お知らせ [柳田国男の昭和]
長い時間がかかりましたが、ようやく「柳田国男の昭和」をまとめることができました。
ぼくのホームページにその全体を収録してありますので、よろしければご覧ください。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html
もちろん、そのなかには言い足りない部分、誤解、事実関係の間違い、探究不足のところなども含まれておりますので、それについては、このブログで追記し、またホームページに反映していくつもりです。ぼく自身もじっくり全体を通し読みしていないので、それをしたうえでの手直しも必要ですね。
読者の方から、さまざまなご教示やご批判をいただければ幸いと存じております。
まだ読んでいない柳田の著作もずいぶんありますので、おもしろそうなものがあれば、それもブログに書くつもりです。また、これから新しい柳田研究が出ましたら、それについても紹介していきたいと思います。
いまはとりあえずまとまったという段階で、ほっとしています。しかし、完成にはほど遠く、これからしばらく熟成期間が必要でしょう。そのときをめざして、もう少し長生きしなければと思う次第です。
読者のみなさん、ありがとうございました。
ぼくのホームページにその全体を収録してありますので、よろしければご覧ください。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html
もちろん、そのなかには言い足りない部分、誤解、事実関係の間違い、探究不足のところなども含まれておりますので、それについては、このブログで追記し、またホームページに反映していくつもりです。ぼく自身もじっくり全体を通し読みしていないので、それをしたうえでの手直しも必要ですね。
読者の方から、さまざまなご教示やご批判をいただければ幸いと存じております。
まだ読んでいない柳田の著作もずいぶんありますので、おもしろそうなものがあれば、それもブログに書くつもりです。また、これから新しい柳田研究が出ましたら、それについても紹介していきたいと思います。
いまはとりあえずまとまったという段階で、ほっとしています。しかし、完成にはほど遠く、これからしばらく熟成期間が必要でしょう。そのときをめざして、もう少し長生きしなければと思う次第です。
読者のみなさん、ありがとうございました。
はるかなる旅へ [柳田国男の昭和]
《最終回》
頭のなかをさまざまな思い出が、走馬燈のように、だがゆっくりと浮かんでは消え、幾度もくり返しながら流れている。
インタビューを受けると、国男は故郷のことや青年時代の話、民俗学や女性学、日本語や書物、米と信仰、沖縄と船、その他あらゆることを、何十ものひきだしから取り出すように何時間も語りつづけた。それは川のように流れ、山のようにつらなる、はてしない物語となった。
最晩年はちくりと人を刺すような皮肉は少なくなり、たくまざるユーモアと遠くをなつかしくふり返る姿勢が目立つようになった。
たとえば、テレビを別として、おそらく最後の肉声を刻したと思われる「中央公論」1961年7月号の「明治人の感想」というインタビューでも、国男は教科書の歴史について、こんなふうに話している。
〈編集部 明治20年代までは教科書といっても、国定がなくて自由でしたね。
柳田 「ハト・ハタ・タコ・コマ」なんという教科書はぼくらは知らない。使わないんだから。はじめから「アジア人種・ヨーロッパ人種」、これが、あの当時の小学読本の1巻ですからね。ずいぶん長く使いましたよ。あとで見ると、アメリカでこしらえたウイルソンのイングリッシュ・リーダーの直訳なの。(笑)教科書まで翻訳したんだから、最低学年の初等8級でそんなむずかしいことを教えていたのです[当時の初等小学校は満6歳で入学、半年ごとに進級し、8級4年制だった]。
編集部 初期はみな翻訳でしたね。そういう教科書で教えられたのですから、明治の前半の人というのは、ヨーロッパ、欧米なみのことが頭に先に入っているわけですね。
柳田 君は覚えていないだろうが、「鶏がひよこをなくして、この牝鶏は甚だ憂え悲しめり」とか、「魚を釣るには雨天の時をよろしとするか、しかり天少しく曇りて風なく、暖かなる日をよろしとす」というのが1年の教科書のはじめにあるんだ。翻訳の原本を見たらなるほどと思ったけれども、乱暴なものでしたね。(笑)「しかり」なんてね。叱られることかと思った。(笑)〉
同じインタビューでは、歴史書についても闊達に話している。日本の歴史では近世史、すなわち江戸時代の歴史が手薄で、文字どおり百姓の生活を含めて、世の中全体の移り変わりを描いた歴史書があればいいのにと国男はいう。
〈柳田 わたしのねらっているのは、江戸時代社会史の維新運動のほうはいいから、あれに拘泥しないで平常に進んでおった時代の歴史が知りたいんだ。それ以前に細かい傾斜で移動しているからね。少なくとも江戸の中期以後に、どこかに目に見えてはっきり傾斜面が出ているのです。それを見ないで初期と同じだという人は一人もいませんけれども、しかしどこが区切りだということをやろうと思うと大胆すぎて怖いから言いませんしね。江戸時代史というものは存外書かないものですから、史学の人がもう少し書くといいと思うけれども。伝記に近いものはやっているけれども、国全体を見わたして農村の調子がどう変わってきたとか、こんなところに明るい光が見えだしたとか。そういうことを書くやつは少ない。それがわかるといいな。総合することができないのですね。ことに下半期は往来が激しいし、一つの地方だけに限ることができないのです。
編集部 そうすると先生の今もっておられる関心では、江戸時代が主なんでしょうか。
柳田 そう、歴史をやるぐらいなら、古いところをせんさくして、伝記か歴史かわからないことばかりやっているのはだめだというのです。坊さんの伝記なんかは、ほんとうに無駄だからね。読んでいるとすぐにいやになっちゃう。同じようなことをやっているだろう。毎日毎日殿様なんかも平和の時代に武将でもないし、ほんとうにみな均一生活をやっているんだから〉
国男の関心が、たえまない読書を通じて最晩年になっても広がりつづけていることがわかる。古歌をなぞらえば、それはさざれ石が、小さな石から長い年月をかけて大きな巌へと成長するのにも似ていた。
梅棹忠夫は「柳田国男の学問こそは、もっとも体系的な『科学』であった」といったことがある。断片的なエッセイや感想と思えるものが、少し離れてみると、実は無数の論理の糸にかがりあわされて、大きな山塊の一部を形成していることに気づかされる。
柳田山塊の全容は、いまだに踏破されつくしていない。
とはいえ、このころ国男の心をよぎるのは、はるかな旅の思い出だった。夢は広野をかけめぐっている。
1961年7月26日から8月14日にかけ、朝日新聞は「柳翁閑談」と題するエッセイを15回にわたって掲載した。はてしなくどこまでもつづく談話を、秘書の鎌田久子(のち成城大学教授)が国男の著作を切り貼りして短くまとめ、それをもとに記者の森本哲郎が書きなおした。
だが、ここにも第1回から旅の話がでてくる。
〈高い峠に立つと、今まで吹かなかった風が吹き、山路の光景も一変するようなことによくぶつかる。私はよく峠のない旅は、アンのないマンジュウのようなものだといってきたが、峠のあちら側とこちら側との、いちじるしく違う所をえらんで旅をするのは、旅人の一つの道楽といってよいかもしれない。日本の峠を全部越えてみたいと願いながら、私の越えた峠はいくつぐらいになるだろうか〉
かつて旅した峠越えの道を、ひとつひとつ思いだしていたのだろう。窓辺に腰掛けていても、頭のなかは旅がつづいている。山道を歩いているときの足の感触がよみがえるのだ。
〈夜汽車で飯田橋を出て、翌朝先方に着く。ワラジにはきかえ、朝霧をふむ感じ、地面に吸いつくように、霧にしめって、ワラジの方から足の裏にぴたりとついてくる感触というものは、人に語れないほど心地よいものであった。指が自由に動いて歩くということは、クツの生活ではわからない感じであろう。旅に出て、早朝出発というのも、一つにはこの感触を味わいたく、わざと露の道を歩きたいためであった〉
飯田橋から汽車に乗ったというのだから、養子先の妻の実家に暮らしていたころである。時代は明治の終わりから大正はじめにかけてだろう。国男は旅に出て、地を踏みしめ、地とひとつになった。
その旅も終わろうとしている。別れの日が近づいていた。
1962年(昭和37)5月3日、成城大学で日本民俗学会主催の米寿祝賀会が開かれた。メインテーブルについた国男はにこやかに笑みをたやさなかったが、さすがに老衰ぶりは隠せなかった。
国男の弟子で、毎日新聞記者の今野円助は、この日、送り迎えを担当した。さほど長い祝賀会でもないのに、国男が途中で「ちょっと家に帰って休みたい」というので、自宅と会場を自動車で二度往復することになった。もう体力が限界に達していた。
おそらく最後に国男が会場に姿をあらわしたときのことだ。そのときの様子を今野はこう記している。
〈世話人たちの相談でちょっと顔を出していただくが、少しでも早くお帰りいただこう、そういうことになっていた。予定した時間はどんどん過ぎていった。……だが先生は、意外にも「もう少しいいだろう君、えっもうだめかい。私は大丈夫なんだよ。ちっとも疲れていやしないんだ。もう少しおるわけにはいかんのかね……」。
会場の誰彼を目で追いながら、「あっ、あんなところにA君がいた」「Bもやって来ていたか」と、つぶやいては、手をさしのべたそうになつかしそうになさる。強引に催促して立っていただき、帰りはじめると、皆さんがどっと慕い寄ってこられた。……
先生は呼吸を整えながら、ひとりひとりに、ゆっくり話しかけられる。その都度、先生を抱えこむようにしながら、二歩三歩と人垣を押し分けて進む。
「ちょっと話したいんだ。あっ、C君が来ている。君、もうちょっとおるわけにはいかないかね。え、ほんの少しずつでいいんだから……。ああ、みんな君、あんなに遠方から来てくれて……」
230余名の参加者のうち、直接に先生と話のできた人は、十分の一もいなかったろう。私はもうこみあげる激情をかみしめながら、先生のからだを連れ出すことだけに夢中で、誰の顔も区別がつかなくなっていた。おそらく、ちょっとしたきっかけで、みんながワッと泣きだしながら、先生のところに殺到するにちがいない。そんな異常な雰囲気になりかけていた。
これが先生との今生のお別れになるだろうと大部分の人たちが直感していたにちがいなかった〉
だが、そこには別れがあったのではない。出会いがあったのだ。おそらく永遠の出会いが……。
頭のなかをさまざまな思い出が、走馬燈のように、だがゆっくりと浮かんでは消え、幾度もくり返しながら流れている。
インタビューを受けると、国男は故郷のことや青年時代の話、民俗学や女性学、日本語や書物、米と信仰、沖縄と船、その他あらゆることを、何十ものひきだしから取り出すように何時間も語りつづけた。それは川のように流れ、山のようにつらなる、はてしない物語となった。
最晩年はちくりと人を刺すような皮肉は少なくなり、たくまざるユーモアと遠くをなつかしくふり返る姿勢が目立つようになった。
たとえば、テレビを別として、おそらく最後の肉声を刻したと思われる「中央公論」1961年7月号の「明治人の感想」というインタビューでも、国男は教科書の歴史について、こんなふうに話している。
〈編集部 明治20年代までは教科書といっても、国定がなくて自由でしたね。
柳田 「ハト・ハタ・タコ・コマ」なんという教科書はぼくらは知らない。使わないんだから。はじめから「アジア人種・ヨーロッパ人種」、これが、あの当時の小学読本の1巻ですからね。ずいぶん長く使いましたよ。あとで見ると、アメリカでこしらえたウイルソンのイングリッシュ・リーダーの直訳なの。(笑)教科書まで翻訳したんだから、最低学年の初等8級でそんなむずかしいことを教えていたのです[当時の初等小学校は満6歳で入学、半年ごとに進級し、8級4年制だった]。
編集部 初期はみな翻訳でしたね。そういう教科書で教えられたのですから、明治の前半の人というのは、ヨーロッパ、欧米なみのことが頭に先に入っているわけですね。
柳田 君は覚えていないだろうが、「鶏がひよこをなくして、この牝鶏は甚だ憂え悲しめり」とか、「魚を釣るには雨天の時をよろしとするか、しかり天少しく曇りて風なく、暖かなる日をよろしとす」というのが1年の教科書のはじめにあるんだ。翻訳の原本を見たらなるほどと思ったけれども、乱暴なものでしたね。(笑)「しかり」なんてね。叱られることかと思った。(笑)〉
同じインタビューでは、歴史書についても闊達に話している。日本の歴史では近世史、すなわち江戸時代の歴史が手薄で、文字どおり百姓の生活を含めて、世の中全体の移り変わりを描いた歴史書があればいいのにと国男はいう。
〈柳田 わたしのねらっているのは、江戸時代社会史の維新運動のほうはいいから、あれに拘泥しないで平常に進んでおった時代の歴史が知りたいんだ。それ以前に細かい傾斜で移動しているからね。少なくとも江戸の中期以後に、どこかに目に見えてはっきり傾斜面が出ているのです。それを見ないで初期と同じだという人は一人もいませんけれども、しかしどこが区切りだということをやろうと思うと大胆すぎて怖いから言いませんしね。江戸時代史というものは存外書かないものですから、史学の人がもう少し書くといいと思うけれども。伝記に近いものはやっているけれども、国全体を見わたして農村の調子がどう変わってきたとか、こんなところに明るい光が見えだしたとか。そういうことを書くやつは少ない。それがわかるといいな。総合することができないのですね。ことに下半期は往来が激しいし、一つの地方だけに限ることができないのです。
編集部 そうすると先生の今もっておられる関心では、江戸時代が主なんでしょうか。
柳田 そう、歴史をやるぐらいなら、古いところをせんさくして、伝記か歴史かわからないことばかりやっているのはだめだというのです。坊さんの伝記なんかは、ほんとうに無駄だからね。読んでいるとすぐにいやになっちゃう。同じようなことをやっているだろう。毎日毎日殿様なんかも平和の時代に武将でもないし、ほんとうにみな均一生活をやっているんだから〉
国男の関心が、たえまない読書を通じて最晩年になっても広がりつづけていることがわかる。古歌をなぞらえば、それはさざれ石が、小さな石から長い年月をかけて大きな巌へと成長するのにも似ていた。
梅棹忠夫は「柳田国男の学問こそは、もっとも体系的な『科学』であった」といったことがある。断片的なエッセイや感想と思えるものが、少し離れてみると、実は無数の論理の糸にかがりあわされて、大きな山塊の一部を形成していることに気づかされる。
柳田山塊の全容は、いまだに踏破されつくしていない。
とはいえ、このころ国男の心をよぎるのは、はるかな旅の思い出だった。夢は広野をかけめぐっている。
1961年7月26日から8月14日にかけ、朝日新聞は「柳翁閑談」と題するエッセイを15回にわたって掲載した。はてしなくどこまでもつづく談話を、秘書の鎌田久子(のち成城大学教授)が国男の著作を切り貼りして短くまとめ、それをもとに記者の森本哲郎が書きなおした。
だが、ここにも第1回から旅の話がでてくる。
〈高い峠に立つと、今まで吹かなかった風が吹き、山路の光景も一変するようなことによくぶつかる。私はよく峠のない旅は、アンのないマンジュウのようなものだといってきたが、峠のあちら側とこちら側との、いちじるしく違う所をえらんで旅をするのは、旅人の一つの道楽といってよいかもしれない。日本の峠を全部越えてみたいと願いながら、私の越えた峠はいくつぐらいになるだろうか〉
かつて旅した峠越えの道を、ひとつひとつ思いだしていたのだろう。窓辺に腰掛けていても、頭のなかは旅がつづいている。山道を歩いているときの足の感触がよみがえるのだ。
〈夜汽車で飯田橋を出て、翌朝先方に着く。ワラジにはきかえ、朝霧をふむ感じ、地面に吸いつくように、霧にしめって、ワラジの方から足の裏にぴたりとついてくる感触というものは、人に語れないほど心地よいものであった。指が自由に動いて歩くということは、クツの生活ではわからない感じであろう。旅に出て、早朝出発というのも、一つにはこの感触を味わいたく、わざと露の道を歩きたいためであった〉
飯田橋から汽車に乗ったというのだから、養子先の妻の実家に暮らしていたころである。時代は明治の終わりから大正はじめにかけてだろう。国男は旅に出て、地を踏みしめ、地とひとつになった。
その旅も終わろうとしている。別れの日が近づいていた。
1962年(昭和37)5月3日、成城大学で日本民俗学会主催の米寿祝賀会が開かれた。メインテーブルについた国男はにこやかに笑みをたやさなかったが、さすがに老衰ぶりは隠せなかった。
国男の弟子で、毎日新聞記者の今野円助は、この日、送り迎えを担当した。さほど長い祝賀会でもないのに、国男が途中で「ちょっと家に帰って休みたい」というので、自宅と会場を自動車で二度往復することになった。もう体力が限界に達していた。
おそらく最後に国男が会場に姿をあらわしたときのことだ。そのときの様子を今野はこう記している。
〈世話人たちの相談でちょっと顔を出していただくが、少しでも早くお帰りいただこう、そういうことになっていた。予定した時間はどんどん過ぎていった。……だが先生は、意外にも「もう少しいいだろう君、えっもうだめかい。私は大丈夫なんだよ。ちっとも疲れていやしないんだ。もう少しおるわけにはいかんのかね……」。
会場の誰彼を目で追いながら、「あっ、あんなところにA君がいた」「Bもやって来ていたか」と、つぶやいては、手をさしのべたそうになつかしそうになさる。強引に催促して立っていただき、帰りはじめると、皆さんがどっと慕い寄ってこられた。……
先生は呼吸を整えながら、ひとりひとりに、ゆっくり話しかけられる。その都度、先生を抱えこむようにしながら、二歩三歩と人垣を押し分けて進む。
「ちょっと話したいんだ。あっ、C君が来ている。君、もうちょっとおるわけにはいかないかね。え、ほんの少しずつでいいんだから……。ああ、みんな君、あんなに遠方から来てくれて……」
230余名の参加者のうち、直接に先生と話のできた人は、十分の一もいなかったろう。私はもうこみあげる激情をかみしめながら、先生のからだを連れ出すことだけに夢中で、誰の顔も区別がつかなくなっていた。おそらく、ちょっとしたきっかけで、みんながワッと泣きだしながら、先生のところに殺到するにちがいない。そんな異常な雰囲気になりかけていた。
これが先生との今生のお別れになるだろうと大部分の人たちが直感していたにちがいなかった〉
だが、そこには別れがあったのではない。出会いがあったのだ。おそらく永遠の出会いが……。
旅のしたく [柳田国男の昭和]
《第252回》
ほんの少しだけでも時間を巻き戻すことにしよう。
