SSブログ

経済的進歩の要因──メンガー『一般理論経済学』を読む(4) [商品世界論ノート]

81in7TsB1gL._SL1500_.jpg
 人間は生きているかぎり、日々欲望を満たし、調和的な生活を維持していかなければならない、とメンガーは書いている。そのためには、みずからの欲望を満たしうる手段をもたなければならないが、それには事前の配慮が必要となるという。
 経済とは、主体的にみれば、欲望を満足させるための手段を確保しようとする努力を指す。それは自然的、社会的状況のもとで、生産や交易を通して財を得ようとする活動でもある。いっぽう、客体的にみれば、経済とは、われわれが支配しうる財の総体であり、それをいかに配置するかという問題となる。
 経済の出発点は財である。そこには交易によって得られる財も含まれるが、経済の目標は、こうした財によって、みずからの需求を満たすことである。そして、そうした需求を満たすには、生産手段(材料、労働力、機械など)だけではなく、交換手段(貨幣など)が必要になってくる。
 ただし、経済活動とは消費そのものを意味するわけではない。あくまでも、われわれが自分たちの欲望を満たすための手段を確保する過程を意味する。
 メンガーは経済をそんなふうに理解している。
 経済を生産・分配・消費というジャンルにわけるのは、まったく外面的な把握にほかならない。また、労働を財の唯一の源泉と考えるのもまちがっている。経済を生産と同一視するのも一面的だ。経済とはあくまでも財の需求を充足させようとする人間の努力全般を指すというのがメンガーのとらえ方である。
 財には経済財と非経済財がある。過剰なほどどこにでもふんだんにある財は経済財にならず、非経済財のままだ。たいていの場合、水や大気、砂、森の木材などは非経済財である。
 しかし、場所が変われば、こうした非経済財も経済財になる。非経済財から経済財への転換は、住民の数が増大したり、財の新たな使用目的が発見されたりすることによっても生じる。
 いずれにせよ非経済財が経済財に、あるいは経済財が非経済財になるのは、需求と支配可能数量との関係が変化することによってである。そのことは、都市における飲料水や木材の必要性が、ほんらい非経済財だったものを経済財に転化させることをみても、あきらかだという。
 飲料水が住民の需求をじゅうぶんに満たす場所では、水道は必要なく、したがって水道設備のための高次財の必要も生じない。
 そこで、メンガーはいう。

〈人間に直接に与えられた財がすべての人間経済の出発点であり、人間の需求の充足がその目標点である。人間はまず第1次財にたいする欲望を感じて、自分の需求よりも少ない量しか支配しえない第1次財を、自分の経済的活動の対象、つまり経済財にする。……その後に熟慮と経験を重ねることによって、人間は諸物の因果的連関……をたえず深めていって、第1次、第2次、そしてさらに高次の財を知るようになるのである。〉

 欲望を満たす財が常にそこにあるなら、経済など必要ではない。そこには、いわば自然の恵みにあふれた楽園が広がっているのだから。
もちろん、メンガーはかつて人類がそうした楽園を経験したとは思っていない。
 現在の発達した文化のもとでは、さまざまな生産過程をへて、ようやく享受財を得ることができるのが実情だ。とはいえ、究極的な財需求を満たすには、「生産手段に目標と方向を与える配分的な活動」が必要になってくる。
 すなわち享受財の需求を見越して(その場所や時間、種類、量も含めて)、それを満たすために必要な生産手段(技術としての労働力を含む)を集めて、目標と方向を定め、それを組み合わせて、技術的─経済的な活動をおこなわなくてはならない。
 いっぽう、財にはかぎりがある。人間の経済の出発点は、財が不足がちであるという現実にあり、財需求を完全に充足することは、人間経済の理想的な究極目標でしかありえない。とするならば、かぎられた財にたいする需求を可能なかぎり満たすことが経済活動の目標となる、とメンガーはいう。
 そこからは節約化の方向が生じる。財の喪失や損傷を予防することはもちろんだが、生産の効率性も求められる。できるだけ少量の享受財で、欲望を満たす努力(さらには欲望自体を抑制する努力)も必要だろう。さらに、かぎられた生産手段からどのような財の生産を優先するかについても先行的配慮がなされなければならない。
 つまり、人間の経済には技術的(拡大)の方向と節約化(効率化)の方向が同時にはたらいている、とメンガーは考えている。
 このふたつの方向が結びつくことによって、人間の経済には次のような傾向が生じる。
 最大可能な成果を効率的に達成すること。
 より必要な財を優先して選択すること。
 さらに資本の集中により生産効率を高めること。

