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最終回──美濃部達吉遠望(95) [美濃部達吉遠望]

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 1947年(昭和22年)にはいっても、日本の景気はいっこうに回復しなかった。前年夏はマッカーサー司令部が食糧輸入を実施し、小麦粉を放出するなどして、ようやく食糧危機をしのいだ。だが、工業生産は戦前ピーク時の1割に落ちこんでおり、庶民の生活はどん底に近かった。
 共産党系の産別と社会党系の総同盟が全国労働組合共同闘争委員会を結成し、2月1日のゼネストを計画する。吉田茂首相は元日のラジオ放送で労働組合の活動家たちを「不逞(ふてい)の輩(やから)」と呼んで、強い反感を買っていた。
 2・1ゼネストが実現することはない。マッカーサーが禁止命令を発したからである。
 その代わり、マッカーサーは吉田に総選挙の実施を命じる。
 4月25日の総選挙では、片山哲の社会党が吉田の自由党を破って、僅差ながら第1党となり、第3党の民主党(芦田均党首)、第4党の国民協同党(三木武夫書記長)とともに連立政権を組むことになった。
社会党委員長の片山哲が首相となった。
 国民から幅広く支持されて5月24日に発足した片山内閣は、しかし、その後、GHQからの干渉もあって、左右の激しい内部分裂を引き起こし、たちまち失速していく。
 そのころ、国際的には米ソの対立が激しくなり、冷戦がはじまっていた。
 やがて、片山内閣は政治的指導力を失い、総辞職に追いこまれ、三党連立の枠組みを残したまま、1948年(昭和23年)3月に民主党の芦田均を首相とする中道政権が成立する。
 だが、その芦田政権も昭和電工疑獄によって10月に退陣し、保守の吉田茂がふたたび政権の座につくのである。
 そのころから、アメリカの世界戦略は共産主義封じ込め路線に移行する。日本でもGHQの政策は右旋回しはじめる。いわゆる逆コースである。
 政治の世界は激しく揺れ動き、経済も光が見いだせず、人びとはその日暮らしを余儀なくされていた。
 そうしたなか、美濃部達吉はひたすら新憲法に向き合っていた。そして、1年あまりのあいだに、じつに新憲法に関する4冊の本を出版するのである。
 その4冊とは、『新憲法概論』(1947年4月、有斐閣)、『新憲法逐条解説』(同7月、日本評論社)、『新憲法の基本原理』(同10月、国立書院)、『日本国憲法原論』(1948年4月、有斐閣)である。
 著述のかたわら、公職適否審査委員会委員長や全国選挙管理委員会委員長も務めている。必ずしも暇とはいえない。忙しいなかで猛烈な執筆活動をつづけていたのである。
 何がそんなにも達吉を駆り立てていたのだろう。書きたいことは山ほどあるのに、時間はさほど残されていないという思いが強かったのかもしれない。
 それがどんな本だったかをざっと見ておく。
『新憲法概論』は、戦後の統治システムを論じた著作である。新憲法のもとで、天皇、国民、国会、内閣、司法、地方自治の政治的仕組みがどのように変わったかを説明している。
『新憲法逐条』は、前文から全11章103条におよぶ日本国憲法の逐条解説である。
『新憲法の基本原理』では、日本国憲法を支える統治思想が論じられる。新憲法を支えるのは、民定憲法主義、国民主権主義、永久平和主義、自由平等主義、三権分立主義、地方自治主義の思想だ、と達吉はいう。
 そして、最後に『日本国憲法原論』がくる。これは前の3冊を集大成したものだ。それだけではない。
ウォルター・バジョットの『イギリス国制論』のひそみにならっていうと、それは美濃部流の『日本国制論』ではなかったか。つまり、ここで達吉は、日本国憲法にもとづく戦後日本の国のかたちを描こうとしたのである。
 達吉はいう。
 ポツダム宣言の受諾により、日本は明治以後新たに獲得した領土をすべて失った。しかし、新憲法により国民は永久不可侵の普遍的な権利として、基本的人権を保障されることになった。各個人の人格が最大限尊重されることも定められた。国民の自由と平等を基本とする体制が生まれた。
 明治憲法では、天皇は国家最高の統治者であり、統治のすべての権能は天皇に集中していた。それが新憲法では大きく変わった。

〈新憲法においては、これに反して統治のすべての権能は国民に属することをその基本主義としている。立法権は国会に行政権は内閣に司法権は裁判所に属することを原則とするのであるが、それらはいずれも国民の代表機関として国民の名においてその権能を行うのであって、その源泉は国民に発するものとせられている。〉

 天皇の大権が取り除かれたのは、「天皇を擁する権臣が天皇の名を持って専権を擅(ほしいまま)にし、その結果は日本を無謀の戦争に導入し、ついに歴史上未曾有(みぞう)の悲惨なる敗北に陥いらせしめたことに鑑み、将来かかる惨禍を再びせざらしむるため」だ。
 こうして、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴とされることになった。
 これはイギリス国王の場合と同じだと達吉はいい、はじめて「象徴」という概念を認めることになった。

〈「象徴」とは……天皇のご一身が国家の現れであり、国民の全体が一体として結合している姿であるという趣意を示すものである。国家はもちろん思想上に国民の全体を統合せられたものとして思考するというのにとどまるのであるが、かかる思想上の無形の存在を形体的に表現したものは即ち天皇の御一身で、国民は天皇を国家の姿として国民統合の現れとして仰ぎ見るべきことが要求せられるのである。……国家の尊厳が天皇の御一身により表現せられ、国民は何人もその尊厳を冒瀆すべからざる義務を負うのである。〉

 これが天皇中心主義者の達吉が「象徴」という概念に託した思いだった。敗戦によって、天皇は滅んだわけではない。国民の総意にもとづき、「象徴」として、以前にまして仰ぎ見られる存在となったのだ。
 最高統治権者としての天皇の地位は失われた。だが、天皇には象徴として、さまざまな国事行為を行う権能が残されており、しかもその地位は血統によって世襲される。
 その意味で、天皇は「依然君主たる地位を保有したもうものと見るべく、新憲法が国民主権主義を基調となせるにかかわらず、日本の政体は依然君主政であり共和政に転じたものと見るべきではない」。
 天皇の神格性は否定されたが、天皇が国家の象徴として、尊栄の地位にあることは何ら変わらない。「天皇の御一身は国家の象徴であり、国民は崇敬の念を持って仰ぎたてまつるべきことは、国民としての当然の義務でなければならぬ」と、達吉は何度も強調する。
 その天皇のもとで、日本は戦争を放棄し、軍備を撤廃することを戦後の国是とするのだ。
 日本が戦争を放棄するのは、世界の平和を希求するためである。日本はいかなる場合にも絶対に戦争を発動することはない。国際紛争を解決する手段としての武力を日本はもたない。武力によって相手国を威嚇したり、また相手国の領域を占領したりすることはない。
 民主主義を支えるのは国権の最高機関としての国会である。国会は国民の公選した議員によって構成され、国民の総意を代表する合議機関として、立法をおこなう。「国会が国政を行うのは即ち国民が国政を行うのにほかならない」と達吉はいう。
 達吉は議会が国民の代表機関であることは法律によって定められているとし、議会の重要性をこう指摘する。

〈議会が国民を代表すということは決して既に成立している国民の意思が議会により発表せらるることの意味ではなく、議会の発表する意思が法律上に国民の総意として認めらるることを意味する。国民はそれ自身に意思能力を有するものではなく、議会制度の設あるによって始めて国法上に意思の主体たるのである。〉

 議会こそ国民の意思を表す機関である。
 新憲法においては、新たな法律は天皇によって裁可されるのではなく、国会の議決のみによって確定され、天皇はそれを認証し公布する権能を有するにすぎない。その意味で、国会は唯一の立法機関である。
 条約についても、その締結権は内閣にあるとしても、事後に国会の承認を得なければならない。
また、内閣総理大臣は国会の指名によるところであり、衆議院の内閣不信任案決議により、内閣は総辞職を迫られることになっている。
 このように新憲法における国会の役割はきわめて大きいが、それゆえに国民が国会議員を選ぶ選挙が重要な意味を持っている。
 達吉にとっては、新憲法に規定される象徴天皇制と平和主義、民主主義こそが、戦後日本の国制を支える要にほかならなかった。
 この構造が維持されれば、たとえどのような荒波が襲おうと、この国は何とかやっていけるのではないか。
 新憲法の解釈をひととおり終えたあとも、達吉は仕事の手を休めることはなかった。選挙法と行政法についても書きなおさなければならなかった。
 体調はすぐれない。
 そして、1948年(昭和23年)3月、「法律時報」のために「新憲法に於ける行政と司法」という論考を執筆しているときに発作を起こし、倒れる。
 にもかかわらず、重態に陥る寸前まで筆を取りつづける。
『選挙法詳説』と『行政法序論』が遺著となった。
 亡くなったのは5月23日のことである。享年75歳。
 5月29日、東京大学法学部の25番教室で、国家学会、法学協会主催の告別追悼会がおこなわれた。
 そのとき、息子の亮吉はこう語っている。

〈父は、もともと大変丈夫であったようである。「さけの頭」とか「ぼら」とかいうあだ名が残っているように、大変なやせっぽちであった。目方も12貫[45キロ]そこそこだったろう。それにもかかわらず病気らしい病気にかかったことがない。第一高等中学校の時腸チフスで死にかけたという話は聞いているけれども、病床に横たわる父の記憶はない。いくら健康でも戦争中の栄養不足は相当こたえたらしい。終戦後は身体の衰弱が相当目立つようになった。「心筋梗塞」とかで、風呂に入った後など、息使いがずいぶん苦しそうだった。それに、身体の方々がかゆくってたまらなかったらしい。軽い尿毒症にかかっていたようである。〉

 さらに亮吉は父の遺著となった『行政法序論』の序文にこう記している。

〈5月15日の夜までは、全く同じ状態で生活を続けてきた。ただその日には夜食を取らず、珍しく酒があったのに好きな晩酌の盃も傾けず、早く寝てしまったことが多少の心配の種になっただけであった。そして、翌日一日平静に寝た後、21日の夜には尿毒症のため全く意識を失い、その後は昏々と眠り続け、23日の夜息を引き取ったのである。父は、最後まで死期の迫ったことも自覚せず、死の苦しみも味わなかったように思われる。〉

 最後の最後まで仕事をやりつづけた末の大往生だった。
 達吉が常連執筆者だった「国家学会雑誌」の7月号には、「美濃部先生の追憶」という特集が組まれた。
 そのなかの一文で、弟子の宮沢俊義は達吉の業績を紹介しながら、かれの実証的な態度と民主主義的信念を讃えている。軍部や右翼陣営から攻撃され、非難囂々(ごうごう)の世論を前にしても、先生は少しも動ぜず、敢然としてその所信を主張しつづけた。
 敗戦はそれまで封じられていた学問的言論の自由をもたらし、「先生の学問的活動は、堰(せき)を切られた水のような勢いで、さかんになり」というのは、まさに宮沢の実感だったろう。

〈齢(よわい)古稀を超えた先生の近年のかくのごとき活動は、まことに、超人的であります。かような超人的な活動にもとづく過労が、結局、先生のご逝去を早めることになりましたことは、まことに残念でありますが、しかし、最後まで学問研究をつづけ、文字どおり倒れてのちやまれましたことは、あのように学問を熱愛された先生としては、本望だとお考えになったのではないでしょうか。〉

 明治憲法は57年で命を終えた。しかし、戦後憲法は現在の2023年(令和5年)にいたるまで77年の命脈を保っている。
 達吉はこのふたつの憲法のあいだで闘いつづけたのである。

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新憲法をめぐる葛藤──美濃部達吉遠望(94) [美濃部達吉遠望]

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 枢密院で美濃部達吉が憲法改正草案、もっとはっきり言えば新憲法草案の審議を拒否したのは、法理的にいえば、それが憲法改正を規定した明治憲法第73条の対象とはなりえないと判断したためである。
 だが、その奥には感情的な理由もひそんでいる。GHQのつくる新憲法を認めたくなかったのである。
 とくに気に入らなかったのが、天皇を「象徴」とする規定だった。
 達吉は明治憲法を大きく変えなくても、軍国主義から切り離して、天皇を民主主義と結びつけることは可能だと考えていた。
 いや、むしろ天皇があってこそ、民主主義が可能なのだと思っていた。民主主義はむしろ一君万民、君民統治という明治の精神に合致するとみていたのだ。
 達吉はあくまでも天皇中心主義者である。尊皇精神を打ち砕き、天皇を象徴に祭りあげるような新憲法は認めたくないというのが、かれのホンネだったにちがいない。
「天皇治下の民主政」という論考では、こう書いている。

〈筆者は、我が国に民主主義の政治を実現するためには、憲法上天皇統治の制度を支持することが、あえて妨げないのみならず、むしろ絶対に必要であり、万一にもこれを廃止するがごとき事態が生ずるならば、民主政治の実を挙ぐることは恐らくは不可能であり、結局民主制はただ名のみにとどまり、その実はナチスまたはファッショのごとき独裁制に陥るのほかはないであろうと信ずるものである。〉

