SSブログ

『日本 呪縛の構図』を読む(1) [本]

img065.jpg
 著者のR・ターガート・マーフィーは現在、筑波大学教授。米ハーヴァード大学を卒業し、日本の外資系銀行で実務を積んだあと、1992年に経済評論家としてデビューした。日本での暮らしは40年になるという。
 訳者は仲達志。日本語版は上下巻として、2015年12月に早川書房から発売された。全11章、本文だけで約600ページの分厚さ。
 簡単にいうと、日本がどういう国なのかを、外国人向けに解き明かそうとした著作といってよい。そのため、日本人にとっては退屈な部分はあるが、知日家の外国人が日本の歴史をどうみているかを知るうえでは、よくまとまった本であり、とりわけ現在の日本の実情を冷静に(政府の宣伝にあおられずに)みるには、格好のテキストといえるだろう。
 本書の序文で印象的なのは、著者が、日本人の特質を、くどくどと不平を言わず、「物事をあるがままに受け入れ」、自分に与えられた仕事を懸命にこなすところにみている点である。よかれあしかれ、こうした日本人の資質が、日本の経済発展を導いてきた。
 しかし、日本の現状と将来にたいする著者の見方は、概してきびしい。
「今の日本で引き起こされようとしている状況」は、「要するに、国民全員に経済的安定を保証したに等しい社会契約を反故にし、税率と物価を引き上げ、一般家庭の貯蓄の購買力を破壊し、年金をカットし、さらには企業が社員の生活を保障した歴史上画期的な制度を、将来性も生活の保障もない非正規社員だらけの職場と置き換えようとさえしている」。それなのに、日本人はその運命をおとなしく受け入れようとしているのが、不思議でならないという。
 日本では政治目標がいつの間にか、何となく実現してしまうのだが、いったいその背景には、いったいどのようなメカニズムが存在しているのか。著者はそのメカニズムを、日本の歴史のなかに探ろうとしているようにみえる。
 きょうはまず日本が敗戦を迎えるまでの歴史を斜め読みしてみる。
 日本は大陸と近すぎも遠すぎもしない理想的な距離を保ち、朝鮮というフィルターを通しつつ、中国文明の周辺部で発展してきた、と著者は書いている。四季と温暖な気候は、多くの食糧をもたらし、森は大量の木材を提供し、周辺の海は豊かな魚介を与えてくれた。
 日本文化の特徴は、中国文明から大きな影響を受けながらも、その独自性を保ってきたことだという。「最古の時代から、日本は常に自らを中国と異なる、独自の歴史と伝統を持つ別個の存在として位置づけてきた」。
 天皇制は世界で最も古い世襲君主制である。天皇制がこれほど長く生き延びてきたのは、天皇が直接、政治に関与することがほとんどなかったからだ、と著者はいう。天皇はもともとは豪族のリーダー的存在として誕生し、「最高神祇官」としての役割をもっていた。著者は、天皇はエンペラー(皇帝)ではないという。「日本という一国家の宗教指導者であり、宗教の主柱的存在であると同時に政治的正統性の源泉だった」というのだ。
 8世紀から12世紀まで、日本の政治的実権を握ったのは、天皇家と姻戚関係を結んだ藤原氏だった。710年には平城京がつくられた。しかし、仏教勢力があまり強くなったため、794年には平安京への遷都がなされる。平安時代は「日本に真に独特な文化をもたらした」。
 著者によれば、「海外の制度を消化して再構成する過程で完全に日本化してしまうというパターン」は平安時代に生まれたのである。
 平安時代はさまざまな芸術的遺産をもたらした。建築や仏像、巻物、衣装、文学に見るべきものが多い。しかし、貴族が統治能力を失って、平安時代も滅んでいく。平安末期には、院政が引かれ、皇位継承をめぐる争いがさかんになり、そこに武士がからむことによって、武士が次第に力をつけるようになった。そして、鎌倉幕府が誕生する。
 将軍は天皇から任命された軍事指導者のことである。源頼朝はその地位を授かり、全国におよぶ支配権を確立した。しかし、源氏は3代で滅び、そのあとは北条氏が執権の地位を握って、国の統治にあたった。
 1274年と1281年の二度にわたって、鎌倉幕府は元の侵攻を食い止めた。だが、勝利した武士に与える新たな領地はなく、御家人の不満が噴出した。そこに皇位継承をめぐって、朝廷が分裂し、内乱が発生する。鎌倉幕府にはこれを収拾する力はなかった。
