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冷戦の終わり(1)──大世紀末パレード(18) [大世紀末パレード]

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 冷戦は1946年ごろから1990年ごろまでつづいた。アメリカとソ連が世界の覇権を争った(少なくともそう思われた)時代である。世界で戦争がなかったわけではない。戦争は数多くあった。米ソとも世界の紛争にかかわりつづけ、時にみずからも戦争に加わった。
 だが、米ソが直接戦う事態は避けられていた。冷戦とは直接対決にはいたらなかった米ソ2大核保有国が、東西の陣営を築きながら、世界の覇権を争った(少なくともそう思われた)状況を指す。そして、1991年にソ連が崩壊したことにより冷戦は終結する。
 ここでは「冷戦の終わり」に話をしぼることにして、青野利彦『冷戦史』を読んでみることにする。
 本書により、まず1980年代はじめの状況をたどっておこう(前に掲載したポール・ジョンソンの『現代史』と重なる)。
 ベトナムではアメリカ軍が撤退したあと、1975年4月に南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、南北が統一され、76年7月にベトナム社会主義共和国が誕生する。このときすでに75年12月にはラオスが社会主義国となり、76年1月にはカンボジアで親中国のポル・ポト政権が誕生していた。
 だが、その後、ベトナムとカンボジアの関係が悪化する。78年12月、ベトナムはカンボジアに侵攻し、ポル・ポト政権を打倒、ベトナム寄りの政権を樹立した。この動きに対抗して79年2月に中国がベトナムに侵攻する。だが、大きな打撃を受け、3月に撤退している。
 中国は鄧小平のもと「改革開放」路線に踏みきっていた。78年8月には日本とのあいだで日中平和友好条約が結ばれる。79年1月には米中の国交が正常化された。だが、そのいっぽうで、アメリカ議会は「台湾関係法」を成立させ、アメリカが引きつづき台湾の防衛に関与する姿勢を明らかにした。
 青野は「70年代末の東南アジア・東アジアでは『日米中』と『ソ越』の二つの国家グループが対峙する状況が生じた」としている。
 イランでは79年に革命がおこり、「イスラーム国家」がつくられ、米国は重要な同盟国を失う。80年にはイラン・イラク戦争がはじまる。戦争は8年間つづき、双方で100万人の戦死者をだしたとされる。
アフガニスタンでは78年に社会主義政権が成立したが、イラン革命の影響を受けて、イスラーム主義者による反乱が発生する。その動きが波及することを恐れたソ連はアフガニスタンに侵攻する。
 アメリカのカーター政権はソ連への禁輸措置を発動し、80年モスクワ五輪ボイコットを呼びかけた。これにより「米ソ・デタントは完全に崩壊した」と、青野は記している。米ソ対立の様相が強まった。
 80年にアメリカ大統領に就任したレーガンはソ連と厳しく対決する姿勢を示し、軍備を拡張した。そのいっぽうで、ソ連のブレジネフに「戦略兵器削減交渉」(START)を呼びかけている。
 青野によると、まずは軍拡でソ連にたいし優位な立場に立ち、「強い立場から交渉に臨み、核兵器を廃絶する」というのが、レーガンの考え方だったという。だが、それはうまくいかなかった。
 82年11月にブレジネフが死去したあと、ソ連の指導者となったアンドロポフは、アメリカにたいし不信をつのらせていた。そのさなか83年9月にはシベリア上空に迷い込んだ大韓航空機が撃墜される事件があり、米ソの緊張が高まった。
 83年11月、ヨーロッパではNATO諸国がアメリカの新型INF(中距離核戦力)を配置しはじめる。これは77年にソ連が西ヨーロッパを標的とする新型INFを配置したのに対抗する措置だった。デタント期間におけるINF交渉は頓挫していた。こうして80年代はじめにはヨーロッパでも緊張が高まる。
 だが、この時期、ヨーロッパで生じていたのは単なる緊張ではなかった。青野によると「東西双方の『緊張』を高める対決的な行動と、その『緩和』を求める行動の二つが、複雑に交差していた」という。
 いっぽう、80年代はじめ、東アジアでは大きな変化が生まれようとしていた。
 ひとつは日米軍事協力の進展である。82年11月に日本の首相に就任した中曽根康弘は、「日米は運命共同体」と唱え、アメリカのレーガン大統領と親密な関係を結んだ。85年には青森の米軍三沢基地に最新鋭のF−16戦闘機が配備され、87年には日本の防衛費がGNP1%の枠を突破した。
 このころ日本の経済発展はめざましかった。アメリカが財政赤字と貿易収支赤字の「双子の赤字」をかかえるなか、日本は85年には世界最大の債権国となった。青野は「世界有数の債権国となった日本からの巨額な資金は『新冷戦』を戦うアメリカの軍備拡張を経済的に支えたのだ」と評している。
 もうひとつの大きな変化、それは中国の大国化のはじまりである。中国は共産党一党独裁体制を維持しながら、市場経済に基礎を置く発展戦略に転換し、世界市場に進出する。80年代の中国は経済発展を重視して、日米両国との友好関係を維持していた。そのいっぽうで、中国は対ソ関係を改善し、米ソいずれにも過度に依拠しない「独立自主の対外政策」を模索するようになる。
 青野はこう書いている。

〈共産党一党独裁体制を維持しながら市場経済を軸に据える中国の政治・経済方針は、共産党一党体制と国家計画経済を基礎とするソ連型の共産主義イデオロギーから大きく逸脱するものとなった。また外交路線でも中国は、東西いずれの陣営にも与せず、国際共産主義運動を放棄する方向へと転じた。この二つの意味で、中国は85年までに国家戦略を大きく転換したと捉えることができるだろう。〉

 中国の経済発展モデルは、第三世界の国々にも影響をおよぼしていく。第三世界にたいするソ連の影響力は次第に低下しつつあった。加えて、レーガン政権は、親ソ的な勢力への干渉を強め、世界銀行やIMFの融資などを利用しながら、第三世界への影響力を高めていった。
 これが1980年代前半の状況だ。次はこうした状況が「冷戦の終わり」へとどのようにつながっていったのかを追ってみる。

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