 ところで、人間の社会においては、しばしば、かぎられた財をめぐって利害の衝突が生じる。それを解決するひとつの方法が、財の共同占有と個々の経済主体への分与(配給)だということをメンガーも認めている。だが、それは往々にして失敗に終わる。
 これにたいし、共同占有がなされていない社会では、経済主体は法秩序のもとで私的な所有権を認められることになる。
 ありあまる財が存在する世界では、所有権は何の意味ももたない。だが、支配可能な財の数量がすべての人間の欲望を満たさない経済においては、所有権をもつ者に財が所有されることはやむをえない。
 メンガーは社会主義には否定的だったように思われる。せめて可能なのは必要最低限の財を確保し、それを分配できるようにするくらいなものだと書いている。

 私的な所有権が認められる社会では、資産が存在する。
 資産とは何だろう。
 メンガーは資産を「ある人物が支配する経済財の全体」と定義する。
 あらゆる財が需求以上にありあまっている社会では、経済財も資産も存在しない。資産という概念が存在するのは、経済財が希少な財である場合だ。
 経済財を所有する主体は資本家だけではない。国家や自治体、会社も資産(経済財)を所有している。
これにたいし、国民資産という概念は一国民全体を経済活動をおこなう主体と考える一種の擬制であって、厳密な意味で、国民資産なるものが存在するわけではない。
 国民資産は「人々の交易によって結び合わされた、経済財の複合体」ではあるが、その数量そのものから国民全体の経済を判断すると、誤りを生じやすい、と述べている。
 いまなら、メンガーはGDPを最大の経済指標とする考え方に懸念を示したにちがいないと思われる。
 資産のうち、財(生産)の元本となるものをメンガーは資本と名づける。資本は用役財資本(土地や機械、建物など)と消耗財資本(原材料、補助材料)からなる。それは安定資本(固定資本)と可変資本(流動資本)と言いかえることもできる。
 いっぽう、資産には生産ではなく消費に向けられるものもある。そうした資産のなかには、用役財(土地、住居、家具など)や消耗財のほか、貨幣も含まれることになるだろう。
 なお補足すれば、メンガーは資本における用役財も長期的にみれば消耗財なのであって、最終的には財としての性質を失ってしまうと述べている。したがって、資本を純資本として維持するためには、用役財の摩滅(資本原本の部分的な消耗)に対応していかなくてはならない。

 この章(第4章「経済と経済的財の理論」)では、経済とは何かにはじまって、経済財と非経済財の区別、経済活動の方向性、資産と資本が論じられたが、最後は経済的進歩をもたらす要因が検討される。
 メンガーは、アダム・スミスのように、経済的進歩の要因を分業だとは考えなかった。
 労働は力というより、むしろ技術であって、技術的労働が、財の形成に向けての努力を指すことはいうまでもない。だが、分業自体が経済的進歩をもたらすわけではない、とメンガーはとらえていた。
 分業は大きな要因ではない。それよりも、直接的な第1次財の獲得に専念するのではなく、第2次、第3次と高次の財を獲得する方向に進むことこそが、経済進歩をもたらすのだ、とメンガーは考える。
 その例として挙げられるのが、次のような人類発展の経緯だ。メンガーによれば、「獲物を棍棒1本で追う猟師が弓と網を使う猟へ、牧畜へ、さらに進展して、ますます集約的な形態の牧畜へと移行していく」のが、これまでの人類の歴史だった。
 ここでは、直接に獲物を追いかけるよりも、迂回して獲物をつかまえる道具(高次財)を工夫することが、より多く第1次財を得ることにつながるということが、暗黙のうちに示されている。
 そこで、メンガーはいう。

〈いずれにせよわれわれの欲望の満足への高次財の利用を増進することは、われわれの支配しうる享受手段の数量を増加させ、したがってわれわれの経済的状況をますます改善するという結果を生じる。〉

 直接、第1次財に労働の投与を集中させるよりも、高次財の形成を工夫することが、人びとの獲得する享受手段を増進させることにつながるというのがメンガーの考え方だといってよいだろう。いまなら、こうした高次財の代表がさしずめ半導体ということになるだろうか。
 だが、人間が高次財を獲得するには、前提が必要である。
 それは何か。

〈それは、これらの[経済活動を行う]主体が、現時点について経済財にたいする自分の需求を満たした後、なお、また先の生産過程のための、あるいは未来の諸期間のための経済財の数量が残るのか。いいかえれば、資本を占有するかどうか、である。〉

 ここでいう資本は、いわば社会的余剰ととらえられている。こうした社会的余剰は分配され、消尽されてしまってはならない。むしろ、占有され、高次財の形成へと向けられることによって、経済的進歩がもたらされる。
 高次財の形成は「人間の先行的配慮の活動」の結果であって、そのためにはそれをおこないうるだけの「資本の生産性」が必要だというのが、メンガーのとらえ方なのである。

nice!(7)  コメント(0) 

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント