SSブログ
美濃部達吉遠望 ブログトップ
前の10件 | -

憲法撮要──美濃部達吉遠望(46) [美濃部達吉遠望]

b443667359.2.jpg
 1923年(大正12年)4月末、美濃部達吉は有斐閣から『憲法撮要』を刊行した。そのいきさつを序文でこう記している。

〈本書は、著者が今年四月から再び東京帝国大学及び東京商科大学において憲法の講座を担任することとなったので、その教科書に充(あ)てるために編述したるものである。著者は一昨年から比較的浩瀚(こうかん)な「日本憲法」の著述に着手しており、第一巻だけは既に公にし、第二巻以下は目下起稿中であって、教科書を書くのはその研究が全部まとまってから後にするのが至当であるが、それはまだ数年の後を待たねばならず、一方には大学での講義の時間がはなはだ乏しいため、教科書の助けをからねば、その講義は極めて簡単なものに終らねばならぬ憾(うら)みがあるので、今年一月欧州から帰朝して後、急にこの書を著すことに決心し、二月中旬から起稿に着手し、昼夜兼行、三月末日をもってようやく全部を書き上げることができたのである。もとより充分の推敲の暇もなく、急速力をもって書き上げたのであるから、往々詳略宜(よろ)しきを得ないところがあるけれども、それは他日版を新たにする機会に譲るのほかはない。〉

 欧州出張から帰国早々、4月から東京帝国大学で憲法学講座が再開され、あわせて東京商科大学(現一橋大学)でも憲法学の講義をすることになったので、にわかに憲法解説の教科書をつくらなければならなくなった。2年ほど前から『日本憲法』という大著に取り組んでいるのだが、ひとまずそれをさておいて教科書執筆に専念した。わずかひと月半ほどで全速力で執筆したから、よく練りあげたものとはいえないが、改版のときに訂正を期したいというのである。
 ちなみに『日本憲法』は第1巻が出版されただけで、完成することはなかった。それにしても『憲法撮要』は600ページ近くあるから、その原稿をひと月半ほどで仕上げたとはにわかに信じがたい。欧州から帰国中の船のなかでも執筆が進んでいたのではないだろうか。
 1912年(明治45年)に出版された『憲法講話』につづき、1923年(大正12年)の『憲法撮要』は美濃部憲法学の代表作となり、1932年(昭和7年)まで5版の改訂を重ねている。そのかん改正箇所はごくわずかだった。
 家永三郎はこの『憲法撮要』と、1927年(昭和2年)の『逐条憲法精義』、1934年(昭和9年)の『日本憲法の基本主義』の3冊を美濃部憲法学の集大成としている。そして、1935年の天皇機関説事件のあと、まさしくこの3冊が発禁処分を受ける。1923年から1935年にかけ、時代は急転換したのである。
 明治末の『憲法講話』と大正末の『憲法撮要』とのあいだに大きな変化があったとすれば、日本における民主主義の進展がからんでいる。
『憲法講話』と『憲法撮要』とのちがいは、その目次からもうかがうことができる。「講話」では国家と政体につづいて、まず天皇が論じられていたが、「撮要」では国家と政体の説明につづいて、憲法の歴史的由来が説明され、日本国民、国民の権利義務の項目が天皇より先に論じられている。帝国議会と立法権、予算についても、多くのページが割かれている。また「講話」では論じられなかった軍の問題が「撮要」では大胆に取りあげられている。
 大日本帝国憲法自体は一度も改正されることはなかったが、達吉のなかでは、その解釈は議会を中心とする民主主義的な方向に深化していたといえるだろう。おそらく1922年(大正11年)の欧州体験が、達吉に国家制度のあり方を再考する機会と刺激をもたらしていたのである。
『憲法撮要』において、達吉は日本の政体を中央集権的な立憲君主制だとしなたがら、しかも君主主義の色彩が強いことが特徴だと論じている。問題は天皇自体の権力ではない。天皇の名の下で政治をおこなう機関の権力が強すぎることが問題だった。
 帝国憲法では権力分立を建前とするものの、政府と議会は完全に分離せず、立法にあたっても法律の裁可権を君主が留保している。議院内閣制はとられず、国務大臣はもっぱら天皇の輔弼(ほひつ)にあたることを任としている。軍の統帥権が天皇のもとに独立していることも特徴的だ、と達吉はいう。
 憲法では自由平等主義が認められているものの、それはけっして保障されているとはいえず、国民は法律の範囲内において自由を享受しうるとされているにすぎない。政治は中央集権的な色彩が強く、地方自治制度は地方的利益に関する行政においてしか認められていない。
 こうした記述は、まるで明治憲法体制の問題性を指摘したかのように思えてくる。大上段に振りかぶったわけではないが、『憲法撮要』で達吉が明治憲法体制の内的刷新を図ろうとしているのを読み取ることは可能だった。
 達吉が最初に述べようとするのは、国家における国民の地位についてである。
 兵役や納税の義務などからみても、国民が国家の統治権に服従すべきことはいうまでもない。だが、国民は服従するだけではない。一定の範囲において、国家の支配に服従しなくてもよい自由権を有している。さらに国民は国家にたいする一定の受益権、すなわち国家から利益を得る権利、また、国家を構成する一員として、国家の統治権に参与する権利をも有しているのだ。民事訴訟権、行政訴訟権や請願権、参政権などがそれにあたる。
「国民は国家に対し義務の主体たると共に、また権利主体たる地位を有す」ることを達吉は強調する。
 いっぽう国家は国民に対し無制限の命令強制権をもっているわけではない。それは制限されなければならない。国家の権利、逆にいえば国民の義務は法律によって定められることを原則とする。
「国民が国家の権力によりても侵害せられざる自由権を有せざるべからずとする思想は近代の立憲制度の最も重要なる根本思想」だと達吉はいう。
 国民は元来、国家によって侵害されることのない自由権を有している。その自由権には「居住移転の自由」、「逮捕、監禁、審問、処罰を受けざる自由」、「裁判官の裁判によるにあらざれば刑罰を受けざる自由」、「住所を侵されざる自由」、「信書の秘密を侵されざる自由」、「財産権を侵されざる自由」、「信教の自由」、「言論、出版、集会、結社の自由」が含まれている。国家は原則として、こうした国民の自由権を保障しなければならない、と達吉は断言する。
 国民の権利義務につづいて論じられるのが天皇についてである。
 帝国憲法ではさまざまな天皇の大権が定められている。なかでも重要なのは、天皇が国の元首として統治権を総覧するという国務上の大権である。この国務上の大権は、国務大臣の輔弼(ほひつ)をへて発揮される。その意味で、天皇は国の最高機関である、と達吉はいう。その大権は立法、行政、司法におよんでいる。
 だが、大権事項に議会が参与することは許されないとするのは、なんら根拠のない謬説だ、と達吉は明言してはばからない。議会の協賛によらず天皇が親裁するというのは、近代的な立憲政治とはいえない。議会は予算を審議し、立法をおこなうだけでなく、行政を監視するなど、広く一般の国務に参与する権能を有しているのだ。
 達吉は国政を運営するにあたって、議会の役割を強化することを求めていた。天皇の大権をかざして、政府が政治を壟断(ろうだん)することは認められない。
 天皇には陸海軍を統帥する大権がある。この大権は憲法によって定められているといっても、慣習と実際の必要にもとづき、国務上の大権とは区別されるものだ。統帥大権が存在するのは、軍の行動の自由と作戦の秘密にたいして、局外者の関与が許されないからだとされている。
 しかし、達吉は統帥大権の範囲は、軍隊の指揮と作戦に限定すべきだと主張した。宣戦や講和はもちろん、戒厳令の布告、陸海軍の編成、軍事予算などはすべて国務に関する事項で、統帥大権とは切り離されるべきだと主張している。この主張は本の最終章で軍隊を論じるときにもくり返されるだろう。
 達吉が天皇の代表機関のひとつとして達吉が摂政とその役割を取り上げるのは、当時、大正天皇が発病し、政務を取ることが不可能になり、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政の地位に就いていたからである。
 いうまでもなく帝国憲法では、天皇(場合によってはその代理としての摂政)が国務大臣を輔弼機関とし、枢密院を顧問機関として、国家を統治するかたちをとっていた。皇室の一切の事務を処理するための宮内省と宮内大臣、天皇の常侍輔弼にあたる内大臣も天皇の機関だった。さらに法律外の慣習としては、元老制度があり、内閣が総辞職した場合は、天皇の重臣である元老が後任の総理大臣を推薦する決まりになっていた。
 天皇の名の下に国家を統治する天皇の機関は強大な要塞となっていた。これにたいし、できうるかぎり帝国議会が国政への関与の度合いを高めていく方向を模索したのが、達吉の姿勢だったといえるだろう。
「帝国議会は国民の名において国務に参与し政府を監視する国家機関なり」というのが、達吉による議会の規定である。

〈専制君主政においては国家の一切の統治権が君主に専属するに反して、立憲君主政においては君主の外に国民の代表機関として議会を置き、これをして国政に参与するの権を有せしむ。立憲君主政は君民同治の政体なり、君主独り統治権を専行することなく、国民が共にこれに与(あずか)るの権を有することが、その専制政と分るる所以(ゆえん)なり。〉

 帝国議会は全国民の総代であって、天皇の統治機関ではない。あくまでも天皇の外にある独立機関である。議会の権能は直接憲法によって与えられ、何人(なんぴと)の指揮に服することなく、自由な意見にもとづいて独立した議決をなすものだ、と達吉はいう。
 求められているのは、選挙制度を拡充し、議会の権能を高めていくことである。国務上の大権に属する事項は国務大臣の責任の範囲に属するが、国務大臣の責任に属する事項は議会もまた当然これに参与する権利を持っているというのが達吉の考え方だった。言い換えれば、国家の統治行為にたいし、議会は協賛ないし承諾を示す(逆に示さない)権利を持っているのだった。
 それは緊急命令(勅令)についても言えることだった。緊急命令は議会の閉会時に、枢密院での諮詢(しじゅん)を経て発令することができるとされていた。だが、それは次期の議会で、必ず承認を求めることを要し、承認が得られなかった場合は取り消されねばならなかった。
軍についてはふつう言及を避けるものとされていた。ところが『憲法撮要』の最終章に記されている以下のようなごくあたりまえの文言が、のちに軍事体制が敷かれるにつれて、軍部の憤激を呼ぶことになる。
 達吉はこう書いていた。

〈軍隊は国家の設くるところにして軍の編成を定むることは国家の行為なること言を俟(ま)たず。軍隊の行動を指揮し、その戦闘力を発揮することは、軍令権の作用に属し、内閣の職務の外にありといえども、軍の編成は内閣の職務に属すること他の一般国務に同じ。ただ従来の我が実際の慣習は必ずしもこの原則に従わず、軍の編成に関しても内閣の議を経ざるもの多し。〉

 達吉は軍政と軍令を区別し、軍の暴走に歯止めをかけようとしていた。軍が統帥権の範囲をほしいままに拡大し、天皇の名の下に内閣さらには議会の関与を拒否しようとすることは、けっして認められない。
『憲法撮要』の撮要とは、摘要、すなわち要点だけを書き記したものを意味する。だが、そこには憲法解釈を刷新しようとする気配が濃厚にただよっていた。

nice!(5)  コメント(0) 

ワイマール憲法をめぐって──美濃部達吉遠望(45) [美濃部達吉遠望]

Paul_Hoeniger_Spittelmarkt_1912.jpg
 日本に帰国して早々の1923年(大正12年)2月1日に、美濃部達吉は東京帝国大学の法理研究会で「独逸[ドイツ]新憲法に就いて」と題する講演をおこなった。その内容が『国家学会雑誌』の3月号と6月号に掲載されている。
 これを読むと、達吉がワイマール憲法のどのあたりに興味をもっていたかを知ることができる。その内容をかいつまんで紹介しておこう。
 達吉の講話は、憲法公布以来のいくつかの改正点の解説を含むものだったが、そこまで細かくみていく必要はないだろう。
 ただ、次のように述べていることが注目される。

〈日本の憲法の如き制定以来既に34年を経て未だ1回の修正を加えられず、またいつ修正せられる機運に達するかも予期しがたいのに比べると、発布以来、僅々2、3年ならずして、既に一再ならず改正せられたということは、異様に感ぜられるようでありますが、これはドイツ憲法の内容が日本の憲法などよりははるかに詳細であり、ことに多くの経過法を含んでいること、ドイツが戦敗以後、引きつづき未曾有の国難に遭遇し、予期せられない事変や国際関係などが頻発して憲法の改正を余儀なくしたこと、日本におけるような憲法がひとたび制定せられた上は千載不磨の大典のごとくに考え、憲法を極度に固定的のものたらしめようとする感情が欠乏していることなどに原因しているのであって、あえて新憲法が革命の際、軽率に議決せられたがためとか、または国民の輿論が変わったがためとか言うのではありませぬ。〉

