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『アンダーグラウンド』を見る──大世紀末パレード(17) [大世紀末パレード]

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 映画『アンダーグラウンド』(1995年)は、ユーゴスラヴィアという社会主義国家の誕生と終焉を描いた歴史コメディだ。
 今回、久しぶりにアマゾン・プライム・ビデオで見ることができた。
 かつてユーゴスラヴィアという国があった。
 その前身は1918年に成立したセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国で、1929年にユーゴスラヴィア王国と改称されたのがはじまりだ。
 その後、1941年にナチス・ドイツによって占領され、パルチザン闘争をへて、1945年に社会主義国家が発足、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が建国される。
 ユーゴスラヴィアの解体がはじまったのは1991年のことだ。まずスロヴェニアとクロアチアが独立を宣言し、マケドニア(北マケドニア)がそれにつづいた。
 1992年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言、激しい内戦がはじまった。この内戦は1995年11月にデイトン合意がなされるまでつづいた。
 セルビアとモンテネグロはゆるやかに連合し、最後までユーゴスラヴィアを名乗っていたが、2003年にそれぞれ独立を宣言する。これによってユーゴスラヴィアの名称は完全に消滅する。さらにコソヴォもセルビアからの独立を宣言した。
 ユーゴスラヴィアの誕生は、第1次世界大戦後のハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)の解体と、そのずっと以前からはじまっていたオスマン帝国の解体がもたらした産物だったといえなくもない。このバルカンの地は、南スラヴの領域に属するものの、その民族、宗教、言語、文化は複雑に入り組んでいた。
『アンダーグラウンド』の監督はエミール・クストリッツァ。
 四方田犬彦氏によるクストリッツァ論がある。
 それによると、クストリッツァは1954年にサラエヴォのムスリム系ボスニア人家庭に生まれた。ムスリム系といっても世俗的ムスリムで、両親ともに共産党員、父親は政府の要職を務めていた。
 かれが映画監督の道を選ぶきっかけとなったのは、プラハの映画・芸術学校でミロス・フォルマン(映画『アマデウス』で知られる)の薫陶を受けたためだという。
『アンダーグラウンド』は、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞する。だが、この映画がセルビアから多額の資金援助を受けていたことから、セルビア寄りのプロパガンダにすぎないとみられる向きもあるという。
 だが、ぼくはけっこう面白くみた。そして、けっこう考えさせられた。
『アンダーグラウンド』はふざけているのか、まじめなのかよくわからない映画である。そして、かしましい。バックにはロマの楽隊が常に陽気な音楽を鳴り響かせている。話されているのはセルビア語だ。
 映画の中心人物はマルコとツルニ(セルビア語で「黒」を意味することから、日本語の字幕では「クロ」となっているので、ここではそれにしたがう)、それにナタリアだ。
 3人にからんで、それこそ数え切れないくらいの人物が登場し、歴史の時間がかぶさる。主な場所はユーゴスラヴィアの首都ベオグラードだ。すぐそばにドナウ川が流れている。
 映画は1941年4月からはじまり、その後の50年ばかりを追う。このかんにユーゴスラヴィアという国に何が起きたかは、最初に書いたとおりだ。
 マルコは共産党員だが、ほとんど盗賊とみまがうならず者で、女房は愛想をつかして、家をでていき、いまは売春宿に通って、日々の享楽にふけっている。
 そのマルコに誘われて、共産党に入党するのが電気技師の「クロ」で、妻(ヴェラ)のお産をひかえている。
 そして、マルコと「クロ」がともにうつつをぬかしているのが、劇場で女優をしているナタリアだ。
 マルコには動物園で飼育係をしている弟のイヴァンがいて、ナタリアにも障がい者の弟がいる。
 そこにナチス・ドイツの空襲がはじまり、ベオグラードが占領される。マルコは大勢の人たちを、祖父の邸宅の地下に設けられた広大な空間に避難させる。そこが「アンダーグラウンド」となる。「クロ」の奥さんヴェラはここで産気づき、息子ヨヴァンを産んで亡くなる。
 それからしばらくして、レジスタンスが広がる。女優のナタリアはドイツ軍の将校フランツの愛人になっている。「クロ」はマルコとともに劇場に行き、ドタバタ劇を演じた末、舞台のナタリアを奪還し、地下水道を通って、川辺の船でナタリアと結婚しようとする。
 だが、この計画は失敗する。劇場で射殺したはずのフランツは生きていた(防弾チョッキを着ていたのだ)。
 逆に「クロ」は逮捕され、拷問室に送られる。ナチスは「クロ」に電気ショックを与えて、パルチザンの動向を探ろうとするが、電気技師の「クロ」に電気ショックは効かなかった。
 そこにムスリムの医師に変装したマルコがやってきて、フランツを殺し、「クロ」を助けるが、トランクに身をひそめて脱出する途中、トランクのなかの手榴弾が誤作動して、「クロ」は重傷を負い、そのまま「地下室」に運ばれる。マルコはまんまとナタリアを自分のものとする。
 それから20年の時が流れた。ナチス・ドイツは敗北し、ユーゴではチトーの社会主義政権が成立している。
 チトーはスターリンと決別し、独自の社会主義路線を取りはじめる。それが可能だったのは、周辺の社会主義国と異なり、ユーゴがソ連軍に頼らず、パルチザン闘争によってナチスからの解放を勝ちとったからだ。ソ連との緊張関係は、チトーの個人崇拝に結びつく。
 しかし、映画の「地下室」では、じっさいの歴史とは異なる時間が流れていた。時計のごまかしによって、20年は15年に短縮され、ナチスとの戦争がまだつづいているとされていたのだ。
 そこでは、昼夜を問わず武器がつくられ、戦車まで完成した。それを演出していたのがマルコで、マルコは地下で製造した武器を売って、金持ちになり、共産党幹部にのしあがっていた。
「クロ」は地下室で生きていたが、死んだことにされ、地上ではパルチザンの英雄にまつりあげられていた。
 そんな「地下室」で、ある日、結婚式がおこなわれる。「クロ」の息子ヨヴァンが花嫁を見つけたのだ。マルコとナタリアも駆けつける。ワイヤーの花嫁が空を舞って、出席者にあいさつして回るシーンは、じつに美しい。映画史に残る名シーンのひとつだろう。
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 だが、結婚式はやがて酩酊と大騒ぎのなかで、めちゃくちゃになっていく。
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 そんななか、マルコとナタリア、「クロ」は歌を歌う。

  月は真昼に照り
  太陽は真夜中に輝く
  真昼の暗黒を誰も知らない
  誰も知らない
  誰も知らない
  太陽の輝きを誰も知らない

 映画『アンダーグラウンド』を象徴する歌といえるだろう。スターリンよりましと思われたチトーの社会主義もまた情報をとざされ自由を奪われたアンダーグラウンドにすぎなかったのだろうか。だが、それはどこの世界も同じかもしれない。
 あとの悲劇は簡単に紹介する。
 パルチザンとアンダーグラウンドの虚構も長くはもたない。イヴァンの飼っていたオランウータンのソニが地下室の戦車にはいり、誤って砲弾を発射したため、アンダーグラウンドの世界は崩壊する。現実の歴史があらわれる。
 うそがばれたマルコは地下室を爆破してナタリアとともに失踪する。
 息子のヨヴァンとともに地上に出た「クロ」は、自分をパルチザンの英雄に仕立てて撮影中の映画を現実と混同して、ナチス役の役者を殺し、逃亡する。
 その途中、泳げないヨヴァンはドナウ川で溺死、その前にヨヴァンがいなくなったことに絶望した花嫁は地下室の井戸に身を投げ、自殺していた。
 1980年に終身大統領のチトーが死亡すると、ユーゴスラヴィアの混乱がはじまる。映画の舞台は、すでに1990年代に移っている。
 かつてのユーゴスラヴィアはもはや存在しない。マルコとナタリアは裏切り者として国際手配されている。ここはどうやらボスニアで、激しい内戦がつづいている。
 そのなかで民兵組織を率いているのが、「クロ」だ。そして、マルコとナタリアは武器商人となって、敵側に武器を売っている。
 そのマルコとナタリアを組織の民兵がつかまえ、隊長の「クロ」に指示をあおぐ。
「クロ」は武器商人の処刑を命じ、部下たちはそれを実行し、ふたりを燃やす。そこにやってきた「クロ」は、ふたりが友人のマルコとナタリアであることに気づき、「何ということだ」と、絶望に襲われる。
「クロ」は深い悲しみのなか、近くの井戸をのぞき込む。すると、そこに死者たちが泳いでいるのを見る。行方不明になった息子のヨヴァンも花嫁も、マルコとナタリアも、マルコの弟で自殺したイヴァンも楽しそうに泳いでいる。「クロ」は井戸に飛びこむ。
「クロ」の幻想のなかで、もう一度ヨヴァンと花嫁の結婚式がおこなわれることになる。死者が再会をはたす。映画のフィナーレでもある。
 今度の場所は地下室ではなく、ドナウ川のほとりだ。結婚式には「クロ」の妻でお産のときに亡くなったヴェラも参加している。もちろん親友のマルコとナタリアも。マルコの弟イヴァンもいる。
「クロ」はマルコに向かって、許そう、でも忘れないぞという。ロマの楽隊がにぎやかに祝いの音楽を演奏する。これは結婚式であるとともに死者の復活祭でもある。
 イヴァンが「昔あるところに国があった」と、いまは亡き愛すべきユーゴスラヴィアを懐かしむ回想を語る。
 そして、人びとが浮かれ踊るうちに、何と会場が岸辺から切り離され、ドナウ川のまんなかにただよいはじめるのだ。
 それはかつて存在したユーゴスラヴィアのかたちをしている。字幕が流れ、「この物語に終わりはない」という文字が浮かんで、映画は終わる。
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 これをどう受け止めればいいのか。パルチザンの神話を茶化したとも、社会主義の実態(真昼の暗黒)をとらえたとも、くり返される戦争の悲劇をえがいたとも、さらには多民族、多宗教の共生したユーゴスラヴィアを懐かしんだとも、どうとらえるかは、それこそ見る人の自由だろう。
 ただし、言えることは、冷戦の終わりが、ユーゴスラヴィアにとっては解体のはじまりを意味していたということだ。
 冷戦の終わりは、戦争の終わりでも歴史の終わりでもなかった。それは新しい戦争のはじまりであり、新しい歴史のはじまりにほかならなかったのだ。そのことをこの映画は教えてくれる。

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「昭和」を送る──大世紀末パレード(16) [大世紀末パレード]

