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犬養内閣の成立──美濃部達吉遠望(63) [美濃部達吉遠望]

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 満州事変が拡大するさなか、イギリスは9月21日に金輸出を禁止した。金本位制の基軸国であるイギリスが、金輸出の禁止を決めたとすれば、その影響はまもなく世界に波及することが予想された。金本位制が崩壊するのは時間の問題だと思えた。
 日本国内では先の動きを見込んで、財閥などによるドル買いの動きが強まった。だが、井上準之助蔵相はあくまでも金本位制維持の姿勢を崩さなかった。
 軍の一部では、桜会の橋本欣五郎中佐が3月につづき、大川周明らとともに今度こそクーデター計画を実行しようとしていた。首相官邸や警視庁などを襲撃し、若槻礼次郎首相や牧野伸顕内大臣を暗殺し、陸軍中将の荒木貞夫を新首相とする軍事政権を樹立しようという計画である。
 計画は事前に漏れ、憲兵隊は10月17日に橋本らを逮捕したが、厳しい処分はなされず、まぼろしのクーデター計画として、うやむやのうちに処理され、桜会は解散させられた。「十月事件」と呼ばれる。昭和天皇もこうした計画があったことを、事件直後に知らされている。
 11月にはいると、民政党の実力者で内務大臣の安達謙蔵が、いまの内閣では危機を乗り越えられないから、民政党と政友会が協力内閣(連立内閣)を組んで、非常時局に臨むべきだと主張するようになる。安達は政友会幹事長の久原房之助と連携して、この話を進めていた。
 美濃部達吉は安達の協力内閣説に違和感を覚え、11月30日の「帝国大学新聞」にそれを批判する見解を発表する。
 安達内相が野党政友会との連携をはかろうとするのは、政策の転換をはかろうとするためだろう。だとすれば、それは内閣の意見の不一致を暴露したもので、内閣の信用を傷つけることはなはだしく、かえって内閣の足を引っぱっているのではないだろうか。
 現在の状況を達吉はこうとらえている。

〈現内閣の重要な政策として見るべきものは、主として二点にある。一は財政政策であり、一は外交政策である。財政に関しては、緊縮、節約、金本位制の維持、非募債主義を標榜し、外交に関しては、国際協調平和主義を基調として、今日に至った。しかるにこの二点は共に最近に至って重大な危機に陥いり、これを貫徹することがはなはだしく困難となった。〉

 金本位制がまさに崩れようとし、満州事変にともなう愛国的運動が勃興するなかで、いまの政府に人気がないことはわかる。
 たしかに金輸出を再禁止すれば、一時的に景気は回復するだろうし、国際的な協調を顧みず、国威を強硬に主張すれば、一時的に人気は得られるかもしれない。
「しかしながら、国家の重責に任ずる者は、そういう一時的の人気によって動かさるべきではなく、国家百年の大計をもって念となすべきことは、いうまでもない」と達吉はいう。
 達吉は野党との連合などという無定見な態度を排除して、内閣が自信をもって、その政策を実行することを望んだ。
 だが、そうした希望はもろくも崩れる。
 12月11日の閣議に安達内相は出席せず、辞表を求められてもこれをこばんだ。こうして若槻内閣は閣内不一致により、退陣に追いこまれた。
 最後の元老、西園寺公望は、内大臣の牧野伸顕、宮内大臣の一木喜徳郎、侍従長の鈴木貫太郎などと相談のうえ、政友会の犬養毅を次期首相に推薦することにした。政局を不安定にしかねない、政友会・民政党の連立内閣案はしりぞけられた。
 こうして12月13日、「憲政の神様」と呼ばれた不屈の人、犬養毅(木堂)が政友会総裁として、76歳で首相の座に就くことになる。
 犬養内閣は成立早々、金輸出の禁止を決定した。すなわち金本位制から離脱したのである。それを決定したのは、犬養に壊れて4度目の蔵相に就任した77歳の高橋是清である。
 井上準之助前蔵相を支持する達吉は、高橋の決定にたいし、かなり批判的な立場を示している。
 12月21日の「帝国大学新聞」には、こんなふうに書いた。
 金輸出禁止によって、ドルに対する円の為替レートはいきなり2割下落し、この円安によってドル買いをしていた少数の資本家は巨額の利益を得た。そのいっぽう、貨幣価値の下落によって、一般消費者階級はインフレに苦しむことになった。これは財産の一部没収と同じである。
「中にも憐れをとどめたのは官吏階級で、前には緊縮政策の犠牲として減俸を強いられ、いままた貨幣価値の低落によって二重の打撃を受くることとなった」
 達吉は若槻内閣が倒壊したのは、国民の多数の支持を失ったためではなく、あくまでも内閣不統一によることを強調し、その背後には資本家の画策があったのではないかとまで憶測している。
 さらに政友会内閣の成立によって、各省の次官や局長が更迭を強いられ、県知事なども一挙に交替させられ、さらにその動きが満鉄総裁や政府系銀行、警察組織にまで及ぶことはまちがいないとみて、こうした政党政治のあり方がはたしてよいものだろうかと疑問を呈している。
 金輸出禁止に次いで、犬養内閣は翌1932年(昭和7年)1月21日、第60議会の最中に衆議院の解散を決定した。
 このとき、達吉はこんな感想をいだいた。

