マドゥライのミーナークシー寺院──南インドお気楽ツアー(5) [旅]
2月23日(金)
朝ホテルの部屋で荷物をまとめ、7時すぎバイキング方式の朝食をとり、8時半にバスに乗り込んでチェンナイ(旧マドラス)空港に向かいます。
1640年にイギリス東インド会社が最初に拠点を築いたこの町を探索できなかったのは返す返すも残念ですが、仕方ありません。空港の近くは車でごった返していました。
厳重なセキュリティチェックを終えたあと、マドゥライ行きの11時45分発の飛行機に乗る予定でした。たっぷり時間はあります。ところが出発時間が約2時間遅れ、昼過ぎの1時半になってしまいました。
そのため、マドゥライに到着してから昼食をとる予定が変更になり、空港の店での軽食が提供されました。これが案外うまかったのにびっくり。
マドゥライまでの飛行時間は約1時間。あっという間です。3時ごろには空港を出て、バスに乗りこみます。チェンナイにくらべると、ずっと小ぶりです。
マドゥライはタミル・ナードゥ州第2の都市(第1はチェンナイ)で、100万以上の人口を擁しています。紀元前から断続的に建国されたパーンディヤ王国(全盛期は12世紀末から14世紀はじめ)の首都でした。ですから、ぼくは勝手に南インドの京都と名づけることにしました。
京都を連想させるのは、ほかにも理由があります。
大昔、マドゥライにはシャンガムと呼ばれる文芸院があって、ここに多くの詩人が集まり、多くの詩が読まれ、詞華集として残されたそうです。
ヴァイガイ河畔のマドゥライは文芸都市でもあります。そこでは古くからヒンドゥー教寺院がつくられていました。
インドでは戦乱がつづきます。北からはイスラム勢力が南に伸びていきます。パーンディヤ王国は滅亡し、マドゥライは一時デカン高原から下ってきたイスラム系王朝の支配を受け、町は荒廃します。
その後、ヒンドゥー系のヴィジャヤナガル王国(1336〜1649)が興隆し、マドゥライもその版図に編入されることになります。
ヴィジャヤナガル王国のもとでも、マドゥライは文芸都市として保護され復活しました。さらに、その後、マドゥライはヴィジャヤナガル王国のナーヤカ(地方長官)のもとで、事実上の独立国として繁栄していくのです。
長々とした説明はこれくらいにして、マドゥライでわれわれが最初に訪れたのはティルマライ・ナーヤカ宮殿でした。
この地を支配していた事実上の王、ティルマライ・ナーヤカによって、1636年に建造されたインド・サラセン様式の宮殿です。ヒンドゥー様式とムガル様式が混在しています。
すでにこの時代、ムガル帝国がインド北部からデカン高原までを支配するようになっていました。南部ではポルトガルがゴアに拠点を築き、オランダに立ち遅れたイギリスがインドに進出しようとしています。
マドゥライのナーヤカ王国が栄えたのは、ポルトガルやオランダと独自に交易をおこなっていたからだといいます。
この宮殿は大部分が破壊され、残っているのはごく一部です。宮殿前の広場には椅子が目いっぱい並べられ、これからおこなわれる催しを待っているようでした。
宮殿の入り口。なかなか華麗です。これがインド・サラセン様式というものなのですね。空間はイスラム風でありながら、飾られているのはヒンドゥーの神々です。
てっぺんには宮殿を守るかのように彩色されたガルーダがいます。
しかし、天井の細かい文様はいかにもイスラム風です。
ほかにもあちこちイスラム文様を見ることができて、おもしろいですね。
多くの柱が立ち並ぶ回廊も立派でした。
次に訪れたのが、そこから1キロほど離れたミーナークシー寺院です。写真撮影は禁止といわれたので、スマホをバスに置いていったのが大間違い。門前の露天バザールの様子を写真に収められなかったのが、返す返すも残念でした。
その一帯では、トマトやジャガイモ、バナナ、ザクロなどが売られている露店が立ち並び、そのほかおみやげを売っている商店も数々あって、いかにもインドらしい光景が広がっています。これを撮っておけば、インドを訪れた記念になったのにと悔やんだものの後の祭りでした。
ツアーの人たちは寺院前のおみやげ屋さんに、カメラや貴重品を預けていました。寺院にはいるには、入り口で靴とソックスを脱いで、素足になり、厳重なボディチェックを受けなければなりません。
