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柳田国男のジュネーブ国連報告(1) [柳田国男の昭和]

[番外]
 久しぶりに大きな仕事がはいったため、ブログの更新を怠っていました。
 ここに訳出するのは、1921年から23年まで、国際連盟委任統治委員をつとめた柳田国男が、おそらく1923年8月に委員会で発表した英文(フランス語もあるようです)の報告書です。
 委任統治というのは、第一次大戦で敗れたドイツとオスマントルコの旧領土を戦勝国が管理する制度だといってよいでしょう。
 その領土はシリア、レバノン、パレスチナ、トランスヨルダン、イラク、東西トーゴランド、東西カメルーン、ルアンダ・ブルンジ、タンガニーカ、南西アフリカ、それに南洋群島、ニューギニア、ナウル、西サモアなどにおよんでいます。
 委任統治領は、その自治の進展度合いに応じて、ABCの3段階に区分けされていました。
 そのうちA段階(A式)にあたるのが中東の旧オスマントルコ領、C段階(C式)にあたるのが太平洋の旧ドイツ領で、それ以外はB段階(B式)とされていました。
 国際連盟の本部はジュネーヴに置かれましたが、その委任統治委員会はどういう役割をはたしていたのでしょう。
 これについては、後日、柳田国男自身の見方を含めて、また連載で詳しく説明することにします。
 ジュネーヴでの柳田国男の報告書は、これまでほとんど訳出されたことがなく、しかもその英文はぎくしゃくとして難解でした。
 そこで、岩本由輝氏の訳を参考にしながら、自分なりの理解を深めようとして訳させてもらった次第です。
 長い報告ですので、何回かにわけてブログにのせることにします。
 訳は、ざっくりとわかりやすくをめざし、ですます調で改行を適宜加えました。[]は訳注です。
 ここからは、ただの政府の報告書とちがい、いかにも柳田国男らしい視点が浮かび上がってきます。

[以下、資料として]

委任統治領における原住民の福祉と発展(柳田報告)
1923年8月

   Ⅰ

 各国の報告により委任統治領についての知識は急速に広がりつつあります。それによってわれわれは、いまや多くの困難な、しかも未解決な新たな問題を実感できるようになりました。それらは有色人種の不可解な生活に関連して生じているものです。こうした人びとがさまざまな起源をもつ諸部族から成り立っていることはよく知られていますが、それすら驚きの事実であり、その思わぬ動きには当惑させられることもあります。
日本の委任統治下の島々は、北太平洋の広大な区域に相互に隔てられています。しかし、そのなかには異なる文明や伝統をもつ人びとが、いっしょに暮らしている島があります。人口1000人ばかりのリン鉱石の島ナウルでさえ、住民が一様ではないのが見て取れるのです。ここのわずかな住民は、それぞれ首長をもつ14の集団の下に属しています。そのうえ、以前の報告書にあるように、この住民のなかには、ドイツ統治下にカロリン諸島から連れてこられ、定住させられたと思われる者が何百人かいるとも指摘されています。
 西サモアの島々でも、住民は多くの小共同体に分属しています。3万3000人の原住民に対して、いわば市長職というべき「プレーヌス」の職が208もあって、その数は多すぎると認識されていますが、それを減らすのは至難の技とされています。加えて、ヨーロッパ系住民は、その3分の2が混血であって、この場所以外に母国をもたず、離れた階層として存続し、さまざまな純粋の原住民種族とは別に暮らしています。かれらが将来、純粋の原住民とのあいだで大きな問題を引き起こすようになるのはまちがいないでしょう。島には中国やソロモン諸島出身の労働者もいます。かれらは契約期間満了後、島に定住させても送り返してもよいのですが、ヨーロッパ系住民の場合は、問題はずっと複雑です。
 原住民と非原住民が隣り合わせているという問題は、広大なニューギニア領でも起こっています。しかし、それよりもさらに驚くのは、この島々では太平洋地域のあらゆる人種がことごとく見られるということなのです。人口の多数を占めるメラネシア人でさえ、けっして均質ではありません。言語も身体的特徴も生活様式も異なっています。こうした異質な種族の暮らしは、敵意や争いによって、常にかき乱されています。ある程度、文明に浴しているのは、外からの影響もあってか、海辺の住民だけです。
 つまり、われわれは、現在統治のおよんでいない山岳地帯にまで民族学的調査を終えてはじめて、原住民の発達の度合いにどれほど隔たりがあるかを見いだしうるのであります。

