SSブログ

価格論──メンガー『一般理論経済学』を読む(6) [商品世界論ノート]

81hf5K249kL._AC_UL320_.jpg
 価格が労働量、あるいは生産費を根拠にしていると考えるのは誤謬である。価格を論じるさいに重要なのは「経済活動を行う人々が自分たちの欲望を可能なかぎり完全に満足させようと努力することから、どのようにして、実際にも、諸財を、しかもその一定数量で、交換しあうようになるかを示すことである」とメンガーはいう。
 価格はあくまでも、各自が自分たちの欲望を満たそうとしておこなう交換のプロセスから生じるというのがメンガーの考え方だといってよい。そのプロセスを、かれは単純な形態からはじめて、複雑な形態へと拡張することによって、価格の形成を説明する。
 まずは1対1での交換の場合だ。
 たとえばAとBの農民がいて、ふたりのあいだで財(たとえば小麦とワイン)の交換がなされる場合を考えてみよう。そのときは、両者のあいだで駆け引きがなされ、80単位から100単位のあいだの小麦なら40単位のワインと交換してもよいという範囲がおのずと決まってくる。
 その範囲内で、両者はお互いにできるだけ多くの経済的利益を得ようとする。そこで、たとえば平均をとって、90単位の小麦と40単位のワインとが交換されるという結果になる。もちろん、駆け引き次第で、90単位ではなく、95単位あるいは85単位で取引が成立することもありうるだろう。
 次は1対1の交換ではなく、買う側も売る場合も多数の場合である。しかし、一挙に複雑にしないで、まず簡単なケースとして、買う側が多数で、売る側が1人の場合を想定してみよう、とメンガーはいう。
 たとえばAの馬1頭をめぐって、農民B₁とB₂が競いあうとする。馬を購入するとしたら、B₁は小麦80単位までならだせると考えており、B₂は小麦30単位までならだせると考えている。すると馬の価格は小麦30単位と80単位の範囲で形成されることになる。この場合は、ひとりだけではなく、2人の競争者によって価格の範囲が設定されるわけだ。
 さらにここにB₃という競争者が現れ、かれは小麦70単位ならだそうというとする。すると、価格の範囲は変わって、70単位と80単位のあいだになる。また90単位をだすという新たな競争者B₄が登場すれば、馬の価格は80単位から90単位のあいだにはねあがる。こうして馬の価格は決まってきて、もっとも有利なかたちで売られることになる。
 ここでメンガーは独占者が売る馬を何頭ももっていて、これを買おうとする農民が何人もいる場合を想定する。農民はそれぞれ馬をほしいと思っていて、その値段として自分はこれだけの量の穀物ならだせると考えている。この場合、馬の価格はどのようにして決まるのだろうか。
 メンガーが示している経済ゲームの細かい推移は省略する。結論からいえば、こうしたケースには、どういう事態が生じるかをメンガーは次のように説明する。

〈われわれがそこに見るのは、市場にもちだされた独占財の諸数量をめぐって、交換能力にきわめて差異のある諸階層の住民が競争している様子である。また先に、一人ずつの諸個人を想定して提示した場合とまったく同様に、交換能力の優る階層が交換能力の劣る階層を、問題の財の交換から経済的に排除する様子も見られる。さらに、市場にもちだされる独占財の数量が少なくなればなるほど、独占財の享受を断念しなくてはならない住民の層がそれだけ多くなり、また逆に、この数量が増大すればするほど、交換能力の劣る住民諸階層の間にも独占財が入りこむのであり、こうした現象と平行して独占財の価格が上下する、そうした様子を、われわれは見るのである。〉

 生産が独占されていても、財を求める人が多くいて、それに応じて大量の財が売りにだされれば、一単位あたりの財の価格は低くなることが示されている。もちろん、それとは逆の選択がなされることもある。
 とはいえ、通例、価格はせりの結果によって決まるわけではない。財の独占的保有者が、あらかじめ特定の価格をつけておくのが一般的だ。その価格にもとづいて、諸個人は財を購入するかいなかを決定し、それに応じて販売量が決まることになる。
 独占者があまりに高い価格を設定すると、購入者を排除してしまい、経済的交換の可能性はなくなる。比較的に高めの価格設定も、多くの人を経済的に排除することになるだろう。逆に独占者が価格を低く定めれば、財を需求しようとする人の数は増える。
 すると、財の独占者はどれだけの価格でどれだけの量の財を出荷すればいいかという問題がでてくる。
独占者は大量の財を売りにだしながら、高い価格を実現することはできない。また高い価格を維持しながら、大量の財を販売することもできない。
 そこにはおのずから経済法則がはたらく。
 独占者の利点は、供給面において他者との競争にわずらわされないで、財の数量と価格を調整しうることだ、とメンガーは書いている。

