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柳田国男のジュネーブ国連報告(2) [柳田国男の昭和]

[翻訳のつづきです。次回完結]



 受任国政府が努力を傾けていることは、じゅうぶん承知しておりますが、それでもわれわれは、天然資源の配分が、原住民の将来の発展に向けて適切におこなわれているかどうかに、いささかの懸念を表明せざるをえません。過半の原住民は知的に劣っているために、いまだにずっと先の将来を見通すことができず、そのためあらゆる面での行政的支援を必要としております。
 遅かれ早かれ、かれらの発展は、国際連盟規約に後押しされて、達成されるでしょうが、そのさい最初に出てくるのが、じゅうぶんな広さの土地をもちたいという意思表明でありましょう。この意思表明がどういうかたちで出てくるかをはっきりと予測することはできません。現段階でとることのできる唯一の安全な計画は、土地にできるだけ広い「保留」区域をもうけることであります。そうしておけば、どんな事態になっても、将来の要求に備えることができます。
 いっぽう新たな文明の影響が必至だとすれば、原住民はみずからの発展のために、いわゆる「文化的接触」を試みなければなりません。文明国からやってきた指導者や顧問、あるいは雇い主が、まがりなりにも原住民のあいだに定住するのを認めるとすれば、その条件はただひとつです。それは土地を租借するにさいして、かなりの寛容が示されねばならないということです。委任統治領において、保留と租借という相矛盾する要求を調和させるのは、じつにむずかしいことです。
領土が広大なわりに人口がきわめて少ない南西アフリカは例外であります。そして南アフリカ連邦はこうした好条件を利用して、委任統治の義務を遂行しております。ここでは広い地域にわたって「原住民保留地」を設けることができており、それによって将来起こりうる要求に備え、従順な原住民のために広汎な活動範囲を確保しているわけです。
 住民一人あたり、利用可能な土地が50ヘクタール以上あるわけですから、水不足はともかく、原住民はほかに何も心配する理由はないわけです。その結果、原住民はまったく自由に、自然の産物に頼る遊牧生活をつづけることも、種族発展のために定住して農地を耕すこともできるのです。いずれにせよ、ここにはなお広大な空白地帯が残されており、入植者がやってきても、国際交易産品を増産する手段には事欠かず、そうした交易を通じて、原住民も世界の自由な市民に匹敵する幸福な生活を築いていく可能性もあります。
 しかし、ほかの多くの地域では、状況は同じではありません。プランテーションが原住民に望ましい状況を提供し、同時に出資者に利益をもたらすためには、ときに原住民の将来の利益を侵害せざるをえない場合もあるかもしれません。少なくとも、空白地帯や無主の土地は原住民の利益にかかわるとはいえ、それを侵害するのははやむをえないこともあるでしょう。
 さらに、委任統治領のなかには、土地使用権問題をかかえる地域もあります。かつてのさまざまな状況に由来するとはいえ、これによって行政官の活動範囲は制約を受けております。期待したいのは、土地使用権の濫用を極力抑えることです。
 当面、この問題でだいじなのは、土地制度の法律面の理屈ではなく、それが実際にどういう恩恵をもたらしているかです。原住民に理屈を理解させようとしても、それは無理というものでしょう。原理の適切な適用をたしかめるのは、原理自体の公平性を規定するのと同じくらいだいじなことです。望むべくは、委任統治領の行政官がその能力と善意を発揮して、住民の将来の福祉に配慮し、「保留地」支給に向けての必要な手続きを踏むことであります。
 もうひとつ、「保留地」に関連して考慮しなくてはならない問題があります。地域のなかには、原住民の村がくっつくように立っているところがありますが、そういうところでは逆に空いた土地がいっぱいあります。こうした状況のもとでは、保留地がじゅうぶんではないこともあって、地域をうまく配分しようとしても、うまくいきません。その結果、たちまち生き残りをかけた戦いがはじまるのですが、こうしたことを防止する手段はあるはずです。そして、あまり時間をかけないでできるのなら、そうした手段を採用してしかるべきでしょう。
 たとえば、そうした手段のひとつとして、ある部族の全体もしくは一部をある場所から別の場所に移して、必要な余裕を与えるようにすることもできるでしょう。仏領トーゴランドの当局は、1922年10月28日の行政命令で、このような措置を実施しました。これがおこなえたのは、原始的な人々が土地にほとんど執着しないという特質があるからで、文明国の農民なら、そうはいかなかったでしょう。
 こうした変革が効果を発揮するのは、委任統治体制が始まった初期の段階だけです。というのも、のちに地方行政官や民間の首長に行政がまかされるようになると、そもそも急進的で遠大な計画に踏み込むことが、あまりに冒険的となってしまうからであります。
 諸部族間の知的水準にちがいがあることは、とりわけかれらの到達した所有権の考え方にさまざまな段階があることをみればわかります。経済生活の安全性は、どこまではっきり規定された土地法があるかということと釣り合っています。したがって、まずもって個人、家族の所有権を認め、それを保護し、そのあとで公共的な土地利用制度を整備していくのがよいのではないでしょうか。
 これには対立する別の問題もあって、将来、根本的に調査することが必要になりますが、それは部族全体に属すると考えられている土地の問題です。「村落共同体」という歴史的問題は、世界のすべての原始人に共通していますが、そのかたちには多くのちがいがあります。このテーマについて、さらに詳細に比較研究する価値は大いにあります。とはいえ、これは植民地行政などに携わる実務家には適していない仕事でしょう。所有権法が細部にわたって徐々にかたちづくられるまでは、実務家は、こうした共有地をどうやって管理すればいいかに関心を集中すべきです。
 現行の管理方式にもまた多岐にわたるちがいがあります。あるケースでは、首長が土地処分の絶対的権限をもっています。しかし、別のケースでは、下位の首長、ないし家長にもその権限が分かたれ、そのため私有財産制に近くなっています。さらに第3のケースでは、部族長は単に共有地の一般的利益を代表するだけで、自分自身で使用するために別の土地を保有しています。
 しかし、いずれの場合も、「保留地」の設定が実施される前にだいじなことは、共有地に対する首長の権限をともかくも明確にすることであり、同時にその政治的権力を制限することです。私が受任国政府に勧めたいと思うのは、従来の部族組織を維持し、ある程度まで首長の権力を認めるという原則を採用することです。このような立場をとれば、部族の首長や、それ以外の名士にそれなりの所有権を認めることは筋が通っています。
 このようにしても、なかなかよい解決策が見つからない場合は、部族のほかのメンバーにも同じ限度内で、経済的自由や生産の保証を認める以外にないでしょう。こうした状況に合わせる方法はかならずあるはずです。われわれがここにあえて期待したいのは、行政官の努力によって、こうした措置が原住民の利益になり、好ましい結果を生むことです。なかにはこうした結果が短期間で得られた、環境に恵まれた地域もありますが、そうした事態は、ほかの委任統治領にとってだけでなく、全世界の植民地にとっても、大いに役立つことでしょう。こうしたことから、私が希望するのは、このテーマを取り扱った報告書をできうるかぎり詳細に作成し、それを関係者が閲覧できるようにすることであります。



 いま何よりも必要なのは、よく練り上げられた裁判制度であります。これによって、すべての原住民は、委任統治なるものが新たな画期的な体制だということを身にしみて理解できるようになります。とはいっても、結論を言うと、法廷に持ちだされる訴訟件数をもって、原住民の幸福度の絶対的指標とみなすのは早合点というものでしょう。少なくとも一定の期間、善良な原住民がこうむった被害や犯罪がすべて裁判にかけられるとは、とても考えられません。それは中央に近い場所であっても、親切な手助けが得られるところでも同じです。
 こうした罪悪は、ほかの多くの手段によって矯正されるはずですが、原住民はいまだにそれを異人種から提供される矯正方法よりずっとましだと考えています。そこで、もめごとが発生すると、多くの場合、それがいつまでもつづき、最後は自分たちの部族や家族で解決するという事態に立ちいたるのです。したがって、統計上、裁判沙汰がそれほど起こっていない地方もあれば、別の地方では、人びとの訴訟好きな性格が手伝ってか、じつに多くの訴訟がみられるということにもなりかねないのです。
 とはいえ、裁判沙汰、とりわけ刑事事件の数が増えているからといって、それが社会的トラブルが増加している証拠とはかぎりません。受任国政府は欧州の世論に後押しされて、人道的理念と合わない原住民の習慣は廃止さるべきだとの立場を明確にしています。しかし、だからといって文明人らしからぬものはすべて禁止するというほど確固たる信念をもっているとも思えません。そこで、平均で妻がふたりという一夫多妻制は、悪習だがそのうち是正されるだろうと大目にみられるいっぽうで、食人儀礼はどんな場合も非難されることになります。キリスト教宣教師と接触する機会のなかった未開人にとっては、ほかの慣習はいいのに、この慣習を実行すれば犯罪とみなされることは、まったく理解に苦しむところでしょう。にもかかわらず、原住民はほかにもこれは犯罪だと通告されて、大いにおどろくことになってしまうのです。
 さらにいえば、新しくできた裁判所が、伝統的な規範が破られ、それが原住民の社会集団にとっては大問題であるときに、何も判断せず、処罰を下さないことは許されないでしょう。原住民の法のうち、進歩を妨げないものにかぎっては、有効として存続を認めるべきです。まったく起源を異にするふたつの禁忌制度が、長期にわたって並存することになります。欧州の常識と原住民の伝統とのあいだにじつに奇妙な妥協が成立しつつあるわけで、その必然的な結果は、犯罪件数の増加をもたらすことになるでしょう。
 さほど重大ではない犯罪の場合は、さまざまな受任国政府が現在採用しているふたつの裁判方法を比較してみるのもよいでしょう。それは次のようなものです。(1)原住民法廷の場合。この場合は、裁判員席が一定数、原住民に与えられる。(2)部族の首長による裁判。
 第一の方法によると、原住民裁判員の意見によく耳を傾ければ、ひとつの犯罪を二重に処罰することを回避できるかもしれません。第二の方法によると、注意深く監督を怠らなければ、裁判が原住民の慣習により適合したものとなりうるでしょう。第二の方法が第一の方法より寛大とみるのがただしいとはかぎりません。要は、どちらの方法が普通人(common people=常民)の福祉にとって、より効果的かということであります。
 新裁判制度が目下期待しうる唯一の満足すべき成果は何かというと、それは未開地域の民衆に共通する災厄から原住民を救出するということです。その災厄は、横暴な首長が恣意的な裁判権をもつことに由来しています。しかし、長い時間をかけなければ、この制度が果たそうとしている仕事の本質部分は達成できないでしょう。いずれにせよ、それが達成されるには、その前に原住民が善悪を見分け、行政官の考え方を理解できるようになっていなければならないのです。その時がくるまで、われわれは裁判制度改革のもたらす二次的な効果、すなわちむしろ教育面での効果をもってよしとせざるをえません。
 裁判制度改革のもうひとつの阻害要因は、昔ながらの部族裁判制度にある種の役得がともなっているということであります。こうした問題は、行政当局が首長の権力を維持するとう原則を順守するかぎり、けっして取り除くことができません。とはいえ、部族の慣習にからむ事件については、首長がしばしば最良の裁判官であることは認めないわけにはいきません。しかも、われわれはすでに気づいているのですが、いまのところ地域内の安寧を保つためには、原住民の生活を成り立たせている、昔ながらの慣習を相当数残しておかなければならないのです。その線引きをどうするかは大きな問題です。この点に関して、われわれが受け取った文書にはじゅうぶんな情報が含まれていません。
 首長のもとでの長期にわたる専制組織が、しばしば委任統治行政を妨げてきたことは、疑うべくもありません。われわれは、この旧体制が廃絶されないかぎり、普通の原住民の幸福は保証されないと考えがちです。この見方からすれば、ほとんどの受任国政府が採用している現在の「原住民官吏」制度は、姑息だとの非難を免れないでしょう。しかし、実際には、受任国政府がみせている知恵と手腕は、賞賛に値するものです。
 現在の制度のもとでは、大なり小なり多くの首長がいて、村の行政にかかわる些細なできごとに責任を負っています。かれらは目下の者からいまだに受けている昔ながらの尊敬の念を利用して、堂々たる素振りで、こうした義務をはたしているのです。かれらは自分たちのわずかな権限さえ上位集団に移っていることにほとんど気づかないまま、受任国政府の仕事を手助けすることになり、しかも、名目だけの称号とわずかな給費で満足するのです。
 こうしたやり方は、権力からの転落の苦しみを隠蔽しながら、新時代への転換を図るのに適しているといえるのではないでしょうか。とはいえ、それは現状への適応というにすぎず、はっきりとした制度ではありませんから、その価値を過大評価するわけにはいきません。またそれが人びとの一般的利益を保護する、うまいやり方だと考えるのもよくないでしょう。
 民衆議会制度といっても、それは純粋に諮問機関のようなもので、原住民の名士が一定数招かれるかたちでしょうが、それでもこうした制度は、自由と平等の原則を適応した最初の徴候として受け止められるかもしれません。しかし現時点で、こうした組織の仕事に多くの成果を期待できないでしょう。公的生活をみても、規律とは無縁という習慣は抜きがたいものがあるので、首長は住民の利益を代表しているとはとても思えないのです。かれらは自分の部族の問題についても公平とはみえないのですから、まして異なった状況で生活する別の部族のことを取り扱うのは無理というものです。そして別の首長や行政府が、たとえかれらの意見を聞き入れたとしても、実態は何ら変わらないのが事実なのです。[このあたり柳田は委任統治領での議会開設が時期尚早という立場をとっているようです。それは自身が経験した日本の貴族院の実態を踏まえた皮肉な発言だったのでしょうか]
[以下、つづく]

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