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グリコ・森永事件(2)(岩瀬達哉『キツネ目』から)──大世紀末パレード(24) [大世紀末パレード]

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 グリコ・森永事件というと、江崎グリコと森永製菓をめぐる事件だと思われがちだが、そうではない。多くの食品会社、製菓会社が犯人から脅迫を受けていた。グリコと森永はその代表にすぎなかった。
 じっさい、警察が犯人らしき男を目にし、追いつめるのは、丸大食品とハウス食品が脅迫されたときだった。丸大の事件では、警察の捜査員が1984年6月28日に犯人らしきキツネ目の男を電車内で目撃したものの引っぱるところまではいたらなかった。ハウスの事件では、11月14日に車で逃走する犯人をパトカーが追ったものの逃げられてしまっている。
 企業が要求に応じるかにみせて、そのとき警察の動く気配を少しでも感じれば、犯人はすぐ取引をやめている。犯人はじつに用意周到で、しかも慎重だった。
 そのいっぽう、めだつ関西弁の脅迫文を、企業だけでなくマスコミにも送りつけて、巧妙に世間の恐怖心をあおっている。脅迫先の食品企業が警察に通報したことがわかると、犯人はスーパーやコンビニに青酸ソーダ入りの製品をばらまき、そのことをマスコミに通報した。店頭から製品回収の憂き目に遭った企業は、巨額の損害をこうむった。
 犯人はそれにつけこむ。警察に連絡せず裏取引に応じないと巨額の損失をこうむると示唆しながら、企業を脅迫し、ひそかに金銭を奪いとった。はたしてどれくらいの企業が犯人の脅迫に屈して、どれだけのカネを渡したか、その全容ははっきりとわかっていない。
 派手な立ち回りとは裏腹に、犯人のほんとうのねらいは、マスコミを利用して社会の恐怖心をあおりながら、裏でこっそりと企業から金銭をせびりとることにあった。これは暴力団の手口である。
 しかし、犯人は暴力団ではなかった。というのも、約1年半にわたる犯行の手口から、構成メンバーの姿がおぼろげに浮かびあがってきたからである。その仲間は6人と推測された。
 岩瀬達哉はこう書いている。

〈かい人21面相のメンバーでは、キツネ目の男とビデオの男が広く知られている。ファミリーマート甲子園口店に青酸ソーダ入り「森永缶入りドロップ」を置く男の姿を、店内の4台の防犯カメラが捉えているが、それがビデオの男である。
(中略)
このふたり以外では、脅迫企業への指示書を読み上げる声が録音された35歳前後の女と、同じく声が録音された10歳前後の男児、そして言語障害のある10歳前後の男児に加え、江崎社長を拉致したときの運転手役の男の、4人が確認されている。従って、かい人21面相のメンバーは、少なくとも6人はいたことになる。〉

 こうしてみると、この事件は暴力団による犯行というよりは、むしろ一家を総動員した犯行のように思えてくる。中心となったのは「キツネ目」の男である。この男がすべてを計画し、すべての脅迫文や挑戦状を書いた。
 グリコ・森永事件は消費社会全盛期の劇場型犯罪だった。その手口はまだアナログである(脅迫状、公衆電話、カセットテープ、指示メモ、現金、車、電車等々)。
 1985年のバレンタインデーを前にした2月12日に、犯人は「かし会社の えらいさん え」と題する挑戦状をマスコミ宛てに送っている。

〈わしらと おまえらと どっちが わるや おもう/わしら わるや わしらが ゆうとるんや まちがい ない/おまえら おまえらの こと わる おもおとらんやろ/ええもんの よおな 顔して 世の中 だましとるや ないか/かしさえ うれおったら 世の中の もん むしばに なっても/とおにょうに なって も かまへんのやろ/あこぎな 商売 やで/バレンタイン なんの こっちゃ
(中略)
0.4グラム いれたの 全国に ばらまいたる/チョコレート おくるあいてに ほけんかけ/バレンタイン ふたりそろって あの世ゆき/めをむいて ペコちゃんポコちゃん はかのなか〉

 犯人は、自分たちの犯行の正統性を唱えるとともに、バレンタイン・デーをつくった菓子会社と消費社会に反発する姿勢をあらわにしている。戯れ歌などもつくって、かなり躁状態で、愉快犯の傾向がみてとれる。だが、このころはすでに不安な状態にあった。
 ここで、森永製菓への脅迫事件をふり返っておこう。
 森永製菓脅迫事件は江崎グリコ社長拉致事件から半年後の1984年9月12日にはじまり、犯人が終結宣言をだす85年2月27日までつづいた。
 大阪にある森永製菓関西販売本部の郵便箱に脅迫状が直接投げこまれていたことが発端だった。
1億円ださなければ、青酸ソーダいりの森永製品をばらまく。そうしてもらいたくなければ、9月18日にカネを用意して待つようにと書かれていた。最後に「かい人21面相」の署名があった。
 裏取引しようとする犯人側にたいし、森永側は警察に届けて、犯人の逮捕をめざすという方針で臨んだ。安全第一を基本とし、どんなことがあっても会社を守るという意志を固めていた。
 9月18日午後8時半すぎ、電話がかかってきた。流れてきたのは、カセットテープに録音された子どもの声だった。
 1億円をいれたバッグを用意し、待ち合わせに指定したファミリーレストランから車を移動させて、次の場所に向かえ。そして、そこに置いてある空き缶の中をみろというものだ。
森永の社員に化けた捜査員が現場に向かうと、空き缶の中に指示書があり、そこには、次の指定場所においてあるポリ容器の中をみろと書かれていた。
 捜査員はできるだけ時間稼ぎをして、ゆっくりと次の現場に向かう。そこにはたしかにポリ容器があり、この箱にバッグをいれるようにという指示書が置かれていた。
 捜査員はバッグをいれて、すぐに立ち去り、犯人が現れるのを待った。だが、いくら待っても犯人は現れない。警察の動きは察知されていた。犯人は到着までの時間を計りながら、森永が警察に連絡したかどうかをたしかめていたのだ。取引は中止となった。
 それから5日後、犯人は新聞社に「森永のどあほ」と記した挑戦状を送り、青酸ソーダを混入させた森永製品をスーパーやコンビニに並べはじめた。そこには「どくいり きけん たべたら 死ぬで」というシールが貼られていた。
 犯人がマスコミに送ったあらたな挑戦状で、この事実をあかすと、日本じゅうがパニックとなった。スーパー各社コンビニチェーンは、ただちに全国の店舗から森永製品を撤去することを決定した。
 それでも森永は屈しなかった。社員を総動員して、全国のデパートやスーパーを回り、森永製品をビニール袋に詰めた「千円パック」セールを始めている。しかし、その売り上げはわずかなものだった。事件から5カ月半のあいだで、森永の損害額は約400億円にのぼったという。
 その後も犯人は森永に脅迫状を送り、2億円を要求してくる。だが、なぜか具体的な指示のないまま、その年がすぎていく。
 1985年2月25日、NHKは「企業の選択─脅迫された森永製菓─」と題するドキュメンタリーを放送した。森永はどんなことがあっても、かい人21面相と対決するという姿勢がえがかれていて、世間の大きな反響を呼んだ。
 犯人からとつぜん終結宣言がだされるのは、その2日後である。大阪・茨木市の派出所入り口の前に「森永 ゆるしたろ」と書かれた文書がひっそりと置かれていた。
 森永の屈しない姿勢をみて、犯人側がついにあきらめたかのようにみえた。だが、じっさいは、かれらのほうが、そうとう追いつめられていたのである。
 じつは森永事件がまだ終結していない前年84年11月14日に、ハウス食品から現金をせしめようとして、犯人があやうく警察に逮捕されそうになるできごとが起きていたのだ。
 さらに1月10日には「キツネ目の男」の似顔絵が公開された。犯人側がそろそろ引き時と感じていたことはまちがいないだろう。じっさい、1985年にはいってから、犯人はますます愉快犯の傾向を強めるものの、本気で犯行を重ねようとする気配はなくなっていた。
 11月14日の逮捕失敗劇は、犯人側、警察側、双方の判断ミスから生じたものだったといえる。犯人側はハウス食品が裏取引に応じたと思いこんでいた。警察は犯人を逮捕する万全の態勢をとっていたが、思わぬミスから犯人を取り逃した。
 滋賀県警本部長は、その責任をとって8月7日に自殺することになる。そして、犯人はマスコミ宛てに「まだ なんぼでも やること ある 悪党人生 おもろいで」との犯行終結メッセージを送って、姿を消すのである。
 岩瀬達哉はグリコ・森永事件のルポをこうしめくくっている。

〈身代金目的誘拐や連続企業恐喝のような悪質事件での迷宮入りは、レアケースと言われている。キツネ目の男は、運に助けられ、このレアケースの中に紛れ込むことができたのである。しかし、いまや機動力と鑑定能力の向上がはかられ、同様の事件が起きても未解決に終わる可能性はまずないと言ってよい。〉

 時代が変わったのである。

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グリコ・森永事件(岩瀬達哉『キツネ目』から )──大世紀末パレード(23) [大世紀末パレード]

