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傷だらけの編集者人生 [雑記]

[2013年10月19日、校正・編集会社VERITA主催の連続講座での談話(要約)]

 ぼくはある通信社の図書編集部で、20年ほど編集者の仕事をしていました。昔はやった鶴田浩二の歌をもじっていえば、それはまさに「傷だらけの編集者人生」といいましょうか。ふり返ってみれば、よくもまあ失敗ばかり、やらかしていたものです。
 みんな自分が悪いので、いまさらそれをさらけだすのは恥ずかしいのですが、きょうはそれをお話しして、何かの参考にしていただければと思うわけです。ところで、杉田玄白は、健康の秘訣について、「昔のことはいつまでもくよくよしない。ずっと先のことはあまり思いわずらうな」と書いています。失敗しても悔やまないことですね。失敗も勉強と開きなおったほうがいいです。
 でも、失敗を封印してしまうのはよくないと思います。失敗はつきもの、むしろ失敗から学ぶことがだいじなのだともいえます。マルクス主義がだめなのは、自分たちの失敗を認めないからだ、と鶴見俊輔さんが、これもどこかで書いていました。これはマルクス主義にかぎりません。日本の軍隊だって、官僚だって、東京電力だって、ずいぶんいろんな失敗をやらかしてきました。でも、それを素直に認めずに開きなおってしまうから、いっこうに進歩がないわけです。
 ぼくの場合は、そんな大げさな話ではありません。端からみれば、笑ってしまうようなことばかりです。そこで、きょうは大いに失敗自慢をして、笑っていただき、みなさんの何かの足しにしていただければと思う次第です。
 少し自分の経歴めいたものを話しますと、ぼくはエディタースクールに通ったわけでもなく、誰かに編集の仕事を教わったわけでもなく、いわば見よう見まねで本づくりをはじめました。当時、務めていた会社には、出版局というのがありまして、その図書編集部では、おもに年鑑やグラフ、音楽関係の選書、それに記者ハンドブックという用字用語集をつくっていました。
 ぼくは最初、会社回りの営業をしておりまして、6年か7年ほどして、この部署に配属されました。図書編集部の仕事は、毎年だいたい同じで、記者の書いた原稿やら雑誌に連載された原稿を割り付けして、出てきたゲラを校正し、本にすることでした。ですから、原稿の整理と校正が主な仕事ですね。
 ぼくは、ふつうの本屋さんで売っているような一般の書籍をつくりたいと思っていました。通信社の書籍部門でしたから、いってみれば朝日新聞が出しているような一般書籍をつくりたいなと思っていたわけです。それで、年鑑やグラフ、用字用語集の仕事をしながら、そういう機会をうかがっていたのですが、あるとき編集委員室から、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一先生の本をつくらないかという話が舞いこんできたのです。
 いかにも、便乗主義の企画とはいえ、メインになるものとしては、福井謙一先生と江崎玲於奈先生の対談がありました。これは新聞に掲載されたものでしたが、単行本にするには、量が足りない。そこで記者に頼んで、福井先生にインタビューしてもらい、さらにお茶の水女子大学の先生に解説を書いてもらい、雑誌の掲載原稿も加えて、何とか1冊の本をつくったわけです。
 これがぼくの失敗第一号となりました。
 失敗の原因はコミュニュケーション不足です。失敗のなかでは、これが意外と大きな要素を占めているのではないでしょうか。問題になったのは福井謙一先生へのインタビューでした。ぼくはインタビューのゲラを先生のご自宅に送り、帝国ホテルに滞在されていた先生から、赤字を入れた手直しのゲラを受け取りました。そのとき、先生はゲラをもう一度見るとはおっしゃらなかったので、これでOKと思いこんで、赤字の直しを確認し、これで責了とし、本ができあがりました。
 これを先生のところにお届けしたところ、本を回収してくれとおっしゃるのです。どの部分か、はっきりと覚えていませんが、何カ所か発言に問題箇所がみつかったのです。最終的に本は回収を免れましたが、正誤表をはさむことを余儀なくされました。お忙しい先生をわずらわしてはいけないと思い、最終校のゲラを先生にお送りしなかったのが、致命的なミスの原因でした。
