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山本義隆『近代日本150年』を読む(1) [本]

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 科学技術の面から日本の近代化をとらえなおそうとした力作といえるだろう。
 序文にはこうある。

〈明治以降の日本の近代化は、中央官庁と産業界と軍そして国策大学としての帝国大学の協働により、生産力の増強による経済成長とそのための科学技術の振興を至上の価値として進められてきた。戦後の復興もその延長線上にあった。明治の「殖産興業・富国強兵」の歩みは、「高度国防国家建設」をめざす戦時下の総力戦体制をへて、戦後の「経済成長・国際競争」へと引き継がれていったのである。〉

 近代日本の歩みは、最新の科学技術をとりいれ、ひたすら国力の増強をはかることに向けられていた、と著者は論じている。それは明治から平成の現在まで変わらなかった。
 国力とはいったい何だろう。それは軍事力であったり、経済力であったり、あるいは文化力であったりする。だが、要は外に向かって誇示する国の力だといってよい。だが、はたして、それにどれだけの意味があるのか。国力を求めるあまりに、犠牲になっているものが、実に多いのではないか。まして、それが戦争である場合は、内外にわたる犠牲はあまりにも大きい。
「大国主義ナショナリズムに突き動かされて進められてきた日本の近代化をあらためて見直すべき決定的なときがきている」と著者はいう。それは国力の思想から転換すべきだという主張だとみてもよい。
 本書の記述にしたがって、幕末からの歩みをふり返ってみることにしよう。
 まず第1章の「欧米との出会い」を読んでみる。
 江戸時代の蘭学は医学が中心で、せいぜい本草学や天文学、そのほか趣味の技術が受け入れられていたにすぎなかった。ところが、1842年に中国がアヘン戦争で敗れ、1853年と54年にペリーが来航すると、日本は列強の脅威を感じるようになる。
 1855年、幕府は洋学所(のち蕃書調所)を開設し、西洋の軍事技術を研究するようになった。長崎には海軍伝習所がつくられ、航海術の実習もはじまった。
「医師の蘭学」から「武士の洋学」への転換がなされた、と著者は書いている。この場合、洋学とは兵学、すなわち軍事技術にほかならなかった。
 欧米と日本の力の差はどこにあったのだろう。1860(万延元)年に渡米した幕府使節団の玉虫左太夫は、工場を見て回り、蒸気動力による機械の強大な生産能力に驚きを隠せなかった。このとき同行した福沢諭吉も、蒸気機関と電信機が世界を変えたという思いをいだいた。
 1871(明治4)年に明治新政府の首脳陣は2年近くにわたり、欧米諸国を視察した。いわゆる岩倉(具視)使節団である。西洋各国の制度、法律、財政、産業、軍事を調査することが大きな目的だった。その記録は久米邦武の『欧米回覧実記』に残されている。
 著者によれば、使節団は「機械化された大規模な工場によって商品が大量に生産されている欧米の工業と商業に圧倒されていた」。とりわけ、それを支える石炭と鉄こそが、国富の源泉だと感じていた。
 それまで日本では工業や商業は、ほかのアジア諸国と同様、いやしまれ、軽んじられてきたといってよい。欧米での見聞は、そうした政治意識を大きく揺り動かすものとなった。
 著者はこう書いている。

〈欧米諸国が帝国主義段階にむかいつつあるこの時代に福沢や久米たちが見たのは、科学が技術に直結し、産業の発展と軍事力の強化にとって不可欠の要素となっていることにとどまらず、国家が科学技術の振興と革新を積極的に支援していることであった。〉

 西洋コンプレックスという言い方があるが、それは単なる劣等感ではない。西洋への恐怖感でもあった。西洋的なものを取り入れていかなければ、日本は生き残っていけないという思いが、強迫観念のようになって、明治の支配層の頭に染みついていたのではないだろうか。その意味で、幕末の「尊皇攘夷」思想は、明治の「独裁欧化」思想に転化する契機をはらんでいたともいえる。
 明治になっても官の優位という考え方は根強く残っていた。欧化、すなわち「文明開化」は大衆への啓蒙(上からの意識注入)のかたちで実施される。それを象徴する著述が福沢諭吉の『文明論之概略』だったといってよい。
 福沢は東洋にないものは、数理学と独立心だと書いている。つまり科学と公民意識だと言い換えてもよいだろう。
 独裁政権のもとでは国民意識は育ちようもなかった。いっぽう数理学の中心が「窮理学」であることを福沢は認めている。窮理学とは、いまでいう物理学や化学などを中心とする自然科学のことである。福沢の『訓蒙窮理図解』は、日本で窮理学ブームを巻き起こすきっかけになった、と著者は書いている。その中心テーマは機械と蒸気、電気だった。好奇心の強い日本の民衆は、新しい西洋の科学に無関心ではいられなかった。
 ここで、著者は科学と技術が異なることに注意をうながしている。科学は世界の理解と説明をめざし、何らかの実際的応用を意図しているわけではなかった。科学が技術と本格的に結びつくようになるのは19世紀になってからだ。それによって科学自身も「自然への働きかけの指針を与えるもの」へと変わっていく。
 日本はまさに「科学技術」の生まれた時代の西洋と接触したのだ。福沢は西洋の技術の背後に「窮理学」(物理学や化学)をみた。それは裏返せば、日本では西洋の科学がもっぱら「実用の学」として受け止められたということを意味している、と著者はいう。

〈西欧の技術を科学技術と捉えた明治日本は、そのことで、科学を技術のためのもの、言うならば技術形成の妙法と矮小化することになったが、逆に技術にたいしては、過剰に合理的な、そして過度に強力有効なものとして受け止め、受け入れることになった。〉

 そこにいわば「科学技術幻想」なるものが生まれる。とはいえ、西洋でもこのころ科学は自然の秘密を解き明かすだけではなく、技術と融合して自然を征服するための研究として位置づけられるようになっていたのだ。
 近代科学にもとづく技術への過大な期待が生まれていた。福沢自身も『文明論之概略』のなかで、大洋を渡る蒸気船やアルプスのトンネル、避雷針、科学肥料、電信機などを絶賛している。こうした過大な科学技術幻想が明治維新以後150年にわたって日本を呪縛したのだ、と著者は指摘する。
 ちいさな本だが、大きな内容がつまっている。
 なかなか進まないけれど、少しずつでも読んでいくことにしよう。

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