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 神戸大学教授で精神科医の中井久夫(1934〜2022)は、昭和天皇が亡くなってまもなく、雑誌「文化会議」(日本文化会議発行、平成元年[1989年]5月号)に「「昭和」を送る」と題する一文を載せている。
「文化会議」は保守論壇の雑誌で、中井の評伝に最相葉月は「中井は師の土居健郎に頼まれて寄稿しただけで、これが天皇擁護論と読めたとしても保守論壇入りしたことを意味しない」とコメントしている。
 じっさい、そんなことはどうでもいい。
 中井があのとき「昭和」をどのように送ろうとしていたのかを知りたい。
ここで昭和が「」付きで示されているのは、もちろんそれが昭和天皇にまつわる昭和だからである。
「昭和の鎮魂は、まだ済んでいない」と記したうえで、昭和天皇の深い魂の声を聞こうとしている。
 どれほど遠くみえても、昭和天皇は身近な知り合いの心のなかに意外なかたちでしみついているように思えた。
 だが、そもそも日本人にとって天皇とは何なのか。中井はアメリカ人との架空対談を設定して、そのことをできるだけ客観的に探ろうとする。
 日本人には「君側の奸(くんそくのかん)」コンプレックスがある、とアメリカ人に説明している。
 それは「君主は英明だがこれを邪魔して間違った情報を与え、いろいろ操作している、悪賢い奴が周囲にいる」という固定観念だ。
 こうした発想は江戸時代もあるが、「君側の奸」を排除しようとして立ち上がったのは、戦前、五・一五事件や二・二六事件を引き起こした青年将校たちだった。
 中井はそうはいっていないが、その根源には「天皇コンプレックス」があったといっていいのではないだろうか。
 天皇コンプレックスは中世の武家時代にもみられた。だが、これが燃え盛ったのは、対外的危機感が強まった幕末だ。
 徳川の幕府にはもはや正統性が認められないという思いが浮上する。朱子学で忠の原理を導入した幕府は自縄自縛におちいる。そこで、だれもさからうことのできない古代からの幻想的権威がもちあげられることになった。
 明治以降、天皇コンプレックスは父性原理のようになって、日本人のなかにしみつくようになる。
「しばしば、激烈な反天皇論者が昭和天皇に会って、メロメロになった話を聞く」と、中井は書いている。
 日本人のもうひとつのコンプレックスは、優越国への対外コンプレックスだ。それがかつては中国であり、近代以降は欧米に変わった。コンプレックスには讃仰と反発が含まれる。中井によると、いまでも日本人の中国コンプレックスは根強いものがあるという。
 こうした、ふたつのコンプレックスにはさまれながら、日本人は勤勉と工夫、変身能力によって、さまざまな難局を切り抜けていった。
 いっぽうで、日本人は土居健郎のいう「甘え」をも持ちあわせている。それが太平洋戦争の開戦時には、最悪のかたちであらわれたのだ。
 あのとき日本は、「お互いをあてにし、天皇をあてにし、ルーズベルトをあてにし、ヒトラーをあてにし」て、戦争に突入した、と中井は書いている。

〈信頼せずして期待し、あてはずれが起こると「逆うらみ」する。何もあてにできなかったのは天皇一人だ。〉

 昭和天皇は戦争の旗印にまつりあげられた。
 ここから話は、その人となりに移っている。
 注目されるのは「帝王教育」だ。
 昭和天皇は徹底した帝王教育を受けている。それはかなりの心理的負担だったにちがいないが、この教育によって、何ごとにも動じない姿勢がはぐくまれた。
 とはいえ、緊張の連続はまぬかれなかった。からだがぎこちない動きになり、声が甲高くなるのは、その証拠だ、と中井はいう。乗馬や水泳ができたことからみれば、けっしてスポーツ嫌いではない。
 たいへんな風呂ぎらいと伝えられるのは、臨床経験からみると、「リラックスすることを自分に許せない人」だったのにちがいない。いっぽうで、競争とかはいっさいないから、のびやかで「非常に純粋無垢な人」になった、とみる。
 天皇にかけられる圧力は相当なものだったろう。それに耐えることができたのは、昭和天皇が「天衣無縫の天真爛漫さ」という健康な精神をもっていたからだ、と中井は考えている。
 昭和天皇が戦争責任を感じていなかったはずがない、と中井は断言している。「戦時中、大声の独り言が多く、チックが烈しくなり、十キロやせられた」のもその証拠だ。
 太平洋戦争に踏み切った判断の誤りにも気づいていただろう。昭和天皇は「“距離を置いて客観的にものごとを眺めること” detachmentのできる知的人物である」。
「天皇機関説」が昭和天皇を救ったことも、中井は認めている。

〈「立憲君主」という位置の発見は、昭和天皇独自の大きなインヴェンションだということができる。昭和天皇戦争責任論に決着がないのは、それが明治憲法の矛盾の体現だからである。昭和天皇が非常な内的苦悩にさいなまれたのは、天皇がこの矛盾に引き裂かれた存在だからである。おそらく「天皇機関説」だけが天皇に合理的行動、いな正気の行動を可能にする唯一の整合性をもった妥協点であった。〉

 昭和天皇が立憲君主の立場をとり、美濃部達吉の天皇機関説を支持したことが、敗戦後も天皇廃止とならず象徴天皇へと橋渡しできた大きな理由だった。
 もちろん、アジアの戦争にたいする責任は残る。

〈天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕ではおれない。われわれはアジアに対して「昭和天皇」である。問題は常にわれわれに帰る。〉

 これはまったく正しい。
 明治以降、日本で天皇が機能してきたのは、天皇が無二の存在だったからだけではない。中井は皇室の役割を挙げている。
 天皇という地位は拘束が多い。それゆえに、とりわけ皇太子の役割が大きいという(もちろん、皇后の存在もつけ加えるべきだろう)。
「象徴大統領制が象徴天皇制に劣るのは、皇太子相当の機能部分を持たないことである」という指摘がおもしろい。
 皇太子が存在することによって、国家の安定的な持続が保証されるのだ。天皇制の廃止は、独裁的な首相(あるいは大統領)を生みだす危険性につながる。

〈天皇は英国皇室のごとくであれとかあるべきでないという議論を超えて、私は英国のごとく、皇室が政府に対して牽制、抑止、補完機能を果たし、存在そのものが国家の安定要因となり、そのもとで健全な意見表明の自由によって、日本国が諸国と共存し共栄することを願う。〉

 これが、昭和天皇の逝去と代替わりにともなって、中井がいだいた率直な思いだったろう。

 昭和天皇が最後に残した昭和63年(1988年)の歌がふたつ紹介されている。

「道灌堀 七月」
夏たけて堀のはちすの花みつつほとけのをしへおもふ朝かな

「那須の秋の庭 九月」
あかげらの叩く音するあさまだき音たえてさびしうつりしならむ

 いずれの歌にも「死の受容」がある、と中井はみる。
 昭和天皇のつくった「お歌」は4万首で、そのうち公表されているのは二、三百首にすぎないという。歌が心を詠むものだとすれば、昭和天皇の心の声は、その多くがまだ隠されたままといってよいだろう。

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平岡正明『中森明菜』から ──大世紀末パレード(15) [大世紀末パレード]

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 中森明菜がテレビの歌番組を席捲したのは1982年から89年のことだった。17歳から24歳にかけての時期にあたる。TBSの「ザ・ベストテン」、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」などの歌番組がはやっていた時代で、ぼくもよく見ていた。
『山口百恵は菩薩である』と論じた好漢、平岡正明(1941〜2009)には、『中森明菜──歌謡曲の終幕』という著書もある。山口百恵のあと日本の歌謡界をリードした中森明菜を、かれはどのようにみていたのだろうか。
 日本の芸能界はレベルが低すぎる。明菜は「周囲の無能者にむしられた」というのが、平岡の率直な印象だ。
 1981年に山口百恵が引退し、ピンク・レディーが解散した。その空白を埋めたのが、松田聖子、中森明菜、小泉今日子の3人組だった。
 その3人のうち絶頂をきわめたかにみえる中森明菜は1989年夏にとつぜん自殺未遂に走り、みずからの経歴に幕をおろした。
 この年、昭和は終わり、歌謡界の「女王」美空ひばりが亡くなっていた。明菜の退場とともに、戦後歌謡曲の「終幕」が訪れた、と平岡は記している。
 1981年に中森明菜は新人発掘のオーディション番組として知られていた「スター誕生!」に3回挑戦して合格し、ワーナー・パイオニアにスカウトされた。所属事務所は「研音」。実家は東京・大田区で精肉店を営んでいたが、住んでいたのは清瀬市だった。
 デビュー曲は来生えつこ作詞、来生たかお作曲の「スローモーション」、「出逢いはスローモーション 軽いめまい 誘うほどに」と、恋の予感を歌った叙情的ないい曲だが、薬師丸ひろ子風で、さほど大きなヒットにはならなかった。
 そこで、事務所は強烈なインパクトをねらう。明菜に不良少女のイメージを担わせて、「少女A」(売野雅勇作詞、芹澤廣明作曲)を歌わせたのだ。最初、明菜は「嫌だ、絶対に歌いたくない」と抵抗していたという。
 それは男の子に挑戦的に迫っていく女の子の歌だ。「じれったい じれったい 結婚するとか しないとかなら」というフレーズが印象的だった。そして「じれったい じれったい そんなのどうでも関係ないわ」とつづく。
 かわいい少女が幼い声でつくりあげるセンセーショナルな歌のイメージは、明菜をたちまちスターの座に押し上げた。
 平岡は、この歌は山口百恵幻想に乗っかっているという。ちがうのは、明菜が「百恵をまねようとしているのではなく、挑戦している」ことだという。
 セカンドアルバムの「バリエーション」は失敗作だった。だが、平岡にいわせれば、明菜の「挑戦─アンチテーゼ─自己確立」がはじまっている。
「基本線は遮断だ。夢を遮断し、情景を遮断し、テーマを遮断するのである。曲は素材であって、曲に情感をまとわせない歌いかたをえらぶ」
 その模索をへて、次のヒット曲「セカンド・ラブ」が生まれる。
「恋も二度目なら 少しは上手に 愛のメッセージ 伝えたい」
 作詞作曲は来生えつことたかおのコンビ。二度目の恋をする少女は、わたしを抱き上げて「どこかへ運んでほしい」と願っている。
 ヒット曲がつづく。
 1983年には「1/2の神話」「禁区」が発売された。
「半分だけよ 大人の真似 それでもまだ悪くいうの いいかげんにして」という「1/2の神話」にはまだツッパリのイメージが残っている。
「禁区」は中国の立ち入り禁止区域を意味するという。少女は「私からサヨナラしなければ この恋は終わらないのね」と思いながらも、なかなか年上の男に別れを告げられないでいる。
 1984年には「北ウイング」と「十戒(1984)」「飾りじゃないのよ涙は」が出て、明菜はいよいよパワーアップする。
 明菜はもう少女ではない。じつに多彩な女性たちに憑依する。平岡にいわせれば、そのスタッフを含めて、明菜のシステムは「デビュー当初からバラバラだ」。しかし、明菜はけっして型(コンセプト)にははまらない。
 1985年には「ミ・アモーレ」で、86年には「DESIRE」で、2年連続レコード大賞をとる。
 平岡が絶賛するのは「飾りじゃないのよ涙は」で、いちばん好きなのは85年にでた「SOLITUDE」だという。
「飾りじゃないのよ涙は」は井上陽水の作詞作曲。

