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ブローデル『地中海』を読む(1) [商品世界論ノート]

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 読み残しの本をできるだけ読みたいと思いながら、怠け癖が身についているので、それもなかなかかなわないのですが、ことしはブローデルの『地中海』に挑戦してみることにします。
 著者のフェルナン・ブローデル(1902-85)はフランスの歴史学者です。『地中海』は原題ではなく、原題は『フェリペ2世時代の地中海と地中海世界』といいます。ここにでてくるフェリペ2世(1527-98)はまずスペイン国王といってよいでしょう。翻訳で全5巻2000ページ以上ある大著ですから、はたしてどこまで消化できるか、はなはだ心許ないものがありますが、理解できるところだけを斜め読みしようというわけです。例によって、途中で投げだしてしまうかもしれませんが、その節はご容赦のほど。
 序文をみると、ブローデルは地中海が好きだったと書いています。また16世紀の地中海はいまよりはるかに躍動的だったといいます。それは単なる海ではなく、それをとりまく環境があり、そこで暮らす人びとの生活があり、経済の駆け引きや政治のせめぎあいがあります。ですから複合体ですね。その全体をえがいてみたいというわけですね。ただし、時代はほぼ16世紀にしぼられます。いわば地中海が歴史上、最後のかがやきをみせる時代といえるでしょう。
 全体は3部に分かれています。第1部が地中海の環境と人間のいとなみについて。柳田国男流にいうと、常民の変わらぬくらしがくり返されています。第2部は地中海の社会史です。この時代、地中海周辺の社会がどのように動き、変化してきたかを研究しようというわけですね。そして、第3部にできごとや事件、政治的衝突などが取りあげられます。これは伝統的に「歴史」と称されている部分です。
 初版は1949年で、再版は1966年。この間に大幅な書き直しがなされました。日本語版は再版をもとにしています。
 きょうは第1部「環境の役割」のうち、第1章「いくつもの半島──山地、高原、平野」を読んでみます。地理の役割を重視するのがブローデルの特徴のようです。
 地中海はイタリア半島やバルカン半島、小アジア、北アフリカ、イベリア半島などによって囲まれています。その南にはサハラ砂漠があり、北にはヨーロッパの国々、東にはアジア世界、西には大西洋が広がります。
 そう概括したうえで、ブローデルは地中海は「陸地に締めつけられた海」だと書いています。その骨格をなすのは、アルプスやピレネー、アッペニーノ(アぺニン)、カフカス(コーカサス)、アトラスといった山脈です。山々には雪が降り、時にその雪は各地に送り届けられました。雪は高級食品であり、イタリアでジェラートやシャーベットの技術がかなり早くから発展したのは、雪のおかげではなかったかとブローデルはいいます。
 でも平野人にとって、山は野生と未開の地でした。貧しい地方でもあります。緑が多い山、地下資源が豊かな山、戦争や海賊からの避難所となる山もあります。人がいない場所、かと思うと住居がちらばっているところもあります。たいていが耕作に向いておらず、牧畜生活。それでも自給しなければならないので、わずかながらブドウ、麦、オリーブが栽培されます。
 山の歴史は文明の周辺にあるとブローデルはいいます。キリスト教もイスラム教も山にはいるまで時間がかかります。魔術と迷信が日々の生活を支配していました。だから悪魔の山々です。しかし、山は障害であると同時に「自由な人間のための国」、デモクラシーの避難所ともなります。封建制も専制政治もなかなか山にははいってこられませんし、ローマ教皇やカリフの支配もおよびません。
 山はけっして閉ざされているわけではありません。石切場や鉱山があります。小麦や大麦、ブドウがつくれる畑もあれば、乳製品やチーズ、肉の生産地でもありました。狩猟もできるし、ミツバチもいます。栗、桑、クルミの木も見つかるはずです。水が豊富であれば菜園や果樹園を開くこともできます。とはいえ山の畑を維持するには日々の苛酷な労働を必要とするでしょう。
 貧しくつらい生活から抜けだそうとして、山から下りてくる人もいます。「山の餓えは……人々が山を下りて町に行く最大の原因である」。カスティーリャでは、北の山から人がおりてきて、夏の農作業を手伝い、そして麦とワインをもって帰っていきます。刈り入れや荷揚げがかれらのおもな仕事でした。それは山の上と下の往復運動です。
 兵士になる者もいます。「山は、ほぼ伝統的に特定の君主専用の正規の兵士を供給する」。たとえばコルシカやアルバニア。それがうまくいかないと、「独立して仕事をはじめ、山賊になる」というわけです。船員や商人、農業労働者になって山を出て行く人もいます。外国に移住し、フランクフルトで銀行家になったり、ローマで薬局やパン屋を開く人もでてきます。アルメニア人はコンスタンティノープル、チフリス、オデッサ、パリ、アメリカ大陸へと散っていきました。山は「他人が使うための人間をつくりだすところだ」とブローデルは書いています。
 そして「山の生命はたしかに地中海の最初の生命であったように思われる」とも。狩猟と牧畜、そして焼畑と開墾、移住が高地の生活の基本でした。古代から中世にかけて平野はまだ「淀んだ水とマラリアの領分」で、新しい土地にはなりきっていなかったのです。
 山と平野の途中には高原や台地、丘陵が広がります。土壌は乾燥し、街道が発達します。ローマ帝国はアッペニーノふもとの高原に街道を走らせました。プーリア(イタリア半島のかかと部分)は小麦地帯、オリーブの宝庫となりました。カスティーリャの平原では、荷馬車がひっきりなしにバルセロナやバレンシアに小麦や塩、羊毛、木材、旅行者を運んでいます。
