利は、享保17年(1732)におよそ次のような家訓を遺しているそうです。長いので、現代語訳でそのポイントだけを列記しておきます。
「身持ちのよくない者は不適格とみなして、一族相談のうえ追放し、他に相続人を立てること」
「親類や縁者に対しても、金銭を融通することを堅く禁じる」
「本家に多くの子がいた場合でも、先祖から譲り渡された全財産は嫡子に相続させること」
「毎月相談日を決めて万事相談せよ。一存で片付けず、意見一致の上解決すること」
「代々出入りのお大名には、相変わらずご用をつとめなくてはならぬが、新規に出入りを求められて、気軽にお貸しすることはならぬ」
「本業以外の商売に手を出すな」
「当主一族は子や孫までもよく読書すべし。良い先生がいらっしゃれば、家の方へお呼びして講義していただき、手代どもも聴講を受けること。学問も業務以外の勤めと心がけよ」
「別家の手代と本家の手代が、商売向きのことで、内々に打ち合わせることを禁じる」
「気づいたことは、相談のうえ、本家当主に上申して実行せよ。お互いにたしなみ、常に家のためになることをよく考えて油断なく勤めること」
「殺生を楽しむことは堅く禁じる」
「当主はじめ、分家、その子孫の者たちも、成人して遊興で素行を乱すことのないよう」
 船場では、鴻池の教訓は、鴻池だけではなく商家全般の教訓として受け止められていたと思われます。特徴的なのは、本業以外の商売に手を出すなとしているところかもしれません。いかにも堅実な姿勢がみてとれます。それと、学問を重視していることですね。実際、鴻池は懐徳堂の運営を支えています。
 升屋平右衛門が鴻池の影響を受けたこともじゅうぶんに考えられます。鴻池に見習って、学問がだいじだと思うようになっていたのでしょう。平右衛門もまた懐徳堂の支援者でした。そこで、子飼いの蟠桃を懐徳堂に通わせることになります。
 平右衛門には嫡男がいませんでした。生まれた男子は早世し、長女はすでに嫁入りし、いま家には次女のなさしか残っていません。このころ、なさは10歳足らずだったのではないでしょうか。平右衛門の頭には、ひょっとしたら蟠桃をいずれ聟にという思いもかすめたかもしれません。その思いが蟠桃の懐徳堂通いにつながったとみるのは、ちょっとうがちすぎでしょうか。
 実際には、4年後、平右衛門は甥っ子を養子に迎えることにしました。このとき養子になった平治郎は15歳。12歳か13歳だったなさと、いずれ結婚することになっています。平治郎が升屋の養子になったとき、蟠桃は17歳です。小説なら、この三者の関係がどんなふうだったか、空想がふくらむところです。
 ところが、平治郎を養子に迎えた直後、平右衛門に嫡男、平蔵が生まれたことが、事態を複雑にします。母親は誰だったのでしょう。ぼくなどは、平蔵はおめかけさんから生まれた子どもではないかと疑ってしまいますが、げすの勘ぐりかもしれません。
 5年後、平右衛門は亡くなり、平治郎が升屋の家督を継ぎます。しかし、しばらくするうちに升屋は倒産の危機に見舞われます。そのとき、24歳の蟠桃は22歳の平治郎を追放し、8歳の平蔵を擁して、升屋を立てなおすことになるのです。背景に何があったのか。このあたりも興味がつきないところですね。いずれにせよ、手代の蟠桃が経営手腕を発揮するのはこのときからです。

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ハラリ『ホモ・デウス』(まとめ) [本]

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   1 神の人へ

 ベストセラーになったハラリの『サピエンス全史』は、ホモ・サピエンス(賢い人)と呼ばれる現世人類が、これまでどのような歴史を歩んできたのかをふり返ったものだった。これにたいし、同じ著者による本書は、その人類がホモ・デウス(神の人)に進化しつつあることを示そうとしている。
 最初に著者は、これまで人類につきまとった悩みは、飢餓と疫病と戦争だったと書いている。しかし三千年紀(紀元2001〜3000)にはいったいま、人類はこれまでのそうした悩みを克服しつつあるという。
 ほとんどの国では、実際に飢え死にする人は少なくなった。むしろ、過食のほうが飢饉よりもはるかに深刻な問題になりつつある。
 疫病や感染症にたいしても、20世紀の医療は空前の成果を挙げた。ペストや天然痘、インフルエンザはもはや脅威ではなくなり、エイズやエボラ出血熱などの新たな感染症にも対処できるようになった。
これからも新たな病原菌が出現する可能性はあるが、けっして悲観するにはおよばない。「自然界の感染症の前に人類がなす術もなく立ち尽くしていた時代は、おそらく過ぎ去った」と著者はいう。
 20世紀後半以降、大きな戦争はまれになった。核兵器が戦争の恐怖を思い起こさせるいっぽう、わざわざ戦争をして土地や資源を奪い取る必要もなくなったからだ。国を豊かにするには、戦争より交易のほうが有効であることを人類は学んだ。
 サイバー戦争やテロがおこる可能性は残っている。だが、それによって大規模な世界戦争が発生することはまずない、と著者は断言する。
 飢饉と疫病と戦争をもはや自然や神のせいにするわけにはいかない。「私たちの力をもってすれば、状況を改善し、苦しみの発生をさらに減らすことは十分可能なのだ」
 人類の活動が地球の生態系を破壊し、ひいては人類そのものを危険にさらしつつあることは否定しがたい。だが、それでも、人類は止まることなく、さらなる進化をめざそうとするだろう。その方向を著者はホモ・サピエンスからホモ・デウス(神の人)への進化と名づけている。
 これからの人類のプロジェクトのひとつは、不死への戦いである。
 人間はいまや生命を技術的に処理しうるようになった。がんやアルツハイマー病はまだ克服されていないが、結核がそうだったように、それが克服されるのも時間の問題だ。腎臓や網膜や心臓も移植できるようになっている。
 遺伝子工学や再生医療、ナノテクノロジーの発達はめざましい。20世紀に人類は平均寿命を40歳から70歳に伸ばしたが、21世紀にはそれがさらに伸びる可能性がある。
「死との戦いは今後1世紀間の最重要プロジェクトとなる可能性が依然として高い」。科学界と経済界はそれを応援し、不死を売り物にする大きな市場が生まれることはまちがいないだろう、と著者は予測する。
 もうひとつの人類のプロジェクトは、幸福の増進である。
 1人あたりGDPが増え、自動車、冷蔵庫、エアコン、洗濯機、テレビ、コンピューターなどの商品が普及し、教育、医療、福祉が充実しても、かならずしも幸福度が増大するとはかぎらない。そのことは先進諸国での自殺率の高さをみてもわかる。GDPはかならずしも幸福度の指数ではない。
 幸福度は物質的要素だけではなく、心理的なものや身体的な感覚によっても支えられている。どんなに社会が豊かになっても、そこに不安や緊張、不快感、憂鬱な気分が広がっていけば、人は幸福を感じないだろう。
 快感と至福は幸福をもたらす原動力である。だが、それは長続きしない。人は心地よい感覚の再現を求めて、どこまでも前に歩みつづけようとする本性をもっている。そこで、「世界中の幸福レベルを上げるためには、人間の生化学的作用を操作する必要がある」と、著者は主張する。
 いまでは向精神薬や興奮剤が、憂鬱になったり気分の落ちこんだりしたときに、ごくふつうに用いられるようになった。こうした薬は病人だけではなく、注意力散漫の子どもや前線の兵士にも処方されているという。
 だが、そうした薬も、使い方を誤れば、犯罪の原因にもなる。
 さらに次の段階にいたれば、脳に電気的な刺激を与えたり、遺伝子を操作したりして、人間の活動をコントロールすることも可能になるだろう。
 そこまでして、人間は幸福すなわち快感を求めるべきだろうか。
 ブッダは快感への渇望滅却こそがだいじだと唱えた。しかし、資本主義はあくまでも快感を追求しつづける。それによって「毎年、より優れた鎮痛剤や新しい味のアイスクリーム、より快適なマットレス、より中毒性の高いスマートフォン用ゲームが生みだされ、私たちはバスが来るのを待つ間、一瞬たりとも退屈に苦しまないで済むようになる」。
著者は人間の本性からみて、ブッダよりも資本主義に軍配を上げる。
 人類はどこに向かおうとしているのか。「人間は幸福と不死を求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている」。
 そのための手段となるのが生物工学、サイボーグ工学、非有機的な人工知能(AI)の開発だ。これらは人間をアップグレードするテクノロジーである。
 21世紀中に人間はホモ・サピエンス(賢い人)からホモ・デウス(神の人、ないし超人)に進化する、と著者は断言する。これは人が不死と幸福を追求しつつ、そのための超能力をもつことを意味している。
 進化のスピードは上がっている。それはだれにも止められない。

〈現代の経済は、生き残るためには絶え間なく無限に成長し続ける必要がある。もし成長が止まるようなことがあれば、経済は居心地のよい平衡状態に落ち着いたりはせず、粉々に砕けてしまう。〉

 遺伝子工学によって、人類はこれまでにない、より健康で美しく賢い子孫をつくりだす可能性をもつようになった。生殖にあたって、欠陥のあるミトコンドリアDNAを交換することももはや不可能ではない。デザイナーベビーの誕生もSFの世界ではなくなっている。
 地球のすべての人が不死と至福と神性を手に入れるというわけではないが、そうした方向への挑戦はとどまることはないだろう、と著者はいう。
 ここで、おもしろいのは、著者が、そのいっぽうで、人間至上主義は同時に人類の凋落への危険性をはらんでいるとみていることだ。
 絶頂と絶望のあいだを綱渡りしてみせるのが、ハラリの思考の特徴である。それでも、あくまでも絶頂に賭けるところに、かれが受ける秘密があるのかもしれない。
 とはいえ、ここまで読んで、ぼく自身は国家と資本主義による人間の統制がますます進展するように感じて、すこし憂鬱になる。あるいはホモ・デウスがホモ・サピエンスを支配する未来がやってくるのだろうか。