最晩年の国男が何を考えていたのかを知るには、このころの座談会や談話、口述筆記をたどるほかない。
かつての人を緊張させずにはおかなかった鋭さはなくなり、国男は時にうつろに遠くを見やり、何度も同じ話をくり返す好々爺に変じていた。だが、亡くなる直前まで、頭脳の明晰さを失ったわけではなかった。
年をとると記憶力がなくなるというのはうそで、むしろ昔の記憶で頭がいっぱいになってしまうのだと述べた評論家がいるけれども、国男の老年もむしろ、そのようなものではなかっただろうか。
1959年(昭和34)12月に成城の柳田邸を訪れた朝日新聞の記者は、「こと『民俗学』となるとトシには見えぬ元気」という記事で、国男の様子をこんなふうに伝えている。
〈約束の時間を1時間すぎても柳田国男氏はあらわれなかった。ちょっと近所へ、と出かけたまま約束をすっかり忘れてしまったのだ。
「やあ、すまん、すまん。出先でつい話しこんで忘れてしもた。ま、忘れるのは年寄りの特徴だからかんべんしてくれたまえ。なにせ、忘れっぽくなって、おまけに足がよろよろで、どうにもならん。今もタンカで運んでもらおうと思ったくらいだ」
やっと自宅へもどった柳田さんは、そういって応接間のイスにどっかとすわり、「さあ、なんでもきいて下さい」といった。顔色はいいし、声は大きいし、いうほどの年寄りとは思えないが、年だけはたしかに84歳である〉
冗談も出るくらい上機嫌で、元気な様子がうかがえる。
このとき国男は「日本は進んでいるとか進んでいないとか、そんなことばかり気をとられていないで、どういう点が日本の特徴か、ということを深く考えるのが大事なんだ」と話したという。きょろきょろまわりを見渡してばかりいないで、自信をもって進むべきだといいたかったのだろう。
思い出を語ることが、とうぜん多くなっていた。しかし、あえて執念のような思いがあるとすれば、それは日本人とは何かということであり、それを島、とりわけ南島との関係、さらに稲作と信仰とのかかわりで考えてみたいということだったろう。
たとえば、雑誌「心」に「島の話」という座談会が掲載されている。記録によると、この座談会は、皇太子(現天皇)が結婚し、ミッチーブームが巻き起こった1959年(昭和34)の9月2日に、六本木の国際文化会館で開かれている。出席したのは、国男のほか、三笠宮崇仁、和島誠一、鎌田久子、嘉治隆一といった顔ぶれ。このとき国男は、司会の嘉治以上に話を切り盛りし、積極的に議題の進行役をつとめている。
この座談会のテーマは、神戸新聞社が後援して、夏におこなわれた瀬戸内海の家島(えじま)群島総合学術調査の成果を率直に語りあうというもので、三笠宮はその調査団長をつとめていた。出席者のうち、和島は実業家・郷誠之助の長男で考古学者、嘉治は元朝日新聞出版局長で雑誌「心」の同人委員、『故郷七十年』のインタビュアーでもあった。鎌田が名を連ねたのは、沖縄・宮古島の調査をはじめていたからだといってよい。
国男はほとんど聞き役と進行役に回っているが、いまは家島調査の内容にふれなくてもよいだろう。しめくくりの発言を紹介するにとどめる。
〈どうもきょうお話をうかがっておって、われわれにいちばん大きな問題になりますのは、つまり縄文土器あたりの早期の時代の日本の住民が、われわれの先祖とどういう関係にあるのかということですね。ことに北のほうにまいりますと、東北には確かに蝦夷の痕跡がある。それで日本人が米を作りながら、ずっと北に進んでいったが、向こうからはとうとう津軽海峡を渡ってこっちに入ってきた。ですから山が一つあれば、山にアイヌが跳梁しようと、海岸には日本民族がおるといった時代がかなりあったのではないかと思いますが、そんなふうなことをいうと、とかく概括的にどうこうと言われるものですから、まだはっきり結論は出しません。私らはどっちかといいますと島のほうからやっていこうというやり方なんですが、その上に沖縄へ行きましてからは、ごく幼稚な島のほうからというふうになりました。沖縄人は宮古から来る人たちに、自分らは仲間だと言われると非常に不愉快に感ずるくらいかけ離れて見ているのでございますがね〉
国男には、日本人が「米を作りながら、ずっと北に進んでいった」という歴史認識がしみついていた。そして、その日本人の起源を、辺境の宮古島あたりから考え抜いてみたいという念願が強かったことが見てとれる。
その数カ月前、比嘉春潮(ひが・しゅんちょう)が沖縄タイムス社から『沖縄の歴史』を発刊するにあたっても、国男は次のような序文を寄せていた。
〈一番われわれの感謝していることは、いかなる場合においても、比嘉君が故郷の知識を確立するということに対して、時間を惜しまなかったことであります。……どうか、この事業が一遍でなくして、あとあと若い読者をつなぎつけて、新しい要求をする、こういう問題も盛んに聞きたい、本島だけではなくして周囲の島から遠く離れた先島のことまでも知りたいといったような、そういう自然に若い人の頭におこるべきような疑問が、つぎつぎと張り合いをもたせ激励して、比嘉君がいつまでも達者で元気よく、この仕事をつづけられることを、私は希望するものであります〉
ひとつ謎が解けたかと思うと、その先にもっと根源的な謎が広がる。すると、解けたと思ったのは、じつは間違った答えだったことが、徐々にわかってくる。
このころの国男の発言は、残された課題を、後進の「分業と合作」に託すといったたぐいのものが多くなっている。だが、その先には、かならずといっていいくらい南島への視座が含まれていた。
たとえば、安藤広太郎の稲作史研究に寄せた序文でも、国男はこう述べている。
〈稲作伝播の経路は今に究められるかもしれない。……私にはまだ断定し得ないが、嘗(なめ)は南方諸島の稲取りのように、もっとも厳重なる斎忌をもって次の年の稲の種子を選定する儀礼と解してよかろうと思う。何らの機会、または方式をもって、誰かがこの解を確定するのが、この次の順序かと思う〉
1960年(昭和35)4月からは、戦前の1937年に「日本民俗学講座」で講義した「童神論」の長期連載もはじまった。新たな執筆ではないが、連載を前にして、国男はその解説を口述した。童神信仰とは、若宮とか若王子というかたちで、幼い子どもを祭る風習を指している。それは若くして死んで神となった者のたたりを封じるためだとしながらも、そこに国男は別の心理が隠されていることに言及する。
〈いま私が考えているのは「生まれ変わり」という日本人の考え方である。この考え方は、地方によっていろいろに違い、時代によっていろいろに変わっているが、これは日本に古くあった考え方なのである。私の経験でも、私の祖母の兄に6、7歳で死んだ人がいて、私の親がその人と顔が似ているのみでなく、挙動が似ており、その人の生まれ変わりであると言われたことを聞いている。……若くして死ぬということが、もう一度生まれ変わるための準備であったという信仰は、記念すべき迷信といってもよいと思う〉
童神は御霊(ごりょう)信仰にかかわる。しかし、国男はそこに「生まれ変わり」への願いを見た。まさか、自分が生まれ変わることを願ったわけではあるまい。とはいえ、誕生したばかりだというのに、すでに頽廃いちじるしい「民俗学」が生まれ変わることを国男はどこかで念願していたのではないだろうか。
1年にわたる「童神論」の連載がはじまったころ、国男はもうすでにじゅうぶん書きつくし、語りつくしたという気持ちになっていた。
60年5月20日には、自民党の単独強行採決により衆議院で新日米安保条約が可決された。6月にはこれに反対するデモ隊が国会をとりまくが、安保条約は自然成立する。それを待って、7月に岸信介内閣は総辞職し、池田勇人内閣が発足した。
その5月に国男は長年つとめた国学院大学大学院の教授を辞職している。このあと我孫子市の布佐を訪れたのは、ここに両親の墓があったからである。両親の墓に何を念じたのだろうか。
5月末から6月にかけては、1週間にわたり東北を旅行した。仙台には、東北大学教授となっていた女婿の堀一郎と娘の三千がいた。そこからさらに盛岡の小岩井農場を訪ねたのは、亡くなった次女千枝の夫で、ここを経営していた赤星平馬にあいさつする(あるいは孫の隆子と会う)ためだった。
そして、東京に戻ると、9月には10年におよんだ東京書籍の教科書監修を辞退している。
こうして、1957年に民俗学研究所を閉鎖し、蔵書を成城大学に寄贈し、住まいを隠居所に移して以来、国男は用意周到に、はるかな丘の上へ旅立つ準備をととのえたのである。みごとな身の処し方だといわねばならない。
ほんの少しだけでも時間を巻き戻すことにしよう。
最晩年の国男が何を考えていたのかを知るには、このころの座談会や談話、口述筆記をたどるほかない。
かつての人を緊張させずにはおかなかった鋭さはなくなり、国男は時にうつろに遠くを見やり、何度も同じ話をくり返す好々爺に変じていた。だが、亡くなる直前まで、頭脳の明晰さを失ったわけではなかった。
年をとると記憶力がなくなるというのはうそで、むしろ昔の記憶で頭がいっぱいになってしまうのだと述べた評論家がいるけれども、国男の老年もむしろ、そのようなものではなかっただろうか。
1959年(昭和34)12月に成城の柳田邸を訪れた朝日新聞の記者は、「こと『民俗学』となるとトシには見えぬ元気」という記事で、国男の様子をこんなふうに伝えている。
〈約束の時間を1時間すぎても柳田国男氏はあらわれなかった。ちょっと近所へ、と出かけたまま約束をすっかり忘れてしまったのだ。
「やあ、すまん、すまん。出先でつい話しこんで忘れてしもた。ま、忘れるのは年寄りの特徴だからかんべんしてくれたまえ。なにせ、忘れっぽくなって、おまけに足がよろよろで、どうにもならん。今もタンカで運んでもらおうと思ったくらいだ」
やっと自宅へもどった柳田さんは、そういって応接間のイスにどっかとすわり、「さあ、なんでもきいて下さい」といった。顔色はいいし、声は大きいし、いうほどの年寄りとは思えないが、年だけはたしかに84歳である〉
冗談も出るくらい上機嫌で、元気な様子がうかがえる。
このとき国男は「日本は進んでいるとか進んでいないとか、そんなことばかり気をとられていないで、どういう点が日本の特徴か、ということを深く考えるのが大事なんだ」と話したという。きょろきょろまわりを見渡してばかりいないで、自信をもって進むべきだといいたかったのだろう。
思い出を語ることが、とうぜん多くなっていた。しかし、あえて執念のような思いがあるとすれば、それは日本人とは何かということであり、それを島、とりわけ南島との関係、さらに稲作と信仰とのかかわりで考えてみたいということだったろう。
たとえば、雑誌「心」に「島の話」という座談会が掲載されている。記録によると、この座談会は、皇太子(現天皇)が結婚し、ミッチーブームが巻き起こった1959年(昭和34)の9月2日に、六本木の国際文化会館で開かれている。出席したのは、国男のほか、三笠宮崇仁、和島誠一、鎌田久子、嘉治隆一といった顔ぶれ。このとき国男は、司会の嘉治以上に話を切り盛りし、積極的に議題の進行役をつとめている。
この座談会のテーマは、神戸新聞社が後援して、夏におこなわれた瀬戸内海の家島(えじま)群島総合学術調査の成果を率直に語りあうというもので、三笠宮はその調査団長をつとめていた。出席者のうち、和島は実業家・郷誠之助の長男で考古学者、嘉治は元朝日新聞出版局長で雑誌「心」の同人委員、『故郷七十年』のインタビュアーでもあった。鎌田が名を連ねたのは、沖縄・宮古島の調査をはじめていたからだといってよい。
国男はほとんど聞き役と進行役に回っているが、いまは家島調査の内容にふれなくてもよいだろう。しめくくりの発言を紹介するにとどめる。
〈どうもきょうお話をうかがっておって、われわれにいちばん大きな問題になりますのは、つまり縄文土器あたりの早期の時代の日本の住民が、われわれの先祖とどういう関係にあるのかということですね。ことに北のほうにまいりますと、東北には確かに蝦夷の痕跡がある。それで日本人が米を作りながら、ずっと北に進んでいったが、向こうからはとうとう津軽海峡を渡ってこっちに入ってきた。ですから山が一つあれば、山にアイヌが跳梁しようと、海岸には日本民族がおるといった時代がかなりあったのではないかと思いますが、そんなふうなことをいうと、とかく概括的にどうこうと言われるものですから、まだはっきり結論は出しません。私らはどっちかといいますと島のほうからやっていこうというやり方なんですが、その上に沖縄へ行きましてからは、ごく幼稚な島のほうからというふうになりました。沖縄人は宮古から来る人たちに、自分らは仲間だと言われると非常に不愉快に感ずるくらいかけ離れて見ているのでございますがね〉
国男には、日本人が「米を作りながら、ずっと北に進んでいった」という歴史認識がしみついていた。そして、その日本人の起源を、辺境の宮古島あたりから考え抜いてみたいという念願が強かったことが見てとれる。
その数カ月前、比嘉春潮(ひが・しゅんちょう)が沖縄タイムス社から『沖縄の歴史』を発刊するにあたっても、国男は次のような序文を寄せていた。
〈一番われわれの感謝していることは、いかなる場合においても、比嘉君が故郷の知識を確立するということに対して、時間を惜しまなかったことであります。……どうか、この事業が一遍でなくして、あとあと若い読者をつなぎつけて、新しい要求をする、こういう問題も盛んに聞きたい、本島だけではなくして周囲の島から遠く離れた先島のことまでも知りたいといったような、そういう自然に若い人の頭におこるべきような疑問が、つぎつぎと張り合いをもたせ激励して、比嘉君がいつまでも達者で元気よく、この仕事をつづけられることを、私は希望するものであります〉
ひとつ謎が解けたかと思うと、その先にもっと根源的な謎が広がる。すると、解けたと思ったのは、じつは間違った答えだったことが、徐々にわかってくる。
このころの国男の発言は、残された課題を、後進の「分業と合作」に託すといったたぐいのものが多くなっている。だが、その先には、かならずといっていいくらい南島への視座が含まれていた。
たとえば、安藤広太郎の稲作史研究に寄せた序文でも、国男はこう述べている。
〈稲作伝播の経路は今に究められるかもしれない。……私にはまだ断定し得ないが、嘗(なめ)は南方諸島の稲取りのように、もっとも厳重なる斎忌をもって次の年の稲の種子を選定する儀礼と解してよかろうと思う。何らの機会、または方式をもって、誰かがこの解を確定するのが、この次の順序かと思う〉
1960年(昭和35)4月からは、戦前の1937年に「日本民俗学講座」で講義した「童神論」の長期連載もはじまった。新たな執筆ではないが、連載を前にして、国男はその解説を口述した。童神信仰とは、若宮とか若王子というかたちで、幼い子どもを祭る風習を指している。それは若くして死んで神となった者のたたりを封じるためだとしながらも、そこに国男は別の心理が隠されていることに言及する。
〈いま私が考えているのは「生まれ変わり」という日本人の考え方である。この考え方は、地方によっていろいろに違い、時代によっていろいろに変わっているが、これは日本に古くあった考え方なのである。私の経験でも、私の祖母の兄に6、7歳で死んだ人がいて、私の親がその人と顔が似ているのみでなく、挙動が似ており、その人の生まれ変わりであると言われたことを聞いている。……若くして死ぬということが、もう一度生まれ変わるための準備であったという信仰は、記念すべき迷信といってもよいと思う〉
童神は御霊(ごりょう)信仰にかかわる。しかし、国男はそこに「生まれ変わり」への願いを見た。まさか、自分が生まれ変わることを願ったわけではあるまい。とはいえ、誕生したばかりだというのに、すでに頽廃いちじるしい「民俗学」が生まれ変わることを国男はどこかで念願していたのではないだろうか。
1年にわたる「童神論」の連載がはじまったころ、国男はもうすでにじゅうぶん書きつくし、語りつくしたという気持ちになっていた。
60年5月20日には、自民党の単独強行採決により衆議院で新日米安保条約が可決された。6月にはこれに反対するデモ隊が国会をとりまくが、安保条約は自然成立する。それを待って、7月に岸信介内閣は総辞職し、池田勇人内閣が発足した。
その5月に国男は長年つとめた国学院大学大学院の教授を辞職している。このあと我孫子市の布佐を訪れたのは、ここに両親の墓があったからである。両親の墓に何を念じたのだろうか。
5月末から6月にかけては、1週間にわたり東北を旅行した。仙台には、東北大学教授となっていた女婿の堀一郎と娘の三千がいた。そこからさらに盛岡の小岩井農場を訪ねたのは、亡くなった次女千枝の夫で、ここを経営していた赤星平馬にあいさつする(あるいは孫の隆子と会う)ためだった。
そして、東京に戻ると、9月には10年におよんだ東京書籍の教科書監修を辞退している。
こうして、1957年に民俗学研究所を閉鎖し、蔵書を成城大学に寄贈し、住まいを隠居所に移して以来、国男は用意周到に、はるかな丘の上へ旅立つ準備をととのえたのである。みごとな身の処し方だといわねばならない。
時よとまれ [柳田国男の昭和]
《第251回》
数えで85歳をすぎた柳田国男は、書簡やメモなどはともかくとして、原稿を執筆することはなくなり、もっぱら読む人、語る人になった。民俗学研究所が閉鎖され、そこに置かれていた大量の書籍や資料を成城大学に寄贈してからは、新しく建てた隠居所で静かに暮らす日々がつづいている。
近くであんまをしてもらったり、週に一二度、長い散歩をしたりする習慣は変わらない。風邪をこじらして肺炎にかかり入院することもあるが、だいたいは元気だった。誰をも驚かせた強靱な記憶力がとみに衰えたことはいなめない。それでも近くの成城大学や渋谷の国学院大学に出かけて講義もしていたし、学士院や稲作研究会の会合にもよく出席していた。頼まれれば講演もするし、雑誌の座談会にも顔を出した。
成城の柳田邸を訪れる人は、かつてほど多くなくなったが、それでも人がくると歓待し、話はつきなかった。
おまけにテレビにも出演している。1961年(昭和36)3月7日にははじめてTBSの「婦人ニュース」で民俗学について話し、翌年3月22日にはNHKの「ここに鐘は鳴る」で、多くのなつかしい顔ぶれを前に、元気な姿を見せた。
晩年を飾る代表作『故郷七十年』と『海上の道』も出版され、江湖の喝采を博したのはいうまでもない。
加えて、初の全集となる『定本柳田国男集』も筑摩書房から出はじめている。1962年1月には、その第1回目となる『雪国の春』などを収めた「第2巻」が配本され、その後、「第8巻」「第9巻」「第22巻」「第14巻」と毎月順調に刊行が進んでいた。
その「定本」の内容見本に国男を敬愛する中野重治は、「こういう形で読めるありがたさ」と題して、かれ一流の言い回しで、推薦のことばを寄せている。
