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賃金鉄則?──リカード『経済学および課税の原理』を読む(3) [商品世界論ノート]

 ガルブレイスは『経済学の歴史』という著書のなかで、さまざまな留保を設けながらも、けっきょく賃金についてのリカードの主張は「賃金鉄則」なるものに行きつくとして、こう書いています。

〈賃金鉄則は、労働する人は貧乏人であると決まっているのであって、情け深い国家、雇用主、または労働組合その他彼らをその貧困な状態から救おうとするのは筋ちがいである、という考え方を定着させた〉

 たしかに、これがリカードの賃金論にたいする一般の見方のようです。リカードは実際、救貧法に反対し、賃金の決定は市場にまかせるべきだと主張しました。しかし、その本意は、「労働する人」がいつまでたっても「貧乏人」であるのは仕方ないというのとは、ちがっているような気がします。かれはむしろ商品世界が広がっていくにつれて、貧乏のどん底にいる労働者の生活水準も徐々に上がっていくという可能性を構想したのではないでしょうか。
 経国済民ではなくて、経世済民ですね。それは社会主義的な発想へのいましめでもあったと思われます。しかし、予断は禁物。以下はしろうとの読み方です。
 賃金論をはじめる前に、リカードは「自然価格と市場価格について」という章をもうけています。商品の価値は労働であって、商品の自然価格は、社会的に必要と認められる労働の量によって決まるというのが、労働価値説に立つリカードの考え方です。ところが、おうおうにして商品の現実価格、つまり市場価格は、自然価格から乖離していくことがあるというのです。
 需要が大きいと商品の価格は自然価格より上がっていきますし、逆に需要が少ないと価格は下がっていきます。すると、資本は利潤率のより高い事業を求めて流動し、それによって需要と供給が調整され、利潤率が平均化されてくることになります。
 市場価格の上下は労働者の賃金にも影響をもたらします。しかし、より有利な産業部門を求めて資本が移動するにつれて、労働者もまた移動します。こうした需給の調整がたえずなされることによって、長い目でみれば、けっきょく商品の価格は、ほぼ自然価格に収斂されることになり、それによって資本の平均利潤率も労働者の平均賃金も、だいたい落ちつくべきところに落ちついていく。リカードはそう考えました。
 そうした動きを念頭に置きながら、リカードは賃金の問題を論じます。賃金についてのリカードの規定は、実にはっきりとしています。労働には自然価格と、需給によって決まる市場価格があるとしながらも、賃金の原則はこうだといいます。

〈労働の自然価格は、労働者たちが、平均的にみて、生存し、彼らの種族を増減なく永続することを可能にするのに必要な価格である〉

 リカードはときどき、こういうきつい言い方をします。要するに賃金とは労働者が家族を養いながら、何とかこの社会で暮らしていけるだけの金額を指しているというわけです。もっとも考えようによっては、現在はある意味、もっときつくて、賃金とは夫婦ふたりで働いて、ようやく子どもをひとり育てられる金額を指すという定義にまで後退してしまったとも考えられます。
 それはともかくとして、リカードは賃金を労働者の生活費と考えました。その生活費は食料や必需品、便宜品のために支出されます。そして、それらの商品価格が上がると賃金は上昇し、逆にその価格が下がると賃金は下落するわけですが、「社会の進歩とともに、労働の自然価格はつねに騰貴する傾向がある」とリカードは書いています。
 その理由としてリカードが挙げるのが、(収穫逓減にともなう)商品価格の上昇傾向なのですが、いっぽうで機械の導入にともなう商品価格の下落傾向についても言及していますから、このあたりの記述は大混乱。いったい賃金が上がるのか下がるのか、さっぱりわかりません。でも、すべてのケースを検討してみるというのが、リカード流なのかもしれませんね。
 それに輪をかけてややこしいのが、賃金の自然価格と市場価格という記述です。労働への需要が大きいときには、賃金の市場価格は自然価格を超えて上昇します。このときは労働者の生活は豊かになり、多くの家族を養うことができるようになります。逆にみじめなのは、市場価格が自然価格を下回るときで、嗜好品どころか必需品も買えなくなり、窮乏が身にしみます。
 リカードは、社会が進歩しているときには、賃金が自然価格を上回る傾向があるとみています。人口増は賃金を引き下げる要因なのですが、「もしも資本の増加が漸次的かつ恒常的におこなわれるならば、労働に対する需要はおそらく人口の増加に対して継続的な刺激をあたえるであろう」と書いています。
 商品の価格が変わらず商品の量が増える場合、あるいは商品の価格が下がって商品の量が増える場合、いずれも労働需要が大きくなり、賃金は(自然価格より)一時高くなるものの、商品需給と利潤率の関係により、資本の部門別配置が落ちついてくると、賃金もまた落ち着きをみせるというのがリカードの考え方です。そして、とりわけ商品の価格が下がっても、資本が増加しているときは、労働者の境遇が大いに改善されるというのです。
 労働の自然価格は場所や時代によって異なり、「本質的には人民の習慣と風習に依存している」ので、社会が豊かになれば、生活水準を反映する実質賃金もまた上がっていきます。そして、賃金が上昇するのは、人口の増加以上に資本が蓄積されていく場合だとリカードは考えました。
 そして、こんなふうに述べています。

〈人類の友が願わないでいられないのは、すべての国で労働階級が安楽品や享楽品に対する嗜好をもち、それらの物を入手しようとする彼らの努力があらゆる合法的手段によって刺激されることである。過剰人口を防ぐには、これにまさる保障はありえない。労働階級が最小の欲望しかもたず、最も安い食物で満足している国々では、人民はひどい浮沈と困窮にさらされている。彼らには災難からの避難所がない〉

 資本が蓄積されず、商品世界の広がりがごくわずかな地域においては、労働の需要が少なく、賃金はせいぜい安い食物を買える程度しかもらえません。こういう場所では労働者は働くにも働く場所がなく、働こうともしないとリカードはとらえているようです。とはいえ、貧しい国の貧困の実態をとらえるには、おそらく、また別の観察と考察が必要になってくるでしょう。
 人口の増加以上に資本の蓄積が進む場合は、社会が進歩し、労働者の生活も豊かになっていきます。しかし、そうではない場合も考えられます。労働者の供給にくらべて、資本の増加が少ない場合はどうでしょう。とうぜん労働者は職につけず、労働賃金も下落していきます。
 リカードは人口が増えるにつれて、必需品の価格は上昇していくと考えていました。リカードの時代は、産業の中心はまだ農産物などの第一次産業で、産業革命はまだ端緒についたばかりでした。ですから、人口が増えると、新たな農地を切り開かねばならず、それは従来よりも劣等地になるので、農産物の価格も上昇していきます。ここから、もうひとつの賃金問題が発生します。
 必需品の価格が上昇するにつれ、生活費である賃金も上昇していくのですが、その割合は物価上昇率をカバーするところまでいかないのです。この場合は賃金が上昇するにもかかわらず、従来と同じだけの穀物を買えなくなり、リカードの言い方によると、あまり値段の上がらない茶、砂糖、石鹸、ろうそく、家賃はともかくとして、値段の上がるベーコン、チーズ、バター、リネン、靴、服地などは節約せざるをえないということになります。
 さらにリカードが指摘するのは、貨幣価値が変動して、全面的に物価が上昇する場合です。これはとつぜん金の産出量が増えて(いまならさしづめ大幅な金融緩和その他によって)貨幣価値が下落する場合といってよいでしょうが、この場合は見かけ上賃金が増えたとしても、その賃金によって買うことのできる商品の量は以前と変わらないということになるでしょう。
 このように賃金の原理を説明したあと、リカードは「賃金は市場の公正で自由な競争にまかせるべきであり、けっして立法府の干渉によって統制されるべきではない」と結論づけています。具体的にいうと、リカードは当時イギリスで実施されていた救貧法(ギルバート法ならびにスピーナムランド制)に反対したわけです。この点にかぎって、リカードは論敵であるマルサスと軌を一にしています。
 リカードが救貧法に反対したのは、ひとつにそれが貧民の境遇を固定化してしまうこと、さらに救貧法が存在することで、かえって労働者の賃金が抑制されてしまうこと(最低生活費に足りない分は国が補填してくれる)、また国家財政への負担が大きくなりすぎること、そして全階級への税負担が重くなってしまうことなどが理由でした。
 市場経済と福祉制度の相克は、現在でも大きな論議を呼んでいる問題です。いまここに立ち入ることはやめておきますが、ただ、リカードが市場主義の立場をとっていたことは明白です。リカードは市場社会、いいかえれば商品世界に幻想をいだいていたのかもしれません。しかし、もう少し時代を下るまでリカードが生きていたら、しかしそれは社会主義の幻想よりはるかに上等だと反論していたでしょう。
 リカードは労働者が貧窮化することを望んではいませんでした。とはいえ、現実の労働者が貧窮していたのは事実です。だからといって、国家がその最低生活費を負担すればすむ問題なのでしょうか。リカードの考えたのは、資本が蓄積されて、商品世界が広がり、それに応じて、労働者の賃金も徐々に上がっていくといった社会のあり方でした。したがって、もし国家が市場社会を全面的に統制し、商品世界の広がりを抑えるようなことになれば、労働者は貧困から逃れるようにみえて、実は国民全体が貧困の虜になってしまうのではないか。リカードはおそらくそんなふうに考えたのだと思います。
 とはいえ、このリカード流の市場主義もまた、のちに破綻をまぬかれませんでした。そのことはカール・ポランニーが『大転換』のなかで論じていますが、また項を改めて紹介するとして、次はリカードの利潤論をみていくことにしましょう。

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