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竹下政権とリクルート事件(1)──大世紀末パレード(20) [大世紀末パレード]

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 冷戦が終わろうとしていたころ、日本の政治はどうなっていたのだろうか。そのとき首相はだれだったのか。そんなことがふと気になった。いくつかの本を読んでみる。
 まず名前が挙がるのが竹下登(1924〜2000)である。1987年11月から89年6月まで1年7カ月にわたって首相を務めた。そのあとは宇野宗佑の69日、海部俊樹の203日となるが、いずれも長くつづかなかった。自民党政治にガタがきていたのだ。
 中曽根康弘が退陣したあと、本格政権になると思われた竹下政権が意外にも短命だったのは、リクルート事件が発覚したからである。そのため、竹下は早々と身を引くが、退陣後もその影響力は絶大で、後継の宇野、海部、小渕の3内閣も、いわば竹下が選んだ内閣だった。
 竹下登は気配りの政治家で、その政治手法は調整型といわれた。調整型というのは、受け身であり、問題解決にたけているということでもある。実際、アメリカとの経済摩擦を調整し、長年の課題だった消費税導入に成功したのは、竹下の功績といってよいだろう。
 だが、長大な国家ビジョンがあったわけではない。あったとすれば「ふるさと創生」くらいだろうか。
 本人もあるインタビューで、「日本というのは、しょせん、ビルの谷間のラーメン屋みたいなものだ」と語っている。東西両陣営に囲まれて、そのなかをうまく立ち回って生き残る方策をみつけるのが、日本の政治のありようだと考えていた。
 竹下は中国山地の麓、島根県掛合町(かけやまち、現雲南市)に生まれた。家は大地主で、酒造も営んでいた。早稲田大学商学部で学び、在学中に結婚した。召集され、内地の部隊を点々としているうちに、大津で終戦を迎えた。だが、そのかん、掛合町の家にいた妻が自殺するという悲劇に見舞われている。親戚の娘と再婚するのは、復員してまもなくのことだ。
 復学した竹下が早大商学部を卒業したのは1947年(昭和22年)9月。政治を志し、国会の傍聴にもよくでかけるようになっていた。卒業後は東京で新聞記者になろうとも考えていた。
 だが、知り合ったある代議士から、政治家になるなら、郷里に戻って、地元の青年をまとめて県会にでて、それから国会をめざせ、とアドバイスを受けた。ただし県議は1期だけにせよというのが、その代議士の忠告だった。
 こうして、竹下は故郷に戻ることにした。
 戦前は大地主だった竹下家には、ある意味、政治の素地があった。父親は村の「名誉村長」だったし、島根県議会議員も務めていた。隣村の田部長右衛門(たなべ・ちょうえもん、朋之)を「ダンさん」と呼び、あおいでいた。
 田部家は出雲の大富豪で、日本の三大山林王のひとりとして知られていた。その当主は、戦時中の翼賛体制のもとで衆議院議員を務めていたし、戦後は1959年に島根県知事にもなっている。
 家庭環境が政治へのあこがれを育んだことはまちがいだろう。政治家になれるだけの基盤も用意されていた。それ以上に、政治家になりたいという熱烈な思いが竹下を揺り動かしていた。そのためにはまず仲間、すなわち支援者をつくらなければならない。
 竹下は掛合中学校の教員をしながら、地域の青年団を組織する。青年団長として、模擬国会やのど自慢大会を開いたりもしている。
 そして、時を見計らって、1951年(昭和26年)の島根県議会選挙に立候補し、初当選する。もちろん青年団の支援と、大富豪、田部家の了承を得てのことである。このとき27歳。
 だが、県議会議員はとっかかりにすぎない。県議を務めたのは2期だけで、めざすはあくまでも国会議員である。
 県議会の活動そのものは熱心ではなかった。県議としておこなっていたのは、もっぱら人脈づくりである。県政の実力者、田部に下僕のように仕え、県幹部との関係を密にするよう努めていた、とジャーナリストの岩瀬達哉はいう。
 そのチャンスは1958年5月にめぐってきた。竹下は島根全県1区(当時は中選挙区制で定員5名)から新人候補として出馬し、トップ当選を果たした。亡くなった前衆院議員の後釜をねらって、田部の了承を取りつけ、早々と選挙活動を開始していたのだ。
 竹下はトップ当選を果たしたものの、公職選挙法違反の疑いで24人の逮捕者をだした。竹下自身はかろうじて議席を失わずにすんだものの、逮捕者の家族の面倒をみたり、裁判の弁護士費用がかさんだりして、選挙の後始末だけでも多額のカネが必要だったという。