〈それは、私には文学文学という文学よりももっと人をとらえる何かだった。そこから何を学んだかということはいいにくいが、私としていえば、民族の姿とか国語の姿とかいったことが主なものだったろうと思う。……つまり、日本人の生き方の姿とか問題として柳田さんの学問はうまれてきたのだったかも知れない。このへんのことは私にはよくわからない。しかしまたそのへんに、柳田さんのものに向かったときにわれわれの中に生じる無限の近しさの源があったと思う〉
柳田民俗学の根幹が「日本人の生き方の姿とか問題」にあるととらえた中野重治の指摘はさすがである。これが日本人だといわれても、じつはよくわからない。ニッポン国民といわれると、えらそうな連中のつくった「国」なるものに閉じこめられたような気がする。しかし、柳田民俗学は、はじめて国によって定められた「民」ではなく、自前の「日本人」像をつくりだしたのではないか。おそらく中野のいいたいことはそのあたりにある。
そのころの国男をスケッチした文章をみつけた。
最晩年の1962年(昭和37)5月、作家の佐多稲子が、女友達と連れだって柳田邸を訪れている。
〈成城の今のお住まいは二十数年昔のお宅ではなかった。同道した布土富美子さんはわらべ人形の作者で、その仕事の上で柳田先生とお近づきがあるようだ。私たちは、紫のてっせんの花などの見えるみどり深いお庭を前に、先生ご夫妻と静かなひとときを過ごさせていただいた。
「このごろは私は、同じことを何度もいうらしいのですよ」と先生ご自身がおっしゃいながら、私たち女連れのうかがったことを、二度三度、めずらしがっていられた。お庭へ出てから、ご自分の方で書斎も見せてくだすったりしたが、奥様がもの柔らかにいつもご一緒に歩かれて、そのことが美しく印象に残る。私の方では、突然にうかがった自分をはしたなくも感じてしまうことだったが、私たちがおいとまするとき先生ご夫妻は、自然な形で、門の外までおいでくださった〉
佐多稲子は戦前、雑誌「新女苑」の編集を手伝っていて、国男の談話をとったことがあり、国男とはそれ以来のつきあいだった。
わらべ人形が出てくるのは、1年ほど前、国男が雑誌「芸能」に「童神論」を連載したことと関係があったかもしれない。
夫人が国男を常に気づかいながらも、周囲には静かで穏やかな時が流れていたことがわかる。「このごろは私は、同じことを何度もいうらしいのですよ」と冗談めかすように話す国男は、あたかも童心に戻ろうとしているかのようだった。いや自身が童神になろうとしていたのかもしれなかった。
中野重治が柳田邸を訪れたのも、自宅でつくった草餅をもっていったというから、同じころか、あるいはさらに1年前だったかもしれない。国男はこのときも「いつものさっさといった調子」であらわれ、「よく来た、さアあがれ……」と上機嫌で中野を迎えたという。
国男は草餅のお礼をいうのを忘れなかった。さらに、ごく気のおけぬ連中だけで、雑誌社なんかいれないで、研究会でも座談会でもやろうと意気軒昂なところもみせた。
そのあとである。
長くなるが、中野の文章をそのまま引いておく。
〈そのうちそういう話が柳田さんから出て、私はことごとく賛成した。私は民俗学の方には関係ないが、柳田さんの話し方からすると、私なぞもそこへ加えてもらえるのらしい。
「時に君は高椋(たかぼこ)でしたね。大間知(おおまち)君は越中でしたね……」
そうして話がすすむ。
「時に君は高椋でしたね……」
そのへんで私は気づかされてきた。私は息を呑んだ。4、5分もすると話がもどってくる。それが繰りかえされる。私は身の置場がなくなってきた。脳中枢というのか、矍鑠(かくしゃく)として見えるこの人のなかで、大脳生理とか神経生理とかいうところで、大木のコルク質にぽくぽくの部分が出来たような変化が生じてるのらしい。30年前に話したことでも二度と繰りかえさない。橋浦泰雄がむかしむかし歩いた道、それを、橋浦自身まちがえてると柳田さんが訂正する。そんな話を聞き聞きしてきたが、その人がこうなっている。私はただ悲しくなってきた。
やがて私は辞した。奥さんが門のところまで送ってくだすった。そうして、その門のところで、「このごろすっかりあんな具合になりまして、失礼ばかりいたしますが……」というような言葉が私の耳にはいった。
私は打ちひしがれて電車に乗り、打ちひしがれたままで家へ帰って行き、模様を話してからも腰のぬけたような気持ちでいた〉
中野の一文は「私はただ、あの草餅を柳田さんが食べてくだされたろうことを幸福とする」と結ばれている。
ここに出てくる大間知篤三、橋浦泰雄は国男の弟子である。
中野は何度も同じ話をくり返すようになった国男の頭脳の衰えに愕然としている。だが、むしろ驚くべきは、人の名前が出身地と結びつけられて、しっかり記憶されていたことかもしれない。国男にはおそらく中野重治といえば、かれの生まれた福井県坂井郡高椋村(現坂井市)の光景がまざまざと浮かんだのだろう。
一見、脈絡がないかのようで、国男の頭のなかでは、何もかもがくり返し連想されている。ことばにはならない記憶が走馬燈のように浮かんでは消えていく。
柳田国男が老衰で亡くなったのは、1962年(昭和37)8月8日のことである。享年88歳。
『柳田国男伝』には、国男の秘書を務めていた鎌田久子が、言語学者の金田一春彦に語った臨終の様子が掲載されている。
〈柳田先生はおなくなりになる前日まで実にしっかりしていらっしゃった。少し前から床にはついておられたが、はばかりへも自分でお立ちになり、食事の時はちゃんと正座され、ついに一度も人手をわずらわされなかった。それが前日はばかりから床へお帰りになると、くずれるようにおたおれになった。「くずれるように」というのは、誇張ではない。燃えたものが灰になっても、灰のままその形を保って立っていることがある。あれがくずれる時のように床の上にバサッとたおれてしまわれ、再び起き上がれなかったというのである。先生は気力だけでそれまでの何日かを持ちこたえておられたのであろうか。
それから1日半、先生はベッドの中でうつらうつらしておられたが、8月8日の午後1時安らかに息を引き取られた。その死顔はデッドマスクを取らずにはおられないように美しかったという。享年88歳、まことにあらまほしく羨ましい。一世に重きをなした大学者にふさわしいりっぱな御臨終であった〉
「あらまほしく羨ましい」死に方といえば、まさにそのとおりである。
しかし、われわれとしては、ここで「時よとまれ」といった気分にさせられる。
最晩年の国男が考え、祈っていたことどもをもう一度ふり返ってみたいからである。
数えで85歳をすぎた柳田国男は、書簡やメモなどはともかくとして、原稿を執筆することはなくなり、もっぱら読む人、語る人になった。民俗学研究所が閉鎖され、そこに置かれていた大量の書籍や資料を成城大学に寄贈してからは、新しく建てた隠居所で静かに暮らす日々がつづいている。
近くであんまをしてもらったり、週に一二度、長い散歩をしたりする習慣は変わらない。風邪をこじらして肺炎にかかり入院することもあるが、だいたいは元気だった。誰をも驚かせた強靱な記憶力がとみに衰えたことはいなめない。それでも近くの成城大学や渋谷の国学院大学に出かけて講義もしていたし、学士院や稲作研究会の会合にもよく出席していた。頼まれれば講演もするし、雑誌の座談会にも顔を出した。
成城の柳田邸を訪れる人は、かつてほど多くなくなったが、それでも人がくると歓待し、話はつきなかった。
おまけにテレビにも出演している。1961年(昭和36)3月7日にははじめてTBSの「婦人ニュース」で民俗学について話し、翌年3月22日にはNHKの「ここに鐘は鳴る」で、多くのなつかしい顔ぶれを前に、元気な姿を見せた。
晩年を飾る代表作『故郷七十年』と『海上の道』も出版され、江湖の喝采を博したのはいうまでもない。
加えて、初の全集となる『定本柳田国男集』も筑摩書房から出はじめている。1962年1月には、その第1回目となる『雪国の春』などを収めた「第2巻」が配本され、その後、「第8巻」「第9巻」「第22巻」「第14巻」と毎月順調に刊行が進んでいた。
その「定本」の内容見本に国男を敬愛する中野重治は、「こういう形で読めるありがたさ」と題して、かれ一流の言い回しで、推薦のことばを寄せている。
〈それは、私には文学文学という文学よりももっと人をとらえる何かだった。そこから何を学んだかということはいいにくいが、私としていえば、民族の姿とか国語の姿とかいったことが主なものだったろうと思う。……つまり、日本人の生き方の姿とか問題として柳田さんの学問はうまれてきたのだったかも知れない。このへんのことは私にはよくわからない。しかしまたそのへんに、柳田さんのものに向かったときにわれわれの中に生じる無限の近しさの源があったと思う〉
柳田民俗学の根幹が「日本人の生き方の姿とか問題」にあるととらえた中野重治の指摘はさすがである。これが日本人だといわれても、じつはよくわからない。ニッポン国民といわれると、えらそうな連中のつくった「国」なるものに閉じこめられたような気がする。しかし、柳田民俗学は、はじめて国によって定められた「民」ではなく、自前の「日本人」像をつくりだしたのではないか。おそらく中野のいいたいことはそのあたりにある。
そのころの国男をスケッチした文章をみつけた。
最晩年の1962年(昭和37)5月、作家の佐多稲子が、女友達と連れだって柳田邸を訪れている。
〈成城の今のお住まいは二十数年昔のお宅ではなかった。同道した布土富美子さんはわらべ人形の作者で、その仕事の上で柳田先生とお近づきがあるようだ。私たちは、紫のてっせんの花などの見えるみどり深いお庭を前に、先生ご夫妻と静かなひとときを過ごさせていただいた。
「このごろは私は、同じことを何度もいうらしいのですよ」と先生ご自身がおっしゃいながら、私たち女連れのうかがったことを、二度三度、めずらしがっていられた。お庭へ出てから、ご自分の方で書斎も見せてくだすったりしたが、奥様がもの柔らかにいつもご一緒に歩かれて、そのことが美しく印象に残る。私の方では、突然にうかがった自分をはしたなくも感じてしまうことだったが、私たちがおいとまするとき先生ご夫妻は、自然な形で、門の外までおいでくださった〉
佐多稲子は戦前、雑誌「新女苑」の編集を手伝っていて、国男の談話をとったことがあり、国男とはそれ以来のつきあいだった。
わらべ人形が出てくるのは、1年ほど前、国男が雑誌「芸能」に「童神論」を連載したことと関係があったかもしれない。
夫人が国男を常に気づかいながらも、周囲には静かで穏やかな時が流れていたことがわかる。「このごろは私は、同じことを何度もいうらしいのですよ」と冗談めかすように話す国男は、あたかも童心に戻ろうとしているかのようだった。いや自身が童神になろうとしていたのかもしれなかった。
中野重治が柳田邸を訪れたのも、自宅でつくった草餅をもっていったというから、同じころか、あるいはさらに1年前だったかもしれない。国男はこのときも「いつものさっさといった調子」であらわれ、「よく来た、さアあがれ……」と上機嫌で中野を迎えたという。
国男は草餅のお礼をいうのを忘れなかった。さらに、ごく気のおけぬ連中だけで、雑誌社なんかいれないで、研究会でも座談会でもやろうと意気軒昂なところもみせた。
そのあとである。
長くなるが、中野の文章をそのまま引いておく。
〈そのうちそういう話が柳田さんから出て、私はことごとく賛成した。私は民俗学の方には関係ないが、柳田さんの話し方からすると、私なぞもそこへ加えてもらえるのらしい。
「時に君は高椋(たかぼこ)でしたね。大間知(おおまち)君は越中でしたね……」
そうして話がすすむ。
「時に君は高椋でしたね……」
そのへんで私は気づかされてきた。私は息を呑んだ。4、5分もすると話がもどってくる。それが繰りかえされる。私は身の置場がなくなってきた。脳中枢というのか、矍鑠(かくしゃく)として見えるこの人のなかで、大脳生理とか神経生理とかいうところで、大木のコルク質にぽくぽくの部分が出来たような変化が生じてるのらしい。30年前に話したことでも二度と繰りかえさない。橋浦泰雄がむかしむかし歩いた道、それを、橋浦自身まちがえてると柳田さんが訂正する。そんな話を聞き聞きしてきたが、その人がこうなっている。私はただ悲しくなってきた。
やがて私は辞した。奥さんが門のところまで送ってくだすった。そうして、その門のところで、「このごろすっかりあんな具合になりまして、失礼ばかりいたしますが……」というような言葉が私の耳にはいった。
私は打ちひしがれて電車に乗り、打ちひしがれたままで家へ帰って行き、模様を話してからも腰のぬけたような気持ちでいた〉
中野の一文は「私はただ、あの草餅を柳田さんが食べてくだされたろうことを幸福とする」と結ばれている。
ここに出てくる大間知篤三、橋浦泰雄は国男の弟子である。
中野は何度も同じ話をくり返すようになった国男の頭脳の衰えに愕然としている。だが、むしろ驚くべきは、人の名前が出身地と結びつけられて、しっかり記憶されていたことかもしれない。国男にはおそらく中野重治といえば、かれの生まれた福井県坂井郡高椋村(現坂井市)の光景がまざまざと浮かんだのだろう。
一見、脈絡がないかのようで、国男の頭のなかでは、何もかもがくり返し連想されている。ことばにはならない記憶が走馬燈のように浮かんでは消えていく。
柳田国男が老衰で亡くなったのは、1962年(昭和37)8月8日のことである。享年88歳。
『柳田国男伝』には、国男の秘書を務めていた鎌田久子が、言語学者の金田一春彦に語った臨終の様子が掲載されている。
〈柳田先生はおなくなりになる前日まで実にしっかりしていらっしゃった。少し前から床にはついておられたが、はばかりへも自分でお立ちになり、食事の時はちゃんと正座され、ついに一度も人手をわずらわされなかった。それが前日はばかりから床へお帰りになると、くずれるようにおたおれになった。「くずれるように」というのは、誇張ではない。燃えたものが灰になっても、灰のままその形を保って立っていることがある。あれがくずれる時のように床の上にバサッとたおれてしまわれ、再び起き上がれなかったというのである。先生は気力だけでそれまでの何日かを持ちこたえておられたのであろうか。
それから1日半、先生はベッドの中でうつらうつらしておられたが、8月8日の午後1時安らかに息を引き取られた。その死顔はデッドマスクを取らずにはおられないように美しかったという。享年88歳、まことにあらまほしく羨ましい。一世に重きをなした大学者にふさわしいりっぱな御臨終であった〉
「あらまほしく羨ましい」死に方といえば、まさにそのとおりである。
しかし、われわれとしては、ここで「時よとまれ」といった気分にさせられる。
最晩年の国男が考え、祈っていたことどもをもう一度ふり返ってみたいからである。
民俗学の頽廃を悲しむ [柳田国男の昭和]
《第250回》
1956年(昭和31)の『経済白書』が「もはや戦後ではない」とうたったのは、二重の意味をもっていた。ひとつは敗戦による惨憺たる経済状況が終わりつつあるということ、もうひとつは日本経済が新たな時代に向けて歩みはじめているということである。つまり、日本経済の復活と新たな前進が宣言されたのだとみてよい。
1940年(昭和15)と55年(昭和30)を比較してみると、日本の総人口は約7000万人から9000万人へと増加した。就業人口もまた3200万人から3900万人へと拡大する。総人口の割に就業人口は増えていないが、そこからは戦後のベビーブームを実感できるだろう。子どもたちはまだ就業年齢に達していない。親たちは家族を守るために、懸命に働いていたのだ。
この間、産業別の人口比は、第1次産業が46%から42%へ、第2次産業が25%から23%へ、第3次産業が29%が35%になっている。農業などの部門が減ったといえばいえるが、それほど産業別比率は変わっていないとみたほうがいいだろう。
都市人口の割合は35%から45%へと上昇している。かなり都市化が進んでいるとはいえ、日本はまだまだ農村中心の社会だった。
実質国内総生産(GDP)でみると、1940年の水準を上回ったのは1955年だ。1人あたりGDPが1940年水準に達するのは、ようやく1957年になってからである。そのかぎりにおいて、日本経済は戦後10年ほどをへて、ようやく戦前の水準へと戻ったのである。
しかし、経済の中身は、戦前と大きく変わろうとしている。重化学工業化、エレクトロニクス化、新技術の導入、石炭から石油へのエネルギー転換がはじまっていた。
農業の分野でも、それは同じである。
経済学者の中村隆英はこう書いている。
〈農地改革によって、自作農になった農家が、当時の新技術──保温折衷苗代や除虫剤、除草剤の使用などを積極的に採用し、農作業につとめた結果、土地生産性が著しく改善されて、面積当たりの米の収穫は戦前のほぼ2倍を記録するにいたった。米の不足は以後解消したし、農外収入を含めた農家の収入が、都市とほぼ対等になっていくのである〉
1957年から58年にかけて日本経済はいわゆる「なべ底景気」と呼ばれる不況を経験した。55年から56年にかけての「神武景気」が調整局面にはいったことに加えて、スエズ動乱(第2次中東戦争)が発生し、国際物価が高騰したことが、不況の原因である。
スエズ動乱は、1956年にエジプトがスエズ運河を国有化したことによって生じた。そのときイギリスとフランスは、イスラエルを後押しして、エジプトを攻撃させる。スエズ運河が一時閉鎖されたため、石油や原綿、くず鉄などの国際物価は急上昇し、加工貿易に頼る日本も深刻な経済的打撃を受けた。
だが、アメリカの支援によりエジプトの立場が認められると、国際価格も落ち着き、国内の金融も緩和されて、日本では鉄鋼業、石油化学工業、機械工業、自動車産業などを中心にすさまじい設備投資熱が巻き起こり、日本は高度経済成長時代に突入するのである。
中村隆英の解説をふたたび引用する。
〈大量生産による規模の経済性の追求は各企業の合言葉となった。1959年ごろからは新工場の立地がめざましく進められた。それが太平洋の各地に集中していったのである。新立地が行われれば、当然、道路、港湾、工業用水など、社会投資の増大が不可欠となった。しかも、この時期の新産業開発にあたっては、企業集団の間の競争も目立つようになった。三井、三菱、住友など、旧財閥系企業は、それぞれの金融機関を中心に、企業グループを結成していたし、従来、グループとして認められていなかった興銀、富士、第一などの各銀行も、それぞれ企業グループを形成して、グループ内各社が共同して新産業に乗り出す例が多くなった〉
政府、金融、産業が一体となって、日本の工業化が急速に進められようとしていた。日米安保をめぐる政治の嵐のもとで、こうした経済の大変動が生じていたことは注目してよい。経済の変動は同時に社会や暮らしの変動でもある。都市化が進むなかで、農村の姿も大きく変わろうとしていた。