 コミュニケーション不足といえば、ポーランド文学者の工藤幸雄先生の本をつくったときにも、こんなことがありました。工藤先生といえば、ゲラに猛烈な赤字を入れられるのが印象的でした。赤字といっても、それが単純に赤ではなく、青や緑や黒の書き込みもあって、それがクロスし、ゲラ全体が手直しで余白がなくなるほどになります。
 そのゲラを印刷所に戻すのが一大苦労です。たぶん、そのまま入稿したのでは、現場の人がパニックを起こすのが目に見えています。いまとちがって、まだワープロがそれほど発達していない時代だったので、別紙に手直しの原稿を書き写し、それをAとかBとかいうように指定し、ゲラに別原稿をくっつけて入稿したことを思いだします。
 困ったのは初校よりも再校のほうが、赤字が増えることがままあったことです。最後は、ぼくのほうが業を煮やして、3校は見せずに、赤字の手直しを確認しただけで、責了としてしまいました。これがまちがいのもと。見本をお持ちしたところ、先生はできあがった本をご覧になりながら、やおら赤ペンをとられて、ページをめくりながら赤字を入れられること、ひとしきり。お怒りにはなりませんでしたが、これには血の気が引きました。
 いまお話したのは、翻訳書のエピソードですが、工藤先生に関しては、ほかにも苦い経験があります。先生のエッセイ集を出したときのことです。責了段階で、先生から会社にファックスが送られてきました。どうやら追加原稿のようでした。FAXの調子が悪くて、1枚しか受け取れませんでした。もちろん先生にはFAXを受け取った旨、電話を入れたのですが、枚数を確認しませんでした。
 ぼくはこれで終わりと思いこんで、指定された訂正箇所に追加原稿を挿入しました。ところが、実はFAXは2枚目があり、その結果、3行分ぐらいが抜けてしまう結果になってしまったのです。文意が通ったので、それでOKと思ったのが、まちがいの元でした。これも念校を先生に見ていただければよかったことで、一手間惜しんだことが、残念な結果を招いたことになります。先生は笑っておられましたが、こういうときは先生の眼がちらっと光ったりするのが編集者としては気になるものです。
 こうした失敗から得られる教訓はひとつです。うるさい、わずらわしいと思われても、遠慮しないで、著者とコミュニケーションを綿密にとり、最終的な確認作業をおこたらないこと。これですね。
 これは校正者の場合も同じかもしれません。おかしいと思ったら、遠慮せずに編集者に問題を指摘することです。編集者というやからは、まさに人さまざまで、なかにはいやなタイプもいるので要注意ですが、それでも編集者とコミュニケーションをとることはだいじではないでしょうか。ぼくもずいぶん校正の方から、重要な指摘をいただいて、助けられたことがあります。

 編集者時代にぼくは160冊ほど本をつくりましたが、翻訳書の割合がけっこう多かったですね。そこから、さらに人文書一般に手を広げられればよかったのですが、ほとんどスタッフもいなかったので、一人では限界がありました。
 そこで、次に翻訳書の大失敗について、お話しします。それは誤訳から生じた大トラブルでした。
 ぼくの英語は、だいたい高校生のレベルでストップしています。大学はいわゆる大学闘争の時代で、ろくに勉強せず、英語の原書も読みませんでした。ですから、そもそも翻訳書を出版するというのが、背伸びもいいところで、いまから考えれば、よく大胆不敵に何十冊も翻訳書を出したものだと思うくらいです。
 その大トラブルは、翻訳書を出版しはじめたころに起きました。たしか3冊目か4冊目のことだったと思います。日本のバブルを扱った本で、著者はエコノミストの記者で、イギリス人でした。なかなかおもしろい本で、早急にバブルを処理しなければ、日本経済は破綻するという内容でした。
 その翻訳のなかで、バブルをめぐるさまざまな出来事のひとつとして、ある有名会社の会長が事実上の贈与をごまかそうとして、警察に逮捕されたという一文がでてきました。ぼくもへえそんな事件があったんだというくらいに思って、しっかりと事実関係を確認しないで、本を出版してしまったのです。
 ところが、本が書店に並んですぐに、その会社の秘書課から猛烈な抗議の電話がかかってきました。事実無根だ、けしからんというわけです。たしかに原文を見ると、ちょっとむずかしい言い回しではありましたが、「警察に逮捕された」などとはひと言も書かれていません。これで、この本は回収になりました。
