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小野寺百合子さんのこと(1) [人]

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 7月30日、NHKで放映されたドラマ『百合子さんの絵本』を見た。
 もちろんドラマというのは、劇的につくるものだから、いくらか誇張されたところがある。それでも、ほぼ史実に近いつくりになっていた。
 終戦スペシャルドラマである。
 小野寺夫妻を演じる薬師丸ひろ子と香川照之が熱演していて、香川は相変わらず達者だが、とくに百合子さん役の薬師丸がいい味をだしていて、よかった。
 ドラマでは2人の重要人物が仮名になっている。ドイツ大使の大島浩と、大本営作戦参謀の瀬島龍三である。
 ドラマは1時間半の短い時間のわりには、よくまとまっていた。
 しかし、とくに若い人のなかには、当時の状況がわからないと、なかなか理解できない部分もあったのではないかと思った。
 それに、ドラマでは収めきれなかった部分もある。
 そんなことをいくつか書いておきたい。
 小野寺百合子さん(1906〜98)とはじめて出会ったのは、1988年か89年のことではなかったか。いや、もっと前だったかもしれない。
 百合子さんは1985年に『バルト海のほとりにて』を共同通信から出版された。その編集担当者が転勤になったので、引き継ぎをするさい、紹介されたのがたぶん最初の出会いだった。
 87年8月に亡くなられたご主人、信さんにとは、とうとうお目にかかれなかった。信さんは「諜報の神様」といわれた人である。
 その後、ぼくはご縁があって、百合子さんの著書『私の明治・大正・昭和』(1990)と『スウェーデンの歳月』(1995)の編集を担当することになった。
『スウェーデンの歳月』の出版から3年後、百合子さんは92歳で大往生される。
 その後の話もある。
『バルト海のほとりにて』は絶版になり、そのあと、朝日文庫で文庫化されたが、それも在庫切れになったのを、長男の駿一さんが残念がって、ぼくの勤めていた会社で、もう一度、改訂版を出すことにしたのだ。
 それが2005年のことである。章立てを変えて、阿川弘之さんに解説を執筆していただいたのを覚えている。
『私の明治・大正・昭和』は、百合子さんの自伝である。
 最初、息子の駿一さんは、この本の出版をいやがられた。しかし、ぼくは激動の時代を生きた女性の伝記には大きな価値があると主張して、何とか出版を認めてもらったという経緯がある。
 はじめてお目にかかったとき、百合子さんはすでに80歳を超えておられた。しかし、頭脳明晰で、毅然としておられ、いつもにこやかだった。
『バルト海のほとりにて』のサブタイトルにあるように、まさに「武官の妻」というのは、こういう人のことを指しているのかと思ったものだ。
 それは武官というより、武人、あるいは武士の妻の姿をほうふつとさせるものだった。だが、やさしくて、まっすぐで、ユーモアにあふれている人だったということも、つけ加えておかなくてはならない。
 最初、百合子さんの立ち居振る舞いが、どこからくるのかわからなかった。
 その謎が解けたのは、『私の明治・大正・昭和』の原稿をいただき、それを一読したときである。
 私には3人の祖父がいる、とユーモアたっぷりに書いておられる。
 母方の戸籍上の祖父は一戸兵衛(1885〜1931)。日露戦争で、乃木希典のもと旅順の二〇三高地を攻略した猛将である。
 ところが実の祖父は大久保春野(1846〜1915)という人だ。第6師団長として奉天の会戦を戦っている。
 この大久保が丸亀で分隊長をしていたとき、子宝に恵まれない部下の一戸に、酒の席で「いま女房の腹の中にいる子が生まれたら、おまえにやろう」と約束した。ずいぶん乱暴な話である。
 しかし、この乱暴な話がほんとうになって、一戸家に「くに」という女の子が誕生する。百合子さんの母親である。その後も、一戸家と大久保家は家族同然につきあっていたという。
