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嗜好品の背後では?──『グローバル経済の誕生』を読む(4) [本]

 ここで嗜好品というのはコーヒー、紅茶、ココア、タバコ、砂糖など、癖になる飲み物や食べ物を指しています。しかし、麻薬を含めて、著者はこれらをドラッグ食品と名づけています。
 もともとは限られた地域でしか栽培されていませんでした。コーヒーはエチオピア、茶は中国、ココアはメキシコやアンデス一帯、タバコはアメリカ大陸といったように。それがいまは世界じゅうに広がって、だれにとっても、なくてはならない文化となりました。
 著者はこんなふうに書いています。

〈紅茶のないイギリス人、カフェオレのないフランス人、エスプレッソのないイタリア人、コーヒーブレイクのないアメリカ人を、誰が想像できようか。……コーヒーとタバコが男性関連だとすれば、チョコレートは女性と子供の飲み物だった。噛みタバコは庶民用、嗅ぎタバコと葉巻はエリート用となった。金持ちは、エレガントなサロンでメキシコ製の銀のティーポットから中国製の陶器のカップにそそがれる中国茶を飲んだ。他方、庶民は街頭の物売りから購入した紅茶を薄汚い粗悪なマグカップでちびちび飲んだ〉

 問題は、先進国の消費者を楽しませた、こうしたさまざまな嗜好品(ここにはコカやアヘン、マリファナといった本物のドラッグも含まれます)の背後に、どのような商品経済の論理がはたらいていたかということです。それを第3章で、著者は次々と検証していきます。

 カカオ豆はマヤやアステカの貴族や戦士に珍重されていました。興奮剤や麻酔剤、媚薬として利用されていたようです。貨幣としても用いられました。これをスペインに紹介したのがイエズス会の修道士です。16世紀初頭のスペイン人はカカオ豆をつぶして水で溶かし、砂糖、シナモン、バニラを加えて飲んでいました。お湯で溶かし、ミルクを加えるようになるのは18世紀になってからです。そのころカカオの栽培地は、ベネズエラ、ブラジル、インドネシア、フィリピンにまで広がっています。1828年、オランダ人のヴァンホーテンがココアを発明、さらに19世紀後半にミルクチョコレートが開発されます。
 ここにあげた嗜好品のうち、茶だけはしばらく中国によって守られていました。中国茶が紅茶に変貌するのは偶然の産物ですね。イギリスでは紅茶と砂糖が結びついて、中国からの茶の輸入がどんどん膨らんでいきます。その赤字を解消するために、イギリスが中国に持ちこんだのがアヘンだったという話はあまりにも有名です。いっぽう、イギリスは19世紀に中国から茶の木をもちだし、それをセイロン(現スリランカ)やアッサム地方(インド北東部)に移植することに成功します。
 コーヒーはもともとエチオピアが原産地でしたが、次第にイエメンの山岳地帯でもつくられるようになり、1400年ごろからモカで、1500年ごろからアラビア半島で飲まれるようになりました。こうして、イスラム世界全体に広がっていったわけです。ヨーロッパにコーヒーが伝わったのは、1683年、オスマントルコ軍がウィーン包囲に失敗したあとからだといいます。トルコ軍が残したコーヒーをベースに、ウィーンでコーヒーハウスがつくられました。
 最初のころヨーロッパ人はモカで高いコーヒーを仕入れる以外に手だてはありませんでしたが、ルイ14世の植物園で、イエメンから持ち帰ったコーヒーの苗木が育てられ、それがアメリカ大陸に運ばれていくことになります。これがモカ・コーヒーのはじまりです。
 しかし、それ以前にコーヒーはヴェネツィア人によって、すでにヨーロッパに持ちこまれていました。イタリア人がエスプレッソを飲む習慣は、ヴェネツィア人によってつくられたといってよいでしょう。
 ロンドンでは男たちがコーヒーハウスに入り浸りとなり、それが妻たちの怒りを買って、コーヒー排撃運動が発生します。イギリスが紅茶の国になるのは、そうした要因も手伝ったようです。それでもイギリスは別として、スウェーデンでもプロイセンでもパリでも、そして合衆国でもコーヒー文化はたちまちのうちに広がっていきます。
 当初、アメリカ人はイギリス人と対抗するためにコーヒーを愛飲するようになったといわれます。しかし、事実は奴隷制度がコーヒー生産を支え、その価格を廉価にしたのだと著者は指摘します。最初はハイチでした。その後、ブラジルがコーヒーの供給元となります。アメリカ人がコーヒー漬けになるのは「コーヒーが奴隷制度で安くなり、しかもコーヒービジネスが儲かったからなのである」と書かれています。
 次は砂糖について。かつて「アンティル諸島の真珠」と呼ばれたハイチが貧困にあえぐようになったのは、砂糖が原因でした。サトウキビは昔からあったとはいえ、これを砂糖に精製したのはアラブ人で、ヴェネツィア人はまたもアラブ人との砂糖交易で、大儲けすることになりました。ヴェネツィアに対抗して、ポルトガルは最初西アフリカ沖のサントメで奴隷による砂糖栽培をはじめます。それがさらにブラジル、そしてフランス領のハイチへと持ちこまれたわけです。「砂糖プランテーションのオーナーたちは、古代ローマ時代を思わせる残忍極まりない奴隷労働を酷使して富を蓄えた」と著者は書いています。
 そのハイチで1791年に革命が発生し、1804年にハイチは独立を果たします。しかし、そのあとには何も残りませんでした。島は砂糖に代わるものを何も見つけられず、合衆国の勢力圏に吸引されていきます。こうして「熱帯の楽園」は「惨めで活気のない僻地」へと変わっていくことになります。
 イギリスがインドのアヘンを中国に輸出したのは、もっぱらイギリスの貿易赤字を解消するためだったということは前にも述べました。それにより中国では通貨危機が引き起こされ、アヘン輸入禁止措置をとった中国にイギリスは戦争をしかけます。それがアヘン戦争でした。
 さらにイギリスはインドのアヘンで大幅な貿易黒字を出し、大西洋での貿易赤字を埋め合わせます。「アヘンは、中国、インド、イギリス、合衆国を結び付け、四角貿易を成立させ、さらにイギリスの工業化を推進し、19世紀における世界経済の革命的拡大を支える中心的役割も果たした」と著者は述べています。
 そして現在はコカインの時代です。コカの木はボリビアからペルーにかけての熱帯林に繁茂し、もともと宗教儀礼に用いられていました。スペイン人はそれをポトシ銀山でインディオたちを働かせつづけるために利用します。
 コカコーラは1948年までコカイン入りの飲み物でした。麻酔薬としてのコカインは1860年ごろから使用されますが、同時に麻薬としても根強い人気があったのです。ドラッグストアでは、かつてコカインが売られていました。それが20世紀になって、享楽品としては禁止されるようになるのですが、1970年以降はコカインが新たなブームとなり、たびたびの取り締まりにもかかわらず、密売人の横行はやむことがないというのが実情です。
 商品のブームの背景には、時に悲惨な風景が広がっています。生産の場であれ、消費の場であれ、商品の論理が力(契約と暴力)を背景としているという事実に、われわれはもうすこし自覚的であっていいのかもしれません。一皮めくれば、人類の社会も、経済学のきれいごとではすまされない、ホッブズ流の生存競争の渦中にあるようです。

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