  2 人間とは何か

 著者の方法がおもしろいのは、生物学(動物学)と歴史学を融合しながら、人類史を俯瞰的に見渡そうとしていることである。
 第1部「ホモ・サピエンスが世界を征服する」の冒頭、著者は、われわれの毎日の生活のなかで、ライオンやオオカミやトラは、動物園を除けば、もはやおとぎ話やアニメの世界にしか存在せず、実際に「この世界に住んでいるのは、主に人間とその家畜なのだ」と指摘している。

〈合計するとおよそ20万頭のオオカミが依然として地球上を歩き回っているが、飼い馴らされた犬の数は4億頭を上回る。世界には4万頭のライオンがいるのに対して、飼い猫は6億頭を数える。アフリカスイギュウは90万頭だが、家畜の牛は15億頭、ペンギンは5000万羽だが、ニワトリは200億羽に達する。〉

 この具体的な指摘には、なるほどと思わず納得してしまう。
 過去7万年間、ホモ・サピエンスは地球の生態系に、じつに大きな変化をもたらしてきた。マンモスなど大型動物を絶滅に追いこんだのはホモ・サピエンスの仕業である。
 狩猟採集の世界では、アニミズムが人と動物との対話をもたらしていた。それどころか、人間はみずからの祖先をヘビやトカゲなどの動物と考えていた。つまり、人間は動物の一種にすぎないと思われていたのだ。
 しかし、いまでは動物はヒトより劣った存在とみなされるようになった。これは農業革命のもたらした意識変革である。農業革命は家畜をもたらした。「今日、大型動物の9割以上が家畜化されている」
 家畜の身になってみれば、人に守られ、育てられる家畜の運命は悲しいものだ。たとえば、イノシシの遺伝子を引き継いだブタは、さまざまな欲求や感覚や情動をもっている。にもかかわらず、かれらは食肉としてしか評価されず、その目的に沿ってだいじに育てられる。
 ここで、アルゴリズムという用語が登場する。
 アルゴリズムというのは、いまはやりのコンピューター用語だ。
 人を含む動物は身体をもち、その身体を感覚や情動や欲求にもとづいて動かしている。その動きはアルゴリズムにしたがっている、と著者は考えている。
「アルゴリズムとは、計算をし、問題を解決し、決定に至るための、一連の秩序だったステップのことをいう」
 つまり、アルゴリズムとは欲求の実現に向けての段取りや計算といってよいだろう。
 人を含め、すべての動物は、感覚や情動や欲求をもち、アルゴリズムに沿って行動する。ブタにはブタの、人には人のアルゴリズムがある。
 親子の情動的な絆は人もブタも変わらない。にもかかわらず、人は子ブタや子牛を生後すぐに母親から引き離して、もっぱら食肉として育てる。
 有神論の宗教が、こうした行動を正当化した、と著者はいう。
古代ユダヤ教では、子羊や子牛が神のいけにえとしてささげられた。ほとんどの宗教は、神だけではなく人間をも神聖視している。魂をもつのは人間だけであり、動物には魂がなく、人のために存在していると解された。
 こうして神は作物や家畜を守り、人は神に収穫をささげるという構図ができあがった。
 動物たちにも共感を示したのはジャイナ教と仏教、ヒンドゥー教である。どんなものも殺してはならないと教えた。とはいえ、こうしたインドの宗教も、牛の乳をしぼったり、その力を利用したりすることまでは禁じなかった。
 農業革命は経済革命であるとともに宗教革命でもあったという。動物は感覚のある生き物から、ただの資産へと降格された。そして国家が成立すると、国家は征服した人間集団を資産として扱うようになる。人間による人間の差別も発生した。
 そして、その後の科学革命と産業革命が、人間至上主義を生みだす。人間は神に代わって自然を動かし管理する存在になった。
 人間がこの世界でいちばん強力な種であることはまちがいない。だが、力のある種の生命が、ほかの種の生命より貴重かどうかは、じつはわからない、と著者はいう。
 人間には魂があるが、動物には魂がないという説はあやしい。
 ダーウィンの進化論がいまでも恐れられるのは、ダーウィンが魂が存在しないことを立証したからだという著者の見方はおもしろい。ここでは、神を信じないが、人間至上主義には懐疑的という著者の考え方が垣間見られる。
 進化論は人が分割できない不変かつ不滅の個からなるという信念をしりぞけた。ダーウィンは、あらゆる生物学的存在は、小さく単純な部分からできた複雑な器官の集合であり、それは徐々に進化したものだと考えた。進化論によれば、永遠不滅の魂なるものはどこにも存在しない。
 動物とちがって人間には心があるという言い方にたいしても、著者は反論する。

〈心は魂とは完全に別物だ。心は神秘的な不滅のものではない。目や脳のような器官でもない。心は、苦痛や快楽、怒り、愛といった主観的経験の流れだ。これらの精神的な経験は、感覚や情動や思考が連結して形作っている。感覚や情動や思考は、一瞬湧き起こったかと思えば、たちまち消える。……永久不変の魂とは違い、心は多くの部分を持ち、たえず変化しており、それが不滅だと考える理由はまったくない。〉

 ロボットやコンピューターに心や意識はない。こうした装置は何も感じないし、何も渇望しない。あらかじめ入力されたデータにもとづいて、動くだけだ。
 いっぽう人を含む動物には感覚と情動がある。人間も動物も感覚と情動にもとづいてデータを処理し、行動する。ここには無意識のアルゴリズムが潜んでいる。
 問題は心や意識とは何かということだ。
 これが意外と解明されていない。

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船場という場所 [山片蟠桃補遺]

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[1830年代の大阪。大阪くらしの今昔館で]
 引きつづき、中沢新一の『大阪アースダイバー』を読んでいます。
 ナニワの商人にはミトコンドリア性が強かった。権力に取りこまれても、おいそれとは服従しなかった、と中沢は書いています。ここでいうミトコンドリア性とは、生命力の源といってもよいでしょう。
 商人の世界ではゼニが絶大な威力をもちます。それは合理主義、自由な発想をもたらしますが、いっぽうでは殺伐とした競争社会を生みだします。
 しかし、どうやら船場には、この殺伐さを防ぐ文化のようなものが形成されていた、と中沢はいいます。それを象徴するのが暖簾です。暖簾は古さと信用をあらわします。商品は暖簾に守られることによって、えげつないゼニを稼ぐための手段ではなく、いわば信用に包まれた価値になります。
 大阪人はこってりしているというより、むしろあっさりしているのではないか、と中沢はいいます。それは商品のもつ性格からきています。
 商品は売れたら、それでいわば縁切りになって、一サイクルが完了します。それからまた次のサイクルがはじまるわけで、いつまでもこってりとこだわるのは大阪人らしくないというわけです。にもかかわらず、大阪人はむきだしのゼニよりも信用をだいじにしました。
 信用はおカネをベースにしていますから、じつに合理的です。しかし、それが単に合理的ではなく、信仰の域にまで達していたのが、ナニワ商人の特徴だった、と中沢はいいます。
「ナニワ商人は、この信用の空間を絶対に信仰し、信仰にはずれた行為は、厳に自分に禁じた」
 ナニワでは、土地の取引にあたって「手金」なども取りませんでした。「口約束」で「手打」が完了。取引の多くも「手形」でおこなわれました。
 手形も単に便宜上の発明ではなかったといいます。手形を交わすことは、お互いが信用の約束を交わすことにほかなりませんでした。
「ここには信用の空間への律儀な信仰が、確固として保ち続けられた」
ですから、船場というのは、単なる商業地域ではなく、商業道徳の信仰空間だったわけです。
 船場では恋愛は御法度だったといいます。恋愛を暖簾のなかにもちこまない。たしかに、これも商業道徳のひとつにちがいありません。どろどろの恋愛が暖簾のなかにはいってくると、近松門左衛門の『女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)』になってしまいますものね。
 しかし、船場に愛情がなかったわけではありません。そこには「クールに洗練された、デリケートな愛情の世界が、静かに形成されていった」と中沢は書いています。それを表現したのが谷崎潤一郎の『細雪』だったというわけでしょう。
 とはいえ、暖簾の外では、ナニワ商人のエネルギーが奔放だったことも忘れてはなりません。そこからは遊び人のぼんぼんの世界が広がっていきます。
 商家は一種の修行の場だったといいます。丁稚は船場道場で商人道の修行に励んだと、中沢は書いています。その丁稚を鍛え上げるのが若い番頭の役割でした。
「船場には、生まれたばかりの時期の、日本の資本主義の思想が、巨大なフォークロアの集積体として、番頭から弟子へと伝えられてきた」というわけです。
 その哲学の根本は「商人がゼニを正しく動かす思想を忘れないでいれば、商人道は社会を豊かに富ませていく、この世でいちばん重要な仕事となる」というものだった、と中沢は書いています。
 蟠桃の思想を育んだのが、船場での丁稚奉公だったことはまちがいないでしょう。それはいったいどういうものだったのでしょう。
 香村菊雄に『船場ものがたり』という名著があります。著者は船場育ちで、この本で、いまはない船場の様子を再現しようとしています。
 これを読めば、時代はかなり下るとはいえ、蟠桃が13歳から修行した船場がどういう場所だったかを、もう少し接近してつかめるのではないでしょうか。そんな期待をもって、この本を読みはじめました。

