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満州事変──美濃部達吉遠望(62) [美濃部達吉遠望]

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 1931年(昭和6年)5月16日に政府は官吏減俸を断行すると表明した。これにたいし、鉄道省や逓信省の職員から集団的な反対運動が巻き起こった。その騒ぎを収めるため、政府は段階的に減額率を首相で20%、判任官(役所による直接任用者)で3%と定め、それ以下の下級者はさしあたり減俸しないことにした。
 減俸の実施は6月1日からとし、4万6000人の官吏が対象となった。当時の首相の年俸は1万2000円(現在でいえば3600万円程度か)、減俸対象となった中堅官吏の年収は2400円程度(同じく720万円程度)だったという。
 減俸の背景には税収の落ちこみがある。政府は予算の節約によって、財政危機を乗り越えようとする姿勢を示した。それが同時に不況下における国民のがまんを促すものとなると考えていた。ケインズ政策にみられるような、赤字財政による農村救済策や都市の失業対策は取られなかった。
 民政党政府は、浜口政権以来、当初、官吏だけではなく判事まで含む減俸を打ちだしていた。裁判所や役所の多くの職員から反発の声が挙がり、ストライキまでおこりそうな気配となったのはとうぜんである。それが、けっきょくは第2次若槻政権の妥協案で、減俸が決まった。
 このとき、美濃部達吉は時代が変わったという感慨をいだいた。
「中央公論」7月号にこう書いている。
 かつて官僚といえば「上命下従」で、ほとんど軍隊的な規律が保たれていたものだが、「旧時代のような軍隊的の規律は今日の官僚に対しては、もはや望むべからざるに至った」。
 その理由として、達吉は官吏の経済的地位の低下、自尊心の減退などを挙げている。官僚といえども、いまはかつての武士のような特権階級ではなく、高等官を別とすれば、社会からとりわけ尊敬されることもなく、経済的にみても一般人民と変わらない存在になっている。
 加えて、日本の政治が官僚政治から政党政治に変わったことが、官吏の本質に重要な変化をもたらした。
 薩長藩閥が政権を握る官僚政治の時代においては、官僚は絶対にその権威に服従しなければならなかった。ところが、政党政治がはじまると、政府と官僚の関係は一変した。
そこから「官僚の政党化」と「官僚の独立化」というまったく相反する傾向が生じた、と達吉はいう。
 官僚の政党化というのは、官僚が政友会系か民政党系かというように政治的色彩を帯びることを指す。そのいっぽうで、官僚が政府から相対的に独立した勢力をもつようになったのもたしかだった。
 達吉は官僚の独立化をむしろ支持する。

〈私は政党政治の下において、官僚がその所属の長官に対し、ただ命これ奉じ、いかに無理な命令でも絶対服従の地位に立つことをもって、望ましい状態であるとは信じない。むしろ反対に、官僚が独立の地位を有せねばならぬことを自覚し、政党の勢力から超越して、法律と正義とを保持し、政党政府がその政党的見地からみだりにこれを蹂躙せんとする場合には、敢然としてこれに反対するだけの勇気あらんことを望むものである。〉

