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『資本主義以後の世界』(中谷巌)を読む(1) [本]

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すぐれたビジネス書であることはまちがいない。
しかし、ざっと読んでいるうちに、なぜか既読感のようなものに襲われた。
太平洋戦争直前になされた「近代の超克」論を思い出したのである。
著者はすでに世界は「資本主義以後」の時代にはいりつつあるとみている。
その資本主義が西洋資本主義と同義だとすれば、西洋資本主義が終わりを迎えているという把握は、まさに「近代の超克」論がとらえたのと同じ地平だといえる。
サブタイトルは「日本は『文明の転換』を主導できるのか」となっている。
その含意はもちろん、日本が「文明の転換」を主導しなくてはならないという主張につながる。
これもまた「近代の超克」論と同じ構図である。

ここでいちおう「近代の超克」とはそもそも何かを説明しておこう。
太平洋戦争中の1942年、雑誌「文学界」は「近代の超克」と題して、文化人による大座談会を掲載した。そこで論じられたのは、明治以降、日本に大きな影響をおよぼしてきた西洋文化をどう総括し、どう乗り越えるかという課題だった。
しかし、それに先んじて、「中央公論」に「世界史的立場と日本」と題する座談会が掲載されていた。対米開戦直前に開かれたこの座談会で、高坂正顕をはじめとする京都学派(西田幾太郎門下)の面々は、日本の世界史的使命を高らかに論じていた。
「近代の超克」論は、広い意味で、こうした当時の論壇の全般的風潮を指した言い方である。
「近代の超克」論は、太平洋戦争を領導していく理念となっていく。一概にまちがっていたとはいえない。だが、その結末はあまりにも無残だった。
「近代の超克」論は単純に否定さるべきではなく、それ自体が「超克」されなければならないというのが、ぼく自身の考え方である。
著者はしきりに「自虐史観」を排除しなければならないと主張している。そのとおりだと思う。しかし、最大の「自虐史観」は、太平洋戦争で日本が侵略する「西洋」によって敗北させられたという見方ではないだろうか。いま、この「西洋」の侵略を押し返すのが「文明の転換」だとすれば、それもまた自虐的な構図である。
山崎正和のいうように、近代文明を担ったのが西洋文明であることはまちがいない。西洋の「近代文明」が「世界文明」であることは認めなければいけない。そのうえで、われわれ日本人はいまどのような〈世界性〉を提示できるのか。

前置きが長くなりすぎた。
この本はことしを代表するビジネス書になりそうなので、もう少し中身にふれておきたい。多々、学ぶことがあるだろう。
頭が丈夫ではないので、遅々とした読書である(例によって途中でくたびれてしまうかもしれないが)。
「まえがき」で、著者はグローバル資本主義の問題を指摘している。国際的な金融危機、所得格差、環境破壊をもたらしたのは資本主義ではないか。
「世界を長らく牽引してきた西洋主導の資本主義体制はその歴史的使命を終えたのであろうか」というのが著者の問いである。
もはや地理的にも、金融面でも、自然に対しても、経済の「フロンティア」は存在しない。それなのに先進国は財政支出によって無理やり経済成長率を高めようとしたために、国家債務危機を招いた。それに輪をかけたのが、グローバル資本の投機的性格だという。
「このような状況を打破するには、自己増殖を目指す資本主義思想そのものの修正もしくは転換が不可避になる」
いいぞ、と思う。
「まえがき」では著者のいう「文明の転換」に向けての構想がいくつか示されている。
ひとつは「交換の思想」から「贈与の思想」への転換。
もうひとつは「自然観の転換」である。「過剰な技術信仰」や「自然は人間が管理すべきもの」という西洋的な自然観をあらため、自然にたいしてもっと謙虚にならなくてはならない。
キャッチフレーズへの警戒感が走るが、異存があるわけではない。
少しずつ、読みこんでいくことにしよう。


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