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中沢新一『大阪アースダイバー』 から──山片蟠桃補遺(2) [山片蟠桃補遺]

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 山片蟠桃の勤める升屋は梶木町、いまの北浜4丁目にありましたが、ここはいうまでもなく、船場に位置していました。
 そこで、たまたまぼくの手元にあった中沢新一の『大阪アースダイバー』をぱらぱらとめくりながら、船場とはどういうところかを考えてみようというわけです。ぼく自身は実家に帰るとき、大阪を通り過ぎるだけで、一度も大阪暮らしをしたことがないので、残念ながら船場といっても、なかなか実感がわかないのが実情です。
 この本のオビには「南方と半島からの『海民』が先住民と出会い、砂州の上に融通無碍な商いの都が誕生・発展する」と書かれています。
 こんなふうに五千年の歴史をわずか2行に圧縮して説明されても、想像力の乏しいぼくなどは何のこっちゃと思ってしまうのですが、とりあえずはるか昔、海からやってきた海民が砂州に築いた商都、それが大阪だと理解しておきましょう。人類学は時間軸がめちゃくちゃ長くて、しかもそれがときどき入り乱れるので、読むほうは混乱してしまいます。
 それはともかく、本書のあとがきでも、中沢は「大阪という存在を全体性において考えるには、やはり中核は船場であるように思います」と書いています。船場があってこそ、キタやミナミが成立するわけですね(もっともそのへそは上町台地の四天王寺というわけですが)。
 第2部「ナニワの生成」を読んでみました。
 そもそも商人とは何かというところから中沢からはじめています。古代人は物にはタマ(魂)が宿っていると考えていました。商人はその物を「無縁」の場に持ちだすことによって、物からタマを切り離します。それによって、物の属人的な関係を破壊し、物をカネで買える商品に変えてしまうのです。
 古代は物にタマが宿っていたといわれると、なるほどそうだったのかなと思ってしまいます。だから、物をもらうということ、物をあげるということ、物を返すということはたいへん重いことだったのですね。
 物からタマが切り離されると、物は人間的な関係を失って軽くなり、一定のルールのもとに(つまりおカネのやりとりで)、自由に交換されるようになります。その仲立ちをしたのが商人ですね。中沢は「商人は、人と物とを『無縁』にする原理にしたがって生きようとした、最初の近代人である」という言い方をしています。
 しかし、商人があらわれたからといって「商品世界」が誕生するわけではありませんね。ぼくにいわせれば、人びとが何もかもおカネに頼って暮らすようになるのが「商品世界」です。人びとはおカネを稼ぐためにはたらかねばなりません。そして、その世界は近代においては、ひとつの世界システムに組みこまれていくのです。
 古代、中世、近代と区別すれば、中世はいわば、古代社会から近代商品世界にいたる過渡期にあたります。江戸時代は近世と呼ばれますが、中世から近代への橋渡し、いわば近代の入り口にあたるわけです。
おっと、本からはずれてしまいましたが、ナニワは水底から生まれてきた、と中沢は書いています。淀川の運んだ土砂が砂州をつくり、そこに海民=商人と芸人(クグツ)がやってきます。
 ナニワが海だったなんて信じられないという向きにたいして、中沢はいかに大阪に島のつく地名が多いかを挙げています。中之島、堂島、福島、網島、都島、田島、北島、出来島、姫島……。みんな島だったんです。
 古代、この地は「ナニワ八十島」と呼ばれていました。ナニワとはナルニワ。すなわち、水底からごぼごぼと生まれてくる島々のことを指していたというのが、中沢説です。
 ナニワは砂州から生まれた都市です。そこは無縁の地でした。無縁とは共同体と共同体の隙間を指しています。
 そこで商人の誕生です。商人は海民から発生した、と中沢はいいます。商品はそもそも流れていくものです。
 それと同時に商品にはもともと神への供え物という意味があって、ナニワ八十島の海民は、朝廷に海産物の贄(にえ)を献上していたというのです。中世にいたり、こうした海民(供御人)が余った海産物を売るようになったのが、市場のはじまりです。そうした市場は無縁の空間である砂州や河原につくられました。このあたりは網野史学が横溢していますね。
「商人は『無縁』の原理から発生した、新種の人間として歴史に登場した」と、中沢は書いています。しかし、贈与や愛情のような人間どうしのつながりではなく、信用と交換という計算づくで動いている商人には、どこか無気味で、合理性の怪物のようなイメージがつきまとっていました。
 商人が集まって見世を出すと、町場が生まれます。そうした商人の同業組合が「座」となります。油座や魚座、藍座、薬座、酒麹座などの座。これは村の共同体とは異なる自由な商人連合の組合組織です。それは地縁や血縁から切り離された、いわば信頼関係にもとづく新たな組織でした。そのような座がはじめてつくられたのが船場という場所だった、と中沢はいいます。
 その船場という場所に、われわれは立っています。そして、ここは神爪村と無縁になった少年、山片蟠桃がほうり込まれた最先端の道場だったともいえます。
 そこがどんな場所だったのか、『大阪アースダイバー』をもう少し読んでみることにしましょう。

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山片蟠桃補遺(1) [山片蟠桃補遺]

 2013年にトランスビューから『蟠桃の夢』という本を出版してから、なんとなくもやもやしたものがわだかまっていました。
 この本はもともとぼくのホームページ(いまは閉鎖)に連載していた「蟠桃」を4分の1程度にダイジェストしたものなのですが、やはりできるなら全体を復元したいという気持ちがあります。
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 そこで単行本とは別に私家版の電子書籍をつくろうかと思い立ったわけですが、そこで問題があることがわかりました。
 オリジナル版は400字にして、約1500枚あります。これをそのまま収録すると、その4分の1はどうしても単行本と重なってしまうのです。それを避けるには、ある程度は書きなおす必要があるのですが、そのエネルギーがはたしてあるかどうか。そこで考えあぐねてしまいました。
 蟠桃の『夢の代』やその他の草稿をもう一度読みなおすのも、ちょっとしんどい気がします。蟠桃にからむ人たち、たとえば中井竹山や履軒、麻田剛立、その他大勢のことももっと研究するとなると、それこそ気が遠くなりそうです。
 しかし、ひまといえば、ひまなので、ぼちぼちやってもいいかなと思いはじめています。もっとも、しろうと仕事なので、はたしてどこまで行けるかはわかりません。ぼく自身、もう蟠桃の亡くなった年に近づいています。
 このあいだ、93歳の父と会うため、3カ月ぶりにいなか(高砂市)に帰りました。その途中、蟠桃ゆかりの大阪を訪れ、高砂では蟠桃の生まれた村、神爪にも寄ってきました。
 まず蟠桃といえば懐徳堂ですね。
 その史跡が大阪の船場、今橋にあります。
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 蟠桃の勤めていた升屋は愛日小学校になり、その愛日小学校も廃校になって、いまは淀屋橋三井ビルになっています。梶木町(いまは北浜)の升屋から尼ヶ崎町(今橋)の懐徳堂までは、歩いて3、4分の距離でした。
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 住友が経営していた銅座の跡。いまは愛珠幼稚園になっています。
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 仙台藩の蔵屋敷は中之島の公会堂あたりにありました。
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 堂島の米会所跡。ここも蟠桃ゆかりの地です。
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 それから、蟠桃の生まれ故郷に。神爪(兵庫県高砂市)です。このあたりもマンションが増えました。
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 加古川からの疎水が流れています。
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 生石神社(石の宝殿)の一の鳥居。蟠桃の生まれた家はこの近くにありました。
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 蟠桃ゆかりの覚正寺。
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 ここには村人によってつくられた蟠桃の墓が移設されています。
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 そして、高砂の十輪寺。蟠桃とは関係なし。ここにはうちの墓があります。母の墓参りです。
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 寺内には遠縁の故加藤三七子さんの歌碑が立てられています。
 春愁の昨日死にたく今日生きたく。
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 さて、山片蟠桃については、ほぼ書き尽くした気もするのですが、これからは遠近法で、もう一度アプローチしてみようかと思うようになりました。それをあわよくば自主制作の電子版にするのが、ぼくの夢です。
 ところで、山片蟠桃ってだれと思われる方には、拙ブログの次のページをどうぞ。6年前、高砂コミュニティセンターでの講演です。

https://kimugoq.blog.ss-blog.jp/2013-11-17


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竹田青嗣『欲望論』を読む(5) [思想・哲学]

 第2部「世界と欲望」にはいる。最初の章は「欲望相関性」だ。
 哲学の出発点をめぐる論議。ヘーゲルは経験的意識の直接性から出発するが、この直接性はすでに媒介されており、絶対精神にいたる円環運動をなしている。これにたいし、ハイデガーの出発点は存在である。存在に耳を傾け、思索つづけることが、かれの哲学といえる。
 ニーチェはヘーゲルやハイデガーのように始元の理念から出発しない。「生の経験の原初性から出発せよ」という。これこれが存在するはいちばん最後にくる。
 ニーチェの本体論解体を支持しながら、著者はいう。

〈ある「力の中心」(生)が自らの世界に決定的な遠近法を与える。力という中心なしには世界も存在もありえない。われわれはこのニーチェの「力による遠近法」の構図を、「欲望−身体相関性」の構図へと位相変様する。〉