 ここで野心的な後醍醐天皇が登場し、不満分子の武士たちをあおって、鎌倉幕府を倒す。ところが、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえし、「北朝」を立て、1336年、京都に室町幕府をたてた。
 室町時代がはじまって、しばらくたつと、足利将軍の力は弱まっていく。とくに1467年から1477年までつづいた応仁の乱は、京都をほぼ壊滅状況に追いこんだ。各地では、もともと鎌倉幕府の行政官だった守護が大名として自立し、小王国をつくるようになっていた。
 とはいえ、鎌倉から室町、戦国にかけては、完成度の高い日本文化が生まれた時代だった、と著者はいう。茶の湯、能、水墨画、石庭などはこの時代の成果であり、親鸞や日蓮の登場により、仏教も装いをあらたにした。
 1543年には種子島にポルトガル人の一団が漂着し、鉄砲をもたらした。その後、イエズス会の宣教師もやってくる。まだ戦乱がつづいている時代だった。そこに、鉄砲を戦術的に活用した軍事的天才、織田信長が日本統一への道を歩みだす。信長の野望は明智光秀の謀反によって滅び、光秀を討ち取った豊臣秀吉が天下統一の野望を達成する。しかし、豊臣政権は長くつづかず、1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、江戸に幕府を開くことになる。
 著者は江戸幕府の成立を、日本における近代国家成立の第一歩とみている。しかし、徳川時代においては、キリスト教を含めてヨーロッパとの接触が制限され、それが次第に日本を世界から孤立させていくことになる。
 徳川幕府は秩序と安定に執着した。各藩を支配する大名は、参勤交代の制度によって、1年ごとに出府し、幕府に仕えなければならなかった。海外との貿易や自由な旅行も制限されていた。
 幕府は全国津々浦々にスパイのネットワークを広げていた。刀はともかく鉄砲の個人所有は認められなかった。著者は江戸時代の日本を、平和的ではあるが、社会的統制が隅々まで行き届いた国だったとみている。
 江戸時代に日本の人口は3000万に達する。大坂を中心とした米の流通システムと、大都市江戸の発展により、経済も徐々に成長した。
 江戸時代に重視されたのは、倹約の精神と武士の倫理観である。そのいっぽうには奇抜さと型破りを好む別の側面があるのが、日本文化のおもしろいところだ、と著者はいう。
 江戸時代には歌舞伎や浮世絵などの大衆文化が花開いた。実際の事件をモデルにした『仮名手本忠臣蔵』は、代表的な歌舞伎のひとつである。そこには幕藩体制の矛盾が集約されていた。
 1853年と翌年のペリー来航は、徳川体制の崩壊を早めた。アジアに進出する西洋と対抗するには、強力な中央集権政府を確立する以外になかった。
 しかし、明治維新は革命ではなかった、と著者はいう。それは「長州、薩摩、土佐といった外様藩出身の下級武士たちが仕掛けたクーデター」だった。
 日本では「自前の革命」が起きたためしがない。権力は入れ替わり、再構築されるだけである。明治体制とは、「天皇の直接支配というフィクション」を利用して、「自らを支配的地位に就けた寡頭政治家たちによる政治支配」にほかならなかった。しかし、この体制も次第にほころびを生じるようになる。
 明治の元勲をはじめとする少数の指導者たちは、日本を植民地主義の脅威から守っただけではなく、日本を近代的な帝国主義国家に成長させたという面で、大きな功績を残した。そのためには近代的な制度を導入しながら、富国強兵をはからなければならなかった。
 明治期が生んだ偉大な実業家のひとりが岩崎弥太郎である。かれは三菱商会をつくり、世界有数のビジネス帝国の基礎を築いた。そのビジネス帝国は、銀行と企業グループが一体となった、財閥という形態をとっていた。
 富国強兵を達成するうえで、障害となったのは、資本不足である。政府は農民への課税をさらに強化し、労働者の賃金と生活水準を抑えることで、資本の充実をはかろうとした。
 そんななか自由民権運動が広がる。これにたいし政府は憲法と議会を制定することによって、民主化運動を沈静化させた、と著者はいう。