 戦後直後は、天皇の扱いがどうなるかがわからない状態がしばらくつづいていた。
 マッカーサー自身は天皇を「すべての日本人を統合するシンボル」ととらえ、天皇を東京裁判にかけようなどとは毛頭思ってもいなかったが、それでもしばらくのあいだは、天皇制が廃止されるのではないかという懸念が世間にもただよっていた。
「国民主権」の声が広がるなか、達吉は断乎として天皇制の擁護を訴えた。
「主権が国民に属すということは、哲学的観念的な思想の表現たるにとどまり、必ずしも実際に国民多数の意思によって行わるることを意味するのではない」。実際に政治を動かすのは少数者である。そのため、民主主義には独裁制への危険がともなう。
 いっぽう、いかなる国家も国家の中心を必要とする。日本で、そうした国家の中心となってきたのは天皇以外のなにものでもなく、天皇が存在したからこそ、この国の統一が長く保たれてきたのだ。
 国民主権の名による民主主義は、国家の中心がないかぎり、絶え間ない分裂をもたらし、その結果として独裁を招く危険性が強い。
 そうだとするなら、天皇統治の大権は維持すべきである。
 天皇制のもとでこそ民主主義は実現できる。ふたたび軍国主義におちいるかもしれないというのならば、イギリス流の議院内閣制を確立し、公民教育を一新して、従来のような服従道徳教育をあらため、国民に政治的自覚と責任ある批判精神をいだかせるようにすうにすればいいのだ。
 強引なこじつけかもしれないが、達吉は天皇の大権を維持する立場を捨てきれなかった。
 6月8日の昭和天皇が臨席した枢密院本会議で、達吉は起立せず、たったひとり政府の憲法改正(実質は新憲法)草案に賛成しない態度を示した。
 その後、帝国議会では6月下旬から憲法改正案の審議がはじまる。ちなみに議会が国会と呼ばれるようになるのは、11月3日に新憲法が公布されたあとのことだ。
 議会で憲法改正案審議がつづいているころ、達吉は雑誌「法律新報」8月号に「改正憲法と内閣制度」と題する一文を寄せた。
 明治憲法と改正憲法(新憲法)とのもっとも大きなちがいは、天皇と内閣の関係にある、と達吉はいう。
 明治憲法のもとでは内閣は天皇の内閣であり、すべての国務大臣は天皇によって任命されていた。ところが改正草案では、内閣総理大臣は国会の指名するところとなり、内閣は政治的には国会の機関となり、天皇はそれを「認証」するだけのことになってしまった。
 天皇の機関だった行政機関も、改正案では内閣の機関に変えられようとしている。最高裁判所の長官も判事も内閣が指名し、天皇はそれを認証するにすぎない。

〈改正憲法草案は、天皇の御地位をはじめ国家の一般構成の上にこのごとき急激な大変革を加えんとするもので、天皇を単に装飾的儀礼的地位にとどめ、国務に関してはわずかに二三の形式的権限を認めたほかには、国家統治の大権はすべて天皇から離脱し、立法権は国会に、行政権は内閣に、司法権は裁判所にそれぞれ所属し、あたかも米国憲法におけるがとごく三権相対立し、しかして行政権の首脳たる内閣総理大臣にはあたかも大統領のごとき地位を有せしめんとするのである。〉

 ただし、アメリカ憲法との大きなちがいは、日本がイギリスのように議院内閣制をとることだった。
 達吉は天皇を象徴と規定する憲法改正草案に釈然としないものを感じている。だが、象徴天皇制には反対だとはっきり言うわけにはいかなかった。
 天皇から統治大権を奪うこうした大変革が、一般国民の心理や感情に適合するかは疑問であり、「私はこのごとき急激な変革には多大の危惧を抱く」と述べるにとどまっている。
 達吉が象徴天皇制に反対であることは、9月22日に「夕刊京都」に掲載されたアンケートへの回答でもうかがえる。
「天皇を国民に含めるという政府の説明をどうお考えになりますか」という問いにたいして、達吉は「もし天皇が国民の中に含まれるとすれば、それはもはや天皇ではなくして一般国民と平等の地位にある一個人に過ぎないものとならねばならぬ」と答えている。
 政府は国民主権という概念を説明するときに、天皇を国民のなかに含め、天皇にも国民と同様に主権があるというわけのわからない主張をしていた。達吉からすれば、これは詭弁にほかならず、天皇が国民と同等などということはありえない。
 そもそも改正憲法草案とはどういうものなのか。
 達吉はアンケートに答える。

〈要するに改正憲法草案は従来の憲法における君主主権主義を根本的に変革して国民主権主義を国家組織の根底となさんとするものであることは明瞭疑いをいれないところで、これをもってある程度にまで君主主義を持続するもののごとくに弁明するのは、虚偽をもって国民を欺瞞せんとするものである。〉

 君主主権主義を根底からくつがえす改正憲法(新憲法)草案には反対なのである。
 アンケートには「今度の変革によって国体はもう改変せられているとお考えになりますか」という問いがもうひとつあった。
 これには、こう回答している。

〈改正憲法草案は立法、行政、司法のほとんど全部に通じて天皇の国家統治の大権を除き去り、限られた数個の形式的権限の外には単に国家の象徴たるにとどめようとしているのであって、その我が従来の国体を根本的に変革せんとするものであることは、さらに疑いを容れないところである。これをもって国体の変更にあらずというがごときは明白な欺瞞というのほかはない。〉

 国体が改変されることはまちがいない。それなのに政府は国体が変更されるわけではないなどと詭弁を弄している。この回答には達吉の怒りのようなものすら感じられた。
 10月29日、議会での審議と修正を受けて、枢密院本会議で憲法改正案は全員一致で可決承認された。だが、この本会議に達吉の姿はなかった。
 11月3日、日本国憲法が公布される。
 ところが、そのころから、憲法学の大家である達吉に、出版社からの新憲法の解説依頼が増えてくるのだ。
 新憲法など認めないとそれを拒否することもできた。だが、達吉がそれを引き受けたのは、新憲法を細かく点検し、その内容を国民の前に明らかにすることが、ひとりの専門家としての義務ではないかと考えるようになったからである。
 11月から翌年(1947年)2月にかけ、雑誌での連載がはじまる。「自治研究」には、「新憲法に於ける国民の権利義務」、「法律時報」には「新憲法逐条解説」を執筆する。
 その過程で、達吉の考え方に大きな変化が訪れる。それまで新憲法を忌避していたのに、この憲法は悪くないと思うようになるのである。
 とりわけ、国民の権利が拡大されたことが大きな成果だと考えられた。
 明治憲法でも自由権は保障されていた。だが、それは法治主義を基調としており、法律さえあれば、自由権はいくらでも制限することができた。
 国民はいかなる法律の定めにも絶対に服従しなければならない。その典型が治安維持法で、加えて行政には強い命令権があった。兵役義務も大きな負担となっていた。
 これにたいし、新憲法では侵すことのできないものとして、国民の権利が認められていた。国民の権利を侵害するような立法は、それ自体認められない。さらに、行政は法律にもとづかない命令を発することを禁じられていた。
 達吉は新憲法おける国民の権利を強調する。国民は永久不可侵の権利として基本的人権を有する。
 平等主義も新憲法の特徴だった。男女平等の選挙法が導入され、華族制度は廃止された。公務員は政党や一部の階級に奉仕するのではなく、国民全体に奉仕する義務を有するものとされた。
 教育権や勤労権も強められた。失業は解消されなければならない。
さらに「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。国家は国民の生活権を保障する義務を負う。
 信教の自由、出版の自由、思想の自由も確保された。
 国家と宗教は分離され、国家神道は解体された。
 以前は政府の国策に反する思想を持つ者は取り締まりの対象となったが、新憲法のもとではいかなる思想も各人の自由にゆだねられ、国家がこれを抑圧し迫害を加えることは許されなくなった。
 国民に義務がないわけではない。権利と義務は表裏一体の関係にある。国民は憲法が保障する自由と権利を不断の努力によって保持する義務がある。さらに、権利を濫用してはならず、権利はこれを公共の福祉のために利用しなければならない。
 さらに、国民の義務としては、子女に普通教育を受けさせる義務、勤労の義務、児童を酷使しない義務、納税の義務がある。
 いずれにせよ、新憲法で定められた、こうした国民の権利義務は明治憲法にくらべ国民に大きな幸福をもたらすものだ。達吉もそう思わざるをえなかった。
 そして、こうした新憲法の見直しを通じて、象徴天皇制にたいする達吉の考え方も徐々に変わってくるのである。

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枢密顧問官──美濃部達吉遠望(93) [美濃部達吉遠望]

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 明治憲法によれば、枢密顧問の役割は、枢密院において天皇の諮詢(しじゅん)に応え、重要な国務を審議することとされていた。
 諮詢とは天皇が問い尋ねること。1946年(昭和21年)1月に美濃部達吉はその枢密顧問官に任じられていた。
 枢密院はもともと大日本帝国憲法の草案を審議するために設けられた機関で、憲法をつくった伊藤博文がみずから初代議長をつとめた。その後、さまざまな条約や緊急勅令を審議する役割をはたしてきた。
 その枢密院に憲法改正草案を審議する役割が回ってきたのである。枢密院の審議をへなくては、草案は草案のままで、正式の案として確定されない。
 新憲法はあくまでも明治憲法の廃止ではなく改正という形をとっていた。そこには、もちろん新憲法が押しつけではなく、日本人が自主的につくったことを示す意味合いが含まれている。
 4月17日、幣原(しではら)内閣は大日本帝国憲法の改正案として日本国憲法の政府案を発表し、その承認を得るため、同日、ただちにそれを枢密院に送った。審査とは名ばかりで、何はともあれ承認を早急に済ませることが求められていた。
 4月22日、皇居内にある枢密院で、第1回の審査委員会が開かれた。だが、その席上、13人の委員のひとりとして出席した達吉は、枢密院で新憲法政府案を審議、承認すること自体に異を唱えるのである。
 会議には、元首相で枢密院議長の鈴木貫太郎や現首相の幣原喜十郎、国務大臣の松本烝治も出席していた。
 審議を開始するにあたって、最初に鈴木議長が終戦当時の思い出に触れながら、感動的な挨拶をおこない、「この案を見て自分は心から安心し、政府が大いに努力されてこの案をつくられたことに対して深く感謝する」と述べた。
 そのあと、多くの委員からさまざまな質問がなされ、政府側は一つひとつこれに答えていったが、委員会の最後に達吉が発言し、今回の改正を憲法73条でおこなうことに疑問を呈するのである。
「将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」(原文カタカナ)というのが、明治憲法第73条である。
 この会議に立ち会った法制局長官の入江俊郎は、その時の達吉の発言をこう記録している。

〈今回の改正を憲法の73条で提出することにつき疑問がある。73条は果たして有効なのであるか。もし有効なりとすれば、議案は勅命により作成せられたものでなければならない。改正案を審議する議会が改正案において不適法として廃止するような議会であってもよいのか。〉

 ねちねちした発言はまだつづくが、その場にいる人たちは達吉がいきなり何を言いだしたのか、さっぱり理解できなかっただろう。
 明治憲法によれば、憲法を改正するにあたっては、政府が改正案を作成し、天皇の勅裁を得て、枢密院で審議を済ませ、そのあと勅命によって正式の改正案として帝国議会に提出され、議会両院での議決をへて、天皇が裁可するという段取りになっている。
 議会は枢密院で諮詢された政府の憲法改正案に賛成か反対かを表明できるだけで、修正権をもたない。
 じっさいには、欽定の明治憲法は一度も改正されたことはなかった。
 達吉は、新憲法の制定にあたっては、この方式が通用しないのではないかといいたいのだ。そもそも、新憲法では枢密院も貴族院も消滅することになっている。それなのに、枢密院や貴族院で憲法改正案(すなわち新憲法案)を審議しようというのはおかしいというわけである。
 達吉の弁論はつづく。

〈73条で行けば天皇の御裁可で憲法がきまる。しかるに日本国民がこの憲法をつくると前文にも書いてある。これは矛盾であり、虚偽ではないか。現行憲法はポツダム宣言に矛盾する限度で失効していると思う。73条は失効しているのだ。現在は憲法改正の方法につき何らの規定のない、未定の状態である。まず73条にかわるべき憲法改正手続きを次の議会で議決すべきである。それから憲法改正の手続きに入るべきである。政府の原案をつくって議会へ提出する。そして議会で議決すれば国民の自由な意思によったものと見るのか。〉

 達吉は明治憲法はポツダム宣言で失効しており、現在は無憲法状態にあるという。しかも、憲法改正案の条文によれば、この憲法は欽定、すなわち天皇がつくったのではなく、民定、すなわち国民がつくったものだと書いてある。その民定憲法をすでに失効したと考えられる明治憲法の規定に従って制定しようとするのは矛盾ではないのかというのである。
 達吉はさらに言いつのる。

〈原案というものは一般に有力なものであるので、そのような点から考えると、今回のような提出の仕方では国民の自由な意思の表明による憲法の改正とは見られない。政府が原案をつくるのをやめて、真に国民の側で自主的に立案すれば司令部もこれを認めるほかなかろう。しかしこれ以上は議論であるからやめる。〉

 ポツダム宣言は、憲法をはじめとする日本の政府の形態は、自由に表明された国民の意思によって決められるとしている。それなのに、いまこの枢密院の秘密会議で、憲法改正案を審議しようとするのは、そもそもまちがっているのではないか。
 今回の前文でも、この憲法は国会において正当に選挙で選ばれた代議員を通じて国民が制定確立するものと書かれている。それなのに、実際には政府が密かに原案をつくって、ただ国会で審議するというのはおかしいのではないか、と達吉はいう。
 これ以上議論しても仕方ないとして、達吉は議論を打ち切ってしまった。だが、まもなく開かれる戦後初の議会で、憲法制定議会のようなものを開くことを決め、そこで憲法をつくるようにすれば、それこそ国民の意思に沿った憲法がつくれるのではないかというのが、達吉の言いたかった、その先につづく議論である。
 静まりかえった会議室の雰囲気を打ち破るように、松本国務相が発言する。
「政府の提案でも、議会で自由に論じ、それで民主的に通ればそれでもよいのではないか」
 さっさと枢密院での審議を終えて、議会に回し、そこで自由に論じてもらえば、それでよいのではないかという姿勢がみえみえだった。
 達吉はこれにたいし何も発言しない。もう言っても仕方ないと思っていた。
 達吉が批判するのはふたつの虚偽にたいしてである。アメリカはマッカーサー草案にもとづいて日本政府に新憲法草案をつくらせたにもかかわらず、それをあたかも日本国民が制定したかのように称している。さらに、日本政府はマッカーサー草案にもとづく新憲法草案を、明治憲法の規定にもとづく憲法改正として取り扱おうとしている。
 達吉はそうした理由から、幣原内閣による新憲法草案を枢密院で審議すること自体を拒否するのである。
 4月2日に開かれた第2回会議でも、達吉はこう主張する。