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 躁っぽい時代だった。
 事件がおきたのは1984年3月18日夜のこと、江崎グリコの江崎勝久社長が西宮の自宅で入浴中に誘拐された。
 以来、85年8月11日にマスコミ宛てに犯行終結宣言が送られるまで、約1年半にわたりグリコ・森永事件は世間を騒がせた。
 犯人は江戸川乱歩の少年探偵小説シリーズ「怪人二十面相」をもじって、「かい人21面相」を名乗っていた。
 犯人はつかまらず、事件はけっきょく迷宮入りとなった。
 特異だったのは、ふざけた調子の脅迫状や挑戦状が、関連企業だけでなくマスコミに向けて147通も送られていたことである。それにより、事件は世間の注目を浴び、劇場型犯罪に警察は翻弄され、メンツを失った。
 脅迫されたのは江崎グリコと森永製菓だけではない。丸大食品やハウス食品工業、明治製菓、山崎製パン、雪印乳業、不二家、駿河屋などにおよぶ。有名な食品企業が軒並みに脅されていた。ロッテは模倣犯にだまされて、カネをせしめられている。
 責任をとって焼身自殺した滋賀県警本部長を除いて、事件で死者はでなかった。警察幹部の自殺を知ると、犯人は犯行終結宣言をだしている。これ以上騒ぎをおこすと、さすがにあぶない(いまどきのことばでいうと「やばい」)と思ったのかもしれない。
 とはいえ、事件は暴力的である。だが、それは制御され、手慣れていて、大胆で、狡猾で、人を震え上がらせる暴力だ。そのくせ犯人は冷静で、逆にふざけているところもあり、とても素人とは思えない。
 警察は犯人をギリギリまで追い詰めた。だが、最後のところで逃げられる。犯人とおぼしき「キツネ目」の男の似顔絵だけが残された。
 岩瀬達哉の『キツネ目──グリコ森永事件全真相』には、当時発表されていなかった内容を含め、事件の全体像をえがいている。
 江崎グリコ社長の誘拐は大胆きわまりなかった。3月18日日曜の夜9時ごろ、西宮市の閑静な住宅街にある江崎邸にふたりの男が忍びこみ、入浴中の江崎社長に改造したライフル銃を突きつけて、外に連れだし、停めてあった車に乗せて走り去ったのだ。
 江崎社長は淀川とほぼ平行して流れる安威川(あいがわ)左岸の水防倉庫に監禁された。「なんでこんなことするんや」と言った社長に、目出し帽の犯人は「当たり前やないか、カネや」と答えている。
 それから約5時間後の深夜1時すぎ、グリコの人事労務担当取締役の自宅に犯人から電話がかかってきた。取締役はこのときすでに社長が誘拐されたことを知らされていた。犯人は高槻市のある公衆電話ボックスを指定、そこに置いてある電話帳をみろといって、電話を切った。
 取締役は警察に連絡し、パトカーでその電話ボックスに向かい、電話帳にはさんであった脅迫状を見つけた。そこには明日の夕方までに現金10億円と金100㎏を用意しろと書かれていた。
 それにしても法外な要求だった。とてもすぐに用意できる内容ではない。その後、犯人からは二度電話がかかってきた。犯人にしたがうようにという江崎社長の切羽詰まった録音の声が流れてきた。
 だが、二度目の新たな録音の声が送られてきたとき、江崎社長は監禁されていた水防倉庫からすでに自力で脱出していたのだ。犯人はもともと江崎社長を早めに解放するつもりでいた。しかし、予定より早く社長が脱出してしまったために、間抜けた脅迫電話になってしまったのだ。
 ところが事件はこれで終わったわけではなかった。ほんとうの脅迫がはじまるのは、それからだった。実体のない恐怖が迫ってくる。
 江崎社長が水防倉庫から脱出して2週間後の4月2日、犯人から江崎家に速達郵便で長文の脅迫状が送られてくる。
「いのちと 金と どちらが たいせつや/いのちがおしければ 金を よおいしろ/死にたければ けいさつえ れんらく しろ」などといった文面とともに、一家6人分6000万円を用意して4月8日に甲子園学園東の喫茶店マミーにもってくるよう指示されていた。
 警察は捜査員をグリコ社員に扮して、犯人逮捕をねらったが、その動きはマスコミに漏れていて、喫茶店のドアを開けたところ、店内はすでにカメラを構えた警察担当の記者であふれていた。それを見た捜査員はなかにすらはいれなかったという。警察無線がダダ漏れになっていたのだ。
 もちろん犯人側は警察の動きを察知していた。その様子を観察していた犯人が指定の場所にのこのこ現れるわけもなかった。
 4月10日にはグリコ本社とグリコ栄養食品にガソリンを浸した布団や布に火がつけられて投げ込まれる放火事件がおきている。マミーでの待ち伏せにたいする報復だった。
 それから5日後の4月15日、今度はグリコ本社あてに新たな脅迫状が送られてくる。2倍の1億2000万円が要求されていただけではない。カネを払わなければ、スーパーに青酸入りのアーモンドチョコレートを20個置くという脅しが書かれていた。これにはグリコ側が震えあがる。
 グリコは裏取引に応じるような姿勢を見せながら、犯人をおびきだそうとした。だが、このときも警察の動きが察知されて、捜査は失敗。
 怒った犯人は、こんどは新聞各社に、青酸ソーダ入りのグリコ製品をばらまくと通告する挑戦状を送った。
 新聞やテレビ、ラジオはこの情報を公開しないわけにはいかなかった。大手スーパーは即日、グリコ製品の販売中止を決定する。その結果、グリコと関連会社は10日間で約25億円の損害をこうむったという。
 犯人はこれだけ脅せばグリコも裏取引に応じてくるだろうと踏んでいた。こんどは取引先企業を通じて、グリコに接触してくる。
 このときグリコは警察に知らせず、3億円を用意して、犯人との裏取引に応じるつもりだった。だが、かかってきた電話の音声がよく聞き取れなかったため、取引は中止となった。
 そして、最後が6月2日の取引である。このときグリコは一転して、警察に連絡していた。次が本番とみた大阪府警は入念な捜査網を敷いた。
 だが、犯人のほうが一枚上手だった。
 この日、犯人が3億円の受け取り場所として指定した焼肉店に現れたのは、淀川の堤防でデート中に襲われて恋人を人質にとられた元自衛隊員の男性の車だった。
 恋人を取り戻したいのなら、焼肉店に行って、白いブレザーを着た男と接触し、車とキーを受けとって、堤防まで戻ってくるよう指示されていた。待ち構えていた警察はこの男性を犯人として確保する。
 だが、犯人ではないとわかると、警察は現金をつんだと見せかけた白のカローラの後部座席に、ふたりの警察官をこっそり乗りこませて、この男性を犯人の待つ淀川堤防に向かわせた。
 しかし、段取りに手間取ったため、すんでのところで、犯人に逃げられている。
 それから約1カ月後の6月26日、犯人から新聞各社にグリコへの「犯行終結宣言」が送られてくる。
「わしら もう あきてきた/社長が あたま さげて まわっとる/男が あたま さげとんのや ゆるして やっても ええやろ/……江崎グリコ ゆるしたる/スーパーも グリコ うってええ」
 これでグリコへの犯行は終わる。何かの裏取引があったのではないかといううわさは絶えなかった。だが、ともかくも事件が終わったことはたしかだった。あとの課題は犯人を見つけて逮捕することだけである。
 ところが、じつはこのとき、すでに丸大食品への脅迫がはじまっていたのだ。警察はそれまで犯人は江崎グリコ内部にいると考えていた。それが、一挙にくつがえる。さらに森永製菓をはじめ、いくつもの食品メーカーに脅迫状が送られてくる。
 あのころぼくは何をしていたのだろう。遅くはじめたサラリーマン生活の9年目で、毎日、本の編集作業をしていたことを覚えている。上原謙の本、アジア・ルポ、共同通信の紹介本、斎藤茂男さんの「日本の幸福」シリーズ、世界年鑑、記者ハンドブック、レバノン戦争の本、その他もろもろ。
 忙しかった。グリコ・森永事件は、そんなサラリーマンの日常をせせら笑うように、通り過ぎていったのだ。

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樋田毅『記者襲撃』を読む ──大世紀末パレード(22) [大世紀末パレード]

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〈1987年5月3日に兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った目出し帽の男に襲われた。当時29歳の小尻知博記者が射殺され、当時42歳の犬飼兵衛記者が重傷を負った。この事件を含め、約3年4カ月の間に計8件起きた「赤報隊」による襲撃・脅迫事件は、2003年3月にすべて公訴時効となった。記者が国内で政治テロによって殺された事件は、日本の言論史上、ほかにない。〉

 本書「まえがき」冒頭に記されたこの一節が、事件の全容を示している。著者は、朝日新聞在職中も定年退職後も、30年にわたり、この事件を追いつづけてきた。犯人はつかまっていない。犯行声明らしきものは出されているが、はっきりした動機はわからない。
 朝日新聞の支局が襲われ、記者が殺されたというできごとだけが人びとの記憶に強く刻まれることになった。
 事件は赤報隊を名乗る2、3人のグループによる犯行だ、と著者はみている。1987年から90年にかけ、赤報隊は記者殺害前後に8件の事件をおこしている。

[1987年]
 1月24日 朝日新聞東京本社の壁を散弾銃で銃撃
 5月3日  朝日新聞阪神支局を襲撃、記者殺害
 9月24日 名古屋市の朝日新聞単身者寮で銃弾を発射
[1988年]
 3月11日 朝日新聞静岡支局に時限式爆発物を仕掛ける
 3月11日 中曽根康弘前首相に脅迫状、竹下登現首相にも脅迫状
 8月10日 リクルート前会長の江副浩正邸を銃撃
[1990年]
 5月17日 名古屋の愛知韓国人会館に灯油をまき火をつける

 6通の声明文と2通の脅迫状が残されている。
 そこからは、かれらの主張の一端がうかがえる。

 戦後、日本では日本が否定されつづけてきた。反日世論を育成してきたマスコミに厳罰を加えなければならない。
 特に、朝日は悪質だ。すべての朝日社員に死刑を言いわたす。わが隊の処刑は42年間つもりつもった日本民族のうらみの表れである。
 朝日は言論の自由を守れというが、朝日の言論の自由は、連合国の反日宣伝の自由である。
 英霊は裏切り者の中曽根をのろっている。竹下が靖国を参拝しなかったら、処刑リストに名前を載せる。
 リクルートコスモスは反日朝日に金を出して、反日活動をした。反日朝日や毎日に広告を出す企業があれば、反日企業として処罰する。
 ロタイグ(盧泰愚)は来るな。くれば反日的な在日韓国人をさいごの一人まで処刑する。

 ざっと、こんな調子である。

 著者は犯人を探すため、新右翼と呼ばれるグループとその周辺をあたり、直接接触をこころみた。まさに命がけの取材だったと思われる。
 著者によると、日本の右翼は6つのグループにわけられるという。