 達吉は憲法が時代に応じて改正しうるものであることを認めていたといえるだろう。
 そのうえで、まず達吉が注目したのは、旧ドイツ帝国と新生ドイツ国のちがいである。
 旧ドイツ帝国は君主的連邦国家だった。帝国は25邦から構成されていた。そのうちハンザ自由市の3邦を除いて、22邦はすべて君主国だったと達吉は指摘する。
 だが、それは対等な諸邦の結合体ではなく、あくまでもプロイセンの領主権のもとに服属していた。すなわち、プロイセン国王がドイツ皇帝を兼ね、プロイセンの総理大臣が帝国の宰相を兼ねることが憲法(いわゆるビスマルク憲法)で定められていた。
 新憲法(ワイマール憲法)では、そうした点が改められた。プロイセンの優位性は排除され、ドイツは君主的連邦から民主的連邦に変わった。革命によって、帝国においても、各邦においても君主制は廃止された。
 だが、民主政体がただちに確定したわけではない。革命党のあいだでは、ふたつの相異なる主張があった。達吉の呼び方では「極端社会党」のカール・リープクネヒトは、労農会を設立し、プロレタリア独裁体制をとるべきだと主張した。これにたいし、多数派の穏健派はできるだけ早く国民議会を開いて、民主政体を樹立すべきだという立場をとった。
 最初、ベルリンでは労兵会が設立され、仮政府がつくられたものの、急進派と穏健派の対立は高まる一方だった。しかし、けっきょく急進派の主張は退けられ、1919年1月19日に国民会議の総選挙が行われることになった。選挙の結果、労兵会は解散され、2月6日からワイマールで国民会議が開かれることになり、8月11日に憲法が議決されるにいたった、と達吉は解説している。

〈これを要するに、[1918年]11月9日にドイツの旧君主政が破壊せられたのち、約3ヶ月の間、一時の過渡期として無産者専制主義に基く労兵会制度の共和政が行われていたのが、2月6日に国民会議が開かれて最高の権力を掌握することとなったことによって、民主政体が確定したものと言ってよいのであります。〉

 1月にカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクらの「スパルタクス団」が鎮圧され、ふたりとも殺害されたことには触れていない。
 達吉はワイマール憲法の民主的特徴を列挙している。

(1)連邦議会議員だけでなく大統領をも国民が選挙で直接に選ぶようにしたこと。
(2)立法に関する国民の発案権が認められていること。
(3)場合によっては国民投票の実施が定められていること。
(4)大統領に対する国民のリコール権が認められていること。
(5)国民の代表会議である連邦議会が最高主権者であることが明確にされたこと。そのいっぽう、各邦の代表によって構成される参議院の権限は大幅に弱められたこと。
(6)議院内閣制を基本とすることが定められたこと。
(7)満20歳以上のドイツ人たる男女に選挙権が認められたこと。
(8)プロイセンの優先権、ならびに各邦の特権が廃止されたこと。

 こうして、新生ドイツ国が世界でも最も民主的な国家へと変貌したことを達吉は強調している。
 しかし、達吉はワイマール憲法のもう一つの特徴が、統一主義、中央集権主義の強化にある点を指摘するのを忘れてはいない。
 旧帝国時代は、帝国だけではなく帝国を構成する各邦も一定の立法権をもっていた。これにたいし、新憲法のもとでは、国の立法権の範囲が拡張された。
 対外関係に対する立法権は国だけが占有することになり、バイエルン王国がもっていたような各邦の外交権は失われた。
 兵役制度や外交権、郵便制度なども、国のもとに一元化されることになった。さらに国の法律が各邦の法律よりも強い効力を有することが定められた。租税権もその一つで、それによって国の財政的独立性が保証されるようになった。福祉の増進や安寧秩序の保護についても、国に権限があることが認められた。
 国における立法権の強化は行政権の範囲拡張にもつながっている。
たとえば、従来、軍政は各邦にそれぞれ陸軍省が設けられていたものが、各邦の陸軍は消滅して、国の陸軍だけが存在し、大統領が全陸軍に対する最高命令権を有するようになった(海軍は以前から国の指揮下にあった)。
 財政の権限は著しく拡張された。従来、国は関税と消費税だけしか徴収できず、直接税はもっぱら各邦に委ねられていた。それが新憲法のもとでは、租税の徴収と管理はすべて国がおこなうことになり、それまでのような各邦の分担納付金は廃止されることになった。
 交通行政についても、各邦のおこなっていた郵便、電信、電話事業は国の専属となった。外交業務が国に一元化されたこともいうまでもない。
 各邦の自治権が縮小され、各邦に対する国の監督権が拡張された。それと同時に各邦は自主的立法権を抑えられ、国の憲法にしたがって、民主的共和政体をとるべきことが定められ、連邦議会ならびに地方議会の選出は、比例制にもとづき男女平等の普通選挙の形態をとることとなった。
 各邦にたいする政府の監督権が強化された事例として、達吉は次のようなケースを挙げている。かつては、帝国政府とプロイセン政府の首脳が同じであったため、プロイセンに対しては帝国政府の監督権が及ばなかった。ところが、新憲法のもとでは、プロイセンに対しても他邦に対するのと同じように、政府の監督権が及ぶようになったというのである。
 連邦政府の行政権が強化されたということは、大統領の権限が強まったことを意味する。大統領は皇帝と同様の権限をもっていた。首相の任免権、国会の解散権、憲法停止の非常大権(緊急事態条項)、国軍の統帥権などである。のちにこれがヒトラーとナチ党の進出につながることを予測する人はほとんどいなかっただろう。その経緯については、あらためて述べなければならない。
 1923年の時点で、むしろ達吉が注目したのは、ワイマール憲法下での選挙法だった。
新憲法のもと、ドイツでは大統領と連邦議会議員が選挙によって選ばれることになった。
 当時の大統領は社会民主党出身のフリードリヒ・エーベルトで、国民の投票で大統領が選ばれるのは次期大統領からだった。
 20歳以上の男女が選挙権をもつ総選挙は、1919年以降、1922年までにすでに2回行われていた。選挙権が男子と女子とにあまねく認められた結果、全人口に対する有権者の割合は6割以上に達し、1919年の投票率は84.2%だったという。
 新生ドイツの選挙は比例選挙法をとっていた。1919年の選挙では、ドイツ全国を36の選挙区に分かち、少ない区では6人、多い区では17人が選出された。比例選挙はいわゆる拘束名簿式をとり、ドント方式で票を割り当てた。その欠点についても達吉は指摘しているが、比例代表制が完全な制度であるかどうかは別として、ドイツの選挙法は十分検討に値するものだと述べている。
 比例代表制の長所は死票が少なく、民意が正確に議会に反映されることである。いっぽうその欠点は小党分立を生じやすく、議会運営がむずかしくなることだった。それでも、達吉は日本でも比例代表制による普通選挙をめざすべきだと主張しており、ワイマール憲法下の選挙法には強い関心をもっていたことがうかがえる。
 しかし、その後10年のあいだにドイツはファシズムの扉を開け、日本は大陸侵攻に舵をきっていくことになるのである。

nice!(10)  コメント(0) 

欧州出張とワイマール憲法──美濃部達吉遠望(44) [美濃部達吉遠望]

200px-Weimar_Constitution.jpg
 宮先一勝氏の『評伝 美濃部達吉』にはこう書かれている。

〈達吉は、大正11年[1922年]3月から12月まで欧州へ出張している。旅先(ドレスデン、デュッセルドルフ、ロンドン、ブダペスト等)から民子夫人宛に絵はがきで、当時の第一次世界大戦直後のヨーロッパの混乱や街の状況を具(つぶさ)に報告している。そして翌年、「欧州諸国戦後の新憲法」や「憲法撮要(初版)」を刊行し、大正13年には東京帝国大学法学部長(九州帝国大学法学部長兼任)に任命された。〉

 宮先一勝、田中由美子編『美濃部達吉博士関係書簡等目録』によると、達吉から民子夫人に宛てた絵はがきは22通残されており、そのうち1通は地名、日付が不明とはいえ、これをたどれば達吉がどこを訪れたかがわかってくる。
 残念ながら、目録にははがきの中身まで収録されていないので、達吉が「第一次世界大戦直後のヨーロッパの混乱や街の状況」をどんなふうに伝えていたかは、詳しいことがわからない。そのうち、いなかに帰った折にでも、現物をみせてもらい、その中身を紹介することができればと考えている。
 それはともかく目録に沿って列記すると、下関(3月24日)、上海(3月28日、29日)、香港(4月2日)、シンガポール(4月10日)、プラハ(6月3日)、ドレスデン(6月29日)、ブランデンブルク(8月10日)、デュッセルドルフ(8月20日、30日)、パリ(9月10日)、ヴェルサイユ(9月11日)、ロンドン(9月26日、10月2日)、ブダペスト(10月20日、30日)、リヨン(11月18日)といった地名が記されている。国でいえば、チェコスロヴァキア、ドイツ、フランス、イギリス、ハンガリー。日本に帰国したのは1923年(大正12年)1月である。
 第一次世界大戦の帰結はヨーロッパに大きな近く変動をもたらした。
 ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマンの3帝国は敗戦国である。ロシア帝国では革命が発生した。その結果、4つの帝国は解体され、皇帝が退位し、ヨーロッパでは、そのなかから多くの独立国が生まれた。
 ポーランド、オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキア、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(のちユーゴスラヴィア)、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、フィンランドである。
 帝国が解体されたあとは、とうぜんのように民主化が進むものと期待された。ところが、そう簡単に、ことは進まない。
 第1次世界大戦の終結から第2次世界大戦の開始までの1918年11月11日から1939年9月1日までの期間は一般に戦間期と呼ばれるが、その時期はけっして平穏ではなく、つねに戦争の影がつきまとっていた。
 この時期について、歴史家のノーマン・デイヴィスはこう書いている。

〈戦間期の政治力学を支配したのは、自由民主主義が独裁主義の餌食になるという光景の繰り返しである。西側列強は自分たちの勝利によって、みずからの姿をモデルとした時代が始まることを期待していた。大戦開始時にヨーロッパ大陸には、19の君主国と3つの共和国があったが、終戦時にはそれが14の君主国と16の共和国になっていた。ところが「民主的改革」は錯覚にすぎなかったことがすぐに明らかになる。民主国家がいろいろなタイプの独裁者に踏みにじられなかった年は1年もないくらい。……ありとあらゆる種類の独裁者が現われた。共産主義者、ファシスト、急進派、反動主義者、左翼権威主義者、右翼軍国主義者……。かれらの唯一の共通点は、西欧民主主義は自分たちのためにはならないという確信だった。〉

 歴史は同時代的に動いていく。日本の大正デモクラシーにも暗雲がただよいはじめる。
 ここで事実関係についていうと、達吉が『欧洲諸国戦後の新憲法』を有斐閣から上梓したのは、帰国後の1923年(大正12年)1月ではなく、訪欧直前の1922年(大正11年)1月だった。つまり、達吉は欧州視察に出向く前に、世界大戦後、敗戦によって生まれた新生国の憲法を訳出していた。具体的には、ドイツ憲法、プロイセン憲法、チェコスロヴァキア憲法、ポーランド憲法、オーストリア憲法である。それらを予備知識として、達吉は欧州歴訪の旅にでたといってよい。
『欧洲諸国戦後の新憲法』には何の解説も施されていない。新憲法の条文が淡々と訳出されていた。しかし、帝国が崩壊し、皇帝がいなくなった国の新憲法については、少なくとも法学者なら強い関心を寄せるところだったにちがいない。
 なかでもドイツ憲法、通称ワイマール憲法には、大きな興味がいだかれてしかるべきだった。皇帝なきあと、はたして国家の運営はうまくやっていけるものなのだろうか。そのころは、まだワイマール体制のなかからヒトラーのような独裁者が浮上してくるなどとは、だれも夢にも思っていなかった。
 1919年8月に制定されたワイマール憲法の前文を、達吉はこう訳している。

〈ドイツ国民はその各民族相共同し、かつ自由と正義とによりて国家を改造し、これを強固にし、国内および国外の平和を保持し、および社会の進歩を促さんことを欲し、ここにこの憲法を制定す。〉

