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スタンダール症候群 [旅]

2回前のブログで、「スタンダール症候群」について、まちがったことを書いていたので修正しておきたい。
〈スタンダールがフィレンツェやシエナのドゥオモや美術館をながめて、目がくらくらしたという逸話から、のちに「スタンダール症候群」という造語も生まれている〉というくだりです。
「フィレンツェやシエナのドゥオモや美術館をながめて、目がくらくらした」というくだりは嘘っぱちだった。ぼくの勘違いで、お詫びしておきたい。
スタンダールには『イタリア旅日記(1826年版)』(臼田紘訳、新評論)という著書があり、1817年1月22日にフィレンツェのサンタ・クロ−チェ(教会)を訪れたときの感動をこんなふうに書いています。

〈そこでは、扉の右手に、ミケランジェロの墓がある。もっと遠くに、カノーヴァによるアルフィエーリの墓がある。僕はこのイタリアの大人物の顔に見覚えがある。ついで僕はマキアヴェッリの墓を見つける。そしてミケランジェロと向きあって、ガリレイが眠っている。何という人物たち! そしてトスカーナはそこにダンテ、ボッカッチョ、ペトラルカを集めることだってできるのだ。何と驚くべき集まり。僕の感動はたいそう深かったので、それは敬虔な気持ちにまで近づいた。この教会の厳粛な暗がり、単純な骨組みの屋根、完成していない正面、これらすべてが僕の魂に強く語りかけてくる。ああ[カトリックの悪事]が忘れられるものなら! 一人の僧侶が僕に近づいてきた。肉体的な嫌悪に近いまでの反感の代わりに、かれに対して友情に近いものを覚えた〉

サンタ・クロ−チェ教会は多くの文化人の墓が教会内部にあることで知られます。スタンダールの挙げている人物については、とくに説明する必要はないでしょう。あえていえばアルフィエーリ(1749-1803)ですが、この人はスタンダールが尊敬した同時代の劇作家で、だから「見覚えがある」ということになります。その墓を新古典主義の代表的彫刻家かノーヴァが製作したわけですね。
おもしろいのは、スタンダールが教会のなかで感動にふけっているとき、カトリック(おそらくフランチェスコ会)の僧侶が近づいてきて、ふだんなら「肉体的な嫌悪」を覚えるのに、このときばかりは「友情に近いもの」を感じたと記しているくだりです。スタンダールはよほどカトリック、いや正確にいえば「僧侶」嫌いだったとみえます。
実際、この教会にはジョットのフレスコ画「聖フランチェスコの生涯」なども残っているのに、スタンダールはそんなものに目もくれず、ひたすらミケランジェロやアルフィエーリ、マキアヴェッリ、ガリレオ、ダンテなどとともにいることに、ひたすら感動を覚えているのです。
そして、こう記すのです。

〈僕は自分がフィレンツェにいるという考え、墓を見たばかりの偉人たちの近くにいるという考えに、すでに一種の恍惚状態であった。崇高な美を熟視することに没頭して、僕はそれを間近に見て、いわばそれに触れていた。僕は美術から受けたこの世ならぬ印象と興奮した気持ちが混じり合ったあの感動の頂点に達していた。サンタ・クロ−チェを出ながら、僕は心臓の動悸、ベルリンでは神経の昂ぶりと呼ばれるものを覚えていた。僕の生命は擦り減り、倒れるのではないかと心配しながら歩いた〉

これが後世、「スタンダール症候群」と呼ばれたものの原点です。つまりサンタ・クロ−チェで受けた感動によって、かれの心臓はドキドキし、めまいを起こして倒れる寸前だったわけですね。
フィレンツェでスタンダールは1週間ほど滞在していますが、「口がきけない深い感動(目は開いていたがしゃべれなかった)」を覚えながら、さまざまな場所をめぐっています。カルミネ教会、サンロレンツォ教会、リッカルディ宮、ヴェッキオ宮、そしてロッシーニの「セビーリャの理髪師」を上演するホホメロ(ココメロ)劇場、サンタマリア・デル・フィオーレ(つまり大聖堂[ドゥオモ])、ヴェッキオ橋、ピッティ宮……。
女性にたいする観察も怠っていません。

〈リヴォルノ門[実際にこの名の門はないらしい]の外に坐って、そこで長い時間を過ごしたが、僕は田舎の女性がとても美しい目をしているのに気づいた。しかしこれらの顔には、ロンバルディーアの女性たちがもっている愛情のこもった官能も情熱に感じやすい様子も何もない。諸君がトスカーナで決して見いだせないものは興奮しやすい様子である。しかし逆に、才気、誇り、理性、何かしら微妙に掻きたてるものが存在する。これらの百姓女の視線くらいかわいらしいものはない〉

スタンダール先生は何から何までフィレンツェにぞっこんのようです。カトリックの司教・司祭たちの横暴を除いては。
ところが、です。フィレンツェを出発し、シエナをへて、ローマに向かったスタンダールは、シエナについて、聞き捨てならない悪口を書いています。
2月2日の日記です。

〈僕たちはシエナには大聖堂のために10分間しか止まらなかった。大聖堂について話すのは遠慮しておこう。僕は馬車のなかで書いている。葡萄畑と小さなオリーブの木とに覆われた火山状の小さな丘の続く光景のなかを、ゆっくりと進んでいる。これ以上に醜いものはない。気分を変えようと、時たま、小平野を横断すると、何かしら不衛生な泉から悪臭が立ち上っている。見苦しい道にうんざりするのと同じく、何の哲学的な思念も起こらない〉

シエナには10分しかいなかったというのです。大聖堂(ドゥオモ)は見るには見たけれど、特に感慨もなかったようです。フィレンツェと比べ、なんというそっけなさでしょう。
DSCN4364.jpg
[シエナの大聖堂。2011年8月]
そこで、ぼくとしては、いくらカトリック嫌いのスタンダールにせよ、シエナの大聖堂のために、少し弁じておかねばなりません。
それにトスカーナの丘陵についても……。
DSC_3610.jpg
[シエナ近くの丘陵、2009年12月]


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フィレンツェの天翔船

こんにちは!はじめまして。

スタンダール症候群について調べていたところ、こちらの記事にたどり着きました。
私はルネッサンスについて興味があり色々調べているのですが
こちらの記事を読ませていただいて、大変参考になりました。
そこでお願いがあるのですが、こちらの記事を私のブログに紹介させて頂いてもよろしいでしょうか??
私の書いているルネッサンスについての記事は、長いのですがこちらになります。よろしければご覧ください。
http://ameblo.jp/firenzenoamakakerufune/themeentrylist-10066260485-2.html
by フィレンツェの天翔船 (2013-08-17 18:13) 

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