その手続きを終えて、ようやくなかにはいって、まず目に飛びこんできたのが、色とりどりの壮麗な装飾をほどこされた、見上げるほどの塔門(ゴブラン)でした。
写真がないと、そのイメージがつかめないでしょうから、ここではウィキペディアの写真を借りることにします。
これが南塔です。ティルマライ・ナーヤカによって17世紀に現在のかたちに修復されたミーナークシー寺院には、こんな塔門が東西南北に4つ並んでいます(寺全体では14あるそうです)。その高さは約50メートル。
びっくりしました。へんなたとえですが、最初見たときは、日光東照宮みたいと思いました。しかし、装飾ははるかにゴテゴテしています。
少し拡大した写真も載せておきましょう。牛に乗ったシヴァ神がいますね。ぼくにわかるのはそれくらいで、ヒンドゥーの神様が総動員された感があります。その数は全部で3300といわれます。不謹慎な話ですが、何だか神さま酔いしそうな気分になってきます。
指定された位置に立って、壁にうがたれた窓をのぞくと、寺内の黄金の塔を見ることができました。
なぜミーナークシー寺院がこうまで華麗なのかというと、ここにはインドじゅうから毎日数万人の巡礼者がやってくるからだそうです。とくにお祭りになると、その数は10万人以上に膨れ上がります。
ここはヒンドゥー教の7大聖地のひとつですが、その人気はガンジス川ほとりのヴァーラーナシー(旧称ベナレス)に匹敵するかもしれません。この日も大勢の人が訪れていました。
堂内の柱には獅子に似たヤークなどの彫刻がほどこされ、天井にも絵が描かれています。
神さまの彫像がいたるところに置かれています。
ヒンドゥー教の神々のさまざまな伝説を頭にいれて、この寺院を回ると、それこそ1日いても飽きないでしょう。残念ながら、ツアーでの見学はごく短い時間でした。
ミーナークシー寺院の写真はすべて借用で申し訳ないと思います。しかし、観光客がなかでパチリパチリと写真を撮っていたら、おごそかな雰囲気が壊されるという寺院側の主張もよくわかります。
本日の日程はこれで終わりです。ホテルに着いたのは午後6時ごろ。高齢者向きのゆったりした日程です。
朝ホテルの部屋で荷物をまとめ、7時すぎバイキング方式の朝食をとり、8時半にバスに乗り込んでチェンナイ(旧マドラス)空港に向かいます。
1640年にイギリス東インド会社が最初に拠点を築いたこの町を探索できなかったのは返す返すも残念ですが、仕方ありません。空港の近くは車でごった返していました。
厳重なセキュリティチェックを終えたあと、マドゥライ行きの11時45分発の飛行機に乗る予定でした。たっぷり時間はあります。ところが出発時間が約2時間遅れ、昼過ぎの1時半になってしまいました。
そのため、マドゥライに到着してから昼食をとる予定が変更になり、空港の店での軽食が提供されました。これが案外うまかったのにびっくり。
マドゥライまでの飛行時間は約1時間。あっという間です。3時ごろには空港を出て、バスに乗りこみます。チェンナイにくらべると、ずっと小ぶりです。
マドゥライはタミル・ナードゥ州第2の都市(第1はチェンナイ)で、100万以上の人口を擁しています。紀元前から断続的に建国されたパーンディヤ王国(全盛期は12世紀末から14世紀はじめ)の首都でした。ですから、ぼくは勝手に南インドの京都と名づけることにしました。
京都を連想させるのは、ほかにも理由があります。
大昔、マドゥライにはシャンガムと呼ばれる文芸院があって、ここに多くの詩人が集まり、多くの詩が読まれ、詞華集として残されたそうです。
ヴァイガイ河畔のマドゥライは文芸都市でもあります。そこでは古くからヒンドゥー教寺院がつくられていました。
インドでは戦乱がつづきます。北からはイスラム勢力が南に伸びていきます。パーンディヤ王国は滅亡し、マドゥライは一時デカン高原から下ってきたイスラム系王朝の支配を受け、町は荒廃します。
その後、ヒンドゥー系のヴィジャヤナガル王国(1336〜1649)が興隆し、マドゥライもその版図に編入されることになります。
ヴィジャヤナガル王国のもとでも、マドゥライは文芸都市として保護され復活しました。さらに、その後、マドゥライはヴィジャヤナガル王国のナーヤカ(地方長官)のもとで、事実上の独立国として繁栄していくのです。