 第1条は「ドイツ国は共和政体とす。国権は国民より発す」という宣言である。
 達吉の訳によれば、ワイマール憲法は全181条の詳細な規定からなる。その大きな内訳は次の通り。

第1篇 ドイツ国の構成および権限
 第1章 ドイツ国および各邦
 第2章 国議会(ライヒスターグ)
 第3章 国大統領および国政府
 第4章 国参議院(ライヒスラート)
 第5章 国の立法
 第6章 国の行政
 第7章 国の司法
第2篇 ドイツ人民の基本権および基本義務
 第1章 個人
 第2章 共同生活
 第3章 宗教および宗教団体
 第4章 教育および学校
 第5章 経済生活
経過規定および附則

 達吉は実質半年足らずのヨーロッパ滞在中、3カ月近くをドイツですごした。敗戦後のドイツが苛酷な状況に置かれていることを痛感したのではないだろうか。
 ヴェルサイユ講和条約は、誇り高いドイツ人の多くに屈辱感を覚えさせていた。ドイツにたいする懲罰と賠償はあまりに露骨だった。
 敗戦によりドイツは東部の農業地域、工業地域を中心に13%の国土を失った。重要な港ダンツィヒ(グダニスク)はポーランドに包摂され、石炭と鉄鉱石を埋蔵するザールラントは実質上フランスの管理下に置かれた。非軍事化が進められ、徴兵制は廃止され、陸軍と海軍は極端にまで削減され、空軍は禁止された。これに加え、1320億金マルクという気の遠くなるような賠償金が課されることになった。
 ワイマール憲法下で発足したドイツの民主主義体制は当初から大きな危機にさらされていた。
ヒトラーが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導者になったのは1921年のことである。その勢力は南部のバイエルン州を中心として急速に拡大していくが、達吉がドイツを訪れたころ、ナチ党のメンバーはまだ2万人ほどだった。
 左翼は議会制民主主義を支持する多数派(社会民主党)と徹底したソヴィエト型革命を求める少数派(ドイツ共産党)に分裂し、鋭く対立していた。
 1920年3月には、ヒトラーとは別の武闘派右翼の過激派が政府転覆を企てるが、失敗に終わっている(カップ一揆)。
 ザクセン、チューリンゲン両州、ルール地方などでは、労働者の「赤軍」と政府軍が激しく衝突した。
右翼テロが横行した。経済人でヴィルト政権の外務大臣を務めていたユダヤ人、ヴァルター・ラーテナウは、1922年6月にベルリン郊外で極右テログループによって暗殺されている。
 それでも、1922年の時点では、社会民主党とカトリック中央党を中心に、ドイツの民主主義体制はかろうじて維持されていた。
 達吉はそんなドイツを見たのである。

nice!(9)  コメント(0) 

原首相暗殺事件──美濃部達吉遠望(43) [美濃部達吉遠望]

1024px-The_scene_of_Hara_Takashi_assassination.jpg
 1920年(大正9年)2月26日、原敬は衆議院を抜き打ち解散した。
 公債発行による積極財政をとったため物価が上がっている。日本経済は好景気にあるとはいえ、賃金上昇を求めてストライキが多発していた。
 欧州大戦が終わったのだから軍備縮小の動きがでてもいいはずなのだが、実際は逆で、日本の軍備刷新と国民動員強化を求める声が強くなっていた。
 国防費の増強をはからなければならない。鉄道の建設や電信電話の整備、道路改良にも多くの予算が必要になってくる。労働政策や社会政策は後回しになる。
 そんななか、野党の憲政会(党首は加藤高明)と立憲国民党(党首は犬養毅)、新政会は、こぞって男子普通選挙法案を提出した。上野公園や芝公園では普通選挙を求める大集会が開かれ、衆議院での審議がはじまる2月14日には日比谷の帝国議会を群衆が取り囲んだ。
 議会では普通選挙をめぐり、反対、賛成の立場から議論がかわされたが、原は普通選挙の是非を国民に問うとして、衆議院の解散に踏み切った。
 美濃部達吉は4月発行の雑誌『太陽』に「衆議院の解散」と題する一文を掲載し、原敬の姿勢を批判している。

〈今回の解散ほど、何人(なんぴと)も解散を予期していなかった時にあたって、突如としてその大命が下され、しかもそれが何の理由のために下されたのであるか、ほとんどまったく合理的の根拠を求むることのできない場合は、世界の議会歴史においても、まれに見る例であろうと思う。〉

 今回の解散理由がまったく理解できないというのだ。憲法に違反していなくても、それは権力の濫用であり、不当な行為、非立憲的な行為だ、と達吉は断言する。
 原首相は普通選挙について民意の判断を問うことが解散の理由だという。しかし、それはとうてい納得しがたい。選挙法はすでに昨年改正され、納税要件を下げて選挙人を拡大し、小選挙区制を実施することが決まっている。これにたいし、野党はさらに普通選挙の実施を求め、法案を提出したのだが、これに反対する政府は解散して、民意を問うという。それはまったく解散の理由になっていない。

〈何ら民意の代表について疑いを抱くべき根拠のなきにもかかわらず、これを断行し、これがために予算を不成立に終わらしめ、幾多の重要なる法律案を葬るのやむを得ざるに至らしめたことは、その責任軽からずというべきである。〉

 そんなふうに達吉は原首相による突然の解散を批判した。
 いずれ日本も普通選挙を実施せねばならぬことはわかっている。しかし、時期尚早というのが原の考えだった。何よりも、昨年成立した選挙法改正による小選挙区制の選挙が一度もおこなわれていない。しかも、政友会は議会での過半数を確保していない。盛り上がる普通選挙運動を沈静化させることも目的だった。普通選挙は口実にすぎない。原は総選挙の機会をうかがっていた。
 帝国憲法では議会で予算が成立しない場合、政府は前年度の予算を施行すると定められている。解散前に原は加藤海軍大臣と田中陸軍大臣に了解をとった。予算成立を流しても、原が解散を断行したのは大きな賭けにちがいなかったが、勝算はあった。
 枢密院との打ち合わせが不備だったため、けっきょく選挙は5月10日にずれこむが、原の思惑どおり政友会は圧勝し、464議席のうち278議席を得て、絶対安定多数を確保した。
 巨大与党が生まれた。しかし、議会運営が楽になったわけではない。野党の憲政会、国民党が食いついてくる。
 世間では過熱した投機熱が異常な好景気を生んだあと、その反動で株価が暴落し、戦後の恐慌がはじまっていた。3月にはシベリアのニコラエフスクで日本人730人がロシアのパルチザンによって虐殺される事件も起きていた(尼港事件)。
 選挙後に開かれた議会で、大蔵省出身で憲政会の浜口雄幸(おさち)は、政府の財政金融政策を批判した。同じく憲政会の永井柳太郎は「西にレーニン、東に原敬」と演説をぶち、レーニン政権が労働者階級による専制であるとすれば、原政権は資本家階級による専制にほかならぬと揶揄した。
 大蔵大臣の高橋是清をはじめとする3閣僚に、株式売買をめぐる汚職の疑いありとの告発もだされる。政府は即座にその疑惑を打ち消した。
 1921年(大正10年)1月、美濃部達吉は『東方時論』に「一九二一年の問題」(のち「我が憲政の将来」と改題)と題する論説を掲載した。
 この年から東京帝国大学の入学時期は、政府の会計年度にあわせて9月から4月に変更される。その前年9月から達吉は東京帝国大学法学部(法科大学を改称)に新設された憲法第2講座を兼任するようになっていた。
 達吉はいう。議会はいま国民の失望を買っている。立法機関といいながら、法律の知識がある議員は少なく、その実態は政府の立案起草する法案に同意か不同意かを機械的に表明するにすぎない。もっとも重要な予算審議についても、予算の内容を理解している議員は少なく、財政の監督をはたしているとはいいがたい。「議員は予算の正否を監督するよりも、むしろ自分の選挙区の地方的利益のために、少しでも多く国費を支出することに熱心である」
 政党の弊害も甚だしい。議員の議決は自由意思ではなく、党議によって縛られている。その党議も必ずしも公平とはいえず、党派的な思惑にもとづくことが多い。党利が優先され、国益が損なわれる事態もしばしばみられる。
 議会が真に国民の意見を代表することは、事実上不可能である。議会はどちらかといえば資本家階級の代表に偏しやすく、中産階級や無産階級がこれに不満を抱くのは当然のことだ、と達吉はいう。

〈議会制度はかくの如き弱点を有するものであるから、世人の多くが議会に対して絶望の念を抱き、議会を廃止してこれに代うるに他の適当の手段をもってしようとするに至ったのは、あえて怪しむに足らぬ。しかしながら議会制度を廃止して、ほかにこれに代わるべきいかなる手段があるかと言えば、不幸にして適当なる何らの制度をも見いだすことができぬ。〉

 議会制度には多くの欠点があるが、残念ながらこれに代わるものはない、と達吉は断言している。官僚政治はまったく問題外だ。
 大政治家が起こって、国家の重責を担い、国民を満足させるような独裁政治をおこなうのなら、それは理想に近いかもしれないが、そんな政治家の出現は望みがたいし、制度として維持できるものでもない。
 国民が政治的に自覚した近代においては、いかなる哲人であっても、いかなる聖雄であっても、国民はこれにたいし永く服従に甘んずるものではない。いっぽう、直接民衆政治、たとえば国民投票による政治、労働者による直接支配も国家や社会の混乱を招くだけだろう、と達吉はいう。
 議会制度はけっして理想的なものではない。しかし、多くの欠点があるにせよ、これに代わるべき制度が見当たらないとすれば、当面、これを維持するほかない、と達吉は断言する。
 実は議会の最大の役割は、政党の勢力にもとづいて内閣を組織すること、そのいっぽうで内閣を監視すること、質問その他によって、内閣の施政を批評し輿論の喚起をはかること、場合によっては内閣に不信任を突きつけることにある。何よりもおおやけの場で議論がおこなわれ、いま政治の場で何が起こっているかを知らしめ、国民の自治的精神に寄与することこそが、議会の価値なのだ、と達吉はいう。
 それでも現在の議会制度には大きな欠点があり、多くの改善の余地がある、と達吉は指摘する。問題はいまの議会が資産家階級の利益を代表し、無産者階級の利益を反映していないことだ。それを改善するには、普通選挙制を採用するほかない。選挙の費用を考えれば、比例代表制を採用すべきである。
 政府が警察権によって選挙に干渉することを防ぐこと、府県知事を公選とし地方自治を促進すること、議員の発言表決の自由を認めること、政党資金の規制を図ること、議会の調査権を確立すること、貴族院や枢密院のあり方を検討することもだいじだと述べている。
 第44議会は1920年(大正9年)12月27日に開会し、翌年3月26日に閉会した。前年度から16%増の積極予算が可決され、臨時軍事予算追加も認められ、郡制廃止法案、国有財産法案、米穀法案、航空法案が議会を通過した。
 しかし、議会運営がスムーズに進んだわけではない。議会は大荒れに荒れた。野党からはまたも普通選挙法案が出されたが、ただちに否決された。それでも野党はひるまない。13の政府反対建議案が出され、かずかずの暴露合戦がくり広げられた。満鉄からの選挙資金提供や関東庁のアヘン取引疑惑、東京市のガス料金値上げをめぐる贈収賄なども取りあげられた。
 達吉は裁判制度に陪審制を取り入れる法案が提出されることを期待していたが、この法案は枢密院で止まり、議会で審議されなかった。
 そのころ、世上では、皇太子妃候補に色覚異常の遺伝があるのではないかという疑惑が取り沙汰されていた。あげくのはてに原首相の女性問題もうわさされるほどだった。
 数のうえでは原政権は安定しているはずだった。だが、世界大戦後の政情は波乱に満ちていた。大正天皇の病状も思わしくなく、摂政を立てねば国政に支障をきたすほどになっていた。
 摂政になるのは裕仁皇太子(のちの昭和天皇)以外に考えられないが、原には摂政就任前に皇太子に広く世界を見ておいてもらいたいとの思いがあった。その願いがかなって、1921年(大正10年)3月から半年間、皇太子は訪欧の旅に出ることになった。日程の都合上、アメリカには立ち寄れない。
 11月からはワシントン会議がはじまる。アメリカが国際連盟に加入しなかったため、極東における国際秩序の枠組みを定めるためにも、日本とアメリカの協議は欠くことができなかった。
 原は首席全権に加藤友三郎(海軍大臣)、幣原(しではら)喜重郎(駐米大使)、徳川家達(貴族院議長)を任命し、10月に外交代表団をアメリカに送りこんだ。原自身が行くべきだという声もあったが、課題が山積しているため原は国内にとどまった。
 その矢先、11月4日に事件はおこった。
 午後7時すぎ、夜行列車で政友会近畿大会に向かおうとしていた原は、東京駅の乗車口手前で、群衆のなかから飛び出してきた18歳の青年に刺され、死亡した。享年65歳。
 犯人の青年の名は中岡艮一(こんいち、1903〜80)。山手線大塚駅で転轍手(てんてつしゅ)をしていた。新聞や雑誌を読んだり、駅の上役の話を聞いたりして、原の財閥寄りの政策、尼港事件への対応、さまざまな汚職事件に憤りを感じていたという。
 9月28日に発生した朝日平吾による安田善次郎(安田財閥の総帥)暗殺事件に刺激され、原首相の暗殺をくわだてたと伝えられる。
 議会政治否定のロマン的衝動が、思わぬところから噴きだしはじめていた。

nice!(10)  コメント(0) 