私は泣いたことがない
灯の消えた街角で
遠い車にのっけられても
急にスピンかけられても恐くなかった
赤いスカーフがゆれるのを
不思議な気持ちで見てたけど
私泣いたりするのは違うと感じてた

 この曲がでたとき、明菜は19歳の終わり。山口百恵が「プレイバック part2」を吹きこんだのと同じ年で、陽水はそれを意識している、と平岡はいう。
「プレイバック」ではUターンする車が、ここでは女を乗せたままスピンする。でも、彼女は恐くなかった。泣かなかった。事故に遭うかもしれない自分を冷静にみている。
 それでも「いつか恋人に会える時 私の世界が変わる時 私泣いたりするんじゃないかと感じてる」。白雪姫はまだ目をさましていない。
 いっぽうの「SOLITUDE」は孤独を歌う。明菜は二十歳になった。
「25階の非常口で風に吹かれて爪を切る たそがれの街 ソリテュード」とはじまる。湯川れい子作詞、タケカワ・ユキヒデ作曲。
 平岡はこの歌を歌う明菜について、こう書いている。

〈ソリテュード、という語を、ガラス鉢の中の金魚が泡を一つ、ポッとはきだすように歌う。水は替えてやったばかりで冷たい。金魚は気持よさそうに底の方でじっとしているが、透きとおった水の中から外界を眺めて、さびしいわ、と一言、気泡をはき出す。眠りの白雪姫が、はじめてポチリと片目をひらいて「さびしいわ」とつぶやいたのがこの曲だ。〉

 平岡にいわせれば「傑作になりかかってしぼんだ」作品だが、深い孤独に達していなくても、幸せそうな女の子のなかにきざす一瞬の孤独をとらえた曲になった。このころ明菜はすでに近藤真彦とつきあっている。
「ミ・アモーレ」はリオのカーニバルに托したラテン調の恋歌。この曲が大ヒットしはじめていた8月12日に、日航123便に乗っていた恩人の坂本九が亡くなる。
 そして「DESIRE」。ロック調でGet up, Get up, Burning Loveではじまり、「まっさかさまに墜ちて desire」。でもどこか夢中になれない、淋しい。平岡は、この曲の下敷きに山田詠美の『ベッドタイムアイズ』があるとみている。
 このころの明菜はツアーや新曲発売、テレビ出演と多忙をきわめている。まさに絶頂期にあったといえるだろう。だが、ヒット曲を生みつづけることを義務づけられた緊張感のなかで、芸能事務所とだけではなく、家族ともうまく行かなくなっている。おカネがからんでいた。
 そんな裏の事情はともかくとして、低音から「オワーッと横に情感がひらいていくような」、淫らさすら感じさせる明菜の歌唱に、平岡は目をみはっている。
 平岡は「難破船」にふれていない。68年世代のぼくなどには、1987年に発売されたこの曲が中森明菜のベストソングだと思われる。加藤登紀子の作詞作曲。恋の終わりを歌った曲だ。
「たかが恋なんて 忘れればいい」というせりふからはじまり、「ひとりぼっち 誰もいない 私は愛の難破船」で終わる激しくて悲しい曲だ。
 中森明菜は昭和の終わりの、愛と悲しみを歌っていた。

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森嶋通夫の「日本没落」予測──大世紀末パレード(14) [大世紀末パレード]

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 世界的な経済学者の森嶋通夫(1923〜2004)が、『なぜ日本は没落するか』を出版したのは大世紀末の終わりに近い1999年のことだった。2050年の日本がどうなっているかを予測してみたという。その予測結果は、日本は「没落」する。なぜ、そう考えたのだろう。
 1982年に森嶋は Why Has Japan ‘Succeeded’ ? (『なぜ日本は「成功」したか』)という本を出版した。当時、日本は世界から「経済大国」として注目を浴びていた。だが、はたして、それは手放しで日本の「成功」といえるのかに森嶋は疑問をもっていた。
 そして、世紀末。日本の「成功」物語はかなりあやしくなっていた。
 さらに50年先、日本はどうなるか。
 森嶋が「日本没落」を予想した理由ははっきりしている。
 人がだめになる。政治はますますだめになる。経済はいよいよだめになる。なるほど、これでは没落するはずだ。
 まず人をみていこう。
 国立社会保障・人口問題研究所は、1995年時点で2050年の日本の人口が1億5万人になるとみていた。その時点で、日本の人口はピークの2割減となる。この予想はほぼ当たりつつある。
 人口減の最大の要因は出生率の低下だ。いっぽう高齢者の比率はますます高くなる。将来、日本に活気がなくなることはまちがいないだろう。
 しかし、問題はむしろ「精神の荒廃」だ、と森嶋はいう。
20世紀末の時点で、日本では大学進学率が40%を超えるようになった。すると大学卒業生は稀少価値をもたなくなり、大学はエリートを養成する場ではなくなる。
 平等社会が進むと、ノブレス・オブリージュ(高い地位には重い義務が伴うという)意識が希薄になり、日本の社会全体に関心をもつ人も少なくなっていくというのが、森嶋の見方だ。
 自己の利益が第一で、悪事を犯すのも平気な人間が増え、道徳が退廃し、職業倫理も崩壊しようとしている。
 戦後、日本では儒教の禁欲主義はほぼ消滅してしまった、と森嶋は書いている。そのくせ、上下の秩序意識だけは相変わらずだ。
 加えて、日本の戦後教育は、知識を丸暗記させるだけで、論理的思考をないがしろにし、意志決定力を養わないままだった。そうしたなかから、国を引っぱっていくエリートが生まれるわけがない、と森嶋は嘆く。
「物質主義者・功利主義者になるための教育を受けた彼らは、倫理上の価値や理想、また社会的な義務について語ることに対しては、たとえ抽象的な論理的訓練としてでさえ、何の興味も持たないのである」
 日本人に覇気がなくなった。サラリーマンは、会社でおとなしく与えられた仕事をこなし、仕事が終わると家に帰ってぼうっとすごしているだけだ。
こんな状態で、人の「精神の荒廃」がつづけば、国の没落は必至となる。
 それでは、日本の政治に期待はもてるのだろうか。
 日本の政治は相変わらず「村」の政治で、世界からまったく注目されていない。大きな政治ビジョンをもつ政治家はいない、と森嶋は断言している。
 日本では派閥をつくって、財界などからカネを集め、部下を養うのが政治だと考えられている。「政治家にとっては主義主張はどうでもよい、すべては金である」。こうして政界ではいたるところで汚職行為が蔓延する。
 政治家の仕事は、新たな政治的アイデアをつくりだすことだ。政党は政治、経済、文教、福祉などあらゆる面にわたって政策プランを示して、有権者の審判をあおぐ。ところが、日本の政治は、支持者にどのような利権を与えるかに終始している。

〈多くの日本の若い人は政界に背を向けてしまい、政治家の家に生まれた二世だけが人材の主要補給源になっている。その結果政界は国民からますます離れた世界になり、彼らが国民の意志を代表していないことは、外国でも周知である。〉

 森嶋によれば、政治の荒廃が日本の没落を招く大きな要因のひとつだ。
 肝心の経済はどうだろう。
 金融機関における倫理の退廃ぶりは目をおおうばかりだ。
 1980年代末から90年代初めにかけて日本では土地バブルが発生した。それはまさに日本人の過剰貪欲がもたらした病弊だった、と森嶋はいう。
 企業は銀行から金を借りて、土地を購入した。その後、地価が急速に下がりはじめると、土地を担保に土地を購入した企業は、土地を処分しても借金が返せず、倒産の憂き目にあった。
銀行には不良債権と不良資産が残った。
 1970年代末ごろから企業は証券会社を通じて株券を時価で発行して、資金を確保するエクイティ・ファイナンスに踏みこむようになった。メイン・バンク・システムが危機にさらされると、銀行は遮二無二営業活動を拡大し、ノルマ制を強行した。融資先の審査はずさんになり、行員のモラルが破壊された。
 加えて、日本の銀行は金融機関の国際化(いわゆるビッグ・バン)でも大きくつまずく。もはや円が国際通貨として復位する可能性は見込めない。「円が国際性を持ち得るのは、アジア地域に限られると思われるが、アジアの建設や貿易で日本が主導権を取れないかぎり、円はアジアでの国際通貨にすらなり得ない」と森嶋はいう。
 産業の荒廃も進んだ。旧財閥の銀行と総合商社によって支えられていた企業集団は1980年代にばらばらになり、バブル崩壊後は「日本的経営」も行き詰まり、イノベーションの気風も失われた。

 だが、日本の没落を阻止する唯一の有効な打開策がある。それは「アジア共同体」(正確には「東北アジア共同体」)をつくることだ、と森嶋はいう。
「アジア共同体」は、「建設共同体」であって、単なる「市場共同体」ではない。組織的には中国を6ブロック、日本を2ブロック、朝鮮半島を2ブロックに分け、台湾を1ブロックとし、沖縄を独立させて、そこに共同体の本部を置くというものだ。
 大東亜共栄圏の名のもとになされた、日本による戦前の「アジア侵略」には弁解の余地がない。日本は中国や朝鮮半島の人びとに率直に謝らなければならない。そのうえで、「東北アジア共同体」が形成されれば、台湾問題や朝鮮南北問題はもとより、尖閣列島や竹島の領土問題も消え、つまらぬ神経を使わなくてもよくなる、と森嶋はいう。
 共同体ができれば、やがて単一通貨をつくるという問題も出てくるだろう。軍事的にみれば、東北アジアの緊張はなくなる。自衛隊は「アジア共同体」の構成メンバーとして、アメリカやNATOと連携を保ちながら行動することになる。
 森嶋にとっては「アジア共同体」こそが、今後、日本がめざすべき方向だった。それを阻止するものがあるとすれば、日本の没落とともに進行する「右傾化」の風潮にほかならないと考えていた。
 森嶋は当時盛んに活動していた「新しい歴史教科書をつくる会」の内向きのナショナリズムを批判している。

〈過去に自分たちの親や曾祖父が犯した過ちにこだわって、自らも歴史の進む方向の逆向きに行動し、子供や孫たちが過ちと見るような行動をするのは間違っている。歴史は方向性を持っている。歴史を学んでそのことを知るのが、歴史から学ぶことである。こういう歴史の学ばせ方をしない「新しい歴史教科書をつくる会」は間違っている。〉