〈すでに今日となっては改正案の提出権はない。本院は政府に対しよろしく本案の撤回を要求すべきである。前文は国民が憲法を制定するとある。欽定ではなく民定である。しかるにその原案は、国民の代表と言えない、民衆の根拠を持たぬ政府または法制局がどこかと交渉して秘密裡につくり、それを枢密院に諮詢し、天皇の発議で議会に提出し、議会に修正権ありとは申せ、その修正権は限定されている。御裁可を経て天皇の名で公布する。これで国民が制定したものであるか。〉

 この新憲法草案は国民がつくったものではなく、政府か法制局が「どこか」と交渉して、秘密裡につくったものだという皮肉が強烈である。
 達吉はさらにいいつのる。

〈前文は全く偽りの声明であり、国家の根本法の冒頭にかかる偽りを掲げることは恥ずべきことである。次に、議会は両院からできているが、その貴族院は国民の代表としては不適当であるとして改正草案ではこれを廃止しようとしているではないか。そのような議会にかけて憲法を改正することが妥当であろうか。ゆえに一院からなる憲法会議ともいうべき国民代表会議を開き、これにかけて憲法の改正をするべきであり、政府はそのような憲法会議をつくる手続きを取らねばならぬ。これが唯一の正しい方法であり、また憲法の改正は天皇の御裁可で成立するものではなく、国民投票によって成立すべきものである。〉

 明治憲法はポツダム宣言受諾により無効となった。にもかかわらず、明治憲法にもとづいて新憲法草案を枢密院で審議するのはおかしい、とくり返し主張したのである。もし新憲法をつくるなら「憲法会議ともいうべき国民代表会議」を開き、審議したうえで、さらに国民投票を実施すべきだという。
 これに対し、松本国務相は「内外の要求は改正を急ぐのであって、現下の情勢では手数をかけてみたところで、結果においてはまたこの草案と同じものができるであろう」と答えた。
 達吉の案では、いつになったら新憲法ができるかわからず、GHQからは早急に憲法の制定を求められている。理屈はわかるが、いまは何としても押し切らねばならないというのが松本のホンネだった。
 中身については審議しないといいながらも、この日、達吉は「象徴」としての天皇という表現にも触れ、「象徴のかわりに『国家及び国民を代表する』というように書けないか」と政府に迫っている。
 達吉にとって、天皇とは大権をもつ国家の最高機関にほかならなかった。その天皇の大権が奪われ、象徴ということばで、天皇がまるで神棚の空疎な存在に祭りあげられようとしていることに、達吉は怒りすら感じていた。
 皇室典範を法律の一種とすることにも疑問を呈している。皇室典範は国法には違いないが、同時に皇室内部の法であって、これにたいし天皇が発言権も裁可権もないのはおかしいと述べている。
 象徴の件に関して、松本は「本案成立の過程としては政府はこれを改めることができない」と達吉の要求を突っぱねた。GHQが第1条の表現変更はいっさい認めないとしていたためである。
 のちにGHQは日本側が、天皇の地位は「日本国民の至高の総意」にもとづくと最初に訳していた部分(deriving his position from the sovereign will of the people)を「主権の存する日本国民の総意」にあらためるよう、さらに要求することになる。主権が天皇にではなく国民にあることを、あらためて強調するためである。
 5月3日の第3回会議でも、達吉は改正手続きの件について、しつこく発言した。しかし、委員会はそれを無視し、憲法改正案の各章ごとの点検に入った。
 それで達吉が黙ったかといえば、そうではない。それ以降の会議では、次々と条文の問題点を指摘しつづけた。
 そのころ、新憲法の文体を口語体・ひらかなにしようという動きが強くなっていた。5月15日の第8回会議で、達吉は新憲法を口語文にすることに反対した。

〈口語文は感心しない。たとい口語文にしても俗語や会話体は避けたい。「しなければならない」は東京地方の方言で、文法的には「せねばならぬ」とすべきである。「甲と乙とは」が正しいのに「甲と乙は」となっている。かなづかいも乱雑で、送りがなに統一性がない。〉

 松本国務相は、しかし、そうした反対を押し切って、それまでの文語文カタカナ表記に代えて、口語文ひらがな表記を採用することに決める。達吉には釈然としない思いが残った。
 戦後初の総選挙をへて、5月22日には幣原内閣に代わって、吉田茂内閣が成立する。枢密院の審査委員会は休会となり、これまでの諮詢案は撤回されたうえで、あらためて吉田内閣の諮詢案が出された。その際、いくつかの表現が訂正され、誤訳が改められ、英文についても一部変更が加えられている。
 そのうえで、5月29日に再諮詢後の審査委員会(最初からすれば9回目)が開かれた。
 吉田新首相は委員会の冒頭、特別議会を6月10日ごろ開くことを予定しており、それから議会での審議が始まるので、できればそれまでに枢密院での審議を終えてほしいと発言した。
 そのとき、いつもよけいなことをしゃべりすぎる吉田は、憲法を早くつくって、日本としてはなるべく早く主権を回復し、進駐軍を引き揚げてもらいたいと話している。
 さらにGHQというのはゴー・ホーム・クイックリーの略称だと冗談をいう者もいる(それはおそらく自身だった)と話し、できるだけ速やかに憲法を成立させたいと述べた。
 委員の野村吉三郎(元駐米大使)は9条の2項を削除するよう求めた。これにたいし、吉田は「9条は日本の再軍備に対する連合国側の懸念から生まれた規定で、修正することは困難である。日本の治安は進駐軍を使うほかはない。外国より侵略されるとときも、軍備を持たぬ以上、たとえばソ連に対しても米英の力を借りるほかはない」と答えている。
 このとき、前首相で吉田内閣の副総理となった幣原喜重郎は「占領軍撤退後の国内治安が心配である。歴史に徹するも、中央政府の力が弱かったときに源平二氏が現れた。この辺の見込みは如何(いかん)」と聞いた。
 これに対し、吉田は「占領軍撤退後の状態は今日なお予想できない。日本が独立後、いかなる形を取るかについては不明であるが、やはり国家として兵力を持つようになるのではないか。それは今日では言えないことである。主権を回復すれば兵力を生ずるのではないかと想像する」と答えている。
 9条は当初から悩みの種だった。
 委員会での再諮詢の審議は1日で終了した。
 こうして、委員会は9回の審議を終え、6月8日に枢密院本会議が開かれることになった。
 この日の本会議には昭和天皇が臨席し、三笠宮崇仁(たかひと)親王も加わり、枢密院正副議長と各委員のほか、政府からも吉田首相はじめ各大臣、法制局長官などが出席した。
 委員長の説明のあと、何名かの委員が発言し、最後に起立による採決がおこなわれた。その時のことだ。
 法制局長の入江俊郎がこう書いている。

〈やがて鈴木[貫太郎]議長は起立して「これより採決いたします。本案賛成の各位の起立を乞います」と宣言した。各顧問官、各閣僚みな立った中に、ただ一人美濃部顧問官はうつむいたまま起立しない。これには議長も意外であったらしい。枢密院書記官長以下事務局の人たちも思い設けぬところであったという。〉

 鈴木議長は戸惑ったまま、しばらく立ち尽くし、「全員起立」と言いかけたところで言い直した。
「起立多数、よって本案は委員長の審査報告通り可決されました。これにて会議を終わります」
 その瞬間はまさに息詰まる数秒間だったという。全会一致を原則とする枢密院で、達吉だけが異例の行動をとったのだ。
 だが、ともかく枢密院での可決を経て、政府の憲法改正案が議会に提出されることになった。
 その後、議会では憲法改正案が審議された。
 表には出せないもののGHQによる監査はつづいていた。
 6月下旬以降3カ月以上にわたって、衆議院と貴族院で審議された憲法改正案は、GHQと日本側の修正を加えたうえで、衆議院本会議で10月7日に議決された。
 これにより政府は10月11日に議会修正案を閣議決定し、憲法改正案の修正箇所を枢密院に諮詢する手続きをとった。
 10月19日と21日の両日、枢密院の審査委員会で修正箇所の審議がおこなわれたが、達吉は委員会を欠席した。審査委員会は達吉欠席のまま、全員賛成によりすぐに終了した。
 さらに10月29日には枢密院本会議が開かれ、天皇臨席のもと、審査委員会委員長から報告がなされ、全員起立により、新憲法が確定する。この本会議にも達吉は欠席した。
 こうして11月3日に日本国憲法が公布され、翌年5月3日を施行日とすることが決まったのである。

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マッカーサー草案──美濃部達吉遠望(92) [美濃部達吉遠望]

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 1946年(昭和21年)1月26日、美濃部達吉は枢密顧問官に任じられた。枢密院での憲法改正審議に専門家として加わるためである。憲法は枢密院での審議をへなければ最終的に確定されないのが決まりだった。
 しかし、その任命がもし2月13日以降だったとすれば、達吉が枢密顧問官を引き受けることはなかっただろう。かれが審議したいと意気込むのは、あくまでも日本政府の手になる憲法改正案であって、政府案とは名ばかりのマッカーサー草案ではなかったからである。
 マッカーサー草案の成立経緯を、五百旗頭真の『占領期』は、次のように描いている。
 憲法改正は戦後直後から求められており、日本側もその必要性を認識していた。アメリカ側は当初、日本側の動きに期待を寄せていたが、漏れ伝わる情報から次第に失望を覚えるようになっていた。
 1月24日にマッカーサーは病から癒えた幣原首相と会見し、憲法改正の進展具合を聞いた。そのとき幣原はまず天皇制存続についての支持を求め、マッカーサーは同意した。そのあと、幣原が戦争放棄を表明し、マッカーサーを驚かせ、感動させたのだとされる。
 このときに天皇制と平和主義のパッケージが生まれたのだ、と五百旗頭は論じる。
 ここで、われわれは達吉が戦後構想として、天皇制と民主主義のパッケージを打ち出していたことを思いだしてもいいだろう。幣原の構想と美濃部の構想を合わせると、天皇制、平和主義、民主主義の安定した三角形構造が生まれる。
 それは天皇制、軍国主義、権威主義からなる戦前の三角形構造とは異なる新たな統治構造が生まれる可能性を意味していた。
 もし、天皇制を侵略的で排外的な愛国主義から切り離すとすれば、天皇制が平和主義と民主主義によって支えられる以外にない。そのとき、マッカーサーにひらめきが訪れた。天皇制存続という難問を解く糸口が発見できたのである。
 2月1日に憲法問題調査委員会(松本委員会)の憲法改正案が毎日新聞にスクープされ、それがあまりに保守的なものであることが暴露されるのを待って、GHQは憲法草案づくりに着手した。
 マッカーサーは本国政府からは早く日本の改造を進めるよう迫られていた。そのいっぽう、連合国(米英中ソなど)の対日最高管理機関として極東委員会が2月26日に発足することが決まっていた。とりわけそのメンバーであるソ連からの干渉を避けるためにも、憲法草案づくりは急がなければならなかった。
 2月3日は日曜日だったにもかかわらず、マッカーサーはホイットニー民政局長と打ち合わせ、日本国憲法草案のための3原則をまとめた。
 要約すると、それは次のようなものだ。

(1)天皇を国の元首と認める
(2)戦争放棄と戦力の不保持
(3)貴族制度の廃止

 その日、マッカーサーはケーディス民政局次長を呼びだして、この3原則を示したうえで、1週間で日本の憲法草案をつくるよう命じた。
 必死の作業がはじまる。ケーディスは運営委員会を組織して、実務責任者となり、その下に7つの小委員会を設け、25人の民政局員を動員して、草案づくりに没頭することになる。
 こうして9日間で、いわゆるマッカーサー草案ができあがり、2月13
日に日本側に届けられた。1週間以内の返答が求められていた。
 GHQのホイットニー民政局長から憲法草案を受けとった松本国務相は、それを一瞥して、「まず前文として妙なことが書いてある。それから天皇は象徴であるという言葉が使ってあった。憲法のようなものに、文学書みたいな……」と感じ、「とてもだめだ」と思った。
 天皇の条項は、

〈articleⅰ. the emperor shall be the symbol of the state and the unity of the people, deriving his position from the sovereign will of the people, and from no other source.〉

 となっていた。
 のちに日本国憲法で

〈第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。〉

 となる部分である。原文の最後にあるand from no other source(その他の根拠によるものではない)は最終的にはカットされている。
 マッカーサー草案は全11章92条から成り立っていた。前文がつけられているのは、アメリカ合衆国憲法にならったのである。
 だが、その前文は本国のものよりずっと高尚な理念にあふれていた。松本のように「妙なことが書いてある」と思う人が多かったにちがいない。
 松本はGHQがこの草案を取り下げるよう必死に交渉をつづけた。18日には吉田茂外相の側近、白洲次郎がGHQ本部に長文の松本メモを届け、説得にあたったが、ホイットニーはあくまでも強硬な態度を崩さず、20日までに日本側がマッカーサー草案を憲法改正原案として受諾するか否かを返答するよう通告した。
 閣僚たちは19日の閣議ではじめてマッカーサー草案のことを知らされ、驚くと同時に怒りを抑えきれなかった。閣議は紛糾する。しかし、幣原首相が「事ここに至っては事態はきわめて重大であるから、自分も至急にマッカーサーに面会して話をしてみたい」と述べ、その場を収めた。
 2月21日に幣原はマッカーサーと3時間にわたり会見し、マッカーサーから「アメリカ案を容認しなければ、日本は絶好のチャンスを失うだろう」と、念を押された。
 マッカーサーは、極東委員会でソ連などから干渉を受けることを恐れていた。
翌日の閣議で、首相は閣僚にマッカーサー草案への理解を求め、これを原案として憲法改正案をつくるよう努力しようと述べ、会見の経緯をこう説明した。