 いっぽう、父方の祖父、大関増式(ますつね、1839〜1915)は、いっぷう変わった人だった。丹波篠山藩の青山家から下野黒羽藩に養子にはいり、黒羽藩の殿様となった[殿様としての名前は増徳]。ところが、そのお姫様を嫌って、さっさと離縁し、早々に隠居してしまう。そのあと、篠山から入婿に従ってきた腰元なかと結婚して、何人も子どもをつくったというのだ。
 百合子さんは「祖父は養子に来ていながら自分勝手に子供を生ませて養家に育てさせ、自分は先々々代の殿様として、一生、隠居生活を送った人だったのだ」とユーモラスに書いておられる。先々々代と記したのは、祖父の隠居後、黒羽藩は藩を維持するため、次々と養子を迎えなければならなかったからである。
 百合子さんの父、寛はその大関増式の末子(第6男)である。大関家から一戸家に養子にはいったため、一戸寛と改称する。百合子さんは、その寛とくにの長女として明治39年(1906)に生まれた。
 根っからの軍人の家系なのだ。血はあらそえないものらしい。
『私の明治・大正・昭和』がおもしろいのは、昔の軍人の家族がどんなふうであったかがうかがえるところである。
 百合子さんは祖父兵衛を家長とする一戸家で育った。その家は代々木練兵場(現在の代々木公園)の渋谷口近くにあったという。もともとは鍋島家の敷地であった。
 邸内には厩舎があって、祖父も父も毎日、馬に乗って通勤したのを覚えている。やがて馬は自動車へと変わった。
 庭には染井吉野の大木があり、広々とした芝生が敷かれていた。
 祖父とは、大正3年(1914)に完成したばかりの東京駅にあるステーションホテルで開かれたクリスマスパーティーにでかけたこともある。そのころホテルの前には、通称三菱ヶ原と呼ばれる葦原が広がっていた。
 祖父は、第一師団長、軍事参議官をへて、予備役となり、やっと長年の軍人生活から解放された。ところが、その矢先に、学習院の院長に任命された。
 一戸兵衛にとって、学習院院長という仕事はなじめなかったらしい。「とても自分の手には負えないと観念して遂に辞職を願い出た」と百合子さんは書いている。華族の親たちの口出しに閉口したらしい。
 その後、祖父は明治神宮宮司、在郷軍人会会長となり、多忙ながらも穏やかな日々を送った。亡くなったのは、満州事変直前の昭和6年(1931)9月のことである。
 百合子さんにはいつも「軍人に嫁に行くな」と口癖のように言っていた。苦労するのがわかっていたからだろう。しかし、祖父が亡くなる4年前に、百合子さんもまた軍人の妻となっている。
 大正12年(1923)の関東大震災は、百合子さんにとっても、忘れられない経験だったという。
 そのころ、父の寛は竹田宮家の御用掛をしており、宮家一家とともに沼津に滞在していた。
 竹田宮家は、北白川宮能久親王の第1王子恒久を初代とする新宮家である。
 関東大震災当時は、1909年生まれの2代恒徳が当主となっていた。父、寛はまだ少年の恒徳に仕えていたわけである。
 宮家一家の無事を知らせるため、父は急ぎ東京に戻り、沼津への迎えの船を手配した。そのとき迎えにいった軍艦の艦長が米内光政だったというエピソードが残っている。
 父は腎臓病を患ったため、軍人の道を途中であきらめざるを得なかった、と百合子さんは書いている。
 その経歴をみると、父の寛は陸軍軍人として、軍と皇室をつなぐ仕事をしていたことがわかる。その役職はけっして軽いものではない。
 最初は北白川宮成久の御付武官だった。その後、淳宮(のちの秩父宮)の御付武官となり、そのときにかかったジフテリアによって、重い腎臓病をわずらい、軍務をつづけるのが無理になった。
 そこで、竹田宮家の御用掛となったのである。スペイン風邪でとつぜん父を失った、竹田宮恒徳にとっては、父代わりの存在だったという。
 それから、父は宮内省に出仕することも勧められたのだが、それも断り、昭和13年(1938)、58歳で亡くなった。
 こんなふうに書いていくと、きりがないのだけれど、百合子さんはこうした軍人家庭のなかで、むしろのびのびと育っている。
 長くなったので、そのことについては、おいおい書くことにしよう。

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