 居住地の隣接によるこうした人種間の混乱は、どこよりもアフリカではなはだしいものがあります。この大陸で何百年にわたってみられた移住と抗争によって、アフリカでは諸人種がさまざまなグループに分かれていきました。そして、かれらはたえず空白の地を求め、さりげなく異人種の種族のなかにちらばっていったのです。こうして、その起源も外見も異なるふたつの人種の住む村をあちこちに見かけるようになったわけです。
 こうした人種の接触にもかかわらず、アフリカでは予想外に血統の交わりはそう一般的ではないようです。さらに同一人種の種族間でも、それまでの環境によって、言語や考え方にかなりのちがいがあります。
 われわれは、アフリカ大陸の7つの委任統治地域において、多くの民族学的類似点を見いだすいっぽうで、各地域の住民間に著しい相違があることに注目する必要があります。こうした状況は、侵略や紛争、略奪につながりやすく、協調と繁栄を確保することは、けっして容易ではありません。
 さらにいえば、問題をより複雑にするもうひとつの要因があります。それは白人入植者によってもたらされる事態です。大国の人びとは、これがどうして混乱を引き起こすのか、まるで理解できていません。
 このことからわれわれは国際連盟規約第22条(委任統治条項)にさらりと述べられている「(自立し得ざる)人民」という概念がきわめて複雑な意味をもっていることを痛感せざるをえません。そして、われわれはこうした利害関係を異にするさまざまなグループに、杓子定規に行政的処置を適用しようとしてもうまくいかないことを肝に命ずるべきなのです。
 こうした混乱状態は、単に人びとの気ままな移動によって生じているわけではありません。別の要因もあるのです。アフリカの国境線が最初に制定されたさい、ルールとして持ちだされたのは、欧州列強間の通常の外交的慣例でした。この作業はアフリカの奥地がすべて探索される以前に完了していました。そのため、国境を定めるにあたって、人種の分布状態を考慮しようとしてもできなかったのです。
 委任統治制度が新しくつくられたさいも、こうした状況は継承されました。同じ言語と習慣をもつふたつの原住民グループが、政治的な境界線によって分断されているケースが多くみられるのはそのためです。現在英国の委任統治下にあるトーゴランド[現ガーナ]とカメルーンはこうした例にあたります。こうした地域は同じ国が支配する隣接植民地に併合され、さらにその植民地の一地域を形づくるがごとくに分けられてしまっているのです。そして、委任統治区域の境界が新たに定められたさいにも[たとえば旧ドイツ植民地のトーゴランドは、英国とフランスの委任統治領に分割されていた]、実際の状況にじゅうぶんな配慮がなされるとはかぎりませんでした。
 その結果、何が起こるでしょう。新しい統治方式によって、アフリカ原住民の遊牧習慣はこれから大きく変わってくるでしょうが、それでも住民が勝手に国境を行き来するのは目に見えています。個別のケースをそれぞれ配慮して移住の許可を与えるという原則をいつまでも維持するのは、どう考えても不可能です。願わくはこうした状況が速やかに改善されることであり、われわれは大いなる関心をもって将来の行く末を見つめているのであります。
 したがいまして、人種の混合はすでにかなり進んでおりますが、さらに移民によっていっそう進むのではないでしょうか。さらに同じような知的水準にある種族、またそれゆえに現在、対等の扱いを求めている種族も、異なった状況や外部からの影響によって、これからは多くの相違点を示すようになるかもしれません。
 こうした人種を文明化するという観点からみて、劣等人種は先進的な国民の保護下に置かれたと考えられています。であるならば、異なった知的能力をもつグループ間の利害対立を、文明国の国民と同じように、なるがままにゆだねるのはやめるべきです。私見では、こうした地域において完全な公平を達成するうえで、導きとなる唯一の原則、それは国際連盟規約第22条に規定された原則であります。ここでは委任統治の方式がABCに分けられ、文明の発達した度合いに応じて、原住民を保護することになっております。言い換えれば、発展のもっとも遅れたもっとも弱い人々がもっとも多くの保護を要するわけであります。
 欧州の入植者にかぎらず、委任統治地域へのすべての入植者は、変革への主導権をとり、そのことによって、いつも同じ場所で暮らす原住民よりすぐれた能力をもつことを立証してきました。私もまた、入植を全面的に禁止することはむずかしいと思いますが、そうだとすれば、各国政府のとるべき道は、原住民を抑圧原因から守るために、これまでにない適切な措置をとることであります。
 連盟規約が調印されたときに、たまたま委任統治地域にいた人びとが、新しい制度のもとで保護されるべきことは法的にも保証されております。逆に委任統治下におかれた人びとの権利は、1919年6月以降に当該地区にやってきた人々には分与されないのであります。したがいまして、二種の住民、すなわち委任統治地域に以前から住んでいた者と、あとから移住してき者とのあいだに利害対立が生じる場合は、委任統治当局は元からの住人にたいし、優先的に配慮するのがとうぜんであります[このあたり柳田はパレスチナ問題をかなり意識しているようです]。
 一種、懸念を感じざるを得ないことがあります。それは「原住民」なる概念があまりに広汎な解釈の余地を残していることです。そのために、いくつかの委任統治領においては、ふたつの別々の範疇に属する人民が同じ扱いを受け、かなり重たい規制が課せられています(1922年のタンガニーカの土地法、1922年の南西アフリカの原住民統治宣言、1921年の西サモアのサモア法、1921年のニューギニアの自治体条例の解釈と修正、1921年のナウルの原住民条例など)。
 人道的観点からみて、太平洋あるいはアフリカのすべての委任統治領下の原住民は、たとえそれ以外の島や植民地の出身であっても、保護を受ける資格があり、他と同様に取り扱われるべきことは言うまでもありません。それでも「原住民」という概念のあまりに広汎な解釈によって生じてくると思われる誤解と困難を避けるのは、けっして容易ではないでしょう。

