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人口の重み──ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(2) [商品世界論ノート]

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 本書が出版された1979年と1800年以前との、いちばんのちがいは、人の数がちがうことだ、とブローデルは書いています。15世紀から18世紀の400年間に、地球の人口は倍増しました。しかし、急速な物質的進歩により、いまでは30年ないし40年のあいだに、人口が倍増しているといいます。
 かつて人口の動向には、潮の満ち引きのような増減のリズムがありました。しかし、いまは一直線の右肩上がりです。
 かつては人口が増えすぎると、かならず食糧問題が発生しました。「人口の増加が過大になると、それに伴って生活水準の低下を生ずる」のが通常でした。そこに流行病(とりわけ黒死病)などが広がると、非常に残酷な仕方で調整がなされ、「やがて均衡が回復される」というのが、かつてのパターンだったのです。
 ヨーロッパで人口が増えたのは(1)1100年から1350年にかけて、(2)1450年から1650年にかけて、(3)1750年以降の3期です。そのあいだは、残酷、あるいは緩慢な調整期となりました。1750年以降は、相次ぐ戦乱があったにもかかわらず、人口は増えつづけています。ですから、この時代以降を、近代と呼んでもいいのかもしれません。
 こうした傾向はヨーロッパ以外、たとえば中国やインドでも、共時的に生じていただろう、とブローデルはいいます。
 15世紀から18世紀にかけて、世界の人口はどれくらいだったのでしょう。統計資料はほとんどありません。
 アメリカについては、ヨーロッパ人の征服以後、先住民の人口は100年のあいだに、かつての2割ないしそれ以下まで急落したと推測されています。この崩落ぶりは、黒死病の惨事どころではありません。先住民は次々と土地を奪われ、食糧難に加えて、ヨーロッパからもちこまれた病気(天然痘、麻疹、流行性感冒、赤痢、チフスなど)によって、ほとんど絶滅の淵にまで追いこまれていきます。
 ブローデルは、史料に示されたあやふやな数字を参照しながら、科学的推測にもとづいて、できるだけ真実に近い、世界の人口を割りだそうとしています。1800年ごろにおいては、中国とヨーロッパの人口をそれぞれ4、5倍したものが、世界人口の総数になると考えられました。15世紀から18世紀にかけての400年間に、世界の人口が倍増したのは、ほぼまちがいないでしょう。このかん「人類は、彼らの占めている陸地全体において、人口の増進に対抗する多種多様の障害物に打ち勝ってきた」ということができます。
 しかし、具体的な人口の数字については、さまざまな説があり、これが正しいと確定できるわけではありません。データがとられていないため、アフリカとアジアについての数字は、はっきりせず、推測に大きな幅があります。
 アフリカの住民は、イスラム諸国とアメリカ大陸に奴隷としてつれていかれ、二重の流出をこうむりました。そのいっぽうで、アフリカの厳しい風土が、ヨーロッパ人の侵入を防ぎました。しかし、15−18世紀のアフリカに1億の集団がいたという推計はとうてい信じられず、ブローデルは16世紀のアフリカの人口はせいぜい2400万人から3500万人のあいだではなかったかとみています。
 同じく中国の人口も誇張されており、中国で人口が膨張するのは、開拓と農業革命のはじまる1680年以降であり、1680年時点の人口は1億2000万人、それが1790年には3億人に達することになるわけです。
 さまざまな検討をへて、ブローデルは1680年の世界人口を3億8700万〜5億2200万とし、その内訳をアフリカ3500万〜5000万、アジア2億4000万〜3億6000万、ヨーロッパ1億、アメリカ大陸1000万、オセアニア200万と推計しています(この数字にはかなりのぶれがあります)。
 そして、ヨーロッパの人口をみるならば、1300−1350年が6900万、1450年が5500万、1600年が1億、1650年が1億3600万、1750年が1億7300万、1800年が2億1000万、1850年が2億6600万という数字がでてくるといいます。1350年から1450年にかけては人口が減っていますが、このかんのヨーロッパは多くの村落が消滅する危機の時代だったことがわかります。
 世界の人口が全般的に上昇したのは、都市の死亡率や幼児死亡率が低下したためだといわれますが、むしろ人間が住みつくことのできる空間が増大していったためだ、とブローデルは断言しています。それは東ヨーロッパでも、ロシア南部でも、インドでも中国でも同じでした。つまり、人口が増えたからこそ、無人境や荒れ地が切り開かれていったのです。それが世界的に同じ歩調でおこなわれたのは不思議なことですが、おそらく15−18世紀にかけての気候の変化が影響しているのではないか、とブローデルはいいます。
 当時は人口の8割から9割の人が土地で生計を立てていました。この時代、北半球全体が寒冷化したといいます。17世紀末には、干ばつなどの自然災害が相次ぎ、農民の蜂起が続発しました。しかし、気候は非常に複雑な体系で、それが動植物や人間におよぼす影響は、そう簡単には推し量れない、とブローデルは書いています。人は困難に見舞われるなか、かえって土地の開拓へと向かっていったのでしょうか。
 ブローデルが本書を上梓した1979年の世界人口は40億でした。それが2010年時点では70億になっています。1300年、1800年に比べると、1979年の人口は12倍と5倍。しかし、それは単純に12倍、5倍というのではなく、人口の構成も大きく変わってきています。さらに、人口の多い、少ないは、スケール感に大きなちがいをもたらします。
 19世紀から前にさかのぼると、われわれがぶつかるのは小さな都市であり、小さな陸軍だ、とブローデルはいいます。大都市といってよいケルンの人口は15世紀には2万にすぎませんでした。当時、農村人口と都市人口の割合は10対1だったといいます。しかし、都市には活力と才能があふれ、独創的で活気に富む文化が花開いていました。
 16世紀のイスタンブルは、人口70万を擁する「怪物都市」でした。この都市を維持するにはバルカン半島と小アジア、黒海沿岸から、肉や食糧をもってこなければなりませんでした。さらに上流階級の快適な生活を保つために、地中海沿岸から奴隷がつれてこられたといいます。
 16世紀初頭の軍隊は、兵力1〜2万、大砲10〜20門というように、きわめて小規模だったといいます。しかも、兵の大部分は傭兵でした。多くの軍勢は、そもそも常時、養うのが困難だったのです。
 その意味では、双方で10万の兵員を艦船で運んで、それが海上でぶつかりあった、レパントの海戦(1571年)は歴史上まれにみる大決戦だったということができるでしょう。
 ヨーロッパでは、追放やら入植によって、人口が流出していました。「アフリカというものがなかったら、ヨーロッパは〈新世界〉を開発できなかったであろう」というのは、そのとおりだったでしょう。
 1600年ごろのフランスの人口は2000万人、これにたいしイギリスの人口は500万人です。それでもフランスは、すでに人口過剰となっており、多くの貧民をもてあましていました。フランスでは、16世紀から18世紀にかけて、移民や宗教的弾圧、亡命によって、周辺諸国やアメリカに人がちらばっていきます。「もしフランスから来た農民がいなかったら、[17世紀において]スペインの土地はとかく耕されないまま放置されることになったであろう」というのは意外です。そして、人口過剰のフランスでは18世紀にはいってから、自発的産児制限がおこなわれるようになるわけです。
 1979年の世界全体の人口密度は、1平方キロあたり26.7人、これにたいし、1300年から1800年までは人口密度が2.3〜6.6人というところでした。ただし、これは単純平均です。実際には、地球の陸地面積1億5000平方キロのうち、高密度文明が占有する1100万平方キロに人口の70%が集中しています。
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[ゴードン・ヒューズの文明地図]
 ここで、ブローデルは民族誌学者のゴードン・ヒューズが製作した1500年ごろの文明地図に着目しながら、そのころの文明が「旧世界」のごくわずかの細長い帯にしか形成されていなかったことを指摘し、こう述べています。