〈日本の議会制度はいまだ十分には完成の域にも達しておらぬのに、早く既に弊害百出、全く行き詰りの状態に陥り、このままでは、結局没落のほかはないと懸念せらるるに至った。総選挙の結果、政友会が勝利を得るか、民政党が多数を占むるかは予想しえないが、いずれにしても多くを期待することは不可能で、政党政治の前途に光明を望みがたく、ファッショ政治の危険が目前に迫っているともいうべき有様にある。〉

 なぜ達吉は、犬養政権の発足をみて、政党政治の前途が絶望的で、「ファッショ政治の危険が目前に迫っている」などと感じたのだろうか。
 犬養政権に期待をいだいていないことがわかる。
「政党政治の弊害は万人の目にあまり、政治が国民一般の福利のために行われないで、少数の財閥や、私党のために行われる傾向は、ますます著しくなった」とも書いている。
 満州事変の解決や金輸出禁止の善後策が問われているときに、議会は政争に明け暮れ、これから一カ月を選挙争いに明け暮れていていいのか、という思いがあった。
 1932年(昭和7年)2月20日におこなわれた第18回総選挙は、普通選挙としては3回目だったが、これまで少数与党だった政友会の圧勝に終わった。政友会はこれまでの171議席から一躍して303議席を獲得した。これにたいし、民政党は249から146に議席を減らした。無産政党は伸びず、わずか5議席にとどまっている。
 政友会の地滑り的勝利は、けっして喜べなかった。政友会と民政党が選挙戦を繰り広げているひと月のあいだ、いやそれ以前から不穏な動きが頻出していたからである。
 まず1月8日には桜田門事件が発生する。陸軍観兵式を終えて宮城に戻ろうとする天皇の車列に警視庁庁舎前で手榴弾が投げられた。手榴弾は宮内大臣一木喜徳郎の乗る馬車の後輪にあたって炸裂したが、その破片が近衛兵の乗る馬を負傷させた程度で、大きな被害はなかった。天皇の御料車はその30メートルほど後ろを走っており、天皇は何かの音を聞いただけで、まったく無事だった。
 犯人は李奉昌(りほうしょう、イポンチャン)という人物で、上海で結成された大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に属していた。
 この事件に接した犬養首相は、その日夕方、辞表を提出するが、天皇は元老の西園寺と相談したうえ、犬養に留任を言い渡す「優諚(ゆうじょう)」を下した。
 この優諚によって留任した犬養内閣が、それから10日ほどのうちに、衆議院の解散を決定したことに、天皇主義者の達吉は憤慨し、「帝国大学新聞」に次のように書いた。

〈いうまでもなく今日は時局極めて重大な際であって、満蒙事件の解決といい、金輸出禁止の善後策といい、政府は全力を挙げてこれに従事すべき義務をもっている。畏(かしこ)くも留任のご沙汰を下し賜いし勅諚にも「時局重大の際なるが故に」ということであったと、政府自ら発表している。それは申すまでもなく全力を挙げてこれが解決に尽くせというご沙汰と拝承せねばならぬ。このご優諚に基づいて留任に決しながら、いたずらに党争を事とし、今後一ヶ月を選挙争いに浸頭せんとすることは、ご優諚に対してもいかにも畏れ多い極みと思う。〉

 そして、達吉が危惧したとおり、実際、一カ月の選挙戦の最中に、大きな事件が次々と巻き起こるのである。それは犬養首相の暗殺をもたらす五・一五事件の予兆でもあった。

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U3

五・一五事件ならぬ、二・二六事件を題材にした恩田陸の『ねじの回転』を今読んでいます。これはご存じのようにあくまでもSF小説ですがこれが実にオモシロイ。恩田陸という作家の作品毎の多様性にも目を見張るものがあると思っております。
by U3 (2022-12-09 21:32) 

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