 森嶋の「アジア共同体」構想は夢のまた夢に終わった。だが、それは見果てぬ夢だといってもよい。われわれとしては、20世紀末にそうした夢がえがかれていたことを記憶にとどめておいてもよいだろう。

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高坂正堯の場合──大世紀末パレード(13) [大世紀末パレード]

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 1980年代のはじめから半ばすぎまで、京都大学法学部教授の高坂正堯(1934〜96)は中曽根康弘内閣の外交ブレーンとして活躍していた。
 だが、ブレーンとしての活動だけに注目すると、かれの政治学者や文明史家としての業績を過小評価しかねない、と高坂の評伝を著した服部龍二が指摘している。
 高坂正堯は、戦前京都大学でカント哲学を教えていた父、正顕の次男として生まれた。京都学派の一人として知られていた父は戦後、公職追放にあうが、まもなく復帰し、東京学芸大の学長などを務めた。
 正堯は戦後、京都大学で猪木正道や田岡良一のもとで学び、国際政治学の道へと進んだ。その秀才ぶりは早くから知られ、まだ20代の1963年に「現実主義者の平和論」を「中央公論」に発表している。理想主義的な非武装中立論にたいして、現実主義の立場から、勢力均衡論にもとづいて日本の安全保障を展望する論文だった。
 その後、数多くの論文を執筆しつづけ、そのほとんどが単行本としてまとめられている。主な著書としては『海洋国家日本の構想』、『国際政治』、『宰相 吉田茂』、『世界地図の中で考える』、『古典外交の成熟と崩壊』、『文明が衰亡するとき』、『外交感覚』、『日本存亡のとき』、『平和と危機の構造』、『不思議の日米関係史』、『世界史の中から考える』、『現代史の中で考える』などがある。
 加えて、佐藤栄作、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の歴代総理のもとで外交ブレーンをつとめ、晩年は田原総一朗が司会を務めるテレビ朝日の「サンデープロジェクト」や「朝まで生テレビ」などにも出演していた。
 服部龍二は、そんな高坂のことを、国際政治学者として「オリジナルな世界を持ち、比類なきスケールを備えるオンリー・ワンの存在であった」と高く評価している。
 このブログのテーマ「大世紀末」を語るうえでは、高坂正堯は避けて通れない人物だろう。ところが、何もかもまるで「ゼロ」の政治嫌いのぼく自身は、これまで高坂の本をほとんど読んでいないときている。だから、少しずつ白紙を埋めていくほかないだろう。
 はじめに記したように、高坂は1983年8月から中曽根首相の私的諮問機関「平和問題研究会」の座長を務めていた。「総合的な安全保障政策」を提案するのが、この研究会の目的だった。
 しかし、もっと生々しくいうと、「防衛計画の大綱」と防衛費GNP1%枠の見直しが課題だったといってよい。
 これにたいし、高坂は翌年3月の中間報告で、「防衛計画の大綱」の見直しは不要、防衛費1%枠にさほど根拠はないが、何らかの新しい歯止めは必要であり、それができなければ当面1%枠を保持するという意見書を提出している。ちなみに、「防衛計画の大綱」は、専守防衛、非核三原則、周辺諸国に脅威を与えないことなどを基本としていた。
 だが、中曽根本人はこの意見書に満足しない。大見得を切って、アメリカのレーガン大統領に約束した手前もある。
 平和問題研究会の答申素案はその後3回にわたり出されたが、中曽根はそれに干渉し、「防衛計画の大綱」は見直すべきこと、防衛力の整備は「定性的」に(つまり状況に応じて)考えることを指示した。とうぜん1%枠の撤廃が示唆されている。
 こうして、中曽根の意見が取りこまれ、1984年12月に最終報告書が提出された。高坂にとっては不本意なものだったという。
 けっきょく中曽根にしたがうことになったものの、高坂はけっして「御用学者」ではなく、政府に批判的な見解ももっていた、と服部はあくまでも高坂を擁護している。
 高坂の「現実的」な考え方については、今後もふれることになるだろう。
 ここでは1985年8月に中央公論社から出版された高坂の外交時論集『外交感覚』のなかから、「五五年体制の功罪」(85年1月「日本経済新聞」)と題する、いかにも高坂らしい一文を紹介しておくことにしよう。
 五五年体制とは、いうまでもなく1955年体制のことだ。この年、日本では日本社会党(社会党)と自由民主党(自民党)が誕生した。そして、それ以降、国会の議席数でいえば、自民党と社会党がほぼ2対1で対抗する構図がつづく。1985年はまだそうした対抗図式が残っている時代だった。
 高坂は五五年体制を次のように説明する。

〈まず、それは基本的には自由民主党が与党に、社会党が野党に特化した体制であった。それまで離合集散をくり返していたとはいえ、いくつかの保守党が日本全国に持っていた地盤は圧倒的なものであったから、それらが合同すれば、その政権は相当永続的であることが運命づけられていた。逆に社会党は歴史が浅く、基盤が弱かったうえに、外交・安全保障政策において非現実的な立場をとることによって、政権党たることを自ら放棄してしまっていた。しかも、彼らは1960年代に入っても「非武装中立」に固執した。それは西ドイツの社会民主党が50年代末に中立政策を捨て、60年代に入って政権党へと前進したのと、まったく対照的である。〉

 非武装中立にこだわりつづけた社会党は、経済政策についても資本主義批判の立場しかとれず、そのため「日本の経済政策は優秀な日本の官僚たちが計画し、実施するようになった」。
 高坂によれば、「島国」の日本は「経済的発展以外に生きる道はない」というのが、一般的な合意だった。アメリカは日本の経済発展を妨げなかった。そして、社会党は国内諸集団の反対圧力を代表しながらも、野党でありつづけることによって、一貫して「自由な政府」、すなわち自民党政権が維持されてきたという。
 高坂は、いささかの皮肉をこめて、社会党の意義をこう評価する。

〈社会党の「安保反対」の立場は、日本がアメリカと軍事的に協力することにも、また日本が軍事費にカネをかけることにもブレーキをかけた。社会党が批判者の立場に徹していただけに、その反対は効果があった。それは社会党の日本への貢献だといえるだろう。少なくとも1960年代の半ばまで、日米軍事協力と日本の軍事力増強が抑制されたことは疑いもなく有意義なことだったからである。〉

 日本が軍事的な役割をはたさず、経済に特化することができたのは、五五年体制のおかげだった、と高坂はいうのだ。
 だが、日本が国際社会の「変わり者」として認められる時代がいつまでつづくだろうか。現にアメリカとのあいだでは経済摩擦問題が生じている。
 高坂はあまりにも成功を収めた日本の将来に不安を感じていた。

〈より平凡だが重要な問題は、永遠の与党と永遠の野党という特化が、長期的にはそのいずれをも不健全にさせてしまうという事実である。それは物質的および精神的腐敗を生む。自民党の金権体質は残念ながら周知の事実であるが、社会党の精神的腐敗も見逃せない。国民には到底理解しえないような理論闘争が党の動きを決めるという現状は、国民への責任を忘れた点で、政党としては腐敗である。また、こうした状況は、国民と政党の間にみぞを生ぜしめるものであり、政治への興味を減らすものであるから、いずれは「公共の精神」の衰弱も起こりうる。〉

 冷戦の終結とともに五五年体制は終結した。だが、その後の状況は1985年に高坂が指摘した事態から一歩も前進していないようにみえる。自民党の「金権体質」は相変わらずで、野党の「精神的腐敗」も克服されていない。政治への興味は薄れ、「公共の精神」が衰弱している。

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中曽根康弘の時代──大世紀末パレード(12) [大世紀末パレード]