(1)伝統右翼。
(2)新右翼。
(3)任侠右翼。
(4)論壇右翼。
(5)宗教右翼。
(6)草の根(ネット)右翼。

 多く説明する必要はないだろう。伝統右翼は戦前の右翼団体を継承している。反左翼の立場から戦後は親米の立場をとるようになった。これにたいし、新右翼は三島由紀夫自決に刺激を受けて結成されたグループで、反米の立場を貫く。任侠右翼は暴力団といってよい。宗教右翼は「生長の家」などに代表されるが、統一教会(現世界平和統一過程連合)などもこれに含まれる。
 分類はあくまでも分類であって、その関係はからみあっている。団体どうしの対立もあるし、あくまでも孤立している個人や団体もある。その変遷はめまぐるしい。
 それぞれの主張には微妙なちがいはある。しかし、基本的に共通するのは左翼撲滅(反共主義)、愛国主義、皇室擁護、自主憲法制定の姿勢だろう。政治団体としての「日本会議」もこの立場をとっている。
 朝日新聞襲撃事件の犯人を追うため、著者は右翼のなかでも直接行動主義をとる「新右翼」に焦点をしぼり、何人もの関係者と会って、慎重に取材をつづけた。
 新右翼のひとつの特徴は新左翼に対抗する武闘派だということだ。「大東亜戦争」をアジア解放のための戦いととらえ、日本を敗北に追いこんだアメリカやソ連と戦うという考え方をもっている。アメリカの占領によってつくられた戦後日本のあり方は根本的にまちがっていると考える。そうした点で、5月3日の憲法記念日に朝日新聞阪神支局を襲撃した赤報隊も新右翼の系列に属すると考えられた。
 著者は赤報隊の影を追って、東北や関西にも足を延ばしている。統一戦線義勇軍なる団体とその関係者があやしいとにらんだが、その先の消息はとだえていた。長らく消息不明となっていた人物とも接触するが、犯人だとの確証は得られなかった。
 民族派の武闘派、野村秋介は1993年10月20日に朝日新聞東京本社役員室で、中江利忠社長と面会中に拳銃自殺した。野村が立ち上げた政治団体「風の会」を、山藤章二が『週刊朝日』の「ブラックアングル」で「虱の党」と揶揄したことに抗議する行動だった。
 新右翼団体「一水会」の代表、鈴木邦男はその後、『週刊SPA!』に連載中のコラムで、野村秋介の思い出に触れ、野村が赤報隊の連中と何度か会って、無差別に朝日の末端記者をやるのはよくないと話していたことを紹介している。だが、その真偽のほどはわからなかった。
 あやしそうな人物はほかにもいた。著者はかれらとも会って、その考え方を聞いているが、言論とテロをめぐる議論は堂々巡りするばかりだった。はっきりしたアリバイがないなかで、警察もけっきょく確たる証拠をつかめなかった。
 取材の過程で、すでに統一教会と勝共連合の名前が浮上していた(本書ではα教会、α連合となっている)。
 朝日新聞は中曽根政権が進める国家秘密法に反対する論陣を張っていたが、勝共連合は86年11月から87年1月にかけて、朝日新聞東京本社前に街宣車をくり出し、朝日を批判する街頭演説をくり返していた。『朝日ジャーナル』には、不気味な内容の脅迫状も送られてきた。
 一連の朝日新聞襲撃事件に統一教会・勝共連合がかかわっていた証拠はない。だが、信者の集会では、それをにおわせる指導者の発言もあったという。かぎりなくあやしかった。
 いっぽう、右翼の側からは、統一教会と勝共連合を警戒する向きもあった。反共をかかげていても、その心は天皇陛下ではなく、文鮮明教祖に向いている、と疑っていたからである。ともあれ連帯しながらも、右翼の側は統一教会を恐ろしい組織だとみていたのだ。
 統一教会は朝日新聞をサタンとみなして、敵愾心をいだいていた。統一教会が全国で26の系列銃砲店をもっていたのは事実である。秘密軍事部隊も存在した、と著者は書いている。
 統一教会が阪神支局襲撃事件にかかわっているのではないかという疑惑が浮上する。だが、確証はとれなかった。それ以上に、統一教会と赤報隊の思想が根本的なところで食いちがっているのが問題だった。
 88年の2月か3月に、統一教会の新聞「世界日報」の社長らと朝日新聞編集局の幹部が会食し、その後、5月にも両者の話しあいがもたれた。双方の批判を控えるという一種の「手打ち」がおこなわれたとみてよい。組織防衛の論理がはたらいたのだろう。そのことも、著者ははっきりと記している。
 2003年3月に赤報隊事件は公訴時効を迎えた。
「[戦後]いくつもの未解決の重大事件があるが、その中で最も深刻な影響を残しているのが、『赤報隊』による一連の事件ではないかと思う」と、著者は書いている。
 じっさい、この事件をひとつの契機とするかのように、「反日」という言葉が広がり、保守の論調が強まり、特定秘密保護法が成立し、日本会議の影響力が増し、国防力の強化が進み、ナショナリズムが世をおおうようになった。
「小尻記者に向けられた銃弾は、われわれ一人ひとりに向けられたものだという言い方もできる」。いまジャーナリストには覚悟と矜持が求められる、と著者はいう。
 ジャーナリストにかぎるまい。ひとつの無念を受けとめること、だれにとっても、それが新規の出発点になるのだから。

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竹下政権とリクルート事件(2)──大世紀末パレード(21) [大世紀末パレード]

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 竹下政権のおもな課題は、地価対策、税制改革、日米関係の調整だったといってよい。地価対策は中途半端に終わったが、税制改革と日米関係の調整については成果を残した、と政治学者の若月秀和は記している。
 この時期、日米関係では引きつづき貿易不均衡が大きな問題となっていた。アメリカはGATT理事会に提訴し、日本にたいし農産物の自由化を求めた。その結果、プロセスチーズやアイスクリームなどの乳製品、飼料、トマトジュースなどの輸入規制が撤廃ないし軽減されることになった。
 このあとさらにアメリカは牛肉とオレンジの完全自由化を求める。交渉は難航するが、最終的に竹下政権は一定の条件をつけながら、牛肉・オレンジ自由化の方向に踏み切る。
 アメリカ側は大規模公共事業への参入も求めていた。日本側は外国企業が参加しやすい特例措置を設けるなどして、対応にあたった。
 こうして日米間の経済摩擦問題も少しは落ちついてくる。
 もうひとつの大きな課題が税制改革だった。竹下は大平、中曽根政権もできなかった消費税導入を実現したいと思っていた。大型間接税の導入によって戦後の直接税中心の税体系から脱却し、財政基盤を強化することがねらいだった。
 消費税については、さまざまな懸念があった。実質的な増税になるのではないか、低所得層に負担がかかる逆進的な税体系だ、事業者にも負担がかかる。さらに、将来、安易な税率引き上げがなされるのではないかという心配もあった。とうぜん、多くの反対が予想された。
 竹下はそうした問題点があることも認めながら、日本の将来の財政基盤を安定させるため、消費税導入に向けて、着々と布石を打っていく。
 1988年4月には政府税制調査会が、消費税の導入は必要やむを得ないとの中間答申を発表した。6月には自民党税制調査会が、税制調査会の中間答申にもとづいて税制改革大綱を決定する。
 公明党、民社党へのはたらきかけもおこなわれた。社会、共産の両党が反対を貫くのは目に見えていた。竹下のねらいは、公明、民社をだきこんで、自公民で法案を通すことだった。そのいっぽう、日本チェーンストア協会をはじめとして、反対の根強い業界への説得もつづけられた。
 7月に召集された臨時国会で、政府は税制改革関連6法案を提出した。竹下は「辻立ち」も辞さないと、法案成立への並々ならぬ決意を議会で表明した。
 消費税導入を中心とする税制改革法案は、難航のすえ、11月16日に衆議院、12月24日に参議院を通過し、可決成立した。
 だが、そのさなかにリクルート事件が浮上する。国会は大疑獄となったこの事件で揺れに揺れる。
 リクルート事件とは、いったいどういう事件だったのだろうか。 単純にいえば、それは政治と企業とカネがからむおなじみの事件のひとつだった。
 88年6月18日に朝日新聞が、川崎市の助役にまつわる贈収賄疑惑を報じたのがはじまりだった。
リクルート社はJR川崎駅周辺の再開発地域にからんで、川崎市の助役に関連不動産会社「リクルートコスモス」の未公開株を譲渡していた。公開されれば、とうぜん値上がりすることが予想された。
 じっさい、その株は公開後上昇して、それを売却した助役は1億円以上の売却益を得た。これは事実上の賄賂ではないか、と朝日の記事は告発したわけである。
 事件はそれだけでは終わらなかった。取材が進むにつれ、リクルート社が同じ手口で、政界や官界、その他にコスモスの未公開株を約200万株譲渡しているのがわかってきた。
その人数は延べ150人以上にのぼった。コスモス株は86年10月に店頭公開され、未公開株の所有者は売り抜けて多額の利益を得ていた。
 リクルート事件が発覚したのは、まさに消費税の導入が論議されている臨時国会のさなかである。秘書名義を含めると、10人以上の国会議員がリクルート社から未公開株を譲渡されていた。
 最初に名前が挙がったのは、自民党では中曽根康弘前首相、竹下登現首相、安倍晋太郎幹事長、宮沢喜一蔵相、森喜朗元文相。野党でも民社党の塚本三郎委員長、社会党の上田卓三議員の名前が飛びだした。
 リクルート社はほかにも献金やパーティー券の購入などで、政治家に多額の資金を提供していたことが判明した。
 88年12月24日に消費税法案が衆参両院で可決成立するまで、国会はこのリクルート問題でもめにもめる。宮沢喜一蔵相が証言の食い違いによって辞任する一幕もあった。
 自民党はリクルート社の江副浩正社長と未公開株を受けとった元労働事務次官の加藤孝、前文部事務次官の高石邦男を国会喚問するとともに、衆議院にリクルート問題調査委員会を設け、譲渡先リストを公開することを約束した。これによって、年末にようやく税制改革関連6法案(消費税法案)を通すことができたのだった。
 公表された譲渡先リストのなかには、前に挙げた名前に加えて、池田克也、伊吹文明、加藤紘一、加藤六月、田中慶秋、浜田卓二郎、藤波孝生、渡辺秀央、渡辺美智雄の名前が挙がっていた。
竹下は12月27日に内閣改造をおこない、4月の消費税実施に備える体制を整えた。だが、新しく任命された閣僚にたいしてもリクルート社による献金が次々と発覚すると、世間の怒りは収まらなくなった。
89年1月7日に昭和天皇が亡くなり、平成時代がはじまる。
 2月24日の「大喪の礼」をはさんで、しばらくは弔問外交がつづいた。北朝鮮への対決姿勢も緩和され、対ソ関係の改善もはかられた。だが、日米関係はアメリカが日本にさらにさまざまな要求を突きつけたため、いまだに緊張状態にあって、同盟漂流などと称される事態がつづいていた。
 そのかんもリクルート事件をめぐる政治不信は高まるいっぽうだった。
 竹下は総裁直属の諮問機関として政治改革委員会を発足させ、会長に中曽根内閣時代の官房長官、後藤田正晴をあてることにした。政治改革委員会では1月18日の初会合以来、長々と議論が重ねられ、ようやく5月になって自民党の「政治改革大綱」がまとめる。
 政治改革の目標は、カネのかからない政治を実現することにほかならない。そのためには政治資金の規制を強化すること、自民党内の派閥を解消すること、さらには小選挙区制を実現することなどが「大綱」に盛りこまれていた。
 だが、すでに竹下は追いつめられていた。2月にはじまった通常国会で、社会党の土井たかこ委員長は内閣総辞職による衆議院解散を求める。
 さらに3月末から4月にかけて、新しい事実が判明する。かつてリクルート社が竹下の資金集めパーティーのために多額のパーティー券を購入していたこと、加えて2500万円の寄付をしていたこと、さらには竹下の秘書、青木伊平が江副浩正から5000万円を借りていたこと。これらのことが次々とあきらかになったのだ。
 4月半ばに実施された共同通信の世論調査では、竹下内閣の支持率は3.9%、不支持率は87.6%という信じがたい数字がでていた。
 このままでは予算案の成立もままならない。竹下は4月25日に退陣を表明し、国民のために予算を通過させるよう呼びかけた。
 翌26日、秘書の青木伊平が自殺した。
それから3年後、竹下は佐川急便問題で国会で喚問されるが、青木の自死について問われて、「私自身顧みて、罪万死に値する」と沈痛な面持ちで語ることになる。
 竹下の辞任表明によって、予算はようやく成立した。それを見届けたうえで、竹下内閣は6月2日に総辞職する。後継総裁には竹下に近い宇野宗佑が指名された。
 リクルート事件では、社長の江副浩正をはじめ、NTT会長、労働、文部事務次官など13人が贈収賄容疑で逮捕された。
 政治家は逮捕されなかったが、自民党の藤波孝生元官房長官と公明党の池田克也が在宅起訴された。
 長期間にわたる裁判の結果、起訴された者すべてに執行猶予つきの有罪判決が下された。
 リクルート事件は、その後、日本の政治に大きな影響をおよぼした。小選挙区制が導入されるようになったのも、この事件がきっかけである。
 だが、政治とカネの問題はこれで終わったわけではなかった。リクルート事件は、ほんの氷山の一角にすぎなかったのだ。いまの政治資金パーティー収入裏金問題をみても、そのことがわかる。
 政治学者の滝村隆一は、よく政官財はじゃんけんの関係にあると言っていた。
たとえば政治家がグーだとすれば、役所はチョキ、経済界はパー。
 政治家は役所に勝つ(強い)が、経済界に負ける(弱い)。経済界は役所に負ける(弱い)が、政治家に勝つ(強い)。役所は経済界に勝つ(強い)が、政治家には負ける(弱い)。
 権力とカネの関係はどこまでもつづき、途切れることがない。
 この三位一体構造を崩す方法はひとつしかない。カネと権力の動きを常に透明化できる仕組みをつくる以外にないのだ。はたして、それは可能なのだろうか。

