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若森みどり『カール・ポランニー』を読む(1) [思想・哲学]

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 ポランニーの名前を知ったのは1980年ごろ、たぶん栗本慎一郎のカッパブックス・シリーズを読んだときが最初である。経済人類学という新しいジャンルがあると知り、少しばかり関心をいだいたものだ。その後、主著の『大転換』も散読したが、よく理解できなかった。
 最近になって、ポランニーの全体像を紹介した若森みどりの本書を読んでみた。難解で、さっぱり頭にはいらない。むずかしい本を読みはじめると、すぐに眠くなるのは、昔からの癖だ。最近はとみにその傾向が激しい。
 それでも、せめてポランニーがどういう人だったかだけでも、つかんでおきたい。以下はメモに近い、勝手な感想である。
 カール・ポランニー(1886〜1964)は、ウィーンに生まれ、幼少期と青年期をブダペストですごした。当時のブダペストはオーストリア=ハンガリー帝国のもうひとつの首都で、華やかな文化が花開いていた。
 父はユダヤ系ハンガリー人で、実業家として名をなしていた。一家は早くからカルヴァン派のプロテスタントに改宗している。
 2女3男に恵まれた裕福な家庭だった。だが、父の会社が1899年に倒産し、それから一家の苦労がはじまった。
 ポランニーはアルバイトをしながら、1904年にブダペスト大学法律・政治学部に入学する。その1年後に、父は亡くなる。
 最終学年の1908年、法学部教授のピクレルが排撃される事件がおこった。ピクレルはスペンサー哲学を奉じていたというから、社会進化論を唱えていたのだろう。それをキリスト教守旧派が攻撃したのだ。
 そのときポランニーは教授を擁護して、「ガリレイ・サークル」を創設した。サークル名が言い得て妙である。いくら弾圧されても、真実はおのずからあらわれる。
 しかし、教授を擁護した活動によって、ポランニーは放校処分を受ける。そのため、トランシルヴァニアにあるコロスヴァール大学(現ルーマニアのクルジュナポカ)で、法学博士号を取得せざるをえなかった。1909年のことだ。
 ガリレイ・サークルは、その後、成長し、約2000人のメンバーを抱えるようになった。このサークルは、民衆のためにさまざまなセミナーを開き、著名な思想家をドイツから招いたりもした。第1次世界大戦末期の1917年に禁止されるまで、「数千の成人教育クラスを組織し、数万人の労働者がそれに参加した」というから、たいしたものである。
 当時、ポランニーに影響を与えた人物として、ジェルジ・ルカーチ(1885〜1971)がいる。哲学者でもあり、文芸批評家でもある。ぼくも若いころ、かれの『歴史と階級意識』を読んだものだ。
 著者によると、ポランニーは、急進的なサンディカリスト(労働組合主義者)のサボー・エルヴィン(1877〜1918)や、穏健なフェビアン社会主義者のヤーシ・オスカール(1875〜1957)とも親しくしていた。
 大学を卒業してから、ポランニーは1914年まで、ガリレイ・サークルの活動に全力を注いだ。ヤーシ・オスカールが急進市民党をつくったときには、その書記長になっている。ハンガリー(といっても現在の倍以上の大きな国である)の民主化が目標だった。
 1914年に第1次世界大戦が勃発する。ポランニーは翌1915年に、オーストリア=ハンガリー帝国の騎兵将校として従軍した。
 父の死後、10年にわたって、実は進行性の鬱病に苦しんでいた。従軍中は、くり返しシェイクスピアの『ハムレット』を読んだ。そして、死の淵に立つなかで、一種のさとりに達する。
 人は時代の過ちや社会の苦しみと分かちがたく結びつけられている。だとすれば、その根源をみつめることが、自分の使命ではないのか、と。
 東部戦線で負傷したポランニーは1917年に除隊となる。その後、傷が癒えぬまま、1919年6月にウィーンに亡命し、手術を受けた。
 1920年秋までウィーン郊外の療養所で静養する。そのころ、ハンガリーの女性革命家、イロナ・ドゥチンスカと出会い、1923年に結婚することになる。
 ポランニーがウィーンに亡命したのは、ハンガリー革命のさなかである。
 第1次世界大戦の敗北により、ハプスブルク帝国は崩壊し、ハンガリー民主共和国が成立した。かつての領土は分割され、見る影もなくなった。
 そこにベラ・クン(姓が先にくるハンガリー語でいえばクン・ベラ)が率いる共産党が社会民主主義者の協力を得て、革命をおこし、ハンガリーは1919年3月から8月までソヴィエト共和国となるのである。
 1919年6月、ハンガリー共産軍はかつての領土だったスロヴァキアに侵入する。同じ月、新憲法が制定され、急進的な改革が布告された。
 歴史家のノーマン・デイヴィスによれば、それは「すべての産業の国営化、教会の資産没収に加え、司祭や農民はひとしく強制労働に駆り出される」というすさまじい改革だった。
 改革に反対してストに参加した者には弾丸が浴びせられ、武装蜂起した農民は集団処刑されたという。
 ポランニーがハンガリーを脱出したのは、このころである。共産党による弾圧に身の危険を感じていたのかもしれない。妻となるイロナもこのころ国を出たとすれば、共産党員であった彼女もベラ・クンのやり方に批判的だったのだろう。実際1922年に、彼女は共産党を除名されている。だが、そのあたりの事実関係は微妙である。
 しかし、ハンガリーの共産政権は長くつづかなかった。ミクロシュ・ホルティの率る旧将校グループが、ルーマニアに支援を求め、8月にルーマニア軍がブダペストにはいり、ベラ・クンの共産政権はあっけなく崩壊する。
 そのあと、反動政府のもとで、容赦ない白色テロがはじまった。共産主義者とユダヤ人は無差別に報復された。
 そして1920年には提督のミクロシュ・ホルティが摂政となり、ハンガリーでは、その後、24年にわたる独裁政権が築かれることになる。
 ポランニーはハンガリーに戻れなかったわけである。
 そのころ亡命先のウィーンは「赤いウィーン」と呼ばれ、オーストリア社会民主党が1918年から34年まで、政権を握っていた。
 そのウィーンで、ポランニーは1919年から21年にかけ、「ビヒモス」と名づけた、膨大な草稿を書き綴る。
『旧約聖書』に登場するビヒモスとは、世界の終末にあらわれる怪物のことである。ポランニーは自分を動かす歴史の巨大な怪物のようなものを背後に感じていたのだろうか。
 長くなったので、その内容については、あらためて紹介する。
 とはいえ、ポランニーの人間像を最初につかんでおくのが、便利かもしれない。
 著者はこう書いている。

〈彼は、現代世界への関心をリアルタイムで考察するジャーナリストであると同時に、古代社会の経済や政治を読み解く歴史家でもあった。また、人間と社会と歴史についての冷徹な分析を行う社会科学者であると同時に、人間の自由や共同体の可能性を追究するモラリストでもあった。ポランニーは社会主義者であったが、特定の政治的党派性とも社会運動とも係わりを持たず、マルクス主義についての批判も行っていた。また彼は、敬虔なキリスト教徒ではあったが特定の教会に属することはなく、社会変革に取り組むことをキリスト教徒の使命と心得ていた。〉

 なかなか複雑そうな人である。
 そして、かれのこうした人間像がウィーンではぐくまれたのだとすれば、われわれは次の舞台ウィーンに目を移す必要がある。

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