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 引きつづき服部龍二の『中曽根康弘』に頼りながら、中曽根政権の時代をふり返ってみる。
 1983年12月の総選挙で大敗したあと、中曽根は新自由クラブとの連立をはかり、第2次内閣を発足させた。田中派の影響力を排除することを明言して、官房長官には後藤田正晴に代えて自派の藤波孝生を起用している。
 第2次内閣でも、中曽根は引きつづき華々しい外交を展開した。
 1984年3月には訪中し、胡耀邦総書記、趙紫陽首相、最高実力者の鄧小平中央顧問委員会主任と会談し、円借款の増額や中ソ関係の見通しなどについて話しあっている。円借款について、中曽根は「対中協力は戦争により大きなめいわくをかけた反省の表れであり、当然のことである」と踏みこんだ発言をしている。
 このころ日中関係はきわめて緊密で良好だった。訪中の成果をみずからの日記に「日中不再戦の確認。日中提携はアジア、世界の平和と安定力になる」と記している。
 ゴールデンウィークにはパキスタン、インドを訪問。5月末には民主カンボジアのシハヌーク大統領と会談している。
 韓国との関係も良好だった。9月には全斗煥が韓国大統領としては初の来日をはたしている。このとき中曽根は「日韓両国の千年の基礎をつくりたい」と述べて、長くつづく日韓友好への意欲を見せた。
 10月31日には、総裁選がおこなわれないまま、自民党両院議員総会で総裁再選が決まる。
 1985年にはいると、総裁候補を出せない田中派の亀裂が大きくなっていく。2月7日には田中派の蔵相、竹下登が新たな政治団体、創政会を発足させる。そして、2月27日に田中角栄本人が脳梗塞で倒れ、入院した。「闇将軍」と呼ばれた田中の政治支配が終わろうとしていた。
 その前の元旦早々、中曽根は訪米し、1月2日にレーガンと首脳会談をおこなっている。アメリカの対日貿易赤字問題、安全保障問題、日本の予算編成などが議題となった。中曽根は、電気通信、エレクトロニクス、木材、衣料品の4部門での市場開放、アメリカの戦略防衛構想(SDI)への賛意、防衛費のGNP比1%枠の撤廃をレーガンに約束している。
 その後、9月22日にニューヨークで、先進5カ国の蔵相によるが集まり、ドル高を是正するための会議が開かれた。日米貿易摩擦解消の流れを受けて、日本からは竹下蔵相が出席した。
そのときの合意(いわゆるプラザ合意)により、1ドル240円台だったドルは、1年後には150円台で取引されるようになる。円高不況に備えるため、日本では緊急の内需拡大策がとられた。それがバブルにつながっていく。
 ソ連では3月10日にチェルネンコ共産党書記長が死去したため、ゴルバチョフが後継者となっていた。中曽根は3月12日から15日にかけて訪ソし、チェルネンコの葬儀に参列、14日にゴルバチョフと会談している。中曽根が北方領土問題をもちだしたのにたいし、ゴルバチョフはあくまでも否定的な姿勢を示した。
 華やかな中曽根外交がつづいている。
 5月にはドイツでボン・サミットが開かれた。この会議に出席した中曽根は、アメリカのSDI構想にたいする西側の結束を求め、自由と民主主義という自由世界の大義を確認している。
 8月15日には靖国神社を公式参拝するが、中国では反日デモが巻き起こった。韓国でも非難の声が渦巻いた。それにより、以後、中曽根は靖国公式参拝を断念する。日本に好意的な胡耀邦や全斗煥との関係を重視したのだ、と服部は記している。
 靖国問題でつまずいた中曽根は10月に開かれた国連総会に出席し、リカバリーをこころみている。韓国の盧信永(ノシンヨン)首相、中国の趙紫陽首相と相次いで会談、中韓両国との関係改善をはかっている。
国連総会での演説では「戦争と原爆の悲惨さを身をもって体験した国民として、軍国主義の復活は永遠にあり得ないことであります」と述べている。日本がふたたび軍国主義の道をたどらないことを約束したのだ。
 年末、中曽根は内閣を改造し、後藤田正晴をふたたび官房長官に据える。来年の東京サミット、国鉄分割民営化、解散、総選挙を見すえての布石だったという。
 1986年の年明け早々には、ゴルバチョフ、レーガンと、それぞれ親書のやりとりがあった。
ゴルバチョフの親書は日ソ交流の多様化を歓迎するとしたうえで、アメリカとの核軍縮交渉の開始を伝えていた。これにたいし、中曽根は欧州での核兵器削減に比例して、アジアでも削減を実施してほしいと求めている。
 米ソ軍縮交渉についてのレーガンの親書には、ソ連がウラル以西のSS20をすべて撤去し、アジア配備のSS20を半減させるのに応じて、アメリカは西ドイツ配備の核を撤去すると記されていた。
これにたいし、中曽根はめずらしくレーガンにクレームをつける。半減は前進だとしても、アジアに核を残すことには賛成できないと主張し、外務省を通して、代替案を提言している。ちなみにレーガンとゴルバチョフが中距離核戦力(INF)を全廃するという画期的合意に達するのは翌年12月のことである。
 4月にはレーガンとのキャンプ・デービッド会議が開かれた。アメリカの核戦略や日米貿易摩擦問題が議題となった。貿易摩擦問題に関して、中曽根は日本は対米貿易黒字を減らし、構造調整に努力すると述べている。
 5月4日から6日にかけては、赤坂迎賓館で東京サミットが開かれた。「国際テロリズムに関する声明」のほか、チェルノブイリ原発事故に関する声明が出された。このときの中曽根の采配ぶりはみごとだった、と外務省関係者は評価しているという。
 残された難関が国鉄の分割民営化だった。日本電信電話公社と日本専売公社はすでに民営化が決定され、1985年4月1日にNTTとJTが発足していた。
 国鉄は巨額の借金をかかえており、民営化は既定路線になっていた。問題は、国鉄内でも自民党内でも、分割への抵抗が強かったことだ。中曽根は分割に消極的な国鉄総裁を更迭し、自民党内の運輸族を説得するなどの下準備をしたうえで、1986年3月に国鉄の6分割民営化法案を閣議決定した。
 6月2日の衆議院解散決定は突然で、「寝たふり、死んだふり」解散と呼ばれた。7月6日には衆参同日選挙が実施され、自民党は54議席増の304議席で圧勝、野党の社会党、民社党、新自由クラブは惨敗した。
 7月22日に発足した第3次中曽根内閣では、竹下登が幹事長、安倍晋太郎が総務会長、宮沢喜一が大蔵大臣に就任、運輸大臣には橋本龍太郎が選任された。河野洋平などの率いる新自由クラブは解党し、自民党に合流した。
 11月28日に国鉄分割民営化法案が可決され、翌1987年4月1日のJR発足が可能になったのは、衆参同日選挙での自民党圧勝のおかげだ、と服部は論じている。
 第3次内閣では、一部閣僚の不適切発言があったものの、中曽根はあくまでも韓国や中国との友好関係を保とうとした。そのいっぽうで、念願の防衛費GNP比1%枠の突破にも成功する。
 しかし、1987年にはいると、そろそろ中曽根政権の任期満了がみえてくる。
 ゴルバチョフの来日は、都合により中止される。その日程を利用して、中曽根は東ドイツ、ユーゴスラビア、ポーランドを歴訪し、日本外交の幅を広げようとした。
 日米間では、経済摩擦がますます高まっていた。レーガン政権は4月に日本製のパソコン、カラーテレビ、電動工具の対米輸出に100%の報復関税を課した。さらに新関西国際空港にアメリカの建設業界を参入させるよう圧力をかけた。
 秋には自民党総裁の任期切れが迫っていた。そうしたなか、中曽根は税制改革に執念を燃やした。所得税の最高税率と法人税の基本税率を引き下げるいっぽう、5%の売上税(現在の消費税)の導入をめざしたのだ。
だが、国民からの反発は強く、売上税法案は5月に廃案となり、9月の国会では所得税の減税だけが可決された。間接税の導入は、次の内閣にゆだねられた。
 9月の外遊をしめくくりとして、中曽根は10月に総裁の座を降りることとなった。
 中曽根外交の成果は目を見張るものがあった。
服部は次のように評している。

〈貿易摩擦や靖国参拝をめぐる不協和音のほか、数々の問題発言もあったものの、中曽根はアメリカだけでなく、中国や韓国の指導者とも良好な関係を築いた稀有な政治家である。軍事、経済の両面でアメリカの圧力に適応しながら日米同盟を強化し、中韓とも連携を深めることで、中曽根は新冷戦下での対ソ戦略を有利に進めた。〉

 ポスト中曽根の総裁候補は、安倍、竹下、宮沢に絞られていた。だが、総裁選はおこなわれない。中曽根の裁定により、竹下が自民党総裁の座につく。
 こうして中曽根は11月6日に首相を退任し、竹下が新首相に就任した。

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中曽根康弘だった──大世紀末パレード(11) [大世紀末パレード]

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 サッチャー、レーガン、ゴルバチョフとくれば、日本では中曽根康弘の名前を挙げないわけにはいかないだろう。
 中曽根康弘(1918〜2019)は1982年から87年まで日本の首相を務めた。服部龍二のすぐれた評伝によれば、中曽根康弘は群馬県高崎市で木材業を営む中曽根松五郎の次男として生まれ、高崎北尋常小学校、高崎中学、静岡高校を経て、東京帝国大学法学部政治学科に入学している。大学卒業後は内務省に入省するが、海軍経理学校も卒業して、海軍でキャリアを積み、海軍主計中尉として、フィリピン、インドネシア、台湾と回っている。その後、大尉に昇進し、日本に戻ってきたところで終戦となり、内務省に復帰するという経歴を積んでいる。
 戦後、内務省をやめると、高崎に帰郷し、1947年の総選挙で民主党から出馬し、28歳で当選をはたした。弁が立ち、党幹部に服従せず奔放にふるまったので、「青年将校」とあだなされていた。同年の総選挙では、新潟3区から同い年の田中角栄が同じく民主党で立候補し、初当選している。このときからふたりはライバルとなった。もっとも金力は田中のほうがはるかに上で、党内でも早くから抜擢されている。
 服部龍二によると、中曽根の政治的原点は「反吉田(吉田茂)」だったという。GHQに追従しているかにみえる吉田に対抗して、中曽根は「アメリカに対する独立回復、自主防衛」を打ちだし、吉田の自由主義、資本主義にたいし、「協同主義」にもとづく「国民大衆の福祉」増進を唱えた。保守ではなく、革新保守という立場である。思想的には徳富蘇峰に感銘を受けていた。
 岸、池田、佐藤、田中と政権は変わり、「三角大福中」(三木、田中、大平、福田、中曽根)と称される派閥抗争の時代がはじまる。そのかん弱小派閥を率いる中曽根は「風見鶏」と呼ばれる動きをしながら、運輸相、防衛庁長官、通産相、党幹事長、行政管理庁長官などの政治キャリアを積んでいた。そして、1982年11月についに首相の座を勝ちとることになるのだ。だが、その前に悶着がなかったわけではない。
 福田赳夫の後継として1978年に首相となった大平正芳は、福田との抗争に悩まされつづけた。1980年に衆議院で社会党から大平不信任案が提出されると、それに福田派や三木派が同調したために、不信任案が可決され、総選挙となった。その選挙期間中、大平が急死し、自民党は大勝、鈴木善幸内閣が成立するという経緯があった。
 だが、鈴木内閣はあくまでも中間内閣でしかなかった。鈴木内閣で行政管理庁長官を務めた中曽根は、元経団連会長の土光敏夫を臨時行政調査会会長に据えて、行財政改革のためのプランを練った。
 1982年、外交問題で迷走した鈴木が11月の自民党総裁選に出馬しないという情報をつかむと、中曽根はさっそく第一派閥の田中派と鈴木派の支持をとりつけ、総裁選予備選挙に出馬する。総裁選に圧勝し、自民党総裁に就任したあと、11月26日に国会で第71代内閣総理大臣に指名された。中曽根内閣は閣僚20人のうち6人を田中派が占めたことから、メディアからは「田中曽根内閣」とか「直角内閣」などと揶揄されていた。
 中曽根は強いリーダーシップをもつ首相をめざした。みずから、それを「大統領的首相」と名づけている。中曽根は数多く私的諮問委員会を設け、官邸主導による政策立案をこころみている。
 たとえば「平和問題委員会」には京都大学教授の高坂正堯(まさたか)、「文化と教育に関する懇談会」にはソニー創設者の井深大、「経済政策研究会」には三菱総合研究所の牧野昇、「対外経済問題諮問委員会」には元外相の大来佐武郎、「国際協調のための経済構造調整研究会」には日銀総裁の前川春雄をそれぞれ座長としている。ほかにも東大教授の公文俊平や佐藤誠三郎、学習院大学教授の香山健一、演出家の浅利慶太などがブレーンとして採用された。NHK理事(のち会長)の島桂次や読売新聞幹部(のち会長)の渡辺恒雄とは特に親密な関係を築いた。
「戦後政治の総決算」はもともと1983年の参院選、衆院選に臨む決意表明のことばにすぎなかったが、やがて中曽根政治の方向を示すスローガンになっていく。
「戦後政治の総決算」とは、本人にいわせれば「吉田政治の是正」、「行財政改革の遂行」、「国際貢献に邁進すること」を意味していた。中曽根は吉田は経済を重視するあまり、安全保障をなおざりにしたと考えていたのだ。
 服部龍二はなかでも中曽根外交を高く評価している。それはアメリカを基軸とする冷戦に即した戦略的外交だったという。
 それでも首相就任直後、中曽根は最初の訪問国として韓国を選んだ。当時の韓国大統領、全斗煥とのパイプ役を務めたのが、伊藤忠商事前会長の瀬島龍三だった。日本と韓国の関係は、相変わらずぎくしゃくしていた。瀬島の下準備が功を奏して、ソウルの青瓦台で開かれた1983年1月12日の日韓首脳会談は大成功をおさめる。
 そのときの晩餐会で、中曽根は「不幸な歴史があったことは事実であり、われわれはこれを厳粛に受け止めなければならない」としたうえで、今後は日韓が「互いに頼りがいのある隣人となることを切に希望する」と述べた。晩餐会後の懇談では、全大統領が日本語で「ナカソネさん、オレ、アンタにホレタヨ」と話す場面もあったという。
 日韓首脳会談のあとは、いよいよ日米関係の改善である。中曽根は1月17日にワシントンに到着し、レーガン大統領と会見。日米が「運命共同体」であることを確認した。レーガンが「これからは自分をロンと呼んでほしい」と述べたのにたいし、中曽根は自分は「ヤス」だと答え、それにより「ロン・ヤス」関係ができあがる。
 このときの訪米で注目されたのは、中曽根の「不沈空母」発言だった。じっさいには、ホワイトハウスの朝食会で、中曽根はソ連機の侵入を許さないようにするため、日本を「大きな壁を持った巨大な船にしたい」と述べたにすぎない。それを通訳をした村松増美が「不沈空母(unsinkable aircraft carrier)」と訳して、このことばが定着したのだという。「浮沈空母」発言はアメリカのメディアで評判になるいっぽう、日本国内では強い反発を呼んだ。
 4月30日から5月10日にかけて、中曽根は東南アジア諸国(インドネシア、タイ、シンガポール、フィリピン、マレーシア、ブルネイ)を歴訪、各国との友好関係を深めるとともに、日本列島を中核とする日本の自主防衛政策への理解を求めた。
 5月28日から30日にかけて開かれたウィリアムズバーグ・サミットでは、日本の首相にしてはめずらしく各国首相の議論に立ちいり、ソ連にたいし一歩も引かない姿勢を示すことがだいじだと発言した。それにより、もめていた共同声明がまとまったのだという。
 6月の参院選で、自民党は安定多数を維持し、社会党は敗北する。
 9月1日には大韓航空機事件が発生した。ニューヨーク発ソウル行きの大韓航空機が、サハリン南西で、ソ連の戦闘機スホイ15により誤って撃墜されたのだ。日本のレーダーは大韓航空機の機影消滅をとらえていた。中曽根はすぐ韓国の全大統領に電話し、事態の解決に全面協力することを約束した。その後、日本が傍受したソ連の交信記録が公表されたため、ソ連は事実を認めざるをえなかった。
 10月12日にはロッキード事件の一審判決がだされた。東京地裁は田中角栄被告にたいし懲役4年、追徴金5億円の実刑判決をくだした。中曽根は10月26日にホテルオークラで田中と会い、暗に議員辞職を求めたが、田中は首を縦にふらなかった。
 自民党の最大派閥を握る田中の去就は、まもなくおこなわれる総選挙の結果を左右しかねなかった。中曽根は悩んだ末、田中にけじめを求める密書をしたため、首席秘書官に田中事務所に届けさせた。田中事務所でそれを受けとった秘書の佐藤昭子は「越山会[田中の後援会]の女王」と呼ばれ、田中の愛人でもある。だが、中曽根の密書は田中に届けられることはなく、佐藤から議員辞職に否定的な返信が戻ってきたという。
 衆議院は11月28日に解散され、12月18日に総選挙がおこなわれた。世にいう「ロッキード選挙」である。中曽根が危惧したとおり、自民党は大敗し、36議席を失う。いっぽうの田中自身は地元で過去最多得票を得て圧勝していた。自民党は9人を追加公認し、かろうじて過半数を確保する。
 中曽根は早くからこの難局を予想し、新自由クラブとの連立をはかっていた。こうして12月27日に自民党初の連立政権となる第2次中曽根政権が発足する。
 この崖っぷちを乗り越えなければ長期政権は望めなかった。
 長くなったので、このつづきは次回。いよいよわれわれの扱っている時代(大世紀末)にはいっていきます。

