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『始まっている未来』(宇沢弘文・内橋克人)を読む(2) [本]

つづきを書こうと思いつつ、のびのびになってしまった。やっぱり、ちょっと荷が重いのかなと思いつつ、これはいかんと思い直す。
本書のもとになった対談は、ことしの春から夏にかけて、つまり麻生政権末期におこなわれた。出版されたのは鳩山民主党政権が誕生してからだ。
ジャーナリストの内橋克人と経済学者の宇沢弘文との息はぴったりあっており、内橋が宇沢から議論を引っ張り出し、時にその議論を具体例で補足するという役割を果たしている。ほとんど認識を共通する論者どうしによる対談と考えてよい。これから本書の内容を紹介するときに、基本的にいちいちふたりの名前を挙げないのは、そうした背景があることをいちおうおことわりしておく。
第1回の対談には「市場原理主義というゴスペル」という大見出しがつけられている。2008年の恐慌をもたらした大きな要因が、市場原理主義という考え方だと著者は考えている。そこでまず1929年の大恐慌にさかのぼるところから、対談は始まっている。
1920年代半ばころから、アメリカではカネ余りによる投機が起こり、「フロリダの別荘用の土地に始まって、1次産品、石油、金、美術・骨董品、ありとあらゆるものが投機の対象」になった。そのバブルが膨らんだあげく、最終的にニューヨークの株式市場が暴落し、それが金融市場から実体経済におよんでいったのが、戦前の世界大恐慌だったといえるだろう。
これに対し、ルーズヴェルト政権は、金融機関への監督を強化するいっぽう、TVA(テネシー川流域開発公社)などをつくって社会的インフラの整備に政府の資金をつぎこんで、何とか経済を回復させようとした。
こうした政策を理論的に支えていたのが、ケインズの考え方だった。宇沢によれば、ケインズは「資本主義は基本的に不均衡であり、失業の大量発生、物価の不安定、とくにインフレーション、そして所得と富の不平等といった経済的な不均衡は資本主義に内在しているものだから、それを政策的、あるいは制度的に防がなければならないという問題意識」をもっていたという。ケインズは、資本主義のもとで、安定的な経済成長、完全雇用、「すべての国民が人間らしい生活を営むことができるような制度」を実現したいと願っていた。
ところが、これとは全くちがう考え方もあった。それがナイトやハイエクの唱えた「新自由主義」だという。新自由主義は世界大恐慌の中で生まれたというより、ナチズムや共産主義に対抗するために生まれた理念だったといってよい。
宇沢はその考え方を次のようにまとめている。
〈企業の自由が最大限に保証されるときにはじめて、一人一人の人間の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいて、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべての市場を通じて取引するような制度をつくるという考え方です。水や大気、教育とか医療、また公共的な交通機関といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場と自由貿易を追求していく。社会的共通資本の考え方を根本から否定するものです。パックス・アメリカーナの根源にある考え方だといってもいいと思います〉
新自由主義のもとでは、政府はほとんど市場に介入してはならないことになっている。むしろ企業が自由に活動することを容認し、さらにそれを促すのが政府の役割というわけだ。あとで、あらためて説明するつもりだが、社会的共通資本の形成を唱える宇沢が、新自由主義に反対する側に立っていることはいうまでもない。
この新自由主義をさらにエキセントリックに政策化していったのがフリードマンの「市場原理主義」だ。
フリードマンは「自由を守るためには、共産主義者が何百万人死んでもかまわない」と思っているような人物で、麻薬をやるのは本人の勝手、黒人が貧乏なのも本人の勝手と、何ごとにも規制緩和と自己責任を唱えていた。市場原理主義の立場からすれば、もうけるためには何をやってもいいことになる。
レーガン政権と、そのあとのブッシュ政権が、銀行と証券の垣根を取っ払い、超富裕層への減税を実施し、巨額の財政赤字と貿易赤字を埋めるため、国債や金融商品(それに組みこまれていたのがサブプライムローン)を日本などに押しつけていった背景には、無節操な市場原理主義の考え方が控えていた。
それだけではない。日本では嘆かわしいことに、バブル崩壊後、アメリカ流の「規制緩和万能論」が、たちまち政財界に受け入れられていった。その走りが、細川政権時代に中谷巌が中心になってまとめたいわゆる「平岩レポート」で、そこには「自己責任原則と市場原理に立つ自由な経済社会の建設」というきらびやかな文言が並んでいた、と著者は指摘する。
そこから生まれた政策が、派遣労働(正規・非正規社員の区別)、最低賃金の抑制、後期高齢者医療制度、郵政民営化、医療・農業・教育の「改革」などなどだった。つまり国の関与や規制をやめて、企業が勝手に商売できるような環境をつくれば、何もかもうまくいくという発想だった。その結果、何が起きたか。リーマン・ショックを引き金とする、平成大恐慌だったというのである。
ぼくには経済学はわからない。ただ思うに、経済学は科学というより、時代の雰囲気がつくった信念体系=社会思想のような気がしてならないのだ。その点では、マルクスもケインズもハイエクも同じだった。最後は処方箋(場合によっては手術)に行き着くという点で、経済学は医学と似ている。そして医術が生老病死を越えることができないように、いかなる経済術も絶対幸福を生みだすことはありえない。だから宗教というつもりはまったくない。共産主義にも救済はない。ただ、どこかに限界があることは、わかっておいたほうがいいと思うのだ。
へんな感想になってしまったけれど、カネに振りまわされている世界はどこかゆがんでいる。もちろんカネがなくては暮らせないし、カネさえあれば何でもできるというのもわからないわけではない。ただ、最近、世の中はますますそのような傾向が強くなって、人は自分が何だかそういう異常な世界にいることすら、実は認識できなくなっているような気がしてならない。恐慌はそのことを気づかせる機会となったが、人をそのアリジゴクに落としたのが、カネこそすべてと考えた市場原理主義だったことはたしかである。(つづく)

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