国際連盟の発足──美濃部達吉遠望(42) [美濃部達吉遠望]

65135_2039.jpg
 1919年(大正8年)1月18日、第1次世界大戦の講和条約を作成するための会議がパリではじまった。会議には連合国側27カ国が参加した。
 アメリカはウィルソン大統領、イギリスはロイドジョージ首相、フランスはクレマンソー首相、イタリアはオルランド首相、日本は遅れて西園寺公望元首相が会議に加わった。
 ウィルソンは「民族自決」と「国際連盟」を掲げて、パリに乗り込んだ。ウィルソンにはもともとドイツを懲罰するつもりはない。「民族自決」といっても、植民地の解放を意図しているわけではない。敗れた帝国内の民族自立をうたっているにすぎなかった。
 これにたいし、連合国側、とくにフランスには敗戦国、とりわけドイツを懲罰するという姿勢が濃厚だった。
 ヴェルサイユ条約が結ばれるのは、ようやく6月になってからである。諸条約を併せ、これにより敗れた「帝国」(敗戦国と離脱国)は解体され、さまざまな独立国が誕生ないし復活した。
 旧ロシア帝国からは、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア(バルト3国)が分離され、独立を勝ちとる。
 旧ハプスブルク帝国はオーストリアとハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアに分割された。
 オスマン帝国は解体され、バルカン地域でも中東地域でも広大な領土を失うが、その後の戦いによって、ようやく現在のトルコの領域を確保する。
 そして、ドイツ帝国には気が遠くなるほどの賠償金が課せられ、その一部領土がフランスとポーランドに分割された。
 パリ講和会議は日本が経験した初の国際的外交の舞台となった。日本の基本方針は、ドイツが利権をもっていた中国の膠州湾租借地(青島)ならびに山東省、さらには赤道以北の南洋諸島を継承し、確保することに置かれていた。
 日本の要求にたいし、中国側の代表、顧維鈞は先の日華条約で決められた膠州湾租借地の返還を含め、山東省の利権も即時、中国に返還するよう求めた。
 日本側は膠州湾租借地はいずれ中国に返還するにしても、山東省の利権を含めて、ドイツから獲得した利権を認めなければ、国際連盟規約に調印しないと脅しをかけた。国際連盟が成り立たなくなることを恐れたアメリカ、フランス、イギリスの三大国は、けっきょく日本側の主張を受け入れることになった。
 国際連盟規約に人種差別撤廃条項を含めるよう求めた日本の提案は否決される。しかし、赤道以北の南洋諸島に関して、日本は最終的に国際連盟から委任統治権を認められることになった。
 帝国主義の時代、少なくとも帝国拡大の時代は終わろうとしていた。だが、日本はまだ露骨に領土拡張にこだわっている。
 欧州大戦(第1次世界大戦)の終結は、世界に永遠の平和をもたらさなかった。敗戦国、とくにドイツが戦勝国への憎悪を沈潜させたことはいうまでもない。それだけではない。世界じゅうに反帝国主義と民族自決の動きを拡大する契機となった。
 パリ講和会議の最中、朝鮮では3月1日に、いわゆる「三・一独立運動」が発生し、日本の軍事支配に反対するストライキや集会、デモが朝鮮全土に広がった。中国でも、日本の膠州湾、山東省支配に反対し、5月4日に北京を中心として、のちに「五・四運動」と称される暴動が発生した。
 国際連盟は1920年1月20日に発足した。国際協力によって国際平和を実現するための初の国際機関だったといってよい。だが、肝心の提案国アメリカは参加しなかった。議会での承認が得られなかったためである。
 国際連盟の本部はスイスのジュネーヴに置かれ、フランス、イギリス、イタリア、日本の4カ国が常任国となった。日本からは、よく知られる人物として、新渡戸稲造が事務局次長として、柳田国男が委任統治委員として国際連盟にかかわっている。

 美濃部達吉は1919年(大正8年)11月の『法学新報』に「国際連盟と憲法」という一文を掲載し、国際連盟の意義について論じている。この時点では主唱者のアメリカがとうぜん国際連盟に加入するものと考えられていた。
 達吉はいう。国際連盟は世界の主な列国が互いに協力して戦争の発生を防ぎ、国際法上の正義を維持するための国際機関である。それは、世界の平和を維持し、人類全般の幸福を推し進めるための一種の国家連合だ。
 達吉が国際連盟を評価していることはいうまでもない。
 国際連盟とはどういう組織なのか。
 国際連盟は総会、理事会、事務局(常設)の3つの機関を備え、国際問題を解決するために、加盟各国による決議を行う。各国はこの決議に従わなければならないが、連合各国はそれぞれ独立国であるから、連盟から脱退する権利をもっている。とはいえ、優先されるのは話し合いによる問題解決であり紛争の防止である。
 国際連盟は独立国相互の条約によって成立したものであって、加盟各国は連盟の成立によって、その独立を放棄したものではないことを達吉は強調している。この点は、アメリカ合衆国成立時に、アメリカの13州が合衆国憲法を認めることにより合衆国に帰属し、それによって一つの国家を組織することになったのと事情を異にしているという。
 国際連盟は多数国家の国際法上の結合であって、それ自体、一つの法人、つまり国家や帝国ではないし、超国家的な権利主体でもない。民法上でいえば、いわば組合のようなものだ、と達吉は解説している。
 国際連盟規約は講和条約とは独立した一種の協定であって、条約のように国どうしの権利と義務を定めたものではない。それでも、連盟規約にある軍備制限や委任統治に関する規定は、国内法とも関連してくるので、議会で付議するようにしてもよかった。
 達吉がそう述べるのは、帝国憲法においては、いかなる条約も議会の協賛をへることを必要とせず、条約の締結は無条件に天皇の大権に属するものとされていたからである。それでも、国家の運命にかかわり、また国内法にも影響する問題は、議会で討議する機会を設けても、立憲政治の本旨に反するものではなかったはずだ、と達吉はいう。
 なかには、国際連盟は国家の上に立って国家を支配する権力を有するものだとして、国家の主権が国際連盟によって制限されると主張する者もいた。だが、達吉はそもそも主権は無制限の権力ではなく、国家の権力にはおのずと制限があると切り返した。。
 国内的には、国家の権力は憲法をはじめとする法律によって制限されている。さらに国際的には、それは国際条約ならびに国際法によって制限される。従って、主権を無制限の権力と理解するのは誤りで、主権とはいわゆる独立性にほかならず、国家が他の権力に隷属せず、自主独立を保っていることを指している。
 国際連盟規約は国家権力、とりわけ戦争の権力に大きな制限を加えるものだが、それはほかの国際条約と同じく、国家の主権を制限するものではない。それは自らが規約を守ることを約束して、受け入れた制限なのである。
 達吉はいう。

〈国際連盟はまた決して国家以上に国家を支配すべき権力を設けて国家をしてその下に隷属せしめようとするものではない。国際連盟は単に世界の重(おも)なる文明国が国際法上の平和を保ち正義人道を維持することをもって列国共通の利益なりとし共同の機関を組織し相協力してその共同の目的を達しようとするのであって、連盟会議および連盟理事会はいずれも連盟各国の共同の機関にほかならぬ。〉

 達吉は世界平和を保つための機関として、国際連盟の意義を強調している。
 加盟各国が国際連盟の決議に従う義務をもつことはいうまでもないが、それはけっして国際連盟への服従を意味しないとも述べている。連盟各国は2年の予告をもって国際連盟を脱退することにより、いつでもその義務を脱することができる。
 国際連盟が国家の上に立って国家を支配する超国家的な権力団体でないことを達吉は強調する。
 国際連盟規約が帝国憲法に抵触しないかという点についても、達吉はさらに詳しく論じている。
 連盟規約によると、加盟各国は紛争解決にあたって戦争に訴えない義務を有する。また非加盟国が戦争に訴えた場合は、その国との国交を断絶する義務もある。さらには軍備制限と軍縮の義務、条約登録の義務(秘密条約の禁止)などもある。
 これらは天皇の宣戦大権、外交大権、陸海軍編制大権、さらには条約締結大権を拘束するものだ。しかし、これをもって、国際連盟が帝国憲法に抵触するとはいえない。そもそも天皇の大権が、憲法や国際法の制限を受けることはいうまでもないからだ。それは自ら加えた制限であって、他から加えられた制限ではない。従って、連盟規約による制限も憲法に抵触するものではない、と達吉は断言する。
 最後に達吉は委任統治の問題に触れている。
 国際連盟規約は、ドイツの旧植民地、旧オスマントルコ領の一部で、まだ独立を達しえない地域を後見する任務を、いくつかの先進国に委ねるとしていた。その地域が委任統治領である。
 達吉は委任統治領の領土権は、国際連盟に帰属すると理解する。しかし、国際連盟自体は超国家的な世界帝国というわけではなく、あくまでも連盟各国の共同機関であるにすぎない。そのため統治を受任された国は、自国の領土としてその地域を保有するのではなく、あくまでも連盟に代わって、その地域の統治を委ねられることになる。そして南洋諸島の場合は、「受任国領土の構成部分として」、その国法のもとに施政を行うことが認められていた。従って、南洋諸島の支配権は連盟理事会の決議に拘束されているとはいえ、それは日本が実質上、領土権を有するのとほとんど同じだ、と達吉は述べている。
 達吉は初の国際的平和維持機関である国際連盟の存在を高く評価していた。だが、国際連盟が世界平和の維持に成功することはない。第2次世界大戦の勃発を避けられなかったからである。

nice!(10)  コメント(0) 

原敬内閣の課題──美濃部達吉遠望(41) [美濃部達吉遠望]

Takashi_Hara_posing.jpg
 原敬内閣はそれまでの寄り合い所帯とは異なる本格的な政党内閣をつくりあげた。
 原は藩閥の出身ではない。それどころか維新のさい朝敵となった盛岡出身で、それまでの総理大臣とちがい何の爵位ももっていなかった。そのため新聞などからは平民宰相と呼ばれたが、もともとは盛岡藩家老の家柄である。
 原は外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣を除き、内閣をすべて政友会のメンバーで固めることにこだわった。そのため、行政経験のある有能な官僚を党に引き入れ、代議士の質の向上をはかることを以前から怠らなかった。
 こうして原内閣では、内務大臣に床次竹二郎、大蔵大臣に高橋是清、農商務大臣に山本達雄、文部大臣に中橋徳五郎、逓信大臣に野田卯太郎、鉄道大臣に元田肇といった顔ぶれが並ぶ。
 外務大臣には当初、大久保利通の次男、牧野伸顕をあてる予定だったが、本人が辞退したため、前駐露大使の内田康哉に役目が回ってきた。陸軍大臣には山県有朋の推薦で田中義一、海軍大臣には寺内内閣からの留任で加藤友三郎が就任した。
 原内閣の課題はいくつもあった。
 ひとつは米騒動の後始末である。米の値段を下げるとともに、外米を輸入して米の安定供給をはかる努力がなされた。いったん上がった米価はなかなか下がらない。しかし、賃金が上昇したので、ふたたび米騒動がおこることはなくなった。
 もうひとつの課題が選挙法の改正だった。1890年(明治23年)に選挙法が制定されて以来、選挙の区割りは10年ごとに見直されることになっていた。1900年(明治33年)からは大選挙区制が導入されたが、小政党が乱立し、金持ちの地元ボスが数多く当選する結果を招いた。
 そこで、原は議会に小選挙区制を基本とする衆議院議員選挙法改正案を提出し、通過させる。選挙権の納税要件は国税10円から3円に引き下げられた。だが、選挙法をめぐっては、その後、野党の憲政会、国民党からも新たな法案が出されて、議会が紛糾することになる。
 外政面ではシベリア撤兵を実現しなければならなかった。陸軍大臣の田中義一は、それまでの意見を変え、原と協力し、シベリアの軍を引き揚げる方向に舵を切った。
 1919年3月には日本のシベリア駐留軍は7万5000から半減された。だが、翌年3月から5月にかけ、アムール川(黒竜江)河口のニコラエフスク(尼港)で赤軍パルチザンによる日本人虐殺事件が発生する。そのため、日本軍が沿海州からほぼ撤退するのは1922年10月までずれこむことになる。
 さらに原内閣にとって重要な課題があった。それは、第1次世界大戦後の新たな国際秩序に日本がどうかかわっていくかということにほかならなかった。
 1914年7月にはじまった第1次世界大戦はようやく1918年11月に終結した。原内閣が発足してから2カ月後のことである。大戦中、1917年にロシアで、1918年にドイツで革命が発生し、両国の皇帝が退位した。敗戦国となったオーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国でも皇帝が退位する。
 1919年1月には、パリのヴェルサイユで講和会議が開かれることになった。原はヴェルサイユ会議に首席全権として西園寺公望、実質的な責任者として牧野伸顕を送りこんだ。
 その講和会議が開かれているさなか、朝鮮では三・一独立運動、中国では五・四運動が発生する。
 時代が動いている。美濃部達吉もそんな時代と無関係ではありえない。
 達吉は東京帝国大学法科大学で行政法を担当しながら、1920年(大正9年)からは上杉慎吉と並んで憲法第二講座を受け持つようになる。民主主義と議会主義を擁護する姿勢は、かれの信念となっていた。
 その信念は1918年12月の『法学新報』に掲載された「罰則を定むる命令」という論考にも、はっきりと現れている。
 やや専門にわたるが、ここで達吉が批判するのは、1889年(明治22年)の帝国憲法発布から1年半後に出された一つの例外法だった。
 帝国憲法23条には「日本臣民は法律に依るにあらずして逮捕監禁審問処罰を受くることなし」と定められれている。ところが最初の議会が開かれる前の1890年9月に「命令の条項違反に依る罰則の件」という法令(法律第84号)が出されていた。それは行政機関の命令の条項に違反する者にたいしては、200円以内の罰金もしくは1年以内の禁錮に処すというものだった。
 行政機関の命令権を強化しようとした法令にほかならない。達吉は、勝手に罰則を定めるのは行政権の濫用にほかならず、議会を経ずに定められた法令は憲法の精神に反するもので、ただちに改定されるべきものだと主張した。
「行政機関にかくの如き広い範囲の刑罰権を与えていることは、世界の諸立憲国に全く例をみないところで、ひとり我が憲政上の一大暗黒点と言わねばならぬ」
 議会での審議を経ない例外法によって行政権を拡大できるとすれば、いったい何がおこるか。それは事実上、行政が法律によることなく命令を発することができるということである。しかし、近代の法治国家は「法律なければ刑罰なし」が原則であり、その法律も立法権をもつ議会において定められなければならない。
 達吉はいう。

〈今や世界の体制は一日は一日とますます民衆的の傾向に進み停止するところを知らざるの有様にある。我が国、ひとりこの大勢に逆行せば、その危険測るべからざるものがある。この危険を防ぎ、我が光栄ある国体を擁護するには、この大勢に順応して、我が国体と民衆的傾向との調和を計るのほかはない。〉

 達吉は行政機関の強い命令権を定めた「例外法」を改正し、その範囲を狭いものにするべきだと主張している。そして、その改正をまもなく開かれる原内閣初の通常国会に期待したのだといってよいだろう。
 だが、それは実現しない。実際、この法律が廃止されるのは、第二次大戦後の1947年(昭和22年)になってからだった。その間、国体が民衆を縛る傾向はますます強まっていった。
 ところで、原内閣の最初の通常議会で最大課題として取り上げられたのが選挙法の改正問題だったことは前に述べた。
 達吉も1919年2月の雑誌『太陽』でこれに言及している。
選挙法の改正では、選挙権の拡張と選挙区の改正がテーマになることはいうまでもない。
 まず、選挙権の拡張に関しては、納税資格、学歴で制限を課するか、あるいは普通選挙まで進むのかという議論がなされてしかるべきだった。だが、国会ではそこまで進まない。
 納税資格を現在の10円から3円に引き下げるか、それとも2円にするかというのが国会の議論である。
そうした議論は姑息なもので、納税資格を下げたところで、それは従来選挙権を与えられなかった小地主に選挙権を与えるものにすぎない、と達吉は批判する。現在、選挙権を求めているのは、都市の人民、ことに知識階級と工業労働者階級であって、これを無視するのは望ましい選挙法改正とはいえない。
 選挙権を中流以上の資産ある階級に限ろうとする考えはもはや時代遅れになりつつある、と達吉はいう。

〈普通選挙がほとんど普遍的の制度となるに至ったのは、なぜであるかといえば、それは一つに社会事情の変遷に基づくのであって、ことに政治知識の普及に伴う国民の自覚と大工業の勃興に伴う労働者の向上とによって、もはや政権を資産階級に独占することを不可能ならしめたのである。ひとたび旧時代の専制政治が破れて立憲政治となり、人民が専制時代の圧迫から解放せらるるに至った上は、早晩遂に普通選挙にまで進むべきことは、避くべからざる趨勢である。〉

 こうして達吉は納税資格を条件とする制限選挙ではなく、普通選挙をめざすべきだと主張する。とはいえ、いきなり普通選挙を導入するのは早計のきらいがある。そこで、当面は現在の人口6000万のうち1000万人前後に選挙権を与えるものとし、その基準としては、満25歳以上の男子で、尋常小学校程度の教育を受け、独立の生計を営み、かつ6カ月以上その選挙区に居住する居住する者に選挙権を与えるようにすべきだと提言する。
 せめてこの程度に選挙権を拡張すべき理由は、金権政治を矯正し、労働者階級の意見を政策に反映させることによって、国体の基礎を強固に保つためであり、また世界の大勢に応じるためでもある、と達吉はいう。
 選挙区制度の問題もあった。達吉は現行の大選挙区単記投票が、同一政党の同士討ちを招くばかりか、選挙費用を過大にし、民意を反映しないと批判し、それに代わるべき方法として、小選挙区制もしくは大選挙区比例代表制を提案する。
 小選挙区制はどちらかといえば大政党に有利で、政友会は長年、この制度を主張し、ほかの政党はこれに反対してきた。これにたいし、もし今回の改正で、両院の意見がまとまらないのであれば、大選挙区比例代表制を検討する余地があるのではないか、と達吉は述べている。比例代表制に名簿方式を加えるなら、選挙人に党を選ばせることで、死票を減らすこともできる。比例代表制のメリットは、選挙競争の激しさを緩和し、選挙の費用を少なくできることである。
 こうして達吉は、今回の選挙法改正について、条件付きの普通選挙、小選挙区制もしくは大選挙区比例代表制を提案した。
 第41議会で実際に可決されたのは、政友会が提出した選挙法改正案である。国税3円以上を選挙権の納税条件とし、大選挙区制に代わって小選挙区制を採用することが決まった。
 個々の議員にとって最大の関心は、選挙区の区割りにほかならなかったが、原は内務省案をもとに、ごく限られた担当者のみで区割りを調整し、個々の議員の容喙を許さなかったという。これにより、全国で295の1人区、68の2人区、11の3人区が生まれ、衆議院の議席数は381から464に増えることになった。政友会が安定多数を確保することが見込まれていた。

nice!(9)  コメント(0) 

米国憲法を論じる──美濃部達吉遠望(40) [美濃部達吉遠望]

8ee48049.jpg
 1918年(大正7年)11月に美濃部達吉は有斐閣から「米国講座叢書」の第1冊として『米国憲法の由来及(および)特質』を出版した。日本初の本格的政党内閣といえる原敬内閣が軌道に乗りはじめたころである。
 東京帝国大学で米国講座がもたれることになったいきさつを、当時の山川健次郎総長は本の序文でこう説明している。
 昨年夏、ニューヨークのチェースナショナル銀行頭取ヘボン(アロンゾ・バートン・ヘップバーン)氏から、渋沢栄一男爵のもとに1通の手紙が届いた。両国間にはさまざまな対立があって、日米戦争はとうてい免れないという人もいるほどだ。しかし、日米はともに人道と文明を擁護する国なのだから、敵どころではなく味方どうしの関係にある。わたしは両国の友誼を深めるため、東京大学に国際法ならびに日米親善のための講座を設けることを希望し、そのための寄付を申し出たい。ヘボン氏の手紙にはそんなことが書かれていた。
 その手紙を持って東京大学に渋沢栄一氏が来られた。大学としては慎重に検討した結果、大学に米国憲法あるいは米国史の講座を置くことにした。また相当の人を米国に派遣して米国の最近の事情を研究させたいと返答した。こうして、ヘボン氏から多額の寄付が寄せられ、ここに米国講座が開かれることになった。まずは、講演を美濃部達吉、新渡戸稲造、吉野作造の3博士に依頼した。
 1918年2月から3月にかけ、新渡戸が米国史、美濃部が米国憲法、4月から吉野が米国外交について講演することが決まった。しかし、講演ではおのずと聴講者の数が限られている。そのため、この講演録を叢書として公刊することとし、その第1編として、美濃部の『米国憲法の由来及特質』が発行されたのである。
 山川は米国講座叢書発刊の由来をそんなふうに説明している。
 このころ渋沢栄一は実業界を引退し、国際親善や慈善活動、文化事業に専念するようになっていた。精力的な活動はあいかわらずだ。
 渋沢は日米関係委員会なる団体をつくり、日米の実業家を中心に互いの意思疎通をはかる努力をつづけていた。チェースナショナル銀行のヘボン頭取から東京大学に米国講座を設けるよう要請があり、そのため多額の寄付がなされたのは、日米親善にかける渋沢の熱意に応えたものだ。その寄付額は五分利付日本公債12万円と現金3000円だったというから、いまでいうと4000万円程度に当たる。
 2月に東大にいわゆるヘボン講座が設置されると、渋沢はさっそく法科大学の教室におもむき、新渡戸稲造の講演を聞いている。それも一度にとどまらなかった。美濃部達吉による米国憲法講義にも顔を出しているから、相当の熱心ぶりだったといえるだろう。
 翌年5月に将来の米国講座担当者として、高木八尺(やさか)をアメリカに派遣することが決まったことも、渋沢にとっては大きな喜びとなった。高木は栄一の親友、神田乃武(ないぶ)の次男にあたる。
 達吉の米国憲法講義は3カ月ほどつづいて、それをまとめたものが、その年11月には早くも出版された。その内容は、米国憲法の由来、米国憲法の連邦主義、米国憲法の民主主義、米国憲法の三権分立主義からなり、アメリカ憲法の概要をわかりやすく説明することを目的としていた。
 はじめに達吉はこう述べている。

〈米国の憲法は種々の点において、欧州諸国または日本の憲法と異なった著しい特色を備えている。なかんずく、その最も著しい点はおよそ三つある。(1)連邦主義(Federal system)、(2)民主主義(Democratic principle)、(3)三権分立主義( Separation of Powers)これである。この講義の目的とするところは、この三種の特色について説明せんとするにある。〉

