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柳田国男の誕生 [柳田国男の昭和]

《連載202回》
 柳田国男の回想記『故郷七十年』が、出身地の新聞「神戸新聞」で200回にわたって掲載されるのは、1958年(昭和33)1月8日から9月14日にかけてのことである。週にほぼ1度しか休載がないという勤勉ぶりで、1回の分量は400字の原稿用紙にして4、5枚というところだろう。口述筆記である。
『柳田国男伝』によると、朝日新聞時代の後輩、嘉治隆一や神戸新聞の記者を前にして、国男がみずからの思い出を語りはじめたのは、神戸新聞60周年の企画に応じたためだという。
 兵庫県出身の嘉治は、伊勢、大和を回った朝日新聞出版局主催の講演会で、国男に同行し、本人から「君とは共通の話題がだいぶたくさんあるようだから、いちどゆっくりぼくのいままでの経験話を聞いてもらおうかね」といわれたことがあった。その後、雑誌「心」の編集をまかされていた嘉治が、国男の談話をとったこともある。そうした機縁もあって、神戸新聞から依頼のあった自叙伝の企画へと結びつくのである。
 口述は1957年(昭和32)12月14日から翌年3月29日まで、週2回の割合で計25回、成城の柳田邸でおこなわれたという。話は長いときで5時間、短いときでも3時間、朝10時半から夕方5時までかかることもあった。国男はメモをみながら話し、ときどき嘉治が質問をはさんで国男が答え、それらを全部テープに録音して、鎌田久子が原稿に起こした。記事になる前に、国男が手を入れたことはいうまでもない。
 嘉治はそのときの様子を次のように記している。

〈[先生は]メモを見ながら、一つ一つの事項をまとめられますと、夢みるような目付きで部屋の窓や壁の上の方、天井に近いところなどを見やりながら、原稿を口述するような調子で、諄々と語られるのでした。いろいろの思い出談をうけたまわりながら、私は古事記を口授したときの稗田阿礼(ひえだのあれ)の昔を連想したりいたしました。
 翁はあくまで詩人でした。直感と空想力にすぐれ、そしてまた人並みはずれた記憶力、連想力、推理力の持ち主であったことは皆が認めるところでしょう。それに観察がシニカルであるとともにユーモラスで、聞く者のほうがほほえましくなるほどでした〉

 口述が実に和気藹々(あいあい)と途切れることなく進んだ様子がうかがえる。
 そして、めでたく1月8日からの新聞掲載となった。
 連載をはじめるにあたって、国男は読者にこう語りかけている。

〈神戸新聞はことし満60年を迎えるという話である。人間でいえば還暦というわけであろう。ところがはじめて私が生まれ故郷の播州を出て関東へ移ったのは、それより10年以上も古い昔のことであった。それから私の心身がだんだん育っていくにつれ、私の眼が全国的に広がり、世界中のことにも関心をひかれるようになったことに不思議はない。しかしそれでも幼い日の私と、その私をめぐる周囲の動きとは八十余歳のいまもなおまざまざと記憶にとどまって消えることはない。いつかそのころに筆を起こし、私自身の足跡とその背景とを記録するならば、あるいは同時代の人たちにも、またもっと若い世代の人たちにも、何かためになるのではないかというのが、かねてから私の宿志であった。
 幸いに時が熟したので、神戸新聞の要請をいれ、ここに「故郷七十年」を連載することにした。それは単なる郷愁や回顧の物語に終わるものでないことをお約束しておきたい〉

 ここには『故郷七十年』を連載するにあたっての国男の意気込みが語られている。「そのころ」、つまり生まれ故郷の播州を出たころから起筆して、「私自身の足跡とその背景とを記録」したいというのである。
 国男は13歳のときに故郷を離れた。故郷は離れたときに故郷となる。それから70年、だからといって故郷を忘れることはなかった。
 国男の最後の著書『海上の道』が日本人の起源をたどる物語だったとすれば、1959年11月に神戸新聞社から「のじぎく文庫」の1冊として刊行された自叙伝『故郷七十年』は、まさに国男が柳田国男の誕生をみずから語った遍歴譚にちがいなかった。そこには国男がいかにして柳田国男になったかが、何のてらいや自慢もなく、時にユーモアや皮肉をまじえながら淡々と述べられていた。
 いま、こころみに「定本」の年譜を参照しながら、昭和以前の国男の歩みを簡単にまとめておくことにしよう。便宜上、年は西暦にしてある。

1875年 兵庫県田原村辻川(現福崎町辻川)に松岡家の6男として生まれる
1883年 辻川の昌文小学校を卒業、北条(現加西市)の高等小学校に入学
1884年 一家は北条町に移転
1885年 高等小学校を卒業、辻川の三木家にあずけられ、読書にふける
1887年 上京、茨城県布川の長兄、松岡鼎のもとに身を寄せる
1888年 からだが弱いため学校に行かず、近所の小川家の本を濫読する
1890年 下谷区御徒町の兄井上通泰宅に同居、森鴎外宅に出入り
1891年 進学を決意、開成中学に編入学
1892年 松浦萩坪に短歌を学び、田山花袋と知り合う。
1893年 第一高等中学校に入学
1895年 『文学界』に新体詩を発表
1897年 第一高等学校(高等中学校を改称)卒業、東京帝国大学法科大学政治科に入学
1900年 東京帝国大学卒業、農商務省農務局に勤務するが、引きつづき大学院に籍を置き、早稲田大学で農政学を教える
1901年 柳田家に養子として入籍、許婚者となる孝は当時16歳
1902年 法制局参事官に任官、さかんに文学会を開き、旅行にも出る 内閣記録課の蔵書読みあさる
1904年 日露戦争、柳田孝と結婚
1905年 全国農事会(のちの帝国農会)幹事に 文学の集まり龍土会開く 
1907年 イプセン会 引きつづき各地を旅行、産業組合について講演
1908年 宮内書記官兼任 九州旅行で椎葉村を訪れる 佐々木喜善の話を聞く
1909年 『後狩詞記』を出版 東北旅行ではじめて遠野を訪れる
1910年 内閣書記官記録課長を兼任 『遠野物語』『石神問答』を出版
1911年 新渡戸稲造宅で郷土会(引きつづき自宅でも)
1912年 フレーザー『金枝篇』を読む 明治天皇大葬に奉仕
1913年 法制局書記官兼任 雑誌「郷土研究」を発行
1914年 「甲寅叢書」刊行 貴族院書記官長となり官舎に
1915年 長男、為正出生 大正天皇即位式に奉仕
1917年 「郷土研究」休刊 台湾、中国、朝鮮を旅行
1919年 貴族院書記官長を辞任
1920年 朝日新聞客員となる 佐渡、東北などを旅行 沖縄を訪れる
1921年 沖縄からの帰路、国際連盟の仕事をするよう要請され受諾 国際連盟委任統治委員となりジュネーヴにおもむく
1923年 委任統治委員を辞任 帰国
1924年 南島談話会 朝日新聞顧問論説担当となる
1925年 雑誌「民族」創刊

 華やかな履歴といわねばならない。
 以下、昭和にはいってからも含め、『故郷七十年』にはこれらのことが、ことこまかに語られている。それをざっと紹介するだけでも優に1冊の本になるだろう。
 そんなことはとても無理なので、以下は柳田国男の核とでもいうべきものに触れてみたい。それは、かれがいかにして柳田国男になったのかという物語である。

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