SSブログ

『北小浦民俗誌』とはどういうものか [柳田国男の昭和]

《連載165》
 そのころ(1949年4月)国男は『北小浦民俗誌』を刊行する。北小浦は佐渡島北東部、内海府と呼ばれる地域の中央に位置する、半農半漁の小さな村である。家は30軒ほどしかなかった。
 僻遠の村をあつかう民俗誌にしては、いささか奇妙な面をもっていた。国男自身は北小浦を一度も訪れていないのに、この民俗誌を書いた。そのこともあってか、北小浦自体については、さわり程度しか触れておらず、全体はむしろ民俗誌はかくあるべきだといった性格が強い本になっている。
 それには理由があった。
 ひとつに、この本は、佐渡の民俗を調査しながら、2年前に亡くなった弟子の倉田一郎の研究を受け継ぎ、かれを追悼したいという国男の思いから書かれた。さらにこの時期、民俗学研究所から「全国民俗誌叢書」を100冊ほど出版しようという計画が進んでいた。実際には2年間で7冊を出版した段階で頓挫するのだが、そのシリーズの劈頭を飾るのは、国男の作品であってしかるべきだった。
『北小浦民俗誌』は、こうしてあわただしく書き上げられたのである。「あとがき」には「昭和23年8月」とあるから、おそらくそのころには執筆が終わっていたのだろう。かつて佐渡を2度訪れたとはいえ、北小浦の現地調査をへていないこの作品が不十分なものであることは、国男自身が自覚していただろう。
 それでも、最初から失敗するのが目に見えていた、この民俗誌の大筋を紹介しておきたいのは、ここに未完の日本民俗誌に対する国男の接近方法をうかがうことができるからである。加えて、戦後という時代に、国男が民俗学によって、どういう方向を切り開こうとしていたかも、おのずとわかってくるような気もする。
 冒頭は北小浦の地誌から幕を開ける。
 佐渡北部には西側に外海府、東側に内海府と呼ばれる地方があり、このあたりでは漁業のほか、農業、牧畜業、林業が営まれている。しかし、そもそも「海府」とは、もともとアマベ、カイフなどと呼ばれる海人(うみびと)が開いた場所を指している。この地域では、村々の発祥が海を拠りどころとしていたことを、国男は示唆するのである。
 佐渡北部の気候はきびしいが、それでも内海府は外海府よりも少しは穏やかだ。海人が最初に定着したのはおそらく内海府であり、北小浦はその中央に位置し、古風な習俗を残している。ただし山がちで、農業にはあまり適していない場所だ、と国男は記している。
 内外府では春浅い3月からイソネギと称する小舟漁ができる。海女による漁はいまではほとんどおこなわれていないが、それでも漁に好適であることが、この地に海部(あまべ)をひきつけたのだろう。明治以降は魚油を海にたらし、ガラス箱を使って、魚をとるようになったけれども、昔は口にふくんだエサを海に吹きつけ、集まってきた魚を桙(ほこ)で突くという漁がおこなわれていた。
 アワビやタコをとる漁具(一種の鉾)には、それぞれ独自の工夫がこらされている。そうした漁具の発達は海部の歴史そのものだともいえる。イカ漁では釣り針が用いられるが、これもまた一種の「誘導漁法」だ。海府地方のイカ漁の仕掛けは独特で、なかなかの工夫がこらされている、と国男はいう。
 近年、漁はどんどん沖に向かい、佐渡でも延縄(はえなわ)漁がさかんになった。しかし、北小浦ではまだ延縄方式は発達しておらず、ナガシゴモのようにコモを浮かせ、集まってきたサンマなどを一斉にとらえる漁がおこなわれていた。
 漁村では、クジラやイルカは「エビス」の名で呼ばれていた。人々に海の幸をもたらしたからである。いまではエビスは福の神全般を指すようになった。そうなったのは、人々が次第に海から陸へと移動していったためだと、国男は考えていた。
 海にこぎだす舟にも変遷があった。舟をつくるには木材が必要だったことはいうまでもない。海で暮らす人々は、漁場だけを求めて移動していったわけではない。漁場と舟をつくる木材、この両方の適地を見つけて、次第に定住していったのだろう。