 連邦主義、民主主義、三権分立が米国憲法の特徴である。だからといって、米国憲法が大日本帝国憲法より優れているということではない。ただアメリカがこういう憲法を採用している国だと理解することが、アメリカ理解につながるし、これからの日本を考えるうえでも大いに役立つというのが、達吉の考え方だったといってよいだろう。じっさい、日本の政治が民主的傾向をとるべきことを達吉は念願していた。
 達吉の米国憲法論は、きわめて広範かつ詳細にわたるもので、その問題点の指摘を含め、いまでも検討に値すべき学問的研究だと思われるが、ここでその全容に立ち入ることはやめておく。
 だが、アメリカの実業家の寄付により、東京帝国大学内に米国講座が設置されるようになったこと自体が画期的なできごとだった。それは、日米間に波風が立つようになっており、それを解決するための日米相互理解が求められていたあかしでもあった。
 その波風とは移民問題にほかならなかった。移民問題はけっきょく収まることがなく、ついに1924年(大正13年)に、日本側のいう「排日移民法」が成立し、深刻な日米対立の火種となっていく。だが、1918年の時点では、それはさほど大きな問題ではなく、やがて解決されるものと信じられていた。
 蛇足ながら、その経緯をふり返っておく。
 それは1906年にサンフランシスコで大地震が発生したときにさかのぼる。このときサンフランシスコ市当局は、日本人学童を市内の公立学校から東洋人学校に移すことを決定した。
 日本人を白人から隔離して、中国人や朝鮮人と一緒に学ばせるようにするという決定に日本側は反発し、ついには大きな外交問題にまで発展した。サンフランシスコの日本人学童は93人しかいなかったが、日本側の反発は大きく、日米戦争必至という雰囲気さえただようほどだった。
 ここで大統領のセオドア・ルーズヴェルトが市当局の決定に介入する。ルーズヴェルトは、連邦政府が日本人の流入を抑えるよう努力するかわりに、サンフランシスコ教育委員会による日本人学童隔離条例を撤回させた。
 だが、カリフォルニアの白人たちの気持ちは、容易に収まらなかった。各地で反日騒動が発生する。それほど差別感情にもとづく反日意識は根強かったのである。
 1907年から翌年にかけ、日米紳士協定が結ばれた。これにより日本からアメリカ本土への労働移民(ハワイは別)は年500人以下に制限されることになった。その協定では、そのかわりアメリカは満洲における日本の勢力圏を黙認するという了解が含まれていた。
 1908年にはアメリカの艦隊「ホワイト・フリート」が日本を友好訪問し、日米友好の機運が高まる。さらにルート国務長官と高平小五郎駐米大使のあいだで「高平・ルート協定」が結ばれ、それにより日米の戦略的互恵関係が強化された。
 こうして日米間の対立は解消されたようにみえた。だが、そうみえたのは表面だけで、じっさいにはアメリカの排日運動はさらにエスカレートしていく。移民問題は解決したわけではなく、依然として現地では日本人への悪感情や差別は根強かった。
1913年(大正2年)には、カリフォルニア州で外国人土地法、日本側のいう「第1次排日土地法」が成立する。
 日米紳士協定が締結されたあとも、カリフォルニア州では日本人の数が増えつづけていた。いわゆる「写真花嫁」によって、日本人移民が日本から妻を迎え、それにより日系人の子どもも増えていた。
そのころ日本人移民は白人との対立を避けるため、カリフォルニアの田舎に移住し、農地を購入して、農家として生計を立てるようになった。そうした日本人による農地所有を制限することが、「排日土地法」の目的である。
 日本側がこれに抗議したことはいうまでもない。だが、アメリカの軍人のなかには、日本との戦争も辞さないという者もいた。大統領のウッドロー・ウィルソンはそうした動きを抑えた。
 アメリカ側は、日本人による土地所有の制限は人種差別ではなく、あくまでも経済的な理由によると主張した。日本側との議論は平行線をたどった。
 しかし、1914年(大正3年)に第1次世界大戦が勃発したため、排日土地法への日本政府の関心は薄れていく。日本国内での関心もさほど盛り上がらなかった。それよりも、同じ側に立って、ともにドイツと戦うことになった日米の友好関係が尊重されたのである。
 東京大学に米国講座が設けられたのは、移民問題をかかえながらも、日米関係が比較的穏やかだったこの時期にあたっている。
 1917年(大正6年)11月には、前外務大臣石井菊次郎と米国務長官ロバート・ランシングのあいだで、いわゆる「石井・ランシング協定」が結ばれた。この協定で、アメリカは日本が中国に特殊利益をもつことを認め、いっぽう日本は中国にたいするアメリカの「門戸開放、機会均等、領土保全」の主張を認めた。
 ロシア革命によりロマノフ王朝が崩壊し、「日露協約」が紙切れ同然になったことを知った日本政府が、こんどはアメリカを相手に中国での権益を必死になって守ろうとしたと見られなくもない。
 また、日本はカリフォルニアの排日土地法に目をつぶる代わりに、満洲の権益保全をより強固なものにしようとしたともいえるだろう。
 日米関係はこれで一見落ち着いたかに思えた。だが、そうではなかった。
 1920年(大正9年)に、カリフォルニアでは「排日土地法」がさらに強化され、日本人による農地保有はさらに難しくなる。さらに、これに追い打ちをかけるように1924年(大正13年)に、連邦議会においていわゆる「排日移民法」が成立するのである。
 こうして日米対決の構図がますます鮮明になる。日本国内では反米感情が高まっていく。アメリカはいよいよ日本の対中国政策を懸念するようになった。
 話が先に進みすぎたかもしれない。
 いまはまだ1918年(大正7年)の時点である。東大の「米国講座」で米国憲法について講義したとき、達吉は日米関係がこれほど急速に悪化していくとは思いもしなかったはずである。

nice!(10)  コメント(0) 

シベリア出兵と米騒動──美濃部達吉遠望(39) [美濃部達吉遠望]

main_2.jpg
 寺内正毅内閣で知られるのは、何といってもシベリア出兵と米騒動である。
 1917年3月(ロシア暦では2月)にロシア革命が発生し、ロマノフ王朝が崩壊した。その半年後の11月(ロシア暦では10月)、レーニンが武装蜂起し、ケレンスキーの臨時政府を倒して、政権を奪取した。
 帝国主義列強によるボリシェヴィキ政権への干渉がはじまる。日本もその動きに乗じて、シベリアに出兵した。
 ボリシェヴィキに反対するロシアの軍人たちにバイカル湖以東のシベリアを占領させ、かれらがそこに自治国をつくるのを日本が支援する。陸軍参謀本部は、そうした甘い夢と計画を描いた。あわよくば傀儡(かいらい)国家をつくり、シベリアの豊かな資源を手にいれることが目的だった。だが、それが表だってあきらかにされることはなかった。
 1918年(大正7年)8月、日本はシベリアに軍を送った。第12師団がウラジオストクに上陸、満鉄沿線駐屯の第7師団、第3師団は内モンゴルの満洲里(マンチュリ)からバイカル湖方面に向かった。その兵力は7万3000にのぼった。
 だが、ボリシェヴィキ政権はもちこたえ、ロシアにいつづける日本はイギリスやアメリカなどからも非難を受けることになった。そのため、日本軍はついに1922年(大正11年)10月にシベリアから撤兵することになる。
 米騒動が発生したのはシベリア出兵の直前である。景気が悪かったわけではない。むしろ、世界大戦のにわか景気が、製薬や染料、製鉄、製紙、造船、鉱山などの会社をもうけさせ、多くの成金を生み、株価も上昇していた。だが、そうしたなか、インフレが進行し、貧富の格差が拡大していたのである。
 米騒動は、富山の漁師の女房たちが、米価のあまりの高さに堪忍袋の緒が切れ、県外に米が搬出されようとするのを阻止するため、資産家や米屋に押し寄せたことからはじまる。
 この事件は、新聞にも「越中女一揆」として紹介された。米はさらに上がりつづける。すると8月半ばに京都や名古屋、大阪、神戸などでも、米価引き下げを求める暴動が発生した。騒乱の渦は、秋風が吹きはじめるころまで収まることがなく、一部では軍隊が出動する状況となった。
 米騒動は50日におよび、一説によると街頭の騒動に加わった者は100万人におよんだとされる。
 寺内内閣は米騒動にからむ記事をいっさい掲載しないよう全国の新聞社に通告した。これにたいし新聞各社は反発し、こぞって政府に掲載禁止処分の取り消しを求めた。寺内内閣退陣要求の動きが強まる。
 政界では、寺内は万難を排して留任し、事態の収拾にあたるべきだという意見もみられた。しかし、引きつづく体調不良もあって、寺内は辞任を決意し、在任中、自分を支えてくれた政友会の原敬に政権を引き継ぐ意向を示した。問題は元老、山県有朋がはたしてそれに同意するかどうかだった。
 山県は政党内閣を毛嫌いしていた。口が達者なだけで、ろくに行政を知らない政党人が政権を握るのは、想像しただけでむしずが走った。しかし、山県のもとには、すでに手駒がなくなっていた。
 清水唯一朗は原敬の評伝で、こう書いている。

〈頼みの西園寺公望は病身であり、後進に道を譲るべきという美辞を重ねて断ってくる。山県が目をかけてきた平田東助[元内務大臣]はこの難局を担う気がなく、清浦奎吾[枢密院副議長]にいたっては、この事態を乗り切れるのは、衆議院のみならず、貴族院、枢密院、陸軍にも良好な関係を築いた原しかいないと強く勧めてくる。それは山県もわかっていた。〉

 たしかに、現在のシベリア出兵と米騒動という難局を乗り越えられるのは政友会総裁の原敬おいてほかになかった。こうして、原に組閣の大命が下り、日本初の本格的政党内閣が誕生する。
 その後、原はことあるごとに山県と密接な関係を築き、山県の信頼を勝ちとっていく。また原は以前から官僚出身者を党に取りこむことで、政党の質を改善し、政党内閣が機能するための条件を整えていた。
 新聞は原を「平民宰相」とほめそやした。これまでの藩閥政治から脱した、新しい政治が生まれると期待したのである。
 1918年(大正7年)10月1日に原は総理大臣に就任した。だが、このとき原がかつて親しくことばを交わした大正天皇は、認知症が進み、言語もはっきりしなくなっていた。
 そのころ美濃部達吉は相変わらず学務に追われる生活を送っていた。東京帝国大学で行政法の講義を受け持つほか、米国憲法についての研究も進めていた。それでも、雑誌などから憲政をめぐるテーマで執筆を依頼されると、こころよく引き受けている。
 米騒動がおこるひと月ほど前、雑誌『太陽』に、達吉の「近代政治の民主的傾向」というエッセイが掲載された。
 そこには、こんな一節があった。

〈政治上における民主主義は、近代の世界諸国に共通の趨勢である。その実現せらるる程度の大小傾向には、国により甚大なる差異があるけれども、いずれの国といえども全くその趨勢に影響せられないものはない。その趨勢の殊(こと〉に著しくなったのは、十九世紀の中葉以後であって、世界大戦の勃発以後は、国民一致の努力と犠牲とを要求することが極めて痛切であるがために、その傾向はますます顕著となった。その趨勢はいかなる勢力をもっても、これは抑制することの出来ないもので、しいてこれを抑制せんとするは、かえって革命を醸成するの危険がある。聡明なる政治家は、よろしく大勢にしたがってこれを善導すべく、いたずらに大勢に逆行してこれを抑制すべきではない。〉

 達吉がこの一文を記したときは、まだ寺内内閣がつづいていたが、民主主義を求める声は次第に強くなっていた。吉野作造も2年前の『中央公論』に「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」という論文を発表し、「民本主義」という遠慮がちな概念を使って、デモクラシーの意義を説いていた。
 達吉はここからさらに踏み込んで、民主主義は世界の趨勢となっており、もはやこれを抑制することはできない、あえて抑制しようとすれば、かえって革命を招く恐れさえある、と論じている。ロシア革命によるロマノフ王朝崩壊が、日本の支配層をも震撼させていた。
 それでは民主主義が世界の趨勢だとするなら、民主主義とはそもそも何なのか。それは、けっして恐ろしいものではない、と達吉はいう。
 民主主義とは、ひとつに代議制度が設置されていることを指す。
 次に選挙権があること。20世紀に入ると、欧米諸国では広く普通選挙がおこなわれ、イギリスなどでは女性にも選挙権が認められるようになった。
「民主主義の大勢のおもむくところ、ことに労働階級の地位の上進した結果は、もはや政権を資産階級の独占たらしむることを不可能ならしめたのである」。日本でも普通選挙権の確立が求められている。
 そして、議会の存在。イギリスの慣例にならい、ほとんどの国は二院制の議会をもつようになり、さらに議院内閣制をとる国も生まれている。これは権力の一体性を志向するためで、イギリスなどでは貴族院の権限が制限され、議会はほとんど一院制に近いものになっている、と達吉はいう。
 次に国民的政府を実現すること。
「民主主義は立法府について民選議会を要求するすると同時に、行政府についても、また国民的の政府を要求する」
「国民的政府の要求はますます緊切となり、今日においてはまさに近代的民主主義の中心思想をなすものということができる」
 それを可能にするには議院内閣制をとる以外にない、と達吉はいう。
 民主主義を支えるのは国民の自由である。言論、出版その他、思想発表の自由が認められなくてはならない。さらに結社の自由も認められなければならない。いっぽう国家は治安を維持するだけではなく、進んで社会の福利を増進し、文化を開発する任務を有する。
 民主主義は政治の公開を要求する。かつて政治は為政者の独断によっておこなわれていた。だが、近代の民主主義は「政治が国民の批判のもとに行われることを要求するものであって、秘密政治を排斥する」。
 民主主義がめざすのは、国民参加による政治の実現である。総選挙は実際には国民投票とほぼ同じ効果を有しており、「議員選挙の結果は、すなわち時の政治問題についての国民の意見の発表たる実際上の効果を有する」。
 達吉はこんなふうに民主主義とは何かを述べ、日本ではまだ実現途上にある民主主義を定着させていくことこそが、これからの政治課題だと主張している。
 民主主義が国体と両立しない思想だとする考え方は根強かった。これにたいし達吉は反論する。
 日本という国が、古来、皇室中心主義を基礎としていることはいうまでもないことだ。しかし、民主主義が明治維新以来、日本の国是であることは、五箇条の御誓文に「広く会議を興し万機公論に決すべし」とあるのをみても明らかだという。その国是を無視して、民主主義を抑圧するのは極めて無謀である。
 さらにこう述べている。長くなるが、漢文調の文体からは、当時の緊張感が伝わってくるので、そのまま引用しておこう。