 しかも、まずいことにその有名会社の会長は、わが社の社長と知り合いだったのです。これで、ぼくの名前はたちまち有名になり、以後、社内に悪名がとどろく一因になったわけです。
 この本にはほかにも妙な訳がいっぱいありました。製紙会社をつくって、おカネの流れを操作したという箇所があって、へんなことをするなと思ったものの、とくに訂正はしませんでした。ところが、あとで原文をよく見ると、ペーパーカンパニーが製紙会社と訳されていたのです。これにもびっくり。
 ほかに固有名詞のまちがいもありました。昭和の金融恐慌のときに、神戸銀行が倒産したと訳されていました。原文は神戸の銀行、これを固有名詞の神戸銀行と訳したのが大まちがいでした。
 さすがにぼくも頭をかかえました。苦い目に遭いましたが、ぼくはなぜか翻訳書から撤退しようとは思いませんでした。これでしょぼんとしたら終わりだと思いました。この事件で、かえって翻訳書のおもしろさに目覚めたといってもいいかもしれません。
 ぼくには、へそ曲がりのところがあって、失敗慣れしているというか、失敗をあまり長く引きずらないのです。失敗はかならず修復できるという楽観がどこかにあります。転換が早いというか、失敗したら、はいそれまでよと落胆するのではなく、失敗しても、できるだけ傷を深くしないで(できるだけ平気をよそおって)、さっさと修復の手段を講じる。そのほうがいいのだと思っていました。
 あのころも、何だかへらへらとしていましたが、それでも内心は実はひやひやでした。「たとえ倒れるとしても、後ろには倒れない、前に倒れるんだ」といきがっていたものです。でも、それは本がつくりたかったからですね。
 しかし、この大事件以来、気をつけるようにしたことが、ひとつあります。それは、どの翻訳書でも、訳文と原文をざっとつきあわせるようにしたことです。名翻訳者の鈴木主税先生は、編集者がそんなことをしていたら、本がてきぱき出せなくなると言われたものですが、ぼくがだいたいの翻訳書において、そうせざるをえなかったのは、バブルの本を出したときの苦い経験からです。でも、ほんとうは鈴木先生のおっしゃるように、信頼のできるいい翻訳者と校正者を見つけることが、編集者の最大の仕事かもしれませんね。
 編集者は翻訳者や著者、校正者、印刷の営業担当者、社内の販売担当の人と、しっかりした信頼関係ができなければ、いい本がつくれません。また、それまでには長い時間が必要になってきますね。
 ほかに翻訳書ではこんなトラブルもありました。いちおう監訳者をつけていても、急ぎの場合は何人かで翻訳を分担してもらうことがあります。このときに、つい見落とすのが、固有名詞の不統一ですね。それが人名や地名のこともありますし、組織や機関の名称であることもあります。それが不統一のままで、監修者も気づかないことがあるのです。固有名詞は要注意ですね。
 誤訳の問題はそれこそ限りなくあって、ぼくも別宮貞徳先生からずいぶん教わりましたが、別宮先生の得意技は、新刊書をもってご自宅にうかがうと、ぱらぱらと本をめくられて、あっ誤植があったと指摘されることでした。それほど多くはないのに、あれだけは不思議でしたね。まるで手に吸い寄せられるように、誤植が浮き上がってくるのには、毎回、身がすくみました。

 翻訳書については、ほかにもいろいろな出来事があるのですが、とりあえずこのあたりでやめておいて、もっと一般的なミスについて、話すことにしましょう。
 翻訳書のトラブルが知識の不足に由来するとしたら、これはいわばうっかりミスというもので、本のなかでいちばん多い誤植はこれが原因です。
 これを防ぐには、手間を惜しまないということでしょうか。ぼくはこれでずいぶん失敗しました。
 本をつくるときにはだいたい再校までとります。新聞関係はともかく、出版関係では、社内に校閲部はありませんでした。ぼくの会社では外部の校正者に初校をみてもらい、著者校とつき合わせて、再校をとり、もう一度著者に見てもらい、編集者も読んで、それを責了とするのがふつうでした。