 ニーチェを批判的に継承しながら、ここに著者の哲学の方向性が示されたことになる。
 出発点は情動、感情、衝動、欲望である。
 カントは別として、ヒュームやロックをはじめ、多くの哲学者は情動の根源性を認めてきた。ヘーゲルは生きものは欲求をもち、そのことによって自身を疎外(区別)し、その矛盾を解消するために、欲求を満たしたいという願いをもっているが、それがいったん満たされたとしても、その矛盾ははてしなくくり返されるとみていた。とはいえ、そのことが生きるということでもあった。
 ここで、著者は情動や情念、欲求、衝動など、自我の外にある「第一動者」を一括して「欲望」と呼ぶと規定している。
 ヘーゲルによる自己意識としての欲望論を、フロイトも受け継ぐ。すなわち触発、興奮、不快(不満)、低減欲求、行為。自己意識にはそうした構造があり、しかもその構造は繰り返される。
 問題は、こうした人間の欲望を内的に洞察することだ。
「一つの『欲望』の到来によって、世界は始原的に分節される」と、著者はいう。この場合、分節とは私のものとして世界が切り取られる、あるいは開かれるということを意味する。この内的体験、あるいは世界感受は、ひとつのひらめきとなり、意識をもたらす。
 それは単なる認知ではなく、感知でもある。快−不快の感知を、著者は「エロス的力動」と名づけている。「触発されること、感知することは内的なエロス的力動の系(セリー)が生成することである」。すなわちエロス的力動による世界生成。

〈生き物はつねにすでにエロス的力動の可能態としての「身体」である。一切の生き物は、衝動、欲求によって世界を時間化し、また「身体」において世界を空間化しつつ生きる。〉

 欲望が内的な時間と空間を生みだす。そして、欲望を満たすために身体が投企される。
 欲望としての衝動、欲求の情動が「自己」と「世界」を分節する、と著者はいう。対象は自己の欲望の相関者であるとともに、自己の可能性の相関者でもあり、そのようなものとして、みずからが何であるか(同一性)を示す。言い換えれば、対象は「欲望−身体」の相関者としてあらわれる。

〈欲望論的始元論は、生命体におけるエロス的力動の発生についての創造的本質洞察から始発する。世界は、「本体」としてはどんな始元も起原もまた究極原因ももたない。しかし生の「内的体験」は、その体験の内的本質として、必然的に生成の始発点をもつ。あるエロス的力動が生き物のうちに生じるとき、欲求あるいは欲望が到来するとき、世界はそのつど新しい分節を開始する。〉

 著者は形而上学対相対主義の構図を捨てるところから出発する。そして、「欲望−身体」という新しい出発点を設定することによって、内的体験として現出する世界を把握しようとする。
「内的体験」にとっては、欲望(感覚、衝迫、情動)の到来がつねに世界生成の根源的始発性を意味する、と著者はいう。内的体験をもたらす「現前意識」こそが出発点となる。その背後に回りこむことは無意味である。
 欲望の生成は、生ある存在にとっての絶対的存在理由であって、意味、目的、理由といった概念もそこから生まれる実存的範疇である。欲望の由来を知ることはできない。それはまさに非知的なものとして到来する。
 欲望の非知性は、それが意識の現在性(現前意識)の絶対的起点であることを意味する。そして、企投−行為−努力といったものが意識されつつ維持されるのは、駆動性としての欲望が、全過程において持続されるからである。

〈欲望の到来において主体は、エロス的予期に衝迫されること、対象をめがけ目的へとたどること、その困難、可能性、努力、苦しみに耐えることを、絶対の規定性として受けとる。すなわち一つの衝動の到来性が主体と対象を生成し、世界をなんらかの区別、目標、順列、位階、選択項目として生成する。この区別され、分節されたものとしての世界のうちを目的へとめがけて企投すること、そこから世界と対象についての意味と価値の一切の諸相が生成される。〉

 欲望を基底として、世界の諸関係は、一つ一つの実存主体にとって、意味と価値の網の目として立ちあがっていく。
 世界感受の基本的エレメントはエロス的力動性であり、それはまず快−不快の審級においてあらわれる、と著者はいう。
 フロイトによれば、快と不快は生命体の生物学的−生理学的根本機構(生命維持システム)から発生する。不快が危険という信号あるいは警告であるのにたいし、快はその除去あるいは解消である。そして、すべての動物的生は快に向かう本性(快感原則)をもっているとされる。
 いっぽう、動物学者は快と不快を、近接行動と離隔行動、求心的行動と遠心的行動の二項性としてとらえる。とはいえ、その情動は内的体験としては直接とらえることはできず、あくまでも自身の内的体験に即して、直感的に洞察(推測)されるだけである。
 しかし、著者は、快とは不快の消滅や解消にあるというフロイトの考え方に異論をはさむ。それは、快の重要な契機ではあるが、快そのものではない。快とはあくまでも心的カテゴリーとしてのエロス的情動そのものにある。
 欲望−身体としての主体にとって、相関する世界はあくまでも真なるものとして現出する。そのことをあきらかにしたのはニーチェだが、ニーチェには、生命体自体に内在するたえず自己を拡大しようとする暗黙の意志(力への意志)こそ、人間の快−不快などの感情を支える行動である、という発想がある。
 しかし、肉体の内なる根本意志が快と不快を生じさせるというのは、一種の本体論的仮説であって納得しがたい、と著者はいう。人間の存在本質を「生の衝動」と「死の衝動」の二元論によって説明するフロイトの仮説も説得的ではない。生き物における内的力を測りうるものは、肉体が覚える快−不快の強度、すなわちエロス的力動の強度以外にない、と著者はいう。
 それは根源的到来であって、その生成の背後に回ってみることはできない。

〈内的体験の世界においては、つねに無から有が生じ、有は無へと経緯する。情動はたえずある時点で生起し、そして衝迫、目的指標、企投、成就、充足、衝動の消滅といったサイクルを反復する。……ある欲望の到来(その了解)はつねに一つの絶対的到来、絶対的起点であり、そこから価値と意味の系(セリー)が展開し、この系はある時点で消滅する。〉

 フッサールは、知覚、想起、想像という個的直感が認識一般の基盤をなすとした。これにたいし、ハイデガーは実存的欲望=関心の優位を主張し、メルロー=ポンティは世界や身体に内属する意識をその出発点と唱えた。サルトルは情動を周辺世界から受け取る状況的な感情的反作用ととらえた。著者はあくまでもフッサールの立場を継承しようとしている。
 フッサールによれば、目の前の対象が実在的な事物であるのは、純粋意識(現前意識)のとらえる像を現実の知覚像とする確信にもとづく。把捉(意味づけ)された対象には、よしあし、優劣などの価値性がつけ加えられる。そこから対象への心情や意欲が生まれるとされる。
 たとえば果物を見た場合、まず知覚像(ノエシス)から、これは果物であるという対象意味(ノエマ)があらわれ、さらにうまそうだという価値づけがおこなわれるというのが、フッサールのとらえ方だ。しかし、「一般には、知覚像、対象意味、そしていわば情動所与が一瞥のうちに所与される」のではないかと、著者はいう。言い換えれば、「あらゆる場面において『情動所与』は、人間の対象認識において不可欠な本質契機である」。
 意味と情動の一致が乖離するとき、現実性の感覚が異常をきたす。そのことは、統合失調症の経験をみればあきらかである。このとき諸対象は「対象意味の間主観的な共通性を喪失し、『世界』は、その人間のみに固有な意味と情動の秩序なき奔流となる」。
 日常生活における自明性の喪失は、明確な自己の希薄化をもたらす。対象が脈絡のないまま次々とあらわれ、その場かぎりの情動と想念の流れのなかにただよう。
 著者は現実性の本質的条件を、(1)つねに明確な「自己意識」、すなわち「関係意識」=時間・空間意識や対他意識をともなうこと、(2)定常的な情動をもって対象を一般的意味として把持しうること、(3)周辺の諸事物、諸事象が時間的・空間的整合性を維持していること、と規定している。これらの条件が欠ければ、生き生きした現実性の意識は失われることになる。
 情動はやっかいである。情動の希薄や奔流が、現実性の喪失をもたらす。それはコントロールすることができない。
 われわれは通常、一瞥によって対象を知覚する。そこには対象の意味や、それにともなう情動、状況関連性が生き生きと与えられている。より注意深い観察(再確証)が必要とされるのは、なんらかの理由で対象確信に疑念が生じる場合である。
 揺れる柳の葉を幽霊と見間違えるのは、一瞥的知覚が恐れの情動を喚起するためである。だが、対象意味(ノエマ)が先にあって、それから情動や価値がもたらされるわけではない。それは一挙に出現する。
 まったく未知の事物に出会ったとき、われわれは疑い−吟味−確証によって、対象の意味を認識する。そのさいにはエロス的力動(いわば生物的本能)にもとづく内的体験が生じている。しかし、「対象の知覚が同時に対象の意味(対象ノエマ)として現われるのは、生命体におけるエロス的力動とその時間化[いわば経験]、この対象に対してある態度をとりうる、という本質的諸契機においてである」。
 ここから、著者はフッサールのとらえ方をひっくり返す。すなわち、知覚よりも情動が優位なのだ。

〈対象知覚における対象意味と情動の関係は、発生的本質においては、この順序は反転されねばならない。すなわち、対象との直接接触はエロス的情動を触発し、このエロス的情動触発の経験的反復が、対象の遠隔知覚(形象的知覚)における予期的情動を形成し、そしてこの予期的情動の発動こそが、対象についての第一義的な「意味」、すなわちそれが「何であるか」についての予期的了解であるからだ。〉

 こうして、著者による世界構想の方向性があきらかになる。すなわち欲望−身体の相関性を基盤として、意味と価値が発生し、それから価値審級が形成されるというように論議は進んでいく。

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ケネス・ルオフ『天皇と日本人』をめぐって [本]

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(2019年9月20日、早稲田奉仕園セミナーハウスにて)