日本経済には大企業と中小企業という二重構造があるといわれる。そして、こうした二重構造のもとで、企業や工場ではたらくサラリーマンや労働者が増えていた。しかし、1950年代後半といえば、経済活動の大多数を占める農家や工場(こうば)、商店、食堂などはまだまだ家族経営が中心だった。それでも、小さな経済を家族がになうという時代も、いつまでもつづくとは思えなかった。もし大家族が分解していくとなると、日本の家はこれからいったいどうなっていくのだろうか。
柳田国男はおそらく1958年(昭和33)の春ごろに開かれた「女の会」(女性民俗学研究会)で、こんなふうに話していた。
〈一つのものを非常に深く入ったように見えていて、実は深くもないし、それからまた後始末のつかないものになってしまっては、いわば民俗学が衰微するもとになってしまいます。もちろんその中から改めて新しい考えが出て来ないとは限らないけれども、大体において衰微の傾向をとっているものだと思われる。というのは、学問全体の成長からいっても、あるところに濃厚になるということは、大変よいことだけれども、そのほかにもう一段と重要なもののあることを、見落とすことになりがちだからです。そのためには、はっきりした、一点、非の打ちどころのない方法論を書くことは、永久にこの学問を永続させるためには欠くべからざることであります……〉
例によって、いわんとすることがつかみがたい。しかし、おそらく国男は、これまでの民俗学のテーマをさらに掘り下げることも、学問的には必要かもしれないが、それでは民俗学が現実との緊張感を失って、衰微していくことになってしまうと警告を発したのである。新しい問題点を見つけだしていくことが必要だった。と同時に、国男はどんなに時代が移りかわっても、確固とした「非の打ちどころのない方法論」をつくりださねばならないとも強調している。そこには、急速に変貌する日本社会の現状に、はたして民俗学は何らかの指針を提供しているのかという、あせりにも似た絶望的な問いかけがひそんでいたにちがいない。
ふだんはにこやかな国男なのに、時折、頭をもたげる絶望が怒りとなって爆発することもある。これは2年後のことだが、『柳田国男伝』によると、1960年(昭和35)5月14日に両親の墓参のため、我孫子市布佐を訪れた国男は、前日、千葉を訪れ、教職員の小さな集まりで、「日本民俗学の頽廃を悲しむ」と題して講演し、「特徴ある国でなくなりつつある日本を憂い」、「珍談奇談の収集にはしりがちな」民俗学の将来を危ぶんだという。
それはともかくとして、「女の会」の談話では、国男は最後にこんなふうに話している。
〈一番最後の目的は、女のやれる仕事をもう少しやって、そして今世の中を明るく、朗らかにするにはどうしたらよいかということを各自が考えるようにならなければならぬと思います。結局は共同生活の基礎になる知識、広い意味の史学の知識を知るように努力しなければならないことだと、私は思っています〉
国男は女性たちの活躍に期待したのである。女性の立場からみて、民俗学にはまだまだ開拓すべき分野が残っているはずだと思っていた。その目的は、最終的には、あくまでも「世の中を明るく、朗らかにする」ことにあった。
これまでの歴史には書かれていない「史学の知識」を切り開かねばならない。それはアメリカニズムと消費社会の渦に巻きこまれる戦後日本の姿を照射する鏡となるはずだった。
1956年(昭和31)の『経済白書』が「もはや戦後ではない」とうたったのは、二重の意味をもっていた。ひとつは敗戦による惨憺たる経済状況が終わりつつあるということ、もうひとつは日本経済が新たな時代に向けて歩みはじめているということである。つまり、日本経済の復活と新たな前進が宣言されたのだとみてよい。
1940年(昭和15)と55年(昭和30)を比較してみると、日本の総人口は約7000万人から9000万人へと増加した。就業人口もまた3200万人から3900万人へと拡大する。総人口の割に就業人口は増えていないが、そこからは戦後のベビーブームを実感できるだろう。子どもたちはまだ就業年齢に達していない。親たちは家族を守るために、懸命に働いていたのだ。
この間、産業別の人口比は、第1次産業が46%から42%へ、第2次産業が25%から23%へ、第3次産業が29%が35%になっている。農業などの部門が減ったといえばいえるが、それほど産業別比率は変わっていないとみたほうがいいだろう。
都市人口の割合は35%から45%へと上昇している。かなり都市化が進んでいるとはいえ、日本はまだまだ農村中心の社会だった。
実質国内総生産(GDP)でみると、1940年の水準を上回ったのは1955年だ。1人あたりGDPが1940年水準に達するのは、ようやく1957年になってからである。そのかぎりにおいて、日本経済は戦後10年ほどをへて、ようやく戦前の水準へと戻ったのである。
しかし、経済の中身は、戦前と大きく変わろうとしている。重化学工業化、エレクトロニクス化、新技術の導入、石炭から石油へのエネルギー転換がはじまっていた。
農業の分野でも、それは同じである。
経済学者の中村隆英はこう書いている。
〈農地改革によって、自作農になった農家が、当時の新技術──保温折衷苗代や除虫剤、除草剤の使用などを積極的に採用し、農作業につとめた結果、土地生産性が著しく改善されて、面積当たりの米の収穫は戦前のほぼ2倍を記録するにいたった。米の不足は以後解消したし、農外収入を含めた農家の収入が、都市とほぼ対等になっていくのである〉
1957年から58年にかけて日本経済はいわゆる「なべ底景気」と呼ばれる不況を経験した。55年から56年にかけての「神武景気」が調整局面にはいったことに加えて、スエズ動乱(第2次中東戦争)が発生し、国際物価が高騰したことが、不況の原因である。
スエズ動乱は、1956年にエジプトがスエズ運河を国有化したことによって生じた。そのときイギリスとフランスは、イスラエルを後押しして、エジプトを攻撃させる。スエズ運河が一時閉鎖されたため、石油や原綿、くず鉄などの国際物価は急上昇し、加工貿易に頼る日本も深刻な経済的打撃を受けた。
だが、アメリカの支援によりエジプトの立場が認められると、国際価格も落ち着き、国内の金融も緩和されて、日本では鉄鋼業、石油化学工業、機械工業、自動車産業などを中心にすさまじい設備投資熱が巻き起こり、日本は高度経済成長時代に突入するのである。
中村隆英の解説をふたたび引用する。
〈大量生産による規模の経済性の追求は各企業の合言葉となった。1959年ごろからは新工場の立地がめざましく進められた。それが太平洋の各地に集中していったのである。新立地が行われれば、当然、道路、港湾、工業用水など、社会投資の増大が不可欠となった。しかも、この時期の新産業開発にあたっては、企業集団の間の競争も目立つようになった。三井、三菱、住友など、旧財閥系企業は、それぞれの金融機関を中心に、企業グループを結成していたし、従来、グループとして認められていなかった興銀、富士、第一などの各銀行も、それぞれ企業グループを形成して、グループ内各社が共同して新産業に乗り出す例が多くなった〉
政府、金融、産業が一体となって、日本の工業化が急速に進められようとしていた。日米安保をめぐる政治の嵐のもとで、こうした経済の大変動が生じていたことは注目してよい。経済の変動は同時に社会や暮らしの変動でもある。都市化が進むなかで、農村の姿も大きく変わろうとしていた。
日本経済には大企業と中小企業という二重構造があるといわれる。そして、こうした二重構造のもとで、企業や工場ではたらくサラリーマンや労働者が増えていた。しかし、1950年代後半といえば、経済活動の大多数を占める農家や工場(こうば)、商店、食堂などはまだまだ家族経営が中心だった。それでも、小さな経済を家族がになうという時代も、いつまでもつづくとは思えなかった。もし大家族が分解していくとなると、日本の家はこれからいったいどうなっていくのだろうか。
柳田国男はおそらく1958年(昭和33)の春ごろに開かれた「女の会」(女性民俗学研究会)で、こんなふうに話していた。
〈一つのものを非常に深く入ったように見えていて、実は深くもないし、それからまた後始末のつかないものになってしまっては、いわば民俗学が衰微するもとになってしまいます。もちろんその中から改めて新しい考えが出て来ないとは限らないけれども、大体において衰微の傾向をとっているものだと思われる。というのは、学問全体の成長からいっても、あるところに濃厚になるということは、大変よいことだけれども、そのほかにもう一段と重要なもののあることを、見落とすことになりがちだからです。そのためには、はっきりした、一点、非の打ちどころのない方法論を書くことは、永久にこの学問を永続させるためには欠くべからざることであります……〉
例によって、いわんとすることがつかみがたい。しかし、おそらく国男は、これまでの民俗学のテーマをさらに掘り下げることも、学問的には必要かもしれないが、それでは民俗学が現実との緊張感を失って、衰微していくことになってしまうと警告を発したのである。新しい問題点を見つけだしていくことが必要だった。と同時に、国男はどんなに時代が移りかわっても、確固とした「非の打ちどころのない方法論」をつくりださねばならないとも強調している。そこには、急速に変貌する日本社会の現状に、はたして民俗学は何らかの指針を提供しているのかという、あせりにも似た絶望的な問いかけがひそんでいたにちがいない。
ふだんはにこやかな国男なのに、時折、頭をもたげる絶望が怒りとなって爆発することもある。これは2年後のことだが、『柳田国男伝』によると、1960年(昭和35)5月14日に両親の墓参のため、我孫子市布佐を訪れた国男は、前日、千葉を訪れ、教職員の小さな集まりで、「日本民俗学の頽廃を悲しむ」と題して講演し、「特徴ある国でなくなりつつある日本を憂い」、「珍談奇談の収集にはしりがちな」民俗学の将来を危ぶんだという。
それはともかくとして、「女の会」の談話では、国男は最後にこんなふうに話している。
〈一番最後の目的は、女のやれる仕事をもう少しやって、そして今世の中を明るく、朗らかにするにはどうしたらよいかということを各自が考えるようにならなければならぬと思います。結局は共同生活の基礎になる知識、広い意味の史学の知識を知るように努力しなければならないことだと、私は思っています〉
国男は女性たちの活躍に期待したのである。女性の立場からみて、民俗学にはまだまだ開拓すべき分野が残っているはずだと思っていた。その目的は、最終的には、あくまでも「世の中を明るく、朗らかにする」ことにあった。
これまでの歴史には書かれていない「史学の知識」を切り開かねばならない。それはアメリカニズムと消費社会の渦に巻きこまれる戦後日本の姿を照射する鏡となるはずだった。
60年安保前夜 [柳田国男の昭和]
《第249回》
1958年(昭和33)5月には3年3カ月ぶりに総選挙がおこなわれ、自由民主党(自民党)が287、日本社会党(社会党)が166の議席を獲得した。保守、革新の合同により自民党、社会党が誕生して以来だから、いずれ国民の信を問わなければならなかった。
ふたをあけてみれば、保守、革新両勢力の議席配分は前とほとんど変わらない。ただし、自民党も憲法改正に必要とされる3分の2の議席には届かなかった。これ以降、しばらくは自民党が圧倒的多数を維持する時代がつづく。
石橋湛山政権を継いだ岸信介は、引き続き首相の座を維持し、60年の日米安保条約改正へと突っ走ることになる。
政治の季節がはじまっていた。
国家主義者の岸がめざしたのは、強い国家の再建である。
中村隆英は名著『昭和史』のなかで、こう書いている。
〈岸信介は、吉田茂がつくった対米従属的な日米安保体制を、対等の関係に切り替えることによって、歴史的な役割を果たす野心に燃えていた。戦前の大国の栄光を取り戻すことが自分の使命だと思っていたらしく、当面の経済政策などは、大宰相の仕事ではない、と考えていた〉
すでに自衛隊の増強を打ちだしていた岸は、安保条約の改定を前に、日教組の弱体化と警察力の強化をはかった。
教師にも「勤務評定」が実施され、文部省は教育現場に道徳教育をもちこむ。10月には警察官職務法(警職法)の改正が突如、国会に提出される。警察官の捜査権限を戦前並みに拡大しようというのである。これには、さすがに反対の声が強く、けっきょくこの法案は国会で見送りとなった。
だが、この時点ですでにアメリカ側とは、新しい日米安保条約の大筋がまとまっていた。
その内容を中村隆英は、次のように解説する。
〈まず、国連を重視すること、[戦力をもたず、対外戦争をしないという]日本国憲法の制約を考慮すること、[日本の内乱に米軍が出動できるとする]内乱条項を削除することなどの日本側の要求が盛り込まれていた。また日本を基地とするアメリカ軍の戦闘作戦行動についての事前協議についての交換公文と、在日アメリカ軍のための施設、区域やその地位を定めた日米地位協定が付随していた。しかし同時に、共通の危機に対処するため、日本がアメリカ軍と協力することが明記され、アメリカ軍の日本駐留の目的として、日本国の安全と並んで、極東における国際の平和および安全の維持が掲げられたために、いわゆる「極東の範囲」がのちに大問題とされるにいたった〉
これが現在にいたる日米安保の枠組みとなった。「極東の範囲」は現在、世界全域に拡大され、沖縄返還後も沖縄の米軍基地はいっこうに縮小されず、むしろますます機能強化されている。
岸内閣は日米安保条約成立に向けてがむしゃらに進んだ。そして条約は1960年5月19日に衆議院本会議で強行単独採決される(6月19日午前零時に自然成立)のである。岸は国会混乱の責任をとって辞任することとなる。
日本ではその間、政争の暴風が吹き荒れていた。
80歳をすぎた柳田国男が政治について語ることはほとんどなくなっていた。どちらかといえば吉田茂に愛着を覚えていた国男は、おそらく国権派の岸による強引な政治運営に批判の目を向けていたにちがいない。しかし、それをあからさまに語ることはなかった。日米安保条約について、どう考えていたかも定かではない。
1958年初夏の総選挙後に発表された「日本における内と外の観念」は、日本の成り立ちを大雑把に示した口述筆記論考だった。その末尾で、国男は国語教育と関連するかたちで、選挙にふれている。
〈これ[選挙運動員によるコネ選挙]を改革するには、まず聞き方教育をしなければならない。……私は、政策の実行方法としては、文語廃止、口語改良論だ。口語を改良して、ちょっとの細かな感情の差も言えるようにして、聞けばすぐに吸収されてしまうようなものにしなければならない。
(中略)
このごろ、東京あたりの選挙運動の言葉は普通言葉に近くなったが、田舎に行くと、かえってむずかしくなる。……こうして、半分ぐらいしかわからぬから、まずまず多数についておこうという大勢順応党が生まれる。表面は民主政治になっても、現実は寡頭政治である。その原因は、もちろん国民の知恵の欠乏であり、判断よりも思考力がまず不足している。
(中略)
私は、なんといっても、国民が自分の言葉で語り、自分の言葉で聞けるようになることが先決だと思っている。そうでなければ、正しい考え方を成長させることができないからであり、また、われわれが先祖から伝えてきた正しい正しくないの暗黙の指示を公のものとして成り立たせることもできないからである〉
選挙のたびに国男は、この話を繰り返したらしい。
これについてはおもしろいエピソードを、国男にまつわる思い出として、のちに桑原武夫が書いている。
国立国語研究所の評議会でのことで、当時、国男はその会長、桑原は評議員だった。おそらく1955年(昭和30)2月の総選挙を控えたときの話である。
国男から公明選挙といいながら、醜悪なことが絶えないのは、日本語がむずかしすぎるからだという話を評議会でさんざ聞かされたあと、桑原はとつぜん意見を求められる。
〈ぼんやり聞いていると、いきなり、「みなさんはどう思われますか、阿部知二君[小説家、翻訳家]などはどうですか」。阿部君の答えは忘れたが、私もあてられることを免れなかった。言語と社会生活はもちろん関係がある。しかし表記法のむずかしさと、選挙の不正とを直接因果関係とするのはいかがであろうか、関係なしとしないが、それには中間項がいくつかあって間接の関係である。などという私の頼りない回答に対して、先生は「学者の意見というものは、いつもそんなものです。関係はあるが直接でないなどとおっしゃる」とご不満気であった〉
大学者の桑原が、柳田学級でとつぜん先生にあてられ、質問にうまく答えられずにしかられているみたいで、何やらおかしい。
しかし、政治の基本をことばに求める国男の姿勢は案外正しいのかもしれない。政治家の仕事はいかにうまくうそをつくかだ、といまも得意げに話す評論家がいることを思えば、政治のうそを見抜く思考力を身につけるための、ことばの教育を重視した国男の姿勢は、現在も輝きを失っていない。
1958年(昭和33)5月には3年3カ月ぶりに総選挙がおこなわれ、自由民主党(自民党)が287、日本社会党(社会党)が166の議席を獲得した。保守、革新の合同により自民党、社会党が誕生して以来だから、いずれ国民の信を問わなければならなかった。
ふたをあけてみれば、保守、革新両勢力の議席配分は前とほとんど変わらない。ただし、自民党も憲法改正に必要とされる3分の2の議席には届かなかった。これ以降、しばらくは自民党が圧倒的多数を維持する時代がつづく。
石橋湛山政権を継いだ岸信介は、引き続き首相の座を維持し、60年の日米安保条約改正へと突っ走ることになる。
政治の季節がはじまっていた。
国家主義者の岸がめざしたのは、強い国家の再建である。
中村隆英は名著『昭和史』のなかで、こう書いている。
〈岸信介は、吉田茂がつくった対米従属的な日米安保体制を、対等の関係に切り替えることによって、歴史的な役割を果たす野心に燃えていた。戦前の大国の栄光を取り戻すことが自分の使命だと思っていたらしく、当面の経済政策などは、大宰相の仕事ではない、と考えていた〉
すでに自衛隊の増強を打ちだしていた岸は、安保条約の改定を前に、日教組の弱体化と警察力の強化をはかった。
教師にも「勤務評定」が実施され、文部省は教育現場に道徳教育をもちこむ。10月には警察官職務法(警職法)の改正が突如、国会に提出される。警察官の捜査権限を戦前並みに拡大しようというのである。これには、さすがに反対の声が強く、けっきょくこの法案は国会で見送りとなった。
だが、この時点ですでにアメリカ側とは、新しい日米安保条約の大筋がまとまっていた。
その内容を中村隆英は、次のように解説する。