 ところが、ここにまま落とし穴があります。本のなかには、とくに歴史書などの場合、索引をつくるという作業があります。ぼくは割合これが得意でしたが、索引作りはけっこう手間のかかる作業で、それに時間をとられていると、再校を読む作業がおろそかになってしまうのです。再校では初校の赤字をいちおうつきあわせて、自分でもゲラを読み、著者から戻ってきた赤字をこれに加えていくのですが、索引づくりに手間取ったときや、いまひとつ気合のはいらない本の場合は、つい流し読みしてしまうことがあります。
 著者の校正はわりあい粗っぽいので、あまり当てにはなりません。残念ながら、ミスに気づくのは本ができてからですね。たしか直したはずのところが直っていなかったり、直していないはずのところが直されていたり、つい印刷所に苦情をいいたくなるのですが、よくよく考えてみれば、こちらの不注意が原因ですね。
 ぼくの悪い癖は、イラッチというか、めんどくさがりというか、アバウトなところです。ほんとうは最後にじっくりゲラを読む作業が必要なんです。ところが、400ページ近い本や、内容の難しい本、あるいはあまりおもしろくない本になると、ついつい投げてしまう。ざっとしか読まない。これがいけないですよね。コストの問題はあるにせよ、ほんとうは再校も校正者に見てもらうべきだと思います。
 こわいのは、固有名詞と写真説明です。人の名前はむずかしいですね。まちがっていても気づかないことがあります。これは元をよくよく確認し、ネットで検索するだけでなく、紙の資料で確認したほうがいいですね。地名ではたとえばベネツィアかヴェネツィアかヴェネチアか、不統一が生じることがままあります。新聞表記などの場合は、たとえば『記者ハンドブック』などで確認すれば済むのですが、それ以外の表記を採用するときは、校正のときに、いちおう固有名詞を書き出して整理しておく必要があります。
 写真説明では、たとえば日付があっているのか、それが該当の人物なのかをしっかり確認しておかねばなりません。ぼくが失敗したのは、あるお母さんが娘ふたりと写っている写真があって、その姉妹の名前を、お姉さんと妹さんで逆にしてしまったという経験があります。
 それから、これはぼく自身の失敗ではありませんでしたが、ある年鑑に、ネパールの王家と天皇家の系図を並べて掲載したことがあります。ネパールの王家は消滅する寸前でしたから、そこに天皇家の系図を並べること自体が大胆といえば大胆でした。しかし、そのこと自体は問題になりませんでした。問題になったのは天皇家の系図が何とまちがっていたことです。たしか宮家がひとつ抜けてしまっていたのではないでしょうか。このとき本は回収、すべて刷り直しになってしまいました。
 たった1枚の図版でも、とくに天皇家がらみのものはこわいです。
 こんなこともありました。ぼくの部では、毎年春先になると、新聞社にプロ野球全球団の選手名簿を、そっくり紙面のかたちにして送る仕事をしていました。担当者はベテランだったので、ぼくはかれに仕事をまかせて、もう一つの大きな仕事にかかりきりになっていました。
 名簿ができあがったものを送ったところ、ある新聞社から、選手のポジションがちがっているのではないかと電話がかかってきました。そこで念のために、もう一度校正してみると、いや出てくるわ出てくるわ、10カ所以上ミスがあるではありませんか。すでに新聞に掲載した社もあります。あわてて訂正を出しましたが、間に合いませんでした。これは毎年のことだからと、担当者がしっかりと校正をしていないことがミスの原因でした。
 あとでよくよく調べてみると、これを製作している会社では、経費節約のために、新しく版を起こさないで、去年の版下を流用し、向こうの担当者がざっと原稿をみて、追加の手直しをしていることがわかりました。そのことに気づかないで、こちらの担当者ができあがったゲラを見て、まあだいじょうぶだろうと軽い気持ちでOKを出し、そのまま新聞社に流してしまったのです。
 このときは、ぼくもだいぶ落ち込んで、それが原因でしばらくして担当部署を異動させられることになりました。新聞社にも読者にも迷惑をかけた事件でしたが、しかし、いちばん悪いのはぼくで、担当者にまかせきりにしないで、ぼく自身が一日時間をとって、最後の点検をしておけばよかったと悔やんだものです。これもまた手間を惜しんだことから生じたミスですね。
 要するに、あせらず、気を抜かず、念には念をいれて、ということでしょうか。できれば何度か読みなおす。そして、おかしいと思ったり、迷ったりしたときは、まず『記者ハンドブック』をみて、さらにほかの資料にあたってみるということでしょう。資料については、ひとつだけではなく、できれば2つ、3つの資料でチェックする必要があります。ウィキペディアをうのみにするのは危険です。
 それでも、まちがいは出ます。ぼくも160冊ほど単行本をつくりましたが、完璧な本は1冊か2冊ですね。あるときなどは、崇(あがめる)という字が、なぜか祟(たたる)という字になっていて、それこそ本のカミさまのたたりじゃと思って、ぞっとしたことがあります。
 意外とこわいのは、本づくりの最終工程にひそむワナです。やっと、できあがったと思って、気が抜けてしまうのでしょうね。本には奥付というのがあります。タイトルや著者名や社名、発行人、発行日、電話番号などが書いてあるページですね。本の書誌にかかわるだいじなページです。ところが、この校正が手抜きになることがあります。
 ぼくは一度サブタイトルをまちがえたことがあります。それから電話番号をまちがえたこともあります。一度なんかは、再版のときに初版の発行日を消してしまったこともあります。発行人の名前をまちがえたこともあります。関係者にはあやまって、何とかごまかしたものの、奥付がまちがっていると致命傷になることがあります。たとえば、本のカバーと奥付でタイトルがちがっていたら、どうでしょう。あるいは発行日が2013年が2014年になっていたら、どうでしょう。取次で本を扱ってもらえなくなってしまう可能性が高いです。そうなると、全部刷り直しです。
 それから、ぼくは本のカバーで苦い経験をしたこともあります。これらの部分は、編集者が原稿を入れて、装丁家がデザインをするのですが、ときに装丁家がデザイン上、気をきかせて、文字なりデータなりを自分で追加してくれるときがあります。ぼくの場合は『ヒトラーとチャーチル』という本だったのですが、このときは装丁家が、どうもカタカナだけだと間が抜けてしまうと判断したのでしょう。英文でHitler, Churchillといれてくれたのです。ところがあろうことかチャーチルのhがぬけて、カーチルになっていました。そのことに気づかず、本は書店に並んでしまいました。本の顔だけに恥ずかしかったですね。いい本だったのに、ミスがあると、そればっかりが目立って、中身が霞んでしまいます。

 そんなわけで、恥ずかしながら、これまでの数々の失敗をお話ししました。実際、ミスが重なると、2、3日は落ちこむものです。しかし、ここで杉田玄白のことばを思いだしましょう。それは最初に申しあげたように、「昔のことはいつまでもくよくよしない。ずっと先のことはあまり思いわずらうな」というものです。つまりいまをしっかり生きること、これが健康の秘訣だというわけです。ぼくの友人は、ぼくが失敗するたびに、「原稿より健康」となぐさめてくれたものです。
 ミスはミスとして認めて、あとは前向きにということでしょうか。成功は失敗のもと、そして失敗はかならず身につき、プラスにはたらきます。ですから、失敗をおそれる必要はないわけです。
 いま本の世界はなかなか厳しくなっています。書店数はこの10年で1万9000店から1万4000店へと5000店も減ったといわれます。とくに町の本屋さんがなくなりました。編集者もまた苦戦を強いられ、本の仕事から手を引く人が増えています。逆にフルタイムではたらく人は、たとえば、これまで年に8冊つくっていればよかったのが、月に2冊がふつうになってきました。
 紙の本がなくなるという話もあります。しかし、電子書籍はもうかったという話を聞いたことがありません。それでも、だんだんと電子書籍への移行は進んでいくのでしょう。
 ただし、ウンベルト・エーコは、長い目でみると、残るのは紙の本で電子書籍ではないといっています。これはよくわかります。なぜなら、電子媒体ほどすぐ消えてしまうものはないからです。フロッピーやMDはもう見かけなくなりましたが、CD、DVDもいつまで残るでしょうか。フロッピーなどは、もう使えなくなっていて、昔フロッピーに保存したデータを読もうと思っても、システムが変わって読めないのが実情です。
 ぼくはキンドルを買って、いまこれを重宝していますが、これがはたして10年後に残っているかどうかも、疑問です。すると、10年後に残っているのは、意外にも紙の本だったりするということも、ありうるのです。
