SSブログ

浜口内閣の発足──美濃部達吉遠望(56) [美濃部達吉遠望]

HAMAGUCHI_Osachi.jpg200px-Inoue_Junnosuke_1-2.jpg
 政友会の田中義一内閣が総辞職したあと、1929年(昭和4年)7月、西園寺公望の推薦により民政党総裁の浜口雄幸(おさち)が首相の座についた。議会では少数派の内閣だから、いずれ総選挙を実施しなければならないことはわかりきっていた。
 浜口は高知県出身で、東京帝国大学を卒業してから大蔵省にはいり、大蔵次官を務めたあと政界入りした。加藤高明、若槻礼次郎の内閣のもとで、蔵相や内相を歴任し、首相になったのは59歳のときである。
 浜口内閣は外相に国際協調路線をとる幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)、内相に「選挙の神様」と称される安達謙蔵、蔵相に前日銀総裁の井上準之助、陸相に宇垣一成(うがき・かずしげ)、海相に財部彪(たからべ・たかし)といった強力な布陣を敷いた。
 歴史学者の坂野潤治(ばんの・じゅんじ)にいわせれば「戦前日本でもっとも民主的な内閣だった。
 浜口内閣は対支改善、軍縮の促進、財政整理・緊縮、金解禁の断行、社会政策の確立など10項目の政治綱領を掲げた。田中義一内閣とのちがいは鮮明だった。
 経済政策において、とりわけ目玉となったのが金解禁である。
 金解禁とは、金を国際通貨の基軸とする金本位制に復帰することにほかならない。金本位制をとらないかぎり、円にたいする為替レートは常に変動している。浜口内閣は、日本経済を安定した成長軌道に乗せるためには、多少のデフレを覚悟しても、金解禁を実施せざるをえないと思いつめていた。
 日本は1917年(大正6年)に金本位制から離脱したあと、関東大震災や金融恐慌があったために、世界の金融秩序に復帰するチャンスを逸してきた。
 経済学者の中村隆英によると、もともと金解禁に慎重だった井上準之助は、慎重な準備をおこなえば、金解禁にともなう不況を招くおそれはないとの信念をいだくようになっていたという。
 井上はそのため、まず横浜正金銀行に指示して、意識的に為替レートを旧平価に近づけようとした。これにより、第2・四半期には100円=44.6ドル(1ドル=2.24円)だった対米レートは、第4・四半期には100円=48.5ドル(1ドル=2.06円)と上昇をつづけた。
 さらに井上は日本銀行に指示して、金利を高めに誘導し、金融を引き締めた。そのいっぽう実行予算を組んで、財政支出を約9000万円削減して、16億8000万円とし、大幅に公共投資を削減した。
 ドルにたいする円のレートを切り上げて、金輸出を禁止した時点の旧平価のもとで、金解禁を実施することが井上の目標だった。そのために国内の需要を抑制し、輸入を削減し、輸出を伸ばす方向が模索された。1929年後半の物価は下がり、不況の色が濃くなった。
 当時、雑誌『東洋経済』を拠点にしていた石橋湛山や高橋亀吉、『中外商業新報』(のちの日本経済新聞)の小浜利得(おばま・としえ)らは、旧平価による金解禁は、あまりにも企業や国民に犠牲を強いるとして、これに反対したが、井上は断固として、みずからの信念を貫いた。
 こうして浜口内閣は1930年(昭和5年)1月に、100円=49ドル(1ドル=2.04円)の固定レート(旧平価)のもとでの金解禁に踏み切る。
 折悪しく、前年10月24日金曜日には、ニューヨークで株式が大暴落し、それが引き金となって世界恐慌が発生していた。
 浜口内閣の金解禁と歩調を合わせるように、大きな打撃を受けたのは製造工業以上に、むしろ農山村だった。米価、繭価はともに急落し、農家の所得は1929年から31年のあいだに半減する。これにより日本の農村地帯は深刻な窮乏に見舞われることになった。都市でも多くの企業が倒産し、失業者が増えた。
 憲法や行政法を専門とする美濃部達吉も、金輸出解禁には無関心ではいられなかった。「金輸出解禁が国家及び国民の全体にとり、いかに重大な関係のある行為であるか」を認識している。
1929年10月発行の『法学協会雑誌』では、もっぱら法律的な観点にかぎって、金輸出解禁問題を論じた。
 達吉がまず問題だとしたのは、1917年の寺内正毅内閣による金輸出禁止が、法律や勅令によってではなく、大蔵省令になされたことである。それにより、形式的にいえば、今回の金輸出解禁は前の大蔵省令を廃止するだけで実現しうることになった。
 これにたいし、達吉は疑問を呈する。国民経済の全体を根底から動かすような経済政策が一大蔵大臣の権限によって決定されていいものだろうか。
 緊急勅令や軍の運用、官制上の措置、条約締結などの天皇の大権をのぞき、「すべての立法権、すなわち国民の権利義務につき新たなる規律を定めるの権は、原則として常に議会の議決を経ることを要する」と達吉はいう。
 官制上の措置は、公共の安寧秩序を維持し、臣民の幸福を増進するための命令にかぎられる。すると金輸出を禁止したり解禁したりする行為は、はたして官制上の措置として、大蔵大臣の職責において決定しうるものだろうか。そうではない。