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竹下政権とリクルート事件(1)──大世紀末パレード(20) [大世紀末パレード]

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 冷戦が終わろうとしていたころ、日本の政治はどうなっていたのだろうか。そのとき首相はだれだったのか。そんなことがふと気になった。いくつかの本を読んでみる。
 まず名前が挙がるのが竹下登(1924〜2000)である。1987年11月から89年6月まで1年7カ月にわたって首相を務めた。そのあとは宇野宗佑の69日、海部俊樹の203日となるが、いずれも長くつづかなかった。自民党政治にガタがきていたのだ。
 中曽根康弘が退陣したあと、本格政権になると思われた竹下政権が意外にも短命だったのは、リクルート事件が発覚したからである。そのため、竹下は早々と身を引くが、退陣後もその影響力は絶大で、後継の宇野、海部、小渕の3内閣も、いわば竹下が選んだ内閣だった。
 竹下登は気配りの政治家で、その政治手法は調整型といわれた。調整型というのは、受け身であり、問題解決にたけているということでもある。実際、アメリカとの経済摩擦を調整し、長年の課題だった消費税導入に成功したのは、竹下の功績といってよいだろう。
 だが、長大な国家ビジョンがあったわけではない。あったとすれば「ふるさと創生」くらいだろうか。
 本人もあるインタビューで、「日本というのは、しょせん、ビルの谷間のラーメン屋みたいなものだ」と語っている。東西両陣営に囲まれて、そのなかをうまく立ち回って生き残る方策をみつけるのが、日本の政治のありようだと考えていた。
 竹下は中国山地の麓、島根県掛合町(かけやまち、現雲南市)に生まれた。家は大地主で、酒造も営んでいた。早稲田大学商学部で学び、在学中に結婚した。召集され、内地の部隊を点々としているうちに、大津で終戦を迎えた。だが、そのかん、掛合町の家にいた妻が自殺するという悲劇に見舞われている。親戚の娘と再婚するのは、復員してまもなくのことだ。
 復学した竹下が早大商学部を卒業したのは1947年(昭和22年)9月。政治を志し、国会の傍聴にもよくでかけるようになっていた。卒業後は東京で新聞記者になろうとも考えていた。
 だが、知り合ったある代議士から、政治家になるなら、郷里に戻って、地元の青年をまとめて県会にでて、それから国会をめざせ、とアドバイスを受けた。ただし県議は1期だけにせよというのが、その代議士の忠告だった。
 こうして、竹下は故郷に戻ることにした。
 戦前は大地主だった竹下家には、ある意味、政治の素地があった。父親は村の「名誉村長」だったし、島根県議会議員も務めていた。隣村の田部長右衛門(たなべ・ちょうえもん、朋之)を「ダンさん」と呼び、あおいでいた。
 田部家は出雲の大富豪で、日本の三大山林王のひとりとして知られていた。その当主は、戦時中の翼賛体制のもとで衆議院議員を務めていたし、戦後は1959年に島根県知事にもなっている。
 家庭環境が政治へのあこがれを育んだことはまちがいだろう。政治家になれるだけの基盤も用意されていた。それ以上に、政治家になりたいという熱烈な思いが竹下を揺り動かしていた。そのためにはまず仲間、すなわち支援者をつくらなければならない。
 竹下は掛合中学校の教員をしながら、地域の青年団を組織する。青年団長として、模擬国会やのど自慢大会を開いたりもしている。
 そして、時を見計らって、1951年(昭和26年)の島根県議会選挙に立候補し、初当選する。もちろん青年団の支援と、大富豪、田部家の了承を得てのことである。このとき27歳。
 だが、県議会議員はとっかかりにすぎない。県議を務めたのは2期だけで、めざすはあくまでも国会議員である。
 県議会の活動そのものは熱心ではなかった。県議としておこなっていたのは、もっぱら人脈づくりである。県政の実力者、田部に下僕のように仕え、県幹部との関係を密にするよう努めていた、とジャーナリストの岩瀬達哉はいう。
 そのチャンスは1958年5月にめぐってきた。竹下は島根全県1区(当時は中選挙区制で定員5名)から新人候補として出馬し、トップ当選を果たした。亡くなった前衆院議員の後釜をねらって、田部の了承を取りつけ、早々と選挙活動を開始していたのだ。
 竹下はトップ当選を果たしたものの、公職選挙法違反の疑いで24人の逮捕者をだした。竹下自身はかろうじて議席を失わずにすんだものの、逮捕者の家族の面倒をみたり、裁判の弁護士費用がかさんだりして、選挙の後始末だけでも多額のカネが必要だったという。
 岩瀬達哉によると、この苦い経験から、竹下は何といってもカネをつくらなければならないこと、そしてカネをまくのは金庫番の秘書の仕事とし、代議士はいっさいあずかりしらぬこととするという事務所づくりの鉄則を痛感したという。
 政治には仲間づくりがだいじであり、仲間を広げるにはカネが欠かせないというのが、竹下を支える政治哲学だった。
 政策と金策は表裏一体だった。その両面の顔をもつ事務所を裏から支えたのが、竹下の初当選以来、会計を取り仕切った秘書の青木伊平だった。青木はリクルート事件のさなか、1989年4月に自殺することになる。
 岩瀬は「竹下王国の錬金術」にふれている。それは田中角栄の手法を踏襲したもので、「公共事業誘致型」と呼んでよいだろう。地元のために国から公共事業予算を引きだし、それを自派の県会議員や市会議員を通じて、後援会に名をつらねる建設会社に配分するというやり方だ。
 まさに利益誘導型の政治である。これにより地元の選挙基盤がより強化されることはまちがいなかった。
 だが、そういう手法が可能となるには、代議士本人が中央政界でより高いポストを得る必要があった。政界や官庁、財界に仲間の輪を広げていくには、本人の実力もさることながら、相当の気配りと資金力が求められただろう。もちろん、そこには大きな落とし穴も待ち受けていた。
 34歳で初当選したときに竹下が最初に入門したのは、造船疑獄で評判の悪かった佐藤栄作が率いる佐藤派だった。地元の実力者、田部長右衛門に連れられて、佐藤のもとを訪れたという。
 この選択はまちがっていなかった。佐藤はまもなく池田勇人を継いで総理となり、長期政権を築くことになる。
 竹下は地元で当選を重ね、政界でキャリアを積んでいった。1971年には第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣した(このとき48歳)。
 その後の政界での歩みは順調だった。1974年には田中角栄内閣の官房長官、76年には三木内閣の建設大臣、79年には大平正芳内閣の大蔵大臣、81年には自民党幹事長代理となっている。82年には中曽根康弘内閣の大蔵大臣、86年には自民党幹事長に就任した。
 自民党幹事長に就任する前、竹下は田中派を離脱し、86年7月にみずからの政策集団「経世会」を結成している。そして、87年10月、退陣する中曽根首相から、自民党総裁後継者として指名されるのである。
 こうして1987年11月に竹下登内閣が発足した。党三役の幹事長に安倍晋太郎、総務会長に伊東正義、政調会長に渡辺美智雄をそろえ、副総理兼大蔵大臣に宮沢喜一に据え、官房長官に小渕恵三、官房副長官に小沢一郎を配するなどした鉄壁の布陣だった。
 ところが、中曽根が竹下を後継に指名するにあたって、じつは以前から右翼団体、日本皇民党による執拗な竹下攻撃がつづいていた。
 そのやり口は「ホメ殺し」と呼ばれるものだ。皇民党事件が発覚するのは5年後の1992年(平成4年)のことだが、竹下政権のとき、この事件はまったく報道されていなかった。
 田中角栄は竹下が勉強会といつわって、派閥内に「創世会」(のち「経世会」と改称)をつくり、事実上の新派閥を発足させたことに憤りを覚えていた。
 皇民党はそれにつけこむ。十数台の街宣車をつらね、連日、都内を連呼して回った。「竹下さんは日本一カネ儲けがうまい政治家だ。竹下さんを総理大臣にしよう」
 竹下にたいする嫌がらせである。右翼団体が竹下とつながっているかのようにみえるのは、はなはだ都合が悪い。中曽根も「右翼の活動も抑えられないようでは、後継者に指名できない」と言っていた。
 困り果てた竹下は何とかして皇民党の活動をやめさせようとするが、なかなかうまくいかない。そこで、党副総裁の金丸信が東京佐川急便の渡辺社長を通じて広域暴力団稲川会の石井会長にはたらきかけ、皇民党の稲本総裁とのあいだで話をつけてもらった。
 その結果、条件つきで皇民党による竹下ホメ殺しは中止されるが、東京佐川急便の渡辺社長は、石井に要請されるまま稲川会の関係団体に総額400億円以上の融資や債務保証を実施するはめになったという。
 事件にはまだ奥がありそうだ。岩瀬達哉は佐川急便の佐川清会長の関与を示唆している。佐川会長は佐川急便が大きくなったのは田中角栄のおかげであり、その田中を裏切った竹下は許せないといっていたそうだ。さらに渡辺社長が竹下を後ろ盾にして佐川急便を乗っ取ろうとしているのではないかと疑っていたともいう。
 だが、ここまでくると事件はまさに闇の奥である。
 一枚めくると、まさに政治とカネのドロドロの世界が広がっていた。
 そして、リクルート事件が幕を開ける。

