自由を確保する──猪木武徳『自由の思想史』を読む(3) [本]
きょうもパソコンの調子が悪いので、ごく簡単に思いつくまま。
著者によれば、イエスはふたつの新しいおきてをつくったという。
「心を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
「隣人を自分のように愛しなさい」
これをみると、キリスト教はいかにも愛の宗教である。
しかし、中世において、教会と政治権力はつねに緊張関係に置かれていた。その権力争いが決着するのは、ようやく近代になってからである。
近代国家においては、政教分離が原則となった。政治は宗教に干渉せず、また宗教も政治に干渉しないという、いちおうの決まりができたのである。
それによって、政治も宗教もたがいに自由にふるまうことができるようになったといってもよい。
東洋は、権力の一元性にこだわる。これにたいし、西洋は権力の多元性を容認する。
これも政治と宗教の長い争いに由来する。いいかえれば、西洋においては、それほどキリスト教の力が強かったのである。
そのことが自由のあり方をめぐる東西のちがいとなって、現在も尾を引いている。
日本人はいまもお上に弱いのだ。
とはいえ、少なくとも権力が多元化すれば、自由の余地が広がることはまちがいない。
三権分立も近代のそうした原理のひとつである。
また、為政者の義務と国民の権利を定めた憲法の制定も、自由を保証する制度的支えになったといえる。それが東洋においては、しばしば形式化し、ときに後戻りしがちなのは、やはり伝統の呪縛が根強いからだろうか。
次に論じられるのは、教育の自由についてである。
ヨーロッパの中世における教育は、主に僧侶を養成することが目的だった。
それが近代になると、産業に役立つ教育が求められるようになる。
教育と研究の一体化をめざす試みもなされた。その結果、教授が研究をおこなうだけではなく、生徒もその研究に参加するようになった。
そして、現在の大学教育では、科学・技術教育の充実が叫ばれている。もっぱら実用的な学問が求められているのだ。
しかし、著者はこう強調する。
〈強調さるべきは、科学技術と人文学・社会科学のバランスの取れた教育と研究である。科学技術だけではわれわれは精神のバランスを保つことはできない。〉
これはほんとうにそうだと思う。
会社に都合のよい会社人間ばかりが生まれると、そのうち人はどこかで狂ってしまうのではないだろうか。
著者はさらに多民族国家などにおいては、母語による教育を受ける権利も認めるべきだと主張している。
教育は宗教の自由とも関連する。たとえば米国に住むアーミッシュは、初等教育以外の公的教育を拒否しているが、こうした教育を受けない権利もとうぜん認められるべきだという。
教育はもともと支配階級のものだった。それが国民全体に拡大されるのは、フランス革命以降である。
だが、国家が教育に全面的に関与する弊害はもちろんある。それは、人間を決められた枠のなかに押しこめてしまうのだ。
画一主義的な教育は、人の知識欲を喪失させ、「さらに知りたい」という内発的な欲求を奪ってしまう。「役に立つ」教育はかえって、仕事はとりあえずこなすけれど無気力で「役に立たない」人間の群れを生みだすのではないか、と著者は懸念している。
著者はこう述べている。
〈だからこそ、『原理』にかかわる学習、すなわち数学と哲学・言語(特に読解力と作文)の訓練を通して、豊かな想像力をもって、自らの考えをまず母語で正確に豊かに語る能力、説得力のある文章を書く力を養うことが、これからの大学の教養教育で重視されてしかるべきなのだ。〉
これはそのとおりだと思う。実際の大学がほんとうにそうだったら、ぼくももう少し大学に通っていたかもしれない。
著者は、道徳は教室では教えられないともいう。教室で道徳を教えても、聴いた生徒が道徳的になるとはかぎらない。かえってそれが人の自由を束縛する恐れがあるという。
福沢諭吉のいうように、人がそれぞれ「独立自尊」の精神をもたないかぎり、内から自由にあふれでる道徳などというのは生まれてこないというのが、著者の主張である。
ぼく自身はほとんど大学で教育を受けなかった。
だから、自分で本を読む以外に、何かを知る手立てはなかった。しかし、それによって、学ぶ自由を得たのは、よかったと思っている。
自由に学べたのは、もちろん言論の自由、表現の自由があったからだ。
著者もまた、言論の自由、表現の自由を最大限擁護する。
「言論の自由も思想・信条の自由も、他者の名誉や自己の品位を傷つけない限り、最も大切にされるべき価値であることに変わりない」と述べている。
言論の自由、表現の自由は、これまでの歴史を通じて、人びとが勝ちとってきたものだ。
しかし、それを不当にも法的に制限しようとする動きは後を絶たない。
著者はこう述べている。
〈同じく用心すべきは、はっきり意識されないまま「空気」によって言論の自由が侵されてしまうという危険性だ。異論なら何が何でも排除するという姿勢は危うい。〉
これはまさに日本の現政権にみられる姿勢ではないだろうか。
だが、言論の不思議さは、言論を封じようとすればするほど、かえって、うわさが人びとの脳裏にしみついてくることなのである。
ソ連が崩壊したのは、言論弾圧の結果だともいえる。
それはもちろんソ連にかぎったことではない。
著者によれば、イエスはふたつの新しいおきてをつくったという。
「心を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
「隣人を自分のように愛しなさい」
これをみると、キリスト教はいかにも愛の宗教である。
しかし、中世において、教会と政治権力はつねに緊張関係に置かれていた。その権力争いが決着するのは、ようやく近代になってからである。
近代国家においては、政教分離が原則となった。政治は宗教に干渉せず、また宗教も政治に干渉しないという、いちおうの決まりができたのである。
それによって、政治も宗教もたがいに自由にふるまうことができるようになったといってもよい。
東洋は、権力の一元性にこだわる。これにたいし、西洋は権力の多元性を容認する。
これも政治と宗教の長い争いに由来する。いいかえれば、西洋においては、それほどキリスト教の力が強かったのである。
そのことが自由のあり方をめぐる東西のちがいとなって、現在も尾を引いている。
日本人はいまもお上に弱いのだ。
とはいえ、少なくとも権力が多元化すれば、自由の余地が広がることはまちがいない。
三権分立も近代のそうした原理のひとつである。
また、為政者の義務と国民の権利を定めた憲法の制定も、自由を保証する制度的支えになったといえる。それが東洋においては、しばしば形式化し、ときに後戻りしがちなのは、やはり伝統の呪縛が根強いからだろうか。
次に論じられるのは、教育の自由についてである。
ヨーロッパの中世における教育は、主に僧侶を養成することが目的だった。
それが近代になると、産業に役立つ教育が求められるようになる。
教育と研究の一体化をめざす試みもなされた。その結果、教授が研究をおこなうだけではなく、生徒もその研究に参加するようになった。
そして、現在の大学教育では、科学・技術教育の充実が叫ばれている。もっぱら実用的な学問が求められているのだ。
しかし、著者はこう強調する。
〈強調さるべきは、科学技術と人文学・社会科学のバランスの取れた教育と研究である。科学技術だけではわれわれは精神のバランスを保つことはできない。〉
これはほんとうにそうだと思う。
会社に都合のよい会社人間ばかりが生まれると、そのうち人はどこかで狂ってしまうのではないだろうか。
著者はさらに多民族国家などにおいては、母語による教育を受ける権利も認めるべきだと主張している。
教育は宗教の自由とも関連する。たとえば米国に住むアーミッシュは、初等教育以外の公的教育を拒否しているが、こうした教育を受けない権利もとうぜん認められるべきだという。
教育はもともと支配階級のものだった。それが国民全体に拡大されるのは、フランス革命以降である。
だが、国家が教育に全面的に関与する弊害はもちろんある。それは、人間を決められた枠のなかに押しこめてしまうのだ。
画一主義的な教育は、人の知識欲を喪失させ、「さらに知りたい」という内発的な欲求を奪ってしまう。「役に立つ」教育はかえって、仕事はとりあえずこなすけれど無気力で「役に立たない」人間の群れを生みだすのではないか、と著者は懸念している。
著者はこう述べている。
〈だからこそ、『原理』にかかわる学習、すなわち数学と哲学・言語(特に読解力と作文)の訓練を通して、豊かな想像力をもって、自らの考えをまず母語で正確に豊かに語る能力、説得力のある文章を書く力を養うことが、これからの大学の教養教育で重視されてしかるべきなのだ。〉
これはそのとおりだと思う。実際の大学がほんとうにそうだったら、ぼくももう少し大学に通っていたかもしれない。
著者は、道徳は教室では教えられないともいう。教室で道徳を教えても、聴いた生徒が道徳的になるとはかぎらない。かえってそれが人の自由を束縛する恐れがあるという。
福沢諭吉のいうように、人がそれぞれ「独立自尊」の精神をもたないかぎり、内から自由にあふれでる道徳などというのは生まれてこないというのが、著者の主張である。
ぼく自身はほとんど大学で教育を受けなかった。
だから、自分で本を読む以外に、何かを知る手立てはなかった。しかし、それによって、学ぶ自由を得たのは、よかったと思っている。
自由に学べたのは、もちろん言論の自由、表現の自由があったからだ。
著者もまた、言論の自由、表現の自由を最大限擁護する。
「言論の自由も思想・信条の自由も、他者の名誉や自己の品位を傷つけない限り、最も大切にされるべき価値であることに変わりない」と述べている。
言論の自由、表現の自由は、これまでの歴史を通じて、人びとが勝ちとってきたものだ。
しかし、それを不当にも法的に制限しようとする動きは後を絶たない。
著者はこう述べている。
〈同じく用心すべきは、はっきり意識されないまま「空気」によって言論の自由が侵されてしまうという危険性だ。異論なら何が何でも排除するという姿勢は危うい。〉
これはまさに日本の現政権にみられる姿勢ではないだろうか。
だが、言論の不思議さは、言論を封じようとすればするほど、かえって、うわさが人びとの脳裏にしみついてくることなのである。
ソ連が崩壊したのは、言論弾圧の結果だともいえる。
それはもちろんソ連にかぎったことではない。
2016-06-09 10:52
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