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伊那の中路 [柳田国男の昭和]

《連載93》
 国男は菅江真澄が、旅によって学問を深めていく「刻苦自修の人」だったと記している。
 その旅が文字どおりの「遊覧」でなかったことは、いうまでもない。
 
〈そんなら彼としての特長は何に存するかといえば、第一には世にあらわれざる生活の観察である。あらゆる新しい社会事物に対する不断の知識欲と、驚くべき記録である。遊歴文芸家のややおどけたる仮面を被らなかったならば、あるいは局に当たる者の忌み遮るところとなったかもしれぬほどの、ちいさき百姓たちへの接近である。しかも学問以外の隠れたる目的の絶対になかったことは、彼の一生の淋しさからも証明せられる……〉

 国男は真澄の「学問」を高く評価している。しかし、歓喜と不安がいりまじった開戦直後の不安な状況にあって、「遊覧記」を読むことは楽しく、また時に感動や涙をさそって、現世の憂さを忘れさせる慰藉となる一面もあったのではないだろうか。
 ここで「遊覧記」の雰囲気を味わってもらうために、平凡社版で冒頭の「伊那の中路」を取りあげてみることにしよう。故郷を出た真澄は天竜川に沿って北上し、飯田から塩尻方面へ向かっている。1783年(天明3)、季節は春の終わりである。

〈天竜川の河原に行ったが、岸辺は川波が高くうちあげ、わきかえるように水泡(みなわ)のたつ急流の波の上を、筏(いかだ)をくんで浮き沈みしながらすすんでくる。米を積み疾走して下っていくのは、遠江(とおとうみ[静岡県西部])に向かうということだ〉

 これ自体が一幅の絵になっていることはまちがいない。だが、それだけではない。急流の天竜川が米を運ぶ河川交通路でもあり、その米は1日300俵に制限されていたこともわかり、経済史の資料としても読める。
 少し先には鹿塩という土地があった。古くから塩水が出ていて、それを鹿がなめていたところから、そういう地名がついたという。「山中から流れでる水を汲んで、これを焼き、塩を製して常に食用としている」と真澄は書いている。内陸に住む昔の人が塩をどうやって手にいれていたかを知る貴重な記録である。
 たとえば次の記述も村の暮らしぶりを実に生き生きと伝えているといえないだろうか。

〈腰に小さい籠のようなものをつけた女がおおぜい、野山の方に群をなして行った。これは桑の木の林にはいって、みづとよぶ、桑の芽ぐんだ若葉が花のようになったものをとり、蚕を養い育てるためだという。……[そして4月8日になると山寺に預けておいた]蚕の卵をつけた紙をそれぞれ持ち帰り、埋火のかたわらにおいたり、背中に負ったりして、昼夜あたためると、どうやら春になったとでも思ってか、芥子(けし)の種の芽ばえるように孵化(ふか)してくるのを、雉(きじ)の羽でなではらい落とし、みづという若芽のふくらんだものを食べさせ、養うということである〉

 ここにもまた明治以降とはかなり異なる養蚕の様子が、何やら女たちのにぎやかな声まで聞こえてきそうな、のどやかな春の光景とともに描かれている。
 しかし、悲しいできごとがなかったわけではない。真澄は天竜川の橋を渡ったところにある村(現伊那市)でこんな話を聞いている。

〈三、四日前の夕方、まねぐりをする十歳ばかりの子供が、子馬をつれた馬に乗っての帰り、この橋を渡りかけましたが、子馬が乳房をさがし求めて母馬の腹に首をさしこみながらあるくので、母馬がおどり上がったはずみに足を踏みはずし、橋の半ばから人馬もろとも、この早い流れの荒波に落ちこみ、はるばるとおし流されてしまいました。……かけつけて来た母は河原に倒れ伏し、石に頭をうちあてて嘆いたが、何のかいもありません。昨日、しがらみにかかったといって、筏師が見つけて、骨ばかりになった死骸をもってきたことでした〉

 真澄の「遊覧記」はどこを開いても、いまとつながる懐かしい風景に加え、人びとの喜びや悲しみがつづられていた。これを読む国男もまた、真澄の旅の跡をたどりながら、いま自分が守り伝えなければならないことを、しっかりと見据えていたにちがいない。
[連載全体のまとめはホームページ「海神歴史文学館」http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/kuni00.html をご覧ください]



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