 1894年の日清戦争、1904年から1905年にかけての日露戦争は、朝鮮の支配をめぐる戦いだった。このふたつの戦いに勝利することによって、日本は朝鮮の支配を確立する。こうして日本は世界の列強の仲間入りを果たすことになるが、それは皮肉なことに悲劇のはじまりになった。
 著者は明治体制を、天皇という現人神によって支えられた、軍国主義的色彩の強い国家資本主義体制ととらえている。国民の日常生活は、軍事的色彩に彩られ、義務教育と徴兵制が国民に天皇への忠誠意識をしみこませていた。国家神道もまた、国民に愛国心を植えつける装置にほかならなかった。
 日清戦争に勝利するなかで、日本では次第にアジアを軽んじる意識が高まっていく。その一例を著者は福沢諭吉の「脱亜論」にみている。
「西洋の文化が完全に理解されないまま模倣される一方で、日本と中国の文化的つながりを少しでも連想させる事象や、古来より伝わる土着の猥雑な風習は包み隠された」
 日本は西洋にたいする強烈な劣等感をいだくようになる。そのいっぽうで、伝統を否定することにともなう鬱積や不満も知らぬ間に積み重なっていた。
 山縣有朋は政治から独立した軍の専制的支配構造を確立したとされる。元老たちが健在なうちは、軍のたずなもしっかり握られていた。ところが、かれらが亡くなると、政治的中枢に穴が開き、無責任体制が生まれた。著者は「政治的説明責任の中枢が欠如していること」が、「日本の支配構造における最大の欠陥」だという。それはいまもつづいている。
 そして「破滅的な時代」がやってくる。
 第1次世界大戦中の好景気もつかのま、1923年の関東大震災、そして昭和恐慌、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へとつづく時代である。
「日本の場合、明らかに常軌を逸した狂人のような独裁者が背後にいたわけではない」と著者はいう。東條英機は有能な軍事官僚にすぎなかったし、まして昭和天皇は暴君ではなかった。
 しかし、「中国大陸における冒険主義と帝国主義的な野心、ソ連に対する恐怖、ナチスに対する称賛」といった集団心理が、日本を戦争拡大へと導いていった、と著者はみる。
 満州がその試金石だった。しかし、満州の権益を守ることを目的にはじまった日中戦争は次第に泥沼化していく。国民党軍との戦いは、毛沢東に率いられた共産党の台頭をもたらした。
 1939年にソ連とのノモンハンの戦いに敗れたあと、日本は1941年にソ連と日ソ中立条約を結ぶ。しかし、その前年、バスに乗り遅れまいと、すでに日独伊三国同盟に加わっていた。ナチスの成功に心奪われた日本は、南方進出へと動きはじめ、ついにアメリカと正面衝突することになる。
 日本の指導者たちは、日本はアメリカとの戦争に引きずりこまれたと実感していたという。まさか、アメリカがそこまで強硬にでてくるとは思っていなかったのだ。その判断はいかにも甘かった。
 そして、「中国大陸から完全撤退するかアメリカと開戦するかのどちらかを選べ」といわれて、日本はアメリカと戦う道を選んだ。
「日本政府が公に主張していた開戦の理由は、植民地主義に終止符を打ち、欧米の帝国主義勢力をアジアから駆逐するためというものだった」と著者は書いている。この一見もっともな目的は、もちろん裏があり、欧米に代わって日本がアジアの盟主になるという野望に支えられていた。
 この壮大な試みは、けっきょく失敗する。しかし、日本の敗戦後、アジアの植民地主義に終止符が打たれたことは事実だ、と著者はいう。
 ただし、ひとつだけ例外があった。
 日本は敗戦によって、「アメリカの防衛権内に無制限に組み込まれ、自国の安全保障をアメリカに依存し、外交政策でもアメリカ政府のお墨付きがなくては何もできなくなって」しまったのである。
 著者はこう書いている。

〈江戸時代の「鎖国」体制から1945年の最後の決死の抵抗に至るまでの日本の歴史は、日本人がイデオロギー的にも、軍事的にも、経済的にも外国の支配を受けずに自国を統治できた時代であったが、それは完全に終止符を打たれた。1945年以降、日本は占領下に置かれることになった。だが、多くの重要な点で、占領時代はいまだに終わっていないのである。〉

 以上は本書の序論というべき部分である。次はいよいよ戦後にはいっていく。それは次回また。



nice!(6)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0