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冷戦の終わり(2)──大世紀末パレード(19) [大世紀末パレード]

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 引きつづき、青野利彦の『冷戦史』を読んでみる。
 冷戦の終わりは米ソ、ヨーロッパ、東アジア、第三世界で、さまざまなかたちをとった、と青野は記している。順にみていこう。
 1985年3月、ソ連ではミハイル・ゴルバチョフが新指導者の座についた。ゴルバチョフはペレストロイカ(再構築)とグラスノスチ(情報公開)というスローガンを唱えて、社会主義体制の改革をはかり、「新思考外交」によって、東西両陣営の「共通安全保障」を確立しようとした。
 そのころ、アメリカのレーガン大統領もソ連との関係修復を模索しはじめていた。核軍縮に向けて、米ソ首脳会談が何度も開かれる。85年11月にはジュネーブ、86年10月にはレイキャビク、87年12月にはワシントンで会談がもたれ、ついにINF(中距離核戦力)全廃条約が調印される。
 その後、88年5月にモスクワ、12月にニューヨークで両国首脳会談が開かれたが、それ以上の軍縮交渉は行き詰まり、戦略兵器削減交渉(START)までにはいたらなかった。アメリカ政府内部にはソ連指導部にたいする不信感が依然として根強かった、と青野は記している。
 ゴルバチョフの考え方は西欧的な社会民主主義に近かった。国際関係では脱イデオロギーと「人類共通の価値の至上性」を訴え、国内では議会を重視する民主化に取り組んでいた。だが、ソ連国内の経済状況が悪化するにつれ、ゴルバチョフの政治的立場は保守派と改革派の板挟みになっていく。そうしたなか、ゴルバチョフは外交で成果を挙げることで、みずからの指導力を強化したいと考えていた。
 レーガンを継いで、アメリカ新大統領に就任したブッシュは、ゴルバチョフ政権に懸念をいだいていた。ブッシュは89年7月に東欧を訪問したあと、12月になってようやく地中海のマルタでゴルバチョフとの会談に臨んだ。会談最終日の記者会見で、両国首脳は冷戦終結を宣言したとされる。だが、青野によれば、冷戦終結に言及したのはゴルバチョフだけで、ブッシュはそのことに触れなかったという。
 それでも80年代後半、ヨーロッパでは東西分断克服に向けての大きな動きがあった。
 87年3月、イギリスのサッチャー首相は訪ソしてゴルバチョフと会談し、ペレストロイカにたいする支持を表明した。さらに87年から88年にかけ、ゴルバチョフはフランスのミッテラン大統領、スペインのゴンサレス首相、西ドイツのコール首相などとも会い、関係を深めていた。
 89年春、経済危機とストライキのさなかにあったポーランドでは、政府と自主管理労組「連帯」とのあいだで円卓交渉が開始される。その結果、6月4日に自由選挙がおこなわれることになり、「連帯」側が圧倒的な勝利を収めた。9月には非共産党員のタデウシュ・マゾヴィエツキが首相に就任する。
 89年にはハンガリー、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリアなどでも、共産党一党独裁体制から複数政党制への移行が、ほぼ平和裏に達成された。ソ連は89年の東欧民主化革命に軍事介入することなく、ワルシャワ条約機構は事実上無効化された。
 東ドイツでも10月にホーネッカー政権が倒れ、11月9日に国境の開放が宣言され、ベルリンの壁が崩壊した。11月28日、西ドイツのコール首相は「10項目提案」を発表、ドイツ再統一の流れが加速される。
東西ドイツが統一されるのは90年10月のことだ。NATOが東方に拡大される。いっぽう翌91年7月にはワルシャワ条約機構が正式に解体された。
 ソ連では1990年3月にゴルバチョフが初代大統領に就任した。しかし、市場経済への移行は進まず、経済危機がつづいていた。改革派と保守派、双方からの攻撃が激しくなる。アゼルバイジャンでは民族紛争が激化し、リトアニアが独立を宣言した。まもなく、エストニアとラトヴィアもこれにつづく。
 90年8月2日、サダム・フセインが率いるイラク軍がクウェートに侵攻する。アメリカのブッシュ政権はイラクを非難、ソ連のゴルバチョフもこれに同調した。国連安保理決議678号が採択され、これにもとづきアメリカは91年1月にイラク攻撃を開始し、湾岸戦争がはじまった。
 西側に大幅譲歩したにもかかわらず、ドイツを除き、ソ連に経済援助をおこなう国はなかった。そのため、ソ連では経済危機がますます深刻になり、民族問題も悪化、ゴルバチョフの政治的立場があやうくなってくる。
 91年8月、ソ連でクーデターが発生する。だが、クーデターは3日で失敗、軟禁されていたゴルバチョフは救出されるが、政治的主導権はクーデターを粉砕したロシア大統領エリツィンの側に移る。11月にはソ連共産党の活動が禁止され、ソ連を構成していたさまざまな共和国が独立を表明した。こうして12月25日にゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、翌日、ソ連邦は消滅した。

 このかん東アジアの状況はどう推移していたのだろう。
 80年代を通じて、日米中の3国は連携を保っていた。台湾問題があったものの、台湾海峡の現状は維持されていた。
 朝鮮戦争に参戦した中国はもともと同盟国北朝鮮と密接な関係を保っていたが、80年代後半には韓国との貿易額が急速に膨らんでいた。韓国との国交樹立が模索されていた。
 91年9月、韓国と北朝鮮は同時に国際連盟に加入する。韓国がソ連と国交を樹立するのは88年9月のソウル五輪後の90年9月のことだ。これにつづき、92年8月には中国と韓国のあいだで国交が樹立された。
 韓ソ、韓中の国交回復がなされるなかで、北朝鮮は孤立していく。北朝鮮は日米両国との関係改善を模索するが、うまくいかない。賠償問題と拉致問題が日本との関係のネックとなり、核開発疑惑がアメリカとの関係改善をはばんだ。
 80年代後半で重要なのは、60年代はじめからつづいていた中ソ関係が正常化されたことである。80年代前半から中国は「独立自主の対外政策」を模索しはじめていたが、ゴルバチョフの登場とともに、両国関係の改善が急速に進む。
 中ソ武力衝突の原因となった国境問題が解決され、ソ連軍のアフガニスタン撤退、ベトナムのカンボジア撤退、モンゴルからのソ連軍撤退も決まって、89年5月にはゴルバチョフ訪中が実現し、中ソ関係が正常化された。
 ゴルバチョフ訪中のさなか、北京では学生や知識人による自由化運動が盛りあがっていた。それはまもなく民主化運動に転じ、人びとは天安門広場を占拠して、デモをくり広げた。中国政府はゴルバチョフ帰国後の6月4日に人民解放軍を投入し、天安門広場のデモ隊を武力鎮圧した。
 日本とソ連のあいだでは、北方領土問題が残っていた。日本は北方領土問題の解決と日ソ平和条約の締結を結びつけて考えていた。だが、両国の立場のちがいは北方領土問題の解決を困難とし、ゴルバチョフ時代も日ソ関係の改善はみられなかった。
 冷戦末期の東アジアでは、複雑な二国関係の相互作用が、分断の持続につながった、と青野は指摘する。

〈70年代末の時点で対立していた東アジア諸国間関係のうち、中ソ、韓ソ、韓中はそれぞれ、92年までには関係正常化に成功した。しかし、その一方で、冷戦期に固定化された日ソ、日中、米朝間に存在する領土や核をめぐる問題は未解決のままとなった。さらには冷戦以前、もしくは冷戦初期に内戦として始まり、米中ソの介入によって固定化した台湾海峡や朝鮮半島の政治的分断もそのまま残された。〉

「二つのコリア」も台湾問題も残ったままだった。さらにソ連が消滅したあと、日米中の枠組みは見直しを迫られるようになった。
 世界では、ほかにも残された問題が数多くあった。
 冷戦が終わるとともに、中米のニカラグアでは内戦が終結し、南アフリカではアパルトヘイト体制に終止符が打たれ、新政権が発足した。しかし、アフガニスタンやアンゴラでは内戦がつづいた。超大国の撤退により、第三世界でも冷戦は終結したが、「冷戦の負の遺産は非常に大きく、その爪痕は今も各地に残っている」と青野は記している。
 冷戦終結後、世界は宥和の方向に向かわなかった。
ロシアはヨーロッパ秩序に統合されることを嫌い、EUやNATOと対峙する道を選んだ。冷戦末期に米ソが締結したINF全廃条約やSTART(戦略兵器削減交渉)は風前の灯といってよい状況にある。
 中国は「独立自主の対外政策」を選び、アメリカとの対決姿勢を強めている。孤立した北朝鮮は核開発を進める方向に舵を切った。
 アフガニスタンでは混乱がつづいている。中東は相変わらず世界の火薬庫となっている。第三世界も欧米の国際秩序にしたがったわけではなかった。
 冷戦の終わりは、国際秩序をめぐる次の戦いに直結していたのだ。