 アトラス山脈のふもと、モロッコの台地には果樹園と菜園が姿をみせます。アッペニーノのふもとはいうまでもありませんが、それはバルカン半島西部を走るディナルアルプスの山裾でも同じです。カルスト台地に細長い土地がもぐりこんでいます。このあたりはいわば「山岳住民の住む広大な山国」で、それは兵士に守られた農村世界となっています。
 丘陵といえば、ラングドック、プロヴァンス(ともに南仏)、シチリア、モンフェラート(ミラノのあたり)、トスカーナ、アルジェ・サヘル、そしてギリシャを思い浮かべますが、いずれもワインの名産地です。斜面の傾斜を利用して、ブドウやガラスマメ(牧草)、燕麦、小麦、レンズ豆、エンドウなどがつくられています。
 そして、その下にいよいよ平野が広がります。地中海で大きな平野は10くらいですが、それはけっして一様ではなく、それぞれ特徴があります。さらに平野というと暖かくて穏やかというイメージをいだくかもしれないが、それは長年の開発のおかげであって、「大きな平野はしばしば陰気さと悲嘆のイメージを提供していたのだ」と、ブローデルは最初に書いています。洪水の問題、そしてマラリアなどの病気の問題を解決しなければなりませんでした。「平野を入植地として開拓すること、それはしばしばそこで死ぬことである」。平野の征服は古代からの夢だったのです。
 土地改良には膨大な費用がかかりました。貴族や資本家がそれに取り組みます。15世紀、16世紀には都市人口が増大しており、食料供給の面からも、周辺に耕作地を拡張しなければなりませんでした。都市の資本が農村部につぎこまれ、プロヴァンスでもトスカーナでも、カスティーリャやアラゴンでも用水路がつくられ、灌漑がおこなわれました。
 イタリア北西部のロンバルディアは、アルプスとアッペニーノに囲まれ、そのなかをアッダ川とポー川(およびその支流)が流れています。この平野が開発されたのは12世紀になってからで、最初はベネディクト会やシトー会などキリスト教の修道会がその中心を担いました。1257年に約80年がかりでティチーノ川(ポー川の支流)とミラノを結ぶ大運河が完成します。1456年にはアッダ川とミラノを結ぶ運河がつくられます。これによってポー川とアッダ川はつながり、さらにコモ湖とマッジョーレ湖がミラノを中心に結ばれます。こうしてミラノは内陸の地にあるという弱点を克服することができた、とブローデルは書いています。
 ブローデルによると、ロンバルディアの平原は3層にわかれていました。北部の高地ロンバルディアは荒れ地に近く、「貧しいが自由な小地主の地方」であり、自給自足に近い生活がいとなまれています。まんなかの平野は灌漑された台地となっており、貴族や教会の所有地です。そして、低い平野は資本家がもっている水田で、季節労働者によって米がつくられています。「農民には複数の主人がいて……農民はここロンバルディアではしばしばかつかつの生活をしている」、「農民は植民地の奴隷のような存在だ」とブローデルは書いています。
「地中海では新しい土地は金持ちに支配されている」。これが地中海の悲劇です。農地は大土地所有が原則で、領主の世襲財産はそのまま次代に伝えられていました。「金持ちと貧しい者の間にはかなりの隔たりがあり、金持ちは非常な金持ちであり、貧しい者はきわめて貧しいのだ」。たぶんそのとおりなのでしょう。
 ヴェネツィアの土地開発(これはもちろん本土部分ですが)も、大貴族と商人協同組合の出資によっておこなわれました。ここでも小麦と米、そして養蚕がもたらした利益は、農民に還元されたとは思えません。
 カンパーニャロマーナ、すなわちローマ平原の場合はどうでしょう。ここは新石器時代から農耕がおこなわれていた場所です。ローマ帝国滅亡後、衰退しますが、のちには枢機卿の大農園になり、丘にはブドウが栽培されていました。それでもまだ熱病が横行する地でもありました。
 アンダルシア南部は西に向かって草原が広がり、ブドウ畑やオリーブ園がありました。ブローデルにいわせれば、アンダルシアは「都市の庭」でした。ここではオリーブ油やワイン、織物の原料が産出されるものの、小麦は北アフリカに依存しているという状況だったのです。
 5世紀のヴァンダル人、6世紀のビザンツ人、そして、その後のアラブ人とアンダルシアには征服者が次々やってきます。そして13世紀になるとレコンキスタ(領土再統一)がはじまります。アンダルシアは「海に開かれた南部」で、16世紀にはアメリカ大陸という「贈り物」がありました。こうして中心都市セビーリャはアンダルシアを拠点にして外部へと翼を広げていくことになります。
 このようにざっと山から平野まで、地中海の様子をながめてきましたが、ブローデルは最後に、地中海で忘れてならないものは「人間と家畜の群れの規則的な移動」だとつけ加えています。プロヴァンスのアルルあたりでは、平地に住む農民が、夏、羊を山につれていきます。逆にスペインのナバーラ王国では、冬、バスク地方から羊が町に下りてきます。
 しかし、もともとは遊牧生活があったのかもしれません。遊牧生活はバルカン、アナトリア、北アフリカにいまでも残っています。実際、地中海は東と南で2つの侵入を経験しました。7世紀にはアラブ人、そして11世紀にはトルコ人が侵入したのです。アラブ人は「暑い砂漠」からひとこぶラクダをつれて北アフリカに、トルコ人は「寒い砂漠」からふたこぶラクダをつれてアナトリアにやってきました。こうした遊牧民の姿も地中海をいろどる光景のひとつであることをブローデルは強調しています。
 まあ、こんな調子で、なるべく簡略にブローデルを読んでいこうというわけですが、前途茫洋にはちがいありません。でも、のんびり進めていきますので、気が向けばまた本ブログをご覧ください。

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