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南島へ [柳田国男の昭和]

《第238回》
 柳田国男が念願の南島方面を旅したのは、1920年(大正9)12月から翌年3月にかけてのことである。のちに出版された本にちなんで、『海南小記』の旅と呼ばれる。
 最初に、その旅程などを挙げておくことにしよう(松本三喜夫の『柳田国男と海の道』や伝記の「年譜」を参照)。

12月13日 沖縄の旅に出発
12月15日 神戸から船に乗り別府へ 別府から九州東海岸を南下
12月31日 鹿児島から徒歩で佐多岬へ
1月3日 鹿児島から船に乗り沖縄に出発
1月5日 那覇に到着(途中、名瀬に停泊)
1月7日 首里で旧王家の尚家を訪ねる そのあと3泊4日で国頭地方を旅する 那覇では伊波普猷と会っていることが多かった
1月16日 鉄道馬車で糸満に
1月21日 宮古島に向かう 船で比嘉春潮と会う
1月22日 宮古島に到着 平良の町を見ただけですぐ船に
1月23日 石垣島に上陸 岩崎卓爾に会う 石垣には5日間滞在 南海岸の村々と御嶽(うたき)を訪れ、石敢当(せきがんとう)を見る
2月2日 那覇に戻ったあと島袋源一郎と斎場御嶽をめぐる
2月5日 那覇の松山小学校で「世界苦と孤島苦」と題して講演
2月7日 奄美大島の名瀬に着く 島内、加計呂麻(かけろま)島を歩く
2月15日 鹿児島に戻る 以後、各地で沖縄のことなどを講演
3月1日 帰宅
3月から5月にかけ、朝日新聞に「海南小記」を30回にわたり掲載

 ここで注目すべき点は、国男が横浜や神戸から船に乗って沖縄に向かったのではなく、別府から馬車や船、徒歩で、九州東海岸をおもむろに南下し、ようやく鹿児島から沖縄をめざしていることである。
 なぜそんなことをしたのだろう。
 晩年の談話『故郷七十年』で、国男はその理由らしきものについて、こんなふうに語っている。

〈8月末、東北旅行の折、尻屋埼に行ったとき、あそこの鉱山の若い夫婦連れといっしょになった。よもやま話のついでに「今年じゅうに日本のいちばん西の端[正しくは九州最南端]の佐多の岬に行くから、お正月にはそこから君のところへ便りをあげよう」という話になってしまった。
 その後ずっと各地を歩いて佐多の岬の突端へ行ったのは大正9年[1920年]の12月31日であった。明くれば元旦というわけで、正月付の手紙だったか電報だったかを、彼の北の端の岬の若夫婦に出し、泡盛を送ってやった。たいへん喜んで「灯台を見にくる人は大勢いるが、はじめから計画して、北と南の両方をいっぺんに見る人はめずらしい」とほめてくれたのを憶えている〉

 ほほえましいエピソードであり、茶目っ気さえ感じられる。
 だが、ちょっと不思議な感じもする。
 尻屋崎は下北半島北東端の岬だが、国男の意識では本州北端の岬を指していた(実際の北端は大間崎)。岬の近くに鉱山があった(いまもある)。国男は旅の途中、8月末にその鉱山に務める一家と知り合い、年末に九州最南端の岬に行くと約束しているのだ。そして、約束はそのとおり実行された。
 いわばヤマトの北端と南端の岬が最初から国男の頭のなかに地図として描かれていたことになる。これが沖縄行を前にしてのかれの決意だったとは考えられないだろうか。
『海南小記』の旅は、『雪国の春』[実際は夏]の旅と対になっている。国男が沖縄行を九州東海岸を南下することからはじめたのは、それが東北東海岸を北上する旅の延長にあったからである。
 海岸を旅したのは何も伊能忠敬の測量を真似たからではない。日本はそれ自体が山島だった。その細長い空間を頭にえがくと、そこには陸の道があらわれるだけではなく、目に見えない海の道も見えてくる。国男の旅は空間の移動を自分の足でたしかめるだけではなく、かつて人びとがたどったにちがいない時間の流れを実感することにも向けられていた。
 尻屋崎を北端とし、佐多岬を南端とするヤマトの領域をたしかめたうえでないと、国男は南島に旅立てなかったのだともいえる。南島にはヤマトとは異なる琉球の島々、言い換えれば琉球のくにぐにが広がっている。
 国男にとって、ヤマトと琉球の境ははっきりしていた。トカラ列島の宝島と奄美大島の境界、すなわち宝海峡がそれにあたる。その南は同じ日本にちがいないが、ヤマトとは異なるひとつのくにである。つまり沖縄本島を中心に、北東は奄美大島、南西は先島とそれぞれその周辺の島々からなる琉球のくにぐに。そのくにぐにが、いま国男をたまらなく引きつけている。

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