開高健『ベトナム戦記』をめぐって [われらの時代]
大学1年目の冬を迎えたころ、アメリカ行きを妄想していたとはいえ、さすがのぼくも、アメリカがベトナムでひどい戦争をしていると、怒りのようなものをおぼえていた。だからといって、この戦争の意味についても、ベトナムについても、はっきりわかっていたわけではない。ベトナムは遠かった。ベトナム戦争の現場を見たいとも思わなかった。活動とか行動とかは好きでなく、ひとり静かにぼうっとしていることが多かったのだ。ばくぜんと戦争はいやだなと思っていたにすぎない。
開高健(1930-89)が朝日新聞社臨時海外特派員として、はじめてベトナムを取材したのは1964年11月から翌年2月にかけてのことである。帰国早々、それまでの「週刊朝日」連載をまとめて、3月に『ベトナム戦記』を刊行している。そのあと、かれは1968年秋にもサイゴン(現ホーチミン)を短期間訪れ、さらに73年2月から6月にかけベトナムに滞在する。そうした経験が、のちに『輝ける闇』や『夏の闇』に結実することになる。
いつも世界じゅうを飛びまわっていた人だった。よく歩き、よく話し、よく聞き、よく食べ、よく遊び、よく書いた。しかし、明るく豪快ななかに、うつうつとしたものをかかえていて、ほんとうはそちらのほうが、この人の本性だったのではないかと最近は思うようになった。
はっきりおぼえていないのだけれど、たぶんぼくが開高健のルポやエッセイを雑誌などで断片的に読むようになったのは、大学3年目のころ、つまり1970年前後からではなかっただろうか。ベトナム戦争をえがいた小説『夏の闇』は1968年に刊行されていたが、読んだのはずっとあとだ。
あのころ、ぼくは文学とはまるで縁がなく、マルクスやレーニン、ヘーゲル、吉本隆明、三浦つとむ、梯明秀、藤本進治などを半知半解のまま読みあさっていた。ぼくにとって、時折、雑誌などでみる開高健は、軽妙で愉快な文章を書くエッセイストとして立ちあらわれた。だが、それはかれのごく一部しかみていなかったことになる。
開高健は何よりも生と死と性を描き、自然へと回帰していった孤高の文学者なのだ。その原点には、つねに戦争があった。少年のとき経験した大阪大空襲と、作家の目でとらえたベトナム戦争はつながっている。かれにとって戦争は世界を包む結び目だったのかもしれない。
ベトナム戦争反対と叫んでいても、ぼくは実際には戦争を知らなかったし、いまも知らない。戦争をこわがっていたのはたしかである。戦争の現場をこの目で見たいとも思わなかった。だから、ベトナム戦争に反対していても、ベトナムは遠かったのだ。ベトナムの生の様子を伝える文章も、あまり読んでいなかった気がする。
最近、あらためて開高健のルポ『ベトナム戦記』を取りだしてみた。
ルポはまずベトナムの匂いについて書いている。それはニョクマムの匂いだ。どの町、どの村へいっても、ニョクマムの匂いがしみこんでいる。いまでこそ、ニョクマムは日本でもおなじみだが、当時はふだんあまりかぐことのない匂いだったろう。
サイゴンは「テロ、デモ、デマ、クー(デター)」が毎日のように起こるが、人びとは何ひとつ変わらず、おだやかに、いそがしく生活をいとなんでいると、 ルポは記す。
ベトナムの印象はこうだ。
〈この国は貧しい。おそろしく貧しい。市民も農民も貧しい。……けれど、この国の土と水そのものは多産で受胎力に満ちているのである〉
そして、サイゴンはどんな町だったのか。
〈サイゴンは悲しくて軽薄で罪深い都である。一歩郊外へでたらジャングル、水田、国道、夜昼問わずに血みどろの死闘がおこなわれているというのに、ナイト・クラブやキャバレは夜ごとフランスのストリップ娘や日本のストリップ娘を呼んで楽隊入り、どんがらがっちゃんの大騒ぎである〉
開高はサイゴンを拠点に、カメラマンの秋元啓一とともに、約百日にわたり南ベトナムを17度線から最南端のカマウ岬まで、精力的に取材してまわった。
「学者と高僧の町」フエでも、夜、香河のほとりを歩いているとき、爆音が響き、つぎつぎに照明弾が落とされるのを見た。いなかを回って気づいたのは村に若者や壮年の男を見かけないことだった。政府軍側であれ、ベトコン側であれ、男たちは戦争にかかりきりになっていたのだ。
「南へいき、北へいききするたびに、毎日、この国の悲惨さが眼や耳から私たちの体のなかに入ってきた」と開高は記す。
サイゴンの下町には、反政府の非暴力活動をくり広げる仏教徒の総本山があった。総本山といっても、建物はお粗末きわまるバラックだ。開高はそこの僧に仏教徒と解放戦線のあいだで協力体制が組めないかと聞いたみた。
「おっしゃることはよくわかりますが、私としては希望が持てません。はじめのうちは共産主義は宗教に対してひどくやわらかで妥協的ですが、やがて宗教を否定し、弾圧します。かならずそうです」。そんな答えが返ってくる。
このころ、開高はベトコンのうち共産主義者は1割にみたないと思っていた。ベトコン、すなわち南ベトナム民族解放戦線の実態はどうだったのだろう。すでに北のベトナム労働党が完全に解放戦線の主導権を握っていたのだろうか。
ベトナム人の性格について、ルポはある青年から教わった話を紹介する。
〈[ハノイを中心とする]北部人は勤勉で、忍耐心に富み、思考が計画的である。……[サイゴンを中心とする]南部人はお人よしで、怠けもので、情熱的、衝動的であり、心で考えていることをすぐ口にだす。……[ダナンを中心とする]中部人はこの北と南のあいだをふらふら揺れている〉
でも、けっきょくベトナム人の心は複雑で、ベトナム人自身にもよくわからないというのが真相だと、開高は思いなおしている。
ベトナム滞在中、「はげしい感情の震動」を味わいつづけたなかでも、開高にとりわけのちのちまで影響をおよぼすショックを与えたのは、サイゴンでのベトコン少年の処刑と、前線で命を落としそうになった経験である。
1月のある朝6時、サイゴン市場で処刑されたのは高校生の少年で、「やせた、首の細い、ほんの子供だった」。地雷と手榴弾を運んでいたところを逮捕され、すぐ死刑を宣告されたという。
〈短い叫びが暗がりを走った。立テ膝をした10人のベトナム人の憲兵が10挺のライフル銃で一人の子供を射った。子供はガクリと膝を折った。胸、腹、腿にいくつもの黒い、小さな小さな穴があいた。銃弾は肉を回転してえぐる。射入口は小さいが、射出口はバラの花のようにひらくのである。やがて鮮血が穴から流れだし、小川のように腿を浸した。肉も精神もおそらくこの瞬間に死んだのであろう。しかし衝撃による反射がまだのこっていた。少年はうなだれたままゆっくりと首を右、左にふった〉
このとき、「私のなかの何かが粉砕された」と開高は書いている。
その処刑からまもなく、こんどは開高自身が、サイゴンの北西50キロほどの最前線で、従軍取材中、あやうく命を落とすはめにおちいる。
1965年2月14日、南ベトナム政府軍のある大隊が、ベトコンが拠点とするジャングルを制圧しようとして中央、左翼、右翼にわかれて進軍を開始した。この三個大隊の兵員は約500名で、各大隊にそれぞれ3名のアメリカ人がついている。このころアメリカ軍はまだベトナムに直接介入しておらず、アメリカ人は顧問として南ベトナム軍を指導するかたちをとっている。
開高と秋元カメラマンは従軍して、この作戦を取材したのである。
だが、未明から一日がかりのこの作戦は、もののみごとに失敗した。ベトコン側は、ジャングルのどこからともなく、マシンガン、ライフル銃とカービン銃から銃弾を浴びせた。それにより、南ベトナム政府軍は潰走する。
〈あとでジャングルのなかで集結したとき、私は30名ほどの負傷兵を見た。あたりはぼろぎれと血の氾濫であった。彼らは肩をぬかれ、腿に穴があき、鼻を削られ、尻をそがれ、顎を砕かれていた。しかし、誰一人として呻めくものもなく、悶えるものもなかった。血の池のなかで彼らはたったり、しゃがんだりし、ただびっくりしたようにまじまじと眼をみはって木や空を眺めていた。そしてひっそりと死んだ。ピンに刺されたイナゴのようにひっそりと死んでいった〉
いったんはじまった掃射はなかなかやまなかった。
〈200人の第一大隊はあちらこちらの木の根もとに放心している兵士を数えてみると、たった17人になってしまった。私はしゃがんだまま小便を一回やり、バグを整理した。……ジャングルは深く、濃く、広大で、10メートル先が見えなかった。太陽は白熱していた。私はここで渇死するかも知れないし、餓死するかも知れないと思った。けれど私の手のしたことは生を決意していた。体力を節約するためにいつバグを捨ててもよいようにしたのだ〉
こうして開高健ははうようにしてベトナムの戦場を離脱し、興奮状態のまま東京に戻ってくる。虚脱状態がやってきたのはそのあとである。しかし、ベトナムの凄絶と鮮烈は、かれの脳裏を離れることはなかった。
1967年冬、ぼくはベトナム戦争を知らないまま、戦争はいやだと思いながら、のんべんだらりとすごしていた。
2014-01-07 16:49
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ジャングルで木の根元に寄りかかる精も根も尽き果てた開高健さんの有名な写真を思い出しました。
あの写真を見て開高健さんの本を読んだのが思い出されます。
by ktm (2014-01-10 19:48)
ktmさん、いつもお読みいただき、ありがとうございます。
by だいだらぼっち (2014-01-11 06:00)