〈マッカーサーは今日の国際情勢のもとでは、アメリカ側の交付案はぜひとも必要な改正案であって、これにより天皇の地位も確保できるし、またそれは日本側の案、すなわち松本試案と本質的に異なるものとは思われないといい、また主権在民と戦争放棄は交付案の眼目であり、特に戦争放棄は日本が将来世界における道徳的指導者となる規定であるといった。〉

 松本国務相はアメリカ案はとても受け入れられないと述べた。松本試案が葬り去られたことは明らかだった。
 閣議のあと、幣原首相は参内し、天皇に事の経緯を説明し、天皇から了承とともに励ましの言葉をもらった。
 こうして、日本側がマッカーサー草案を受諾することが決まった。
 2月26日には、初めて閣議にアメリカ案全文の外務省仮訳が配布された。
 こうして翌日から、マッカーサー草案にもとづく日本側改正案が極秘裏に作成されることになる。
 日本側の憲法改正案(3月2日案)は3月4日に司令部に提出された。
 憲法改正案を受けとった総司令部では、日米双方の担当者により、その場ですぐに逐条ごとの検討がはじまり、夜を徹する作業となった。
 アメリカ側は日本側の修正や脚色を見逃さず、できるだけ原案に近いものに引き戻そうとした。輔弼(ほひつ)という表現は認められなかった。前文を削ることも、いっさい許されなかった。
 それでもいくつかの修正は認められた。国会を一院制にする案は、けっきょく日本側の主張をいれて、二院制に戻すこととなった。マッカーサー草案にあった土地を国有化するという条項も削られた。
 3月5日も司令部とのやりとりや改正案の確定に費やされた。こうして、最終的に95条が確定する。
 さらに翌6日には、朝9時から夕方4時まで臨時閣議が開かれ、最後の検討がなされた。午後5時になって、楢橋渡(ならはし・わたる)書記官長は記者会見を開き、憲法改正草案要綱を発表した。
 憲法改正草案要綱は改正案そのものではなく、あくまでも要綱である。そのため「第一 天皇は日本国民至高の総意に基き日本国及其の国民統合の象徴たるべきこと」(原文カタカナ)などと、すべての項目が「こと」で締めくくられていた。
 要綱が政府によって正式に発表されたことにより、全国民は新憲法の全容を知ることになった。2月1日に毎日新聞がスクープした憲法改正案は一体何だったのか、多くの人びとは狐につままれたような思いをすると同時に、今回の政府発表の急進的な内容に驚きを隠せなかっただろう。
 要綱の文体は文語体で、しかも翻訳調だった。それもそのはず、ほぼマッカーサー草案の翻訳だったのである。
 政府の発表には憲法前文も含まれていた。前文の変更はいっさい認められず、当初の外務省翻訳に少し手を加えたものが発表された。とりわけ難解な前文を訳すには、さぞ苦労したことだろう。
 改正草案要綱はおおむね好意的に受けとめられた。
 要綱が発表されたあと、政府はいよいよ改正案の作成に取りかかった。その段階で作家の山本有三と法制局内部から、憲法の条文をわかりやすいひらがな・口語体にしたらどうかという提案がだされた。
 当初、憲法担当の松本国務相は、それに反対した。だが、最終的に賛成に回った。憲法の条文がいかにも翻訳調なので、それを隠すには口語体のほうがいいかもしれないと判断したためだという。
 こうして、GHQとの度重なる詰めをへて、4月17日に全文と100箇条からなる政府の憲法改正案がついに完成する。
 このとき、憲法前文は次のように書き換えられていた。

〈日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。〉

 もっとわかりやすく訳せそうなものだ(じっさい、それは可能だ)。
 ひらがな・口語体にしたところで、翻訳された憲法前文は難解そのものという性格を免れなかった。
 日本側と激しいやりとりがなされ、訂正された部分もあるが、日本国憲法の政府案は基本的にマッカーサー草案の引き写しとなった。だが、そのことが当時、日本国民に明かされることはなかった。
 政府の憲法改正草案は明治憲法で定められた諮詢を必要とするため、当日ただちに枢密院の審査委員会に回された。
 しかし、枢密顧問の美濃部達吉はこの改正草案を枢密院で審議すること自体に異を唱えるのである。

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松本試案──美濃部達吉遠望(91) [美濃部達吉遠望]

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 1946年(昭和21年)元旦、昭和天皇はみずからが現人神(あらひとがみ)であることを否定するいわゆる「人間宣言」の詔書を発表した。その元になったものは英文で記されていた。
「人間宣言」自体はGHQの示唆を受けて、学習院大学院長の山梨勝之進が発案した。国家神道の解体を受けて、学習院の英語教師レジナルド・ブライスとGHQ幕僚部(特別参謀部)民間情報教育局(CIE)のハロルド・ヘンダーソン課長が執筆した原文を翻訳して、練り直し、最後に幣原首相が手を加えた。
それを見た天皇は「五箇条のご誓文」を加えるように求めたという。
 有名なのは次の部分だ。

〈朕(ちん)と爾等(なんじら)国民との間の紐帯(ちゅうたい)は、終始相互の信頼と敬愛とに依(よ)りて結ばれ、単なる神話と伝説に依りて生ぜるものに非(あら)ず。天皇を以(もっ)て現御神(あきつみかみ)とし、且(かつ)日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延(ひい)て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。〉(原文カタカナ)

 軍国主義時代の天皇像が、天皇みずからの詔書によって否定された。
 人間宣言発表直後の1月4日、GHQは戦時中、戦争指導の要職にあった者を公職から追放する指令をだした。何人かの閣僚も追放され、過労で病中にあった幣原はさらに手痛い打撃を受けた。
 そのころ美濃部達吉は、岩波書店から創刊されたばかりの雑誌「世界」1月号に「民主主義と我が議会制度」という論考を発表した。その内容は「松本委員会」に提出された憲法改正美濃部私案と重なっているが、雑誌のテーマはあくまでも戦後の民主主義と議会制度をどう考えるかである。
 この問いにたいし、達吉はおそらく「世界」の読者ががっかりするような答えを示した。
 達吉はいう。民主主義が新日本建設の基礎になることはいうまでもない。しかし、国民主権主義ないし議会を国権の最高機関とするのは、日本の国情にはなじまない。国家の統一性を保持するためには、君主制を確保することが「絶対の条件」であり、「これなくしては統一的国家としての日本の存在は失われてしまうの外はない」。

〈それであるから、日本憲法の民主主義化といっても、そのいわゆる民主主義は君主制のもとにおける民主主義を意味するものと解せねばならぬ。国民自身が国の最高権力者たるのではなく、国の最高権力即ち主権は専ら君主に属し、君主が統治権を総攬(そうらん)し憲法の条規に従ってこれを行使したまうことにおいては、現在の制度[大日本帝国憲法]におけると全く同様でなければならぬが、ただ君主がこれを行使したまうにあたり、自己の個人的恣意(しい)によるのでないことはもちろん、国民の総意とは関係のない一部の軍閥や官僚の進言によるのではなく、国民の意思が政治の上に反映し、君主はその意思に従ってこれを行わせらるるような組織をなすことが、制度上に担保せられていることが、そのいわゆる民主主義の要求するところでなければならぬ。〉

 君主主権主義を維持しながら、国民の意思が反映される(代議制民主主義にもとづく)議会と、議会から信任された政府によって、国家が運営されるようにするというのが、達吉の戦後構想だったといえる。
 その主張は、旺文社の雑誌「生活文化」2月号への寄稿「民主主義政治と憲法」でもくり返されている。
 民主主義は君主主権主義と相いれないようにみえるかもしれないが、そうではない。たしかに戦前は君主の主権を神聖不可侵のものとして、「国体」という語が用いられ、それにより国民の自由にたいする極端な圧制がおこなわれてきた。文明世界にほとんど例を見ない治安維持法がつくられ、国体を擁護すると称して、驚くべき数の多くの者が容赦なく牢獄につながれた。君主主義を根本的に変革しようとする思想をいだく者がでるのはとうぜんだろう。
 しかし、と達吉はいう。

〈しかしながら、たとえ過去において国体の観念が国民の自由を圧迫するために悪用せられたとしても、それは専らそれを悪用した当時の軍国主義的な権力者やその権力に阿諛(あゆ)して神秘的な無稽(むけい)の国体説を流布した者の罪であって、決して国体それ自身にその禍源を帰すべきではなく、治安維持法その他の悪法令が撤廃せられ、完全な思想の自由、学問の自由が回復せられた上は、かかる悪用の虞(おそ)れはもはや全く消滅したもので、これをもって国体そのものを呪詛(じゅそ)する理由となすべきではない。〉

 達吉はあくまでも君主主権主義のもとで、国民の自由と民主主義の発展をはかろうという立場を主張したのである。
 国民主権の名のもとに独裁専制の政治がおこなわれたことは、ヒトラーやスターリンの例をみてもあきらかで、ともかく君主を廃して民主主義を実現すればいいというものではない、と達吉はいう。
 国家には国民の団結を促す中心がなくてはならず、その中心が失われたとすれば、ただ動乱があるばかりで、そこから「民主政治の名の下にその実は専制的な独裁政治を現出すること」は「必至の趨勢」だとも述べている。

〈すなわち君主主権制を廃することの結果は、名義上はともかくも実質的には民主主義とは正反対な独裁政治を現出する危険がすこぶる濃厚である。真に民主主義を確立するためには、わが三千年の歴史的伝統であり国民の信念に深い根底を据えている君主主権制は固くこれを支持し、君主が民意を尊重し民意に従って主権を行使したまうことが必要である。たとえ共産党その他一部少数の間に君主制打倒の声が叫ばれているとしても、大多数の国民の意思がその支持にあることは、さらに疑いをいれないところであるから、君主制を支持することこそ、よく民意に適するゆえんであり、それが真に民主主義を実現するものでなければならぬ。〉

 国家の中心に天皇が存在してこそ、国家の統一は保たれ、民主主義も実現できるのだ、と達吉は主張しつづけた。

 達吉が顧問を務める憲法問題調査委員会の審議は、前年12月末までにほぼ終わり、翌年1月9日に松本烝治委員長は調査委員会に「憲法改正私案」(松本私案)なるものを提出した。
 さらに、これとは別に委員会としての「憲法改正案」が作成された。こうして委員会の改正案を甲案とし、松本私案を乙案とする二つの案ができあがる。
 ややこしいのは、その後、宮沢俊義委員が松本私案にもとづいて、要綱案をつくったので、これが甲案となり、甲乙の名称が逆転することだ。このとき甲案は「松本試案」と呼ばれることになった。
 何はともあれ、こうして2案がほぼまとまり、次は内閣で憲法改正案を議論する段取りが整ったのである。
 甲乙2案は政府に内示され、1月29日から閣議での議論がはじまった。
 2月2日には委員会最後の総会が開かれた。
達吉はそこで次のように主張している。
 第3条は「天皇は神聖にして侵すべからず」の「神聖にして」をとって、「天皇の一身は侵すべからず」とするのがよい。天皇のいわゆる「人間宣言」を踏まえての発言だった。
諮詢(しじゅん)という表記は残して差し支えない。
 日本は独立国であるという建前で立案していくべきであり、その意識をもってするならば、軍の規定は当然憲法に置くべきである。
 憲法にある「兵役の義務」は削除するにしても、それに代わるものとして「公共に奉仕する義務」を入れればよい。
 審議は大詰めにはいった。
 閣議や委員会での最後の調整がなされ、ついに最終的な憲法改正案要綱(最終版の「松本試案」)ができあがる。
 松本試案とその説明書は、その英文翻訳とともに、2月8日にマッカーサー司令部に届けられた。
 ところが、じつはその前にすでに大事件が持ちあがっていたのである。
 2月1日に毎日新聞が憲法問題調査委員会の憲法改正案なるものをスクープし、発表していた。密室で進められている憲法改正のくわだてを白日のもとにさらそうという思いが強かったのだろう。
 だが、それは松本試案ではなかった。それ以前に宮沢俊義委員がつくった「宮沢甲案」に近いもので、松本試案よりずっと改革的でリベラルな内容だった。
 のちに、これをスクープした記者は、こう話す。首相官邸1階の憲法問題調査委員会の事務室に行くと、誰もいなかった。ふと見ると、机の上に草案冊子が置かれていた。それを社に持ち帰って、大急ぎで手分けして筆写し、約2時間後にそれを戻した。
 政治学者の五百旗頭真(いおきべ・まこと)は「もしそれが事実であるとすれば、そのような『事実』を可能にした協力者がなくてはならないだろう」と指摘する。
 背後にGHQの諜報活動があったのか、政府内の誰かがたくらんだのか、それとも事務官の協力があったのか、真相はわからない。
しかし、このスクープによって、憲法改正案のおおよその姿が国民の前に明らかになったことはまちがいない。
 そして、GHQも動きはじめた。
 毎日新聞の大スクープは当の政府をも震撼させていたにちがいない。それでも憲法問題調査委員会は、何ごともなかったかのように、翌日予定されていた総会を開き、閣議での検討や、当日の達吉の発言なども踏まえて、憲法改正要綱の完成に向かって進んでいったのである。
 2月8日、憲法改正要綱(松本試案)はマッカーサー司令部(GHQ)に届けられた。日本側としては、10日ほどで了承をもらい、それを閣議決定したうえで、枢密院で審議し、総選挙後の4月に予定される議会に上程し、憲法改正案の成立をはかるという段取りを立てていた。
 松本試案とは、どのようなものだったのだろうか。
 それは6章34項目からなる憲法改正要綱だった。あくまでも大日本帝国憲法の改正というかたちをとっている。
 たとえば、こんな調子だ。
 第1章の「天皇」(カタカナをひらかなにした)。

