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昔をたどる旅にでかけよう [くらしの日本史]

 ものごとはきりがないのだけれど、近ごろ感じるのは、案外自分が日本の歴史を知らないなということである。少し勉強してみようと思って、本棚に眠っている本を取りだしてみることにした。
 とはいえ、歴史といっても、その射程距離は長いし、何を論じたらいいかも茫漠としている。まずは近世以降から昭和のころまでに焦点をしぼることに。そして、考えてみたいのは、日本人がいったいどういうくらしをしていたのか、ということである。
 昔、ロンドンでポール・ジョンソンと会ったとき、かれは何かを知りたいと思ったら、ともかく書いてみるのがいちばんだ、と勧めてくれたものだ。
 ひまつぶしといえば、そうなのにちがいないけれど、本棚の本を整理しがてら、ときどき図書館の本なども借りて、日本人のくらしに思いをはせてみたい。気ままな書き物である。

 宮本常一は『ふるさとの生活』のなかで、山のなかには、ほろびていった村がたくさんあると書いている。
 はじめは夏だけ焼畑をしていたのが、だんだん奥に出づくりをして、しらぬまに山のなかに村ができて、こんどはそれが住みにくくなって、逆に消えていったこともあったろうという。
 冬の雪や大水、山崩れ、地震、津波、火山の噴火も村を消滅させる原因だった。日本は天災や地変の多い国だった。
 それに50年に一度くらいは饑饉がやってきた。江戸時代では享保、天明、天保と3度も大きな饑饉があった。その都度、村は消え、別の場所へと移っていった。
 人はずっと同じところに定住していたとはいえない。
 それは自分の経験からも理解できる。
 なかには山を渡っていく木地師もいたし、砂金をとったり、木炭を焼いたりしながら移っていく集団もあった。
 宮本によると、姓をたどると、だいたいどの地方の出身かわかるという。菊池は九州熊本の一族で、それが全国に広がった。鈴木はもともと熊野の社の神職だった。斎藤、工藤、菅原などという姓にも由来がある。姓の分布は、人の移動のさまを示している。
 人は命令によっても移動した。古代、高麗の人びとが政府の命令で東国に移住したことはよく知られている。豪族が都に呼び寄せられることもあった。
 武士が城下町に集住するのは江戸時代になってからである。大名が国替えになれば、武士もまた地方に移っていかねばならない。
 山村で平家の落人村といわれるのは、たいてい戦いで敗れた武士のつくった集落だ。山伏のつくった村もあったし、狩人が拠点とした村もあった。
 漁民はかつて漁をしながら、あいた土地をみつけて、どんどん移っていった。紀州和歌山の漁師は、ほうぼうに出かけ、房総の九十九里にも住み着いている。アマも移住しながら、全国に広がった。漁師はひとところに住んでいたわけではなく、次々と移り住みながら村をつくっていったのである。
 三内丸山にせよ登呂にせよ、集落はじつに昔から存在していた。
 何ごとにもはじまりはある。集落は人と土地が結びつくことによって成立する。しかし、それは流動的であり、滅んだり、生まれたりしながら、村や町へと発展していった。
 ところで、ぼくが生まれ育った播州の高砂(兵庫県)は、1601年(慶長6年)に、姫路城主だった池田輝政によってつくられた町である。古くから知られた高砂は、もともと加古川の東岸にあった。それを池田輝政は、西岸に移して、米や木材などの集積地とした。だから、この町の歴史は意外とあたらしい。
 いっぽう、いま住んでいる船橋は、江戸時代、船橋宿と呼ばれていた。西から海神村、九日市村、五日市村と並んでいた街道沿いの宿の総称が船橋宿である。
 海神村、九日市村、五日市村という村の名前からは、昔から漁業や市が盛んだった様子が伝わってくる。船橋宿は、いまの地名で言えば、海神、本町、宮本(船橋大神宮)へとつづく道沿いに立ち並んでいた。
 江戸から成田に向かう成田街道(もともとは佐倉道と呼ばれていた)の宿場町である。ずいぶんにぎわっていたらしい。
 あのころの船橋はどんなふうだったのか、いまでは想像もつかない。
 村や町にはそれぞれ由来がある。
 昔をたどる旅は、けっこうミステリアスだ。
 引きつづき、宮本常一の本を読んでみる。

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