 本日はお招きいただき、ありがとうございます。人前で話すのが苦手なので、うまくしゃべる自信がありません。たいした話もできないと思いますが、ご容赦いただければ幸いです。
 きょうは、ことし1月に発売されたケネス・ルオフ先生の『天皇と日本人』についてお話しさせていただきます。私は皇室評論家ではありませんので、皇室の内情についてはよく知りません。小室さんと眞子さまがどうなるかといった問題はわかりません。あくまでも訳者としてのこの本の紹介にとどまります。
 ルオフ先生は1966年生まれで、ことし53歳。歴史学者としては、まだ若い先生といえるでしょう。ハーバード大学を卒業し、コロンビア大学で博士号を取得され、現在アメリカ西海岸のオレゴン州にあるポートランド州立大学で、主として日本近現代史を教えておられます。同じ大学の日本研究センターの所長も兼任されています。
 日本には年に3、4回いらっしゃいます。その都度、東大や学習院、北大、京都の日文研などで講演をされています。5月の代替わりのときも日本にいらっしゃって、NHKワールドに出演されていました。10月の即位式のときも、日本に来られて、同じくNHKワールドに出演されることになっています。また10月には小学館から小林よしのりさんとのユニークな対談集がでる予定になっています。日本だけではなく、韓国や中国、ブータン、タイなどにもいらっしゃっていますから、まさに国際的に活躍されているといってよいでしょう。
 これまで日本語に訳された本としては、大佛次郎論壇賞を受賞した2003年の『国民の天皇』、2010年に出版された『紀元二千六百年』、それからことし出版された『天皇と日本人』があり、いずれも私が翻訳を担当しました。
 きょうは『天皇と日本人』を中心にお話しさせていただきます。この本には「ハーバード大学講義」という副題がついていますが、去年9月にハーバード大学のライシャワー日本研究所でおこなわれた講義がもとになっています。講義といっても一般学生が対象ではありません。どちらかというと日本研究者の集まる会合での発表で、発表のあとには学者どうしの活発な討議が交わされました。こうした発表会は毎年開かれているようですが、これをみると、アメリカの日本研究はかなりのレベルを保っていることがわかります。
 ところで天皇、あるいは天皇制の問題はだいじなのですが、いまでもとても話しにくいテーマでもあります。天皇について語ろうとすると、戦前、戦中なら特高に引っぱられたにちがいありません。最近テレビで「やすらぎの刻」という倉本聰のドラマを見ているのですが、ここでも思想を取り締まる特高や憲兵がよくでてきます。
 いまはそんな時代でないことはわかっているのですが、それでも天皇について語るのは、なんとなくはばかられる雰囲気が残っています。そこで、新聞でもテレビのワイドショーでも、日本の皇室はいかにすばらしいかということが、どちらかというと強調されて、皇室を客観的にどうとらえたらいいのかという視点はおろそかになってしまいがちです。そのいっぽうで、皇室のあり方を批判する人のなかには、左派なら素朴な皇室否定論、あるいは右派なら戦後民主主義批判に走る人がいて、ここでも日本の皇室にたいする冷静な評価は失われがちです。
 本書でも述べられておりますように、ルオフ先生は、利害関係のないアウトサイダーの見方が、時に役に立つことがあるとおっしゃっています。それが、日本人にとってはタブーになりがちなテーマを客観的に照らし出して、いま皇室がかかえているほんとうの問題を提示することにつながっていくのだと思います。
 アウトサイダーの視点とは何でしょうか。それは日本史のたこつぼにはいることなく、国際的な観点からものごとをみるということにつながっています。世界にはさまざまな王室があります。代表的なのはイギリスの王室ですが、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、スペインなどにも王室があります。中東ではサウジアラビアが有名ですが、モロッコ、ヨルダン、オマーン、クウェートなどにも国王がいます。アジアではタイをはじめ、ブータンやカンボジア、マレーシアなどに王室があります。そうした世界の王室のなかで、日本の皇室をどうみていけばいいのか。それが国際的視野で日本の皇室をとらえていくというルオフ先生の態度につながっていきます。
 現在、国連加盟国の数は193カ国で、日本が承認している国の数は196カ国です。たとえばバチカンは国連に加盟していませんし、北朝鮮や台湾、パレスチナを日本は国家として承認していません。国の数を数えるのはじつはむずかしいのですが、現在、世界にある国が約200だとすれば、そのなかで王国はどれくらいあるのでしょうか。現在、王室がある国は26カ国といわれます。近代以前は、ほとんどすべての国が王国でしたから、歴史的にみれば、立憲君主国を含む王国の割合は減りつつあることがわかります。
 王制、ないし君主制が廃止されたのはフランス革命以降です。革命や戦争での敗北が、君主制の廃止をもたらす大きなきっかけとなりました。そのような国としては、ざっと思い浮かべてみても、フランスを筆頭に、ロシア、イタリア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国、韓国、中国などの名前がでてきます。最近ではイラン、ネパールで君主制が廃止されました。逆にカンボジアとスペインではいったん廃止された王室が復活しています。
 世界的にみれば、王国ないし立憲君主国は相対的に少なくなっているとみてよいでしょう。日本ではいま皇室を否定する人はあまりいません。それでも1900年と2000年を比べると、世界じゅうで王室のあり方は大きく変化しました。そのいちばんの変化は、君主が以前の絶対的で神聖な政治主体ではなく、ほとんどの国で象徴的な存在へと変化したことだと思われます。したがって、日本国憲法だけが特殊ではないということは認識しておいてもいいのではないでしょうか。
 しかし、共和制が民主的かというと、かならずしもそうとはかぎりません。昔のソ連や現在の中国、北朝鮮をみれば、そのことがわかります。独裁的な共和制もありうるわけです。また民主主義が平和主義と同じともいえないわけです。民主制の古代アテネは軍事中心の都市国家でした。現在のアメリカも民主主義の国ですが、軍事的な国家だといってまちがいないでしょう。ですから、いま日本人が民主主義は平和主義だと思いこんでいるのは、まちがいです。そのことも、ルオフ先生はどこかで指摘しておられます。
 君主国もかならず独裁的になるわけではありません。君主をいただく国であっても民主的で、しかも平和主義的であることも、じゅうぶんにありえます。それは独特の国家のかたちですが、その場合、君主は憲法ないし慣例にしたがって、かならず象徴的存在と位置づけられています。
 ルオフ先生が天皇の象徴性をどのようにとらえられているかについては、のちほどお話しさせていただきますが、その前に先生が日本の天皇をどのようにとらえているかを、ざっとお話ししておきましょう。
これは『国民の天皇』の第1章に書かれていることですが、日本の天皇、少なくとも天皇制は近代の産物だ、とルオフ先生は指摘されています。言い換えれば、天皇制は明治になってから生まれたというわけです。
 260年つづいた徳川時代においては、天皇はあってなきがごとき存在でした。私たちは万世一系ということで、神武天皇から現在の天皇にいたる126代の系譜をたどったりするわけですが、天皇という称号が用いられるようになったのは、7世紀の第40代にあたる天武天皇のときです。それ以前は天皇という称号はありませんでした。
 さらにいいますと、10世紀の第62代村上天皇以来、19世紀の第119代光格天皇にいたるまで、約800年にわたって、じつは天皇という称号は途絶えてしまいます。亡くなったあとつけられたのはだいたいが院号で、たとえば後鳥羽天皇ではなく、後鳥羽院、後醍醐天皇ではなく後醍醐院、桃園天皇ではなく桃園院などと呼ばれていたわけです。
 江戸後期になって、天皇称号の復活のきっかけをつくったのは光格天皇です。光格天皇のとき、800年ぶりに天皇という称号が復活するわけです。ちなみに天皇の即位式と同時におこなわれる大嘗祭も江戸中期まで200年間途絶えていました。その後も、幕府は新天皇の即位にあたって、大嘗祭の挙行を認めないことがありました。たとえば新井白石の時代です。
 ちょっと話がすべりましたが、いずれにせよ、ルオフ先生が天皇らしい天皇をむしろ近代の産物ととらえていることはたしかです。とはいえ、天皇には伝統という側面もあります。ですから、天皇とは近代になってつくりなおされた伝統とみるのが、より正確かもしれません。
 そこで明治憲法についてです。明治22年、すなわち1899年2月11日の紀元節に発布されたこの大日本帝国憲法の第1章第1条には「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と書かれています。ちなみに紀元節はこの日にはじめて施行されました。それがいまは「建国記念の日」という祝日になるわけですね。なぜ、この日が建国記念の日なのか、日本では知らない人がほとんどではないでしょうか。
 それはともかく、明治憲法には、日本という国をつくったのは天皇家であり、「万世一系」でつづいてきた天皇家が日本を統治するのだという考え方が示されています。
 この憲法によれば、天皇は、法律の裁可と執行、議会の召集と解散、議会閉会時の緊急勅令の公布、官僚の任命、陸海軍の統帥権、開戦と講和の権利、爵位や勲章の授与にたいする権限などをもっていました。
 しかし、実際は天皇がひとりでこれを決定したわけではありません。立法に関しては帝国議会の協賛、行政に関しては内閣の各国務大臣による輔弼、司法権に関しても裁判所への付託によって、日本の統治をおこなうことになっていたのです。
 問題は軍にたいする天皇の統帥権でした。これを根拠にして陸海軍は昭和にはいってから次第に暴走をはじめます。
 しかし、表向きの明治憲法には裏の顔がありました。すなわち「元老」の存在です。
 明治体制においては、実際には明治維新の功労者である「元老」が政治をコントロールしていました。「元老」は首相を指名するだけではなく、軍ににらみをきかす存在でした。ですから明治寡頭制ともいわれます。たとえば、元老としては、伊藤博文や山県有朋、黒田清隆、松方正義、そして西園寺公望といった人がいました。
 ルオフ先生もはっきりと「大久保や伊藤をはじめとする明治寡頭政府の指導者たちは、自分たちが目指す国家統一の象徴として天皇を利用した」と書いています。
 時代の変遷とともに、この「元老」が次第にいなくなったあと、日本の政治はだれが主導すべきかという問題が出てくるのはとうぜんでした。議会だというのが美濃部達吉の答えであり、これにたいして軍部だというのが別の答えでした。そのさい、軍部は国体明徴運動を繰り広げ、天皇の統帥権を絶対化していきます。
 そして、先ほど、明治体制の裏の顔として「元老」、すなわち維新功労者の存在を挙げましたが、じつは明治体制にはもうひとつ裏のルールが存在しました。それが天皇を「なまの政治」にかかわらせてはいけないというルールです。
 明治時代に実際の政治を担ったのは、元老によって指名された内閣でした。ですから、明治憲法では神聖にして侵すべからずとされた天皇、すなわち国家の元首としての天皇にあらゆる大権が集中しているようにみえますが、実際の天皇はあくまでも「天の声」、言い換えれば象徴的な存在として位置づけられていたことになります。
 明治憲法とことなり、戦後の新憲法では、天皇は第1章第1条でこう定められています。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