〈私は金輸出禁止のごときは、その性質上、ただ法令をもってのみ定めうべきもので、当然議会の協賛を要し、ただ議会の閉会中緊急の必要がある場合にかぎり、議会の事後承諾を条件として緊急勅令をもって、これをなしうるにとどまると信ずる。〉

 議会による立法が原則である。そうなると1917年の寺内内閣による金輸出禁止の大蔵省令も権限外だったことになる。これを撤回させるには裁判所の命令によるほかないが、こうした行政命令が裁判所によって出されたためしはこれまでない。
 そこで、現実としては、金輸出を解禁するためには、以前の大蔵省令を廃止するほかなく、これが現在の浜口内閣がおこなったことである。
 それでも、議会での議決をへず、一大蔵大臣の権限でこれをおこなったことは、立憲政治においてはきわめて異常事態といわねばならない、と達吉は論じた。
 こうした強引な政策変更は金解禁にとどまらなかった。
 浜口内閣は田中内閣のときにすでに議会で可決されている予算にたいしても変更を加え、新規事業を中止または延期することによって、1億4700万円(実際には約9000万円)を節約する実行予算を編成した。
さらに10月には官吏減俸案まで打ち出し、歳出削減をめざした。さすがに減俸案は現場からの強い反対にあって撤回せざるをえなかった。
 政府が次々と打ち出すこうした案は、金融緊縮によって円高を誘導し、金本位制への復帰をめざすための方策だったといえるだろう。
 議会での審議をへずに、こうした強行措置がとられたのは、当時、民政党が少数与党だったためでもあるが、政権の実績を上げようとするあせりのようなものもあったはずである。
 とうぜん野党の政友会は憲法違反だとして反発したが、これにたいし政府は予算を節約するのは政府の自由だとして、実行予算の実施に踏み切った。これにより、建設が進んでいた国会議事堂や警視庁、鉄道などの工事もいったん中止されることになった。
 浜口政権の一見果断というべき対応をみながら、達吉はこの先に落とし穴のようなものが待ち構えているのではないかというような漠然とした不安を感じていた。
 政府による実行予算編成が憲法違反ではなく、政府の自由な権限に属することを認めつつ、達吉はこう書いている。

〈……政治上の主義を異にした新内閣が組織せられて、前内閣の政策を非なりとする場合においては、前内閣の政策をそのまま踏襲することはもとより不可能であり、したがってある程度において前内閣の定めた事業計画を変更し、事業の中止または繰り延べをおこなうこともやむをえないところであり、必ずしも政治上の責任に反するものというべきではない。
しかしながら前内閣の提出したものにせよ、すでに議会の承認を得た事業計画を変更して、事業の中止または繰り延べを行うことは、政治上から言って、明らかに議会の意思に反するものであり、したがって政府はかくのごとき変更を実行せんとするにあたっては、これを議会に報告して、その承認を求むることが当然でなければならない。〉

 達吉が主張するのは、議会政治のルールがあってしかるべきだということである。にもかかわらず、政党政治はおうおうにして権力をかさにして、議会における説明と承認の原則を踏みにじり、独善的な方向へと走りやすい。
 原敬の時代にようやくはじまったといえる政党政治が、はたしてこの日本で定着しうるのか。達吉が不安を感じていたのは、政党政治のあやうさだったといってよい。
 ちょうどそのころ、政友会では総裁の田中義一が狭心症によって死亡し、田中とまるで対照的な党人の犬養毅が新総裁にかつぎあげられようとしていた。

nice!(12)  コメント(1) 

nice! 12

コメント 1

U3

お久しぶりです。
半年ブログ記事の更新を止めておりました。
止めたときも続いていた『美濃部達吉遠望』が、いまだ続いているその根気に脱帽です。
by U3 (2022-10-27 15:09) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント