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輸送技術と商品化──『グローバル経済の誕生』を読む(3) [本]

 輸送技術の進歩は人類に何をもたらしたか、というのが今回(第2章)のテーマです。
 かつては長距離輸送の中心は水上交通でした。しかし、最後は陸路が決め手になってきます。牛や羊は途中、野草を食べさせて移動できるというメリットがあります。中米のマヤやアステカでは、奴隷が何十キロも荷物をかついでいました。
 海路にせよ陸路にせよ、自然条件が大きな制約になったことはいうまでもありません。自然と人間をコントロールして、輸送コストをいかに下げるかが課題でした。19世紀の蒸気機関と鉄道は、輸送コストを大幅に下げただけではなく、商品輸送のスピードを一挙に速めます。かつての中継地や中間商人は没落し、世界中の商品が集まる市場が発展します。その反面、植民地主義がますます強化されるといった側面も生じました。
 以上が第2章の概要といってよいでしょう。
 再認識した点をもうすこしピックアップしておきます。
 14世紀から15世紀にかけ、巨大船を建造する能力をもっていた中国は、明時代半ばになると海への進出を断念し、国内の治安維持に専念するようになりました。木材は王宮建設をはじめとする国内需要のために利用されました。「小型船で陶磁器や絹を中継地に運び、そこでインド産の綿花やインディゴを仕入れ」るというのが、中国貿易商のパターンでした。そのため、中国人は次第に海上交通路を独占しようとするヨーロッパ人に対抗できなくなっていった、と著者は書いています。
 ヨーロッパ人が航海技術を発展させたのは、海外から巨万の富を得るという欲望に駆られたからだといいます。それがコロンブスを動かした動機にほかなりません。「欲望のとりことなったおろかな男」、コロンブスが「新大陸を発見したのは偶然に過ぎず、発見した大陸がどこであるのか、見当もついていなかった」と、著者は辛辣に指摘しています。
 18世紀において、都市を維持するのがたいへんだったのは、輸送の問題があって食料の安定供給がむずかしかったからだといいます。ロンドンはともかく、パリやマドリードではしょちゅう暴動が発生しました。近郊に広大な農地が広がり、運輸システムが整備されていないと、都市は発展しません。江戸やカイロ、イスタンブールなどが大都市に成長したのは、そうした条件が満たされていたからです。北京とデリーは肥沃な農地から遠かったにもかかわらず、卓越した運輸システムと徹底した食料管理によって、難点を克服し、大都市の繁栄を維持しました。
 ムガール帝国の交通路を支えたのがパンジャーラ族という遊牧民だったというのは興味深いですね。かれらは牛をひきつれて村から村へとゆっくりと渡り歩き、穀物や塩、衣類、ダイヤモンド、その他を運んでいたといいます。
 アメリカの西部開拓は、自給自足農業のうえに成り立っていたわけではないという指摘もなるほどです。アメリカは釘にせよ衣服にせよ、ヨーロッパからさまざまな工業製品を輸入しなければなりませんでした。そのためには、穀物、米、綿花、そしてタバコなどの農産物や木材などを輸出する必要がありました。船積みの効率を考えて、東部には倉庫が建設され、商品が蓄えられます。ヨーロッパからの工業製品はあまりかさばらないため、ほかに移民を積みこむことができたというのは、へえっという感じ。
 アメリカへの移民はおもにヨーロッパ人ではなく、大半がアフリカ人奴隷であり、そのあと中国人がやってきたというのは、やっぱりと思います。19世紀までの移民は、ヨーロッパ人が100万人〜200万人、アフリカ人が800万人、中国人が400万人だったといいます。アフリカ人は使い捨ての奴隷として扱われたのですね。その後、中国人が相対的にあまり増えなかったのは、どこかで強い規制がなされたためでしょう。
 清朝の時代に、中国人が大移動していたというのは、はじめて知りました。満洲には100万人、四川や台湾にも移民の波が押し寄せます。清朝は祖先の地である満洲や、先住民のいる台湾を保護するために、移民を制限しなければならなかったほどだといいます。おそらく農業開発が関係しているのでしょうが、このあたり江戸時代との比較で、もうすこし知りたいですね。
 イギリス人のラッフルズ(1781-1826)は、シンガポールを建設しました。これにより「イギリスはシンガポールを基点に、かつて東インド会社がイギリスとアジア間の独占的貿易をおこなった規模よりもずっと大きな規模のアジア域内貿易に参加し、利益を得ることができるようになった」といいます。シンガポールは「自由貿易」帝国イギリスの拠点となったわけです。そして、その収入を支えていたのがアヘンだったという点も再確認しておくべきです。
 いっぽう上海は、アヘン戦争(1840-42)終結後につくられたといってもいいでしょう。当初はアヘン交易の中心地として、のちには海上輸送の拠点、そして商業都市として発展していきます。もともとは外国人の居留地として位置づけられていましたが、しだいに中国人が押し寄せてきます。こうして上海は1920年代には「数百万の中国人と外国人が入り混じり、金と無秩序が支配する世界になった」というわけです。
 ヨーロッパとアジアの距離を短くしたのは、1869年に完成したスエズ運河です。これによってロンドン─ボンベイ間の船賃は、一挙に3割安くなったといいます。
 その後、世界は急速に変化していきました。インドンシアの島々ではタバコ、コーヒー、ココア、ゴムなどのプランテーションがつくられ、スズや石油の採掘もおこなわれるようになります。ベトナムやビルマの米は広東やロンドンに運ばれます。アジア各地にプランテーションが広がり、中国からは大量の苦力(クーリー)が導入されました。こうしてアジアでは、民族の入り混じりと分裂、差別と貧困が広がり、宗教やイデオロギーの対立も生じるようになります。
 鉄道は陸上貨物の輸送コストを削減し、大量輸送を可能にしました。時刻の標準化や商品の規格化も進みました。鉄道は軍隊を移動させるための手段としても利用されました。万一の飢餓にも、鉄道が大いに威力を発揮したことを、著者は認めています。
 以上の点を踏まえて、「輸送とは、物理的に異なる地域を移動するだけでなく、社会文化圏の相違を飛び越え、さらには歴史や時代を飛び越えてしまうことである」と著者はまとめています。輸送とは単なる空間の移動ではなく、時間の移動、つまり歴史や文化の移動でもあるのです。
 メキシコでコーヒーがつくられるようになったのは1870年代ですが、鉄道ができるまでは、強制労働をさせられるマヤの人びとがコーヒー袋を船着場まで運んでいたそうです。鉄道の建設によって、コーヒー農園は一挙に拡大し、コーヒーの生産は倍増します。コーヒー豆はニューヨークに運ばれ、オハイオ州の巨大工場で焙煎されて、全世界のコーヒーショップに卸されていきます。
 しかし、そうした輸送改良によっても、メキシコのマヤ人の労働環境が改善されたわけではありません。かれらは安い給料ではたらかされ、代々債務奴隷にされ、コーヒー袋をかついで黙々と険しい丘陵を行き来していたのでした。
 これを読むと、一概に輸送の発達が人びとを豊かにしたといえないことがわかります。単純に技術の進歩を喜べないのは、そこに(政治、経済、文化を含めた)権力という契機がかかわっているからです。

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