長々とした説明はこれくらいにして、マドゥライでわれわれが最初に訪れたのはティルマライ・ナーヤカ宮殿でした。
この地を支配していた事実上の王、ティルマライ・ナーヤカによって、1636年に建造されたインド・サラセン様式の宮殿です。ヒンドゥー様式とムガル様式が混在しています。
すでにこの時代、ムガル帝国がインド北部からデカン高原までを支配するようになっていました。南部ではポルトガルがゴアに拠点を築き、オランダに立ち遅れたイギリスがインドに進出しようとしています。
マドゥライのナーヤカ王国が栄えたのは、ポルトガルやオランダと独自に交易をおこなっていたからだといいます。
この宮殿は大部分が破壊され、残っているのはごく一部です。宮殿前の広場には椅子が目いっぱい並べられ、これからおこなわれる催しを待っているようでした。
宮殿の入り口。なかなか華麗です。これがインド・サラセン様式というものなのですね。空間はイスラム風でありながら、飾られているのはヒンドゥーの神々です。
てっぺんには宮殿を守るかのように彩色されたガルーダがいます。
しかし、天井の細かい文様はいかにもイスラム風です。
ほかにもあちこちイスラム文様を見ることができて、おもしろいですね。
多くの柱が立ち並ぶ回廊も立派でした。
次に訪れたのが、そこから1キロほど離れたミーナークシー寺院です。写真撮影は禁止といわれたので、スマホをバスに置いていったのが大間違い。門前の露天バザールの様子を写真に収められなかったのが、返す返すも残念でした。
その一帯では、トマトやジャガイモ、バナナ、ザクロなどが売られている露店が立ち並び、そのほかおみやげを売っている商店も数々あって、いかにもインドらしい光景が広がっています。これを撮っておけば、インドを訪れた記念になったのにと悔やんだものの後の祭りでした。
ツアーの人たちは寺院前のおみやげ屋さんに、カメラや貴重品を預けていました。寺院にはいるには、入り口で靴とソックスを脱いで、素足になり、厳重なボディチェックを受けなければなりません。
その手続きを終えて、ようやくなかにはいって、まず目に飛びこんできたのが、色とりどりの壮麗な装飾をほどこされた、見上げるほどの塔門(ゴブラン)でした。
写真がないと、そのイメージがつかめないでしょうから、ここではウィキペディアの写真を借りることにします。
これが南塔です。ティルマライ・ナーヤカによって17世紀に現在のかたちに修復されたミーナークシー寺院には、こんな塔門が東西南北に4つ並んでいます(寺全体では14あるそうです)。その高さは約50メートル。
びっくりしました。へんなたとえですが、最初見たときは、日光東照宮みたいと思いました。しかし、装飾ははるかにゴテゴテしています。
少し拡大した写真も載せておきましょう。牛に乗ったシヴァ神がいますね。ぼくにわかるのはそれくらいで、ヒンドゥーの神様が総動員された感があります。その数は全部で3300といわれます。不謹慎な話ですが、何だか神さま酔いしそうな気分になってきます。
指定された位置に立って、壁にうがたれた窓をのぞくと、寺内の黄金の塔を見ることができました。
なぜミーナークシー寺院がこうまで華麗なのかというと、ここにはインドじゅうから毎日数万人の巡礼者がやってくるからだそうです。とくにお祭りになると、その数は10万人以上に膨れ上がります。
ここはヒンドゥー教の7大聖地のひとつですが、その人気はガンジス川ほとりのヴァーラーナシー(旧称ベナレス)に匹敵するかもしれません。この日も大勢の人が訪れていました。
堂内の柱には獅子に似たヤークなどの彫刻がほどこされ、天井にも絵が描かれています。
神さまの彫像がいたるところに置かれています。
ヒンドゥー教の神々のさまざまな伝説を頭にいれて、この寺院を回ると、それこそ1日いても飽きないでしょう。残念ながら、ツアーでの見学はごく短い時間でした。
ミーナークシー寺院の写真はすべて借用で申し訳ないと思います。しかし、観光客がなかでパチリパチリと写真を撮っていたら、おごそかな雰囲気が壊されるという寺院側の主張もよくわかります。
本日の日程はこれで終わりです。ホテルに着いたのは午後6時ごろ。高齢者向きのゆったりした日程です。
2024-03-24 06:18
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