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めでたく吉良邸討ち入り──『花の忠臣蔵』(野口武彦)を読む(4) [本]

 元禄15年12月14日夕刻、赤穂浪士は吉良邸にほど近い2カ所のアジトに集結し、討ち入りの装束を整えた。前日の雪が深く積もっていた。討ち入りは夜中。折からの満月が義士たちの行く手を照らしていた。太陽暦でいうと、この日は1703年1月31日にあたる。
 吉良邸の坪数は約2560坪。浪士たちは表門組と裏門組にわかれ、邸内に突入した。その時刻は七つ時、いまでいう午前4時ごろだった。はしごを利用して塀を越え、まず門番を制圧する。それから邸内にどっと押し入った。まず広間にかけてあった弓の弦を斬り、長槍を叩き折り、武器が使えないようにする。目指すは上野介の寝所である。警護の武士がいる長屋は完全に囲まれ、「侍たちは戦意喪失の状態におちいっていた」。
 しかし、吉良の寝所はもぬけのからだった。一同総掛かりで捜索がはじまる。天井裏、床下、押し入れ、長持までさがしたが、見つからない。そのうち空が白みはじめ、面々があせりはじめたところ、年長の吉田中左衛門が「雪隠じみた部屋」で人音がするのに気づいた。著者によると、この「雪隠じみた部屋」は諸記録にあるような「炭小屋」ではなく「茶室の近くにあって、茶碗やら囲炉裏の炭やらを用意しておく部屋だった」という。
 その戸を打ち破ったところ、なかには3人がいて、必死に皿や茶碗、炭を投げつけてきた。矢を射込んだところ、たまらず飛び出してきたふたりを打ちとめめた。なかで脇差しを抜いて激しく抵抗する60歳ぐらいの老人を武林唯七が一刀で切り倒した。
 額の傷跡は泥にまみれて見分けがつかなかったが、背中の古傷を確かめて上野介だろうと判断し、間十次郎が首を落とした。先ほどつかまえておいた門番にそれを見せてたしかめたところ、上野介にまちがいないことがわかった。
 こうして、一同は作法どおり勝ちどきをあげた。人員の点呼をおこなったところ、討ち入った同志は全員確認され、その損害は軽微だった。
 朝が白みはじめたころ、一同は両国橋東詰めの空き地に集まって、上杉家からの追っ手を待った。しかし、上杉家は動かなかった。
 知らせを聞いた上杉家の野本中左衛門が明け方になって、吉良邸にかけつけただけである。赤穂浪士はすでに引き上げたあとで、邸内は目も当てられない状況だった。
 当主の吉良左兵衛は無事だった。著者は、吉良側の死者は上野介を含めて17人、負傷者は28人、死傷を免れた者が101人と記している。吉良側は150人ほどいたが、「そのうち実働人員は3分の1ぐらいしかいなかった」という。
 そのころ赤穂浪士は内匠頭の墓所のある高輪泉岳寺に向かっていた。しかし、ここで浪士のひとり寺坂吉右衛門が失踪する。この失踪はいまだに謎とされている。寺坂は討ち入りのとき、吉良邸にいたから、けっして敵前逃亡ではない。大石からなんらかの密命を受けていた可能性もある。
 著者は大石内蔵助のリーダーシップを高く評価し、「適材適所に人を使う能力が抜群」だったとしている。しかも、赤穂浪士団は、けっして「秘密結社」のようではなく、世間と融和していた。
 泉岳寺で亡君の御廟前に上野介の首級を備えたあと、一行はしばらくここで休息をとり、それから熊本藩、松山藩、長府藩、岡崎藩の4大名家に分かれて、お預けとなった。上杉家は幕府から釘を刺され、ついに動かなかった。
 赤穂浪士にたいする扱いは、熊本藩細川家、松山藩松平家は丁重で、長府藩毛利家、岡崎藩水野家はぞんざいだったという。
 世間では赤穂浪士の快挙に賞賛の声が広がっていた。それを反映してか、幕府評定所は、浪士たちをしばらくお預けにして、後年にいたって最終決着を下すという判断を示す。これでは判断を保留したに等しい。
 浪士たちを極刑に処するつもりでいた柳沢吉保は、頭をかかえた。気分の変わりやすい将軍綱吉自身も、赤穂浪士の行動に感銘し、何とか助命できないかと考えている。これでは政道の権威が保てなくなる。
 吉保は儒者の荻生徂徠を呼び寄せて、赤穂浪士の処遇について相談した。忠孝をなそうとした者をただの盗賊同然に処断してはならず、法令にしたがって「切腹に仰せ付けられましたら、あの連中の宿意も立ち、どんなにか世上の示しになることでしょうか」というのが、徂徠の見解だった。吉保はその意見に思わず膝をうった。
 こうして、浪士たち全員の切腹が決まる。元禄16年2月3日(新暦1703年3月19日)幕府から浪士を預かっている4大名家に、明日、浪士たちを切腹させる旨、内示が通告され、翌日四つ時(午前10時)、切腹執行命令を伝える老中奉書がもたらされた。
 切腹の執行はほぼ七つから七つ半(午後4時から5時)にかけて。執行はてぎわよく進んだ。著者によると、「切腹といっても形式だけのことで、切腹人が押肌脱ぎ、三方に載せられた小脇差に手を伸ばして取りあげるところを介錯人が後ろから首を斬り落とすのである」。
 あわれなのは吉良家の当主、吉良左兵衛だった。左兵衛は赤穂浪士切腹の当日、評定所に呼び出され、領地召し上げのうえ、信州高島藩にお預けと言い渡された。事実上の幽閉措置。幕府は民衆の憤懣を吉良左兵衛に押しつけて、政道批判を封じた。
 その年、11月23日、大地震が関東一円を襲った。いわゆる元禄大地震である。江戸の被害は甚大だった。届けがあっただけでも、死者3万2000人。赤穂浪士の亡霊がたたったのではないか、とのうわさが飛び交う。
 翌年、縁起をかついで、年号は元禄から宝永とあらためられた。しかし、綱吉の周辺には、次々と不幸が襲いかかった。子のない綱吉は甥にあたる甲府の綱豊を家宣と改名させて、跡継ぎに指名する。宝永4年11月(新暦1707年12月)には、富士山が噴火した。それから1年ばかりして、綱吉は64歳で死亡する。
 赤穂浪士の物語は、人びとのあいだに記憶されていた。それから45年後の寛延5年(1748)8月、大坂の竹本座では人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が上演された。翌年には早くも歌舞伎となり、江戸、京都で舞台化され、大ヒットする。人びとは忠臣蔵に喝采を浴びせ、敵討ちが成就されるのをみて、つね日ごろのうっぷんを晴らした。
 あとがきで、著者はこう書いている。

〈忠臣蔵は長らく、われわれのもっとも純な心情──素朴な正義感、不正を許さないという勧善懲悪主義、しなければならないことをやり遂げる責任感、その信念を貫きとおすプライド、艱難辛苦に耐える辛抱心など多くのプラス感情の源泉であった。〉

 平成と元禄の時代とはまるでちがう。しかし、忠臣蔵の物語は、時代を超えて、語り継がれてきた。
 元禄は貨幣経済が本格化した時代である。忠臣蔵は貨幣経済(そして世のしきたり)に翻弄される武士の物語でもあった。そう考えると、たしかに、この物語のテーマは、現代にもつながっている。

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