〈今や我が帝国は、東においては旧来の民主国たる米国と相対し、西においては支那およびロシアは相次いで民主政体をとるに至り、四隣ことごとく民主国に囲繞(いにょう)せらるるのありさまにある。もとより我が国体の基礎は盤石の堅き泰山の安きに比すべく、隣国にいかなる政体の変動があるとしても、我が国体はこれによって微塵(みじん)の影響を受くべきではないが、安きが上に安きを加え、鞏(かた)きが上になおいっそう鞏からしめんがためには、維新以来の国是を逐(お)うて、宜(よろ)しきに随(したがい)て近代的民政主義の精神を徹底せしめ、全国民の一致の努力をもって国家の重きに任ぜしむるに如(し)くはない。〉

 清朝が倒れ、大戦によってロマノフ王朝が倒れ、太平洋の向こうにはアメリカがあって、日本はすでに周囲を民主国に取り囲まれている。そのなかで、日本がびくともしない政治体制を保っていくには、天皇のもとで、明治以来の国是である民主主義を発展させていかなければならない、と達吉は思っていた。
 このエッセイが発表されたのは、米騒動がおこる直前だった。そして、米騒動の全国的な広がりは、むしろ達吉に自分の考え方が正しいことを確信させたのではないだろうか。
 なお余分なことを付け加えると、達吉が民主主義を論じるにあたって社会契約説、あるいは天賦人権説をとっていないことにも注目すべきだろう。生まれつき人権を与えられた個人は、国家と契約を結ぶことで、国家に自らの保護を委ねるという社会契約説の考え方は、いわば国家と個人を対等とみなす思想にほかならなかった。
 これにたいし、達吉はあくまでも国家を求めるのは人類の必然の要求であって、国家を離れて人類の生活はないと思っていた。民主主義を民政主義と言い換えるのもその考え方を反映している。
 人は国家のもとに生まれる。その意味で、国家は個人に先行している。だからこそ、近代国家は民主的な制度をもたなければならない、と達吉は考えていた。

nice!(7)  コメント(0) 

寺内正毅内閣──美濃部達吉遠望(38) [美濃部達吉遠望]

220px-Portrait_of_Masatake_Terauchi.jpg
 ありていにいえば、第2次大隈重信内閣(1914年4月〜1916年10月)の実績は、第1次世界大戦に参戦し、中国、太平洋のドイツ利権を奪ったこと、さらにその勢いで中国の袁世凱政権に21カ条要求をつきつけ、中国での利権を確保したことだったといえるだろう。
 それにより、大隈内閣への評価はいやが応にも高まり、総選挙でも大勝を収めた。だが、そうした対外行動は、いずれも禍根を残し、その後、日本の孤立化をもたらすことになる。そのとき戦争の勝利に有頂天になっている日本は気づいていなかった。
 このとき日本の国際戦略を中心になって主導したのは、立憲同志会総裁として大隈内閣の外務大臣の責を担っている加藤高明(1860〜1926)だった。
 加藤は三菱の岩崎弥太郎の女婿で、三菱本社の副支配人を務めたあと、政界に転じ、大隈の秘書官や駐英公使を歴任し、西園寺内閣、桂内閣でも外務大臣を務め、桂の結成した立憲同志会を継承した。山県有朋や井上馨などの元老の意向を無視し、独自の判断で政策を推し進める傾向が強かった。
 加藤は大浦内務大臣のおこしたスキャンダルと21カ条問題の紛糾によって、大隈が内閣を改造した1915年(大正4年)8月に内閣を離れるが、それでも大隈は加藤をみずからの後継者と目していた。
 大正の大礼を無事、成し遂げたあと、大隈は満洲の勢力範囲分割をめぐってロシアとのあいだで第4次日露協約を結んだ。これが、大隈退陣の花道となる。
 山県の意向をくんだ貴族院の妨害などにより議会運営がむずかしくなり、いよいよ引き際だと感じた大隈は、参内して大正天皇に加藤高明を次期首相に推薦するという異例の行動をとった。だが、大隈の画策は山県有朋によって阻止される。そして、紆余曲折の末、元老会議により次期首相には元帥で朝鮮総督の寺内正毅(まさたけ)が選ばれることになった。
 首相の座を得られなかった加藤は、中正会の尾崎行雄などにも働きかけ、みずからの立憲同志会と合同して、憲政会を結成した。このとき憲政会は198議席を有する衆議院第1党になった。
 美濃部達吉は大隈政権時代の大浦内務大臣による議員買収や選挙干渉について厳しく批判したものの、21カ条問題などの外交問題については、いっさい論及を避けている。憲法や行政にからむ問題以外は専門外なので、論評を避けたのだろうか。それとも達吉もまた、日本が獲得した山東半島、南洋諸島、南満洲、内モンゴル東部、その他の利権確保に喜びを隠せなかったのだろうか(山東半島はのち中国に返還、南洋諸島は日本の委任統治領となる)。
 こうした日本の海外進出ぶりに、イギリスやアメリカは次第に警戒感をいだくようになる。加えて、中国や朝鮮の内部から巻き起こったナショナリズムが、日本への抵抗意識を高めていくことを懸念する日本人は少なかった。帝国主義の時代がつづいている。
 寺内正毅(まさたけ、1852〜1919)は長州の下級武士の家に生まれ、戊辰戦争や西南戦争に従軍したあと、軍事畑を歩み、陸軍大臣、朝鮮総督などを歴任した。元帥となり、山県有朋を中心とする元老会議の推薦により、大命を受けて、総理大臣に就任する。
 寺内内閣は政党の基盤をもたない長州閥の内閣で、超然内閣、あるいは非立憲内閣と呼ばれることが多かった。
 衆議院からの支持はほとんどなく、憲政会を結成した加藤高明は、さっそく1917年(大正6年)正月に開かれた議会で、犬養毅の国民党に賛同して寺内内閣への不信任案を提出した。だが、犬養自身はこれまでの政治的いきさつや大隈内閣の対華政策への批判もあって、加藤高明の憲政会には、けっして好意をいだいていなかった。
 内閣不信任案が可決されると総選挙になった。国民党は議会第1党の憲政会に同調することはなく、むしろ憲政会を批判する側に回った。原敬の率いる政友会は、寺内政権に是々非々の方針をとっていたが、政府の選挙干渉を警戒しながらも、今回の総選挙を党勢回復のチャンスととらえていた。
 4月20日の総選挙の結果、政友会は議席を54増やし、165の議席を獲得する。いっぽう憲政会は78減らして121となった。憲政党は第2党に転落した。だが、政友会の議席は過半数に達しなかった。そのため35の議席を確保した国民党がキャスティングボートを握ることになった。
 総選挙の結果を受け、6月23日から7月14日まで、第39回議会(特別議会)が開かれる。
 この議会について、達吉は『法学協会雑誌』で論評している。
 このころ総選挙後に開かれる国会を「特別会」と呼ぶのがすでに通例になっていたが、達吉は帝国憲法には特別会の規定はなく、通常会と臨時会の規定しかないので、あえて特別会としなくても臨時会と呼べばいいのではないかと主張している。
 しかし、その後も総選挙後に開かれる国会は特別会(ないし特別国会)と呼ばれ、達吉の提案が受け入れられることはなかった。これは現在もそうである(日本国憲法では総選挙後の国会を「特別会」とすると定められている)。
 さらに、達吉は前国会で提出された内閣不信任案についても触れている。寺内首相は不信任案は議会の権限を逸脱し、大権を干犯するものだと発言していた。帝国憲法には議会が不信任案を決議しうることは明記されておらず、そもそも議会が不信任案決議によって大臣の罷免を求めること自体、天皇の大権を犯すものだというのである。
 この発言に達吉は論駁を加えた。たとえ憲法に明記されていなくとも、議院に不信任案を提出する権限があるのは当然のことだ。そもそも、立憲制度における議会のもっとも重要な役割は、内閣を監視し、その実績を評価することにあるのだ。また不信任案決議が天皇の大権を犯すものだという批判についても、内閣の失政を弾劾して、その免職を求めるのは、議会に与えられた権限であり、決して天皇の大権を犯すものではないと主張した。

〈もしこれをしも否定せば、これ実にほとんど立憲制度そのものを否定するにことならぬ。吾輩は政府当局者がなお少しく憲法の真義を理解し、我が帝国をしてひとり世界文明国の一般思潮に背戻(はいれい)するの歎なからしめんことを切に希望するものである。〉

 古風な言い回しながら、あくまでも議会主義を擁護しようとする息遣いが伝わってくるだろう。
 議会主義のもと、日本は決して専制国家、封建国家に逆戻りしてはならない、と達吉は主張した。そのためには議会のルールが国民全体の常識になることが求められた。
達吉は不信任決議案の提出がはたして妥当かどうかを問うてはいない。しかし、議会に内閣不信任案を出す権限はないという考えを時代遅れもはなはだしいと、寺内の考え方をただしたのである。
 さらに、達吉は寺内が天皇直属の「臨時外交調査会」なるものを設けるとした提案にも触れている。ていよくいえば、これは議会から遊離する寺内内閣が各党指導者をみずからの陣営に取り込もうとした苦肉の策だったといえる。
 寺内は政友会の原敬、憲政会の加藤高明、国民党の犬養毅に働きかけ、いまだにつづく大戦下の国防政策を定めるため、天皇直属の臨時外交調査会に加わるよう求めたのである。これにたいし、原と犬養は応じたが、加藤は天皇を輔弼(ほひつ)する調査会を設置すること自体が憲法違反だとして、これに加わらなかった。
 達吉自身は、法律上からいえば、外交調査会の設置は決して憲法に違反するものではないとの見解を示した。

〈吾輩は、単純なる法律論としては、政府の弁明のごとく外交調査会の設置があえて憲法に違反するものにあらざるを信ずるとともに、政治上の問題としては少なくとも大臣責任制度の精神に背反するものなることを信ずるものである。しかしながら、政治上の問題はこと憲政の運用の範囲に属し、しかして憲政の運用は時の必要に応じて進化し変遷すべきものであって、いやしくも直接に憲法に違反するものでない以上は、あえて理論に拘泥してその可否を論ずべきものではない。〉

 なかなか理解するのがむずかしい。
 憲法が大臣責任制度という建前をとる以上、委員会の決議が大臣の行動に影響を与えるかもしれないという点で、それは大臣の自由輔弼制度を妨げるかもしれない。しかし、すでに教育調査会や産業調査会、国防会議などの委員会が存在することからみても、外交調査会の設置が憲法に違反するものとは思えないと論じた。達吉は憲法の文言解釈よりも、あくまでも政治的実効性に重点を置いた。
 憲法にからむ問題は、現実政治とあいまって、次から次にわいてでた。このころ達吉は、それらに目配りをおこたらず、新聞や雑誌にみずからの考えを示すようになっていた。注目すべきは、その見解が立憲制度の促進をめざしていても、特定の政党や勢力に傾いていなかったことである。
 寺内内閣は軍事強化の色彩が強い内閣だった。総力戦体制の構築という点から、教育改革にも熱心に取り組んだ。傷病兵や戦死者遺族の困窮を救うための軍事救護令、軍事力の近代化(自動車・飛行機の本格導入)、大艦建造計画、理化学研究所の設立、重工業の育成などである。言論統制には積極的で、そのいっぽう経済政策にはさほど力点を置かなかった。
 袁世凱が21カ条要求の一部をのんだことにより、日本はまもなく期限を迎えようとしていた遼東半島(旅順・大連)の租借権、南満洲鉄道(満鉄)の経営権を99年間認められることになった。ロシアとの協約も加えると、これは日本がほぼ半永久的に南満洲を支配できることを意味する。これにより、旅順、大連を中心とする関東省(その軍が関東軍)が実質上、日本の植民地となった。
 余分なことかもしれないが、この関東省をめぐっては、1917年(大正6年)の通常国会で、帝国憲法は関東省でも実施されるかという論議がたたかわされている。
 達吉の見解は明白だった。関東州には直接、帝国憲法の効力は及ばないと言い切っている。