〈まず、国連を重視すること、[戦力をもたず、対外戦争をしないという]日本国憲法の制約を考慮すること、[日本の内乱に米軍が出動できるとする]内乱条項を削除することなどの日本側の要求が盛り込まれていた。また日本を基地とするアメリカ軍の戦闘作戦行動についての事前協議についての交換公文と、在日アメリカ軍のための施設、区域やその地位を定めた日米地位協定が付随していた。しかし同時に、共通の危機に対処するため、日本がアメリカ軍と協力することが明記され、アメリカ軍の日本駐留の目的として、日本国の安全と並んで、極東における国際の平和および安全の維持が掲げられたために、いわゆる「極東の範囲」がのちに大問題とされるにいたった〉
これが現在にいたる日米安保の枠組みとなった。「極東の範囲」は現在、世界全域に拡大され、沖縄返還後も沖縄の米軍基地はいっこうに縮小されず、むしろますます機能強化されている。
岸内閣は日米安保条約成立に向けてがむしゃらに進んだ。そして条約は1960年5月19日に衆議院本会議で強行単独採決される(6月19日午前零時に自然成立)のである。岸は国会混乱の責任をとって辞任することとなる。
日本ではその間、政争の暴風が吹き荒れていた。
80歳をすぎた柳田国男が政治について語ることはほとんどなくなっていた。どちらかといえば吉田茂に愛着を覚えていた国男は、おそらく国権派の岸による強引な政治運営に批判の目を向けていたにちがいない。しかし、それをあからさまに語ることはなかった。日米安保条約について、どう考えていたかも定かではない。
1958年初夏の総選挙後に発表された「日本における内と外の観念」は、日本の成り立ちを大雑把に示した口述筆記論考だった。その末尾で、国男は国語教育と関連するかたちで、選挙にふれている。
〈これ[選挙運動員によるコネ選挙]を改革するには、まず聞き方教育をしなければならない。……私は、政策の実行方法としては、文語廃止、口語改良論だ。口語を改良して、ちょっとの細かな感情の差も言えるようにして、聞けばすぐに吸収されてしまうようなものにしなければならない。
(中略)
このごろ、東京あたりの選挙運動の言葉は普通言葉に近くなったが、田舎に行くと、かえってむずかしくなる。……こうして、半分ぐらいしかわからぬから、まずまず多数についておこうという大勢順応党が生まれる。表面は民主政治になっても、現実は寡頭政治である。その原因は、もちろん国民の知恵の欠乏であり、判断よりも思考力がまず不足している。
(中略)
私は、なんといっても、国民が自分の言葉で語り、自分の言葉で聞けるようになることが先決だと思っている。そうでなければ、正しい考え方を成長させることができないからであり、また、われわれが先祖から伝えてきた正しい正しくないの暗黙の指示を公のものとして成り立たせることもできないからである〉
選挙のたびに国男は、この話を繰り返したらしい。
これについてはおもしろいエピソードを、国男にまつわる思い出として、のちに桑原武夫が書いている。
国立国語研究所の評議会でのことで、当時、国男はその会長、桑原は評議員だった。おそらく1955年(昭和30)2月の総選挙を控えたときの話である。
国男から公明選挙といいながら、醜悪なことが絶えないのは、日本語がむずかしすぎるからだという話を評議会でさんざ聞かされたあと、桑原はとつぜん意見を求められる。
〈ぼんやり聞いていると、いきなり、「みなさんはどう思われますか、阿部知二君[小説家、翻訳家]などはどうですか」。阿部君の答えは忘れたが、私もあてられることを免れなかった。言語と社会生活はもちろん関係がある。しかし表記法のむずかしさと、選挙の不正とを直接因果関係とするのはいかがであろうか、関係なしとしないが、それには中間項がいくつかあって間接の関係である。などという私の頼りない回答に対して、先生は「学者の意見というものは、いつもそんなものです。関係はあるが直接でないなどとおっしゃる」とご不満気であった〉
大学者の桑原が、柳田学級でとつぜん先生にあてられ、質問にうまく答えられずにしかられているみたいで、何やらおかしい。
しかし、政治の基本をことばに求める国男の姿勢は案外正しいのかもしれない。政治家の仕事はいかにうまくうそをつくかだ、といまも得意げに話す評論家がいることを思えば、政治のうそを見抜く思考力を身につけるための、ことばの教育を重視した国男の姿勢は、現在も輝きを失っていない。
桑原武夫との対談 [柳田国男の昭和]
《第248回》
はっきりした日付はわからないが、柳田国男が1958年6月に筑摩書房から刊行される『講座現代倫理』第6巻のために桑原武夫と対談をおこなったのも、この年の初めごろだったと思われる。その対談には「日本人の道徳意識」という表題がつけられていた。
このとき京都大学人文科学研究所教授(まもなく所長)を務めていた桑原は、知識人の戦争責任の問題にからめて、道徳や思想に無節操な日本人の傾向を強く批判し、国男の同感を求めようとしている。
桑原が問題にしたのは、戦争前は進歩的だった学者が、戦争が始まると国策協力的な発言をし、戦争に負けると今度はアメリカ寄りの考え方をするようになることだった。あるいは連合国軍総司令部(GHQ)の要求によって追放された教授が、占領期間が終わると、追放を決定した同じ教授会によって、あっけなく呼び戻されるといった事態を指していた。
こうした日本人の時流に流されやすい無節操ぶりは、大勢順応的な性格につながっていた。桑原はその根柢に、伝統的な共同体意識を感じ取った。かれに言わせれば、狭いところにむやみに人が多いことが、日本人にそう我を張っていられないという性格を植え付け、一般に異を立てることを好まない傾向をもたらしたのではないかという。「和」の精神こそが言論を封殺する源だと思っていた。
桑原が暗黙のうちに、日本人は共同体意識から抜け出して、しっかりとした個を確立しなければならないと思っていたことはたしかである。
だが、国男は30歳ほど年下の桑原の主張にいささかの違和感を覚えていた。
知識人にたいする戦争責任の追及にたいしても、わりあい寛容だったといってよい。
こんなふうに述べている。
〈われわれなんかどちらかというといつでもひねくれる側だから都合がよかったんだけれどもね、なかにはいくらか政府に便宜を供してやろうとか、足りないところを補ってやろうという気持ちでやった人もあるんですから、言いようにもよりますけれども、それを変節みたいに言うのは無理だと思います。時代の勢いが強うございましたからね。御一新のさいと似てるけれども、強かったから反抗できなかったことは恕(ゆる)してやらなければならない。私自身はどちらかといえば反抗ばかりして来たんですが……〉
国男自身は時の政府の無謀な戦争政策に批判的だった。だが、時代の勢いから、表立って反対はできなかった。ひたすら戦争が早く終わり、平和が訪れることを祈るのみだった。かといって、当時、政府に協力した者を批判しようとは思わない。
戦後になって、日本人の事大主義を批判したこともある。とはいえ、座談会で、桑原から日本人は大勢に順応する傾向があると指摘されると、つい反発して、「これを日本人の気風とか、昭和30年代の気風って言うのは無理じゃないですか」と口をはさみたくなる。
対談では、こんなやりとりもみられる。
桑原 日本人の道徳観は個性的というより共同体意識というものに包みこまれるのじゃないかという気がいたしますが、どうでしょうか。
柳田 いくらか近世になってからそれ[大勢順応主義]が寛大になっとったかもしれませんよ。
桑原 近世っていうと明治以降ですか。
柳田 そう、政府と対立があって、そのために悩んでいますから。
桑原 そうすると日本人のそういうことにたいする良く言えば寛大、悪く言えばルーズさ、それは明治の産物ですか。
柳田 明治の産物だと思いますね。江戸時代もそういう傾向があったかもしれないが、一体に[直言の]傾向がはっきりしていますから‥‥。
(中略)
桑原 一般に考えられている通説は、おそらく先生の説と反対で、こういう問題について日本人にルーズなところがあるのは、共同体意識がつよいからで、それは昔からずっとつづいてきて、昭和にも残存してる、という解釈ですが、先生のはむしろそうではなく、ルーズなのは明治になってからの文明開化の風潮だと。それは面白い説です。
国男は何もとっさの思いつきで、こんなことを話したのではない。今回の戦争の敗北を反省するにあたっては、日本人の事大主義を踏まえねばならず、その遠因を近代日本のあり方そのものに求めなければならないというのは、かれの持論だったからである。
ところが、鶴見太郎は「多くの読者と同様、柳田なら日本の悪しき伝統である事大主義が前近代から続いていると、発言するに違いないと思っていた矢先、この答えを聞いた桑原の驚きは大きかった」と指摘している。
柳田民俗学は前近代に価値をみいだし、そこでは江戸時代がひとつの理念型としてとらえられていたことを、あらためて認識しておくべきかもしれない。
桑原が近代的な、つまり西洋的な個の確立をこれからの日本人のあり方として持ちだすのにたいして、国男の日本人論はあきらかにそれとは異なる射程を示している。それは、この座談会でも冗談めかして述べたように、子どものころ経験した自由党かぶれの壮士にいだいた違和感とどこかで結びついている。
〈それ[エゴイズム]でないリベルテ[自由]はあるでしょうか。いつかもみんなに笑われながらそんな話をしたが、70年も昔、田舎の私の家の前で、酔っ払いが門にもたれてどうしても起きない。みんなが寄ってたかって起こそうとしたが、「自由の権だい!」と言った。自由の権利っていやなもんだと、子供心にそう思ったが(笑)〉
西洋の直輸入思想が幅を利かすのにはがまんがならなかった。
それでは、日本人の個のあり方について、国男はどう考えていたのだろう。
桑原の問いにたいして、こう答えている。
桑原 それで、もうひとつ伺いたいのですけれども、歴史があってからの日本人の性質の中で良いもの、美点と申しますか、それはどういうところにあるか、教えていただけませんか。
柳田 一番大きいのは、義憤ですね。……人生の批判というものは、昔の人は百姓は百姓なりにしてるんです。
(中略)
桑原 「義を見てせざるは勇なきなり」という義憤……。
柳田 あの義でしょうね。あの義は広くも狭くも漢学者は解釈していますからね。とにかくみすみす目の前で人が倒れて弱っているのにスーッと通り過ぎる者があったら、私ら行って横っ面を殴りたくなりますね。
少なくとも義は、事大主義とは異なり、他者にたいする個の思いから発するものである。日本人に個がないとは思っていない。ただし、その個は共同体意識とつながっており、ここで国男は共同体意識が諸悪の根源であるかのように理解する桑原の主張に釘を刺したのである。
自由な個の拡張は、絶対神との契約にもとづくにせよ、神なき実存の発現であるにせよ、戦後に一種の明るさをもたらしていた。だが、桑原もその自由が「もっぱら金をもうけることの自由」になり、「道楽したり勝手なことをするやつが、その権利を利用してる」のには批判的だった。そこで、国男にあらためて、引き継がれるべき日本人の美質について聞くのである。返ってきた答えは意外なものだった。
桑原 義憤に次いで何でしょうか、日本人の美質っていうのは。もう一つぐらいございませんか。
柳田 それは美質とまでは言えないかもしれないが……制裁があるということを今まで気にしていた。悪いことをしたら制裁が当然あるものと考えていた。われわれは古くさい、いわば明治初年ごろから幕末のころにあった一種の幽明界というものの存在をぼんやり信じていた。あなたと話をしていても、あの隅あたりでだれかが聴いていて、あれあんな心にもないこと言ってる、と言われたんじゃたまらんという……。
桑原 西洋人だったら良心というものですか。一神教にもとづいた良心とは別ですか。
柳田 そんなに神様は出歩けないですから先祖です。隠れたところで見てるのは先祖です。
桑原 私などはもう先祖っていう感覚はないんですね、先祖を知ってはいますが。
柳田 先祖は一人じゃないんです。ちょっとそれが説明のしにくいところなんです。積み重ねて行くような形になって……。
ここで国男は幽明界という一種のパラレルワールドをもちだしている。それは現実界とつながりながらも、現実界を見つめる神々の世界であり、いつか自分もそこに帰していく世界でもある。日本人は近代になるまで、身近な先祖の織りなすこうした幽明界の存在を信じ、それによって現実界での身を処してきた。自由な個が意識される時代となっても、幽明界とつながっているという、いわば祈りと信仰に満ちた日本人の美質は継承されるべきではないかと国男は思っていた。
対談の最後に桑原は国男に、これからの日本に対する望みを聞いている。その答えも、いかにも国男らしいものだった。
〈それは聞いてもらいたくてたまらん点なんだ。それは倫理の問題でなく、むしろ知識の問題なんです。日本人が知ることをもっと知っておれば、戦争の初めっからの世の中の変遷をこめて、こんなものに陥ってこなかったと思うんですがね……。われわれは若いころから史学というものを本当に教える気持ちに教員がなってくれなければ困ると言っとったんです。日本という国はどういう国かということをね、これからだって遅くないので、もう少し真剣に勉強しなければいけない。しかし桑原さんは賛成しないかもしれんよ、コスモポリタンだから。「今何が一番大切な学問だろうか」と、もし私が文部大臣に質問されたら私はすぐ「史学です」と答えるつもりです〉
アジアと太平洋で無謀な戦争をはじめた軍と政府に欠けていたのは「知識」だったと国男は考えていた。そして勝手に思い描いた夢想を、精神論と倫理が支える先に待ちかまえていたのは、とてつもない災厄だった。知識とはいまふうにいえばインテリジェンスでもある。インテリジェンスの裏づけを欠いた一見正しそうな決断、あるいは反省なき慣性が、結果的にどれほど多くの犠牲をもたらしたかを、国男は今次の戦争でいやになるほど味わってきた。
だから、これからだいじなのは「倫理の問題でなく、むしろ知識の問題」なのだという。しかも国男にとっては、いまこそ「日本という国はどういう国か」を問い直すことが求められていた。
その答えを「史学」によって得ようとしたところが、いかにも国男らしい。いうまでもなく、それは民衆の生活史を基本とする史学だった。
はっきりした日付はわからないが、柳田国男が1958年6月に筑摩書房から刊行される『講座現代倫理』第6巻のために桑原武夫と対談をおこなったのも、この年の初めごろだったと思われる。その対談には「日本人の道徳意識」という表題がつけられていた。
このとき京都大学人文科学研究所教授(まもなく所長)を務めていた桑原は、知識人の戦争責任の問題にからめて、道徳や思想に無節操な日本人の傾向を強く批判し、国男の同感を求めようとしている。
桑原が問題にしたのは、戦争前は進歩的だった学者が、戦争が始まると国策協力的な発言をし、戦争に負けると今度はアメリカ寄りの考え方をするようになることだった。あるいは連合国軍総司令部(GHQ)の要求によって追放された教授が、占領期間が終わると、追放を決定した同じ教授会によって、あっけなく呼び戻されるといった事態を指していた。
こうした日本人の時流に流されやすい無節操ぶりは、大勢順応的な性格につながっていた。桑原はその根柢に、伝統的な共同体意識を感じ取った。かれに言わせれば、狭いところにむやみに人が多いことが、日本人にそう我を張っていられないという性格を植え付け、一般に異を立てることを好まない傾向をもたらしたのではないかという。「和」の精神こそが言論を封殺する源だと思っていた。
桑原が暗黙のうちに、日本人は共同体意識から抜け出して、しっかりとした個を確立しなければならないと思っていたことはたしかである。
だが、国男は30歳ほど年下の桑原の主張にいささかの違和感を覚えていた。
知識人にたいする戦争責任の追及にたいしても、わりあい寛容だったといってよい。
こんなふうに述べている。
〈われわれなんかどちらかというといつでもひねくれる側だから都合がよかったんだけれどもね、なかにはいくらか政府に便宜を供してやろうとか、足りないところを補ってやろうという気持ちでやった人もあるんですから、言いようにもよりますけれども、それを変節みたいに言うのは無理だと思います。時代の勢いが強うございましたからね。御一新のさいと似てるけれども、強かったから反抗できなかったことは恕(ゆる)してやらなければならない。私自身はどちらかといえば反抗ばかりして来たんですが……〉
国男自身は時の政府の無謀な戦争政策に批判的だった。だが、時代の勢いから、表立って反対はできなかった。ひたすら戦争が早く終わり、平和が訪れることを祈るのみだった。かといって、当時、政府に協力した者を批判しようとは思わない。
戦後になって、日本人の事大主義を批判したこともある。とはいえ、座談会で、桑原から日本人は大勢に順応する傾向があると指摘されると、つい反発して、「これを日本人の気風とか、昭和30年代の気風って言うのは無理じゃないですか」と口をはさみたくなる。
対談では、こんなやりとりもみられる。
桑原 日本人の道徳観は個性的というより共同体意識というものに包みこまれるのじゃないかという気がいたしますが、どうでしょうか。
柳田 いくらか近世になってからそれ[大勢順応主義]が寛大になっとったかもしれませんよ。
桑原 近世っていうと明治以降ですか。
柳田 そう、政府と対立があって、そのために悩んでいますから。
桑原 そうすると日本人のそういうことにたいする良く言えば寛大、悪く言えばルーズさ、それは明治の産物ですか。
柳田 明治の産物だと思いますね。江戸時代もそういう傾向があったかもしれないが、一体に[直言の]傾向がはっきりしていますから‥‥。
(中略)
桑原 一般に考えられている通説は、おそらく先生の説と反対で、こういう問題について日本人にルーズなところがあるのは、共同体意識がつよいからで、それは昔からずっとつづいてきて、昭和にも残存してる、という解釈ですが、先生のはむしろそうではなく、ルーズなのは明治になってからの文明開化の風潮だと。それは面白い説です。
国男は何もとっさの思いつきで、こんなことを話したのではない。今回の戦争の敗北を反省するにあたっては、日本人の事大主義を踏まえねばならず、その遠因を近代日本のあり方そのものに求めなければならないというのは、かれの持論だったからである。
ところが、鶴見太郎は「多くの読者と同様、柳田なら日本の悪しき伝統である事大主義が前近代から続いていると、発言するに違いないと思っていた矢先、この答えを聞いた桑原の驚きは大きかった」と指摘している。
柳田民俗学は前近代に価値をみいだし、そこでは江戸時代がひとつの理念型としてとらえられていたことを、あらためて認識しておくべきかもしれない。
桑原が近代的な、つまり西洋的な個の確立をこれからの日本人のあり方として持ちだすのにたいして、国男の日本人論はあきらかにそれとは異なる射程を示している。それは、この座談会でも冗談めかして述べたように、子どものころ経験した自由党かぶれの壮士にいだいた違和感とどこかで結びついている。
