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平岡正明『中森明菜』から ──大世紀末パレード(15) [大世紀末パレード]

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 中森明菜がテレビの歌番組を席捲したのは1982年から89年のことだった。17歳から24歳にかけての時期にあたる。TBSの「ザ・ベストテン」、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」などの歌番組がはやっていた時代で、ぼくもよく見ていた。
『山口百恵は菩薩である』と論じた好漢、平岡正明(1941〜2009)には、『中森明菜──歌謡曲の終幕』という著書もある。山口百恵のあと日本の歌謡界をリードした中森明菜を、かれはどのようにみていたのだろうか。
 日本の芸能界はレベルが低すぎる。明菜は「周囲の無能者にむしられた」というのが、平岡の率直な印象だ。
 1981年に山口百恵が引退し、ピンク・レディーが解散した。その空白を埋めたのが、松田聖子、中森明菜、小泉今日子の3人組だった。
 その3人のうち絶頂をきわめたかにみえる中森明菜は1989年夏にとつぜん自殺未遂に走り、みずからの経歴に幕をおろした。
 この年、昭和は終わり、歌謡界の「女王」美空ひばりが亡くなっていた。明菜の退場とともに、戦後歌謡曲の「終幕」が訪れた、と平岡は記している。
 1981年に中森明菜は新人発掘のオーディション番組として知られていた「スター誕生!」に3回挑戦して合格し、ワーナー・パイオニアにスカウトされた。所属事務所は「研音」。実家は東京・大田区で精肉店を営んでいたが、住んでいたのは清瀬市だった。
 デビュー曲は来生えつこ作詞、来生たかお作曲の「スローモーション」、「出逢いはスローモーション 軽いめまい 誘うほどに」と、恋の予感を歌った叙情的ないい曲だが、薬師丸ひろ子風で、さほど大きなヒットにはならなかった。
 そこで、事務所は強烈なインパクトをねらう。明菜に不良少女のイメージを担わせて、「少女A」(売野雅勇作詞、芹澤廣明作曲)を歌わせたのだ。最初、明菜は「嫌だ、絶対に歌いたくない」と抵抗していたという。
 それは男の子に挑戦的に迫っていく女の子の歌だ。「じれったい じれったい 結婚するとか しないとかなら」というフレーズが印象的だった。そして「じれったい じれったい そんなのどうでも関係ないわ」とつづく。
 かわいい少女が幼い声でつくりあげるセンセーショナルな歌のイメージは、明菜をたちまちスターの座に押し上げた。
 平岡は、この歌は山口百恵幻想に乗っかっているという。ちがうのは、明菜が「百恵をまねようとしているのではなく、挑戦している」ことだという。
 セカンドアルバムの「バリエーション」は失敗作だった。だが、平岡にいわせれば、明菜の「挑戦─アンチテーゼ─自己確立」がはじまっている。
「基本線は遮断だ。夢を遮断し、情景を遮断し、テーマを遮断するのである。曲は素材であって、曲に情感をまとわせない歌いかたをえらぶ」
 その模索をへて、次のヒット曲「セカンド・ラブ」が生まれる。
「恋も二度目なら 少しは上手に 愛のメッセージ 伝えたい」
 作詞作曲は来生えつことたかおのコンビ。二度目の恋をする少女は、わたしを抱き上げて「どこかへ運んでほしい」と願っている。
 ヒット曲がつづく。
 1983年には「1/2の神話」「禁区」が発売された。
「半分だけよ 大人の真似 それでもまだ悪くいうの いいかげんにして」という「1/2の神話」にはまだツッパリのイメージが残っている。
「禁区」は中国の立ち入り禁止区域を意味するという。少女は「私からサヨナラしなければ この恋は終わらないのね」と思いながらも、なかなか年上の男に別れを告げられないでいる。
 1984年には「北ウイング」と「十戒(1984)」「飾りじゃないのよ涙は」が出て、明菜はいよいよパワーアップする。
 明菜はもう少女ではない。じつに多彩な女性たちに憑依する。平岡にいわせれば、そのスタッフを含めて、明菜のシステムは「デビュー当初からバラバラだ」。しかし、明菜はけっして型(コンセプト)にははまらない。
 1985年には「ミ・アモーレ」で、86年には「DESIRE」で、2年連続レコード大賞をとる。
 平岡が絶賛するのは「飾りじゃないのよ涙は」で、いちばん好きなのは85年にでた「SOLITUDE」だという。
「飾りじゃないのよ涙は」は井上陽水の作詞作曲。

