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宝貝のこと(1) [柳田国男の昭和]

《連載180回》
 第178回に大きな勘違いがあったので、訂正しておきたい。
『海上の道』の嚆矢となった論文を「海神宮考」としたが、これは間違いで、「宝貝のこと」が正しい。
 その初出は

「宝貝のこと」1950年10月(「文化沖縄」)
「海神宮考」1950年11月(「民族学研究」)

となる。
 資料をメモしたときにうっかりして、「宝貝のこと」の初出を1950年12月と書き写してしまったようだ。ほんらいは「海神宮考」の前に「宝貝のこと」に触れなければいけなかったのだ。読者の方におわびするとともに、今回は少し時間を戻して「宝貝のこと」について書くことからはじめたい。

 中国の古代、殷(紀元前17世紀ごろ〜紀元前1046年)や周(紀元前1046年〜紀元前256年)の時代に、コヤスガイ別名「宝貝」が貨幣として用いられていたことはよく知られている。その後、秦の始皇帝が幣制を統一したことにより、コヤスガイが貨幣として用いられることはなくなるが、財産にからむ漢字の多くに貝のつくりが使われているのは、古代、貝が貨幣として用いられていた証拠とされている。
 たとえば「貝」の字について、白川静は『字通』で、こんなふうに説明している。

〈象形。子安貝の形。子安貝は古くは呪器とされ、また宝貝とされた。……当時はなはだ貴重なものであった。子安貝の原産地は沖縄であったと考えられ、これを入手することはかなり困難であったらしく、殷・周期の装飾品には、玉石をもってその形に模したものが多い。のちの財宝関係の字は、多く貝に従う〉

 とうぜん殷の時代、あるいはそれ以前から、中国と沖縄とのあいだに宝貝をめぐる交易があったと推定される。しかし、コヤスガイが財宝だったのか、はたして貨幣として流通していたのか、またそうだとしても、その用途は現在と異なっていたのではないか。そんな疑問が残る。
 しかし、古代から現在までを通じて、沖縄がコヤスガイ(宝貝)の産地であったことは、まぎれもない事実である。
 宝貝の痕跡を、国男はまず沖縄の古謡『おもろさうし(おもろそうし)』のなかから、さぐろうとしている。
 最初に挙げられるのは、こんな歌だ。

  くめの島あつる
  つしやこかねわたちへ
  こしよわ(り)もののほせて
  あちおそいにみおやせ

 たぶん、さっぱりわからないだろう。
 現在では、この歌は次のように解釈される。

  久米島にある
  粒の金[磁鉄鉱]を船積みし
  首里の杜にお納めし
  王様に奉ろう

 国男がとりあげたのは、この歌にある「つしや」ということばである。かれはツシヤが「首にかける装身具」、つまり値打ちのある首飾りで、もともと宝貝をつないでつくられていたのではないかと推測する。
 最初の歌だけでは証拠が弱いと考えたか、国男は「おもろ」のなかから、もうひとつ別の歌を挙げている。それはこんな歌だ。

  旅立つあんや
  夏たなしやれは
  ツシヤの玉やれは
  首からもさわらん

 資料によって少し表記のちがいはあるけれど、同じく現代語訳を示しておこう。

  旅立つわたしは
  夏の晴着姿
  ツシヤの玉を
  首からかけましょう

 国男はほかにも「おもろ」から2首引いているが、それは省略してもいいだろう。むしろツシヤから、国男は本草でいう「ツシタマ」あるいは「ツス」を連想し、子どものころ「ズズダマ」(イネ科のジュズダマ)の実に糸を通して遊んだことを思いだしている。南島の海と播州の野が連結する瞬間だった。
 しかし、実際に沖縄で宝貝が祭器や貨幣として用いられた形跡はなかった。その理由を国男は宝貝が貴重な輸出品だったためだと考えていた。
 それにしても古代中国で宝貝はなぜそれほど珍重されたのだろう。
 国男はこう推測している。

〈かつて金銀のいまだ冶鋳(やちゅう)されず、山が照り耀(かがや)く石をいまだ掘り出さしめなかった期間、自然に掌上に取り上げられるものとしては、宝貝より目覚ましく、あでやかなるものはほかになかった。すなわち強力なる中原の王者は、万策を講じて遠い海からこれをたぐり寄せ、あるいはこれを無形の武器として、洪大(こうだい)なる地域を征服しえたのも、すでに悠々たる三千年以上の昔のことである〉

 王の威信を示す素材にはちがいないが、それでも宝貝の用途はまだ謎に満ちている。
 この項、もう少しつづく。

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