 つまり、天皇は統治権をもつ神聖にして侵すべからずの国家元首ではなく、はっきり象徴と位置づけられるようになったわけです。すなわち象徴天皇です。
 そして、天皇は国政に対する大権をもたず、「憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とされたわけです。しかも、その国事行為は内閣の助言と承認にもとづくものでなければなりません。
 総理大臣を任命したり、法律を公布したり、国会を召集したり、衆議院を解散したり、特赦をおこなったり、外国の大使を接受したりするのも、天皇が勝手にやれるわけではありません。それはいわば儀式的、あるいは儀礼的な行為ということになります。
 ほかに天皇には象徴としての公的行為が認められています。国民的行事に臨席したり、全国戦没者追悼集会に参加したり、外国を訪問したり、海外の賓客をもてなしたり、園遊会を主催したりする行為です。
 大相撲を見たり、コンサートを鑑賞したり、宮中祭祀をおこなったりするのは私的行為です。
こうして、国政にたいする権限をもたない象徴天皇は、さまざまな国事行為、公的行為、私的行為をおこなっていることになります。
 そして、何よりも天皇の象徴性が際立つのが、儀式や儀礼、祭祀以外の公的行為においてであるという点は指摘しておいていいと思います。
 昭和天皇については、いまでも戦争責任をめぐる論議があります。昭和天皇は最晩年まで、戦争責任の問題で悩んでいたと伝えられます。
 君主制が崩壊するのは、たいていが革命または敗戦によってです。フランスでも、ロシアでも、ドイツでも、イタリアでもそうでした。日本は敗戦したにもかかわらず、天皇制が存続したというのは、奇跡に近いことです。
 マッカーサーの強い意向があったと伝えられます。国家が君主や皇帝をもつのは、けっきょくのところ、戦争を遂行するためです。したがって、君主や皇帝は戦争の最高指揮官となるわけです。明治憲法でもヨーロッパの憲法にならって、「天皇は陸海軍を統帥す」と定められています。
 したがって、戦争に敗れた王朝は滅びるというのが、これまでの世界史のルールでした。近代においては、ふつう敗戦は君主制から共和制への移行をもたらします。ところが、日本ではそうなりませんでした。これはマッカーサーの意向だけでは説明できないことではないでしょうか。
 それは、おそらく明治以来、いやそれ以前から、天皇が「なまの政治」にかかわらない象徴にほかならなかったことと関係しています。明治維新というクーデターが成功したのは、鳥羽伏見の戦いで「錦の御旗」が立ったからです。明治天皇が直接、維新の戦争を遂行したわけではありません。
 日清戦争のとき、明治天皇が「これは朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」といって、戦争に強く反対したことはよく知られています。また日露開戦のときも、「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」という歌を詠んだことも有名です。
 あきらかに戦争への不安をあらわした歌です。昭和天皇は日米開戦前の御前会議で、あらためてこの歌を朗読し、何とか戦争が回避できないのかとの思いを示しました。にもかかわらず、昭和の軍部は昭和天皇による明治天皇御製の引用を戦争への合意とねじ曲げて解釈し、無謀な戦争に突入したのでした。ここでも、天皇の意向にかかわらず「錦の御旗」が立てられたのでした。
 こうしてみると、明治憲法に定められた天皇の役割は、あくまでも建前であって、実際は天皇は「錦の御旗」、すなわち象徴だったことがわかります。
 戦後、GHQが主導して新憲法を定め、天皇を「象徴」としたときも、天皇主義者の右派がさして反対しなかったのは、明治になって日本の天皇制が確立したときに、天皇はすでに生の政治にかかわらない「象徴」と考えられていたためです。そして、天皇は「象徴」であったからこそ、敗戦にもかかわらず、戦後も存続することができたといえるのではないでしょうか。
 にもかかわらず、象徴としての昭和天皇には戦争の影がまとわりついていました。「錦の御旗」の前で、国内でも海外でも、あまりにも多くの人が犠牲になってきたのです。ルオフ先生も、昭和天皇には戦争責任がある、とはっきり書いています。そこで、戦争の影を払拭し、戦後を終わらせる仕事は平成の時代にゆだねられることになります。
 平成の時代に明仁天皇はどのような役割を果たされたのでしょう。ルオフ先生は「国民の天皇」として明仁天皇を高く評価されています。
 天皇の象徴性はとりわけ公的行為によって、それぞれの特徴や個性がかたちづくられます。
 平成の時代は何といっても美智子皇后の役割が大きく、平成の皇室はカップルとしての活動が際立ちます。ルオフ先生が指摘するように、おふたりは、「社会福祉の皇室カップル」でした。それから戦後の自由民主主義体制の支持者でした。戦争の傷跡をいやすことに努めてこられました。
 平成は災害の多い時代でしたが、ご夫妻は多くの被災地を訪れ、被災者に間近で声をかけてこられました。80歳をすぎてもおふたりで全国各地を回り、海外の慰霊にも行かれ、日本であんなに仕事をしている年寄りはいないと言われたくらい、「行動の人」でもありました。こうした公的行為によって、平成時代の皇室の象徴性が刻まれてきたわけです。
 ところで、明治、大正、昭和、平成、そして令和と時は流れましたが、日本人は西暦を利用しながら、不思議なことに元号で時代を回顧する習慣をもっているようです。最近では、平成史とか、平成時代をふり返るといった本が書店にあふれています。
 こうした元号も、昔からあるようで、じつは近代になって改変されたものであることは知っておいたほうがいいかもしれません。それまでの年号は吉凶や天変地異によって、その都度、変えられてきました。天皇の在位とは関係ありません。ですから、光格天皇や孝明天皇はいても、光格とか孝明とかの年号はないのです。その代わり、天明とか寛政、安永とか万延といった年号が用いられました。
 一世一元制が採用されたのは明治になってからです。それによって元号は天皇と結びつき、明治は明治天皇の時代、大正は大正天皇の時代、昭和は昭和天皇の時代、平成は平成の天皇の時代となったわけです。
 平成時代の終わり方の特徴は、明仁天皇が退位されて、時代が平成から令和に移ったことです。天皇の仕事は激務ですから、80歳以上の高齢になって譲位されたのは、とうぜんのことで、むしろ遅すぎたといえるくらいです。
 とはいえ、天皇の譲位は、光格天皇が仁孝天皇に譲位して上皇になって以来、二百年ぶりのことでした。明仁天皇は上皇として、いまも元気で活躍されています。ですから、不思議なことにわたしなどは、まだ平成の時代がつづいているような気がしてなりません。
 最近思うのは、奥さんを亡くしたあと、文芸評論家の江藤淳が平成11年、1999年に自殺したことです。江藤淳は昭和に殉ずるという意識の強い人でした。あるいは、昭和45年、1970年に市ヶ谷で三島由起夫が戦後を全面否定して割腹自殺したことを思いだします。芥川龍之介は昭和2年に漠然たる不安を感じて、自殺しています。夏目漱石は、明治天皇大喪に際して自死した乃木将軍を意識しながら、『心』という小説を書きました。
 こんなふうに、文学者のなかにも、元号意識というものは強くきざまれるようです。ルオフ先生が書いておられるように、はたして元号によって時代区分ができるかどうかは疑問です。しかし、昭和とか平成とかの元号が、日本人の時間意識のなかに染みついていて、それが天皇の存在と組み合わさっているのは奇妙な気がするほどです。
 1989年から2019年までの平成の時代は、どういう時代だったのでしょう。ルオフ先生は平成時代の天皇の象徴性として、憲法にもとづく戦後体制の支持、弱者への配慮、戦争時代の清算と鎮魂、国際協調主義、女性の役割の重要性などを挙げておられます。それは言い換えれば、平和と国際協調、民主主義と平等を基本とする考え方だったといってよいでしょう。
 これにたいし、この時代には日本の状況を別なふうにとらえる動きもでてきます。つまり、平成になってから日本の経済は停滞し、その国際的地位さえ周辺諸国によって脅かされようとしているとみる考え方です。そこから戦後体制を見直し、国家経済を強化し、国力を高めようとするイデオロギーが生まれてきます。それはどこか「大日本帝国をもう一度」という発想に結びついていきます。戦前を反省する立場は自虐史観とレッテルを貼られ、それに代わって、居丈高で国家主義的な史観が再登場してきます。
客観的にみて、平成になってから、日本経済が停滞し、GDPでみるかぎり、その国際的地位が相対的に低下したのは事実です。しかし、だからといって「大日本帝国をもう一度」という妄想は、しょせん妄想でしかありません。こうした発想は、かえって社会の雰囲気をより息苦しくしていくのではないでしょうか。日本は中国や韓国・北朝鮮とまた戦うつもりなのでしょうか。そうでなくとも、争うことはたしかなようです。
 ルオフ先生は象徴皇室の最大の役割を、国民国家の統合と永続性を維持することととらえています。
人口問題をかかえる日本はこれから海外から人を迎え、ますます多様化せざるを得ないというのがルオフ先生の見方です。労働力不足などもあって、実質的な移民が増えてくるのはまちがいありません。そのとき国籍、言い換えれば市民権を付与するのは、従来のように基本的に血統によるという考え方でいいのかと問題提起もされています。
 日本には女性差別も根強く残っています。正規・非正規の差別や経済格差の広がりも深刻です。いまや日本は新しい階級社会になっていると指摘する人もいます。
 こうして多様化し分裂しがちな社会を、どう統合していくのか。さらに国際協調主義にもとづきながら、日本の誇りとなる理念を世界にどう打ちだしていけばよいのか。それがこれからの皇室の課題だろう、とルオフ先生は問題提起されています。それはおのずから「大日本帝国の夢」とは異なるものになるのではないでしょうか。
 しかし、最後につけ加えるなら、いま皇室にとって最大の問題は、皇室が存続の危機をかかえているということです。現在の政府は男子による皇位継承しか認めないという立場です。これは悠仁親王が無事成長し、皇位を継ぐ前に結婚して、何人か男子をもうけるという都合のいい考え方に立っています。奇跡はおこるかもしれません。しかし、これは奇跡に近いことです。
 そんな奇跡をおろおろして待つよりも、いま現に存在する女性を天皇として認めるほうがよほど簡単だし、国際的な趨勢にもかなっている、とルオフ先生はいいます。わたしも、これには賛成です。日本には過去8人の女性天皇がいました。男系の万世一系というイデオロギーにこだわる必要はまったくありません。もし新たな女性天皇が誕生するなら、日本社会の雰囲気もずいぶん変わり、いまよりもずっと開けてくるのではないでしょうか。
 いまの右派が主張しているように、男子による皇位継承にこだわりつづけるなら、そのうち皇位を継ぐ者はだれもいなくなって、天皇もいなくなります。すると共和制を推進しているのは、まさに右派だということになります。それは悲劇です。皇室の存続が可能ならば、皇室は存続したほうがいいに決まっています。大統領制になって、トランプやプーチンような人がでてくるのは困ります。そのためには女性天皇を認めるというのが、現在の皇室の危機に対処する、もっともすっきりした解決策ではないでしょうか。
 最後に日本国憲法をもう一度ながめてみましょう。
「天皇は、日本国の象徴であり国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」
 国民が天皇をつくるということも忘れてはなりません。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(3) [人]