一 第三条に「天皇は神聖にして侵すべからず」とあるを「天皇は至尊にして侵すべからず」と改むること
三 第八条所定の緊急勅令を発するには議員法の定むる所に依(よ)り帝国議会常置委員の諮詢(しじゅん)を経るものとすること
五 第十一条に「陸海軍」とあるを「軍」と改め且(かつ)第十二条の規定を改め軍の編制及(および)常備兵額は法律を以(もっ)て之(これ)を定むるものとす

 天皇は「神聖」ではなくなったとしても「至尊」に改められただけだ。軍の統帥権をはじめとする天皇の大権もそのまま残されている。緊急勅令も従来どおりだ。
「臣民の権利義務」という言い回しもそのまま残されている。ただし、兵役の義務はさすがに削除されている。

八 第二十条中に「兵役の義務」とあるを「公益の為(ため)必要なる役務に服するの義務」と改むること
九 第二十八条の規定を改め日本臣民は安寧秩序を妨げざる限りに於(おい)て信教の自由を有するものとすること

 言論出版集会結社の自由についても、あくまでも法律に背かない限り、それを認めるという立場である。
 議会については、貴族院を廃して参議院とするという項目がある。枢密院も残されている。
憲法改正については、勅令によるのではなく、両議院の総員半数以上の賛成があれば、改正案を発議できるとしている。
 国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ)するという考え方も引き継がれている。ただし、内閣が議会と軍に責任を持つことが強調される。
 陸海軍は解体されたが、独立回復後、軍は再建されると想定されている。

二十 第五十五条第一項の規定を改め国務大臣は天皇を輔弼し帝国議会に対して其(そ)の責に任ずるものとし且(かつ)軍の統帥に付(つき)亦同じき旨を明記すること

 いくつかの条項を並べてみただけだが、これを見ても、松本試案が美濃部私案ときわめて似かよった保守的性格を帯びていたことがわかるだろう。
 憲法改正要綱(松本試案)の提示から5日後の2月13日、GHQのホイットニー民政局長やケーディス次長ら4人が予告どおり麻布の外相公邸を訪れ、吉田茂外相や松本国務大臣と面会した。
 日本側は先日提出した憲法改正要綱について、アメリカ側から何か問い合わせがあるのかと思っていた。
 ところが、ホイットニーは司令部としては松本試案は受け入れられない、と言いきった。その代わりに司令部で立案したこの案をもとに日本側で立案してほしいと述べ、日本側に英文の草案を手渡した。しかも、この案を受諾するかどうかを1週間以内に返答せよという。
 いわゆるマッカーサー草案である。
 驚愕(きょうがく)の瞬間だった。

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憲法問題調査委員会──美濃部達吉遠望(90) [美濃部達吉遠望]

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 1945年(昭和20年)10月13日、国務大臣の松本烝治が委員長を務める憲法問題調査委員会が発足し、10月27日に総理官邸の会議室で初の総会が開かれた。
 この総会に顧問として出席した美濃部達吉は、急いで憲法を改正する必要はないという態度を基本的に示しながら、もし改正するならばとして、4つの研究課題を挙げた。
 それは、

(1)憲法と皇室典範との関係。
(2)天皇の大権、ことに外交、官制、位官、独立命令、緊急勅令、非常大権をどう扱うか。
(3)議会制度、とりわけ貴族院をどうするか。両院の関係、さらには議会の権限について。
(4)会計制度の改革。

である。
 軍については、あえて触れないのをよしとした。「軍のないことは永遠というのではあるまい」と考えていたから、占領期にある現在、憲法で軍の規定を削除することに懸念を示したのだ。
「わたくしは、あらかじめ時期を限って、それまでに案を早急にまとめるというようなことは反対で、[憲法改正については]一時的のものでなく慎重に扱いたい。政治的に早急にやるというのなら、わたくしは委員を辞職したい」とも述べている。
 顧問の野村淳治(東大名誉教授)が天皇の条項も変更せざるを得ないのではないかと述べたのにたいし、達吉は第1条(大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス)や第4条(天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニヨリ此ヲ行フ)も、できればそのままにしたいという意向を示した。
 こうして、天皇と軍の条項(「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」など)をいじらないことを前提に、松本委員会の調査と審議がはじまる。
 11月14日に達吉は検討すべき課題というメモを調査委員会に提出した。
 まず、憲法改正の基本問題として。
 憲法改正は修正、削除、追加だけでよいとするのか。新日本を建設し、民心を一新するためには、全部の改正に着手すべきではないか。
 憲法改正は現在の占領状態を基礎とするべきか、それとも将来の独立回復を期してなされるべきか。
もし現在の状態を基礎とするなら、陸海軍、外交、戒厳、兵役などの条項は削除しなければならない。第1条も「日本帝国は連合国の指揮を受けて、天皇これを統治す」といった内容に変更しなくてはならなくなる。
 むしろ現在の状態は一時的な変態として考慮の外におき、独立国としての日本の憲法をつくるべきではないのか。
 そう述べたうえで、達吉はさらに8項目の検討課題を挙げた。
 憲法と皇室典範との関係について。帝国憲法では皇室典範の実質内容が含まれる条項があるが、皇室典範と皇室令は純然たる皇室家法として、憲法から切り離したほうがよいのではないか。
 天皇の大権については陸海軍の統帥権のほかに次のような問題がある。緊急命令(緊急勅令)の大権は残すべきだが、議会の承諾を明示しなくてはならない。法律にもとづかなくても出せる独立命令の大権は廃止すべきである。天皇が締結権をもつ条約については、それが法律としての効力を有することを明示すべきである。爵位にもとづく華族制度は廃止し、勲章、褒章、記章などの栄典に改めるべきだ。
 臣民の権利義務に関しては、帝国憲法でこと細かに定められているが、「臣民はこの憲法および法律に服従する義務を負う」とか、「臣民は法律によるのでなければその自由および権利を侵されることがない」というように簡略化すべきである。加えて、法律をもってしても侵すことができない自由と権利があるという趣旨の条項を設けるべきだ。
 帝国議会については、議会を一院制にするか二院制にするかを検討しなければならない。仮に二院制とするなら、貴族院の名称とその構成を変更しなければならない。議会の権限はほぼいまのままでいいとしても大臣問責権、議会の会期、その他について検討する必要がある。
 内閣制度について憲法で規定する必要がある(元老や重臣会議による推薦制の廃止)。内閣と議会の関係については特に規定する必要がないと思われるが、いちおう検討すべきである。枢密院は廃止するのが適当ではないか。
 司法や会計(国の歳入歳出)については、とくに意見がない。憲法の改正については、現在の勅命(天皇の命令)によるだけでなく、議会の発案権を認めるのを正当とすべきである。
 達吉は、調査委員会にこのような検討課題を提出した。全面的な改正、つまり新憲法作成の可能性についても触れている。だが、達吉は占領下にある現段階での憲法改正には積極的ではなく、とりあえず現行の帝国憲法を手直しするだけでよいと考えていた。
 しかし、GHQによる日本改造計画はすでに怒濤(どとう)の勢いで進んでいたのである。まずは旧体制の解体にターゲットがしぼられていた。
 11月1日、マッカーサー総司令部は、近衛文麿元首相に憲法改正を命じた事実はないという声明を発表した。じつはこのとき、木戸幸一内大臣のもとで、すでに近衛の改正大綱のほかに佐々木惣一(法学者、当時内大臣府御用掛)の改正案ができていた。だが、それらはともにGHQにより否認されたことになる。
 声明はさらに、「最高司令官は幣原(しではら)首相に対し憲法改正に関する総司令部の命令を伝えた」とし、日本政府は現在憲法改正に関する調査を進めており、「近日中にその全貌が日本国民に発表される」とも述べていた。
 GHQは松本委員会の憲法改正調査だけを公認するとともに、早急に憲法改正案を出すよう圧力をかけたのである。
 そのいっぽうで、GHQは12月6日に近衛や木戸ら9人の逮捕を命じる。近衛は巣鴨拘置所に出頭するはずの16日に服毒自殺した。
 それ以前にもGHQは11月19日に戦犯として小磯国昭(元首相)や松岡洋右(元外相)ら11人、12月3日に梨本宮守正(伊勢神宮祭主)、広田弘毅(元軍人)ら59人の逮捕を命じていた。
 戦犯はいうまでもなく、戦前、政府や軍、大政翼賛会、国家主義団体の要職にあった者、膨張政策にかかわった者にたいする公職追放がおこなわれようとしていた。その数は1948年(昭和23年)5月までに20万人におよぶことになる。
 財閥解体や農地改革もはじまっていた。
 12月8日の予算委員会で、憲法問題調査委員会の改正方針について問われた松本国務大臣は4つの原則を挙げた。

(1)天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しない。
(2)議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限する。
(3)国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負う。
(4)人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じる。

 これが松本委員会の基本原則だった。
 12月下旬に達吉は調査委員会に憲法改正私案を提示した。いわゆる「美濃部顧問私案」である。
達吉は明治憲法を多少手直しするだけでじゅうぶん状況に対応できると考えていた。
 美濃部私案は第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を残すのはもちろん、天皇の大権に少しばかり修正を加えただけで、日本国民ならぬ「日本臣民」という表記もそのまま継承したきわめて保守的なものである。
 そのいくつかを示しておく。ここでは、多少読みやすくするため、表記をあらためている。
 第8条(天皇は公共の安全を保持し又はその災厄を避くるため緊急の必要により帝国議会閉会の場合において法律に代わるべき勅令を発す)のいわゆる緊急命令(勅令)規定は、次のように修正される。
「天皇は帝国議会開会中に新たに制定すべき必要を生じたる場合において両議院継続委員の諮詢を経て法律に代わるべき勅令を発す」
 条文はさらにつづくが、それは省略する。達吉の改正案には、まもなく消滅する枢密院に代えて、両議院継続委員なるものが登場している。しかし、天皇の緊急命令(勅令)権はそのまま認められている。
9条の独立命令権も同じである。
 第11条(天皇は陸海軍を統帥す)は、「天皇は軍を統帥す」に改正される。陸海軍の代わりに軍としたのは、すでにGHQの指令で陸海軍が解体されていたためだ。達吉は将来の独立日本における軍の再建を見越して、天皇の統帥権を残したのである。
 第13条(天皇は戦を宣し和を講し、および諸般の条約を締結す)は、改正されない。ただし、達吉の案では、戦を宣するのは敵軍の進攻を防ぐ場合だけで、それ以外の場合は帝国議会の協賛を得なければならないという条件がつけられている。条約の締結についても、議会の協賛を得ることが前提とされている。
 第20条(日本臣民は法律の定むる所に従ひ兵役の義務を有す)は「日本臣民は法律の定むる所に従い、忠誠に国家を防衛し、および国家に貢献すべき義務を有す」と改正される。兵役義務については定められていないが、日本臣民(国民)は国家の防衛にあたり、国家に貢献する義務があることが憲法に明記されている。
 第29条(日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会および結社の自由を有す)は「日本臣民は言論出版集会および結社の自由を有す。公安を保持するために必要なる制限は法律をもってこれを定む」と改訂される。ここでは戦前の言論統制や治安維持法が廃止され、公安を保持するためのより民主的な規制が設けられることが示されている。
 帝国議会については、貴族院は廃止されるが、二院制は残される。そのため第33条(帝国議会は貴族院衆議院の両院をもって成立す)は「帝国議会は第一院第二院の両院をもって成立す」に書き換えられる。
達吉の案ではもちろん衆議院が第一院とされる。第一院の議員は男女平等の選挙権をもつ日本臣民によって選出される。第二院の名称はまだ決まっていないが、「第二院は法律の定むるところにより選挙または勅任せられれたる議員をもって組織す」ということになっていた。
 内閣の規定はほとんど変わっていないが、議院内閣制を憲政の常道とする立場である。
 とはいえ、第55条(国務各大臣は天皇を補弼[ほひつ]し、その責に任ず)は、わずかに「国務各大臣は天皇を補弼し、および命を受けて行政各部の事務を主管す」と変更されるだけだ。国務各大臣は担当官庁を統轄すると明記されているものの、天皇を補弼する役割をもつことも強調されている。
 こうした改正の条項をみると、表面的な手直しといわれても仕方あるまい。達吉は日本が敗戦国となったいまも、立憲君主制の枠組みを崩すつもりはなかった。
 憲法問題調査委員会、通称「松本委員会」の審議はつづいている。
 幣原内閣は松本委員会の審議を見守っていた。だが、それ以上に、マッカーサー司令部が日本政府による憲法改正の行方を追っていたことはまちがいない。
間接的とはいえ、軍政に諜報はつきものである。GHQは日本の政府をはじめ社会全体に監視網をはりめぐらせていたのである。

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占領のはじまり──美濃部達吉遠望(89) [美濃部達吉遠望]

