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国家とは何か──滝村隆一『国家論大綱』を読む(8) [本]

 ほんとうはもっと集中して、滝村国家論を読まなければいけないのだが、いかんせんときどきふと思い出しては読むというありさまで、いっかな前に進まない。これが、ふらふらとさまようじいさんの読書というものだろうか。それはそれで仕方ないと思っている。でたとこ勝負である。
 きょうは「国家論総説」をざっとながめてみる。
 例によって例のごとく、雑駁な感想にとどまるだろう。
 そもそも国家とは何だろうかということである。
 本書を読むと、国家とは国家権力によって組織された社会だという言い方がでてくる。
 国家権力がないと、国家は存在しない。
 社会がなくても、国家は存在しない。
 ポイントは国家権力である。
 国家権力とは何か。
 それは社会全体を支配する力だといってよい。
 著者はこういう言い方をしている。

「国家権力が、社会全体を法的規範にもとづいて組織化したとき、この法的に総括された〈社会〉は、他の歴史的社会との区別において、〈国家〉と呼ばれる」

 論理的には、まず社会があって、次に国家が誕生し、国家権力が成立するということになる。
 国家権力と国家とは区別されなければならない。
 というのも、国家権力の形態が変わっても、国家は存続しうるからである。逆に、国家権力が消滅すれば、国家もまた消滅する。そのとき、かつての国家すなわち社会は、植民地であれ何であれ、別の国家に組み入れられてしまうことになるだろう。
 国家と社会もまた区別されなければならない。
 国家は社会を包みこむかたちで、国家として成立する。いっぽう、社会が国家を包みこむことはありえない。
 というのも、完全に国家から隔離された部族社会も存在しうるからである。
 また国家権力の正統性が問われるときには、あたかも国家と社会が乖離するような事態が生じてくるかもしれない。
 さらに近代においては、一般に国家は政治を担い、社会は経済を担うと思われている。とはいえ、国家は「法的に統合・総括された社会」なのであって、社会は国家から分離されているわけではないのである。
 このように国家と国家権力と社会は別の概念なのだが、実際はからみあっているので、その関係をしっかりと押さえておく必要がある、と著者はいう。
 じつにややこしいが、とりあえず、国家とは国家権力によって法的に組織された社会である、という定義をもう一度頭に入れておこう。
 それでは国家と国家権力は、どのようにして生まれてきたのだろうか。
 国家の成立は国家権力に先行する、と著者は書いている。
 国家の前は部族社会が存在した。
 部族社会は首長をもつ血縁的共同体である。だが、それはたったひとつしかなかったわけではない。多くの部族社会があったと考えられる。
 ある部族社会が外部の部族社会との関係を有するようになったとしよう。その関係には、戦争や交易が含まれるが、とりわけ緊張が高まるのが戦争の可能性が生じたときである。そのとき、部族社会は外部の脅威に備えるため始原的な国家を形成する。そして、その内部に部族社会全体を統率する国家権力が生まれてくるのである。
 そこで、国家についての著者の新たな定義が生まれる。

「〈国家〉は内外危機から〈社会〉全体を維持・遵守するために、〈社会〉を挙げて構成された、統一的で独立的な組織体である」

 つまり、国家は共同体が外敵に備える体制をつくる必要に迫られたときに誕生するということができる。
 国家の存立根拠は、外敵にたいして社会を守ることだといってよい。しかし、それはほんとうだろうか。守ることは攻めることでもある。
 国を守ることが、いつの間にか、ほかの国を滅ぼすことへとつながっていく。
 こうして、国家は部族国家から王国、帝国へと発展していくのだ。
 部族国家は始原的な国家である。その部族国家が他の部族国家を吸収したときには王国が成立する。そして、帝国は「特定の王国が、数種の異系文化圏の諸王国や諸部族国家を、その政治的傘下に包摂した」段階に成立するといってよい。
 世界史的にみれば、こうした国家は、アジア的、古代的、中世的といった典型的形態をたどった。いま、それを詳しく述べるのは、やめておこう。
 しかし、近代以前の世界史的国家についていえることは、どの形態の国家においても、国家権力はじゅうぶんに発達していなかったということだ。
 国家権力が社会全体を法的に包摂するにいたるまで発達するのは、近代国家においてである。
 近代国家のひとつの特徴は、社会の構成員が社会的活動と精神的活動の自由を国家によって保証されていることだ。
 市民権を付与された個人は、法的には市民と呼ばれ、政治的には国民と呼ばれる。市民権を付与された国民が登場するのは、民主的政治形態のもとにおいてのみである、と著者は述べている。
 近代国家において、国民は多かれ少なかれ国家意識をもつようになる。それは教育などによって培われたものであるが、いくらコスモポリタンだと思っていても、海外に行けば、たとえば自分が日本人であることは、いやおうなく意識させられるものである。
 そうしたことをいわば前置きとして、著者は自分自身もいやおうなく組み込まれている現代の国家とは何かを説き起こしていくのである。
 つづきはまた。

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