 金子さんの日記から。
 夏の盛り。
 日赤の検査で、マーカー値が上がる。薬をフォルフィリにするかどうか。ためらう。いったんはじめたら、やめられない。未明まで酒を飲む。けっきょく、フォルフォックスをつづけることに。
 土曜午後の逗子海岸。

〈この日も海は、ものすごい光にあふれていた。8月半ばの逗子海岸。心にそそぎ込まれる光は熱く、見渡すかぎり、命が、それはほとばしるようだ。さんざめくように……〉

 8月24日から27日まで家族で沖縄に行く。これが最後の家族旅行となった。「交換日記」には「ほんと、サイコーの時間だったな!」と書く。
 夏の終わり。新しい抗がん剤、イリノテカンをはじめる。フォルフィリと併用だ。
 毎日の職場。変わらない日常。日常のなかでは、死は夢のように感じられる。とはいえ、徐々に増す痛み、クスリの副作用やしびれなどは、紛れもなくリアルだ。

〈ただし、ある瞬間、…例えば汐留の社屋から外に出て、眩しい陽光が汐留のビル群の間をいっぱいにしているのを見て、ふと、稲妻のように、「うそだろ? おれが…え! 死ぬの? うそだろ!」といった気分になる。でもそれは、すぐに日常の時間の中に埋めこまれる。〉

 逗子海岸。海の家は終わり、海水浴客はまばら。

〈おれは、本当に海と空と風と、そして太陽が好きだ。……泳いでいると、からだが透明になってくる気がする。〉

 歩くと、尾てい骨あたりの痛みが強くなる。
 未明に激痛が走ることも。
 メシアンのピアノ曲を聞く。

〈いつまで生きられるか。やはり、あくまで不安はない。痛みを始め、起きていく身体の不調に、どのように対処していくか、という課題があるだけだ。〉

 仕事は休みなくつづけている。石牟礼道子の『春の城』をはじめ、新刊紹介をいくつも書く。
 フォルフィリとイリノテカン。少し痛みが緩和されたような気がする。
 10月になって、来年用の企画を立てようと思った。
 仕事はいそがしい。ノーベル賞を受賞したカズオ・イシグロの原稿を受け取ったり、加藤典洋の評論を処理したり、沖縄に行き、石川真生の取材をしたり、と。
 来年の企画を2本立てる。ひとつは「遠近法の現代図」。これはいわば比較日本近現代史だ。もうひとつは「生きることばへ」。自分にひきつけながら、生と死と希望をテーマにする。
「神よ、神さまよ。少しでも長く、おれに時間をくれ」
 このころ、眠れなくなる。「1時間寝て、痛みで起きの繰り返し」
 激しい痛み。歩けない。立っていると痛みで脂汗。
 日赤でモルヒネ入りの粉末をもらう。
 11月。抗がん剤に加え、痛み止めを服用する。夜はモルヒネを飲まないと眠れなくなる。
 休みに夫婦で長野を旅行。小布施や北斎記念館を訪れ、山田温泉に泊まった。これが夫婦最後での旅行になった。
 日赤での抗がん剤治療はつづいているが、マーカー値がまた上がったことにショックを受ける。
 12月。抗がん剤治療がつづく。副作用でものすごい眠気。そのくせ、痛みのため夜が眠れないので、モルヒネを服用しなければならない。
 ステント交換手術もおこなった。
 年末からは毎週1本の割合で、「生きることばへ」の連載出稿がはじまる。最初の出稿は無言館の話だ。つづいて、正岡子規の話。
 第1回の冒頭。

〈人は普段、いつもの平穏な日常が続くことを疑わない。だから思いも寄らない病や命の危険に突然直面すると、未来への不安、死への恐怖が避けようもなく広がる。そこで人の生、そして死は、どう見えてくるのだろう。その問いに正面から向き合った文化人らの作品を読み解きながら、生きるための希望を探りたい。〉

 子規の『病牀六尺』については、こう書く。

〈一読して実感したのは、進行する病と近づく死を前にした子規の意外なほどの明るさだった。ありがちな病者の悲哀とは全く違う。病気を相対化し、その深刻さを笑おうとする生きる心の強さが、その時の私に強い印象を与えたのだろう。〉

 実感がこもっている。
 そして、2018年1月になった。
 緩和ケアを受けながらの原稿執筆がつづく。

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竹田青嗣『欲望論』を読む(4) [思想・哲学]

 伝統的「本体論」の解体は、ニーチェによってはじめの扉が開かれ、フッサールによってその完成にいたる、と著者はいう。だとすれば、前回のニーチェにつづき、フッサールの仕事が問われねばならない。
 フッサール現象学が批判するのは、ひとつに伝統的な主観−客観構図に立つ哲学的独断論であり、ひとつに現代的な相対主義、懐疑主義である。フッサールはむずかしい。だから、さまざまな誤解がある。しかし、重要なのは、現象学の根本動機とその本質的方法だ、と著者はいう。
 現象学の方法とは何か。それは「内在的意識」が「世界確信」の信憑構造をいかにつくりあげていくかという「確信成立の条件」を解明していくことだという。
 認識問題における主客一致構図には難問があった。客観認識はありえない。あらゆる認識は相対的なものである。もし、それがありうるとすれば、純粋数学、純粋自然科学においてでしかない。人間社会においては、客観的認識はありえず、「力の論理」だけが正しいものとされる。しかし、力の論理だけがまかりとおり、正義や不正義に普遍的基準がないとするなら、哲学の営みも無意味なものになってしまう。
 フッサールは普遍認識はないという考え方を批判し、主客の構図とは異なる新たな構図を提示する。主客の一致はありえない。にもかかわらず、普遍認識はなぜ成立しうるのか。そのためにとられる方法が、いわゆる「現象学的還元」である。
 フッサールはいう。絶対的に実在する世界の全体といった観念は背理である。主客の一致を検証することはできない。しかし、認識は「確信」となりうる。そのためには「本体」、すなわち世界の客観存在を想定することをやめ、世界はただ私によって生きられているものとみなすところから出発しなければならない(すなわち現象学的還元)という。そのことによって、「私の意識」は「超越論的構成」にもとづく「世界確信」、すなわち普遍認識へといたりうるのだ。
 世界確信には、個人的な体験にもとづく個的確信、共同的確信からなる間主観的確信、それに純粋数学的、純粋自然科学的な普遍的確信がある。
 ここでは「本体」としての客観存在という想定はしりぞけられる。さらに、独断的形而上学と懐疑論(相対主義)も否定される。
 そのうえで、フッサールの「現象学的還元」がめざすのは、認識における間主観的確信の本質構造にほかならない、と著者はいう。
 フッサール自身はこう書いている。

〈世界は、目ざめつつ、つねに何らかのしかたで実践的な関心をいだいている主体としてのわれわれにとって、たまたまあるときに与えられるというものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍野として、地平として、眼前に与えられている。生とは、たえず世界確信の中に生きるということなのである。〉

