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満州事変と民衆──半藤一利『B面昭和史 1926-1945』斜め読み(2) [くらしの日本史]

 昭和6(1931)年は、満州事変の年である。
 現在、よく使われる歴史用語でいうと、15年にわたるアジア・太平洋戦争がはじまった年だといってもよい。
 いまなら、国民はなぜこの無謀な戦争に反対しなかったのかという疑問がわいてくるかもしれない。しかし、当時、そんな疑問を世間にぶつけようものなら、治安維持法でたちまち逮捕されたし、そもそも国民自体が国家は戦争をするものだと思いこんでいた。
 明治以来、西南の役も含めると、日本という国は、ほぼ10年に一度、戦争をおこなって、国を大きくし、帝国を築いてきた。
 国が戦争をするのはあたりまえだった。戦争で国が大きくなるのだから、ほとんどの国民が戦争を支持していた。
 軍を指揮するのは、軍の頂点に立つ天皇である。したがって、軍は皇軍と呼ばれた。
 軍の指揮権(統帥権と呼ばれた)は天皇にあるから、形式上、議会は軍の行動に干渉できない。といっても、立憲制の原則に立つ以上、軍の動きは、実際には天皇によってではなく内閣によって掌握されることになっていた。しかし、昭和にはいると、次第に軍にたいする歯止めがきかなくなってくる。
 満州事変はそうした動きのはじまりだった。日本軍は奉天(現瀋陽)郊外、柳条湖での鉄道爆破事件(実は自作自演)を口実に、満州全土を占領した。
 軍は国民生活とも密接に関係していた。なぜなら、軍は徴兵制によって支えられていたからである。当時は、男子はだれもが二十歳になれば、徴兵検査を受けなければならなかった。そして、そこから選抜され、現役兵、召集兵として、軍務につくことを命じられた。その命令に逆らうことは許されない。
 ちなみに、満州事変の時点で、日本軍の規模は、陸軍が17個師団約20万人、海軍が約7万8000人、これにたいし昭和20(1945)年の敗戦時には、陸軍は歩兵師団だけで169個師団約547万人、海軍は169万人にふくれあがっている。
 軍は国民を呑みこみながら膨張していった。
 戦前の生活では、軍と戦争、天皇と国家が常に身近にある。

