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「炭焼日記」から(1) [柳田国男の昭和]

《連載112》
 1958年(昭和33)に『炭焼日記』というタイトルで公表される日記には、1944年(昭和19)と45年(昭和20)のできごとがつづられている。敗戦前後の貴重な歴史的記録といってよいだろう。
 この時期、柳田国男はどういう暮らしをしていたのだろう。「定本」で280ページ以上にわたる日記を一度に紹介するわけにもいかないので、とりあえず、ここでは1944年前半のできごとを紹介しておくことにする。
 1月1日から3日まで家族や孫たち、親戚、木曜会のメンバー(橋浦泰雄、大藤時彦)がやってきて、にぎやかな正月を迎えたのはいつもどおりだ。成城の自宅の庭には、オナガが多く集まっていた。
 元旦の9時に、いきなり「隣の長岡君やや酔いて来る」とある。長岡君というのは長岡隆一郎のこと。内務省都市計画局長のあと、警視総監を務め、当時は貴族院議員で、近所に住んでいた。国男とはうまがあったらしい。のちに国男はこの長岡から、終戦の情報を早めに知らされることになる。
 忘れてならないのは、現実の政治にかかわっていないにもかかわらず、国男と政官界(時に宮中)とのつながりが、意外としっかりしているということだ。
 2日には文化人類学者、石田英一郎がやってきて、昼から夕方まで滞在し、「近日、蒙疆(もうきょう)に向かって立つという」。石田は蒙古善隣協会西北研究所所長に就任し、内モンゴルに近い張家口へ向かうところだった。嘱託や所員には、今西錦司、梅棹忠夫、中尾佐助など、錚々(そうそう)たるメンバーが集まっていた。
 3日は『資本論』学者、櫛田民蔵の遺子、克己がやってきて、「蒙古を研究」しているという。櫛田克己は戦後、朝日新聞の学芸部主任となり、大佛次郎が『天皇の世紀』を執筆するのを支えたことで知られる。
 かわいそうなのは孫の赤星隆子だった。母の千枝(国男の次女)が3年前になくなり、さびしいのか、よく祖父母や叔母の家、つまり柳田家や堀(一郎)家にとまりにきていたようだ。
 雪や雨になったり、かぜをひいたりしないかぎり、毎週水曜日に郊外に出て、長い散歩をする習慣は変わらなかった。1月から6月にかけては、生田、登戸、長沼、柿生、調布、三輪村(三輪緑山)、南多摩、国立、仙川、蘆花公園、狛江、向丘などの周辺をよく歩いた。武蔵野をめぐったのである。
 成城の柳田邸に集まって、弟子たちと定期的に談話する木曜会も原則として月2回つづけられている。ただし、会員の都合で、開かれるのは日曜日のことが多くなっている。いつも全員が出席するわけではないが、いまのメンバーは、橋浦泰雄、大藤時彦、関敬吾、倉田一郎、和歌森太郎、大矢真一、萩原龍夫、山口貞夫、今井武志、瀬川清子、丸山久子、能田多代子、池田弘子などで、常時十三、四人が出席していた。それに娘の三千子と婿の堀一郎が加わったり、出版社の編集者が顔を出したりすることもある。
「民間伝承の会」の発行する雑誌「民間伝承」は、木曜会の橋浦泰雄が編集長になって、毎月遅れることなく発行されていた。
 大勢の人が出入りして、柳田邸はいつもにぎわっている。
 親族や弟子たちは別として、日記に記録された人たちのことを、もう少し整理して、紹介しておくことにしよう。
 前述したように、ひとつのグループは、政界や軍部とも縁の深いたちだ。
 たとえば山梨勝之進。亡弟、松岡静雄の海軍兵学校時代の同期生で、海軍大将となり、当時は学習院長を務めていた。静雄の息子、磐木(戦後、法政大学教授)の媒酌人を買って出た。3月1日に国男の家を訪れている。
「山梨勝之進大将、学習院生徒の勤労奉仕について来たという。戦局の話など意見を聞かるる」とある。何が話しあわれたかはわからない。
 松本蒸治もやってきた。「松本蒸治君来、久しぶりなり。共に中川健蔵君の家に見まいに行く。……松本君とそこらを20分ほどあるいてわかるる」(3月3日)
 松本は第一高等中学校時代からの友人で、ともに農商務省にはいり、農政改革に努力した仲間だ。国男と同じような経歴を重ね、斎藤実内閣では商工大臣を務めた。戦後、幣原内閣の国務大臣として、憲法改正にたずさわり、「松本私案」を提出したことで知られる。
 見舞いに行った中川健蔵は元台湾総務長官で、6月末に亡くなる。「中川健蔵君死去の報を新聞で見てびっくりする。昨夕電信柱に中川家へ道しるべの紙がはってあったのにも思いあたる。早速弔問」(6月28日)とある。
 村上啓作は陸軍中将で当時、第39師団長だった。「不在中、村上啓作来訪、8月にはやめてくるという話」(3月22日)。村上の妻、晴は陸軍中将、木越安綱(きごし・やすつな)の娘で、国男の妻、孝の姪という関係になる。しかし、日記の8月に退役するという話は取りやめとなり、村上はこの年11月に第3軍司令官を拝命する。そして、戦後、シベリアに抑留され、ハバロフスクで病死することになるのだ。
 川西実三の名前もある。「川西実三氏来訪、女性叢書3冊を贈る」(4月3日)。川西は内務官僚で、労働問題の権威として知られ、京都府知事や東京府知事を務め、戦後は日赤社長となる。当時は、東京府知事をやめてから、少したったころだ。国男とはおそらくジュネーヴ時代に知りあったのだろう。
「高木正順来、賢所(かしこどころ)供物の絹分与」(4月9日)とあるのは、何を意味するのだろう。内情がよくわからない。
大蔵公望も登場する。「大蔵公望君、成城へ昨日疎開したりとて、挨拶に玄関まで。中川健蔵君長男宅隣、細君は姉妹のつづきのよし」(4月17日)。大蔵は鉄道院出身で、満鉄理事となり、当時は貴族院議員。矢次一夫と国策研究会をつくり、東亜研究所副総裁となっていた。


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