 フッサールは、現前する意識から出発する。これこそが世界認識の源泉である。これにたいし、フッサールを引き継いだハイデガーは、意識の背後に実存的生という存在論的基底をとらえる。そこから、フッサール現象学とハイデガー存在論とのちがいがでてくる。
 ハイデガーにとって、現象は存在者の存在を隠蔽するものであり、現象学は存在の真理を取りだす方法と考えられた。対象への関心からはじまって、人間存在へと戻り、人間存在および人間存在を可能にしている真理を、取りだすこと。これがハイデガーの発想だ。
 ニーチェ、フッサール、ハイデガーの相関性。ニーチェは「力相関性」の構図を示し、フッサールはこれを「意識相関性」の構図へと推し進め、ハイデガーはこの構図を「気遣い〔関心〕相関構図」へと変奏することで実存論へと転換した。しかし、三者の関係は錯綜し、それどころか対立したものとなる。それを解きほぐし、再構築すること。それが著者の課題となる。
 しかし、まずはフッサールをハイデガー流解釈から切り離して、より深く理解することである。
 フッサールは現出する意識の背後に回ることを禁止する。意識はたしかに身体や歴史性、習慣性、無意識、言語によって先構成されたものである。しかし、フッサールは「けっして現前意識の背後に遡行してはならない」という。根拠の根拠を問う思考が客観主義的独断論におちいるのは、「本体」論的思考がはいりこむからだ。
 意識が先構成されているのなら、われわれは「意識」を絶対的な出発点とするわけにはいかない。だが、はたしてそうだろうか。われわれは現前意識から出発することで、むしろその背後にあるとされる感情や無意識、言語、美、文化といった問題を探るべきだ、と著者はいう。
 現象学は対象存在それ自体を問うわけではない。対象の存在様態についての確信(信憑)が間主観的に成立する条件を問う。それは本体論(形而上学)とも懐疑主義とも異なる思考方法である。
あくまでも普遍的認識をめざす哲学は、次のような意義をもつ、と著者はいう。

〈問題の核心は一つである。人間社会のあらゆる営みの底には「力の論理」がその強大な現実力を潜めて居座っている。人間の「言葉の営み」の中心的な意義は、この赤裸々な「力の原理」(暴力原理)をいかに抑制するかという点にある。〉

 懐疑主義もまた否定の論理である。だが、懐疑主義には根本的な問題がある。

〈あらゆる社会思想は、相対主義=懐疑論的な言説戦略をとることで、現実主義の「力の論理」に対する本質的な対抗力を喪失する。この思想は、やがて行き場を失って形而上学的倫理学へ逃げ込み、そのことでかろうじて現実世界に対する反抗(反感)の思想に留まろうとする。……どれほど過激な思想を口にしていてもそれは思想の本質として「羊のロマン主義」への陥落以外のものではない。〉

 これがポストモダン思想にたいする著者の懸念とみてよい。
 18世紀以降のヨーロッパ哲学の流れについての著者のまとめもみておこう。

〈18世紀ヨーロッパの啓蒙思想は超越神論を理神論−汎神論へと置き換え、ドイツ観念論哲学はこれを完成させた。このヨーロッパ汎神論を決定的に終焉させた第一の原因は、哲学的な潮流であるよりむしろ19世紀の自然科学(とくにダーウィン)の隆盛である。しかしこれに続く実証主義科学は「事実学」にすぎず、哲学の伝統的主題は危機に陥る。ヨーロッパ哲学は、ニーチェとフッサールの仕事を横目にして通り過ぎつつ、第一に、ヴィンデルバントが示唆した「神」なしの本体論的探求が新カント派以後の流れになり、第二に、科学を標榜するマルクス主義的世界観が台頭し、第三に、反形而上学を旗印とする論理実証主義と論理哲学が現われ、最後に相対主義を論理的武器とする分析哲学(言語哲学)とポストモダン思想が登場する。そしてこの最後の流れは、ヨーロッパの形而上学本体論を完全に終焉させ、これに対抗する哲学的相対主義の最終的勝利を告げる(=大きな物語は終わった)ような様相を呈する。〉

 これが近代哲学史の流れである。
 このあと第2部の「世界と欲望」がつづく。
 よく理解できない部分も多いが、概略だけでもつかみたいものだ。

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金子直史『生きることばへ』を読みながら(2) [人]

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 引きつづき、金子さんの日記を読んでいる。
 2017年1月6日に余命宣告を受けたあとは、しばらく放心状態になったと書かれている。それはそうだろう。
 化学療法の影響で、熱もつづいていた。
 12日には自宅の逗子に近い葉山の近代美術館で、宮迫千鶴夫妻の美術展をみたあと、海の向こうにくっきりと浮かぶ「真っ青な富士山」を見た。
 下旬から、社にも顔を出しはじめている。ある日、八重洲ブックセンターで、中江兆民や高見順の本を買ったのは、何か書きたいという思いがうごめいていたのだろう。
 金子さんには、奥さんと21歳と19歳のふたりの娘がいて、娘と「交換日記」なるものをつけていることも知った。
 2月4日の土曜日には、家族で葉山の森戸神社にお参りし、このときも青い海の向こうに富士山が浮かびあがっているのを見た。さぞかし感動的な富士だったにちがいない。
 その翌日、スタバで楽しそうにバイトする長女の姿をみて、うれしくなったという気持ちもよくわかる。
 2月6日には、社に手術後の状況報告。肺に微量の転移がみられ、化学療法がしばらくつづくが、ライターに復帰したいと伝えている。
 このころの日記には、煩悶のあとがうかがえる。
 子どもたちには「がんだけど必ず治るよ」と伝えているが、そのままでいいのか。そのうち、今できていることができなくなるだろうが、まわりのみんなに悲しい思いをさせたくない。
「神さま、たのむから、まだもう少し時間くれよ」
「今はいたって元気でも(せいぜい口内炎と小量の鼻血のみ)体内ではカチカチと、時計が時を刻んでいるのだろう。願わくは不発弾たらんことを!」
 3月には、就職活動をしている長女に内定がでてほっとしている。編集局から、文化部に編集委員として戻ることになった。現場復帰だ。
 化学療法や日赤での検査がつづく。現場に復帰すると、病気などまるでうそのように、さまざまな仕事が押し寄せる。
 いろいろな記憶がよみがえる。「そういうたくさんの記憶を抱えながら、おれという存在が、この世からいなくなるって? それはいったいどういうことだ! ……ふとした瞬間に、そうした思いが頭をよぎる」
 4月初旬の土曜日には、夫婦で箱根の日帰り温泉に行った。「降りしきる雨の向こうに満開の桜がにじんでいた」。下旬。次女の成人式写真の前撮りをする。娘のはじけるような笑顔が嬉しかった。
 すでに抗がん剤のアバスチンが効かなくなっている。
 文化部の仕事は忙しい。取材、インタビュー、新刊紹介、原稿、細部チェック、出稿。講演会や催しにも出かける。飲み会もある。
 5月10日。日赤で余命1年未満の宣告を受ける。
 ふと思う。「誰が死のうと、日常には穏やかさがあり、笑いがある。死とはその日常からの撤退だ」
 下旬、沖縄に取材にいき、辺野古を訪れた。座り込む人びとを機動隊が問答無用でごぼう抜きにするのを見た。
 初夏の出勤。「青く輝く空。空に向かって歌い出しそうな樹々。山をおおう緑。おれは光が好きだ。日差しを全身に浴びて過ごしていたい。これから職場へ」
 ある日、昼食を終えて、社のビルに戻る空中回廊で、いなずまのように思う。
「え! なに? おれが死ぬの? ほんまかよ! 信じられん、どうにも信じられん」
 6月からは丸山ワクチンの投与もはじめている。副作用の強い新たな化学療法も検討。
 6月某日、逗子のレストラン、サーファーズから海を眺める。
「ものすごく貴重な〈今〉が、ここにあると思った。心の中に刻印したくなるような──。/光にあふれる海と空。……飛翔するカモメを思った」
 次女の20歳の誕生日。「色々たいへんだろうが、ガンバレ!」
 このころのテーマは沖縄だ。インタビュー、沖縄現地取材がつづく。
 29に上がったマーカー値はフォルフォックスで抑えられているが、副作用がきつい。口内炎と強烈な眠気、その他もろもろの症状。
 7月には上田の無言館を訪れ、あらためて戦没画学生の遺した作品をみる。自分も何かまとまったものを書きたいと思いはじめている。
 日赤の検査で、肺の病巣が広がり、骨盤への転移もあると指摘された。新たな薬をはじめるべきか、迷う。
「治癒の可能性はない。投与し尽くしたところが死になる」と悟ってはいる。しかし、わらにもすがる思いで、有明のがん研でも見てもらった。「何もしなければ半年、3カ月で症状がでる」といわれ、よけいショックを受けた。
 22日、文化部の後輩で論壇担当の東海亮樹が48歳で亡くなった。

〈東海[本ではTになっている]が死んだ。昨21日の未明。大動脈瘤破裂で一週間意識不明だった。……自尊心が強く、生きづらいやつだった。繊細で涙もろい奴だった。死は、全ての人間にとってすごく傍らにある。〉(ぼくは東海さんとは親しかったので、Tとするのは忍びなく、本名で引用させてもらった。下町が好きで、何でもよく知っていた。このときも悲しかった。)

 そして、このころ、金子さんの日記にはこんなふうに記されている。

〈死へ向けて、どう時間を組織していくか。それを考えるのに忙しい。死への恐怖を味わっている暇がない。〉

 ひとつひとつのことばが身にしみる。
 まるでぼく自身のあしたがえがかれているような気がする。たぶん、かれは死とはなにかを教えてくれているのだ。

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