 ここで話は漁から離れて、陸でのくらしへと移っていく。
 村の生活は「自給経済」を基本としていたとして、国男はこう書いている。

〈いわゆる自給経済の論理は、存外に今までは追究せられていなかったようだが、日本のような国の実例について見ていくと、もとはその範囲のずっと汎(ひろ)いものであり、その根本の動機というべきものの、もっと深い所にあったことが心づかれる。平たい言葉でいうならば、ちょうどわが口で食べたものでないと、身の養いにならぬと同じように、わが手をもって造り出したものでなければ、これによって活きて行くことができぬというような考え方が、普通の人の中には行き渡り、それが一家とか一族とかいうものの結合に、大きな力を認めしめたものかと思われる。……ことに家の神を祀るには、家の田の米でないと上げたような気になれず、たまたま商品の酒や餅を供えるにも、鑚火(きりび)をかけぬと気のすまぬ人が今でもある〉

 村ではできるだけカネを使わぬ生活がつづいていた。それは単に質素倹約を指すのではなく、いわば神とともにある生活に商品世界がなじまないからでもあった。「自給経済」は経済の様式だけをいうのではなく、いわば生活スタイルの問題だったのだ。民俗誌が探るのは、商品世界以前の助けあいから成り立つ村の世界であり、村の発生と再生産(循環)にいたる道筋だ。そのことを国男は宣揚していたのではないだろうか。
 本の紹介に戻ろう。
 舟をつくるにあたっては、さまざまな儀礼や祝宴がおこなわれた。興味深いことに舟をつくるさいには、お産や死は忌避されず、むしろ喜ばれる傾向があったという。
 北小浦では漁業、林業のほかに牧畜もいとなまれている。牛には耳ジルシがつけられているが、これは所有を証明するというより、私有の喜びを示すためで、「私有財産制度の展開に随伴した新しい心理現象」ではないか、と国男は述べる。この記述にも「自給経済」への志向は濃厚だと思われる。
 村には発展のあとが刻まれている。
 現在、北小浦では農業が主で、漁業はそれを補完する程度となっている。コメをもたらしたのは新住者で、かれらは外海府の土地に余裕がなくなったあと、北小浦のある内海府にやってきたようだ、と国男はいう。そして海の民と婚姻を結んで、農作と漁業を生業とする村を形成したのである。
 北小浦の分家は、独立した分家ではなく、本家の庇護と保障を必要とする、もともとの分家の形態を色濃く残している。しかし村全体の軒数が増えていないことをみれば、外部への移転や家の再編成が多かったにちがいないと国男は推測する。耕地不足は分家を制限する要因となるが、北小浦では土地を分けずに、漁業を主とする「同地分家」というかたちもみられる。
 分家が広がる前の大家族制のもとでは、妻問い婚が一般的だった。新しい夫婦のための場所を確保するのは、なかなか困難だった。そのため母屋のまわりに仮小屋をつくるようになった。二代夫婦の同居は、そう古くからの形態ではなく、日本では仮小屋の生活が長くつづいたのである。村では、嫁入りを前提としない婚姻がむしろ一般的だった。
 佐渡の信仰生活は海と陸の形態が融合していると、国男は指摘している。エビスはもともと海の信仰にちがいなかったのに、「現在はすでに海から遠い農村にもエビスを富の神、利得の神とする言い伝え」がはいっている。
 最後に国男は佐渡では巡礼や遍路が盛んだったことを挙げ、佐渡全体が地域として、ひとつのまとまりをもっていたと述べ、佐渡の人々は「その点にかけては武陵桃源の民であった」としめくくっている。
「武陵桃源」という言い方がいかにも国男らしい。俗を離れた桃源郷として佐渡をみていたのである。
 以上、北小浦の記述がある部分を中心に要約してみたが、全体の論法は、むしろ北小浦自体より日本全国の比較におよんでいる。
 だが、国男はこうも述べている。

〈佐渡の海府の世に遠い一つの小浦に、私たちが興味を寄せ、これからもなお近づいて詳しく知りたいと念ずるわけは、ここが日本の海村の代表的な例でなく、従って住民自らが外を学んで、類推によって次第に理解しうるような、単純な成り立ちをもっていないからで、少しく誇張すれば日本という国の、世界における立場にも似かようた点がありそうなのに心をひかれるからである〉

 このややこしい言い回しは、いったい何をいわんとしているのだろうか。
 国男は日本という国が、西洋世界から類推して理解しうるような「単純な成り立ち」をもっていないことを強調しているかのようにも思える。
 一説によると、海人を論じた『北小浦民俗誌』は、のちの『海上の道』の序説であるかのようにとらえられることもある。たしかに、そういう面がなくはないだろう。
 だが、国男には、日本の起源を探ろうとする志向があるいっぽうで、脱商品世界の論理を築こうとする意識も強かったように思える。それが米軍占領下におけるひとつの抵抗のかたちであり、俗にあって俗を超える国男流の姿勢なのだった。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0