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忠臣蔵は本格サスペンス──『花の忠臣蔵』(野口武彦)を読む(3) [本]

 しつこい風邪がだいぶ抜けてきた。
 忠臣蔵の世界も状況が変化しはじめている。
 元禄14年8月19日(新暦1701年9月21日)、吉良上野介は屋敷替えとなり、呉服橋門内(現在の東京駅八重洲口あたり)から本所(現在の両国あたり)へと転居した。急進派の堀部安兵衛は、これはご公儀が討ち入りを認めている証拠と受け止め、いよいよ亡君の怨みを晴らす時期がきた、といきりたっていた。
 亡君一周忌の3月までに討ち入りをはたすというのが、安兵衛の所存だった。当惑した大石内蔵助は、急遽、山科を発って11月3日に江戸にはいり、安兵衛ら急進派の説得にかかった。しかし、急進派は納得しない。急進派に弱みがあったとすれば、6、7人の人数では、襲撃の成功がおぼつかなかったことである。それに、いかにも暴発という印象を世間に与えるのではないかということも懸念された。
 ともあれ、浅野家再興の沙汰を待つというだけでは、もはや急進派の勢いを抑えきれなくなっていることを、大石内蔵助も実感しはじめた。そんななか、吉良家では上野介が隠居し、その養子、義周(よしまさ)が吉良家の家督を継ぐことが決まる。急進派にはそれがまたおもしろくなかった。
 慎重派と急進派のせめぎあいがつづくなか、時はすぎて元禄15年(1702)の春となった。このころ大石内蔵助はいったん山科の屋敷に戻っている。
 時間がたつうちに、やむにやまれぬ事情により脱落する者もでてくる。早野勘平のモデルとなった茅野三平などもその一人である。江戸の急進派からも、高田郡兵衛が脱落した。
「病気や生活苦がじりじりと同志たちを目減りさせていった」。大石もいつまでも決定を引き延ばしておくわけにはいかなかった。
 とはいえ、急進派の暴発は何としても避けねばならなかった。2月、江戸グループは、山科にやってきてまたも決起を迫った。これにたいし、大石は「6、7人で吉良邸に押し入ったとしても、かならず本望をはたせるとはかぎらない」と断言した。そのうえで、亡君の3回忌が過ぎても、何の動きも見られなかったら、一日もまたずに、宿意を遂げると約束した。みずからの決意を示しつつ、隠忍自重を求めたのである。
 いちるの望みは、幕府から内匠頭の弟で養子の浅野大学に御家再興の沙汰が下ることだった。大石は御家再興の望みをちらつかせて、堀部安兵衛らの軽挙妄動をいましめた。
 江戸泉岳寺でおこなわれた3月14日の亡君一周忌の法要は、何ごともなく無事に終わる。そのいっぽうで、江戸急進派の動きは加速し、独断専行もやむなしというところまで煮詰まっていた。そうなっていたら「大石内蔵助の慎重な計画はあえなく瓦解していたにちがいない」と、著者も書いている。
 しかし、元禄15年7月18日に幕府が下した決定は、浅野大学を広島藩の浅野本家にあずけるというものだった。これはとうぜんの決定である。いったん廃絶した浅野家を、そう簡単に再興させるわけにはいかなかった。こうして浅野家再興の望みは完全に断たれ、主家の滅亡が確定した。
 そうなると、進む道はひとつである。大石内蔵助は吉良邸に討ち入るほかなくなった。
 ところで、「国政の枢機を握っている[柳沢]吉保は、ある時期から赤穂浪士の吉良上野介にたいする行動を放任していた印象が強い」と、著者は記している。
 世間では幕府による松の廊下事件の裁定が片落ちではないかという評判が広がっていた。かといって、いったん下された裁定をくつがえすわけにはいかない。
 綱吉政権に批判が集まるのを避け、世間が満足する決着をはかる方法を、吉保は吉保なりに探っていたといってよい。吉良上野介の屋敷を隅田川の向こうに遠ざけたのも、何らかの策謀がはたらいた可能性がある。このあたりは、吉保のたくみさが光っている。
 主家滅亡が決まると、大石の周辺にいた浪士は120人から60人に激減した。その段階で、大石は武士の信義として、討ち入りへの決断を下した。
 7月28日、京都円山で会議が開かれ、19名が出席するなか、討ち入りの方針が正式に決まった。
 実際に方針が決まると、浪士のなかで、動揺が生じた。なかには脱盟する者もでてくる。
 しかし、それが落ち着くと、閏8月下旬から10月末にかけ、同志たちは名や姿を変えて、江戸に向かい、府内十数カ所に家を借りて、身を潜めた。
 大石内蔵助はしばらく平間村(現川崎市)に逗留したあと、11月5日に江戸に向かい、石町3丁目(現日本橋室町3丁目)の息子、大石主税の借家にはいった。
 本書には、義士たちをめぐる数々のエピソードも紹介されている。しかし、それは省略しよう。
 大石が江戸に到着してから討ち入りまでひと月あまりの緊張感は、並大抵のものではなかっただろう。47人のうち、以前から江戸住まいの者は7人で、あとの40人はほとんどはじめての江戸にとまどっていた。
 浪士たちの借家は、だいたい吉良邸から少し離れていたが、屋敷のほんの目と鼻の先に、3カ所のアジトがもうけられた。そこには大高源五や堀部安兵衛、杉野十平次などが詰めていて、吉良邸の動きを探っていた。町人姿になるのがどうしても嫌な堀部安兵衛は、軒先に剣術指南の看板をだした。
 吉良はうすうす赤穂浪士の不穏な動きを感じていたが、幕府はいっさい吉良邸を警護しなかった。吉良が頼みにしていたのは、親戚筋にあたる米沢藩上杉家(当主、吉良義周の実家)のみである。
 赤穂浪士は上杉家との一戦も覚悟していた。しかし、当の上野介は、じつは上杉家からも厄介者扱いされていた。
 赤穂側は吉良邸に詰めている武士の数は40人くらい、足軽中間は180人くらいと想定していた。しかし、これはとんでもない過大評価だったことが、あとでわかる。
 残るは決行日をいつにするかだけだった。やりなおしはきかない。
 最後は情報が勝負である。12月14日に吉良邸で年忘れの茶会が開かれるという情報をつかんだのは、俳人でもある大高源五だった。茶会が開かれるということは、まちがいなくこの日、吉良上野介が在宅だということである。この情報は別の筋(何と神道家の荷田春満)からも確認され、こうして討ち入りの決行日は12月14日と定まった。
 このあたりで本書は年越し。それにしても、このあたりの動きは、一押しの本格サスペンスですね。

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