私は泣いたことがない
灯の消えた街角で
遠い車にのっけられても
急にスピンかけられても恐くなかった
赤いスカーフがゆれるのを
不思議な気持ちで見てたけど
私泣いたりするのは違うと感じてた

 この曲がでたとき、明菜は19歳の終わり。山口百恵が「プレイバック part2」を吹きこんだのと同じ年で、陽水はそれを意識している、と平岡はいう。
「プレイバック」ではUターンする車が、ここでは女を乗せたままスピンする。でも、彼女は恐くなかった。泣かなかった。事故に遭うかもしれない自分を冷静にみている。
 それでも「いつか恋人に会える時 私の世界が変わる時 私泣いたりするんじゃないかと感じてる」。白雪姫はまだ目をさましていない。
 いっぽうの「SOLITUDE」は孤独を歌う。明菜は二十歳になった。
「25階の非常口で風に吹かれて爪を切る たそがれの街 ソリテュード」とはじまる。湯川れい子作詞、タケカワ・ユキヒデ作曲。
 平岡はこの歌を歌う明菜について、こう書いている。

〈ソリテュード、という語を、ガラス鉢の中の金魚が泡を一つ、ポッとはきだすように歌う。水は替えてやったばかりで冷たい。金魚は気持よさそうに底の方でじっとしているが、透きとおった水の中から外界を眺めて、さびしいわ、と一言、気泡をはき出す。眠りの白雪姫が、はじめてポチリと片目をひらいて「さびしいわ」とつぶやいたのがこの曲だ。〉

 平岡にいわせれば「傑作になりかかってしぼんだ」作品だが、深い孤独に達していなくても、幸せそうな女の子のなかにきざす一瞬の孤独をとらえた曲になった。このころ明菜はすでに近藤真彦とつきあっている。
「ミ・アモーレ」はリオのカーニバルに托したラテン調の恋歌。この曲が大ヒットしはじめていた8月12日に、日航123便に乗っていた恩人の坂本九が亡くなる。
 そして「DESIRE」。ロック調でGet up, Get up, Burning Loveではじまり、「まっさかさまに墜ちて desire」。でもどこか夢中になれない、淋しい。平岡は、この曲の下敷きに山田詠美の『ベッドタイムアイズ』があるとみている。
 このころの明菜はツアーや新曲発売、テレビ出演と多忙をきわめている。まさに絶頂期にあったといえるだろう。だが、ヒット曲を生みつづけることを義務づけられた緊張感のなかで、芸能事務所とだけではなく、家族ともうまく行かなくなっている。おカネがからんでいた。
 そんな裏の事情はともかくとして、低音から「オワーッと横に情感がひらいていくような」、淫らさすら感じさせる明菜の歌唱に、平岡は目をみはっている。
 平岡は「難破船」にふれていない。68年世代のぼくなどには、1987年に発売されたこの曲が中森明菜のベストソングだと思われる。加藤登紀子の作詞作曲。恋の終わりを歌った曲だ。
「たかが恋なんて 忘れればいい」というせりふからはじまり、「ひとりぼっち 誰もいない 私は愛の難破船」で終わる激しくて悲しい曲だ。
 中森明菜は昭和の終わりの、愛と悲しみを歌っていた。

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