〈すべて法は社会生活の法則であり、したがいて特定の法は特定の社会に伴うて存在するもので、憲法もまた憲法制定の際における日本の社会を律するがために制定せられたものであるから、憲法制定後に新たに帝国の統治の下に属した新たなる社会に対しては、憲法は当然にはその効力を及ぼすものではない。もし憲法を新社会に施行せんとならば、特にこれを施行すべきことを定むることを要するのである。憲法が関東州に効力を及ばさないのは、ただこの理由によるものであって、しかして同一の理由は朝鮮および台湾にも等しく適用せられるべきものである。〉

nice!(10)  コメント(0) 

美濃部と大隈──美濃部達吉遠望(37) [美濃部達吉遠望]

0033_1.jpg
 美濃部達吉は国家主義者ではない。かといって、自由主義者と言い切るにはどこか違和感がある。
 その考えは、君民同治を唱えイギリス型議会主義を理想とした大隈重信と似ている。大正天皇は個人としていえば、官僚主義者の山県有朋を嫌い、議会主義者の大隈重信や原敬に好意を寄せていた。大隈は在任中、何度も参内し、政務だけではなく世間話もし、唄まで歌って、天皇を喜ばせている。そんな大隈を山県に近い枢密顧問官の三浦梧楼は警戒した。
 思想面において美濃部が大隈とちがうとすれば、大隈が政治家としてはとうぜんのオポチュニストだったのにたいし、達吉があくまでも学者としての原則主義者だったという点かもしれない。
 達吉は国家の権力は無制限ではなく、その支配権には限界があり、統治権は国民の権利、自由を侵害してはならないと主張していた。
『憲法講話』では、こう話している。

〈今日においても、いわゆる義務本位の思想がなおかなり強くおこなわれておりまして、ややもすれば国民は絶対に国家に服従する義務があるということを申す者がありますけれども、それは大いなる誤りであります。絶対の服従は奴隷である。〉

 国民の権利、自由を重視する達吉にとって、とりわけ警察権の濫用はあってはならないことだった。警察権の行使にはとうぜん一定の限界がある。1913年(大正2年)に『法学協会雑誌』に発表した論文「警察権の限界を論ず」では、しばしば自由裁量権を認められがちな警察権に、その濫用を防止すべき原則を設けなければならないと主張していた。
 大正のはじめ、達吉は東京帝国大学で行政法の講座を受け持っていた。その講義内容は1909年(明治42年)から1916年(大正5年)にかけて公刊された4巻の『日本行政法』となって結実する。いずれ、その全体像を示してみたいと思うが、家永三郎は「警察権だけにかぎらず、総じて行政作用には限界があって、行政機関がこれを越えてその権限を行使することは許されない、というのが美濃部法学の一般命題であった」と論じている。
 さらに、美濃部が重視したのが、議会の権限強化だったことはいうまでもない。
『憲法講話』では、こう述べている。

〈国会のない国は全く立憲国ではないのであります。もし一口に立憲政体とは何であるかと言うならば、国会の設けてある政体といってよいのであります。しからば国会とはいかなるものをいうのであるかと言えば、国会は二つの性質を備えたものでなければならぬ。第一には国会は国民の代表者たるもので、これが国会の最も著しい性質であります。第二に国会は立法権に参与しおよび行政を監督することを主たる任務としているもので、これが第二の著しい性質であります。この二つの性質を備えているのでなければ、立憲国の意味においての国会ということはできないのであります。〉

 しかし、達吉のどちらかといえば自由主義的な考え方は官閥の反発を招き、それが明治末年から大正はじめにかけての上杉慎吉との激しい論争に発展したことは前にも記した。
 この論争は達吉の評価を高め、このころから達吉は学術誌だけではなく、多くの新聞や雑誌から時事についての論評を求められるようになった。
そうした論評をまとめたのが、1921年(大正10年)に法制時報社から出版される『時事憲法問題批判』である。ここには山本権兵衛から原敬にいたる歴代内閣にたいするさまざまな批評が収録されている。
 大正時代は15年のあいだに11代(再任を含む)の内閣がめまぐるしく入れ替わった。これをみても、日本ではイギリスのような民主政治がなかなか定着しなかったことがわかる。
厳しい時代でもあった。世界では戦争と革命の嵐が吹き荒れはじめていた。そうしたなか、日本の脆弱な議会主義ははたしてもちこたえられるかという課題をかかえていた。
 前回記したように、1915年(大正4年)11月に大隈重信は無事、大正の大礼を終えることができた。だが、前年4月の内閣発足以来、大隈内閣には多くの難題がふりかかり、政治運営はそのときすでに困難をきわめるようになっていたのである。
 最初の試練は「大戦」(第1次世界大戦)への参加だった。日本はそのころまだイギリスとのあいだで日英同盟を維持していた。
 サラエヴォ事件をきっかけに、ヨーロッパでは1914年7月末からドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアの連合国(協商国)のあいだで、大戦争がはじまっていた。
 日本は8月8日に参戦を決定し、8月23日にドイツに宣戦を布告した。
 10月に日本海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を押さえ、11月に陸軍が中国山東省のドイツ軍拠点、青島(チンタオ)を占領した。第1次世界大戦での日本軍の実質的戦闘はこれで終わる。
 大隈人気はいやおうなく高まった。
 12月の議会解散を受け、1915年(大正4年)3月には、総選挙がおこなわれ、大隈は圧勝する。それまで第1党だった反対党の政友会は一気に議席を減らし、大隈内閣を支える立憲同志会と中正会が議会で多数派を握った。これによって、議会の運営は安定するかに思えた。
 総選挙前の1月18日に大隈政権は中国の袁世凱政権にいわゆる21カ条要求をつきつけ、総選挙勝利後の5月9日に、その主要な項目を認めさせていた。これが次第に大問題になっていく。
 選挙の結果を受け、5月20日から6月9日まで特別議会(第36議会)が開かれた。
 この議会について、達吉は雑誌『太陽』で、こんな感想を述べている。

〈今期の議会はその会期のはなはだ短かったにもかかわらず、種々の事件が起こって、かつて見ざるほどの騒がしき議会であった。その論議に上った重要な問題は、対支外交問題をはじめ、責任支出問題、航路補助問題、予算問題など数々あるが、中にも憲法問題に関して最も論争の目的となったのは、言うまでもなく責任支出の問題である。〉

 責任支出とは、政府の責任による予算外の支出をいう。大隈内閣はその金額として、大正3年度分として5300万円、大正4年度の4月1日から5月16日までの分として1250万円余を計上し、議会での承認を求めた。これにたいし、野党の政友会から、これはいままでにない巨額であり、予算制度の蹂躙(じゅうりん)だ、憲法を無視したものだという非難が巻き起こった。
 一般論として、国庫剰余金の支出は、はたして憲法違反なのかどうかを、達吉は微に入り細に入り論じている。ここで、それを紹介するのはあまりにわずらわしい。結論だけいうと、憲法の条文に照らして、達吉は剰余金の支出は憲法の禁止するところではないと論じ、政府の主張を支持した。予算外支出はその性質上、あらかじめ見積もることのできない費用で、いかなる必要があっても予算外の支出を許さないとするのは、予算の性質上、無理がある。
 とはいえ、政府の責任でおこなわれる剰余金の支出にはおのずから制限があってしかるべきだ。国家の歳出はできる限り予算に準拠しなくてはならず、予算によらない支出はやむを得ない場合にのみ認められる。剰余金の支出が認められるのは、避けられない緊急の場合であること、しかも予備費ではその必要を満たせない場合にかぎられる。
 今回の剰余金支出は、主として戦争の突発にもとづくもので、加えて府県への土木費補助、米価調節費、蚕糸会社補助金が含まれていた。これを剰余金で賄うことができたのは、幸いだった。剰余金の支出は法律上では金額に制限がなく、剰余金があるかぎり支出できるが、それが巨額に達する場合は臨時議会を開いて協賛を得るか、議会が開かれていないときは勅令をへなければならない。議会の協賛も得ず、枢密院にも諮詢(しじゅん)せず、たとえ戦争のためとはいえ、政府の独断で支出したのは穏当ではない、と達吉はいう。剰余金支出については、いかなるものであっても論議されるべきものであり、政府もその正当性をはっきりと説明しなければならない。
 達吉がこんなふうに剰余金支出の原則を論じたのは、予算を扱う議会の原則を確立しておきたかったからである。日本では議会は政争の場となりやすく、予算問題ひとつをとっても議会制度はまだ確固たるものになっているとは言いがたかった。揺るぎない議会制度をつくることは、近代的な国家を建設するうえで、避けては通れない課題であって、公法学者として、達吉はできる限りそれに寄与したいと考えていた。そのことが達吉が長く憲政評論をつづけた理由だったといえるだろう。
 だが、議会が終わったとたんに、またやっかいな問題がもちあがる。
 7月下旬、内務大臣の大浦兼武が選挙前の第35議会で、二個師団増設問題にからんで、野党議員を買収したという贈賄問題が暴露されたのである。大浦は元警視総監で、桂内閣でも閣僚となり、立憲同志会の幹部として大隈内閣でも農商務大臣、内務大臣を務めた。
 前年、大隈政権は大戦の勃発を契機として、これまで懸案だった陸軍二個師団増設を議会に求めた。だが、多数派の政友会と国民党がこれを否決した。そのとき農商務大臣だった大浦が、野党議員を買収していたことが、いまになって暴露されたのである。
 二個師団増設議案が否決されたため、議会は解散され、総選挙となった。大隈は大勝し、大浦は内務大臣となるが、このとき大浦には前年の議員買収だけではなく、選挙違反の嫌疑も加わる。
 こうして7月30日に大浦は辞任する。同日、大隈も監督責任から辞表を提出した。大浦の辞任はやむを得なかった。しかし、大熊自身は大正天皇から辞表を却下されることを期待していた。元老の山県や井上も慰留する側に回った。
 こうして大隈は辞表を撤回し、内閣改造に踏み切る。辞任に固執した加藤高明外相に代わって、外相は当面大隈が兼任し、新内相には達吉の恩師、一木喜徳郎が就任した。
 このあたり、大隈の政治の腹芸である。ところが、達吉はこうした政治のドタバタ劇をきびしく批判した。
 野党議員買収の一件は、大浦内相個人の責任として片づけるわけにはいかない。大浦が議会操縦の役割をはたしていたのは事実であって、それが内閣全体の意向、少なくとも暗黙の承認によるものだったのは間違いない。さらに、首相が監督責任を認め、いったん辞表を提出しながら、それを撤回し、その理由として聖旨にもとづくことを挙げたのも、けっして許されることではない。

〈真に去るの意思なくして辞表を捧呈し、もしくはひとたび去らんと決して、たちまち留任をあえてするがごときは、あまりに国務大臣の進退を軽視するものである。……もしその留任が国家のために必要であると思惟(しい)するならば、初めより辞表を捧呈せざるが至当であり、もしその辞任が自己の責任上当然であるとするならば、聖恩優渥(ゆうあく)にして、たとえその罪を宥したもうとしても、その辞意を翻すのは、志尊を輔翼し奉るの職責を全うするものではない。いわんやその留任の理由として、もっぱら聖旨に基づくことをもって弁明の辞となしたに至っては、責を志尊に嫁し奉るもので、恐懼(きょうく)この上もない次第である。〉

 こうした一文を読むと、達吉が自由主義的な議会主義者であると同時に、熱烈な尊皇主義者であったことが伝わってくる。
 そして、大隈にとっては、自らの手でなんとしても3カ月後に迫る大正の大礼を成し遂げたいと思う気持ちが、辞任をおしとどめたのである。

nice!(9)  コメント(0) 
前の10件 | - 美濃部達吉遠望 ブログトップ