〈それ[エゴイズム]でないリベルテ[自由]はあるでしょうか。いつかもみんなに笑われながらそんな話をしたが、70年も昔、田舎の私の家の前で、酔っ払いが門にもたれてどうしても起きない。みんなが寄ってたかって起こそうとしたが、「自由の権だい!」と言った。自由の権利っていやなもんだと、子供心にそう思ったが(笑)〉
西洋の直輸入思想が幅を利かすのにはがまんがならなかった。
それでは、日本人の個のあり方について、国男はどう考えていたのだろう。
桑原の問いにたいして、こう答えている。
桑原 それで、もうひとつ伺いたいのですけれども、歴史があってからの日本人の性質の中で良いもの、美点と申しますか、それはどういうところにあるか、教えていただけませんか。
柳田 一番大きいのは、義憤ですね。……人生の批判というものは、昔の人は百姓は百姓なりにしてるんです。
(中略)
桑原 「義を見てせざるは勇なきなり」という義憤……。
柳田 あの義でしょうね。あの義は広くも狭くも漢学者は解釈していますからね。とにかくみすみす目の前で人が倒れて弱っているのにスーッと通り過ぎる者があったら、私ら行って横っ面を殴りたくなりますね。
少なくとも義は、事大主義とは異なり、他者にたいする個の思いから発するものである。日本人に個がないとは思っていない。ただし、その個は共同体意識とつながっており、ここで国男は共同体意識が諸悪の根源であるかのように理解する桑原の主張に釘を刺したのである。
自由な個の拡張は、絶対神との契約にもとづくにせよ、神なき実存の発現であるにせよ、戦後に一種の明るさをもたらしていた。だが、桑原もその自由が「もっぱら金をもうけることの自由」になり、「道楽したり勝手なことをするやつが、その権利を利用してる」のには批判的だった。そこで、国男にあらためて、引き継がれるべき日本人の美質について聞くのである。返ってきた答えは意外なものだった。
桑原 義憤に次いで何でしょうか、日本人の美質っていうのは。もう一つぐらいございませんか。
柳田 それは美質とまでは言えないかもしれないが……制裁があるということを今まで気にしていた。悪いことをしたら制裁が当然あるものと考えていた。われわれは古くさい、いわば明治初年ごろから幕末のころにあった一種の幽明界というものの存在をぼんやり信じていた。あなたと話をしていても、あの隅あたりでだれかが聴いていて、あれあんな心にもないこと言ってる、と言われたんじゃたまらんという……。
桑原 西洋人だったら良心というものですか。一神教にもとづいた良心とは別ですか。
柳田 そんなに神様は出歩けないですから先祖です。隠れたところで見てるのは先祖です。
桑原 私などはもう先祖っていう感覚はないんですね、先祖を知ってはいますが。
柳田 先祖は一人じゃないんです。ちょっとそれが説明のしにくいところなんです。積み重ねて行くような形になって……。
ここで国男は幽明界という一種のパラレルワールドをもちだしている。それは現実界とつながりながらも、現実界を見つめる神々の世界であり、いつか自分もそこに帰していく世界でもある。日本人は近代になるまで、身近な先祖の織りなすこうした幽明界の存在を信じ、それによって現実界での身を処してきた。自由な個が意識される時代となっても、幽明界とつながっているという、いわば祈りと信仰に満ちた日本人の美質は継承されるべきではないかと国男は思っていた。
対談の最後に桑原は国男に、これからの日本に対する望みを聞いている。その答えも、いかにも国男らしいものだった。
〈それは聞いてもらいたくてたまらん点なんだ。それは倫理の問題でなく、むしろ知識の問題なんです。日本人が知ることをもっと知っておれば、戦争の初めっからの世の中の変遷をこめて、こんなものに陥ってこなかったと思うんですがね……。われわれは若いころから史学というものを本当に教える気持ちに教員がなってくれなければ困ると言っとったんです。日本という国はどういう国かということをね、これからだって遅くないので、もう少し真剣に勉強しなければいけない。しかし桑原さんは賛成しないかもしれんよ、コスモポリタンだから。「今何が一番大切な学問だろうか」と、もし私が文部大臣に質問されたら私はすぐ「史学です」と答えるつもりです〉
アジアと太平洋で無謀な戦争をはじめた軍と政府に欠けていたのは「知識」だったと国男は考えていた。そして勝手に思い描いた夢想を、精神論と倫理が支える先に待ちかまえていたのは、とてつもない災厄だった。知識とはいまふうにいえばインテリジェンスでもある。インテリジェンスの裏づけを欠いた一見正しそうな決断、あるいは反省なき慣性が、結果的にどれほど多くの犠牲をもたらしたかを、国男は今次の戦争でいやになるほど味わってきた。
だから、これからだいじなのは「倫理の問題でなく、むしろ知識の問題」なのだという。しかも国男にとっては、いまこそ「日本という国はどういう国か」を問い直すことが求められていた。
その答えを「史学」によって得ようとしたところが、いかにも国男らしい。いうまでもなく、それは民衆の生活史を基本とする史学だった。
日本民族南方起源説 [柳田国男の昭和]
《第247回》
「故郷七十年」と題して「神戸新聞」に連載される自伝めいた談話も、終盤にさしかかっている。1921年(大正10)から23年にかけてのジュネーヴ時代を回顧したあと、柳田国男は昭和にはいってからのことをあまり語っていない。しかし、その後の歩みは、「柳田国男の昭和」と題する本稿を読みなおしていただければ、その概要がつかめるだろう。いちおうの談話を終了したのは、1958年(昭和33)3月29日のことで、このとき国男は満82歳になっていた。
新聞連載の最終回には「日本民族の起源」という表題が付されていた。日本人とは何か、日本人がどのように暮らしてきたか、そしてこれから何を頼りに生きていくべきかを追求してきた国男にとって、未解決のまま残されていたテーマが「日本人はどこから来たか」という問いだった。
こんなふうに話している。
〈日本人ははじめにどこから来て、どこの地域に入ったのであろうか。人間の移動にはいろいろの信仰といっしょに、生活の方式をもってこなければできない。そして日本人の信仰と米作とは切り離して考えられないから、やはり大部分は南の米作地帯から米作をもってきたのだろうと思われる。ただ先祖から稲作をしていた人間がいつもじっとして一つ所に耕作をしていたとは限らない。例えばシナの沿岸地帯など、東夷と船で往来していたというが、夷という字は「たいらか」とも読むから、東方に穏やかな民族がいたとも解釈せられる。同じ沿岸地帯には百越とか諸越とかいわれたいろいろの未開族がいたことは知られている。そしてわれわれが後々「もろこし」といって「唐土」の字をあてているが、じつは諸越または百越と書いて「もろこし」と読んでいたのかもしれない〉
百越とか諸越と呼ばれたのは、いわゆる越族のことで、中国の長江南部からベトナムにかけて住んでいた民族のことである。基本的に日本人南方起源説をとる国男は、日本人は中国の越の地、すなわち江南から舟か筏に乗って、沖縄にたどりつき、北方に向かったと考えていた。
とはいえ、それがひとつの仮説にすぎないことも認めている。騎馬民族説は否定したものの、北方起源説は頭からしりぞけたわけではない。
その証拠に同じ記事のなかで、こう述べている。
〈私が思うのに南方から来ていないと裸の人形がないのと同様、北から来なければあのように太った土偶はできるわけがない。土偶を造った縄文、弥生の二つの様式だけを見ても、文化に二つの系統があるといえるのである。北から来たか、南から来たか、いろいろの説があるが、仮定説を作ることは少しも悪いことではないので、ただ「かもしれない」ということを後につけ加えておかないのが悪いのである〉
おそらく南方からの民族と北方からの民族が、二つの文化の古層を保ちながらも、稲づくりを生活形態とするひとつの信仰のもとに統一されて、日本民族が生まれたというのが、国男の立てた仮説なのである。しかし、それを主導したのは、あくまでも江南から稲をもって、黒潮に沿って移動した南方を起源とする民族だと思われた。
これにたいし、江上波夫の騎馬民族説は、大陸から朝鮮半島南部に南下した民族が徐々に日本を席巻し、ついに大和に征服王朝を築くという大胆な仮説にもとづいていた。国男がその考え方に反発したのは、かれがそこに皇室否定の潜在性を感じていたばかりでない。実際にその説が荒唐無稽と判断していたためでもあった。
「騎馬民族説への疑問」では、こう話している。
〈今日では大陸から朝鮮を南下し、海峡をぴょんと渡って日本へ入って来たろう、文化も人間もみなそうして入って来たろうと、簡単にきめる空気が非常に強いが、私ははっきりとその説に反対している。なぜなら南からでなければ稲は入って来ないし、稲が来なければ今の民族は成立しないと思うからである。今の民族は単に百姓が米を作るだけでなく、皇室も米がなければ神様をおまつりすることができないのである。神様を祭る時の食物には必ず稲が入っている。したがって私は日本民族は稲というものと不可分な民族だと確信している。稲は後から来たようなことをいう人もいるが、どうしても稲ははじめから携えて来なければ、それに伴う信仰とか、慣習とかのある説明がつかない。考古学者も人類学者もこのようなことを少しも考えない。そのいちばん極端なのが例の騎馬民族説である〉
騎馬民族説にはきちんとした裏づけがなかった。しかし、それを否定する国男の日本民族南方起源説もまたはっきりした証拠を欠いていたといわねばならない。論争はまだはじまったばかりだったのである。
だが、むしろだいじなのは、最晩年にいたっても「日本人とは何か」を問いつづけようとした国男の姿勢にあったというべきかもしれない。それはけっして偏狭なナショナリズムのなせる業だったとは思えない。国男は民俗学を比較民俗学や民族学の方向に拡張しようとしていた。それが日本人とは何かという問いとなって結晶したのであり、その問いは、変転いちじるしい世界のなかで、今後日本人がみずからの存在根拠を保ちながら、どのように誇り高く生きていくべきかという思いとつながっていたのである。
「故郷七十年」と題して「神戸新聞」に連載される自伝めいた談話も、終盤にさしかかっている。1921年(大正10)から23年にかけてのジュネーヴ時代を回顧したあと、柳田国男は昭和にはいってからのことをあまり語っていない。しかし、その後の歩みは、「柳田国男の昭和」と題する本稿を読みなおしていただければ、その概要がつかめるだろう。いちおうの談話を終了したのは、1958年(昭和33)3月29日のことで、このとき国男は満82歳になっていた。
新聞連載の最終回には「日本民族の起源」という表題が付されていた。日本人とは何か、日本人がどのように暮らしてきたか、そしてこれから何を頼りに生きていくべきかを追求してきた国男にとって、未解決のまま残されていたテーマが「日本人はどこから来たか」という問いだった。
こんなふうに話している。
〈日本人ははじめにどこから来て、どこの地域に入ったのであろうか。人間の移動にはいろいろの信仰といっしょに、生活の方式をもってこなければできない。そして日本人の信仰と米作とは切り離して考えられないから、やはり大部分は南の米作地帯から米作をもってきたのだろうと思われる。ただ先祖から稲作をしていた人間がいつもじっとして一つ所に耕作をしていたとは限らない。例えばシナの沿岸地帯など、東夷と船で往来していたというが、夷という字は「たいらか」とも読むから、東方に穏やかな民族がいたとも解釈せられる。同じ沿岸地帯には百越とか諸越とかいわれたいろいろの未開族がいたことは知られている。そしてわれわれが後々「もろこし」といって「唐土」の字をあてているが、じつは諸越または百越と書いて「もろこし」と読んでいたのかもしれない〉
百越とか諸越と呼ばれたのは、いわゆる越族のことで、中国の長江南部からベトナムにかけて住んでいた民族のことである。基本的に日本人南方起源説をとる国男は、日本人は中国の越の地、すなわち江南から舟か筏に乗って、沖縄にたどりつき、北方に向かったと考えていた。
とはいえ、それがひとつの仮説にすぎないことも認めている。騎馬民族説は否定したものの、北方起源説は頭からしりぞけたわけではない。
その証拠に同じ記事のなかで、こう述べている。
〈私が思うのに南方から来ていないと裸の人形がないのと同様、北から来なければあのように太った土偶はできるわけがない。土偶を造った縄文、弥生の二つの様式だけを見ても、文化に二つの系統があるといえるのである。北から来たか、南から来たか、いろいろの説があるが、仮定説を作ることは少しも悪いことではないので、ただ「かもしれない」ということを後につけ加えておかないのが悪いのである〉
おそらく南方からの民族と北方からの民族が、二つの文化の古層を保ちながらも、稲づくりを生活形態とするひとつの信仰のもとに統一されて、日本民族が生まれたというのが、国男の立てた仮説なのである。しかし、それを主導したのは、あくまでも江南から稲をもって、黒潮に沿って移動した南方を起源とする民族だと思われた。
これにたいし、江上波夫の騎馬民族説は、大陸から朝鮮半島南部に南下した民族が徐々に日本を席巻し、ついに大和に征服王朝を築くという大胆な仮説にもとづいていた。国男がその考え方に反発したのは、かれがそこに皇室否定の潜在性を感じていたばかりでない。実際にその説が荒唐無稽と判断していたためでもあった。
「騎馬民族説への疑問」では、こう話している。
〈今日では大陸から朝鮮を南下し、海峡をぴょんと渡って日本へ入って来たろう、文化も人間もみなそうして入って来たろうと、簡単にきめる空気が非常に強いが、私ははっきりとその説に反対している。なぜなら南からでなければ稲は入って来ないし、稲が来なければ今の民族は成立しないと思うからである。今の民族は単に百姓が米を作るだけでなく、皇室も米がなければ神様をおまつりすることができないのである。神様を祭る時の食物には必ず稲が入っている。したがって私は日本民族は稲というものと不可分な民族だと確信している。稲は後から来たようなことをいう人もいるが、どうしても稲ははじめから携えて来なければ、それに伴う信仰とか、慣習とかのある説明がつかない。考古学者も人類学者もこのようなことを少しも考えない。そのいちばん極端なのが例の騎馬民族説である〉
騎馬民族説にはきちんとした裏づけがなかった。しかし、それを否定する国男の日本民族南方起源説もまたはっきりした証拠を欠いていたといわねばならない。論争はまだはじまったばかりだったのである。
だが、むしろだいじなのは、最晩年にいたっても「日本人とは何か」を問いつづけようとした国男の姿勢にあったというべきかもしれない。それはけっして偏狭なナショナリズムのなせる業だったとは思えない。国男は民俗学を比較民俗学や民族学の方向に拡張しようとしていた。それが日本人とは何かという問いとなって結晶したのであり、その問いは、変転いちじるしい世界のなかで、今後日本人がみずからの存在根拠を保ちながら、どのように誇り高く生きていくべきかという思いとつながっていたのである。
最後の委任統治委員会 [柳田国男の昭和]
《第246回》
パレスチナ出張は中止を余儀なくされた。しかし、それで落ちこんでしまう国男ではない。さっそく頭を切り換えて、1923年(大正12)の1月から4月にかけ、2度にわたりイタリアを約60日間旅している。
回ったのはミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴェネツィアなど。ウフィツィ美術館では、ボッティチェリの「海の姫神」、つまり「ヴィーナスの誕生」を見て感銘を受けた。それがのちに名作『桃太郎の誕生』を生むきっかけになるとは、本人もまだ気づいていない。ローマでは、森鴎外の訳したアンデルセンの『即興詩人』を片手にさまざまな場所を見学した。エトルリアの美術や、さまざまな女神像に興味をいだいたのも、イタリアを旅したときのことだ。
ジュネーヴに戻ってからは、7月に開かれる委任統治委員会の準備をしなければならなかった。今期が最後になると思えば、調査にも力がはいる。国男は会議に先立って、「委任統治領における原住民の福祉と発展」という報告書を英文で書き上げた。
7月20日から8月10日まで開かれた、33回にわたる委任統治委員会の会合を事細かに紹介する必要はないだろう。国男が外務省の山川端夫にあてた私信をみれば、その様子をつかむことができる。ざっと口語訳して、その概要を示しておこう。
国男はこの私信で「9月中にはヨーロッパを去り、たぶん北米をへて12月初旬には帰るつもり」──実際にはロンドンで関東大震災の報に接したため、11月初めに帰国するのだが──と、帰国予定を連絡したあと、委員会についての率直な感想を述べ、外務省にさまざまな注文をつけている。
翻訳の時間もあると思うが、報告書はできるだけ早く送ってほしい。法令の訳文や地図の添付も忘れないように。その他こまごまとした要望を述べたあとで、国男はこう記している。
〈今回の報告は全体において簡単ながら、よくまとまっていると好評でした。ただ翻訳者が南洋の問題について素人であったためか、日本文ならよくわかる箇所が、英文では不明瞭となり、そのため無用の質問などが出て、つい議論になったのが残念でした。これは何とかしなければならぬと思っております。南洋長官はもちろん日本の政府もこの英文によって責任を負うことになりますので、誰か上の人がよく見ておかねばならないでしょう〉
翻訳はなかなかやっかいな問題だった。加えて、日本政府代表の説明のまずさが、国男に歯がゆい思いをさせた。
こう書いている。
〈[英国などがアフリカのことを隅から隅まで知っている代表を送りこんでいるのに]日本だけが松田[道一]公使のように、報告書に一度さっと目を通したという代表を出し、質問ごとに多くもない書類をひっくり返し、返事にてまどるようでは、いかにも印象が悪く、そこで委員の中からいろいろの新たな議論が出てこないともかぎらないわけです。松田氏も非常にこれを気にしておられるようで、来年は同じような別の人に担当を譲りたいという考えのようです。しかし、それではいっそう不慣れでしょうから、その結果がまずいものにならぬかと、ひたすら心配しております。ぜひ、いまのうちから、いろいろ考えておくのがよろしいと存じます。小生は、通訳さえしっかりしていれば、自分でしゃべれなくても問題はなく、いま少し南洋の事情に通じた人を代表として出す必要があると考えております。また代表という以上は、ぜひとも事情をはっきりのみこんだ人でなければならないのではないでしょうか〉
痛烈な批判である。
松田公使への痛罵は、個人攻撃と受け取られるかもしれないが、そうではない。とりあえず委員や政府代表を出しておけばよいという外務省の態度は、国際連盟を外交上のおつきあいとしか考えない日本の消極的姿勢を示していた。しかし、そんなことではいつまでも日本が世界で認められないのではないかと国男は懸念していた。