   Ⅱ

 人の流入と流出に関しては、受任国政府が当面の解決方法としている個別認可という方針が採用されているようです。しかし、この方法は、個々の事案が発生するたびに当局者の判断を必要とし、そのため当局者に大きな負担を課することになります。そこでけっきょくは、人びとのこうした移動を規制する恒久的かつ根本的な原則を確立せねばならないという見解に達するのが関の山となります。
 委任統治領内に居住を制限する必要はありませんし、そうしようとしても、とても無理でしょう。人の移動を引き起こす複雑な要因がみてとれるからです。
 アフリカの委任統治領のなかには、すでに人口過剰になっている地域も見受けられます。たとえば、サバンナの住民は、険しい山岳地帯で暮らすのはいやだと思っており、そのため慣れ親しんだ近隣地域に生活の場を見つけようとして、政治的に設けられた境界などお構いなしということになるわけです。
 さらにまた、委任統治領の住民のなかには、働き手としては近隣植民地の住民よりずっと優秀な者がおり、そのためにかれらが向こう側に引き寄せられることもあるにちがいありません。
 たとえばルアンダ・ウルンジ地域[現在のルワンダとブルンジ]の原住民は、往々にして肉体労働者が不足しているベルギー領コンゴから大いに求められています。ニューギニア領では人員募集を抑える厳格な規制がありましたが、ナウル島の鉱山に多くの島人が働きに出ることになって、この規制は緩和されました。
 したがって、これからは他地域への移住が現在より頻繁に起こると信ずる理由がじゅうぶんにあるのです。
 この問題と関連して、特別な配慮が払われねばならないのが、委任統治領が本国の植民地と境界を接している場合であります。この場合、本国は当該の領域に、委任統治を実施する権限を同時に付与されております。そういうときには、原住民が境界線を越えて簡単に向こう側に行くといったことがしばしば起こります。
 とりわけ、英領トーゴランドや英領カメルーンなどでは、本来の境界線がどちらかというと無視されてしまっています。このような領外移住については、移住者が特別の地位を保持したいと求める場合に、まったく新たな問題が発生します。
 ヴェルサイユ条約第127条には、こうした条件のもとで原住民をどう保護するかという規定はありません。そこには、ただ外交的保護が規定されているだけで、これは要するに外国への移住の場合です。
 委任統治領の住民が、通常の植民地の保護住民と同じような扱いを受けるというのは筋が通りません。このやっかいな問題は将来にわたって、さらに広く調査されるものと信じております。世界に新たな仕組みをもたらす「委任統治領間調整法」がつくられるなら、こうした問題はこの法律の一部に組み入れられることになるでしょう。
[以下つづく]

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