 達吉は、政党政治下における官僚が「政党の勢力から超越して、法律と正義とを保持し」、みずからの仕事への気概をもつことを望んでいた。
 いっぽうで、達吉は今回の政府による減俸に官吏が反対したことに同情していた。国庫の収入不足の犠牲を官吏のみに負わせるのは理不尽であって、官吏が反対運動を起こしたのも無理ないと考えていた。
 官吏の俸給は勅令によって定められており、法律を改正しなくても実施できるようになっていた。
政府は当初、裁判所の判事にたいしても減俸を実施しようとしたが、反対運動にあってそれを断念した。判事の俸給は裁判所構成法によって保証されていたからである。判事はその一身上の権利が行政権によって左右されないよう法律上、保護されていたのだ。
 そこで、政府は官吏にしぼって減俸を実施することにしたのだが、達吉はそれは官吏の財産権を侵害するものだと論ずる。官吏の給与は国家に雇用され、国家のために勤務する報酬として与えられているもので、官吏はその官職にあるかぎり、少なくとも定められた俸給を請求しうる権利を有しているはずだという。
 今回、政府が官吏にのみ減俸を強いるのも不公平だった。経費削減をいうのなら、その範囲は恩給や議員の歳費、裁判所の判事にもおよばなければならない。だが、それらは法律の改正を必要とするため、政府は安直に法改正を必要としない官吏の俸給のみを減俸の対象とした。
「それは実質においては官吏のみにその減額高に相当するだけの特別所得税を課するのと同様である」と、達吉はいう。
 それでも政府は官吏の減俸を断行した。大不況のもと国民が苦しい生活を強いられているのだから、せめて官吏の減俸という姿勢を示さなければ、政府への国民の反発がますます高まると考えたのかもしれない。
 また、蔵相の井上準之助がいうように、率先して官吏が減俸に甘んじることによって、国民が節約意識を高め、緊張して経済的苦難に立ち向かう雰囲気が生まれると思ったのかもしれない。
 だが、そうした政府のがまん政策は裏目に出る。政府への反発はむしろ高まっていた。それが爆発したのは、本土から遠く離れた満州においてである。
 歴史家の半藤一利によると、満州の制覇を構想したのは、関東軍作戦参謀の石原莞爾(かんじ)だった。石原は世界最終戦はアメリカとの持久戦になると考え、日本がそれに勝利するためには満州を拠点にして国力を高めなければならないと思っていたという。
 石原の案を受けて、1931年(昭和6年)6月、参謀本部は「満蒙問題解決方策大綱」を作成した。当時、すでに日本国内では「満蒙は日本の生命線」という言い方が定着するようになっていた。
 陸軍が目指したのは満州を日本の植民地にすることである。だが、いきなりは無理なので、当面は満州を独立国にし、そこに親日政権を打ち立てることを目標とした。
 昭和天皇は早くから満州での軍の不穏な動きを憂慮していた。6月にはいると、天皇は側近のアドバイスを受け、若槻内閣の陸相、南次郎に軍規を引き締めるよう命じた。首相の若槻にも満蒙問題については日中親善を基調にするようにと話している。満州でことをおこすなと示唆したのである。
 ところが、6月27日に中村震太郎大尉がスパイ容疑で中国軍に殺され、7月2日に中国人と日本人が衝突する万宝山事件が発生すると、日本国内では満州での軍事出動を促す声が高まっていく。
 政府は万一の事態が発生するのを恐れ、満蒙の問題は軍が先走らず、外務大臣に任せるよう、何度も南陸相に釘を差した。南はそれに従うような素振りを見せながら、そのかたわら関東軍の方針を是認し、9月28日の謀略実施を認めていたという。
 8月1日には本庄繁が関東軍司令官に任命された。8月中旬、関東軍の高級参謀、板垣征四郎が上京し、永田鉄山軍事課長、岡村寧次(やすじ)補任課長、今村均作戦課長、建川美次(よしつぐ)作戦部長と極秘会談をもち、作戦を綿密に打ち合わせている。
 その作戦は単純そのもので、満鉄の線路を隠密裏に爆破し、それを中国軍(奉天軍)のせいにして、関東軍が出動するというものだった。
 ところが、いざ実行という段階になって、南陸相が急に慎重になった。9月14日、南は関東軍に思いとどまるよう説得するため、建川作戦部長を満州に派遣した。
 作戦中止を勧告するため建川がやってくることを知った関東軍の板垣征四郎や石原莞爾は決断を迫られる。そして、いったんは中止を決意するものの、むしろ、ここまで来たらやってしまおうという空気が強くなり、9月28日の予定を18日に早めることにした。
 すでに実行部隊は奉天郊外の柳条湖で、いつでも爆薬を仕掛けられるよう待機していた。思いとどまるよう説得にきた建川が奉天の料亭で接待を受けているさなかの9月18日午後10時20分、柳条湖付近で鉄道が爆破された。
 その情報がはいると、鉄道爆破は中国軍によるものだとして、関東軍はただちに出動し、張学良軍が本拠としている奉天城および郊外の北大営を攻撃、占拠した。このとき張学良は北平(北京)に滞在していた。
 柳条湖事件勃発にさいし、政府はあくまでも不拡大方針で臨んだ。
 ところが、いったん動きはじめた軍の勢いは止まらない。
 9月19日には奉天につづき長春、21日には吉林が占領される。この日、林銑十郎が率いる朝鮮軍が鴨緑江を越えて、天皇の許可がないまま満州にはいった。ほんらいなら統帥権干犯となる朝鮮軍のこの単独行動を、政府は閣議で事後承認せざるを得なかった。
 こうして満州事変は拡大していく。10月8日には張学良政府の所在地である錦州が爆撃され、11月19日にはチチハル、翌1932年2月5日にはハルビンが占領された。そして3月1日には満州国建国が宣言されることになるのである。
 こうした電光石火の動きをみて、朝日新聞や東京日日新聞など、それまで軍に批判的だった新聞は、手のひらを返したように軍を全面的に応援し、民衆の好戦的意欲をあおるようになった。
 立花隆はこう書いている。

〈満州事変というと、あの広大な満州の片すみで起きた小さな戦火のような気がするかもしれないが、それまで遼東半島の先端部の租借地(旅順、大連)と満鉄の付属地の管理権しか持っていなかった日本が、小さな爆破事件(実は関東軍特務の自作自演の陰謀)を口実に、一挙にいまの日本本土の三倍という広大な土地を電光石火の作戦で手中にしてしまったという一大軍事作戦なのである。そしてそこに、アッという間に、日本の手で新しい国家を作りあげてしまったが、その国家は、政治も経済も軍事もすべて日本が完全コントロールする人工国家だった。事実上、日本の満州領有がなされたのである。〉

 こうして世界恐慌の波が収まらないなか、日本は戦争という一見勇ましい突破口を選択したのである。

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