〈実際、委任統治の新制度は、ばかげきった迷惑なおつきあいかもしれませんが、この制度がある以上は、これを軽んじて、今日までのようなやり方をつづけることは、はなはだしい不得策ではないでしょうか。連盟事務官による日本の批評は、小生の耳にはいったものだけでも、いかにもおもしろくないものです。陰では定めて悪評をしていることと思われます。自分までが、その原因の一部分をなしているようでは、ひと言の申し訳もない次第ですので、これを機会に、少なくとも関係の事項については、できるかぎりの思案をされ、正しいご判断をされるようお願いする次第です〉
この時代、日本人はまだ国際的な舞台に慣れていない。ある意味では、いまもそうかもしれない。語学力はたしかに問題だった。しかし、それよりも重要なのは、国際的に通用する論理と行動、誠実さを日本人が持ちあわせているかという点だった。
しかし何はともあれ、国男にとって最後となる委員会で、かれが「委任統治領における原住民の福祉と発展」と題する報告書を提出したことに注目したい。この報告書については、各委員のあいだで深く論議された形跡がない。ただ提出されただけで終わった可能性もある。
それでも、それは柳田国男という日本人が、3年間、国際連盟統治委員会の委員を誠実に務めたあかしにはちがいなかった。
この報告書で、国男は委任統治領における人口動態の把握に力をいれるべきだと主張している。
委任統治領では、同じ領域内にさまざまな種族が共存する場合もあるし、新たに別の種族が移動してくる場合もある。とりわけ、アフリカでは、同じ地域内にさまざまな種族が入り乱れ、そのために紛争が起こりやすい。
さらに、問題を複雑にしているのが、白人入植者の活動と欧州列強間による領土分割であって、この地域で協調と繁栄を確立するのは容易ではない。
国男が委任統治領内の人口動態の把握を訴えたのは、各種族の実情がわからないかぎり、住民の保護を徹底できないどころか、住民間の紛争を防止することさえできないからだった。
おそらくパレスチナの現況を踏まえたと思われる言及もある。パレスチナでは、バルフォア宣言以降、ユダヤ人の入植が一気に進んでいた。
〈欧州の入植者にかぎらず、委任統治地域へのすべての入植者は、変革への主導権をとり、そのことによって、いつも同じ場所で暮らす原住民よりすぐれた能力をもつことを立証してきました。私もまた、入植を全面的に禁止することはむずかしいと思いますが、そうだとすれば、各国政府のとるべき道は、原住民を抑圧原因から守るために、これまでにない適切な措置をとることであります〉
この言及はパレスチナにかぎったことではなく、委任統治領で一般に各国政府のとるべき対応を示唆していたのかもしれない。だが、もし国男のパレスチナ出張が実現していたら、この部分はさらに具体的な提言となっていた可能性もある。そうなれば、現在にまで引きつがれる中東紛争の最大要因が軽減されていたと夢想するのは、あまりにもうがちすぎだろうか。
この報告書では資源や土地、裁判や行政制度なども含めて、多岐にわたる論点が検証されているが、ここではそれを全部紹介するわけにもいかない。しかし、そこに一貫してみられる姿勢は、受任国政府の利益をいかにして確保するかということでなく、各国が原住民の福祉と発展のために、どのように力を貸せばよいのかという方向性である。それはけっしてレトリックではなく、国男の真摯な願いだったといってよい。
国男は委任統治領の住民が幸福を求めて発展するには、何よりも教育がだいじだと思っていた。だが、少数の才能あふれる特別な青年に最先端の教育をほどこす方式は、社会に亀裂を生じさせる場合が多く、かならずしも住民の発展に結びつくとは思えなかった。
〈それゆえに選択すべき教育計画は、原住民の社会水準の上昇をめざすものであり、しかも全体的に共同体のためになるものでなくてはなりません。その関連で、好ましい影響をあたえているものを挙げるなら、農業その他の基本的生産部門でなされている訓練や、地元の生産物を活用した手工業部門での訓練、さらにはまだ初歩的とはいえ日常生活に応用される医療面での訓練などがあります〉
国男は職業訓練教育を充実させ、そのために現地の教員を養成すべきだと主張した。
だが、かれの計画がもっと遠大だったことは、歴史や地理をどう教えればよいかという点にふれながら、こう述べているのをみてもわかる。
〈昔のやり方は、原住民の子どもに、愛国的な歌や歴代皇帝の名前を覚えさせるといった、あまりにも国家主義的で、ふたつの人種の同化[というか宗主国への原住民の従属]だけをねらったものでした。さすがにいまではこうしたやり方は取りやめられる傾向にあります。これから興味深く観察したいと思うのは、きちんと系統だった方法で歴史や地理を教えたら、原住民の考え方がどのように変わるかということであります。というのも、かれらが個々の存在や生きる意味を知るようになるには、アフリカや太平洋の広大な地域のなかで、さらには長い人類史のなかで、自分たちがどのような位置を占めているかを理解しなくてはならないからであります〉
近代という時代にあって、原住民が世界におけるみずからの位置を認識すること、すなわちかれらがアイデンティティを自覚することが、すべてのものごとの出発点だった。教育の目的は個の自覚をうながすことにある。
そして、国男は、これらの教育が欧州の言語によってではなく、できるかぎり現地のことばによってなされるべきだと強調した。
〈とはいえ、原住民の言語を採用したほうが賢明だと思われる、少なくとも3つの事実があります。(1)語彙や文法構造に類似性があることから、その言語の習得がずっと容易になされること。(2)少なくとも原住民のなかには、労をいとわずそれを学ぼうとする者がいること。(3)この計画からは新しい特権階級が出てこないこと。いずれにせよ、だいじなことは、行政府と原住民、部族間の意思疎通をはかり、それを簡素化する最善の方法をみいだすことであります〉
国男の主張は、支配者のことばでつづられてはいない。それは世界を領導すべき公平な文明諸国を代表する立場からの発言だったといってよいだろう。だが、その立場から見つめなおしても国男の結論は変わらない。すべての政治は大衆(コモンピープル)の幸福のためにある。
現実の政治が、かならずしも大衆の幸福を志向していないことは承知している。むしろパワーポリティックスこそが現実政治の実相だった。それでも、国男は国際連盟の場でも、みずからの理念を崩そうとはしていない。
とはいえ、国男が限界を感じていたのは、報告書でえがかれた大衆が、知識としての大衆、つまり文字によって把握された大衆でしかなかったことである。自分にとって、ほんとうの大衆はどこにいるのか。
おぼろげな方向性が、日本のコモンピープルの学を立てねばならないという決意に変わったのは、ジュネーヴを発って日本に帰国する途中、ロンドンで関東大震災の報に接したときである。そのときジュネーヴの3年間は、あっというまに遠ざかっていった。
パレスチナ出張は中止を余儀なくされた。しかし、それで落ちこんでしまう国男ではない。さっそく頭を切り換えて、1923年(大正12)の1月から4月にかけ、2度にわたりイタリアを約60日間旅している。
回ったのはミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴェネツィアなど。ウフィツィ美術館では、ボッティチェリの「海の姫神」、つまり「ヴィーナスの誕生」を見て感銘を受けた。それがのちに名作『桃太郎の誕生』を生むきっかけになるとは、本人もまだ気づいていない。ローマでは、森鴎外の訳したアンデルセンの『即興詩人』を片手にさまざまな場所を見学した。エトルリアの美術や、さまざまな女神像に興味をいだいたのも、イタリアを旅したときのことだ。
ジュネーヴに戻ってからは、7月に開かれる委任統治委員会の準備をしなければならなかった。今期が最後になると思えば、調査にも力がはいる。国男は会議に先立って、「委任統治領における原住民の福祉と発展」という報告書を英文で書き上げた。
7月20日から8月10日まで開かれた、33回にわたる委任統治委員会の会合を事細かに紹介する必要はないだろう。国男が外務省の山川端夫にあてた私信をみれば、その様子をつかむことができる。ざっと口語訳して、その概要を示しておこう。
国男はこの私信で「9月中にはヨーロッパを去り、たぶん北米をへて12月初旬には帰るつもり」──実際にはロンドンで関東大震災の報に接したため、11月初めに帰国するのだが──と、帰国予定を連絡したあと、委員会についての率直な感想を述べ、外務省にさまざまな注文をつけている。
翻訳の時間もあると思うが、報告書はできるだけ早く送ってほしい。法令の訳文や地図の添付も忘れないように。その他こまごまとした要望を述べたあとで、国男はこう記している。
〈今回の報告は全体において簡単ながら、よくまとまっていると好評でした。ただ翻訳者が南洋の問題について素人であったためか、日本文ならよくわかる箇所が、英文では不明瞭となり、そのため無用の質問などが出て、つい議論になったのが残念でした。これは何とかしなければならぬと思っております。南洋長官はもちろん日本の政府もこの英文によって責任を負うことになりますので、誰か上の人がよく見ておかねばならないでしょう〉
翻訳はなかなかやっかいな問題だった。加えて、日本政府代表の説明のまずさが、国男に歯がゆい思いをさせた。
こう書いている。
〈[英国などがアフリカのことを隅から隅まで知っている代表を送りこんでいるのに]日本だけが松田[道一]公使のように、報告書に一度さっと目を通したという代表を出し、質問ごとに多くもない書類をひっくり返し、返事にてまどるようでは、いかにも印象が悪く、そこで委員の中からいろいろの新たな議論が出てこないともかぎらないわけです。松田氏も非常にこれを気にしておられるようで、来年は同じような別の人に担当を譲りたいという考えのようです。しかし、それではいっそう不慣れでしょうから、その結果がまずいものにならぬかと、ひたすら心配しております。ぜひ、いまのうちから、いろいろ考えておくのがよろしいと存じます。小生は、通訳さえしっかりしていれば、自分でしゃべれなくても問題はなく、いま少し南洋の事情に通じた人を代表として出す必要があると考えております。また代表という以上は、ぜひとも事情をはっきりのみこんだ人でなければならないのではないでしょうか〉
痛烈な批判である。
松田公使への痛罵は、個人攻撃と受け取られるかもしれないが、そうではない。とりあえず委員や政府代表を出しておけばよいという外務省の態度は、国際連盟を外交上のおつきあいとしか考えない日本の消極的姿勢を示していた。しかし、そんなことではいつまでも日本が世界で認められないのではないかと国男は懸念していた。
〈実際、委任統治の新制度は、ばかげきった迷惑なおつきあいかもしれませんが、この制度がある以上は、これを軽んじて、今日までのようなやり方をつづけることは、はなはだしい不得策ではないでしょうか。連盟事務官による日本の批評は、小生の耳にはいったものだけでも、いかにもおもしろくないものです。陰では定めて悪評をしていることと思われます。自分までが、その原因の一部分をなしているようでは、ひと言の申し訳もない次第ですので、これを機会に、少なくとも関係の事項については、できるかぎりの思案をされ、正しいご判断をされるようお願いする次第です〉
この時代、日本人はまだ国際的な舞台に慣れていない。ある意味では、いまもそうかもしれない。語学力はたしかに問題だった。しかし、それよりも重要なのは、国際的に通用する論理と行動、誠実さを日本人が持ちあわせているかという点だった。
しかし何はともあれ、国男にとって最後となる委員会で、かれが「委任統治領における原住民の福祉と発展」と題する報告書を提出したことに注目したい。この報告書については、各委員のあいだで深く論議された形跡がない。ただ提出されただけで終わった可能性もある。
それでも、それは柳田国男という日本人が、3年間、国際連盟統治委員会の委員を誠実に務めたあかしにはちがいなかった。
この報告書で、国男は委任統治領における人口動態の把握に力をいれるべきだと主張している。
委任統治領では、同じ領域内にさまざまな種族が共存する場合もあるし、新たに別の種族が移動してくる場合もある。とりわけ、アフリカでは、同じ地域内にさまざまな種族が入り乱れ、そのために紛争が起こりやすい。
さらに、問題を複雑にしているのが、白人入植者の活動と欧州列強間による領土分割であって、この地域で協調と繁栄を確立するのは容易ではない。
国男が委任統治領内の人口動態の把握を訴えたのは、各種族の実情がわからないかぎり、住民の保護を徹底できないどころか、住民間の紛争を防止することさえできないからだった。
おそらくパレスチナの現況を踏まえたと思われる言及もある。パレスチナでは、バルフォア宣言以降、ユダヤ人の入植が一気に進んでいた。
〈欧州の入植者にかぎらず、委任統治地域へのすべての入植者は、変革への主導権をとり、そのことによって、いつも同じ場所で暮らす原住民よりすぐれた能力をもつことを立証してきました。私もまた、入植を全面的に禁止することはむずかしいと思いますが、そうだとすれば、各国政府のとるべき道は、原住民を抑圧原因から守るために、これまでにない適切な措置をとることであります〉
この言及はパレスチナにかぎったことではなく、委任統治領で一般に各国政府のとるべき対応を示唆していたのかもしれない。だが、もし国男のパレスチナ出張が実現していたら、この部分はさらに具体的な提言となっていた可能性もある。そうなれば、現在にまで引きつがれる中東紛争の最大要因が軽減されていたと夢想するのは、あまりにもうがちすぎだろうか。
この報告書では資源や土地、裁判や行政制度なども含めて、多岐にわたる論点が検証されているが、ここではそれを全部紹介するわけにもいかない。しかし、そこに一貫してみられる姿勢は、受任国政府の利益をいかにして確保するかということでなく、各国が原住民の福祉と発展のために、どのように力を貸せばよいのかという方向性である。それはけっしてレトリックではなく、国男の真摯な願いだったといってよい。
国男は委任統治領の住民が幸福を求めて発展するには、何よりも教育がだいじだと思っていた。だが、少数の才能あふれる特別な青年に最先端の教育をほどこす方式は、社会に亀裂を生じさせる場合が多く、かならずしも住民の発展に結びつくとは思えなかった。
〈それゆえに選択すべき教育計画は、原住民の社会水準の上昇をめざすものであり、しかも全体的に共同体のためになるものでなくてはなりません。その関連で、好ましい影響をあたえているものを挙げるなら、農業その他の基本的生産部門でなされている訓練や、地元の生産物を活用した手工業部門での訓練、さらにはまだ初歩的とはいえ日常生活に応用される医療面での訓練などがあります〉
国男は職業訓練教育を充実させ、そのために現地の教員を養成すべきだと主張した。
だが、かれの計画がもっと遠大だったことは、歴史や地理をどう教えればよいかという点にふれながら、こう述べているのをみてもわかる。
〈昔のやり方は、原住民の子どもに、愛国的な歌や歴代皇帝の名前を覚えさせるといった、あまりにも国家主義的で、ふたつの人種の同化[というか宗主国への原住民の従属]だけをねらったものでした。さすがにいまではこうしたやり方は取りやめられる傾向にあります。これから興味深く観察したいと思うのは、きちんと系統だった方法で歴史や地理を教えたら、原住民の考え方がどのように変わるかということであります。というのも、かれらが個々の存在や生きる意味を知るようになるには、アフリカや太平洋の広大な地域のなかで、さらには長い人類史のなかで、自分たちがどのような位置を占めているかを理解しなくてはならないからであります〉
近代という時代にあって、原住民が世界におけるみずからの位置を認識すること、すなわちかれらがアイデンティティを自覚することが、すべてのものごとの出発点だった。教育の目的は個の自覚をうながすことにある。
そして、国男は、これらの教育が欧州の言語によってではなく、できるかぎり現地のことばによってなされるべきだと強調した。
〈とはいえ、原住民の言語を採用したほうが賢明だと思われる、少なくとも3つの事実があります。(1)語彙や文法構造に類似性があることから、その言語の習得がずっと容易になされること。(2)少なくとも原住民のなかには、労をいとわずそれを学ぼうとする者がいること。(3)この計画からは新しい特権階級が出てこないこと。いずれにせよ、だいじなことは、行政府と原住民、部族間の意思疎通をはかり、それを簡素化する最善の方法をみいだすことであります〉
国男の主張は、支配者のことばでつづられてはいない。それは世界を領導すべき公平な文明諸国を代表する立場からの発言だったといってよいだろう。だが、その立場から見つめなおしても国男の結論は変わらない。すべての政治は大衆(コモンピープル)の幸福のためにある。
現実の政治が、かならずしも大衆の幸福を志向していないことは承知している。むしろパワーポリティックスこそが現実政治の実相だった。それでも、国男は国際連盟の場でも、みずからの理念を崩そうとはしていない。
とはいえ、国男が限界を感じていたのは、報告書でえがかれた大衆が、知識としての大衆、つまり文字によって把握された大衆でしかなかったことである。自分にとって、ほんとうの大衆はどこにいるのか。
おぼろげな方向性が、日本のコモンピープルの学を立てねばならないという決意に変わったのは、ジュネーヴを発って日本に帰国する途中、ロンドンで関東大震災の報に接したときである。そのときジュネーヴの3年間は、あっというまに遠ざかっていった。
まぼろしのパレスチナ出張 [柳田国男の昭和]
《第245回》
国男の気持ちを暗澹とさせた第2期(1922年)の委任統治委員会がどのようなものであったかは、やはり外務省の山川端夫に送った書簡からうかがうことができる。しかし、それをことこまかに紹介するのは骨が折れるので、ここでは『柳田国男伝』にしたがって、その要点とその後の経緯を示しておく(書簡は口語訳した)。
8月1日から11日までのわずか10日ほどの開催だったにもかかわらず、会議は多忙をきわめたと、国男は山川に報告している。
〈本年はA式のシリア、パレスチナ、およびB式のアフリカ諸領がともに委任統治が確定したばかりだったので、代表者が出ず、そのためこれらの地域についてはそれほど審議がなされませんでした。にもかかわらず前後17回の会議を重ね、文書の煩雑、事務の紛糾を免れませんでした。来年以降は、とうてい3週間以内で放免される見込みはなさそうです。夏休み中なのにとんだことだと、小生のように閑人ではない他国の委員はぼやくことしきりです〉