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 ポツダム宣言受諾という大仕事を成し遂げ、昭和天皇による「終戦」の玉音放送を無事に終えたあと、鈴木貫太郎内閣は1945年(昭和20年)8月15日午後3時半に総辞職し、8月17日に皇族、東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)による宮内閣が成立した。
 東久邇内閣の課題は、何かと不穏な軍を無事解散させ、速やかにアメリカの進駐軍を迎え、人心の不安と混乱を抑えることだった。まさに終戦内閣である。
 その内閣の実力者は、朝日新聞出身の緒方竹虎(おがた・たけとら)と、華族政治家として何度も首相を務めた近衛文麿である。緒方は国務大臣兼内閣書記官長(いまでいう官房長官)となり、近衛は無任所国務大臣(実質の副総理)として、政治経験の浅い東久邇宮を支えた。このとき外務大臣には重光葵(まもる)、海軍大臣には米内光政(陸軍大臣は首相が兼任)、大蔵大臣には津島寿一が就任した。
 東久邇首相は就任早々、ラジオ放送で「陛下の思し召しを奉戴し」、難局を克服して、「積弊の打開と、新社会の建設」をめざすことを国民に呼びかけた。のちに「全国民総懺悔(ざんげ)」と記者会見で語った言葉が「一億総懺悔」という表現で伝えられることになる。
 経済は壊滅状態にある。東京や大阪をはじめ、大都市では焼け跡が広がっていた。米の不足が伝えられ、食べるものもろくにない。駅前には闇市が並んでいた。それでも、ようやく戦争が終わったので、人びとは呆然としつつも安堵を覚え、苦しいながらもどこか解放感を味わっていたのではないだろうか。
 8月30日、連合国軍最高司令官(SCAP)のダグラス・マッカーサー元帥が厚木に到着する。9月2日、東京湾のミズーリ号艦上で降伏文書の調印式がおこなわれた。
これにより6年7カ月におよぶ占領期がはじまった。
 日本占領にあたっては直接の軍政ではなく、間接統治が採用されることになる。日本円に代わる軍票の使用も見送られた。
 日本の政治を統制する機関として、連合国軍総司令部(GHQ)が設けられた。GHQはさっそく日本政府に陸海軍の解体と軍需生産の停止を命じ、さらに追いかけるように東条英機ら39人を戦犯容疑者として逮捕した。このとき近衛文麿はまだ逮捕されていない。
 9月13日に近衛国務大臣が、15日に東久邇首相が、まだ横浜に置かれていた総司令部でマッカーサーと会見した。近衛はマッカーサーから個人的に憲法改正を手がけるよう打診を受けた、と首相に語っている。
 9月17日、GHQは横浜から東京日比谷の皇居を見渡せる第一生命ビルに移った。ここで10月4日にふたたびマッカーサーと会った近衛は、憲法改正に向けてリーダーシップを取るよう求められたという。東久邇首相と近衛のあいだがぎくしゃくしはじめるのは、そのころからである。
 アメリカ本国のワシントン政府の立場は、マッカーサーの意向よりはるかに強硬だった。日本政府は国体の変更をおこなわないことを条件にポツダム宣言を受諾した。これにたいし、アメリカ政府は「日本政府の最終形態は、日本国民の自由に表明せる意思によって決定される」と返答したうえで、日本の降伏を受け入れた。
 たとえ占領下でも、天皇と日本政府は存続すると日本側は受けとった。ところが、実際に占領がはじまると、アメリカ政府は日本が無条件降伏したとの立場を露わに示すようになる。天皇制の廃止と米軍による直接統治の可能性も考えられなくはなかった。
 だが、マッカーサーはワシントンの強硬策をはねつけた。9月27日にアメリカ大使館でマッカーサーと昭和天皇の初会見がおこなわれた。昭和天皇はマッカーサーを呼ぶのではなく、みずからマッカーサーのもとにおもむいたのである。
 会見に先立って、ラフな格好のマッカーサーとモーニング姿の天皇の写真が撮られた。各新聞社に流されたこの写真を内務省は検閲により差し止めたが、翌日、GHQの命令により、あらためて掲載されることを余儀なくされた。
 マッカーサーによると、このときの会見で、天皇は全責任を負う者として、私自身をご裁定に委ねる、とみずから語り、マッカーサーを感激させた。
 マッカーサーと天皇が並んで立つ写真は、占領下においても天皇制が維持されることを示していた。しかし、総司令部はその写真を差し止めようとした内務省への反発を強め、その内務省を放置している東久邇内閣に不信をつのらせた。
 治安維持法も維持され、政治犯はいまだに釈放されていない。GHQは日本政府に内務大臣の罷免と政治犯の釈放指令をすぐさま実行するよう求め、これにより東久邇内閣は10月5日に総辞職した。
 翌日、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)に組閣の大命が下り、10月9日に幣原内閣が成立した。
幣原といえば、満州事変以前の民政党内閣の時代に、外務大臣として英米寄りの外交政策をとった「幣原外交」の名で知られていたものの、もはや過去の人の感があった。幣原自身も高齢のため首相就任を辞退しようとする。だが、外相となる吉田茂と、内大臣の木戸幸一の説得に負け、「最後の御奉公」として組閣を引き受けることになった。
 幣原内閣は政策課題として、民主主義政治の確立、食糧問題の解決、復興問題、失業問題、戦災者の救護、行政整理、財政・産業政策、教育・思想問題などを掲げた。いずれも喫緊の課題である。
 これにたいし、10月11日に幣原と会見したマッカーサーは、憲法の自由主義化と思想・言論・宗教の自由推進を求め、さらに日本政府が速やかに実施すべき5項目について指令した。
 それは(1)婦人参政権による日本女性の解放、(2)労働組合の結成奨励、(3)学校教育の自由主義化、(4)秘密審問の廃止と国民を守る司法制度の確立、(5)経済機構の民主主義化の5項目からなっていた。幣原はマッカーサーにその実行を約束した。
 GHQは日本政府のたぶらかしを容赦しない。そのころGHQの主力は、新たに組織された特別参謀部の民政局(GS)に移っていた。その実際を担ったのが、民政局行政課長のチャールズ・ケーディスである。12月にコートニー・ホイットニーが民生局長に就任すると、民政局の活動はますます活発になった。
 何かと実行をためらいがちな日本政府にたいし、GHQ民政局は苛烈なまでに民主化改革を迫ることになる。その武器となったのが公職追放(パージ)であり、さらには新憲法制定の要請だった。
 憲法改正の必要性は日本側も早くから認識していた。幣原政権が成立したあと、内大臣の木戸幸一はとりあえず近衛文麿に憲法問題の調査をまかせることにした。幣原首相自体は、憲法は解釈しだいで運用できるので、あえて改正する必要はないと考えていたが、厚生大臣の芦田均の勧めもあって、10月13日の閣議で、国務大臣の松本烝治を委員長として憲法問題調査委員会を発足させることにした。いわゆる松本委員会である。
 できれば、憲法改正を回避したいのが本音だった。松本自身、憲法問題調査委員会は「必ずしも憲法改正を目的とするものではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要があるとすればその諸点を明らかにする」ことにあると語っている。
 しばらく表舞台から姿を消していた美濃部達吉が再登場するのはこのときである。達吉は親友の松本に乞われて、憲法問題調査委員会の顧問に就任することになった。すでに72歳になっている。
 顧問としては、達吉のほかに清水澄と野村淳治も任命された。清水は法学界の長老で、宮中とも関係が深い。野村も同じく法学者で、東大で国法学を教えていた。さらに、実際のとりまとめにあたる委員には、宮沢俊義(東大法学部教授)、清宮四郎(東北大学法文学部教授)、河村又介(九州大学法学部教授)のほか、法制局からも担当者が選ばれた。
 いずれにせよ、達吉はふたたび脚光を浴びることになった。達吉が憲法問題調査委員会の顧問になったことを聞きつけて、朝日新聞や同盟通信が達吉へのインタビューをおこなっている。達吉はそのインタビューのなかで、民主政治が阻まれたのは、憲法解釈と運営がまちがっていたからで、あえていま憲法を改正するには及ばないと話している。
 達吉はまた10月20日から22日にかけ、「朝日新聞」に「憲法改正問題」と題する論考を発表した。
 最初に次のような問いかけがなされている。

〈問題は主として二点にある。第一は憲法の改正は果たして必要であるや否や、たといその必要ありとしても、現在の情勢において直ちにその改正に着手することが果たして適当であるや否やの問題であり、第二は、もし現在において直ちに憲法を改正する必要ありとすれば、いかなる諸点につき、いかにこれを改正すべきかの問題である。〉

 憲法の改正は必要ない、たとえ必要だとしても現在の情勢においては改正に着手すべきではないというのが達吉の答えである。そうなると、第二の問いは自然消滅してしまうことになる。
 なぜ憲法改正が必要ではないのか。民主主義の実現は明治憲法でも十分可能だからだ、と達吉はいう。
ここで達吉のいう民主主義とはアメリカ流の民主主義ではなく、イギリス流の民主主義である。すなわち立憲君主制のもとでの民主主義だといってよい。

〈政治上の意義においての民主主義は、君主制の下においても十分実現せられうべきもので、法律上はたとい君主が一切の統治権を総攬し、国家統治の大権はすべて君主の名において行われるとしても、政治の実際においてもし君主が民の心をもって心となし、統治の大権がすべて民意に順(したが)って行われるとすれば、法律上には君主政であって、しかも政治上には民主主義に依(よ)るものに外ならぬ。〉

 ではなぜ、明治憲法のもとで、この十数年、日本が専制的軍国的状況に陥ってしまったのか。それは憲法が悪かったからではなく、憲法の真の精神が歪められ、不当な政治慣習や悪法が蔓延してしまったからだ、と達吉はいう。
 したがって、軍閥政治を解消し、議会の機能を復元し、悪法を取り除き、官憲による権力の濫用をやめさせ、学問と言論の自由を完全に確保するならば、かならずしも憲法を改正する必要はない、と達吉は論じる。
 また、たとえ憲法を改正するとしても、それには「慎重な調査と審議」を要し、さらに憲法に関連する多くの重要な問題を解決しなければならないのだから、現在のような「窮迫した非常事態の下においてそれを実行するのは、決して適当な時期ではない」と断言している。

〈これを要するに、憲法の改正は結局においては望ましいとしても、それはあえて急を要する問題ではなく、また短時日に成就し得られるべき事柄でもない。軽々にこれを実行することは、国家百年の大計を誤るもので、今日のごとき窮迫した情勢の下においてこれを着手することは、問題をあまりに軽視するものといわねばならぬ。〉

 これが憲法問題調査委員会顧問としての達吉の考え方だった。
 だが、それはGHQのとらえ方とは根本的に異なっていた。GHQは大日本帝国憲法こそが諸悪の根源であり、速やかに憲法を改正すること、もっとはっきりいえば新憲法をつくることこそが、日本の改革の第一歩だと認識していたのである。

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戦時下を生きのびる──美濃部達吉遠望(88) [美濃部達吉遠望]

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 1943年(昭和18年)2月に美濃部達吉は例年通り『公法判例評釈』を刊行する。公法判例はあくまでも行政にかかわる事例が対象で、直接、民事にかかわるものではない。いつものように行政裁判所と大審院が扱った判例が取り上げられているが、今回は昭和16年が対象である。
 通例なら、前年即ち昭和17年の判例を扱うはずなのに、半年遅れの発行になってしまった。1941年は2月に『日本鉱業法原理』を出版し、8月に昭和15年版の『公法判例評釈』を発行した。しかし、憲法史研究会での仕事や息子亮吉の裁判なども重なって、1942年(昭和17年)は新刊を1冊も出せなかった。
 1942年の前半、日本軍は連戦連勝で、帝国全土はわきたっていた。日本の勢力圏はインドシナ、ビルマ、マレー半島、シンガポール、オランダ領東インド(インドネシア)、フィリピン、ニューギニア、さらにガダルカナル島を含むソロモン群島までおよんだ。だが、6月のミッドウェー海戦で敗れたあと、アメリカの反攻がはじまる。国民にその事実は知らされなかった。
 東条英機内閣のもと、4月30日に衆議院は5年ぶりに解散され、翼賛政治体制協議会推薦の候補381人と非推薦候補86人が当選した。完全に一国一党体制が成立したわけではない。だが、軍の絶対優位は揺るがなかった。
 国内では経済統制が進んでいる。着るものについても切符制が採用され、配られた切符をもたなければ繊維製品が買えなくなった。日本銀行は完全に政府の統制下にある。産業や流通業の整理統合が強行され、企業も労働者も軍需産業にシフトする体制が組まれようとしている。
 行政裁判所も大審院も全体として判例が減少している。ただ大審院の刑事部判決だけが増えているのが、時局の影響だといえた。これは経済統制違反の取り締まりが進んだためである。
 行政裁判所の扱う問題は、いつものように税金に絡む問題が多い。漁業税や府県税の納入や滞納、租税賦課の取り消しに関する訴訟が後をたたなかった。
 大審院の民事部では、たとえば村長が村の名で銀行から借り入れをし、自らそれを消費してしまった場合、銀行は村に対し借金の返済を求めることができるかなどが裁判で争われていた。
 同じく刑事部では天理本道と称する宗教団体を治安維持法の結社と認定するかどうかの裁判も行われていた。軍事に関する妄説蜚語を記した文書を頒布したとして、出版者に不穏文書頒布罪を適用する事件もあった。
 経済事犯が増えていた。金融業の取り締まりも厳しくなっている。価格統制令の違反に対する摘発も進んでいた。
 そうした事例のすべてを達吉は取り上げ、事細かに論評を加えている。
 1943年(昭和18年)2月、大本営はガダルカナル島からの撤退を発表する。

〈ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降、激戦敢闘克(よ)く敵戦力を撃摧(げきさい)しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり。〉