 岩瀬達哉によると、この苦い経験から、竹下は何といってもカネをつくらなければならないこと、そしてカネをまくのは金庫番の秘書の仕事とし、代議士はいっさいあずかりしらぬこととするという事務所づくりの鉄則を痛感したという。
 政治には仲間づくりがだいじであり、仲間を広げるにはカネが欠かせないというのが、竹下を支える政治哲学だった。
 政策と金策は表裏一体だった。その両面の顔をもつ事務所を裏から支えたのが、竹下の初当選以来、会計を取り仕切った秘書の青木伊平だった。青木はリクルート事件のさなか、1989年4月に自殺することになる。
 岩瀬は「竹下王国の錬金術」にふれている。それは田中角栄の手法を踏襲したもので、「公共事業誘致型」と呼んでよいだろう。地元のために国から公共事業予算を引きだし、それを自派の県会議員や市会議員を通じて、後援会に名をつらねる建設会社に配分するというやり方だ。
 まさに利益誘導型の政治である。これにより地元の選挙基盤がより強化されることはまちがいなかった。
 だが、そういう手法が可能となるには、代議士本人が中央政界でより高いポストを得る必要があった。政界や官庁、財界に仲間の輪を広げていくには、本人の実力もさることながら、相当の気配りと資金力が求められただろう。もちろん、そこには大きな落とし穴も待ち受けていた。
 34歳で初当選したときに竹下が最初に入門したのは、造船疑獄で評判の悪かった佐藤栄作が率いる佐藤派だった。地元の実力者、田部長右衛門に連れられて、佐藤のもとを訪れたという。
 この選択はまちがっていなかった。佐藤はまもなく池田勇人を継いで総理となり、長期政権を築くことになる。
 竹下は地元で当選を重ね、政界でキャリアを積んでいった。1971年には第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣した(このとき48歳)。
 その後の政界での歩みは順調だった。1974年には田中角栄内閣の官房長官、76年には三木内閣の建設大臣、79年には大平正芳内閣の大蔵大臣、81年には自民党幹事長代理となっている。82年には中曽根康弘内閣の大蔵大臣、86年には自民党幹事長に就任した。
 自民党幹事長に就任する前、竹下は田中派を離脱し、86年7月にみずからの政策集団「経世会」を結成している。そして、87年10月、退陣する中曽根首相から、自民党総裁後継者として指名されるのである。
 こうして1987年11月に竹下登内閣が発足した。党三役の幹事長に安倍晋太郎、総務会長に伊東正義、政調会長に渡辺美智雄をそろえ、副総理兼大蔵大臣に宮沢喜一に据え、官房長官に小渕恵三、官房副長官に小沢一郎を配するなどした鉄壁の布陣だった。
 ところが、中曽根が竹下を後継に指名するにあたって、じつは以前から右翼団体、日本皇民党による執拗な竹下攻撃がつづいていた。
 そのやり口は「ホメ殺し」と呼ばれるものだ。皇民党事件が発覚するのは5年後の1992年(平成4年)のことだが、竹下政権のとき、この事件はまったく報道されていなかった。
 田中角栄は竹下が勉強会といつわって、派閥内に「創世会」(のち「経世会」と改称)をつくり、事実上の新派閥を発足させたことに憤りを覚えていた。
 皇民党はそれにつけこむ。十数台の街宣車をつらね、連日、都内を連呼して回った。「竹下さんは日本一カネ儲けがうまい政治家だ。竹下さんを総理大臣にしよう」
 竹下にたいする嫌がらせである。右翼団体が竹下とつながっているかのようにみえるのは、はなはだ都合が悪い。中曽根も「右翼の活動も抑えられないようでは、後継者に指名できない」と言っていた。
 困り果てた竹下は何とかして皇民党の活動をやめさせようとするが、なかなかうまくいかない。そこで、党副総裁の金丸信が東京佐川急便の渡辺社長を通じて広域暴力団稲川会の石井会長にはたらきかけ、皇民党の稲本総裁とのあいだで話をつけてもらった。
 その結果、条件つきで皇民党による竹下ホメ殺しは中止されるが、東京佐川急便の渡辺社長は、石井に要請されるまま稲川会の関係団体に総額400億円以上の融資や債務保証を実施するはめになったという。
 事件にはまだ奥がありそうだ。岩瀬達哉は佐川急便の佐川清会長の関与を示唆している。佐川会長は佐川急便が大きくなったのは田中角栄のおかげであり、その田中を裏切った竹下は許せないといっていたそうだ。さらに渡辺社長が竹下を後ろ盾にして佐川急便を乗っ取ろうとしているのではないかと疑っていたともいう。
 だが、ここまでくると事件はまさに闇の奥である。
 一枚めくると、まさに政治とカネのドロドロの世界が広がっていた。
 そして、リクルート事件が幕を開ける。

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