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ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(3)──大世紀末パレード(10) [大世紀末パレード]

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 1980年代の人物として印象的なのは、やはりサッチャー、レーガン、ゴルバチョフだ。ポール・ジョンソンは『現代史』で、この3人をドラマチックにえがいている。
 まず最初に登場するのが、1979年にイギリス初の女性首相となったマーガレット・サッチャーだ。めざしたのは資本主義の再生だったといってよい。
 サッチャーが最初に手がけたのは、それまで強い法的権限をもっていた労働組合の活動を制限することだった。そのため、議会での立法がなされ、行き過ぎたストライキやピケは取り締まられるようになった。
 これに反発したのが、全国炭鉱労組(NUM)である。イギリスの炭鉱産業は1946年から国有化されていたが、炭鉱の多くが大きな損失をかかえていた。経営側は1984年3月に20炭鉱の閉鎖を宣言する。
これにたいし、組合委員長のアーサー・スカーギルは戦闘的な特別代議員だけを集めて、ストライキを宣言。その結果、炭鉱の閉鎖は174炭鉱のうち131炭鉱におよぶことになった。
 炭鉱ストにたいし、サッチャー政権は絶対に妥協しない態度で臨んだ。警察は新たに制定された法律にもとづき、徹底的な取り締まりを実施した。
 組合側は粘り強く闘ったが、大ストライキを1年以上つづけるのはさすがにむずかしかった。1985年3月、組合側は事実上、無条件降伏し、ストは終結する。多くの従業員が解雇や失職に追いこまれ、当時ヨーロッパ最大の労働組合だったNUMはわずか8万人の組合に縮小してしまう。
 ストライキを実施したのは炭鉱労組だけではなかった。イギリスの労働組合は企業組合ではなく、ユニオンショップ制をとっているのが特徴だ。植字工労組(NGA)は70年代から80年代にかけ、しばしばストを実施し、全国紙を休刊に追いこんでいた。1983年には植字工のストによって6月1日から8月8日までフィナンシャルタイムズ社が閉鎖され、11月25日から27日にかけ、すべての全国紙が休刊になっている。
 経営者と組合のあいだで激しい闘争がくり広げられた。だが、けっきょく植字工労組と印刷労組のほうが全面的に敗北し、多くの労働者が解雇されることになる。経営側はそのかん、ひそかに手作業の植字や割付に頼らなくてもすむハイテクの印刷工場を建てていた。
 サッチャーによる資本主義再生のための政策は成功を収めた、とジョンソンはいう。イギリスの生産性はヨーロッパ最高の水準まで回復し、1981年から88年にかけ、経済成長率は4%台を保つことになった。
 なかでもサッチャー政権の最大の業績が、国営事業を「民営化」したことだ、とジョンソンは指摘する。
 国際電信電話会社、英国鉄鋼公社、英国航空、英国電気通信公社、英国ガス公社、水道・電気供給産業などが、サッチャー政権時代に民営化された。民営化は株式取引所を通じておこなわれ、株式の「放出」は株式取引を活発化させる効果をもたらした、とジョンソンは「民営化」を絶賛している。
 サッチャーは1979年から3回の総選挙を勝ち抜き、90年に退陣するまで、11年半にわたって首相を務めた。人気があったのは事実だが、敵も多かった、とジョンソンはいう。権威をもって君臨したことが党内外で反発を呼んだ。
 いっぽう、米国では1980年11月にロナルド・レーガンが新大統領に選出された。ジョンソンは「レーガンが、サッチャーの勝利と先例に導かれたことはまちがいない」と記している。レーガンは「真の敵は大きな政府だ」と広言していた。だが、小さな政府をつくるのはむずかしかった。
 公約のなかで実現できたのは減税である。減税によって、経済が刺激され、税収も増えたが、同時に財政支出も増えた。その結果、財政赤字が増大し、貿易不均衡にともなって貿易赤字が拡大する。このふたつの赤字を埋めるために国債と民間企業資産が売りに出される。それを積極的に買い取ったのが日本だった。だが、皮肉なことに、それにより米国内では日本への懸念が高まっていくことになる。
 双子の赤字に悩まされたといえ、レーガンの政策、とりわけレーガノミクスと呼ばれた経済政策は成功を収めた。1982年から87年にかけての6年間で、米国の実質GNPは27%、工業生産高は33%、平均所得は12%伸び、2000万人分の雇用がつくりだされた。こうして、米国はベトナム戦争の失敗以来失われていた自尊心を回復した、とジョンソンは記している。
 1982年4月2日には、アルゼンチン軍がフォークランド諸島のイギリス直轄植民地を占領する事件がおきていた。イギリス軍はただちに反攻を開始し、諸島を奪還し、6月14日にアルゼンチン軍を全面降伏に追いこむ。イギリスの勝利はアルゼンチンの軍政を終わらせることとなった。
 1983年10月19日には、西インド諸島の小国グレナダで、モーリス・ビショップ首相が左翼勢力によって暗殺された。キューバの大軍がグレナダに配置されたとの報告を受けて、レーガン大統領はただちに軍事介入を決意した。米軍は10月25日にグレナダに上陸し、左翼勢力を排除したあと、11月2日にただちに撤収する。
 ジョンソンによると、レーガン大統領がめざしていたのは、ソ連に奪われていた勢力を回復することだったという。とくに物騒だったのは、ソ連が東ヨーロッパで中距離核弾頭ミサイルSS20を大規模に配置したことだ。これに対抗して、レーガンとサッチャーはイギリスをはじめとするNATO諸国に巡航ミサイル網を配備するよう提案する。これにたいし西ヨーロッパでは1983年に激しい抵抗運動が巻き起こったが、計画はそのまま推し進められた。
 レーガンは就任当初から包括的な軍備拡張計画に着手していた。軍事予算が拡大され、軍備が増強され、スターウォーズ計画と称して、対弾道ミサイル兵器も開発された。さらに米軍全体の戦略計画と戦術訓練のあり方が練りなおされた。
 いっぽうソ連では1980年代はじめから経済的大混乱がはじまっていた。侵攻したアフガニスタンではおそろしく費用がかかったうえ、反政府ゲリラの抵抗に悩まされていた。ソ連がアフガニスタンから完全に撤退するのは1989年のことである。
 1982年11月にブレジネフが亡くなったあと政権の座についたアンドロポフ、チェルネンコはいずれも1年ほどで病死し、1985年3月に52歳のミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に選出された。
 ソ連共産党の基準からすれば、ゴルバチョフは自由主義者だった、とジョンソンは記している。だが、ソ連を複数政党体制にするという考え方は受けつけなかった。
 ゴルバチョフは党の改革に着手し、経済に市場原理を導入し、グラスノスチ(公開性)政策によって新聞や放送にある程度の自由を認め、KGBの活動に制限を加えた。その結果、かえって政治のタガが外れてしまう。「ソ連の難問の根源は、スターリン主義という上部構造ではなくて、レーニン体制そのものなのである」と、ジョンソンは書いている。
 こうして、政府の命令はしばしば黙殺され、ゴルバチョフに知らされないまま、もろもろの活動がおこなわれるようになる。店頭で買える物資は少なくなり、個人間、企業間の直接バーター取引や闇市場での取引が増えた。ストライキが蔓延し、ウォトカ密造と酒にからむ犯罪が激増する。1986年4月26日にはウクライナのチェルノブイリ原発が爆発する。
 ペレストロイカと称されるゴルバチョフの計画は、むしろ事態を悪化させた。そうしたなか、米国の軍備拡張を前にして、ゴルバチョフはレーガンとの軍縮交渉に応じるようになった。1985年11月には、ジュネーブで1回目の首脳会談が開かれる。このトップ会談はその後、何度も開かれることになる。
 そのころ東ヨーロッパも経済危機におちいっていた。指令経済の失敗がますます痛感されるようになる。加えて1987年10月以降、西側の景気拡大期が終わりを告げたことにより、東側の景気も後退していく。
 東側に貸付をしていた銀行は、その信用価値に疑念をいだき、返済を求めはじめた。東欧各国の政府は物価を値上げすることによってこれに対応しようとするが、かえって民衆の怒りを招いた。
 中国では1989年4月15日に、元共産党幹部で2年前に解任された胡耀邦が亡くなる。すると、胡耀邦の葬儀を機に学生たちが立ち上がって大々的なデモをくり広げ、4月27日に天安門広場を占拠した。
 当初、政府当局は「改革」をめぐって学生たちと話し合いをつづけていた。だが、6月4日にそれを打ち切って戦車と歩兵を投入、天安門広場を掃討した。これにより2600人が死に、1万人が負傷したといわれる。弾圧はさらに全国におよび、数千人が逮捕された。
 しかし、ヨーロッパでは話がちがった。ハンガリーは5月2日にオーストリア国境の鉄条網を撤去し、東西の国境を開放した。さらに9月10日には東ドイツとの国境を開放した。これにより、東ドイツの人びとは自由に西側に脱出できるようになる。
 ポーランドでは6月の選挙で共産党が壊滅的な打撃を喫し、9月には非共産党政権が誕生する。東ドイツでは大衆デモが広がり、10月にホーネッカー政権が倒れる。そして11月9日、ついにベルリンの壁が崩壊する。
 ベルリンの壁崩壊後、チェコスロバキアでもブルガリアでも一斉にデモがはじまり、まもなく共産党政権が瓦解する。こうした大変革はほとんど非暴力のうちにもたらされた。
例外はルーマニアである。チャウシェスク大統領は逮捕され、銃殺刑に処された。ブルガリアとアルバニアは変革が遅れる。ユーゴスラビアは分裂し、戦闘が各地域に広がった。
 1992年の時点で、ジョンソンの見方は楽観的だった。ポーランド、チェコスロバキア(のちふたつの国に分離)、ハンガリーの変革は根本的で、民主主義がしっかり確立されるだろう。東ドイツは存在しなくなり、ドイツ国民は統一することで意見の一致をみた。EC(のちEU)は拡大し、欧州統合に向かって進み、場合によってはロシアまでもがECへの加盟を検討するようになるかもしれない、というように。