 これ以降、当初の連戦連勝はうそのように消え去り、日本軍は相次ぐ「転進」を重ねるようになった。「玉砕」という文字も登場する。5月にはアリューシャン列島のアッツ島で、11月には中部太平洋のタラワ島で日本軍が玉砕した。
 太平洋戦争は巨大な消耗戦になりつつあった。多くの民間工場が軍需工場に転用され、橋の欄干や電車のレール、紡績の機械、お寺の鐘までが徴用されて、溶鉱炉に放りこまれた。企画院と商工省は廃止され、軍需省と名前を変えた。
 街や職場には「欲しがりません勝つまでは」というポスターが張り出されていた。隣組や愛国婦人会、国防婦人会が出征兵士を見送り、毎週のように防空訓練がくり返されるようになる。学徒動員もはじまった。
 米や麦、味噌、砂糖、酒、衣料品などはすでに配給制となり、切符がなければ手に入れられなかった。あまりにも量が少ないため、もっと欲しければ闇で買うほかなかった。
 1944年(昭和19年)にはいると、陸軍はビルマ方面軍を結成し、3月に北部インドのインパールを攻略する作戦を立てる。作戦は大失敗し、戦死傷者7万2000人にのぼる犠牲を出した。6月にはマリアナ沖海戦で敗れ、7月にはサイパン島、8月にはテニアン島、グアム島を失う。これにより日本本土全体がB29の爆撃圏内にはいった。
 7月17日に東条内閣は更迭され、代わって陸軍大将の小磯国昭が新首相に就任する。国内の統制を強め、フィリピンの決戦で勝利し、講和に持ちこむという甘い期待をいだいていた。
 だが、このころ国民は食べるものにも事欠く状況になっていた。配給の米だけではとても間に合わなかった。柳田国男もこのころの日記に「本は毎日読むが、身にならぬような気がする」、「食べ物が足りないので元気が悪くなった」などと書いている。
 街は荒廃し、モラルが崩壊し、泥棒が横行していた。勤労動員と学童疎開もはじまっている。
 1944年(昭和19年)9月に、美濃部達吉は有斐閣から『経済刑法の基礎理論』を出版する。経済刑法とは国家の統制経済に違反した者を罰する行政刑法のひとつである。
冒頭にはこうある。

〈経済刑法が国法上に顕著な地位を占め、広く学者の注意を惹(ひ)くに至ったのは、主としては支那事変以後、国民の経済生活がほとんど全面にわたって国家の統制に服するに至ったためである。平時にあっても国民の経済生活が全然国家の統制を受けないではないが、一般にいえば国民の私経済生活は原則としては契約の自由に任され、国家はこれに干渉しないのを普通としたのに対し、戦時に入り国民の総経済力を戦力増強のためになるべく有効に発揮せしむるためには、これを契約の自由に放任することを許さず、国家の権力をもってこれを指導し統制することが必要となるに至った。その結果は経済行政法が行政法中の顕著な一部を占むるものとなり、したがってまた経済刑法が行政刑法にも特に著しい一部門をなすに至ったのである。〉

 法学者流の堅苦しい言い方だが、要は戦時下で統制経済が実施され、それに違反した者を罰するために、罰則が強化されたというのである。
 経済刑法の特徴について達吉はこう述べている。
 第一はそれが国家総動員法と同じ「授権法」であること。これにより行政機関は法律にもとづかなくても国民に命令を発することができ、裁判所も法律にもとづくことなく違反者を裁量で裁くことができるようになった。
 第二に、その刑罰は普通の行政刑法に比べて、はるかに重い。それは経済刑法が厳罰主義をとっているためである。
 第三に、処罰は直接、罪を犯した従業者だけではなく、管理責任をもつ事業者にも及ぶこと。
 第四に、その取り締まりが民間の統制団体にも委託されていること。つまり、街総ぐるみの監視体制が生まれていたのである。
 経済刑法は、統制経済に違反した経済事犯に対する刑罰を定めたものだ。経済事犯は単なる刑事犯罪と行政犯罪とに区別される。刑事犯罪が社会的に見ても明らかな犯罪であるのにたいし、刑事犯罪は国家の命令に背く犯罪を指す、と達吉はいう。
 経済事犯の代表例としては闇取引が挙げられる。これは政府の価格等統制令に違反するもので、それが犯罪なのは「もっぱら戦時における国家の経済政策に違反し、国家の命ずる義務を守らなかった」ためである。その点からいえば、これは刑事犯罪ではなく、行政犯罪である。
 戦時中、経済事犯の数は実に数多くにのぼった。達吉はさまざまな事例を挙げて、経済刑法が不当に拡張解釈されていることが多いことを指摘している。
 表立っては言えないことながら、それは戦時中、国家、とりわけ軍がいかに横暴に経済を牛耳って、経済の形を歪めていたかを示していた。達吉による記録は、戦時中の経済統制の実態を研究するには、いまも必読の文献となっているといってもよいだろう。
 10月20日、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島に上陸を開始した。レイテ沖の海戦で、日本海軍は大敗を喫し、連合艦隊はほぼ全滅する。
 11月1日にはサイパンから発進したアメリカ軍のB29が東京上空に姿を見せる。11月24日の正午すぎから3時ごろまで、大きな空襲があった。このとき最大の標的となったのは、武蔵野町(現武蔵野市)の中島飛行機武蔵製作所である。130人以上が死傷している。だが、新聞やラジオでは詳しいことはまったく報道されない。士気の低下を恐れていたのだろう。
 中島飛行機への空襲は、その後も何度もつづけられた。工場は吉祥寺の美濃部邸から1キロほどの距離にあった。達吉は日記をつけていないので、そのころの様子はわからない。だが、もしずっと在宅していたとしたら、終戦まで、さぞかし不安な日々を過ごしていたにちがいない。
 達吉が最後の『公法判例評釈』となる昭和17年版を出版するのは、1945年(昭和20年)3月のことである。
 米軍は1月にルソン島に上陸し、北部山岳地帯に撤収した日本軍の掃討作戦を開始していた。硫黄島では2月から日米両軍による死闘がくり広げられた。
本土では米軍による空襲が激しさを加えていたが、そうしたなかで達吉は公法判例を評釈する仕事をつづけていたことになる。
 用紙不足により今回も出版が遅れた。度重なる空襲と高齢により、さすがに疲労の色が濃いことがうかがえる。
 この段階で3年前の判例を扱うのは、公法判例評釈の仕事を途切れさせたくないという律儀な性格によるものだろう。だが、3年前の判例にも、すでに切迫した戦時情勢がひしひしと感じられた。
 たとえば満蒙開拓義勇軍に入った男が、帰国した際、まわりにこんな話をばらまいた。営倉に入れられた奴はたいてい凍傷にやられて手足をダメにしてしまう。満州では防寒具なしに歩哨に立たされることがある。あまりにも悪い中隊長は部下に突き刺されたり鉄砲で撃ち殺されたりすることもある。
 男はそんなあることないことを喋ったところ、通報され、逮捕された。その結果、言論出版集会結社等臨時取締法により、有罪の判決を受けたことを達吉は記録する。太平洋戦争がはじまったころから、市井の与太話にも官憲と世間の監視の目が光るようになっていたのだ。
 金融犯罪や闇商売も数多く摘発されていた。経済統制に違反する事件が続出していた。達吉はそれらをことごとく記録し、戦時下の社会でどういう事件が起こっていたかを淡々と綴っている。
 だが、この昭和17年版で達吉が10年以上にわたった『公法判例評釈』の仕事を打ち切りにするのは、憲法にかかわる大きな仕事が回ってきたからである。
 8月15日、日本は敗戦の日を迎えた。

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太平洋戦争はじまる──美濃部達吉遠望(87) [美濃部達吉遠望]

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 1941年11月20日、美濃部達吉は約半年ぶりに憲法史研究会の第8回例会で講演会をおこなった。会場は霞が関の華族会館。今回のテーマは伯爵伊東巳代治遺稿「法律命令論」(法律篇・命令篇)についてである。
 憲法研究会は1899年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法の成立過程を明らかにする研究会だったといってよい。会を主催した伊東治正が、伊藤博文らとともに憲法起草に携わった祖父伊東巳代治の未発表文書を提供した。
「命令篇」はすでに1899年に公刊されていたが、「法律篇」は未公刊のままだった。達吉は両者で一体となる「法律命令論」を、今回の講演で論じたわけである。
 達吉は最初に「法律命令論」の意義を、こんなふうに論じている。

〈日本の憲法学説は不幸にして──私はあえてそう申しますが──穂積八束(やつか)博士によってはなはだしく歪曲された。しかもそれが相当にその後の学者に大いなる影響を与えたのでありますが、この「法律命令論」に関しましても、穂積博士は憲法上の大権事項という観念を新しく作って、いわゆる大権事項を規定するところの命令は、特に大権命令と称し、それらの大権事項については、勅令をもってのみ規定しうべきもので、法律をもっては規定することができない。すなわち大権命令と法律とは双方独立の関係にあるものであり、法律をもって大権命令を変更することができないという説を立てられております。……ところが伊東伯のこの「法律命令論」にはそういう観念は全然認められておらないのでありまして、いわゆる大権事項などというようなものは全然認めず、したがってまた大権事項は法律をもって規定することができぬというようなことは全然認めておらぬのであります。〉

 明治憲法によれば、天皇はその大権にもとづき、議会閉会時に緊急勅令(緊急命令)を発することができる。しかし、完全に独立した大権事項などというものはなく、その緊急勅令についても議会開会時にあらためて審議され、事後承諾されねばならず、場合によっては停止されたり否決されたりする。
 にもかかわらず、穂積学説は大権命令なるものがあるとして、それを法律に優先するものと考えている。それは伊東伯も述べているように、まちがいだと達吉は主張する。
 さらに、こう話している。

〈またこれはあまり外部に発表されては困る事柄ではありますが、岡田内閣の時分でありましたか、国家が統治権の主体である、天皇は国家の機関として統治権を総攬せられるのであるというような説をなすのは実に不都合であるというようなことを、二回まで公の声明として発表したことがありますが、この伊東伯の「法律命令論」によりますと、一番最初から法律は国家の意思であるということを幾たびも繰り返して申されておりました。しかも「法律篇」の一番初めのところに「君主は国家を代表して法律を裁可せらる」というようなことを明言されております。……人民の意思を含めて法律案というものが出来て、それを国家を代表する元首が裁可されて、それが国家の意思となるのであるというようなことを言われております。……[さらに]元首と議会とは共に立法の制定に与(あずか)る国家の機関であるということを言われているのであります。〉

 言いたいのは、天皇機関説を否定し、もっぱら天皇の主権を強調する二度の「国体明徴声明」は、明治の立憲精神を踏みにじるものだということである。だが、それは華族会館内の限られた参加者の前だけで言えることであって、軍事色が社会全体をおおういまの世の中で公言できることではなかった。
 こうした前置きを述べたあと、講演は「法律命令論」の中身を論じ、2時間近くにおよんだ。
 次に達吉が講演をおこなったのは、第9回例会のときである。はっきりとした日付はわからないが、おそらく1942年(昭和17年)の1月か2月のことだと思われる。そのときの議題は「枢密院における憲法草案の審議について」。
 その冒頭でこう話している。

〈憲法草案が枢密院において、いかに審議せられたかということは、枢密院が本来憲法及び皇室典範草案の審議のために特に新設せられたものであるという点からいっても、憲法の成立につき、すこぶる重要な地位を占めているわけで、その審議の模様については、私どもかねて何とかしてそれを知りたいものだと希望しておったのでありますが、ご承知のようにそれは秘密の中に閉ざされており、これまでは全くこれを知ることができなかったのでありますが、このたび伊東家の好意によりその議事筆記を拝見することができましたことは、私どもにとり、はなはだ仕合わせとするところであります。〉