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冷戦の終わり(1)──大世紀末パレード(18) [大世紀末パレード]

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 冷戦は1946年ごろから1990年ごろまでつづいた。アメリカとソ連が世界の覇権を争った(少なくともそう思われた)時代である。世界で戦争がなかったわけではない。戦争は数多くあった。米ソとも世界の紛争にかかわりつづけ、時にみずからも戦争に加わった。
 だが、米ソが直接戦う事態は避けられていた。冷戦とは直接対決にはいたらなかった米ソ2大核保有国が、東西の陣営を築きながら、世界の覇権を争った(少なくともそう思われた)状況を指す。そして、1991年にソ連が崩壊したことにより冷戦は終結する。
 ここでは「冷戦の終わり」に話をしぼることにして、青野利彦『冷戦史』を読んでみることにする。
 本書により、まず1980年代はじめの状況をたどっておこう(前に掲載したポール・ジョンソンの『現代史』と重なる)。
 ベトナムではアメリカ軍が撤退したあと、1975年4月に南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、南北が統一され、76年7月にベトナム社会主義共和国が誕生する。このときすでに75年12月にはラオスが社会主義国となり、76年1月にはカンボジアで親中国のポル・ポト政権が誕生していた。
 だが、その後、ベトナムとカンボジアの関係が悪化する。78年12月、ベトナムはカンボジアに侵攻し、ポル・ポト政権を打倒、ベトナム寄りの政権を樹立した。この動きに対抗して79年2月に中国がベトナムに侵攻する。だが、大きな打撃を受け、3月に撤退している。
 中国は鄧小平のもと「改革開放」路線に踏みきっていた。78年8月には日本とのあいだで日中平和友好条約が結ばれる。79年1月には米中の国交が正常化された。だが、そのいっぽうで、アメリカ議会は「台湾関係法」を成立させ、アメリカが引きつづき台湾の防衛に関与する姿勢を明らかにした。
 青野は「70年代末の東南アジア・東アジアでは『日米中』と『ソ越』の二つの国家グループが対峙する状況が生じた」としている。
 イランでは79年に革命がおこり、「イスラーム国家」がつくられ、米国は重要な同盟国を失う。80年にはイラン・イラク戦争がはじまる。戦争は8年間つづき、双方で100万人の戦死者をだしたとされる。
アフガニスタンでは78年に社会主義政権が成立したが、イラン革命の影響を受けて、イスラーム主義者による反乱が発生する。その動きが波及することを恐れたソ連はアフガニスタンに侵攻する。
 アメリカのカーター政権はソ連への禁輸措置を発動し、80年モスクワ五輪ボイコットを呼びかけた。これにより「米ソ・デタントは完全に崩壊した」と、青野は記している。米ソ対立の様相が強まった。
 80年にアメリカ大統領に就任したレーガンはソ連と厳しく対決する姿勢を示し、軍備を拡張した。そのいっぽうで、ソ連のブレジネフに「戦略兵器削減交渉」(START)を呼びかけている。
 青野によると、まずは軍拡でソ連にたいし優位な立場に立ち、「強い立場から交渉に臨み、核兵器を廃絶する」というのが、レーガンの考え方だったという。だが、それはうまくいかなかった。
 82年11月にブレジネフが死去したあと、ソ連の指導者となったアンドロポフは、アメリカにたいし不信をつのらせていた。そのさなか83年9月にはシベリア上空に迷い込んだ大韓航空機が撃墜される事件があり、米ソの緊張が高まった。
 83年11月、ヨーロッパではNATO諸国がアメリカの新型INF(中距離核戦力)を配置しはじめる。これは77年にソ連が西ヨーロッパを標的とする新型INFを配置したのに対抗する措置だった。デタント期間におけるINF交渉は頓挫していた。こうして80年代はじめにはヨーロッパでも緊張が高まる。
 だが、この時期、ヨーロッパで生じていたのは単なる緊張ではなかった。青野によると「東西双方の『緊張』を高める対決的な行動と、その『緩和』を求める行動の二つが、複雑に交差していた」という。
 いっぽう、80年代はじめ、東アジアでは大きな変化が生まれようとしていた。
 ひとつは日米軍事協力の進展である。82年11月に日本の首相に就任した中曽根康弘は、「日米は運命共同体」と唱え、アメリカのレーガン大統領と親密な関係を結んだ。85年には青森の米軍三沢基地に最新鋭のF−16戦闘機が配備され、87年には日本の防衛費がGNP1%の枠を突破した。
 このころ日本の経済発展はめざましかった。アメリカが財政赤字と貿易収支赤字の「双子の赤字」をかかえるなか、日本は85年には世界最大の債権国となった。青野は「世界有数の債権国となった日本からの巨額な資金は『新冷戦』を戦うアメリカの軍備拡張を経済的に支えたのだ」と評している。
 もうひとつの大きな変化、それは中国の大国化のはじまりである。中国は共産党一党独裁体制を維持しながら、市場経済に基礎を置く発展戦略に転換し、世界市場に進出する。80年代の中国は経済発展を重視して、日米両国との友好関係を維持していた。そのいっぽうで、中国は対ソ関係を改善し、米ソいずれにも過度に依拠しない「独立自主の対外政策」を模索するようになる。
 青野はこう書いている。

〈共産党一党独裁体制を維持しながら市場経済を軸に据える中国の政治・経済方針は、共産党一党体制と国家計画経済を基礎とするソ連型の共産主義イデオロギーから大きく逸脱するものとなった。また外交路線でも中国は、東西いずれの陣営にも与せず、国際共産主義運動を放棄する方向へと転じた。この二つの意味で、中国は85年までに国家戦略を大きく転換したと捉えることができるだろう。〉

 中国の経済発展モデルは、第三世界の国々にも影響をおよぼしていく。第三世界にたいするソ連の影響力は次第に低下しつつあった。加えて、レーガン政権は、親ソ的な勢力への干渉を強め、世界銀行やIMFの融資などを利用しながら、第三世界への影響力を高めていった。
 これが1980年代前半の状況だ。次はこうした状況が「冷戦の終わり」へとどのようにつながっていったのかを追ってみる。

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『アンダーグラウンド』を見る──大世紀末パレード(17) [大世紀末パレード]

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 映画『アンダーグラウンド』(1995年)は、ユーゴスラヴィアという社会主義国家の誕生と終焉を描いた歴史コメディだ。
 今回、久しぶりにアマゾン・プライム・ビデオで見ることができた。
 かつてユーゴスラヴィアという国があった。
 その前身は1918年に成立したセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国で、1929年にユーゴスラヴィア王国と改称されたのがはじまりだ。
 その後、1941年にナチス・ドイツによって占領され、パルチザン闘争をへて、1945年に社会主義国家が発足、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が建国される。
 ユーゴスラヴィアの解体がはじまったのは1991年のことだ。まずスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言し、マケドニア(北マケドニア)がそれにつづいた。
 1992年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言、激しい内戦がはじまった。この内戦は1995年11月にデイトン合意がなされるまでつづいた。
 セルビアとモンテネグロはゆるやかに連合し、最後までユーゴスラヴィアを名乗っていたが、2003年にそれぞれ独立を宣言する。これによってユーゴスラヴィアの名称は完全に消滅する。さらにコソヴォもセルビアからの独立を宣言した。
 ユーゴスラヴィアの誕生は、第1次世界大戦後のハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の解体と、そのずっと以前からはじまっていたオスマン帝国の解体がもたらした産物だったといえなくもない。このバルカンの地は、南スラヴの領域に属するものの、その民族、宗教、言語、文化は複雑に入り組んでいた。
『アンダーグラウンド』の監督はエミール・クストリッツァ。
 四方田犬彦氏によるクストリッツァ論がある。
 それによると、クストリッツァは1954年にサラエヴォのムスリム系ボスニア人家庭に生まれた。ムスリム系といっても世俗的ムスリムで、両親ともに共産党員、父親は政府の要職を務めていた。
 かれが映画監督の道を選ぶきっかけとなったのは、プラハの映画・芸術学校でミロス・フォルマン(映画『アマデウス』で知られる)の薫陶を受けたためだという。
『アンダーグラウンド』は、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞する。だが、この映画がセルビアから多額の資金援助を受けていたことから、セルビア寄りのプロパガンダにすぎないとみられる向きもあるという。
 だが、ぼくはけっこう面白くみた。そして、けっこう考えさせられた。
『アンダーグラウンド』はふざけているのか、まじめなのかよくわからない映画である。そして、かしましい。バックにはロマの楽隊が常に陽気な音楽を鳴り響かせている。話されているのはセルビア語だ。
 映画の中心人物はマルコとツルニ(セルビア語で「黒」を意味することから、日本語の字幕では「クロ」となっているので、ここではそれにしたがう)、それにナタリアだ。
 3人にからんで、それこそ数え切れないくらいの人物が登場し、歴史の時間がかぶさる。主な場所はユーゴスラヴィアの首都ベオグラードだ。すぐそばにドナウ川が流れている。
 映画は1941年4月からはじまり、その後の50年ばかりを追う。このかんにユーゴスラヴィアという国に何が起きたかは、最初に書いたとおりだ。
 マルコは共産党員だが、ほとんど盗賊とみまがうならず者で、女房は愛想をつかして、家をでていき、いまは売春宿に通って、日々の享楽にふけっている。
 そのマルコに誘われて、共産党に入党するのが電気技師の「クロ」で、妻(ヴェラ)のお産をひかえている。
 そして、マルコと「クロ」がともにうつつをぬかしているのが、劇場で女優をしているナタリアだ。
 マルコには動物園で飼育係をしている弟のイヴァンがいて、ナタリアにも障がい者の弟がいる。
 そこにナチス・ドイツの空襲がはじまり、ベオグラードが占領される。マルコは大勢の人たちを、祖父の邸宅の地下に設けられた広大な空間に避難させる。そこが「アンダーグラウンド」となる。「クロ」の奥さんヴェラはここで産気づき、息子ヨヴァンを産んで亡くなる。
 それからしばらくして、レジスタンスが広がる。女優のナタリアはドイツ軍の将校フランツの愛人になっている。「クロ」はマルコとともに劇場に行き、ドタバタ劇を演じた末、舞台のナタリアを奪還し、地下水道を通って、川辺の船でナタリアと結婚しようとする。
 だが、この計画は失敗する。劇場で射殺したはずのフランツは生きていた(防弾チョッキを着ていたのだ)。
 逆に「クロ」は逮捕され、拷問室に送られる。ナチスは「クロ」に電気ショックを与えて、パルチザンの動向を探ろうとするが、電気技師の「クロ」に電気ショックは効かなかった。
 そこにムスリムの医師に変装したマルコがやってきて、フランツを殺し、「クロ」を助けるが、トランクに身をひそめて脱出する途中、トランクのなかの手榴弾が誤作動して、「クロ」は重傷を負い、そのまま「地下室」に運ばれる。マルコはまんまとナタリアを自分のものとする。
 それから20年の時が流れた。ナチス・ドイツは敗北し、ユーゴではチトーの社会主義政権が成立している。
 チトーはスターリンと決別し、独自の社会主義路線を取りはじめる。それが可能だったのは、周辺の社会主義国と異なり、ユーゴがソ連軍に頼らず、パルチザン闘争によってナチスからの解放を勝ちとったからだ。ソ連との緊張関係は、チトーの個人崇拝に結びつく。
 しかし、映画の「地下室」では、じっさいの歴史とは異なる時間が流れていた。時計のごまかしによって、20年は15年に短縮され、ナチスとの戦争がまだつづいているとされていたのだ。
 そこでは、昼夜を問わず武器がつくられ、戦車まで完成した。それを演出していたのがマルコで、マルコは地下で製造した武器を売って、金持ちになり、共産党幹部にのしあがっていた。
「クロ」は地下室で生きていたが、死んだことにされ、地上ではパルチザンの英雄にまつりあげられていた。
 そんな「地下室」で、ある日、結婚式がおこなわれる。「クロ」の息子ヨヴァンが花嫁を見つけたのだ。マルコとナタリアも駆けつける。ワイヤーの花嫁が空を舞って、出席者にあいさつして回るシーンは、じつに美しい。映画史に残る名シーンのひとつだろう。
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 だが、結婚式はやがて酩酊と大騒ぎのなかで、めちゃくちゃになっていく。
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 そんななか、マルコとナタリア、「クロ」は歌を歌う。