〈ゴルバチョフはくり返しロシアはヨーロッパに属すると言明していた。ド・ゴールはまたイギリスが加盟国になる以前の1960年代には、共同体とは経済、政治上の概念ではなくてむしろ文化の問題であり、「ダンテ、ゲーテ、シャトーブリアンのヨーロッパだ」とも主張している。イギリスの加盟後はそれに「そうしてシェイクスピアの」を加えるのが公平だろう。しかし、ヨーロッパが文化連合なら、リスト、ショパン、ドヴォルザーク、カフカを生んだ国ぐにを排除するのがまちがいであるのはもちろん、長い目で見れば、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、チャイコフスキー、ストラヴィンスキーの故国を拒むのも容認できない。〉

 だが、ジョンソンの楽観がついえた最大の要因は、おそらくソ連の解体のされ方に紛争の根が取り残されたことだろう。
 とはいえ、ソ連邦が崩壊したのは事実である。
 地域民族問題が浮上してきたのは、ゴルバチョフによる市場経済への移行が失敗するのと同時だった。
中央アジアのいくつかの共和国は事実上KGBが君臨していた。しかし、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は、以前の完全独立をめざして運動をくり広げる。グルジア(ジョージア)も独立を要求した。ウクライナでも自治権要求の流れがおきる。南カフカズではキリスト教徒のアルメニア人とイスラム教徒のアゼルバイジャン人が戦闘を交えていた。
 ロシア国内では、ゴルバチョフの人気が急速に下がっていくなか、元党幹部のボリス・エリツィンの人気が高まっていく。エリツィンはモスクワ市の第一書記を務めていたときにペレストロイカの進み方が遅いと批判したためにゴルバチョフにより解任された。しかし、1989年3月の人民代議員選挙に立候補して返り咲き、90年5月にロシア共和国の実質大統領に選出されたのだった。
 こうして、ゴルバチョフが連邦中央を、エリツィンがロシア共和国を代表する二重体制ができあがる。そうなると、連邦と共和国との関係を定める新連邦条約をまとめなければならなくなる。
 そうしたなか軍やKGB、軍が政府を無視して動きはじめる。1991年8月17日から18日にかけ、クリミア半島の別荘で短い休暇をとっていたゴルバチョフは拘束され、軟禁状態に置かれた。
8月19日、病気によりゴルバチョフは任務が遂行できなくなり、国家非常事態委員会が結成されたとの放送が流れる。
 だが、クーデターは失敗に終わる。クーデターの発表を聞いたエリツィンがロシア共和国政府庁舎、通称「ホワイトハウス」に陣取り、クーデターの首謀者を逮捕するよう命令をだしたからである。
モスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルク)の軍司令官も国家非常事態委員会の指示に従わなかった。数日のうちに、クーデター騒ぎは収まり、その首謀者は自殺、ないし逮捕に追いこまれた。エリツィンが政権を掌握し、ゴルバチョフは無事解放される。
 8月23日午後、エリツィンとゴルバチョフはロシア共和国最高会議で事件の経緯を説明することになった。その様子はロシアだけでなく、全世界にテレビで生中継された。このとき、ゴルバチョフはもはや自分が無力であることを思い知らされる。エリツィンはロシア共和国全土における共産党の活動を停止すると発表した。
 バルト三国は独立を認められた。つづいてウクライナを筆頭として、ソ連邦を形成している共和国が次々と独立を宣言する。12月21日には独立国家共同体(CIS)を発足させるという条約が11カ国によって結ばれた。その翌週、ソ連邦は正式に消滅する。クレムリンには最大の後継国家であるロシア共和国政府がおさまった。
 ロシアはもはや超大国ではなくなった。
「アメリカ合衆国だけが、事実上の超大国となった」と、ジョンソンは書いている。
だが、はたしてそうだったのか。楽観論が崩れていくまでに、さほど時間はかからなかった。

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ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(2)──大世紀末パレード(9) [大世紀末パレード]

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 引きつづきポール・ジョンソンの『現代史』を再読しながら、1980年代を振り返ってみる。
 前回は宗教について論じたが、いつの時代も変わらぬテーマとしては、人口問題と食糧問題がある。いずれも歴史を動かす大きな要因にはちがいない。
 世界人口は1900年に12億6200万人。それが1950年には約25億、60年に30億、75年に40億、87年に50億、99年に60億、2011年に70億、2022年に80億となった。その増加率は次第に低くなっているが、世界の人口はまだまだ増えていきそうだ。
 ここでジョンソンは「人口変移説」なるものをもちだしている。
 第1段階では、医学と公衆衛生により、乳児死亡率と感染症死亡率が下がって、人口が急速に増加する。第2段階では、生活水準の向上が出生率を下げる。ところが、第1段階から第2段階に移行する途中で、危機が生じて、政治が過激化することが多いというのだ。
 ジョンソンは現代の課題は、世界全体を第2段階へと移行させることだという。そのためには発展途上国の経済成長率を改善し、生活水準の向上をはからねばならない。インドはまだ懸念があるものの、中国の人口は安定してきた。しかし、アフリカでは、まだ大きく人口が増えつづけている状況だ。
 食糧問題に関しては、1945年以降、科学的な農法が導入されたことにより、1980年代には米国、カナダ、オーストラリア、アルゼンチン、西ヨーロッパで膨大な食糧余剰が生まれた。これにたいしソ連はもとより、ソ連型の集団農場体制をとる国の農業は、概してうまくいかなかった。1980年代に食糧自給を達成したのは、ソ連型農業を鵜呑みにしなかった中国とインドだけだという。
「マルクス主義的集産主義の農業への影響は、その魔力のとりこになった第三世界諸国のほとんどすべてに悲惨な結果をもたらした」とジョンソンはいう。ここで例として挙げられるのは、イラク、シリア、イラン、ビルマ(ミャンマー)、ガーナ、タンザニア、モザンビーク、チャド、スーダン、エチオピア、エリトリア、ソマリアなどである。なかには干魃と飢餓による国内不安が内戦や隣国との戦争を招いたケースもある。
 アフリカの優等生だったコートジボワール、ケニア、マラウイなども80年代には深刻な経済的困難と社会不安に襲われ、リベリアは3つの私兵軍団に引き裂かれて、激しい内戦におちいり、民衆は餓えに苦しむことになった。
 しかし、重要な変化をみせたのは南アフリカ共和国だ。1989年以降、南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)に別れを告げた。南アは世界の縮図だ、とジョンソンはいう。1990年段階で、南アでの白人と非白人の比率は1対6で、これは世界での比率と等しい。しかも、ここでは第一世界の経済と第三世界の経済が併存している。その国がどうなっていくか注目すべきだとしている。
 だが、経済面において、もっとも注目すべき地域は、東アジアの企業国家群、すなわち日本、香港(イギリスの直轄地)、シンガポール、台湾、韓国であり、とりわけ日本だったと述べている。この時点で、巨大な中国は経済的にはまだ恐るべき存在とはなっていない。
 ジョンソンによれば、日本の経済発展を支えたのは新憲法だった。