〈彼は、出荷する独占財の数量を多くしたり少なくしたりすることによってその価格を、あるいは、価格を高めに設定するか低めに設定するかによって独占財の売却される数量を、それぞれ彼の経済的利害関心にしたがって規制することができるのである。〉

 独占者がそうした調整をおこなう目的は、最高の収益を挙げるためである。そのためには、予想される販売量にもとづいて価格が設定されなければならない。たとえ販売量が減っても価格を挙げたほうがもうかる場合もあるし、逆に価格を下げて販売量が増えたほうがもうかる場合もある。また最初はできるだけ価格を高く設定して、販売量が増えるにつれて価格を安くしていく方法も考えられる。
 だが、いずれの場合も目標は最高の収益を挙げることである。価格を下げて販売量が増えても、かえって収益が減ってしまうようでは元も子もない。
 こうした経済行動は、独占者がすでに支配している財を売る場合だけではなく、これからどれだけの財を生産するかを決定する場合に、とりわけ重要になってくる。より多く財を生産しても、それによって価格が下がり、逆に収益が減ってしまうのでは何の意味もない。
 そのため、独占者は次のような行動をとる。

〈独占者は価格の高低を定めたり、売りに出す独占財の数量の大小を調節できるとはいっても、彼の経済的利害関心に完全に適うのは、特定の一点に価格を定めることだけ、ないしは特定の一数量の独占財を市場に出すことだけである。したがって、独占者は、いやしくも経済活動を行なう主体であるかぎりは、価格形成に関しても、あるいは売りに出される独占財の数量に関しても、恣意的に行動するのでは決してなく、一定の諸原理にしたがって行動するのである。〉

 経済社会では、こうした独占者はけっして例外ではない。メンガーはたとえばオランダの東インド会社を例に挙げているが、どの地域でも独占的な経済主体は存在するのであって、「独占はまさに競争にとっての自然的先行者」なのだという。
 とはいえ、経済が発展するにつれて、独占が競争へと発展していくのは自然の成り行きであって、そうなると「競争の登場が、財の配分、販売量、商品の価格におよぼす効果」を研究することが次の課題となってくる。
 そこで、供給側に経済競争がある場合が論じられることになる。ここでは「一財を獲得しようとする多数の競争者が、供給の側の多数の競争者と向かいあっている状態」が想定されているわけだ。
 このときはどのような経済的法則がはたらくのか。
わずらわしいので、要点だけをいう。
 メンガーは商品を供給するのが、独占者であろうが、多数の競争者であろうが、商品が一定の価格で出され、一定の量が販売されること自体は、何ら変わりないと述べている。
 しかし、供給側に競争者がいる場合は、明らかに価格にも販売量にも影響がでてくる。いちばん大きなちがいは、独占者が価格と供給量を単独で決定できるのにたいして、生産側に競争者がいる場合は、価格にしても供給量にしても、たとえ個々に決定がなされたとしても、その決定は競争の影響を受けざるをえないということである。

〈個別生産者の誰も、価格ないし財の交易数量を規制する力を、独立に手にしていないという競争の状態のもとでは、ごく小さな利潤ですら個々の競争者にとっては望ましいものであって、したがってこうした利潤を得る機会が長い間みすごされることは決してない。したがって、競争は、薄利多売への傾向をもち、高度の経済性をそなえた大規模生産を促進する。〉

 さらに重要なことは、競争が商品の大衆化をもたらし、それによって社会を前進させる効果をもつことだ、とメンガーはいう。

〈どのようなものであれ真の競争の登場は、売却目的のために支配可能な財数量の全体が実際に売却されるという効果をもたらすだけではない。真の競争の登場はさらに、この財数量自体をかつて以上に増大させるのである。つまり、競争は、生産手段に自然的制約がないとすれば、価格の低下によってますます多くの社会諸階層を問題の財の消費に参加させるだけでなく、支配可能数量を増加させて、この財の社会にたいしての供給をそれだけ完全なものにするという前進的な成果をも、もたらすのである。〉

 ここでは自由な経済競争が、大衆レベルまで商品の購買層を広げ、社会全体の進歩をもたらすというオーストリア学派の考え方が示されている。

nice!(9)  コメント(0) 

nice! 9

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント