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浅野内匠頭はなぜ暴発したのか──『花の忠臣蔵』(野口武彦)を読む(2) [本]

 風邪が治らない。平熱だが、からだがだるいし、気力がわいてこない。
 ぼんやり本書のつづきを読んでいる。
 はじめに、元禄(1688-1704)のころになると、昔ながらの無骨な武士が減って、要領のよい武士が多くなるという話がでてくる。古風な武士からみれば、将軍綱吉が出した「生類憐みの令」などは、軟弱のきわみにちがいない。公儀の法令だから、表向き批判はできないものの、それをおもしろくないと感じていた武士は多かったろう、と著者はいう。
 浅野家はまことに多士済々だった。高田の馬場の血闘で有名な剣客堀部安兵衛、人斬り大好きの不破和右衛門、粗忽者で知られる武林唯七、俳人其角の門下にあたる大高源五や神崎与五郎ら。武闘派と文人派がいりみだれ、それでも大らかな家風のなかで、仲良く調和が保たれていた。
 そこに元禄14年(1701)3月14日[新暦では4月21日]、運命の日が訪れる。浅野内匠頭はこのとき35歳で、幕府から勅使「御馳走役」を仰せつけられていた。御馳走役とは、京都の朝廷から幕府に派遣された恒例の勅使を接待するおもてなし役といってよいだろう。
 この役職は、勝手に動けるわけではなく、高家と呼ばれる幕府の役人の指示にしたがわなければならない。高家は名門出身の旗本の役職で、儀式や典礼を司っている。当時、その高家に任じられていたのが、61歳の吉良上野介だった。
 浅野内匠頭は勅使の滞在する伝奏屋敷で、吉良上野介の指示のもと、公家衆の接待に追われていた。口うるさい上野介に内心げんなりしながらも、日々、懸命に接待役を果たしていたといわれる。
 3月14日は恒例行事の最終日だった。この日、勅使は将軍と面会し、別れのあいさつを交わすことになっている。その行事がはじまろうとする直前、浅野内匠頭は殿中松の廊下で、突然、吉良上野介に斬りかかり、傷を負わせるという所業にでたのである。吉良の傷は軽傷だった。
 浅野内匠頭は、その場で取り押さえられ、即日、切腹に処せられた。いっぽうの吉良はおとがめなし。この事件は、おなじみだから、たぶんだれでも知っているだろう。
 現在でも事件の真相は謎に包まれている。
 その日の朝、内匠頭が衆人環視のなかで、上野介から聞き捨てならぬ悪口を浴びせられたことはまずまちがいない。内匠頭は武士のプライドをいたく傷つけられた。
 それが、どんなことばだったのかは記録されていない。しかし、それは思うにカネにまつわる罵詈だった。おそらく、巷間伝えられるような「犬ざむらい」といったニュアンスではなかっただろう。
 幕府の制度では、御馳走役の経費は、担当の大名が請け負うことになっている。幕府はほとんど経費を負担しない。それを内匠頭はできるだけ倹約しようとした。責任ある藩主としては、藩の経費をできるだけ抑えようとするのはとうぜんである。
 問題はインフレが進行していたことである。元禄の改鋳で、物価は2倍以上に高騰していた。内匠頭が経費を抑えようとしていたのを上野介は折につけ、口汚くなじった。内匠頭にしてみれば、上野介はもともと虫の好かない人間である。それに加えて、ケチだ、ケチだといわれつづけ、その日の朝も、頭にくる決定的なひと言をぶつけられた。それを内匠頭は大恥辱と受け止め、怒りのあまりに刃傷沙汰におよんだ、と著者は解釈する。
 そうみると、松の廊下での事件は、一人の若き藩主のなかで、カネの問題と武士のプライドとが葛藤をおこし、ついに爆発におよんだという、いかにも元禄ならではのできごとだったといえる。
 幕府は内匠頭を「全面的な加害者」、上野介を「一方的な被害者」と判断し、即日、内匠頭を切腹に処した。
 その判断がのちの事件を引き起こす原因となった。
 早駕籠で浅野内匠頭切腹の知らせを受けた、国元の赤穂は騒然とする。やがて領地召し上げの沙汰、それから4月19日が城明け渡しの期日と、事はあっというまに進行する。
 その処理にあたったのが、大石内蔵助と大野九郎兵衛のふたりの家老だった。まず赤穂藩が発行している藩札を清算しなければならない。6掛けで現銀に引き換えると通知を出し、何とか完済をすませた。
 京都、大坂、江戸からは多くの藩士が赤穂に続々と集まってきた。3月27日から3日間、大広間で評定会議が開かれる。
 意見はまとまらない。幕府の命令通り城を明け渡すか、それとも城を枕に切腹するか、で議論は割れた。大野九郎兵衛は明け渡し派、大石内蔵助は切腹派だった。
 大石は憤る藩士に決死の覚悟を求めた。60名の武士が、大石内蔵助に進退を一任するという連判状をだした。
 切腹派の勢いに押されて、4月12日深夜、大野九郎兵衛は逃亡した。しかし、切腹は実行されず、4月18日に、赤穂城の明け渡しは粛々と実行された。
 なぜ、そのとき抵抗が示されなかったのだろうか。城明け渡しのさい、大石内蔵助は、江戸から派遣された荒木・榊原の両目付に、くれぐれも浅野家の再興を取りはからってくれるよう懇願している。内蔵助は、内匠頭の弟、浅野大学を通じてのお家再興に一縷の望みを託していた。それによって、城を枕にしての切腹という玉砕路線をとりあえず回避したのだといえる。
 城の明け渡し後にも、さまざまな雑務が残っていた。大石がそれをすべて片づけたのは5月21日のことである。そのかんにも、大石はつてを頼って、主家再興の嘆願書をあちこちに出している。しかし、その返事はどれもつれなかった。
 ようやく城明け渡しの業務を終えた大石は、赤穂をあとにし、しばらく伏見あたりに滞在したあと、7月から京都山科に居を移した。けっして隠居していたわけではない。あとに残された家臣団の心配をしなければならなかった。
 さしあたっての目標は、内匠頭の弟、大学に家督を相続させるかたちで、お家を再興させることだった。それができれば、浪々の身となった家臣団を救済することができるだろう。
 ところが、そんなことでは過激派はおさまりがつかなかった。とくに堀部安兵衛のグループは、吉良邸に即刻斬りこむといきりたっていた。
 赤穂藩士の特徴は、主家浅野家への忠誠心が強かったことだ、と著者は指摘している。大石に預けた連判状は、浅野家に忠誠を誓いつづけるという決意表明でもあった。家への忠誠心というのは、いかにも日本的かもしれない。
 忠臣蔵がなんとなく日本人の共感を呼ぶのは、赤穂浪士が最後まで家への忠誠心をつらぬきながら、仇討ちの本懐をとげたところにある。この心情については、よくよく考えてみなければならない。
 ところが、おもしろいことに、そんななか、歌舞伎でもおなじみの大石内蔵助の遊蕩三昧がはじまるのである。
 著者はこう書いている。

〈内蔵助の遊蕩は本物だったのだろうか? 酒食に溺れる自分の本能を満喫させたのか、それとも世間でいうように敵をあざむく苦肉の策だったのだろうか。その辺はなんとも微妙である。当人もどっちだかわからなかったのではないか。〉

「当人もどっちだかわからなかったのではないか」というのは、言い得て妙である。思わず、大笑いしそうになる。
 なかには愛想を尽かす者もでてくる。何といっても大石内蔵助は7月から11月まで、山科に居を構えて、遊興生活にふけっていたのである。
 堀部安兵衛を筆頭とする、江戸の急進派はあせっていた。しかし、大石はその催促をのらりくらりとかわす。急進派の暴発を押さえるのは一苦労だった。
 このつづきはまた。ぼくとしては早く討ち入りが終わって、ぐずぐず長引く風邪が早く治ってくれるのを祈るのみなのだが。

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月夜のうずのしゅげ

忠臣蔵は子供のころから映画では何度も見た物語です。
雪の日の勇ましい討ち入りには、老若男女ともども手を叩いて喜んだものです。
若い浅野内匠頭がもう少し我慢していたらとか
吉良は家臣たちには人気があったとか言う人もいましたが、
忠臣蔵を盛り上げるためのもので
ほとんどみんなが忠臣蔵のファンでした
大石内蔵助の事情は興味深いことです
by 月夜のうずのしゅげ (2015-12-30 19:03) 

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