最初の会合では、英国側の委員から、日本の報告が審査されるさいに、オーストラリア政府代表の出席を認めてほしいという申し入れがなされた。まもなく英連邦を構成するオーストラリアは、日本が南洋群島を独占的に管理するのではないかと疑っていた。
これにたいし、国男は反論する。
「そうなれば、日本の政府代表も同じようにオーストラリアやニュージーランドの代表が説明するときに立ち会って、質問なり意見を述べるということになるでしょう」
英国側は「それでけっこうだ」と答えた。
しかし、それでは紛糾が生じた場合、いつまでたっても議論が終わらなくなるかもしれない。そこで、けっきょくは「評定のすえ、個々の場合は例外として、これを認めるにしても、原則としては、あくまでもこの会は非公開とすることになった」と国男は山川に報告している。
そのあと、ようやく夕方から南洋群島に関する日本の報告書が審議されることになった。日本側代表として説明に立ったのは、松田道一特命全権公使(のち在仏代理大使)だった。
その報告について、委任統治委員の国男は、事後の書簡で忌憚なく感想を述べている。
〈(1)日本の報告はナウル島[オーストラリア等の委任統治領]を除けば、いちばん短いものでしたが、短いだけならともかく、おうおうにして理事会の提示した質問に「はい」とも「いいえ」とも答えていない個条がありました。
(2)数字が少なく、かつ整っていませんでした。これもあくまでも比較の話ですが、他の委任領がいろいろの統計をかかげて、いかにも正確な印象を与え、質問の手掛かりを提供するのにたいし、これがない日本の報告はどうしても故意に事実を隠そうとしているのではないかという感じを与えてしまうのではないかと思います。それほど露骨ではありませんでしたが、来年の報告に対する注文が[各委員から]ずいぶんと出されました。
(3)教育、衛生、裁判の3つに力を入れていないのではないかという感じでした。これも日本の報告が下手なのではないかと思います。そのうえキリスト教の伝道をおろそかにするのではないかという疑惑も混じっていたようです。これはどの国でも実に面倒なことですが、原住民にありがたい教えを聞かせる機会を奪ってはいけないというのが、いまなお欧州の信条でありますので、日本としては注意に注意を重ねなければなりません。
(4)代表者が適任ではありません。この点は、気の毒ながら松田君も認めないわけにはいかないところです。松田氏がパリの人であることは委員もよく知っており、質問も手加減したようですが、それでもなお電報で頻繁に問い合わせなければなりませんでした。あれだけの経費をつかうなら、前もってもう少し体裁の整った報告をつくるとか、別途参考書類を送っておくとかすれば、それはど困らなかったでしょう。とはいえ、あのように多忙な身分の人では、参考書に目を通す時間もないかもしれません〉
実にこまかく、また辛辣である。外務省が国際的に通用する、きちんとした報告をつくっていないことも明らかだった。とりわけ国男は、特命全権公使でフランス臨時代理公使でもある松田道一が適任ではないと断言している。公式報告ではない書簡とはいえ、この発言はのちに波紋を広げていく。実際、両者の関係はよくなかったのだろう。
第2期の委員会では、各受任国から提出された年報が次々と審議されたが、その作業があまりにも錯綜をきわめたので、次年度からは各委員が担当分野をもって、その審議にあたることが決まった。国男に割り当てられたのは「道徳的、社会的、ならびに物質的な福祉」と「人口動態統計」である。国男がこの年、日本に帰らないことにしたのは、ひとつはこの分野を受け持つことになったためと、もうひとつは委任統治の実態をさらに研究してみようと思ったからである。
山川への書簡では、こう書いている。
〈小生は、皮肉な同僚がいて、経済的均等待遇問題をやってくれといわれましたが、いやだと返事をし、これまでも少しは心がけてきた民族問題、および「土人の幸福とは何か」という問題を引き受けることにしました。これなら道楽の学問とも若干一致しますので、これからあまり旅行などせず、静かなところで本を読もうと決意した次第です〉
9月6日に国男は定宿のオテル・ボー・セジュールを引き払って、ミルモン街6番地の小さな二階屋に移った。
ただし、旅行熱が収まったわけではない。引っ越しが終わると、さっそくドイツ各地を回っている。
9月20日からは数日にわたり国際連盟の第3回総会で委任統治問題が討議された。ジュネーヴに戻った国男はそれを聞きにいく。南ア連邦のスマッツ将軍の言動と、その委任統治領、南西アフリカの問題、さらにはパレスチナの委任統治とユダヤ国土の建設が大きな話題となっていた。
国男は総会が公開されていることを高く評価している。
しかし、この段階で、すでに山川あてにこう書いていた。
〈小生の後任の問題をそろそろお考えいただいているでしょうか。この年になって、ひとり暮らしというのは、とても長く堪えられることではありません。委任統治委員の仕事はこれからも力のかぎり働くつもりですが、来年8月が終わったら、何とぞ後方勤務に代われますよう、いまからご準備ください。だいぶ書類もたまり、また問題も積み重なっておりますので、丁寧な引き継ぎをいたしたく、やめてから翌年までに人を考えようというようなことがないよう、ちと早めからさらにご注意をとお願いする次第です〉
ひとり暮らしのつらさに加えて、委員会の仕事は3年が限度と踏んでいた。本来の仕事に戻りたいという思いが強くなりはじめている。
ところが、この同じ手紙には、おどろくべき出張申請もなされている。
〈パレスチナの委任統治には一通りではない複雑な事情があります。とくにいわゆるユダヤ国土の建設については、賛否ともそれぞれ理由があって、前の7月の理事会決定は、けっして解決とはいいがたく、イタリアも法王庁も無理に英国に抑えられ、一時がまんしているだけなので、来年にも大問題が内外から起こってくるでしょう。けっきょく世界4大宗教のなかの3つが喧嘩することになるので、委任統治委員たちは、もちろん冗談口調ですが、「われわれはいずれもクリスチャンなので公平を疑われる地位にあるから、これはぜひ柳田氏に働いてもらわねばならぬ」などと、たびたび話しています。そうでなくとも、ユダヤ人問題に関しては、欧州では長年の歴史から、人は「反ユダヤ主義者」か「ユダヤ主義者」かのどちらかに分かれ、公平の判断を下す資格はありません。小生は、有色人種であっても日本人よりも西洋人と交渉の密な文明人がこの地にいて、いつでも大問題を引き起こしうると考え、何よりも大いなる興味をもって、この問題の成り行きに注目している次第です。言語などの関係で委員として十分な働きはできないかもしれませんが、せめて事情の大要を誤りなく日本の同胞に語り伝えたいと切なる望みをいだいている次第です〉
こうして国男はパレスチナ事情を調査すべく、10週間くらいの出張を外務省に申請するのである。予定では、はじめにエジプトを見て、せめて汽車のあるだけ北アフリカを回り、多少の準備をしてからエルサレム、ダマスカス、それからコンスタンチノープル[イスタンブール]を歩き、それからジュネーヴに戻ってくるつもりだった。その費用は500ポンド(現在の貨幣価値では700万円程度か)と見込まれていた。
2カ月ほどたって、出張申請は内田外務大臣によって認められる。ところが、国男と対立するパリ代理公使の松田道一から横やりがはいった。
松田はこう言って国男の出張に反対する。日本にとって利害関係の薄いパレスチナに旅行して、英国側を刺激するのはよくない。また来年8月に辞めようという男に出張費までだして視察させることにどんな意味があるのか。行きたければ、個人でカネを払って、勝手に行けばいいのだ。パレスチナを調査するなら、本省(外務省)の人間が行けばいいのであって、委任統治委員が行くのは権限を逸脱している。
松田の反対は執拗だった。自分が批判されたことを根にもっていたのだろう。度量が狭いのに加えて、意地が悪いとしか言いようがない。外務大臣まで許可したのに、それにねちねちと異を唱えた。
その結果、国男のパレスチナ出張は中止となる。
11月28日の日記に国男はこう書く。
「巴里[パリ]より手紙、パレスチナ行きさし止めとのこと」
さらにその翌日の日記。
「昨夜家に還った夢を見る。家よりたより有り。ウナリ考[おなり考]を仏文にて書く気になる。空晴る。午後逍遙す。心最も静かなり」
心穏やかであれば、日記に「心最も静かなり」とは書かない。国男の失望がいかに大きかったかがわかる。
のち1946年(昭和21)11月に発表した、多少記憶の混同が見られるエッセイで、国男はそのときのことを次のように回想している。パリの日本大使館から出張見合わせの返事をもらって「また一人でも計画はできたわけだが、すっかり出鼻をくじかれてしまって、もうそういった元気もなくなり……仕事に対する興味は淡くしてしまった」。
こうして、国男のパレスチナ行はまぼろしとなった。そこにどんな出会いが待っていたかを想像すると、かえすがえす残念というほかない。
国男の気持ちを暗澹とさせた第2期(1922年)の委任統治委員会がどのようなものであったかは、やはり外務省の山川端夫に送った書簡からうかがうことができる。しかし、それをことこまかに紹介するのは骨が折れるので、ここでは『柳田国男伝』にしたがって、その要点とその後の経緯を示しておく(書簡は口語訳した)。
8月1日から11日までのわずか10日ほどの開催だったにもかかわらず、会議は多忙をきわめたと、国男は山川に報告している。
〈本年はA式のシリア、パレスチナ、およびB式のアフリカ諸領がともに委任統治が確定したばかりだったので、代表者が出ず、そのためこれらの地域についてはそれほど審議がなされませんでした。にもかかわらず前後17回の会議を重ね、文書の煩雑、事務の紛糾を免れませんでした。来年以降は、とうてい3週間以内で放免される見込みはなさそうです。夏休み中なのにとんだことだと、小生のように閑人ではない他国の委員はぼやくことしきりです〉
最初の会合では、英国側の委員から、日本の報告が審査されるさいに、オーストラリア政府代表の出席を認めてほしいという申し入れがなされた。まもなく英連邦を構成するオーストラリアは、日本が南洋群島を独占的に管理するのではないかと疑っていた。
これにたいし、国男は反論する。
「そうなれば、日本の政府代表も同じようにオーストラリアやニュージーランドの代表が説明するときに立ち会って、質問なり意見を述べるということになるでしょう」
英国側は「それでけっこうだ」と答えた。
しかし、それでは紛糾が生じた場合、いつまでたっても議論が終わらなくなるかもしれない。そこで、けっきょくは「評定のすえ、個々の場合は例外として、これを認めるにしても、原則としては、あくまでもこの会は非公開とすることになった」と国男は山川に報告している。
そのあと、ようやく夕方から南洋群島に関する日本の報告書が審議されることになった。日本側代表として説明に立ったのは、松田道一特命全権公使(のち在仏代理大使)だった。
その報告について、委任統治委員の国男は、事後の書簡で忌憚なく感想を述べている。
〈(1)日本の報告はナウル島[オーストラリア等の委任統治領]を除けば、いちばん短いものでしたが、短いだけならともかく、おうおうにして理事会の提示した質問に「はい」とも「いいえ」とも答えていない個条がありました。
(2)数字が少なく、かつ整っていませんでした。これもあくまでも比較の話ですが、他の委任領がいろいろの統計をかかげて、いかにも正確な印象を与え、質問の手掛かりを提供するのにたいし、これがない日本の報告はどうしても故意に事実を隠そうとしているのではないかという感じを与えてしまうのではないかと思います。それほど露骨ではありませんでしたが、来年の報告に対する注文が[各委員から]ずいぶんと出されました。
(3)教育、衛生、裁判の3つに力を入れていないのではないかという感じでした。これも日本の報告が下手なのではないかと思います。そのうえキリスト教の伝道をおろそかにするのではないかという疑惑も混じっていたようです。これはどの国でも実に面倒なことですが、原住民にありがたい教えを聞かせる機会を奪ってはいけないというのが、いまなお欧州の信条でありますので、日本としては注意に注意を重ねなければなりません。
(4)代表者が適任ではありません。この点は、気の毒ながら松田君も認めないわけにはいかないところです。松田氏がパリの人であることは委員もよく知っており、質問も手加減したようですが、それでもなお電報で頻繁に問い合わせなければなりませんでした。あれだけの経費をつかうなら、前もってもう少し体裁の整った報告をつくるとか、別途参考書類を送っておくとかすれば、それはど困らなかったでしょう。とはいえ、あのように多忙な身分の人では、参考書に目を通す時間もないかもしれません〉
実にこまかく、また辛辣である。外務省が国際的に通用する、きちんとした報告をつくっていないことも明らかだった。とりわけ国男は、特命全権公使でフランス臨時代理公使でもある松田道一が適任ではないと断言している。公式報告ではない書簡とはいえ、この発言はのちに波紋を広げていく。実際、両者の関係はよくなかったのだろう。
第2期の委員会では、各受任国から提出された年報が次々と審議されたが、その作業があまりにも錯綜をきわめたので、次年度からは各委員が担当分野をもって、その審議にあたることが決まった。国男に割り当てられたのは「道徳的、社会的、ならびに物質的な福祉」と「人口動態統計」である。国男がこの年、日本に帰らないことにしたのは、ひとつはこの分野を受け持つことになったためと、もうひとつは委任統治の実態をさらに研究してみようと思ったからである。
山川への書簡では、こう書いている。
〈小生は、皮肉な同僚がいて、経済的均等待遇問題をやってくれといわれましたが、いやだと返事をし、これまでも少しは心がけてきた民族問題、および「土人の幸福とは何か」という問題を引き受けることにしました。これなら道楽の学問とも若干一致しますので、これからあまり旅行などせず、静かなところで本を読もうと決意した次第です〉
9月6日に国男は定宿のオテル・ボー・セジュールを引き払って、ミルモン街6番地の小さな二階屋に移った。
ただし、旅行熱が収まったわけではない。引っ越しが終わると、さっそくドイツ各地を回っている。
9月20日からは数日にわたり国際連盟の第3回総会で委任統治問題が討議された。ジュネーヴに戻った国男はそれを聞きにいく。南ア連邦のスマッツ将軍の言動と、その委任統治領、南西アフリカの問題、さらにはパレスチナの委任統治とユダヤ国土の建設が大きな話題となっていた。
国男は総会が公開されていることを高く評価している。
しかし、この段階で、すでに山川あてにこう書いていた。
〈小生の後任の問題をそろそろお考えいただいているでしょうか。この年になって、ひとり暮らしというのは、とても長く堪えられることではありません。委任統治委員の仕事はこれからも力のかぎり働くつもりですが、来年8月が終わったら、何とぞ後方勤務に代われますよう、いまからご準備ください。だいぶ書類もたまり、また問題も積み重なっておりますので、丁寧な引き継ぎをいたしたく、やめてから翌年までに人を考えようというようなことがないよう、ちと早めからさらにご注意をとお願いする次第です〉
ひとり暮らしのつらさに加えて、委員会の仕事は3年が限度と踏んでいた。本来の仕事に戻りたいという思いが強くなりはじめている。
ところが、この同じ手紙には、おどろくべき出張申請もなされている。
〈パレスチナの委任統治には一通りではない複雑な事情があります。とくにいわゆるユダヤ国土の建設については、賛否ともそれぞれ理由があって、前の7月の理事会決定は、けっして解決とはいいがたく、イタリアも法王庁も無理に英国に抑えられ、一時がまんしているだけなので、来年にも大問題が内外から起こってくるでしょう。けっきょく世界4大宗教のなかの3つが喧嘩することになるので、委任統治委員たちは、もちろん冗談口調ですが、「われわれはいずれもクリスチャンなので公平を疑われる地位にあるから、これはぜひ柳田氏に働いてもらわねばならぬ」などと、たびたび話しています。そうでなくとも、ユダヤ人問題に関しては、欧州では長年の歴史から、人は「反ユダヤ主義者」か「ユダヤ主義者」かのどちらかに分かれ、公平の判断を下す資格はありません。小生は、有色人種であっても日本人よりも西洋人と交渉の密な文明人がこの地にいて、いつでも大問題を引き起こしうると考え、何よりも大いなる興味をもって、この問題の成り行きに注目している次第です。言語などの関係で委員として十分な働きはできないかもしれませんが、せめて事情の大要を誤りなく日本の同胞に語り伝えたいと切なる望みをいだいている次第です〉
こうして国男はパレスチナ事情を調査すべく、10週間くらいの出張を外務省に申請するのである。予定では、はじめにエジプトを見て、せめて汽車のあるだけ北アフリカを回り、多少の準備をしてからエルサレム、ダマスカス、それからコンスタンチノープル[イスタンブール]を歩き、それからジュネーヴに戻ってくるつもりだった。その費用は500ポンド(現在の貨幣価値では700万円程度か)と見込まれていた。
2カ月ほどたって、出張申請は内田外務大臣によって認められる。ところが、国男と対立するパリ代理公使の松田道一から横やりがはいった。
松田はこう言って国男の出張に反対する。日本にとって利害関係の薄いパレスチナに旅行して、英国側を刺激するのはよくない。また来年8月に辞めようという男に出張費までだして視察させることにどんな意味があるのか。行きたければ、個人でカネを払って、勝手に行けばいいのだ。パレスチナを調査するなら、本省(外務省)の人間が行けばいいのであって、委任統治委員が行くのは権限を逸脱している。
松田の反対は執拗だった。自分が批判されたことを根にもっていたのだろう。度量が狭いのに加えて、意地が悪いとしか言いようがない。外務大臣まで許可したのに、それにねちねちと異を唱えた。
その結果、国男のパレスチナ出張は中止となる。
11月28日の日記に国男はこう書く。
「巴里[パリ]より手紙、パレスチナ行きさし止めとのこと」
さらにその翌日の日記。
「昨夜家に還った夢を見る。家よりたより有り。ウナリ考[おなり考]を仏文にて書く気になる。空晴る。午後逍遙す。心最も静かなり」
心穏やかであれば、日記に「心最も静かなり」とは書かない。国男の失望がいかに大きかったかがわかる。
のち1946年(昭和21)11月に発表した、多少記憶の混同が見られるエッセイで、国男はそのときのことを次のように回想している。パリの日本大使館から出張見合わせの返事をもらって「また一人でも計画はできたわけだが、すっかり出鼻をくじかれてしまって、もうそういった元気もなくなり……仕事に対する興味は淡くしてしまった」。
こうして、国男のパレスチナ行はまぼろしとなった。そこにどんな出会いが待っていたかを想像すると、かえすがえす残念というほかない。