 帝国憲法の成立経緯はこうだ。1887年(明治20年)春に伊藤博文を中心として、横須賀の夏島で、いわゆる「夏島草案」ができあがる。さらに草案が何度も推敲された末、憲法原案が翌年5月に発足した枢密院で6月18日から7月13日にかけ10回審議され、89年(明治22年)1月に最後の修正が施される。公布されたのは2月11日である。
 初代枢密院議長には初代首相を辞任した伊藤博文が就任し、枢密顧問官として、川村純義、福岡孝弟(たかちか)、寺島宗則、大木喬仁、副島種臣、土方久元、元田永孚など12名が任命された。これに内閣の各大臣も加わって、憲法をはじめ議院法や選挙法、皇室典範などの審議がおこなわれた。このとき伊東巳代治と金子堅太郎は枢密院書記官に任命され、同時に伊藤議長の秘書官を務めることになった。
 今回の講演で、達吉は伊東巳代治の遺したこのときの議事筆記により、枢密院における憲法草案の審議経過を詳しく説明したのである。これにより、枢密顧問官のあいだから原案にたいしてさまざまな意見が出され、多くの字句修正がなされて、7章76条の条項が確定することになった。
 議論がいちばん沸騰したのは議会の権限をめぐってだ、と達吉は説明する。原案では第5条が「天皇は帝国議会の承認を経て立法権を施行す」となっていたのを、審議では「承認」という言葉はけしからんという声が挙がって、あれこれもめた末、けっきょくのところ「承認」が「協賛」にあらためられ、「施行す」が「行ふ」に訂正された。
 ほかにも細々とした字句の訂正がなされた。予算に関する貴族院の権限、統帥大権と編制大権の関係、官制と任官の大権、緊急勅令、予算をめぐる問題、憲法と皇室典範との関係についても、いろいろと議論があったことを、達吉は事細かに紹介している。
 枢密院の審議をめぐる講演について、さらに詳しく述べる必要はないだろう。重要なのは、この講演から4年後、73歳になった達吉が思わぬことに枢密顧問官に任命されたことである。そのとき、明治憲法に枢密院がはたした役割に思いを馳せ、達吉は意外な行動をとることになるのだが、それは憲法史研究会での講演と奥の部分でつながっていたと思われて仕方ない。だが、そのことは戦後のその時点で、あらためて触れることにしよう。
 達吉がこの講演をおこなったときには、すでに太平洋戦争がはじまっている。
 1941年(昭和16年)12月8日、日本軍はハワイの真珠湾を急襲し、アメリカの戦艦8隻中5隻を撃沈するなど、多くの戦果を挙げた。南方攻略も開始されていた。10日未明には、マレー沖でイギリス戦艦のプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスの2隻が撃沈された。
 丸山眞男の証言によると、マレー沖海戦の勝利を知った達吉は大喜びしていたという。長いあいだ頭上をおおっていた厚い雲のかたまりが、あっというまに消えて、一挙に青空が広がったような気分だったのだろう。だが、それが束の間の喜びにすぎなかったことは、その後の暗くつらい日々が証明することになる。
 結果的にみれば、1940年(昭和15年)7月の第2次近衛政権発足以降、日本は太平洋戦争に向けて、悪いカードを切りつづけてきたといえる。日本では、イギリスはともかくアメリカとの戦争は絶対に避けるというのが、歴代政権の鉄則だった。それがなぜ、破れかぶれでアメリカとの戦争に突入することになってしまったのか。
 松岡洋右外相が日独伊三国同盟に加えて、1941年4月13日にソ連とのあいだに中立条約を結んだのは、4国の結束を強めて、アメリカとの戦争を避け、日中の和平をはかるためだったという。そのとき、近衛首相の主導で、日米間の下交渉もはじまっていた。
 ところが、思いもかけず6月22日にドイツのヒトラーがソ連への侵攻を開始すると、事態は大きく変化する。ヒトラーに心酔していた松岡は、突然、日ソ中立条約を無視しても、ソ連を撃つべきだと言うようになる。だが、あくまでも南進をもくろむ軍部は、松岡の主張をはねつける。
 あいだにはいって困りはてた近衛は、内閣総辞職の芝居を打った。これにより松岡は解任され、7月18日に第3次近衛内閣が発足した。
 ヒトラーのソ連侵攻を目の当たりにして、陸軍はじつは7月中旬から下旬にかけ、満州で74万人の大兵力を動員し、「関東軍特種演習」(関特演)を実施していた。演習だから戦争ではない。しかし、ソ連軍が極東から移動し、国境の戦備が半分になれば、ソ連に攻めこもうと計画していたのだ。実際にはそうならなかったため、関特演は大規模な演習だけで終わり、ソ連攻撃作戦は放棄された。
 それにより、軍は7月28日に南部仏印進駐(現在のベトナム南部)の道を選んだ。アメリカとの外交交渉はつづいていた。にもかかわらず、日本は既定方針どおり、将来の資源確保をめざして、強引な一歩を踏みだしたのである。
 仏印だけならアメリカも許容するだろうという甘い読みがあった。だが、アメリカは前年のくず鉄、銅などの輸出禁止に引きつづき、7月25日に警告として日本の在米資産を凍結し、8月1日に石油の輸出を全面的に禁止する措置に出た。
 9月6日の御前会議で、帝国国策遂行要領案が決定された。日米交渉で10月上旬までに日本側の要求が貫徹できるめどがつかないない場合は、対米(英蘭)開戦を決意するという方向が打ちだされた。
 近衛首相はルーズヴェルトとのトップ会談によって、事態を打開しようとする。だが、これはアメリカの受け入れるところとはならず、10月16日にまたも政権を投げだすことになった。そのあと、東条英機が首相の座につく。
 11月26日にアメリカのコーデル・ハル国務長官から日本側につきつけられたいわゆる「ハル・ノート」は、アメリカが日米交渉を打ち切るに等しい最後通牒となった。
 日本は追い詰められていく。そして、12月8日に日本軍はアメリカ、イギリス軍と戦闘状態にはいるのである。
 初期の戦果は赫奕(かくやく)たるものがあった。1942年(昭和17年)1月2日に日本軍はマニラを占領、2月15日にはシンガポールを陥落させ、3月1日にはジャワに上陸した。だが、6月5日のミッドウェー海戦で、日本軍は大敗し、状況は一気に反転する。大敗の事実は国民には知らされず、ほとんどだれもが、日本は勝ったものと思いこんでいた。

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憲法史研究会に参加──美濃部達吉遠望(86) [美濃部達吉遠望]

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 1940年(昭和15年)5月、ヨーロッパ戦線に大転換が訪れる。
 前年9月、ドイツはポーランドに侵攻し、秘密協定によってソ連とともにポーランドを分割した。これにたいし、イギリスとフランス、さらにベルギーとオランダが連合軍を組み、ドイツに宣戦を布告した。
1940年4月になって、ドイツはデンマークとノルウェーへの侵攻を開始する。だが、不思議なことに、西部戦線ではひたすらにらみあいがつづき、戦闘はいっこうにはじまる気配がなかった。
 5月になって、その均衡が一挙に破れる。ドイツ軍は5月10日、オランダ、ルクセンブルク、ベルギーに侵攻、ルクセンブルクは占領され、オランダとベルギーはあっという間に降伏した。ドイツ軍はフランスの築いた要塞マジノラインを迂回して、アルデンヌの森を突破、6月14日にパリを落とした。5月末、イギリスとフランスの連合軍はドーバー海峡まで追い詰められ、イギリス軍はかろうじてダンケルクから脱出した。6月22日、フランスはドイツに降伏した。傀儡のヴィシー政権がつくられる。
 日本では、米内光政政権がヨーロッパの戦争への不介入を宣言し、ドイツとの同盟条約を渋っていた。それにたいし軍からの批判が強まる。電撃作戦によるドイツの劇的な勝利をみて、陸軍は倒閣に踏み切った。7月16日、陸軍大臣の畑俊六は内閣に辞表を提出、後任の陸軍大臣を得られないまま、米内政権は倒壊した。
 そのあと、ふたたび首相の座に就くのが近衛文麿である。近衛は旧来の政党を排し、左右の革新勢力や内務官僚をまとめ、新たな政治組織をつくることを宣言していた。いわゆる近衛新体制運動である。それに軍部が共鳴した。
 早くも7月6日には社会大衆党が解党を宣言、それにつづいて政友会、国民同盟、民政党も次々と解党を宣言、日本では8月15日に政党がなくなる異様な事態となった。
 7月22日の第2次近衛内閣発足を前に、近衛は陸相になる東条英機、外相になる松岡洋右、海相に留任する吉田善吾と荻窪の荻外荘(てきがいそう)で会見し、きたる内閣の基本方針を定めた。それは日独伊枢軸の強化、対ソ不可侵条約の締結、東南アジア植民地の東亜新秩序への組み入れ、アメリカとの衝突回避というものだ。
 7月26日の閣議では、「基本国策要綱」として、「国内体制の刷新」と「強力な新政治体制の確立」が定められ、それが10月12日の大政翼賛会、11月23日の大日本産業報国会の結成へとつながっていく。
 いっぽう大本営政府連絡会議は7月27日に「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ドイツ、イタリアとの政治的結束を強め、日ソ国交を飛躍的に調整するとともに、支那事変の早期解決をはかり、仏印(フランス領インドシナ)、蘭印(オランダ領東インド[現インドネシア])など南方地域に進出するというものだ。
 9月2日、日本はヴィシー政権了解のもと、中国国境を越えて北部仏印(ベトナム北部)に軍を進めた。だが、在留フランス軍から意外な抵抗を受け、9月25日に武力進駐を強行する。
 9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟条約が調印される。この条約には国内から多くの疑問が出されていたが、松岡洋右外相は日本が毅然たる態度をとることが、むしろアメリカを冷静な態度に立ち戻らせるとの強気な認識を示し、条約締結に突っ走った。
 いっぽう、中国との和平交渉はうまく進展しない。南京では汪兆銘の国民政府が誕生し、日本は汪政権と日華基本条約を結んだものの、蒋介石の重慶政府とは戦争状態がつづいていた。
 11月10日には、宮城前広場で、紀元二千六百年式典が催され、帝国全土はにぎやかな奉祝気分と観光気分にわきたった。昭和15年は神武天皇が橿原で即位した年から2600年目にあたるとされていた。紀元二千六百年は帝国の前途を祝し、国民の一体感を盛り上げる一大行事となった。
 1941年(昭和16年)にはいると、社会全体への統制がますます厳しくなった。国家総動員法、治安維持法が改正強化され、世の中の雰囲気はますます息苦しくなっていく。言論が規制され、自由にものが言えなくなる。「贅沢は敵だ」という標語がまかり通るようになった。
 3月から4月にかけ、松岡外相はドイツ、イタリアを訪問する。ドイツでは大歓迎され、ヒトラーとも二度会見した。ヒトラーは松岡に日本が早くイギリスの牙城シンガポールを攻撃するよう勧めた。その帰路、松岡はモスクワに立ち寄り、スターリン首相やモロトフ外相と会って、電撃的に日ソ中立条約に調印した。このとき、松岡は日独伊ソが連合すれば、アメリカに強い姿勢を示すことができると同時に、重慶政府との和平を進めやすくなると思っていた。

 そのころ、美濃部達吉は憲法史研究会に出席するようになっている。自由な言論活動を封じられているため、執筆活動はほぼ『公法判例評釈』の仕事に限られている。大審院での公法判例を評釈するという地味な仕事だが、戦時行政の実態を記録する貴重な作業にはちがいなかった。
 これにたいし、達吉が顔を出すようになった憲法史研究会は、この年1月に発足したばかりで、その会長兼パトロンとなったのが、伊東巳代治(みよじ)の孫で37歳の伊東治正(はるまさ)伯爵である。
 伊東巳代治は、伊藤博文を中心として、井上毅、金子堅太郎とともに大日本帝国憲法をつくりあげた人物で、伊東家には伊東巳代治の文書が遺されていた。
 憲法史研究会の設立目的は「根本資料に基づき、帝国憲法の真髄を闡明(せんめい)に資する」ことで、事務局は伊東伯爵邸に置かれ、会場としては主に華族会館が用いられた。官憲が容易に踏み込めない場所である。
 研究会の会合はほぼ毎月、2年以上にわたって開かれ、ここで達吉は3回の講演をおこなっている。研究会のメンバーは尾佐竹猛、美濃部達吉、佐々木惣一、宮沢俊義、田畑忍、清宮四郎、岡義武、河村又介、田中二郎、柳瀬良幹、大久保利鎌、鈴木安蔵、稲田正次、川上多助、中野登美雄などといった法学者や歴史学者で、美濃部門下の法学者も多かった。
 この研究会で、達吉は4月19日に「伊東巳代治遺稿『憲法衍義(えんぎ)』について」と題して講演をおこなった。自由にものがいえる会場の雰囲気も手伝って、このときばかりは日ごろの鬱憤を晴らすかのように、思いの丈を述べている。
 憲法の評釈としては伊藤博文の『憲法義解』が知られていたが、伊東巳代治にも『憲法衍義』という著述があった。それは長く秘蔵され、私家版でしか出されていなかった。達吉は今回の講演で、その『憲法衍義』についての紹介と詳しい解説をこころみた。
 とりわけ重要なのは、達吉が憲法制定時に明治天皇の周囲で、神権的思想と立憲的思想という二つの対立した意見があり、それがその後もつづいていると指摘していることである。

〈……[前回の尾佐竹猛の講演記録によると]一つは元田永孚(もとだ・ながざね)によって代表せられる神権的思想と一は伊藤博文によって代表せられる立憲的思想とこの二つが相対立して、憲法の立案に際し伊藤さんが大変困られたというふうに拝見しましたが、それと同じような意見の対立は、憲法制定の後にもなお存続しておって、憲法の解釈に関しましても、一方には日本の憲法を全く西洋の憲法と違った独特のもののごとくに解釈しまして、天皇の大権を宗教的ともいうべきほどに神聖視しようとする考え方をとる潮流がありますとともに、一方には立憲的見解とでも言いますか、日本の立憲制度をやはり西洋諸国の立憲制度と類を同じうするものであると考える潮流がある。〉

 達吉は伊東巳代治の『憲法衍義』が立憲的な考え方に属するものだと評したうえで、「私はそれを正しい考え方であると信ずるものであります」と明言した。
 そのあと達吉はいささか脱線し、神権的な考え方を代表するものとして、昔の東大教授、穂積八束(ほづみ・やつか)の憲法解釈を取りあげ、これを鋭く批判することになる。
 現在がまさに「天皇の大権を宗教的ともいうべきほどに神聖視しようとする」同じ状況にあるとすれば、達吉の穂積批判はいまの風潮にたいする異議申し立てにつながっていることを、会場の参加者も痛切に感じたはずである。
 それはともかくとして、達吉は穂積学説の特徴を次のようにまとめている。
 第一に、ほんらい国がらを意味する「国体」という概念を特別視し、日本の君主政体を、何か「政体」以上の特別に神聖なものととらえていること。
 第二に、天皇が絶対無制限の権力としての主権を有していると考えていること。
 第三に、国民の政治参加を否定し、議会が国民を代表する機関であることも認めないこと。
 第四に、立法事項をきわめて限定し、天皇の大権事項に議会が関与できないとしていること。
 第五に、天皇の大権を神聖不可侵とし、詔勅についても全く批判を許さないとしていること。
 これらはすべて誤りだ。これにたいし伊東巳代治の『憲法衍義』は、ただしく立憲的な考え方に立っている、と達吉は評価する。

〈以上述べましたように、本書憲法衍義の大体の考え方はすこぶる立憲的でありまして、穂積さんによって代表せられ、またその以後の学者にも非常に大いなる影響を与えておりまする学説とは全く反対の立場にある学説であると思うのであります。その結果はこれまで行われておって誤った学説に対してこの書物は正しい憲法の解釈を伝えるために著しい効果を有するものであるというふうに考えられるのであります。〉

『憲法衍義』への批評は、さらにことこまかにつづけられる。いくつかの批判もなされた。伊東巳代治は、場合によっては天皇の養子縁組や女系天皇も認めているが、達吉はこれを認めていない。
 憲法史研究会は、言論を封じられた学者が自由に論議を交わすことのできるオアシスになろうとしていた。

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