〈つまり1500年に文明人が存在していた場所には、彼らは1400年にはすでに存在していたし、1800年にも、さらには今日も存在することになるのである。すぐさま、つぎのように締めくくるとしよう。[それは]──日本、朝鮮、中国、インドシナ、東南アジア諸島、インド、線上に伸びるイスラム圏、4種類に分かちうるヨーロッパ(もっとも豊かな地中海ラテン世界。トルコ人による征服に覆滅された、もっとも不幸なギリシア圏ヨーロッパ。もっとも活力に富む北ヨーロッパ。もっとも荒削りなロシア=ラップ・ヨーロッパ)である〉

 1500年段階の文明地図では、アメリカもオーストラリアもまだはいっていません。
 それはともかくとして、地球の陸地面積の1割でしかない文明地帯でみるならば、1600年における文明圏の平均人口密度は28〜35のあいだだったと推測される、とブローデルは述べています。
 そして、国・地域ごとにみるなら、1600年の人口密度はイタリアが44、ネーデルラントが40、フランスが34、ドイツが28、イベリア半島が17、ポーランドとプロイセンが14、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドが1.5ということになります。ブローデルは中国17省の人口密度を20とみています。日本については計算されていませんが、もし当時、日本の人口が1500万人程度だったとしたら、その人口密度は40程度ということになるでしょう。
 ただし、この人口密度というのも、数字のデータにすぎませんから、これだけで現地の様子を推し測るのには無理があります。たとえば中国の人口密度が20だというのは、あの広大な中国を考えたときに、どれほどの意味があるでしょう。ブローデルは自身で実地調査をしてみて、17世紀と18世紀において、中部ヨーロッパでは村がたくさんあり、しかもそのどの村も戸数10軒ほどで、極度にやせ細ったものだったことにおどろいた、と記しています。
 とはいえ、人口が増えてくると、生存のための緊張が生じてきて、そこに農業を改良するとか、新しい農地を開拓するとか、外国に移住するとかといった選択が生じてくるのはたしかです。
 それにしても、18世紀まで、ほとんどの人が土(と太陽と水)に頼る生活をしていたことがわかります。ぼくのいう商品世界は、人が商品に頼って生きるようになった世界をいいます。その点、ブローデルの本書は、伝統社会から商品世界への過渡期をえがいた作品ととらえることもできるでしょう。商品世界は、いわば外部からやってきて、内部に侵入し、内部を外部化していく──そんな構図がえがけそうですが、早とちりは禁物です。
 今回も中途半端なところで終わってしまいました。でも長くなりすぎたので、つづきはまた。

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