  月は真昼に照り
  太陽は真夜中に輝く
  真昼の暗黒を誰も知らない
  誰も知らない
  誰も知らない
  太陽の輝きを誰も知らない

 映画『アンダーグラウンド』を象徴する歌といえるだろう。スターリンよりましと思われたチトーの社会主義もまた情報をとざされ自由を奪われたアンダーグラウンドにすぎなかったのだろうか。だが、それはどこの世界も同じかもしれない。
 あとの悲劇は簡単に紹介する。
 パルチザンとアンダーグラウンドの虚構も長くはもたない。イヴァンの飼っていたオランウータンのソニが地下室の戦車にはいり、誤って砲弾を発射したため、アンダーグラウンドの世界は崩壊する。現実の歴史があらわれる。
 うそがばれたマルコは地下室を爆破してナタリアとともに失踪する。
 息子のヨヴァンとともに地上に出た「クロ」は、自分をパルチザンの英雄に仕立てて撮影中の映画を現実と混同して、ナチス役の役者を殺し、逃亡する。
 その途中、泳げないヨヴァンはドナウ川で溺死、その前にヨヴァンがいなくなったことに絶望した花嫁は地下室の井戸に身を投げ、自殺していた。
 1980年に終身大統領のチトーが死亡すると、ユーゴスラヴィアの混乱がはじまる。映画の舞台は、すでに1990年代に移っている。
 かつてのユーゴスラヴィアはもはや存在しない。マルコとナタリアは裏切り者として国際手配されている。ここはどうやらボスニアで、激しい内戦がつづいている。
 そのなかで民兵組織を率いているのが、「クロ」だ。そして、マルコとナタリアは武器商人となって、敵側に武器を売っている。
 そのマルコとナタリアを組織の民兵がつかまえ、隊長の「クロ」に指示をあおぐ。
「クロ」は武器商人の処刑を命じ、部下たちはそれを実行し、ふたりを燃やす。そこにやってきた「クロ」は、ふたりが友人のマルコとナタリアであることに気づき、「何ということだ」と、絶望に襲われる。
「クロ」は深い悲しみのなか、近くの井戸をのぞき込む。すると、そこに死者たちが泳いでいるのを見る。行方不明になった息子のヨヴァンも花嫁も、マルコとナタリアも、マルコの弟で自殺したイヴァンも楽しそうに泳いでいる。「クロ」は井戸に飛びこむ。
「クロ」の幻想のなかで、もう一度ヨヴァンと花嫁の結婚式がおこなわれることになる。死者が再会をはたす。映画のフィナーレでもある。
 今度の場所は地下室ではなく、ドナウ川のほとりだ。結婚式には「クロ」の妻でお産のときに亡くなったヴェラも参加している。もちろん親友のマルコとナタリアも。マルコの弟イヴァンもいる。
「クロ」はマルコに向かって、許そう、でも忘れないぞという。ロマの楽隊がにぎやかに祝いの音楽を演奏する。これは結婚式であるとともに死者の復活祭でもある。
 イヴァンが「昔あるところに国があった」と、いまは亡き愛すべきユーゴスラヴィアを懐かしむ回想を語る。
 そして、人びとが浮かれ踊るうちに、何と会場が岸辺から切り離され、ドナウ川のまんなかにただよいはじめるのだ。
 それはかつて存在したユーゴスラヴィアのかたちをしている。字幕が流れ、「この物語に終わりはない」という文字が浮かんで、映画は終わる。
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 これをどう受け止めればいいのか。パルチザンの神話を茶化したとも、社会主義の実態(真昼の暗黒)をとらえたとも、くり返される戦争の悲劇をえがいたとも、さらには多民族、多宗教の共生したユーゴスラヴィアを懐かしんだとも、どうとらえるかは、それこそ見る人の自由だろう。
 ただし、言えることは、冷戦の終わりが、ユーゴスラヴィアにとっては解体のはじまりを意味していたということだ。
 冷戦の終わりは、戦争の終わりでも歴史の終わりでもなかった。それは新しい戦争のはじまりであり、新しい歴史のはじまりにほかならなかったのだ。そのことをこの映画は教えてくれる。

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「昭和」を送る──大世紀末パレード(16) [大世紀末パレード]

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 神戸大学教授で精神科医の中井久夫(1934〜2022)は、昭和天皇が亡くなってまもなく、雑誌「文化会議」(日本文化会議発行、平成元年[1989年]5月号)に「「昭和」を送る」と題する一文を載せている。
「文化会議」は保守論壇の雑誌で、中井の評伝に最相葉月は「中井は師の土居健郎に頼まれて寄稿しただけで、これが天皇擁護論と読めたとしても保守論壇入りしたことを意味しない」とコメントしている。
 じっさい、そんなことはどうでもいい。
 中井があのとき「昭和」をどのように送ろうとしていたのかを知りたい。
ここで昭和が「」付きで示されているのは、もちろんそれが昭和天皇にまつわる昭和だからである。
「昭和の鎮魂は、まだ済んでいない」と記したうえで、昭和天皇の深い魂の声を聞こうとしている。
 どれほど遠くみえても、昭和天皇は身近な知り合いの心のなかに意外なかたちでしみついているように思えた。
 だが、そもそも日本人にとって天皇とは何なのか。中井はアメリカ人との架空対談を設定して、そのことをできるだけ客観的に探ろうとする。
 日本人には「君側の奸(くんそくのかん)」コンプレックスがある、とアメリカ人に説明している。
 それは「君主は英明だがこれを邪魔して間違った情報を与え、いろいろ操作している、悪賢い奴が周囲にいる」という固定観念だ。
 こうした発想は江戸時代もあるが、「君側の奸」を排除しようとして立ち上がったのは、戦前、五・一五事件や二・二六事件を引き起こした青年将校たちだった。
 中井はそうはいっていないが、その根源には「天皇コンプレックス」があったといっていいのではないだろうか。
 天皇コンプレックスは中世の武家時代にもみられた。だが、これが燃え盛ったのは、対外的危機感が強まった幕末だ。
 徳川の幕府にはもはや正統性が認められないという思いが浮上する。朱子学で忠の原理を導入した幕府は自縄自縛におちいる。そこで、だれもさからうことのできない古代からの幻想的権威がもちあげられることになった。
 明治以降、天皇コンプレックスは父性原理のようになって、日本人のなかにしみつくようになる。
「しばしば、激烈な反天皇論者が昭和天皇に会って、メロメロになった話を聞く」と、中井は書いている。
 日本人のもうひとつのコンプレックスは、優越国への対外コンプレックスだ。それがかつては中国であり、近代以降は欧米に変わった。コンプレックスには讃仰と反発が含まれる。中井によると、いまでも日本人の中国コンプレックスは根強いものがあるという。
 こうした、ふたつのコンプレックスにはさまれながら、日本人は勤勉と工夫、変身能力によって、さまざまな難局を切り抜けていった。
 いっぽうで、日本人は土居健郎のいう「甘え」をも持ちあわせている。それが太平洋戦争の開戦時には、最悪のかたちであらわれたのだ。
 あのとき日本は、「お互いをあてにし、天皇をあてにし、ルーズベルトをあてにし、ヒトラーをあてにし」て、戦争に突入した、と中井は書いている。

〈信頼せずして期待し、あてはずれが起こると「逆うらみ」する。何もあてにできなかったのは天皇一人だ。〉

 昭和天皇は戦争の旗印にまつりあげられた。
 ここから話は、その人となりに移っている。
 注目されるのは「帝王教育」だ。
 昭和天皇は徹底した帝王教育を受けている。それはかなりの心理的負担だったにちがいないが、この教育によって、何ごとにも動じない姿勢がはぐくまれた。
 とはいえ、緊張の連続はまぬかれなかった。からだがぎこちない動きになり、声が甲高くなるのは、その証拠だ、と中井はいう。乗馬や水泳ができたことからみれば、けっしてスポーツ嫌いではない。
 たいへんな風呂ぎらいと伝えられるのは、臨床経験からみると、「リラックスすることを自分に許せない人」だったのにちがいない。いっぽうで、競争とかはいっさいないから、のびやかで「非常に純粋無垢な人」になった、とみる。
 天皇にかけられる圧力は相当なものだったろう。それに耐えることができたのは、昭和天皇が「天衣無縫の天真爛漫さ」という健康な精神をもっていたからだ、と中井は考えている。
 昭和天皇が戦争責任を感じていなかったはずがない、と中井は断言している。「戦時中、大声の独り言が多く、チックが烈しくなり、十キロやせられた」のもその証拠だ。
 太平洋戦争に踏み切った判断の誤りにも気づいていただろう。昭和天皇は「“距離を置いて客観的にものごとを眺めること” detachmentのできる知的人物である」。
「天皇機関説」が昭和天皇を救ったことも、中井は認めている。