 しかし、いずれにしても本というものはゴキブリのように残っていきます。本はゴキブリ文化だといったのは、20年以上前から電子書籍について考えていた津野海太郎さんですが、ゴキブリというのはたぶん人類がいなくなっても残るという意味ですね。逆に電子書籍は媒体が使えなくなれば、それで終わりです。人類がいなくなれば電気もなくなるでしょうから、そのとき残っているのは紙の本ですね。
 なにはともあれ、これからも本は文字とともにあるといえるでしょう。そして本づくりにミスはつきものであるわけですが、ぼくがさまざまなミスにもかかわらず、編集者をやめないで、本づくりをつづけてきたのは、やはり本の世界がおもしろかったからですね。
 編集者と校正者は本の最初の読者でもあります。本を読めば、いろいろな世界が広がっていきます。ファンタジーやミステリー、時代小説も楽しいでしょう。政治や経済の知識を得ることもできます。日本や外国の歴史も知ることができるし、宇宙のこともわかってくるかもしれません。本というのは世界への窓みたいなものですね。いや、それだけではなく人の心をのぞく窓でもあります。ですから、数々のミスをおかしたにせよ、長く本づくりに取り組むことができたのは、ぼくにとっては苦しいながらも楽しい経験でした。
 本は文化だといわれますが、それはなにも本が教養だからというわけではなく、本がことばを記録しているからです。少し大風呂敷を広げていうと、本は時代を反映し、時代を保存します。その意味では、本はタイムカプセルなのです。昔の本を読めば、昔のことがよみがえってきます。本は懐かしの媒体もあります。
 しかし、はたしてそれだけでしょうか。本は何よりもことばなのです。本は未来に向けてことばを用意しているといってもよいでしょう。
 ちょっと大げさかもしれませんが、おそらく、ルターが聖書をギリシャ語からドイツ語に訳し、それがグーテンベルクの印刷機で印刷されて広がらなければ、いまのドイツ語はなかったかもしれません。ダンテがトスカーナの方言で『神曲』を書かなければ、いまのイタリア語はなかったでしょう。あるいは日本でいえば、いまの日本語の基礎をつくったのは、夏目漱石や森鴎外でしょうか。本というのは、どんな本でも、知らず知らずのうちに、ことばを保存し、未来に向けてことばを発しているともいえるわけです。
 ですから、本にならなければ、ことばは消えていく運命にあります。いま世界では何百もの言語が消滅の危機にあるといわれます。多くの先住民のことばにかぎらず、イギリスでもマン島語が最後の話し手がいなくなって消滅しました。パプアニューギニアでも同じように、ことばが消えようとしています。ですから、ことばを記録する本の使命は意外とだいじなわけです。
 これから日本語がどうなっていくのかも実は大きな問題です。あと100年もすれば、日本でも公用語は英語になっていて、日本語は家庭のなかでしか話されない方言になっている可能性もないとはいえません。実際、安倍さんや猪瀬さんまでが英語でスピーチする時代ですからね。その意味では、日本語を残すという点でも、本のもつ潜在的な意味は大きいと思います。
 ことばはどんどん変わっていきます。工藤幸雄先生はよく「翻訳は20年しかもたないんだよ」とおっしゃっていました。それは言い換えれば、20年たてば、ことばはずいぶん変わっているということでもあります。
 森鴎外はアンデルセンの『即興詩人』を雅文調で訳しましたが、いまアンデルセンの同じ本を鴎外のように訳せる人はいないでしょうし、もし村上春樹がこの本を訳したら、まったくちがう雰囲気のものになるのではないでしょうか。
 つまり、ことばは世代の移り変わりとともに、変わっていきます。そのことに、われわれは意外と気づかないのですが、少なくともその移り変わりをきちんと保存してくれる媒体が本だともいえるわけです。
 そのことばを支えているのは、著者であり、編集者であり、校正者であるということができます。校正者はことばのプロです。編集者は、校正者に助けられて、ようやく本をつくることができます。
 鶴見俊輔さんは「われわれの知識は、マチガイを何度も重ねながら、マチガイの度合いの少ない方向に向かって進む」とおっしゃっています。ですから、マチガイをおそれないで、マチガイから学ぼうということを、きょうは申しあげたかったわけです。

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