 以上は長い前置き。本題に戻って、『B面昭和史』のつづきを読んでみよう。
 暗い時代はまだはじまっていない。
「モガ・モボにはじまるエログロ・ナンセンス。そしていろいろなガールの出現」、「労働争議」ならぬ「家庭争議」が流通語になっていたというのだから、大衆社会はとっくに出現していた。
 それでも、経済は世界恐慌のあおりを受けて、不況のどん底にあり、公務員の賃金カットまではじまっている。古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」や「侍ニッポン」がヒットしていた。
 そのいっぽうで、このころ日本の技術水準は飛躍的に高くなっていた。当時、世界最長の清水トンネルが完成し、初のトーキー映画『マダムと女房』がつくられ、国産第一号旅客機が完成したのもこの年である。
 軍は大不況のさなか、中国軍の隙をねらって、満州事変を引き起こした。新聞はこぞって軍を支持し、部数を伸ばした。
 戦争気分がうっとうしい不況を吹き飛ばそうとしていた。いままでのマルクス・ブームはうそのように消えてしまった。
 時代相は鬱から躁へといっぺんに変わる。
 昭和7(1932)年には満州国が設立される。
 しかし、不況はまだつづいていた。決められない政党政治、財閥の経済支配にいきりたつ民間右翼や軍の一部は、次々と暗殺事件を決行する。
 血盟団事件、「五・一五」事件である。
 それで、軍が批判の槍玉に上がったかというと、じつはそうではなさそうなのである。
「忠義と憂国の名においてなされる世直しに、人びとは大いに共感したのである」と、著者は書いている。
 青年将校らは、赤穂義士のようにみられたのだろうか。
 思い切った行動によって、現状を打破する。人びとはそんな気分におかれていた。あとから見ると、それは悪夢に終わる誘惑の滴だった。
 しかし、ともかく軍には期待が寄せられていた。その軍が連戦連勝で勝ちとった満州。「赤い夕日の曠野にこそ国家発展の夢がある」
 人びとは現地の実情を知ることなく、ひたすらみずからの夢だけを膨らませていた。
 日本は満州から手を引くべきだというリットン調査団の報告は一蹴される。
 民衆生活はまだどことなくのんびりしている。それでも「非常時」がはじまろうとしている。
 昭和8(1933)年から昭和10(1935)年にかけては「束の間の穏やかな日々」がつづいていた、と著者はいう。
 しかし、昭和8年早々、三原山が自殺の名所になったのは、いったいどういうわけだろうか。
 2月には作家の小林多喜二が逮捕され、虐殺されている。
 そして、日本は国際連盟を脱退する。
 そんななか、民衆は悲痛な思いにうちひしがれていたわけではなく、お花見に浮かれていた。しかも、満州には無限の可能性があると思いこんでいた。
 著者も「人間には生まれながらにして楽観的な気分が備えられているのではないか」、「民草は国策がどんどんおかしくなっているのには気づこうとしない、いや気づきたくなかったのか」と書いている。
 教科書が変わったのもこの年で、「忠君愛国の精神」が強調されるようになる。
 防空演習もはじまった。
 しかし、どこかで憂さをはらしたいという気持ちがはたらいたのか、この夏には「ヤーットナー、ソレ、ヨイヨイヨイ」とがなりたてる「東京音頭」が大流行した。
 そして12月23日には皇太子(現天皇)が誕生、宮城前広場は喜びの人波で埋め尽くされた。
 明けて、昭和9年。中国大陸の戦火はひとまずおさまった。
 官営八幡製鉄所を中心に、多くの鉄鋼会社が合併して、日本製鉄ができる。
 重化学工業がめざましく発展するのも、このころである。
 軍需インフレが景気を刺激していた。戦争景気というべきだろう。職工や熟練工の給料も上がった。
 街では新規開店の店の宣伝に、チンドン屋が練り歩いていた。活動写真も大賑わい。カフェーに代わって、喫茶店やミルクホールが盛り場に登場した。
 しかし、景気が良くなったといっても、凶作に見舞われた東北は別であった。娘の身売りがはじまっていた。東北は貧しさから抜けだせないでいる。
 いっぽう、都会では近代化が進む。丹那トンネルの完成により、東海道線が御殿場を通らず、熱海から沼津に抜けて走るようになった。
 電話も普及しはじめる。
 満鉄では特急「あじあ」号が走りはじめている。
 昭和10(1935)年になると、軍部が政治を掌握し、思想を統制する動きがはじまる。天皇を現人神として祭りあげるのは、軍部主導の体制をつくるためである。
 それでも昭和10年には、まだ自由主義的な風潮が残っていた、と著者はいう。社会全体としては、景気も悪くなかった。ラジオや畜音機をもつ家庭が増え、レコードも大いに売れていた。この年、大流行したのが、「二人は若い」。
 銀座にはネオンサインが増えている。日劇ダンシングチームの公演もはじまろうとしている。
 サラリーマンの月収も増え、月賦販売が普及しはじめている。
 百貨店が高層化し、エレベーターが登場する。
 中産階級が生まれ、消費社会が誕生していたのだ。
「昭和日本の都市のほとんどが質量ともにサラリーマン社会になりつつあった」と、著者も書いている。
 そこに「革新」を唱える国粋主義的な軍部や官僚、右翼が勢力を伸ばすというのは、何やら矛盾していると思えなくもない。
 しかし、事実はそうなのである。相沢三郎中佐が永田鉄山少将を斬り殺す事件も発生して、世は軍国主義の時代へと転換していく。
 そのつづきは、また。

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