〈マッカーサー司令部で作成された1947年の新憲法は、最大公約数の合意にもとづく政党間の妥協の産物ではなかった、英米憲法の長所を統合した均質な概念の上にたち、行政と司法、中央集権と地方分権のあいだの中庸をめざして巧みに舵を取っている。自由な労働組合、出版の自由、警察の民主化(軍備に類するものは撤廃された)を保障した他の占領諸法規と相まって、新憲法と、そこに具現される「アメリカの時代」は、国家がそれまで日本国民に対して行使していた抗しがたい支配力を粉砕することに成功した。アメリカの日本占領は、戦後の全時期にわたるアメリカの対外政策のなかで、おそらく最大の建設的業績だろう。〉

 この見方には異論があるかもしれない。複雑な思いをもつ人もいるだろう。だが、西洋の歴史家に戦後日本が「アメリカの時代」になったと意識されていることは否定しがたいのである。
 占領改革をへて、日本は1953年に戦後復興をはたす。そして、その後、20年間の高度成長期にはいる。自動車、時計、テレビ、カメラの生産量でアメリカを追い越し、世界の先頭をいく工業大国となった。先進技術分野でも躍進は著しかった。
 1980年代になると、金融部門でも大躍進をとげ、やがて世界最大の金融大国となった。アメリカの貿易赤字と財政赤字を支えたのは日本である。80年代末の段階で「日本はすでに世界第二の経済大国として、ソ連をはるかに追い抜いており、先端技術、最新設備、そして教育と訓練に多額の投資を続けていた」。
 ジョンソンは1970年代から80年代にかけ、日本の賃金率がどの先進国よりも速く上昇し、しかも失業率がきわめて低かったことに注目している。労働組合の役割は大きかったが、そこには日本ならではのユニークな企業風土も存在した。

〈日本ならではのユニークな、またおそらく現代世界へのもっとも創造的な貢献は、企業が商品を人間と見立てる考え方に立ち、集産主義[つまり命令型]とはちがって新しく家族主義的な経営を導入したことである。それにより階級闘争の破滅的な衝撃を減らすことができた。〉

 世界じゅうで「日本的経営」がもてはやされた時代である。
 経済が発展したのは日本だけではない。やがて、市場経済の刺激は太平洋地域全体に広がっていく。韓国、台湾、香港、シンガポール、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンへと。そして、ついに中国が覚醒し、潮目が変わる。それを先導した日本の役割は大きい、とジョンソンはみている。
 太平洋地域の東岸ではチリの経済発展がめざましかった。チリは戦後、根強いインフレに悩まされつづけていた。1970年には社会主義者のサルバドル・アジェンデが大統領となるが、その足元では左翼陣営が分裂し、対立を繰り返していた。アジェンデが政権の座についてもインフレは収まらないどころか、超インフレとなった。1973年9月、国じゅうが混乱するなか、軍のアウグスト・ピノチェト将軍がクーデターをおこし、政権の座につく。すざまじい弾圧がつづく。
 それでもジョンソンはピノチェト政権の功績を認めている。それはインフレを押さえこみ、経済を成長の軌道に乗せたことだ。しかし、経済が成長し、市場の自由が強まるにつれて、政治的な自由が求められるようになる。1983年6月には政権に抗議する全国的な暴動がおこり、89年12月の国民投票で、ピノチェトは退陣し、独裁政治に終止符が打たれる。民主主義回復後に発表された公式報告では、1973年から89年にかけ、政治警察により1068人が殺され、957人が「行方不明」になったことがあきらかになった。
 この時期、アジアでも独裁政権が立て続けに崩壊している。フィリピンでは1986年にマルコス政権が崩壊し、台湾では1988年に国民党独裁体制が崩れて、李登輝政権が生まれ、韓国では1990年に長い民主化闘争の末、金泳三による文民政権が発足している。
 こうした流れは、市場の自由を求める世界的な経済の動きとけっして無縁ではなかった、とジョンソンはみている。

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ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(1)──大世紀末パレード(8) [大世紀末パレード]

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 ここで、方向を変えて、1980年代を鳥瞰してみることにする。ぼく自身が編集を担当したポール・ジョンソン(1928〜2023)の『現代史』(別宮貞徳訳)を紹介してみたい。著者はイギリスの保守派で毒舌の歴史家、ジャーナリスト、評論家として知られる。
 原著はもともと1983年に出されたものだった。その原著に、日本語版のためにぼくが依頼して、ソ連崩壊までの章を書き下ろしてもらった。翻訳され、日本で発行されたのは1992年のことだ。その最終章は「自由の復権」と名づけられ、こんなふうにはじまっている。

〈1980年代は現代史の分岐点の一つである。民主主義は自信を取り戻し広がった。法の支配が地球上広範囲に確立され、国際的な略奪行為は阻止され処罰を受ける。国際連合、とくに安全保障理事会は、はじめてその創立者の意図に沿って機能しはじめるようになった。資本主義経済は力強く繁栄し、市場経済こそ富を増し生活水準を向上させるためのもっとも確実な、また唯一の道であるという認識があらゆるところで定着していった。知的な綱領としての集産主義は崩れ去り、それを放棄する動きがその拠点においてさえ始まった。最後の植民地コングロマリット、スターリンの帝国は解体される。ソヴィエト体制そのものが歪みを増し、諸問題が幾重にもかさなって、超大国としての地位も危うくなれば冷戦の継続を望む意志も衰えを見せた。1990年代のはじめにはもはや核戦争の悪夢は薄れ、世界はより安全に、安定度を加え、そしてなによりも希望に満ちてきた。〉

 いま思えば、スターリンの帝国が解体され、民主主義が自信を取り戻し、世界は「希望に満ちてきた」という感覚は、いっときの幻影だったのではないかとさえ思えてくる。なにかが終わったのはたしかだ。だが、その後の世界の歩みはむしろ戦争と苦難と抑圧に満ちていたのではないか。だとすれば、終わりは終わりではなく、はじまりははじまりではなかったことになる。
 ポール・ジョンソンが1980年代の世界をどのようにみていたかを紹介しておきたい。
 最初に強調されるのは、20世紀にさまざまなイデオロギーがしのぎを削ったにしても、「人類の圧倒的多数の人びとにとっては、宗教が実際にいまでも自分たちの生活の大きな部分を占めている」ということである。宗教が消滅するという考え方は、むしろ古くさくなったとさえ述べている。
 とりわけ、この時代にローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世(1920〜2005、在位1978〜2005)のはたした役割は大きかった。カトリック信仰の強いポーランド出身で、詩人、劇作家、哲学者でもあった。衰退しかかっていた伝統的カトリシズムの復興をやりとげた人物である。1981年5月に暗殺されそうになったが、1980年代から90年代にかけ世界各国を何度も訪れ、2億人の人びとと接した。カトリック信者の数は1978年時点で約7億4000万人だったが、2020年現在では約12億人に増えているといわれる。もともと多かったヨーロッパ、北米に加え、中南米、アフリカで信者数が大きく伸びている。
 もっとも北米やヨーロッパの先進国では、教会の日曜礼拝に出席する人の数は少なくなった。そのいっぽうで、カトリシズムやプロテスタントの教義からはずれた、カリスマ的な根本主義の宗派が勢いを伸ばした。中南米では過激な政治行動を求める「解放の神学」が登場したが、大きな大衆的支持を受けるにいたらなかった。米国では福音主義のプロテスタントがメディアを利用して大躍進し、中南米まで伝道活動を広げている。
 注目すべきはイスラム原理主義が力をつけ、1980年代以降、大きく広がったことだ。これに対抗するかたちで、ユダヤ教超正統派も復活した。ジョンソンによれば、ユダヤ教超正統派は「ダヴィデの王国の『歴史的』国境線を拡大するとともに、イスラエルを神権政治の国に改造することを目標としている」という。
 イスラム世界は西アフリカから地中海南部、東アフリカ、バルカン諸国、小アジア、中東、南西アジア、マレーシア、インドネシア、フィリピンにいたるまで大きく広がっている。2020年時点でその信者数は19億人。
 1970年代以降は、いわば「イスラム復興」の時代となったが、「その一つの支えとなったのは石油によって新たな富を得たことからくる辟易させられるほどの自信である」とジョンソンはいう。
 とはいえ、イスラム教の内部はスンニ派、シーア派、イスマーイール派、ドゥルーズ派、アラウィー派などと分裂しており、それがしばしば対立を呼ぶ原因となっている。
 中東の対立は加えて、何よりもイスラエルという国家の存在によるところが大きい。1980年代までは、イスラエルが結局のところ衰退する、とアラブ側は考えていた。だが、それは大きな誤りだった。
 1979年にはイランで革命が発生し、国王が追放され、アヤトラ・ホメイニのシーア派原理主義者が実権を握った。その後、長年にわたる国境紛争に端を発して、イランとイラクのあいだで大規模な戦争がはじまる。イラクのサダム・フセイン大統領は、シャトルアラブ川とイランの油田を手中に収めるため迅速な勝利を得ようとしたが、そのもくろみは失敗し、戦争は8年もつづいて、両国で100万人以上の死者を出した。宗教が原因の戦争ではなかったが、それでもスンニ派とシーア派の対立が戦争の激しさをあおった面はある。
 そのことはレバノンも同じだ。レバノン内戦は1975年から90年にかけて断続的に発生し、シリア、パレスチナ解放機構(PLO)、イスラエルが介入し、イスラム教の諸宗派がからんで収まりがつかなくなり、「商業都市ベイルートは滅び、レバノンはもはや独立国としては存在せず、古来のキリスト教共同体は優越性を失った」。
 アフガニスタンでは1978年4月にソ連の後押しによりダウド政権が倒された。政権を握った人民民主党はイスラム教の勢力をそごうとして恐怖政治を敷く。その後、政治が混乱するなか、1979年末にソ連がアフガニスタンに侵攻する。ソ連の侵攻はムジャヒディンと呼ばれる反政府民族主義ゲリラによる激しい抵抗をもたらし、1988年5月のソ連軍の完全撤退につながる。
「ソ連指導部が最終的にアフガニスタンからの撤退を切望したのは、一つにはゲリラ戦が近隣のソヴィエト・アジアのイスラム地域にまで拡大するのではないかと懸念したからだった」と、ジョンソンは論じている。事実、ソ連領内でも、1970年代から80年代にかけて、イスラム復興の動きが強まっていた。
 歴史は宗教を抜きにしては論じることができない。宗教と信仰は人びとの生活に深く根ざしている。たとえ、宗教を無視する風潮が強まったとしても、政治を宗教に完全に置き換えることはできなかった、とジョンソンはいう。
 いまも中東地域をはじめ、世界の紛争は収まる気配をみせていない。島国の日本人にとっては遠い彼岸のできごとのようにみえるかもしれない。しかし、それがもはや他人事(ひとごと)ではないことを、『現代史』は教えてくれる。世界のできごとが近所のできごとと変わらない時代がはじまっているのだ。
『現代史』はこれからさらに1980年代の世界を探索していく。もう一度、あのころを思いだしながら、少しずつ読み進めてみる。

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