〈「立憲君主」という位置の発見は、昭和天皇独自の大きなインヴェンションだということができる。昭和天皇戦争責任論に決着がないのは、それが明治憲法の矛盾の体現だからである。昭和天皇が非常な内的苦悩にさいなまれたのは、天皇がこの矛盾に引き裂かれた存在だからである。おそらく「天皇機関説」だけが天皇に合理的行動、いな正気の行動を可能にする唯一の整合性をもった妥協点であった。〉

 昭和天皇が立憲君主の立場をとり、美濃部達吉の天皇機関説を支持したことが、敗戦後も天皇廃止とならず象徴天皇へと橋渡しできた大きな理由だった。
 もちろん、アジアの戦争にたいする責任は残る。

〈天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。われわれはアジアに対して「昭和天皇」である。問題は常にわれわれに帰る。〉

 これはまったく正しい。
 明治以降、日本で天皇が機能してきたのは、天皇が無二の存在だったからだけではない。中井は皇室の役割を挙げている。
 天皇という地位は拘束が多い。それゆえに、とりわけ皇太子の役割が大きいという(もちろん、皇后の存在もつけ加えるべきだろう)。
「象徴大統領制が象徴天皇制に劣るのは、皇太子相当の機能部分を持たないことである」という指摘がおもしろい。
 皇太子が存在することによって、国家の安定的な持続が保証されるのだ。天皇制の廃止は、独裁的な首相(あるいは大統領)を生みだす危険性につながる。

〈天皇は英国皇室のごとくであれとかあるべきでないという議論を超えて、私は英国のごとく、皇室が政府に対して牽制、抑止、補完機能を果たし、存在そのものが国家の安定要因となり、そのもとで健全な意見表明の自由によって、日本国が諸国と共存し共栄することを願う。〉

 これが、昭和天皇の逝去と代替わりにともなって、中井がいだいた率直な思いだったろう。

 昭和天皇が最後に残した昭和63年(1988年)の歌がふたつ紹介されている。

「道灌堀 七月」
夏たけて堀のはちすの花みつつほとけのをしへおもふ朝かな

「那須の秋の庭 九月」
あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ

 いずれの歌にも「死の受容」がある、と中井はみる。
 昭和天皇のつくった「お歌」は4万首で、そのうち公表されているのは二、三百首にすぎないという。歌が心を詠むものだとすれば、昭和天皇の心の声は、その多くがまだ隠されたままといってよいだろう。

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平岡正明『中森明菜』から ──大世紀末パレード(15) [大世紀末パレード]

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 中森明菜がテレビの歌番組を席捲したのは1982年から89年のことだった。17歳から24歳にかけての時期にあたる。TBSの「ザ・ベストテン」、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」などの歌番組がはやっていた時代で、ぼくもよく見ていた。
『山口百恵は菩薩である』と論じた好漢、平岡正明(1941〜2009)には、『中森明菜──歌謡曲の終幕』という著書もある。山口百恵のあと日本の歌謡界をリードした中森明菜を、かれはどのようにみていたのだろうか。
 日本の芸能界はレベルが低すぎる。明菜は「周囲の無能者にむしられた」というのが、平岡の率直な印象だ。
 1981年に山口百恵が引退し、ピンク・レディーが解散した。その空白を埋めたのが、松田聖子、中森明菜、小泉今日子の3人組だった。
 その3人のうち絶頂をきわめたかにみえる中森明菜は1989年夏にとつぜん自殺未遂に走り、みずからの経歴に幕をおろした。
 この年、昭和は終わり、歌謡界の「女王」美空ひばりが亡くなっていた。明菜の退場とともに、戦後歌謡曲の「終幕」が訪れた、と平岡は記している。
 1981年に中森明菜は新人発掘のオーディション番組として知られていた「スター誕生!」に3回挑戦して合格し、ワーナー・パイオニアにスカウトされた。所属事務所は「研音」。実家は東京・大田区で精肉店を営んでいたが、住んでいたのは清瀬市だった。
 デビュー曲は来生えつこ作詞、来生たかお作曲の「スローモーション」、「出逢いはスローモーション 軽いめまい 誘うほどに」と、恋の予感を歌った叙情的ないい曲だが、薬師丸ひろ子風で、さほど大きなヒットにはならなかった。
 そこで、事務所は強烈なインパクトをねらう。明菜に不良少女のイメージを担わせて、「少女A」(売野雅勇作詞、芹澤廣明作曲)を歌わせたのだ。最初、明菜は「嫌だ、絶対に歌いたくない」と抵抗していたという。
 それは男の子に挑戦的に迫っていく女の子の歌だ。「じれったい じれったい 結婚するとか しないとかなら」というフレーズが印象的だった。そして「じれったい じれったい そんなのどうでも関係ないわ」とつづく。
 かわいい少女が幼い声でつくりあげるセンセーショナルな歌のイメージは、明菜をたちまちスターの座に押し上げた。
 平岡は、この歌は山口百恵幻想に乗っかっているという。ちがうのは、明菜が「百恵をまねようとしているのではなく、挑戦している」ことだという。
 セカンドアルバムの「バリエーション」は失敗作だった。だが、平岡にいわせれば、明菜の「挑戦─アンチテーゼ─自己確立」がはじまっている。
「基本線は遮断だ。夢を遮断し、情景を遮断し、テーマを遮断するのである。曲は素材であって、曲に情感をまとわせない歌いかたをえらぶ」
 その模索をへて、次のヒット曲「セカンド・ラブ」が生まれる。
「恋も二度目なら 少しは上手に 愛のメッセージ 伝えたい」
 作詞作曲は来生えつことたかおのコンビ。二度目の恋をする少女は、わたしを抱き上げて「どこかへ運んでほしい」と願っている。
 ヒット曲がつづく。
 1983年には「1/2の神話」「禁区」が発売された。
「半分だけよ 大人の真似 それでもまだ悪くいうの いいかげんにして」という「1/2の神話」にはまだツッパリのイメージが残っている。
「禁区」は中国の立ち入り禁止区域を意味するという。少女は「私からサヨナラしなければ この恋は終わらないのね」と思いながらも、なかなか年上の男に別れを告げられないでいる。
 1984年には「北ウイング」と「十戒(1984)」「飾りじゃないのよ涙は」が出て、明菜はいよいよパワーアップする。
 明菜はもう少女ではない。じつに多彩な女性たちに憑依する。平岡にいわせれば、そのスタッフを含めて、明菜のシステムは「デビュー当初からバラバラだ」。しかし、明菜はけっして型(コンセプト)にははまらない。
 1985年には「ミ・アモーレ」で、86年には「DESIRE」で、2年連続レコード大賞をとる。
 平岡が絶賛するのは「飾りじゃないのよ涙は」で、いちばん好きなのは85年にでた「SOLITUDE」だという。
「飾りじゃないのよ涙は」は井上陽水の作詞作曲。

私は泣いたことがない
灯の消えた街角で
遠い車にのっけられても
急にスピンかけられても恐くなかった
赤いスカーフがゆれるのを
不思議な気持ちで見てたけど
私泣いたりするのは違うと感じてた

 この曲がでたとき、明菜は19歳の終わり。山口百恵が「プレイバック part2」を吹きこんだのと同じ年で、陽水はそれを意識している、と平岡はいう。
「プレイバック」ではUターンする車が、ここでは女を乗せたままスピンする。でも、彼女は恐くなかった。泣かなかった。事故に遭うかもしれない自分を冷静にみている。
 それでも「いつか恋人に会える時 私の世界が変わる時 私泣いたりするんじゃないかと感じてる」。白雪姫はまだ目をさましていない。
 いっぽうの「SOLITUDE」は孤独を歌う。明菜は二十歳になった。
「25階の非常口で風に吹かれて爪を切る たそがれの街 ソリテュード」とはじまる。湯川れい子作詞、タケカワ・ユキヒデ作曲。
 平岡はこの歌を歌う明菜について、こう書いている。

〈ソリテュード、という語を、ガラス鉢の中の金魚が泡を一つ、ポッとはきだすように歌う。水は替えてやったばかりで冷たい。金魚は気持よさそうに底の方でじっとしているが、透きとおった水の中から外界を眺めて、さびしいわ、と一言、気泡をはき出す。眠りの白雪姫が、はじめてポチリと片目をひらいて「さびしいわ」とつぶやいたのがこの曲だ。〉

 平岡にいわせれば「傑作になりかかってしぼんだ」作品だが、深い孤独に達していなくても、幸せそうな女の子のなかにきざす一瞬の孤独をとらえた曲になった。このころ明菜はすでに近藤真彦とつきあっている。
「ミ・アモーレ」はリオのカーニバルに托したラテン調の恋歌。この曲が大ヒットしはじめていた8月12日に、日航123便に乗っていた恩人の坂本九が亡くなる。
 そして「DESIRE」。ロック調でGet up, Get up, Burning Loveではじまり、「まっさかさまに墜ちて desire」。でもどこか夢中になれない、淋しい。平岡は、この曲の下敷きに山田詠美の『ベッドタイムアイズ』があるとみている。
 このころの明菜はツアーや新曲発売、テレビ出演と多忙をきわめている。まさに絶頂期にあったといえるだろう。だが、ヒット曲を生みつづけることを義務づけられた緊張感のなかで、芸能事務所とだけではなく、家族ともうまく行かなくなっている。おカネがからんでいた。
 そんな裏の事情はともかくとして、低音から「オワーッと横に情感がひらいていくような」、淫らさすら感じさせる明菜の歌唱に、平岡は目をみはっている。
 平岡は「難破船」にふれていない。68年世代のぼくなどには、1987年に発売されたこの曲が中森明菜のベストソングだと思われる。加藤登紀子の作詞作曲。恋の終わりを歌った曲だ。
「たかが恋なんて 忘れればいい」というせりふからはじまり、「ひとりぼっち 誰もいない 私は愛の難破船」で終わる激しくて悲しい曲だ。
 中森明菜は昭和の終わりの、愛と悲しみを歌っていた。

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