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『古琉球』と河上肇 [柳田国男の昭和]

《第239回》
 国男が沖縄を訪れた目的のひとつは、『古琉球』の著者、伊波普猷と会うことだったとされている。のちに「沖縄学の父」と称されるこの人物は、国男とほぼ同年齢で、当時、沖縄県立図書館長を務めながら、精力的に各地で啓蒙的な講演活動をおこなっていた。
 著書や手紙のやりとりを通じて、その学問や人柄には通じていたものの、互いに会うのは今回がはじめてである。
 ここでは晩年の回想『故郷七十年』によって、その出会いをたどってみることにしよう。

〈大隅半島から薩摩湾を横切って指宿(いぶすき)の方へ帰っていくと、ちょうど明日船が出るというので、正月3日だったと思う、船に乗った。そして奄美大島に上陸し、ほんの1日2日いて琉球へ渡った。正月の7日か8日ぐらいだったと思うが、早速伊波普猷君を訪ねた。伊波君はほとんとつきっきりで話を聞かせてくれた〉

 伊波とはどんな話をしたのだろう。途中わずかな時間しか立ち寄れなかった奄美のことも話題になった。奄美は300年前に琉球から薩摩にとられてしまったから、もうあそこには沖縄の事物は何も残っていないと思っていたら、いまも沖縄のことばが、古いかたちで残っていることを知って考えが変わったと伊波は話した。国男が沖縄からの帰途、ほぼ1週間にわたって奄美に滞在したのは、おそらくかれのこのことばに刺激されたからだろう。
『おもろさうし』(おもろそうし)の校訂についても、伊波は熱心に語った。国男はその刊行を約束し、それは実際、国語学者の上田万年や文部省図書局長の幣原坦(たいら)らの斡旋により学士院の援助を得て、1925年(大正14)に南島談話会から出版される運びとなる。
 何よりも国男が驚いたのは、伊波が集めた膨大な文献だった。那覇の図書館には何千冊もの蔵書や古文書が収められていた。そして、それらは太平洋戦争中、米軍の空襲により、灰燼と帰すことになる。1958年(昭和33)、沖縄がまだ米軍の施政下にあった、数えの84歳のときに語られた『故郷七十年』の談話は詠嘆に満ちている。

〈しかしあの文献は今度の戦争でどうなったであろうか。戦争中の図書館長には、伊波君ほど文献に執着をもつ人がいなかったらしいし、終戦後は駐留軍が沖縄の家は衛生上よくないといって焼いたり、島の人の中にも勝手に貴重な文献をとって反古に使った者があるとか聞いている。惜しいことをしたものである〉

 この言い方はあまりに学者風で、島民の3人に1人が亡くなったとされる沖縄戦の実態を無視した感想だったかもしれない。とはいえ、沖縄を訪れた当時、国男が県立図書館に収められていた文献の質量に目を奪われたことはたしかである。那覇滞在中はその何冊かをむさぼり読んだのではないだろうか。
 ともあれ、国男は『古琉球』にひかれて、那覇の伊波のもとを訪れ、かれにさらに学問をするよう激励したのだった。
 1911年刊の『古琉球』には、伊波の尊敬する経済学者、河上肇の跋(ばつ)が掲載されていた(現在の岩波文庫版では省略されている)が、これについても、国男は『故郷七十年』で、こう感想を洩らしている。

〈京都の河上肇君も、伊波君の「古琉球」という本の跋を書いたりして、古くから沖縄に関心をもっていた。京大助教授時代、沖縄に行って演説をしたため、当局から警戒せられたりしたが、はじめは糸満の個人財産制度に感心し、そこに自分の理想を見いだしたように解釈したらしい。
 滔々(とうとう)として帝国主義に災されている日本において、まだそんな悪い風潮に染まっていないのはこの沖縄だけで、自分はそこに望みを託するというようなことだったが、琉球の人自身はあくまでわれわれは日本人の一部であると主張していたし、事実またそのわけであるから、河上君の話はどうも沖縄人固有の気持ちに水をさす結果になった。「古琉球」の跋にはこの演説のことについて、多少の皮肉を洩らしている〉

 ここで触れられている、河上肇が沖縄人の憤激をかったとされる演説とは、そもそもどういうものだったのだろう。
 舌禍のもととなったのは1911年(明治44)4月3日の「新時代来る」という講演である。河上は那覇の松山小学校で、およそ次のように話していた。

〈沖縄を観察いたしますに、沖縄は言語、風俗、習慣、信仰、思想、その他あらゆる点において内地とその歴史を異にするようであります。そして、本県人は忠君愛国の思想に乏しいという人さえおります。しかし、これはけっして嘆くべきことではありません。わたしは、だからこそ沖縄人に期待するところ大であり、また興味を多く感ずるのであります。……現に新人物を必要とする新時代におきましては、わたしは本県人士のなかから、他日新時代を引っ張っていく偉大な豪傑が起こることを深く期待し、かつこれについて特に多大な興味をいだかないわけにいかないのであります〉

 この発言に地元の琉球新報は、沖縄県民に忠君愛国の誠がないとは無礼千万だとかみつき、5日の夕刊で河上を「非国民精神の鼓吹者」と決めつけた。
 とんだ言いがかりである。
 この日、河上は糸満を訪れていた。糸満では、村民の協力で揚げた魚をアンマー(女)がカミアキネーし(つまり頭に載せたかごで売りさばき)、その利益をワタクサー(私財)として蓄える習慣があった。京都に戻ったあと、河上はそうした素朴な経済活動に感動し、むしろ沖縄には理想の村があると紹介することになる。
 だが、ともかくもこの日、自分を「非国民精神の鼓吹者」と糾弾する琉球新報夕刊を見た河上は愕然としたにちがいない。
 沖縄の人びとを侮辱するつもりは毛頭なかった。ことば遣いはむずかしいものだ。意気消沈した河上は、そそくさと島を去らねばならなかった。
 伊波はその河上に、自著『古琉球』の跋を依頼し、河上もそれにこころよく応じた。そのなかに次のような一文がまぎれこんでいた(口語訳)。

〈ふり返ってみると、私がこの地を遊覧したとき、一場の講演がはしなくも大勢の識者から批判され、非難攻撃されたのはほとんど尋常ではなかった。舌禍をこうむったことについては思うところがないわけではないが、さらに弁解してまた舌禍をこうむることは願い下げにしたいものである〉

 国男が沖縄を訪れたときに、10年前の河上肇の舌禍事件が念頭にあったことはほぼまちがいない。まして2月5日には、河上が講演したのと同じ那覇の松山小学校で国男の講演が予定されていた。
『故郷七十年』では、「河上君の話はどうも沖縄人固有の気持ちに水をさす結果になった」と述べている。「沖縄人固有の気持ち」とは「あくまでわれわれは日本人の一部である」という、強すぎるほどの感情である。そこに琉球王国の遺民の思いがたゆたっていることに国男は気づいていた。伊波の唱える「日琉同祖」の思想の奥にある悲嘆にも無自覚だったわけではない。
 国男の沖縄にたいする思いには、高飛車な「南島イデオロギー」でも、革命的ロマンティシズムでもない、底深い悲しみが満ちていたのである。

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dendenmushi

@ついに柳田さんも沖縄入りですね。でんでんむしも「岬めぐり」のサブ「石垣島だより」(27)の項に書いたように、白保でちょっとだけ「海上の道」の空気にふれてきました。
by dendenmushi (2012-06-01 06:30) 

だいだらぼっち

冬は石垣島でひと月ほど過ごされたのですね。すばらしいです。

by だいだらぼっち (2012-06-03 06:08) 

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